おさん茂兵衛・悲恋の里  小南山・坊の奥〜丹波の森公苑
丹波市(五万図=篠山)
小南山⇔柏原病院(福祉公園)⇔坊の奥〜丹波の森公苑 2001年01月18日
近畿の山城 小南山城 茶臼山砦 金水寺城
丹波のお話 おさんの森・茶臼山砦
         
挙田の塚(地神塚)
柏原病院西の枝尾根から病院と小南山


小南山-おさんの森-坊の奥-丹波の森公苑 H13.01.18
丹波の森公苑のセンター玄関から西北に穏やかな丘のような山が見える。四方何処からも同じ山容から四面山とも呼ばれた神南備山。 丹波自然友の会のプレートが掛る木々があちこちにある。登山対象を東方正面の譲葉山‐向山連山に譲っても手近な里山散策と氷上盆地の山々の展望を楽しめる。
柏原川「森の小橋」にすて女のレリーフ

登山口付近に駐車スペースはなく丹波の森公苑入口駐車場を利用するのが良さそうです!!(AM9:20)。小南地区集落東南端に小南山登山口標識が立ち、傷の無い綺麗な石標が埋まる小南山(4等三角点 232m 小南山城主郭!?)・東屋休憩所の在る中郭?・西峰(小南山最高地点241m 古墳か?)までは 遊歩道が整備されている。山頂東峰休憩展望所からの北尾根上や西峰北西は
健康福祉公園の日時計

下町沖田・南西の柏原病院側池畔に下る尾根上にも城址遺構が残るが城関連Web上に殆どHITしない。中世土豪の山城、更には丹波攻め明智光秀が築いた (改修した)柏原」八幡山城の属城として・殊に高見城監視の任に応った向城だろうか。しかし遊歩道が通じるが東峰 ・西峰間を往復するだけで此等の尾根筋を利用するハイカーは少ない様子?。境界尾根の赤プラを辿る西北尾根先端には小南山城最大規模の曲輪がある。
小南山山頂から西への幅広い平坦な尾根

曲輪北端から竪堀か堀底道?が下方に延びるが単に古い山道なのかも?。尾根筋右下方にも深い堀底道状の通路?があり、赤土の剥出した斜面から飛び降りると日本ケーブルシステム(現:ハイレックス コーポレーション株)柏原工場内。カーリフトの行き交う倉庫群の中を通してもらい県道へ出た向かいには兵庫県学校厚正会丹有活動センタ(AM10:00)。
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小南山城北西稜末端曲輪から竪堀(堀底道?)

旧但馬街道が抜ける小南山山裾・柏原病院(もうすぐ移設予定)側から恩鳥峠(おさん茂兵衛が道行で越えた鳳峠)を浄瑠璃で有名なおさんの森に出る。柏原病院から氷上郡医師会健康センターと向かいのポプラの家(擁護施設)の間から上方に見えるが其処で行止りの「健康福祉公園」展望台に向かう((AM10:40)。金山や譲葉山を望む展望地で円形の小さな広場には方位を示す十二支の石盤がある。
丹波の森公苑と”坊の奥”に続く丘陵を望む

中央の石塔は日時計の役割を持っているのかな!!?南東方向には 大和宇陀とアメリカケント市と表記されています。ケント市と柏原町の姉妹都市の関連は知らないが、元禄8年 (1695)織田信長の 二男信雄の4代目の孫(織田信休)が大和国宇陀郡松山城から柏原藩主として移封される。コンクリート広場の端の隙間から尾根続きに坊の奥から 丹波悠々の森へ向かうチョッと厳しい藪山ルートには幾つもの獣道が走るが突き進むが、
丹波の森公苑377mピークの外れ東尾根を下り始めると直ぐ岩峰が現れる

冬場でも棘の多い雑木の薮には閉口する。主尾根に乗ると展望も良くなり・歩き易く適度に露岩の休憩所もある。挙田地区からの山道と合流し暫くで明確な縦走路に出ると「左・丹波悠々の森⇔右・丹波の森公苑」の標識をみる。縦走路へ出て急斜面には手掛かりの結び目を付けたロープもしっかりセットされている。展望台から”丹波の森公苑”からも途中まで周回の整備されており 展望と幾つもあるピークを通る痩せ尾根だが 展望も楽しめるコースがあるが周回コースを越えて進む 三角点坊の奥(3等三角点 354m)だけは・なぜか此処だけ展望に恵まれない。尾根上に室谷坂と標谷界を示す植林界の標石が同じ大きさ・高さで並んで立つ(AM11:30)。
丹波の森公苑の背稜尾根の東北末端部の展望台は砦跡か?

室谷坂(AM11:40)で「右・石戸地区⇔左・室谷坂 」はエスケープルートとして覚えておこう。室谷坂から少し急登だが道良く・展望良し 露岩も現われ痩せ尾根の縦走となる。次の335mピーク(直ぐ下の枝尾根を送電線が越える)からは良い感じの尾根コース。軽い山歩きなら丹波の森公苑からの散策コース:西の峰〜東の峰(最高峰377m)を周回するのも楽しいコースです。西の峰に出ると公苑へ下る西尾根コースと正面東の峰に辿る東尾根コースに分かれます。
展望広場より柏原町を望む・正面中央(独立丘陵に見える八幡神社)

玉巻城〜八の瀬〜石戸山・高見城山から氷上町の山々のパノラマを楽しみながら展望台を経て砂防ダム分岐より2〜3分で東の峰377mに着く(PM12:20)。 展望はないが樹間越に三尾山や黒頭峰が顔を出す。それもつかの間で急斜面を一気に駆け下り 展望広場を経て三原大谷砂防ダム下に出ます(PM12:35)。 洒落たロッジ風のアトリエが2棟あり絵画・彫刻等創作活動や芸術家交流の場になっており付近に三原古墳群もある公苑内散策コース。
西河原橋から柏原川と小南山東北尾根末端の物見台?(中央採石場上)

イベント広場からセンタを抜けて正面玄関に出ます(PM12:40)。なを坊の奥方面から縦走して377mピークから 丹波の森公苑へ下る地点から尾根筋は 更に高度を落としながら東へ伸びていき、 更に北へ延び出す尾根先端部が丹波の森公苑からJR線を越えてR176号へ向う北中集落に落ちる。その末端ピークが以前より砦跡かと思える山容ですが祠跡らしく御手洗の石や一部に石垣が残っており
柏原川沿い小南山東北尾根の出曲輪(中央右)と末端砦

今は広く整地されベンチ等も用意された展望広場となっているがJR柏原駅から町の中心街を正面に約800m程に八幡神社を望む。丹波の国人領主:赤井氏の城は明智光秀により、神社は焼かれ金山城と共に黒井城攻め本陣?となった処。 此の展望広場に遺構らしいものは何もないが狼煙場等の通信施設として使用されたかも知れない?。主尾根250m付近から東へ延び出す枝尾根がJR福知山線・柏原川に落込む先端ピークの砦遺構を金水寺城(仮称)として詳細は下記・近畿の山城にレポートを追記した。



小南山城 金水寺城(仮称) 茶臼山砦(丹波のお話・さとしの山を参照)

小南山城  小南山 232m   柏原町小南

四面山とも呼べる小南山は中郭を成す東峰‐西峰から夫々に南尾根・北尾根上にも 段曲輪群があり東峰の展望台から 柏原川沿い北へ延びる尾根の 先端部に監視物見台曲輪が尾根中程には此の北尾根からの短い枝尾根上にも出曲輪遺構がある。此の出曲輪は東郭(主郭)へ整備された登山道を大手とすれば、搦手道とも推察出来る!!。 低山ながら独立丘陵の山上からは
小南山城東郭(三角点峰)北斜面に積む3-4段曲輪

柏原の織田藩城下町を間近の眼下に治め!鐘ヶ坂金山城から円成寺城・大部谷城を氷上町側へ抜ける山陰街道を監視出来、氷上盆地を望み向山城(ガンジュウジ城)〜霧山城穂壷城への狼煙台なら高見城や白山・弘浪山・遠く黒井城・三尾山城の諸城からも確認出来る。又目視でも山城の展望が効き、是ほどの好位置に物見の砦、通信用の狼煙台もなかった事の方が不思議。まして三角点の有る尾根上は連郭を成しています。
小南山城東郭と一ノ丸?

霧深い丹波の諸城への通信に”狼煙”が何処まで有効なのか?分からないが篠山・山南・氷上に通じる要衝監視の城砦 と推察できる。天正6年(1578)丹波攻略の黒井城攻めでは明智光秀が其の本陣として 柏原八幡神社を取り壊して築城した八幡山城があるが其の西方の独立丘陵:小南山の城遺構は郷土誌史や伝承も無い。築城時期や城主等も不明。明智の本陣柏原八幡山城(築城時期や加伊原新城について疑問はのこるが)八幡山城とは柏原川を隔てる直近の小南山城が 高見城攻めの向城となっていたと思え、
小南山城東出郭の土塁曲輪

高見山城主の赤井五郎(家清)が留守部隊を残して城を空けていた情報が、この砦から知らされた事でしょう!!?。小南山の東裾を北から南へと柏原川が流れ自然の濠を形成しています。 柏原川の東南付近に架かる”森の小橋”に女流詩人田すて女のレリーフ像がある。柏原病院前から北へ 小さな峠恩鳥坂を越える おさん茂兵衛道行の鳳峠は旧山陰道で西山裾に”おさんの森”があり二人を祀る祠が建つ。柏原駅からJR踏切りと 柏原川(丹波の杜公苑・図書館への分岐交差点を直進)を渡り
東出曲輪(遊歩道東外側)に空堀土塁?と平坦地形がある

柏原病院への直線道に入ると小南山登山口の標識を見て右折。整備された一般ハイキング道は東南の民家側に絵入の略図案内板が立つ。整備された遊歩道からは気付かないが、 登山口少し手前の古墓か其の間の踏み跡から尾根を伝うと3段程の曲輪がある東出曲輪。三方土塁囲みの曲輪・続く曲輪との間は土塁を積む切岸も低く浅い堀切・その上段の土塁曲輪の先で登山道と合う。東北登山道の下方には空堀・土塁状があり屋敷跡?を想わせる。尾根伝いに山上鞍部に着く右(東)に主郭。尾根の北側には太平洋戦争時 ・対防空監視施設関連の遺構らしいカギ状の塹壕跡を見る。
小南山東屋展望台から西峰側の堀切

東郭(三角点展望台側)の円状窪地(曲輪?)も射砲.対空機関砲が据えられていた跡?。広い削平段も消滅した曲輪の跡かも?東屋展望所の山頂から先、歩く人もなく元の雑木林に戻りつつある。小南山東峰山頂(4等三角点 232m)休憩展望所から西端の休憩所へ緩やかな高低差の台地が続く。城域は両峰【主郭の東峰から柏原川沿いに北端を県道290号の西河原橋近くまで延ばす比高60m前後の低丘陵で土砂・石材採取場とハイレックスコーポレーション(旧日本ケーブルシステム株)
東郭(主曲輪)鞍部から西郭側に見る塹壕跡!!

間の短い林道に降りる。柏原病院背後の西峰(西麓に恩鳥坂がある)は旧山陰道沿いに延びる尾根筋で北端は工場の倉庫群が並ぶ中・日本ケーブルシステム(株)の裏手に降りカーリフトの行き交う倉庫群の構内を 通してもらい正門から県道へ出た】この二本の尾根上に幾つかの削平地が残ります。柏原病院北側の二つの貯水池の間から取り付いて 四面山とも呼ばれた小南山最高地点241mの西峰の尾根に出たときも3基ばかり古墳のマウンドを利用した曲輪(曲輪間には浅い堀切<周溝ではない!?>)があり恩鳥峠を見下ろす曲輪西面に二段の犬走り状棚をみる。
小南山北東出曲輪(四坂山稲荷砦:仮称)の土塁囲み曲輪

西峰から 西端の此の尾根間鞍部にも浅い堀切状…南へ落ちる竪掘か片堀切状を見る。此れより先:恩鳥峠越えの道と並行する西北へも長い平坦尾根の中程より2〜3段の平坦地があり、一気に急斜面となる北西方へ竪掘・登城の為の堀底道状が曲輪に通じます?。曲輪を繋ぐ土塁道の様な高まり工場裏手に出る竹薮の最下部からも 分厚く深い土塁空掘状が尾根筋に上がてくる!!?様に見える。 東峰(主郭)を北へ回り込んで降る尾根筋からの分岐を小南集落へは背より高い藪に覆われ・
西峰の南枝尾根側:古墳利用の曲輪・左下に二本の犬走り状棚?!

踏み跡を追う箇所もあるが山道筋から落ちる長い竪堀状を見る。分岐点からの急斜面下方で主尾根を外れ東への枝尾根先端部 (小南集落北端の四坂山久治郎稲荷社背後)は埋蔵文化財分布調査報告書に小南山城域指定域外になっているが 4段程の連郭で城域(20x80m程)の南北に脇・帯曲輪が二段附属する。尾根続きに堀切・竪堀を見ないが北東面の谷は露岩の断崖だが崖下の状況からは土採り跡とも思えない?。
小南山城東出曲輪群

小南山城主郭と東北尾根末端見張台との中間部に位置する出曲輪か?東曲輪(主郭)に通じる東北尾根筋の曲輪群に繋がる。此の砦から北端の砦までは尾根筋近く東面には廃墓・柏原川側の山麓・最低鞍部の左右(東西)の谷沿いにも古い墓地や廃墓地らしい段差を残す平坦地形を処々にみる。末端の峰に向いますが直ぐ比較的広い平坦地と曲輪の段差を越え自然地形の狭い台地を何箇所か見て北端の小峰頂部に着いた。下草に埋もれて遺構としては不確かな狭い平地です。
小南山東北尾根の出曲輪:四坂山稲荷砦<仮称)の先端小曲輪から!!

僅かの範囲に残る平坦地(東西・南北ともに約15m程だが綺麗に削平されている)には感激です。只足下に迫る採石場の断崖絶壁。消えた空間には西河原橋近くまで丘陵が延び監視・守備のため数段の曲輪があったのかも?。 小南山城は元は在地土豪の城が明智光秀の「丹波攻め」により黒井城砦群・殊に高見城に対する付城として利用された。光秀が柏原八幡山城を築いたのは天正7年(加伊原新城のことか?)と云い時期的にも八上城のあと高見山・黒井城…等が落城、丹波が平定された年の築城では遅過ぎる。
同:四坂山稲荷砦<仮称)主郭部

柏原なら寧ろ金山城を望める此処:小南山城が陣城ではなかったか?…とさえ思えてくる。八幡山城も城名こそ不明だが在地土豪が八幡山(入船山)から高八山‐清水山への稜上に築いていた城砦群のうち八幡宮裏を改修し 陣城として使用したものと推察。城史も不明・曲輪段以外は興味を惹く山城遺構に乏しいが八幡山城ともに小南山城にも歴史スポットを当て調査が進むことを期待したい。


金水寺城(仮称)  xxx山 Ca190m  柏原町下小倉

丹波市山南町から奥野々峠(県道86号)を越えR176号(篠山街道 ・旧山陰道)に合流する下小倉地区に下ってくる。 武蔵7党に属した豪族・久下氏は源頼朝の挙兵に”一番”に駆けつけた事で名を挙げ承久3年(1221)丹波栗作郷 (丹波市山南町上久下・久下地区)の地頭として来住し足利尊氏:篠村八幡宮の旗揚げの際には 「一番」の旗印を靡かせ一番に駆けつけた事はよく知られます。
JR福知山線高架を潜ると柏原川沿いに金水寺城が迫る


京都の尊氏側近として関東武士団で盟友:中澤氏(大山城)が居た事で情報が事前に知らされていたものと思えます!?。小倉の庄は観応年間(1350-52):丹波守護代ともなった久下氏の領有地でした。久下氏本拠の玉巻城から奥野々坂を越えて小倉庄に下りて来る。
金水寺城の主郭の三方(北・東・南)を囲む帯曲輪

県道86号東南側の小独立山塊には大部谷城がある。 東側集落内を二つに分けて南北に抜ける地区道は丹波竜の発見発掘作業中で知られる上久下地区から篠場(集落の殆どが村上姓で、 村上水軍との関連伝承もある?)から篠場峠を越えて小倉へと間道が通じ近年まで通行利用されておりハイキング道として整備された。
金水寺城主郭:土橋付き横掘の端は折れ竪堀を落とす

大部谷城が此の間道の麓を通り、北の山裾沿いには奥野々道を抜けて北方600m程で、 篠山方面から大山城や金山城の在る鐘ヶ坂を越える要衝:山陰道(R176号線)と合流する。此の奥野々(県道86号)と山陰道(R176号)が合流する地点の東南200m程に円成寺城があって要所の重要な守備と監視所であった事は推定出来ます。
金水寺城の主郭の三方(北・東・南)を囲む帯曲輪

ところが奥野々道を挟んで大部谷城・山陰道を挟んで円成寺城が在るのに対面する低丘陵部山裾を両街道が廻り込んでJR柏原駅へ向う福知山線が走る 西面に旧氷上柏原町・県の遺跡分布地図に城砦遺構の表示はない。JR線に沿って山裾を奥野々川が流れ上小倉・鐘ヶ坂方面からの谷川を併せて下小倉で 柏原川が自然の濠となる絶好の要害、 しかも両街道を監視出来る位置に在る。
金水寺城 :尾根から御堂側まで落ちる西竪掘?

丹波の森公苑から R176号へ出る手前で望む丘陵部東北先端付近の峰ピークや奥野々坂へ向う県道から下小倉地区の集落北端に延びる先端部の山容に、もしや…と思いながら藪枯れの今の時期内にと城探索に 出掛けてみた。篠場峠で合流する上久下・小倉両地区の合同の記念登山 では小倉側の集合場所となった公民館からスタート。県道86号を挟んで南側の大部谷城とは呼応(対峙?)し、 大部谷城の東足下には此の篠場峠から下ってくる間道(県道292号だが大部分は境界尾根筋を越える山道)もある。
金水寺城:尾根から今西古墳のある谷へ落ちる東竪掘?

下小倉集落を抜けJR福知山線の高架を潜ると柏原川に架かる金水寺橋。 左手山裾には宝城院(真言宗)末寺(後:円成寺の末寺となった?廃寺の金水寺跡) が在り県指定の宝筐印塔が有るというが南北朝期のものらしい。前期:織田家2代目信則の代に織田家臣となっている田家より3代目 ・信勝の乳母となった田つちは信勝卒すると庵をむすび菩提を弔ったと云う。宝筐印塔は城址背後の尾根筋西北麓に在る前期織田家の信長の弟:信包から信則・信勝)の3代を祀る成徳寺が在る。
金水寺城 :主郭東斜面に帯曲輪2‐3段が廻る

はじめ見性寺から信勝の戒名・成徳院殿…から成徳寺と名付けられた。金水橋の先・取付きの参道横の墓地に見掛けた宝筐印塔こそ金水廃寺に祀られた信勝のもう一基ある宝筐印塔なのかも知れない(未確認)。 右手の牧場前を柏原川沿いに300m程、左手墓地の先・山裾には今石古墳がある。 正面には猪鹿除けゲートを開閉して進む広い山道があり、城砦遺構がある事も知られていない未知の領域です。大師堂・観音堂か毘沙門堂?、 お堂左脇から踏跡を辿り尾根に向かう右手斜面下にも 一条の深い竪堀が堂宇の傍まで、途中を下草藪に覆われ見えないが落ちている。尾根に出ると向い(東斜面)にも今石古墳の在る谷筋へ落ちる長く深い竪堀が一条落ちる。
露岩の377mピークから大部谷城(独立低丘陵)を望む

いずれの竪堀(片堀切)状も城の規模や防備面からみても不合理・不釣合?なので自然地形と見るべきかも?。此の南東へ緩斜面30m程先が金水寺城<仮称>の主郭。尾根幅が少し狭くなる部分は土橋付き堀切か?。小さな平坦地形(腰曲輪?)と1m程の段差の上には南北・幅8mX東西 20m程の平坦地形の先端最高所ピーク。此処を主郭に 先程の狭い鞍部状と腰曲輪の北主郭下部には幅3m・長さ15m程が竪堀となって斜面に落ち込む。主郭北面の横掘状から続いて東面〜南面へと主郭の三方を2段の帯曲輪が捲いている。主郭西橋から南へは露岩が3〜4段・急斜面上にあるが 砦上部の露岩部は小曲輪の様!。
金水寺城主郭:尾根続き西斜面に落ちる竪堀?

至近距離の大部谷城・円成寺城と連絡を蜜に出来る絶好の見張台であり元は丹波国人の城砦だったか?。現状の縄張りからは丹波市側では極めて珍しい主郭を中心に同心円状に曲輪を廻す陣城で金山城・柏原八幡城への中継通信の城としても有効な砦と思える。引き返して西へ枝尾根を辿るCa200m付近に堀切状? (片堀切を見て 急斜面上の露岩の多い平坦地形を見るが、主尾根に出ると遺構らしいものはなく、

片堀切から細く急な尾根上に露岩混じりの小さな平地?の220mピーク

主尾根を西南に向って丹波の森公苑からの整備された登山道に合流する377mピークまで辿ってみたが 更に坊の奥(3等354m)北西へ延びる主尾根上に城砦遺構は無さそうです。だだ此の北西末端を新井神社と山の神池に落とすピークには山ノ神城が在る。丹波悠々の森を間にして高見城砦群の一とは思えます。


挙田の塚(地神塚)

「おさんの森」のある丘陵北の末端部には挙田古墳群があり円筒埴輪等が出土しているが多田の工業団地開発整備の埋め立て用土砂採取後の跡地も造成され今は4棟ばかりのマンションが並び消滅。此処には伝承だけが伝わる茶臼山城もありました。この丘陵を尾根続きに南面から西方の高見城山へと三方を山に囲まれて、北にのみ開けた小盆地となって広がる挙田(あぐた)地区は低丘陵ながら日当たりが悪く山も深くないので水にも不自由。
地神塚:低丘陵の左末端部に茶臼山城が有った

其のうえ佐治川へ流れ出る柏原川の水位も低く、今でも大水による冠水被害が絶えない。行政でも挙田地区は氷上町か?それとも柏原町に入るのか揺れた時期があったとも…挙田地区にある挙田塚・地神塚には8〜9m程の方形マウンド上に墓石状の石碑がある。挙田地区中心部に位置した地神塚は田畑に囲まれた一角に 高さ2m程の古墳のマウンドの様な方形基壇状の上に「賢巖道盛居士」裏面には俗名:堀孫五郎尉と刻まれる石碑。
丘陵末端部と其の先の数棟の団地の茶臼山城や古墳があった

塚と石碑の主:堀氏が同一人物なのか当地の地頭:領主であったか?等:どの様な人物だったかの伝承も無さそうです。 むかし・小さなワラ箒で、なにやら呪文を唱えながら患部のイボを撫でると、 イボが取れると言い伝えられ婆さんに箒で摩ってもらった記憶があります。全国的にその様な「イボとり」の伝承は丹波にも数箇所に残る。子供の「癇の虫」押さえの地蔵伝承と似た様なものか・・・・!!?
イボとり地蔵(篠山・栗栖野城)篠山市栗栖野  いぼとりの方便水 丹波市青垣町東芦田の胎蔵寺
いぼとり地蔵 丹波市柏原町挙田いぼの石    丹波市青垣町桧倉 高源寺


別冊丹波霧の里HOME 本誌丹波霧の里HOME
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