丹波の赤鬼と春日局の里 黒井城〜千丈寺山〜ヨコガワ峰〜五大山〜白毫寺
丹波市(五万図=生野)
黒井城〜千丈寺山〜ヨコガワ峰364m〜五大山〜白毫寺 2001年2月17日
興禅寺〜黒井城 (猪ノ口山)〜千丈寺山〜氷上高等学校 2002年10月05日
白毫寺〜八幡宮〜ヨコガワ峰〜梶ヶ谷城館〜坂折城館ほか 2005年3月5日

【城砦群の一部を全山要塞の黒井城城砦群に移転しています H18.4.14】
赤井家伝甲冑(兵主神社)
十二支の山 猪ノ口山(黒井城) 丹波のお話 兵主神社の鏡石
近畿の山城 :黒井城(保月城・保筑城) 城下町散策
校歌・故郷の山 黒井小学校♪…猪ノ口山の松風の…♪
         三輪小学校 ♪みどりすがしい五大山…♪
黒井城主郭と丹波の霧海

戦国時代の山城で明智光秀の丹波攻めに最後まで残った丹波の赤鬼井悪右衛門直正の黒井城(国指定史跡)…周囲約8kmの猪ノ口山(365m)全体が巨大な要塞となっていて山中いたる所に防禦施設の曲輪・土塁・縦堀・空掘がそのままの姿で残っています。
千丈寺山砦と黒井城(中央)・向山連山から(H16.10)

興禅寺は明智光秀の家臣・斎藤利三が 黒井城の落城後に入り此処を下館とした陣屋跡です。利三の娘・お福は此処で生まれ 後徳川将軍家光の乳母となった春日局)を中心に城下町が形成され今でも坂や細い道が交錯している様子は当時の面影を残しています。



興禅寺〜黒井城〜千丈寺山〜ヨコガワ峰〜五大山〜白毫寺
  H13.02.17

R175号線稲継交差点を福知山方面へ直進し城山(198m)トンネルを抜けると向山連山を目前に、左方向には明智丹波攻め最後の戦場・丹波最強黒井城と千丈寺砦が 姿を現します。私はJR石生からの道が合流する手前パチンコ屋前で左折して黒井川に沿って田園風景の拡がる広域農道!を何時も利用します。
興禅寺・光秀の家臣・斎藤利三の陣屋跡

新聞の地方版にも載っていたので一寸寄ってみました。夏にオグラコウホネを紹介した川筋ですが、この時期(秋)に咲く桜の狂い咲き。黒井川の堤防に沿って植えられた15本ばかりの桜の木の2/3に僅かに1分咲き程度ですが 淡いピンクの桜花が咲いています。
黒井川・秋に咲いた桜花 H14.10.05

船越小学校の一つ西・野山の踏切を渡って天王坂(赤穂・大石良雄の妻りくが但馬へ帰るとき越した峠)に向ってすぐの黒井川沿いで、黒井市街地に入る手前の数本にも咲いていた。
国指定史跡黒井城と大梅山興禅寺 (曹洞宗)の案内板に誘導されて黒井小学校横、興禅寺横の坂道を登り切れば終点は 豊岡稲荷社の前です。豊川市の豊川稲荷社から祭霊を移され大正初期に現地に遷宮し奉斎されているが、元は黒井城主・赤井直正が城山中腹に祀っていたとされるものです。
五大山山頂から黒井城址(中央)

三段曲輪辺りか!石踏の段辺りだったのか?は案内板に記載が無かったが本社案内パンフレットと スタンプ設置台や観光案内板のある駐車場。”水の手曲輪”も記載されているが詳細な位置は不明!。 右手の80段ほどの石段が登山口(AM11:00)。登り切れば「本丸まで 837m」の看板をみて左へ折れ岩混じりの急坂が始まるが、それだけに背後に街並みと長閑な田園風景、
黒井城址の登山口 H13.02.17

向山連山や横峰山(高谷山)の展望が拡がり程なく三段曲輪(実際は5〜6段あるが)に到着します。 太鼓の段は西方の展望の効く場所にあり見張所として有事の時に太鼓で合図したところでしょうか!!。石踏みの段も広い削平地を残して南面に数段の曲輪を連ねています。黒井の城下町を見下ろす山門横にはベンチも有り「丹波の赤鬼」赤井直政公拓魂碑が建つ(AM11:15)。展望と休憩適地ですが直ぐに山上部の東曲輪に着くと…。
黒井城石踏みの段の赤門と荻野直正顕彰碑

黒井城の偉容が一気に目の前に広がり山頂本丸は360度の展望。 石積みの先には五大山・愛宕山の岩を抱く山塊を望む。黒井城祉<保月城祉>3等3角点357m(AM11:25)は保築城・猪ノ口山・天神山とも呼ばれています。此処は向山連山・妙高(横峰)山 ・多紀やアルプスから三尾・ここからは丹波小富士山・五台山〜カヤマチ〜笹ヶ峰と360度展望を楽しめます。桜木も少ないながら名所です。 西の曲輪へ下る方からは霧がわきあがっ湧き上がってくる。
黒井城:三段曲輪

重く濡れた雪はすぐに溶けて靴を濡らす。急坂が続きますので少ない積雪では 返って滑りやすい。本丸を頼もしく仰ぐ位置まで下って西の丸、北の隅から細い踏み跡が竜ヶ鼻砦に続いているが今日は千丈から 五大山への縦走です。露岩の横に捲き道の階段が設けられています。 30m程降ると白毫寺への分岐峠(黒井城まで500mの標識)に出て(AM11:40)、千丈寺山への踏み跡を辿るが以前の薮道と異なり直ぐに稜線通しの山道に赤い布が続きます。
黒井盆地を覆う霧海が消え始めると城下も目覚める…!


この鞍部から南への道は始め明確daですが大きな岩場下付近で段々怪しくなり、 道なりに??!谷沿いの藪を下って県立氷上高等学校の園芸実習用 !!のビニール・ハウス群に出て仕方なく 校内を抜けさせてもらう。此処へは花の苗を分けて貰うのに母と何度か来た事があり 校内の様子は分かります。千丈寺山(346m AM11:55)は砦跡の高みに大柿氏のプレート(2000.4.9)があり。 此れより薮中に続くテープや赤い布をマークしながら下ります。
主郭から東曲輪:黒井盆地を覆う霧海の多田・高谷山方面

掘割のような峠は黒井・大野へ出る(大野峠!PM12:10)稜線に沿ってやがて4等3角点ヨコガワ峰363m(PM12:30)は縦走路の途中にある。此処から先のコースは尾根が広く踏跡も薄くて迷い易いがテープ類により 五大山への方向は見定められる。ヨコガワ峰附近では然程気にもならなかったが 五大山手前のピーク付近では靴も埋まる程(15cm)になり、雪道で随分長く感じた行程だったが 五大山(569m PM1:20)に到着。
白毫寺心字池の屋根付き太鼓橋

愛宕山も薄っすら化粧し 雪を纏った松ノ枝先には辿ってきた黒井城・千丈寺山が見える。下山は愛宕山側へ少し降ればエルム市島(キャンプ場 )への道はあるが帰路が遠くなるので直接尾根通しに330ピークを経て白毫寺に至る氷上郡猟友会が整備した (平成5年)道を下り戸坂から城山へ登り直して興禅寺へ下るつもり。ほぼ尾根筋を 白毫寺の薬師堂の西に出てくる御堂の軒には寺僧が利用されていたものか駕籠が吊ってある (PM2:00)。
白毫寺の山号五大山と五大山(中央右)と東城館(右端)


五大山白毫寺(天台宗・本尊:薬師如来)は文武天皇の慶運2年(705)法道仙人開基を伝え丹波七福神(布袋尊)・丹波古刹十五ヶ寺霊場の第10番。 太鼓橋と個人宅の庭の藤なのに白毫寺の九尺藤として知られ、藤の開花時期4下から5上旬にかけて観光で見に来られる人が多い。石庭(枯山水庭園で陰陽の庭)や伝教大師作と伝えられる涅槃図 、 恵心僧都の筆になるという三尊如来の掛軸、長享2年 (1488)銘のある鰐口 ・斉藤利三(お福・後の春日局の父)直筆の下知状・県指定の重要文化財に寺宝の五種鈴と南北朝期:貞治4年(1365)造立の領主赤松貞範の宝篋印塔(昭和45年3月30日指定)がある。
東城館(白毫寺城)南郭の土橋付堀切

建武の新政には鎌倉で挙兵した足利尊氏・直義の傘下に加わって北条勢との合戦に活躍した赤松筑前守貞範(赤松円心則村の二男)は建武2年(1335)足利尊氏より丹波国春日部庄や 播磨国伊川庄等 20余の所領を与えられ建武4年(1337)その居城を猪ノ口山に定めて城を築き応仁の乱後 ・荻野氏に変わるまで約120年の間、春日部荘を領有しています。美和の白毫寺にある貞治4年の宝篋印塔:基壇銘に「貞治3年…春日部庄当郡領主播州赤松筑前…惣庄政所赤松得平太夫法橋源詮」とあるが、貞範は殆どを京都に在って 政務に就き播磨に居ることが多く、黒井城代には播州安田庄の得平氏
白毫寺・赤松貞範の宝篋印塔 H13.02.17

(多可町・霞ヶ城)を留めた様。貞範は応安7年(1374)11月戦乱の時代に珍しく 69歳で死去しているので父 :円心則村の供養塔と推察できます。赤松氏子孫は今も 此の地に残っているとも云われます。凝灰岩製で乱石積み土壇上に台石・塔身・笠・相輪が良好な形で残る。細部手法は精緻で、特に笠石部において隅飾りの輪郭内部上端に 浅い小円孔を穿ち九輪上端から垂飾を固定した痕跡が見られるのは 類例が少なく、側面を八角に造った伏鉢も珍しいといわれます。寺を後に集落内を辿る。黒井城址が右に姿を見せ る頃 真っ直ぐ田畑を割って、城址へ向う農道を進むと大きな木の案内柱が建っている(PM2:23)。 「右・戸坂不動尊の滝400m南・保月城祉 1.5km」農道直進して記念石碑を右に少し進むと道は切れる。平坦地の左手奥からよく踏まれた古い山道が続く。
黒井城眼下の霧海

この道は千丈寺山への尾根取り付き鞍部に続き西ノ丸へは約8分位で到着した(PM2:50)。 北面に残っていた雪も消えた本丸 (保月城祉)へも西ノ丸から8分、興禅寺上の駐車場(PM3:15)からは黒井城の築かれた猪ノ口山の東・西・北に延びる尾根筋に城砦を築いて全山を要塞化した黒井の城砦群を訪ねます。
(現地兵庫県教育委員会 案内説明板を参照)


黒井城下を迷!!散策
黒井は城下町の体裁を整えているが近世の城下町にみる堀や坂・寺名の町や鍛冶屋・鉄砲・徒 ・侍・大手町・市場等の商家や武家屋敷に関する名前の町名はない。春日高校前の行者山(此処にも黒井城南西末端の 位置にあって、城下町と直下を通る街道監視の 行者砦があった)からは入り組んで 鋭角に屈曲する細い道が通り、ほぼクランクする角ごとに杉の下・西

黒井城大手筋・高札場があった

・中・東町と続いて興禅寺山門前を通り代官所跡 【古い資料には興禅寺東南下・八幡宮付近とされていた様ですが、最近:新亀岡市史編纂にあたり、御役所(亀岡藩氷上郡代官所)や 牢屋・寺社名を記した黒井絵図(楠匡央家文書)が見つかり現 :黒井小学校プール付近と推定されています】〜小山町〜芝町の 「黒井東」交差点に出てくる。JR黒井駅北側を七日町側へ抜けて R175号線と合流する直線道路と比較して、僅かの距離での町並の落差に驚かされるでしょう。古い時代の城下町なんですね。
本町の大手筋から黒井城を遠望

江戸時代に入って以降:藩政下で発展してきた城下町とは異にして中世城下町の面影を残す城下町は非常に少ないようです。 山裾に拡がる各町内に際立って境界となる溝や段差も無く、山に向かっても差ほど斜面が急な所もありません。南北に走る新町や黒井城の大手筋となる本町筋にも、愛宕社や観音か大師を祀る祠が祀られており、屈曲しながら東西に延びて興禅寺前を通る街道筋に出ます。街道筋と交差して直進出来る道は寺や田畑で大概いは行き止まり。
興禅寺山門から興禅寺と黒井城遠望

本町からの大手筋が交差する保育所角には「黒井城・興禅寺」への 案内板があり、小学校と興禅寺の西側を抜けて登山口の駐車場へ通じます。此処には高札場が有ったようです。通りの西端が右へ・左へと 鋭角に曲がる角に、コンクリート囲いで給水ポンプの有る井戸が有り、石碑・石仏・祠の建つ一角がある。正面奥の行者山南麓に広く開けた町所有管理の空地がある。

JR黒井駅前:春日局の幼名”お福”像


代常住寺の跡だろうか?、其れなら井戸は街道往来の人が利用して黒井三名水の一つとされる 井戸なのですが…?。街道は行者山南麓から興禅寺山門前〜官所前〜ねこ山(根小屋)の北側と黒井城から東南へ突き出した尾根先端の峰:松明山(山名からは此処にも兵主西砦・行者砦と同様に砦が在ったと思えます)の山裾 間を抜け、的場坂(下記「近畿の山城」黒井城の最下部に画像添付)を七日市側へ抜けた福知山 ・宮津街道が通っています。慶応4年(1868)陣所を篠山 :福住から柏原に移し、さらに福知山に向かう山陰鎮撫隊総督の西園寺公望も石生から新才を通り兵主神社に出て的場坂を越えています。
行者山裾の井戸(黒井三名水の一?)

現在のR175号沿いは黒井川の川筋で黒井駅北側のスーパや商店が並ぶ直線道路も 泥田が拡がっていたのでしょう。興禅寺前の代官所跡を此の直線道路が通る黒井東交差点への道も、細い何度か直角に折れ曲がる通りにも、街道往来の人や牛馬に水を与えた井戸が別々に有って馬繋ぎの場所が広くとられていたという。 この東方に独立した低丘陵がある。頂部に墓地やお堂が見える。東南角にも急斜面の階段上に 小社が祀られています。此れが根小屋山(ねこ山)で城兵等の宿舎として・また陣所ともなったところ。足利尊氏より丹波国春日部庄に所領を与えられた播磨の赤松円心則村にとって京都に最も近い位置となる丹波の領地の整備には、 なにかと力を注ぎ充実を図ったと思われます。
黒井東交差点から「ねこ山」と「松明山」

南北朝期初期:建武4年(1337)その居城を猪ノ口山に定めて城を築いた円心則村の二男:貞範から顕則 ・貞村へと5代、約120年にわたって赤松氏が領有していた春日部荘は戦国時代:応仁の乱後に は豪族:荻野氏の居城となっています。織田信長による天下布武の号令に丹波攻略の主将 :明智光秀により 再三の攻撃にも耐えたが 羽柴秀吉の援軍による 大勢力を前に終に落城した天正7年(1579)其の戦後処理にあたった光秀の重臣斎藤利三
黒井城二ノ丸から本ノ丸への石段虎口

【春日局(幼名:おふく)が 生まれ!?育った所 三代将軍家光の乳母 )の父】が黒井城主の下館を陣屋(居館・斎藤屋敷)として入り、黒井城落城後の戦後処理や領内統治に務めたところその後秀吉の家臣:堀尾茂助吉晴が城主となり天正13年(1585) 佐和山城に移って以後は代官領となり、関ヶ原の合戦後の徳川幕府下となった慶長6年(1601)には川勝秀氏が入城して 城の整備にあたっています。【興禅寺は斎藤屋敷跡に(寺屋敷<現:興禅寺の南下約150m附近に在った誓願寺(真言宗)を寛永年間<1624-44>現在地の下館跡に 興禅寺(曹洞宗)として遷された】黒井も亀山藩が旧氷上郡内の城代として権田小三郎を置いて一帯を支配したとされ、
黒井城東曲輪の石垣と三ノ丸の櫓台石垣

正保年間(1644-48)以降も亀山藩の氷上郡内12000石領地の総代官所が置かれ、明治維新(廃藩置県)まで存続したという。相次ぐ戦乱のなか・落城した敗者を記録した資料が 乏しいうえに
安政5年(1858)には旧家の多かった中心部を焼き尽くした黒井の大火によって貴重な資料の殆どが焼失したと云われます。【亀山藩氷上郡代官所跡は黒井絵図(楠匡央家文書)が見つかったことから 黒井小学校のプール付近とわかった】


黒井城 黒井城を巡る城砦群

黒井城(保月城・保築城)
  国指定史跡  猪ノ口山(天神山) 357m  丹波市春日町黒井

JR黒井駅の北面に平坦な山頂部に石垣を遺す城山は猪ノ口山 (357m)で「丹波の赤鬼」と呼ばれた赤井(荻野)悪右衛門直政の保月城です。 山垣城(足立左衛門尉遠政)はじめ 周辺の多くの丹波の城は 織田信長の丹波攻めで明智光秀・羽柴秀長軍等により天正7年(1579)落城、堅城を誇り剛勇の赤井一族の保月城 (黒井城)も 同年8月19日落城しました。

保月城ニノ丸南面の高石垣


猪ノ口山から東西に延びる尾根に太鼓の段・石踏の段 ・東曲輪 ・四ノ丸から本ノ丸・西曲輪まで階段状に曲輪を連ねる連郭式城郭です。中心部が石積み跡もそのままに焼け落ち砕けた瓦片と共に落城時の姿を残しています。城址に立つと本丸より東南に東山砦、配水施設と 旧丹後街道が通じていた切通し状の的場坂を経て続く 尾根上には,単郭のマウンドが有るだけの的場砦、 次の緩やかな峰端の東下への尾根を降れば土橋を伴うが低い(高さ1m程)堀切と北側に帯曲輪らしい平坦地を残す多田砦
二の丸から:本丸南東角の石段虎口と天守台祖形?の石垣・右手に土橋付堀切

主尾根の戻れば暫くで 空掘を分ける土橋を渡り土塁囲みの平入り虎口を抜け東出丸の主曲輪に着く。幅広い土塁の角からは黒頭峰の横に特異な山容の三尾山(三尾城)を望む。曲輪内に続き尾根筋の土塁道状を過ぎると三叉路で、正面尾根を直登して本城三の丸東曲輪に至る道、左手に太鼓の段へ、右手の山腹を捲き気味に進む山道は北の丸に向かいます。 太鼓の段へは踏み跡程度の道ですが椿の林を抜けて不安定な山腹の急斜面をトラバースして行きます。
保月城南面帯曲輪の石積み

其の中程から谷筋へ下ると水の手曲輪があるが檄急斜面に支えとなる枝木も少ない下降は山慣れないと危険かも…。本城を”石の城”とすれば西の丸は”土の城”で本城の西の最大規模の防御線だが、 また本城の”詰め城”的な性格をも備えた別郭で、此処から東北の尾根通しに 龍ヶ鼻砦〜百間馬場跡、西への主尾根を辿れば千丈寺砦 (千丈寺山)が三方からの侵攻に対する護りを固めている。
保月城本丸から西(五台山方面)を望む

周辺に支城(三尾・野村・友政・朝日・鹿集)を一望、呼応して敵に備えています。保月城は南北朝期の建武2年(1335)赤松筑前守貞範 (赤松円心則村の二男)が箱根:竹ノ下の戦いに勇戦して新田義貞軍を破った戦功により、 足利尊氏より丹波国・春日部荘を与えられ建武4年 (1337)猪ノ口山山頂に簡素な城を築いたことに始まるといわれます。貞範が美作守護となり 播磨に移った後も春日部荘は顕則・貞村と5代にわたり約120年間赤松氏が領有したが応仁の乱後には豪族・荻野氏の居城となっていた。
(東出丸⇔太鼓の段)にある水の手曲輪!


後屋城赤井時家の二男才丸(荻野<赤井>悪右衛門直政の幼名)は 夜な夜な現れ人々を 悩ましている怪物を退治しています。怪物とは大きな貂(テン肉食動物)でその毛皮は貴重品です。この武勇伝には後日談があり天正6年(1578)羽柴秀吉の家臣で黒井開城の降伏勧告の使者となった脇坂(甚内)安治(後の龍野城主)の勇気と厚意に此の家宝の毛皮を与えた話は、司馬遼太郎の短編小説[貂の皮]に 取り上げられている。天文11年(1542)朝日城の荻野 18人衆の盟主として迎えられた才丸は、天文23年(1554)1月2日の正月祝いに登城した時、
二の丸虎口から本丸を望む

城主荻野伊予守秋清(才丸の叔父)を殺害して城主となり荻野(赤井)悪右衛門直政と名乗りました。は当時 = 荒々しく強い・気性の激しいことを 表わす言葉としてつかわれています。天文〜弘治年間(1532-1558)にかけ城郭の全面的な補修と大改築を請けて、現在のような規模と堅固さを 誇る城郭にするとともに八上城(波多野秀治)霧山城(波多野宗長) ・高見城(赤井忠家)等と手を結んで勢力を拡げ「丹波の赤鬼」の異名で敵方には恐れられていた荻野直正
西の丸櫓台の土塁・此の西下に大堀切が有る

氷上・天田・何鹿の 奥丹波三郡を領していたが天正期はじめ黒井城を本拠に織田信長の丹波攻略に対抗して 反織田勢力の一翼を担い、武田勝頼・石山本願寺・毛利氏(吉川元春)らと意を通じています。興禅寺裏手の登山口から野面積み石垣で囲まれた 山頂本城に向っては、先ず中腹の三段曲輪・東面に太鼓の段 ・東出丸・本丸直下南面に石踏みの段 (山門と顕彰碑が建つ)を経て虎口を抜けると石積みの東曲輪・四の丸・三の丸・二の丸から本丸へ、

保月城本ノ丸の虎口

三の丸と本丸間は自然の露岩の上に石積みで補強された空堀を経て南面には 帯曲輪が石垣を積み上げた本丸下を西曲輪へ延びています。本丸に至る尾根筋には曲輪・土塁・空掘り・竪堀等の防禦施設が残され周囲約10kmに及ぶ 猪ノ口山全体が巨大な要塞となっている、勇壮な中世 ・戦国期の丹波の豪族・赤井 (荻野)の山城は落城後も、 そのまま残されている。織田信長が全国平定で兵庫では播磨・但馬・丹波攻めに乗り出した頃、 丹波攻めの総大将・明智光秀に対する策謀
二ノ丸から本ノ丸への石段虎口:東南角の方形石積部は天守台の祖形とも!!

赤井の呼び込み軍法は明智軍に降伏したように見せかけて丹波に誘き出して、明智方の味方と思わせておいて波多野軍と赤井方の軍で挟み撃ちにする戦法。 このとき味方と思わせ保月城攻略の計画にのっていた八上城主・波多野秀治は後、 井上靖「戦国無頼」等で有名になった戦闘の中で、 同じ様な策略で光秀に捕らえられています。明智軍一回目の保月城攻撃は天正3年(1575)9月13日、亀岡〜篠山〜鐘ヶ坂を越え柏原・八幡山に本陣を構えます。
保月城・東曲輪と石積みのと三ノ丸櫓台

19日の総攻撃では赤井の戦法により圧勝するが 天正6年(1578)3月9日直政は病死しています。直政の病没後は子の直家継ぎ、軍代として叔父(直正の弟)の三尾城主 赤井幸家(直信)を立てていたが、光秀も直政の死を知り赤井幸家も但馬へ出陣していることを知り宮津にいる弟・明智左馬介光春に保月城攻撃を命じます。
太鼓の段からの黒井城下(多田方面)

二回目の保月城攻撃の前哨戦で余田城友政城・鹿集城・日内・岩倉の各城を落し 丹波小富士(小多利)に布陣し光秀からの命令を待つ。丹波富士では光秀の一夜城の伝承もありますので別項で…。赤井幸家も報告を受け但馬より帰り光秀軍も待ち伏せします。情報戦でも幸家が勝っていたようで逆に伏兵に襲い掛かり朝霧の中を城に入ります。
保月城・主郭東の空掘と土橋

12月24日いよいよ決戦。ここでは予定の退却しますが埋めていた地雷を爆発させ 動揺する明智軍に赤井の予備軍が襲い掛かり退却させたが、二度の失敗で天正7年(1579)の黒井城攻めは大軍で掛かります。京都から明智光秀 ・但馬からは羽柴秀長、摂津・播磨からは丹羽長秀軍で挟み撃ち。この時の攻撃で山垣・栗須野・高見・霧山・玉巻・岩屋等々が落城していきます。
本の丸東端の土橋付堀切(霧海に浮かぶ親不知等福知山市境界の山)

天正7年8月19日明け方から始まった戦いは 明智軍 6千に対し赤井軍1700余り城に残っていた軍勢は僅か、柏原方面へ敵を追っていた赤井幸家らが引き返した時は既に城は 燃え上がる炎のなかにありました。黒井城の戦後統治にあたっては光秀の重臣斎藤内蔵助利三が管理することとなり拡張・整備して今日遺る規模にしたといわれます。
四ノ丸の石段虎口から三ノ丸東切岸の石垣

その後堀尾茂助吉晴が入り黒井城主となり天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」では 一揆に呼応した勢力に赤井時直がいて黒井城・余田城を篭城拠点としており、幕末まで存続した赤井一族の功労者と云われています。 堀尾吉晴が天正13年(1585)佐和山城に移って以後黒井周辺は細分化され代官領となります。関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)には川勝秀氏が 入城して改修した!?戦国時代の山城遺構を残す貴重な存在です。丹波を平定した明智光秀の重臣 ・斉藤利三が城主となり、其の下館とした興禅寺から訪城するのが一般的です。
的場坂 (旧丹後宮津街道)の一ノ木戸

八上城(篠山市)・八木城 (船井郡)と 共に丹波三大山城の一つ保月城へは登山口駐車場から右手の石段を登り三段曲輪〜太鼓の段から本城南側では一番広い曲輪(石踏の段)に至るコースと、左手正面の谷沿いから進み直接・石踏の段に至り 本城の東曲輪の登り着くコースが整備されています。興禅寺は利三の娘で後に三代将軍徳川家光の乳母・春日局となった・お福が育った寺として知られます。
R175号・七日市の東山砦(正面)と的場砦(標識下辺り)

千丈寺(赤井家墓所)の宝篋印塔:お福井戸は「お福の産湯」…と伝えるが?其の北・興禅寺裏山墓地の参道には江戸時代から明治時代にかけて元・千丈寺山(千丈寺砦)西山麓にあった”千流山千丈寺” 【(臨済宗妙心寺末)無住寺だが観音像は行基作を伝え、旧氷上郡霊場 第29番札所。赤井氏の祈願所で赤井家一族有縁の墓所でもあった】 より移された興禅寺裏:二基の宝篋印塔があり以前より荻野(赤井)直正夫妻の供養塔と伝えられていたが 調査により室町時代中期・嘉吉3年(1443)と文安5年(1448)の銘が有ることから、
千丈寺の町指定(左)と県指定 (右の折れているが相輪・宝珠完存)宝篋印塔

直正夫妻伝承は消えるが一基には法華経五千部とあり・追善供養の経塚らしく共に春日町指定 (昭和51年12月)だが丹波市文化財としては未定?。 一基は九輪が倒れて途中で割れたのか?上部の請花や宝珠が後に残されている。 千丈寺の赤井家墓所には興禅寺裏に移された二基の宝篋印塔とは別に三基の宝篋印塔・五輪塔・石仏群が残る。うちの一基が県指定(昭和49年3月)の宝篋印塔で、総高1.24m・相輪(九輪)を載せるが途中で割れているのが惜しまれる。
千丈寺の宝篋印塔・五輪塔・石仏群

折れた九輪上部から請花・宝珠まで遺されており、 台石は上端反り花と対応させて複弁の請花にしているのは県下でも数例が確認されているのみで貴重という。四面に輪郭をとり格狭間を入れ、軸石の各面には蓮華座付きの月輪内に金剛界四仏の種子が彫られている。造立年代は銘がなく明らかではないが、細部の手法から室町時代初期を下らないと 推定されています。此の宝篋印塔の西並び・五輪塔を挟んで高さ約 65pの宝篋印塔が立つ。
千流山千丈寺;赤井氏の祈願所・裏手に赤井家墓所

相輪が途中(6-7輪目)で欠損しているが台石の格狭間・反花座・軸石の月輪・種子の彫りは明瞭。県指定と比較して台石・軸石・笠石等の比率が少し異なるようです。笠石軒下の請花がないが細部の手法から見て、 造立年代は少し下るものと推定されており春日町指定文化財だが此れも丹波市となってからは未調査なのか市文化財指定は未定の様?。
【現地:千丈寺の石造宝篋印塔の案内説明板 平性年11月 県教育委員会を参照】
  丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system