谷中分水界のある里   定利山〜高王山/松隣寺〜草山城/将監屋敷/ゴリョン・川阪砦
栗柄〜定利山〜点名:杉谷〜高王山〜栗柄 2001年04月07日
松隣寺〜殿山草山砦(本郷城) 2005年06月25日
★倶利迦羅不動の滝は竜女伝説の滝
近畿の山城
細見館と草山砦(本郷城) ゴリョンと川阪砦

観音堂から倶利迦羅不動に向かう

日本一低い分水界が丹波市にあるが篠山市西紀町にも栗柄峠-鼓峠に二つの分水界がある全国的にも珍しい地形・現象の水分の里。栗柄は三方を山に囲まれた盆地の狭い平地に水田が開けているが付近は大変珍しい谷中分水界で鼓峠から日本海側と分かれ水は宮田川が篠山川から加古川を経て海に注ぐ。宮田川とは100m程を並行して下る杉ヶ谷川が宮田川に合流するのが自然なのだが此処で目の前の観音堂とその奥に高王山観音堂横から急に西へ向かい倶利迦羅不動の滝から、
倶利迦羅不動滝

尻川〜竹田川〜由良川を経て日本海側に注ぐ不思議な谷中分水の地形は約2万年前の河川争奪によって形成されたといわれ、この二つの川が谷中の平地内で同じ方向に流れながら突如方向を転じる地形は珍しくしかも二つの川が見渡せる位置で中央分水界の形状が目の辺りに観察できる希少なポイントで多紀アルプス西ヶ岳登山口・西ヶ岳ロッジも直ぐ先・鼓峠を約3km下れば草山温泉です。



河川争奪の見える水分の里  栗柄〜定利山〜点名:杉谷〜高王山 H13.04.07

R175号篠山口駅前を過ぎ三和町に向け県道97号石楠花の町西紀町に入る。石楠花まつりで賑わう西紀支所前から丹波の黒豆の里黒豆館の横を通る。左方に西多紀アルプスの鋸山周辺の山々を望みながら福徳貴寺前を通り春日町への県道69号線分岐の栗柄に着く。
倶利迦羅不動?

栗柄の名は春日町側へ30m程不動の滝に祀られる倶利迦羅不動尊に由来する滝へは観音堂からが参道。「手に結ぶ滝の白糸 くりからの…」栗柄観音堂の本尊聖観世音菩薩を祀る平安時代創建で御嶽山養福寺と称した。観音像は多紀アルプス三嶽にあったのを移したという。三嶽の修験道が盛んだった頃は本業を終え 降りてきた山伏が不動の滝で最後の水行をする処。参道の案内板の先・そこから稜線にのって行けそうなので不動の滝を見て引返して縦走を開始。
観音堂

栗柄不動尊・明暦2年(1656)建立で倶利迦羅明王ともいい福徳貴寺の僧が滝壷に住む竜女を成仏(悟りを開かせる)させ、此の竜が僧に謝して残したという三枚の鱗が寺宝として残るという…不動尊は俗に「腹痛を治しの北向き地蔵」ともよばれている。境内に護摩焚き様の砂場の他に蛇の枕という1m四方の丸い石が祀ってある。滝は幾つかあって滝めぐり参道もある。不動滝の東側の細い滝には右手に剣を大きく振りかざした不動尊があり左手は大きく握りこぶしを固めているようです。
細見館跡を思わせる○○工務店「本丸社宅」!(医者細見某氏旧宅)

細い踏み跡を定利(さだとし)山(366m4等)へは15分程で到着。 多紀アルプス主峰を辿る岩屋山〜西ヶ岳〜三嶽と並走しながら余り展望に恵まれず山頂からはこれより辿る杉谷と高王山だけが望めるが雑木藪で後方の御在所〜鋸の山稜は隠れ見えない。杉谷への稜線も藪漕・蜘蛛の巣や引っかき傷をつけなくてすむ。淡々と踏み跡を辿って此処へも15分程で
松隣寺近くの○工務店本丸社(旧:医師細見邸)前から草山城遠望

潅木のなかの静かな空き地のような特徴のない平地にポツンとポールがあるだけの点名杉谷(484m AM8:13)に着く。名前の通りの美しい杉林は春日町側への斜面に広がっている。特徴のない広い尾根だが当分踏跡は安定しない。雑木を避け歩きやすい左寄りに下った為に春日町への短尾根をトレースしていることに気づいてトラバースし右への尾根に修正。高王山が段々目前に覆い被さってくるほど近くなる。左への尾根を鞍部に着くと明確な山道が現れ正面尾根に続くが高王山は右手になる。鞍部からほんの2分も下れば桑原へシャクナゲ寺”松隣寺

抜ける車道に出る。谷川を対岸に飛び移って踏み跡もない斜面を直上。下草はなく雑木・潅木の間隔も広いので道などあってもなくても同じ様な感覚です。10分程で稜線に載ったようで踏跡が現れる。山頂近いのに又道が判り辛くなる。高王山(543m 3等)は傾斜の緩い尾根の南端。三角点からは特徴ある三尾山、御在所〜鋸山・妙高山、目を転じれば当然西ヶ岳〜三嶽〜大峠への稜線が浮かび上がる。
本郷小学校側から細見将監屋敷(中央薮の台地上)と草山城

アチコチ踏跡があり松茸山なのか コースがわからなくなる。特徴も目的ポイントもないダラダラ尾根を辿っていても時間の無駄と左の尾根の踏跡を辿って広い敷地の作業小屋の前に出た。栗柄〜桑原の林道?で杉ヶ谷池100m程下方・車道を 10分も歩けば県道97号線に出て栗柄観音堂・駐車場に到着。栗柄峠を春日町へはこれより約13kmです。


草山砦(草山城・本郷城) ゴリョン(下のまんど)と川阪砦(上のまんど)

細見館と草山砦
細見館(細見将監屋敷) xxm 篠山市西紀町本郷
草山砦(草山城・本郷城・細見将監城) 殿山 321m 篠山市本郷字ウエザコ

石楠花の町篠山市西紀支所前から倶利迦羅不動尊と”谷中分水界”案内板の立つ栗柄峠へと春日へ向かう分岐を左に見て直進する県道97号(丹南三和線)は5月上旬頃は山の斜面や谷川沿いにシャクナゲやアジサイが美しい鼓峠(峠にある田圃が小鼓に似ているからとも)を越えると御嶽・小金ヶ岳等・多紀アルプス北山麓を本郷・草山温泉を過ぎ京都府三和町に抜ける。
松隣寺から殿山を望む

鼓峠を下る県道97号が本郷集落に下りてくると本郷交差点手前に「シャクナゲ寺・松隣寺」の標識をみる。県道300号から301号線へと御嶽と小金ケ岳の間「オオタワ」を越え篠山市街地へ短絡する地区道で 宮立川に架かる昭和橋を渡る道筋約400m程でご詠歌石楠花の色薫妙へなる松隣寺身代わり観音救い慈悲ぶねと詠まれるシャクナゲ寺で”身代わり観音”でも知られる松隣寺の石段参道前を通る。
殿山北峰からR97号とR300号交差点を望む

背後に望まれる殿山(4等三角点 321m)には草山砦(本郷城・草山城)があり丹波氷上・多紀・天田の三郡に境して八上城主波多野氏の傘下に入った細見氏の居城と云われます。松隣寺は室町時代末期・天文10年(1541)元天台宗の寺として草山荘の細見将監(代々領主は官名の将監を名のるが詳細は不明点も多い?)が寺坂橋付近に開創され本寺洞光寺二世:澄照了源和尚・竺翁勇仙和尚を開山に迎え建立されました。
細見館比定地?南東端:屈曲した田・川までは断崖

寛永10年(1633)篠山青山藩士細見(勘兵衛!)将鑑宗高が帰依し洞光春国万栄和尚・一峯如微 和尚を中興に現在地に移された龍駒山松隣寺【曹洞宗:近畿楽寿観音三十三ヶ所霊場第17番札所/丹波寿七福神 巡りの寿老人の寺としても知られる】があり本尊:釈迦如来像は開基細見宗高の寄進によるものか?平安末期〜鎌倉時代末期の作とされ脇侍に文殊・普賢の両菩薩像が護る釈迦三尊像が安置されています。
細見館比定地?(中程東端友淵川寄)

細見谷(三和町)に本城を構え足利氏の幕下で戦国時代には波多野氏配下となり細見や草山の郷を領し草山城(本郷城)を築いていた細見左近将鑑信光の院号「松隣院殿」から付けられたといわれ細見氏一族の菩提寺です。薬師堂には損傷が著しいが作風により平安後期から鎌倉時代後半の作とされる本尊の釈迦如来、脇侍には普賢菩薩・文殊菩薩が安置されています。500本余りのシャクナゲが開花時期(4月下旬〜5月上旬)には境内を彩り西紀シャクナゲまつりと併せて訪ねるのも良い…細見氏は福知山市三和町側の細見谷に起こったとされ塩見氏一族が紀貫之の子孫を称し細見氏が紀姓であったことは本郷の春日神社本殿再建に関わる大永5年(1522)の棟札にも紀氏の名があり細見氏を指している梅田神社・細見谷周辺の諸城を参照
細見館比定地?の北東角の田圃

本郷・春日神社も神社名称は異なるが紀貫之を祀る梅田神社(梅田七社の一)で草山の本郷春日おどりも紹介。本郷松隣寺の西南約30m程・友淵川沿いに細見館(細見左近将監宗信館)がある。位置等は一帯が圃場整備で大きく改変され未確認だが多紀郡史か西紀町誌に”細見将監旧跡地”の石標写真が 載せてあったが其の石標も 圃場整備の際に紛失・埋もれたものか今も行方不明のまま。
細見館比定地:東面の畦の手前は幅狭く畑地や溝でもなく、友淵川への急斜面

友淵川の橋から現松隣寺に向う坂を血ノ坂と云い中程・護岸の田圃の東端が高く急斜な崖状となっている所、数段の屈曲した段差のある田の南東端は土地改良区の圃場整備以前は2段になっていて屋敷跡だと田の持ち主から聞いた。其の続き川に落ち込む急斜な河川段丘沿い北への田が細見将監屋敷跡で田と谷境の畦付近以外に遺構を探してみる。屋敷跡を彷彿とさせる旧家の建つ位置も構えのイメージはないが居館の風情は残る。
草山城・西郭と主郭を分ける堀切

草山砦(本郷城)へ松隣寺の南背後の殿山の尾根上にあった草山砦(草山城・本郷城)は波多野氏に組みした細見将監宗信が此処に京都丹波との国境警備の守備・監視の城砦を築き波多野氏・八上城の枝城の一つとして機能したと思われる。細見氏は長寿で伝説的な大和朝廷初期の大臣で成務・仲哀・応神・仁徳と4代の天皇に仕えた竹内宿禰の後裔といわれ戦国時代・紀氏の一族とも云われる。登城口の細見氏一族菩提寺の松隣寺山門をくぐり本堂脇からシャクナゲ・アジサイの花を愛でながら裏手を登り尾根に向かう踏み跡は 段々薄くなるが疎林の中は稜線まで藪も少なく 大した急登もないまま尾根筋の鞍部北付近にある大岩の下に着く。
草山城・西郭と主郭を分ける堀切

左山腹をトラバース気味に進めば草山城の自然地形の平坦な緩衝帯の西北端に出る。直上して大岩を廻り込むように上部に出ると殿山北峰のピークで平坦な2段の岩場はそのまま自然の物見台。鼓峠を下り草山温泉を経て三和町の山陰・舞鶴主要道R9号に出る県道97号、多紀アルプスを越え御嶽・小金ヶ岳を分ける鞍部”大タワ”から篠山市街地へ降る県道301号と 多紀アルプスの北方を篠山市の福井・村雲や船井郡瑞穂町へ抜ける県道300号が交差する要衝地点・本郷交差点や西紀カントリから鹿倉山への国境尾根を眺望出来る位置にあります。
草山城・土塁から堀切と西郭

大岩上部付近に戻り鞍部に向かって下り、其れほど急でもない斜面を登り返せば草山城の城域の約半分を示す西部(東西約50mx南北約15m程)の自然地形に近い平坦な緩衝地帯の西端部に着く。切岸も僅かに段差1m足らずで低く削平されているらしコーナー部から外(西や南側から主尾根が延びる)には、だらだら下り斜面が続くが城域と思える平坦地や掘切はなさそう。単郭の小城ながら遺構が良好に残る東側端も虎口部から先は思ったほどの急斜面もないまま麓の墓地へ降り、尾根上に曲輪らしい平坦地も堀切や竪堀等の防禦施設は見当たらない。
草山城・曲輪を区分する埋もれかけた空堀

細見氏一族の拠点として代々管領細川氏に仕えてきた本郷城(草山城・草山砦)の縄張りにしては同じ一族が拠った近く細見谷の鎌谷城(船井郡京丹波町)の縄張りに較べて見劣りするのは何故だろう。浅い堀切と空堀・段差も低い切岸と防禦性は低い!。ほぼ自然な平坦地形で緩衝帯とも思える西郭(約45m・幅6〜8m)は松隣寺背後から直登して着く草山城側とは吊り尾根状の北端に位置する岩頭の峰に着くが岩場はテーブル状に上部が平坦で 鼓峠に至る山越えの街道筋や本郷地区北東から草山温泉側を眺望出来る絶好の見張台となる。また西郭部から西への主尾根筋も鼓峠越えの街道筋を望みながら延びていく。
草山城主郭の三角点

直ぐ目前に迫る激急斜面から423mピークへかけての細い尾根筋に城址遺構など無さそうだが西郭から急斜面手前の比較的緩斜な尾根筋に覗く露岩部は峠通行の監視台としてはお誂え向き。主郭からは効かない北面の監視台として 西郭は両見張台から中継基地を兼ねていたものか?。尾根西端に段差は低いが高さ70-100cm程の切岸を落とし崩れ埋もれて分り難いが尾根を回り込んだ南側端から西郭上に入る。
草山城・虎口受け小曲輪から主郭に入る

主郭(東郭)は低土塁を積んだ幅約5mx高さ約 3m程の堀切が東西ニ郭を遮断しているが両斜面へ竪堀となって延びてはいない?。主郭に入ると直ぐ埋もれかけ浅い空掘が二本続く。空堀の両外側には約1.5m程の段差で一帯曲輪が長方形の主曲輪を取囲んでいる。帯曲輪の東端部に虎口の開口部があり一段下に小さな虎口受曲輪があるが松隣寺からの東尾根筋を大手に至る登城ルートがあるが東南寄りの谷間から登城ルートがあったかは不明。堀切と一段の帯曲輪以外に曲輪や土塁・竪堀で城域周辺の防備が
東端帯曲輪から主郭

固められている様子もなく栗柄〜鼓峠と京都丹波の菟原・友渕に通じる街道警備の城砦と云うより今残る縄張りからは 京都丹波側の赤井氏や波多野氏方の動きを監視する明智方の付城として栗柄砦等と共に使用されたものか?。辻と莵原間にある小見山城が三和町で唯一合戦があった所とされ、本郷から鹿倉山を越え天正年間辻野左衛門が拠った小見山城を元々三和町が一族の本拠だった土豪細見将監が攻め落としたといい、また後に左衛門が奪還したともいわれる。波多野氏方の威勢を借りて攻め落したが明智軍の八上城攻めに波多野氏が滅亡した後は小見山城を捨て明智方に付いたか秀吉方に付き転戦?していた城史は不詳だが明智光秀が天正4年(1576)氷上郡(丹波市)の黒井城
草山城・主郭東面の帯曲輪

荻野直正を攻めた際・八上城主波多野氏が突然・光秀に背き 直正方に付いて光秀軍を囲んだ「赤井の呼び込み戦法」により明智軍は大敗。敗走する光秀らを退路となった栗柄峠・鼓峠に待ち伏せした波多野氏方の八百里城畑牛之丞守能等と共に細見左近将監家信の子で草山砦(本郷城)に拠る将監(次郎右衛門)宗信?も鼓峠で光秀軍を要撃(待伏せ)したともいわれます。【天正4年の鼓峠の迎撃に光秀の影武者堀部兵太夫が討たれた兵太塚と古戦場としての史跡と伝説に残るが
虎口受け曲輪から正面主郭

天正4年の光秀は石山本願寺攻めや病床にもついており・此の丹波にいたかは不明?】家信・宗信父子は八上城波多野氏が討たれると草山砦(本郷城)で自害したとも伝えれられます?。寛延元年(1748)以降の篠山藩・青山氏に仕えた細見将鑑宗高がいる。兵庫丹波の山城に余り例を知らないが京都丹波には見かける 本郭部の曲輪内に堀切(空掘)を持つ縄張りが此処にはあった。
(丹波志写本、戦国・織豊期城郭編 丹波国八上城遺跡群に関する総合研究 参照)

ゴリョンと川阪砦
ゴリョン(下のまんど)
 260m  篠山市川阪
川阪砦(ゴリョンの城・上のまんど)  535m 篠山市川阪
多紀連山主稜線から派生する尾根上の川阪砦(中央)

鼓峠での合戦に光秀の身代わりとして此処に落命した堀部兵太夫の首を吊った欅の木があったと云われ首懸け欅兵太塚があるという(説明板の立てられている位置とは随分違っている様だが?不法投棄で無残な急斜面を谷筋に下って探してみたがわからなかった。欅は朽ち果て・塚も埋もれてしまったものか?。
地蔵堂から”ゴリョン”と川阪砦(ゴリョンの城)

県道97号線が京都府三和町へ県道301号線が多紀アルプス御嶽・小金ヶ岳を分ける”大タワ”を越えて篠山市街地へ県道300号線が県道301号線を分けてR173号へ抜けて京都府瑞穂町や京都府丹波町へも 県道703号線が交差する。これ等間道の連絡口の本郷集落には細見氏の草山砦(本郷城)が在り、交通の要衝監視に当たっていたと思えます。しかし本郷集落から更に東奥地へと友淵川源流に向かって入っていく川阪集落にも川阪砦がある。
川阪の道祖神(中央)

谷間を縫う様に川阪集落の中央を友淵川が流れ県道300号線は川沿いの”川阪下バス停”から地蔵堂側を通って藤坂峠に向かう。川阪下バス停から地蔵堂前へと友淵川を挟んで集落内の道が通じています。この中程に藤坂峠を越えれば右手に藤坂の大カツラへの入口を集落内右手丘陵部に大芋(おくも)衆として波多野氏に与(くみ)した中馬氏の白藤城がある。集落を抜け出るとR173号(綾部街道)に合流して北方20m程に見える板坂トンネルを抜ければ京都府側の瑞穂町、南へ下れば”合戦場”の名が残る応仁の乱の際の大合戦場・櫛岩窓神社・荒木氏の細工所城下で、篠山市街地へ小野新交差点で西へは八上城へ、東は亀岡・京都へ向かう要衝の福住宿。
”ゴリョン(下のまんど)”!

直進すると能勢池田へと摂津を結ぶ基幹街道筋。篠山三和を結ぶ県道97号線と福知山・綾部・京都・摂津を結ぶR173号を繋ぐ間道にある川阪の地も細見氏の領地。川阪道祖神…川阪砦は地元では”川阪ゴリョン<御領>の城”と呼ばれ”上のまんど”とも云い「下のまんど」とふたつ有った云う。居館と詰城の関連が伺え訪ねてみる。地蔵堂に川阪道祖神を見て居館のゴリョンに向かい以前とは逆ルートで詰城の川阪砦に向かう。地蔵堂には友淵川の氾濫により洪水の後:川底から地蔵尊に似た石が発見された。橋の袂・地蔵堂の間に此の石をお祀りしたという道祖神があるが一寸見に巖やを背にした 役行者像かと思った。
川阪砦主曲輪

ゴリョン…地蔵堂側の県道300号線からは地区道が抜ける友淵川に面し近接して二箇所:崖が突き出して 高い自然の切岸を呈する場所があり地元”草山郷づくり協議会”作成のパンフレットの地域図には”ゴリョン”とある。細見氏「御領」を指す意味か?。”ゴリョン”は細見館 同様の立地条件の居館らしいが現状の宅地・畑地と南山側は車道となっており居館跡は川に面する崖状の切岸、北側の空地から車道に沿う土塁跡の様な盛り上がりに想像するだけ。
デジタル化で設置場所に苦労された中継塔は此処にあった:川阪砦主曲輪

川阪下バス停から川を渡ってくる地区道が山側への坂道と合流するところ。見覚えの坂道を登り詰め”清水の森”遊歩道・ハイキング道を外して 登り始めた尾根筋への傾斜は東西南北・何処から攻めても思わず”たじろぐ”激急登が待っている。山頂主郭と其の北や東下の削平は少し甘いが曲輪の広さからは想像も出来ない。山間部にあって地上デジタル化のTV受信施設の設置場所には苦労されていた地域だが難所の川阪砦主郭に其の中継塔は建っていた。
川阪砦東曲輪

山300号線川阪からではなく多紀アルプスのオオタワを越える301号線側からの 西尾根が施設工事に利用されたものか激斜面に長いトラ・ロープが残されていた。なければズリ落ちる立木も少ない激急斜面!。川阪砦は草山城(本郷城)の砦として機能していたものと思われるが八ケ尾山に明智方の物見砦があったことを考えれば間道監視に明智方が利用した砦とも考えらるが果たして!。多紀連山主稜線・小金ヶ岳の東方約1km地点にある694m嶺から北へ派生する尾根中腹には川阪下バス停から見てもドーム状の峰を載せており、
川阪砦の東から南面に廻る曲輪

山頂の最高地点の主曲輪を中心に同心円状の三方に曲輪を置き 一挙に急傾斜の稜線末端部を川阪集落の県道300号沿い友淵川に落とす。境界や領地監視の見張所にしては比高300m以上あって余りに険しく要衝監視には遠く・適地ではなさそう。八ヶ尾山城と同様の目的で築かれた明智方の砦か一印谷城の様に戦乱時川阪集落の住人が 避難した逃げの城だったか?。永正年間(1504-21)守護代内藤氏の臣・塩見氏が天田郡を領し「丹波志」によると天正頃:波多野氏方に付いていた塩見氏の本郷城(草山砦)の支城であったとされます。
川阪砦の北曲輪

登路を川阪下バス停正面の橋を渡り、道なりに集落内の坂道を谷沿いに進み鳥居マークを目指すのが本意ですが取付きが判らない。川阪集落中ほど「川阪しみずの森」看板を見たが集落内の谷沿からログハウスを起起点に棚田や小金ヶ岳に向かいそうな?遊歩道、展望台(地図記号の鳥居マークか?)へ道標や歩道が整備されています。
川阪砦主曲輪から多紀アルプス主稜線を望む

しかし谷筋を詰めての東側は絶壁状の岩場に沿った道、展望台から尾根伝いに踏み跡が有ったとしても最後の曲輪端に達する露岩混じりの激急登は手懸かりに立木が利用出来なければ危険な場所もあります。 曲輪の削平は粗いが思いの外に広いが何処に登路があったものか比高もあり・堀切も不要な登るに難い天然の要害地に改めて誰が何故?判らないまでも築城の経緯や時期をいろいろと推察してみるのも楽しいもの。
(戦国・織豊期城郭編 丹波国八上城遺跡群に関する総合研究 参照)
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