栗栖〜吼子尾山 小室城 栗栖城 /沼城〜山田〜南御油 栗栖野城 西倉城(仮称)
丹波市 (五万図=福知山)
T福祉交流センタ〜栗栖(450m)〜胎蔵寺〜吼子尾山  H13.4.28
U沼城〜点名:沼〜点名:山田〜牛ノ尾(点名:南御油) H14.8.28
栗住野の宝林寺から望む吼子尾山

近畿の山城:小室城(東芦田城) 栗住野城 中殿屋敷と西倉城(仮称)沼城
丹波のお話 栗住野の祖父祖父堂
:胎蔵寺の「方便の水」・東芦田の少将石は”青垣の伝説″に移転した

吼子尾山は城山・城ヶ嶽・吼子尾の峯・城が丸とも呼ばれた山城で古来雨乞の山であったとも…鎌倉時代・ 保元3年(1158)信州は芦田庄小室から来住の芦田八郎金猶(かねなお)です。丹波市内でも最も古い時代の城です。また登山口となる胎蔵寺は山号を吼子尾山といい養老2年(718)法道仙人開基と伝えられ、
小室城主郭の石垣
 
仙人が山中で赤子の泣き声が聞こえるのを不審におもい、そこを掘ったところ小さな黄金の仏像が見つかり、 この場所こそ法域と定めて一堂を建て金仏を安置、後に薬師如来を造って胎内に金仏を納めたところからが寺名の由縁。 この時に発見された湧き水が萬病に効くといわれ、特に「イボ」には特攻薬で「いぼとりの方便水」と呼ばれています。周辺の谷を挟んで多くの石積みが平坦段があり坊舎35を数えて賑わった大寺院の面影も残しています。
旧胎蔵寺本堂始め壮大な石垣遺構が諸処に残る

小さな山門の横の林道は霊水 「方便水」まで続いている。正面に吼子尾山東峰が顔を覗かせています。胎蔵寺から芦田氏本拠城の小室城(東芦田城)へ寄った後県道109号を県道7号の戻る。 此の分岐点沼地区の西側に迫る丘陵が県道7号に其の先端を落としています。今は北近畿自動車道が通じ頭上の丘陵部をトンネルで抜けているがトンネル上の尾根筋に沼城がある。
岩尾根・岩壁に護られる要害地の沼城

さらに氷上町・青垣町に境する丘陵部の北側に拡がる田園風景の中には 丹波には珍しい平城の栗住野城がある。いずれも本拠城の小室城と共に明智光秀の「丹波攻め」に滅んだ芦田一族の城でした。 氷上町に接する沼城は芦田・足立氏と黒井城の荻野・赤井氏による香良合戦のあとは赤井・荻野一族の持城となっていたようです。


福祉交流センタ〜小谷〜栗栖〜 胎蔵寺〜吼子尾山・小室城   2001.04.28

427号線から北方に芦田川に沿って穴裏峠を経て福知山へ抜ける道があり、東に栗栖と西に吼子尾 (くずお)山の山並みが続きます。国道427号線から右折して東福田の橋を渡れば田園風景が拡がり真っ直ぐの道が続きます。 福祉交流センタ「もくせい」前の広い駐車場をお借りして出発します。先に栗栖450mへ向かい少し戻り気味に山裾を南へ民家に沿って延びる道を栗栖からの尾根末端を廻り込んで谷中の小さな集落に入っていきます。
胎蔵寺本堂前・法道仙人の石像

名前通りの小谷(10数軒の集落)で林道は直ぐ猪除けゲートでふさがれその先は小さな墓地と無人の 小さなお堂の勧照庵(寺)に突き当たリます。右手谷寄りの山道に沿っていく植林監視用の歩きやすく楽な道なのだが尾根筋近くで立ち消えてしまいます!。尾根手前からは展望が拡がり五台山・安全山〜岩屋山・大蓑山とその奥に 粟鹿山が望まれます。この山道で登行は随分助かりました。荒れて倒木等歩き辛い尾根道ですが古い踏み跡は続きます。 しかしこの先殆ど展望には恵まれないが西東へ延びている主尾根と合流するころからは、踏跡不明瞭ながら潅木の中の静かな山歩きが楽しめる。
吼子尾山(小室城本丸)から旧佐治川を望む

出来ればクロイシ山〜鴨内峠〜五台山へと繋いで歩いて見たかったので栗栖(4等三角点 450m PM1:50)を素通りしてドンドン先へ行ってみます。 栗栖から傾斜は少ないが登り一辺倒のコースです。この先への状態が掴めたので次回のトレースを楽しみに引き返します。栗栖からは尾根を少し辿って見るが明確な道も無く左の谷を目指して急斜面を下って谷筋へ延びてくる林道に (車が入れるほどではありません)降り立る(PM2:15)。林道は東芦田の集落内の道に出てきますが 此処は旧街道・石標や石仏を角々でみかける 。薬師堂と石仏を祀る祠で橋を渡れば穴裏峠から福知山へ通じる車道で100m程南へ下れば「ふれあいの里もくせい」だが、逆に北へ150m程進んだ吼子尾山胎蔵寺が登山口。
旧胎蔵寺本堂!!


大きな釜に「ごりんかん」と書かれたレストランの看板は、此処に鎌倉期の宝筺印塔があるのですが 五輪塔と誤って伝えられ為「ごりんさん」と呼ばれていた名残です。小室谷川に沿っての道は大きな二体の地蔵尊が祀られるお堂を経て山門に至ります。 山門前には文政XX年等古い磨耗して姿も定かでない石仏が並ぶ。その先の竹薮に囲まれた数段の石段を登り 胎蔵寺の小さな山門をくぐると仁王像と顎鬚の目立つ法道仙人の石像が迎えてくれます。山門右手に延びる車道は霊水「方便水」への参道となっていて稲荷社や古い石標の埋もれる坂道を登っていきます。
旧胎蔵寺本堂!!奥の院石垣と殆ど崩れている石段参


前方に大きな黒々とした露岩と 高い石垣の前には大きな銀杏の木が見えてきます。此処が法道仙人が見つけた霊水「方便水」の祠が在ります。石垣の上部は随分と広い平坦地。此処が昔は坊舎35を数え賑わった頃の本堂跡でしょう。 これから先にも谷の左右に幾つもの石積みを見かけ大寺院の片鱗が窺えます。山道が左へ延びていくところに登山案内板があり正面を指しています。最後の立派な石積みの残る最奥の此処には中央正面に堂宇の礎石が残っており本尊・薬師如来を祀ったお堂のようです。丹波では最古級の鎌倉期・南北朝期の山城も明智の丹波攻めの天正期まで機能しており、 これらの寺跡が居住等に利用されていたかもしれません。
小室城址の有る吼子尾山(胎蔵寺大手道から)

当然此処から山城部へ向う大手登城口のはずです。しかしこの先に標識等をみかけない。細い踏み跡は続くが傾斜は増すばかり・とうとう踏み跡も見失うが、藪漕ぎ不要の潅木帯だが手足はフル稼働。石垣手前の広い道を谷筋に沿っていくのが正解だったと思われます。 ミスコースの様で手掛かりが無ければズリ落ちてしまいそうですが尾根筋へはすぐ乗れました(PM2:45)。本峰と東峰の間を詰め登ったようで先ず東峰へ寄ってみる。山頂に立つと尾根の下方に二段の曲輪跡がはっきり認められます。展望皆無なので本峰に向かうべく引き返します。単調な短い尾根ですが 山頂真近で堅堀?を越して棘の木が多い5〜6m程の土塁を登ります。 赤土と小石が並んだように詰まった様子が何ヶ所か見えますが石積みは有りません。
旧胎蔵寺奥の院の石垣と礎石

此処が吼子尾山山頂(519m 点名:沼村 3等三角点 PM3:20)で四方を鉄製柱で組んだ櫓がありますが 梯子は殆ど朽ちており、足を踏み抜かないように騙し騙し登ってみたが展望は余り変わらない。横木は未だ大丈夫だが梯子は危険なくらい用を成していません。 釘や針金も切れ折れそうなので登るのはよしましょう!!??。東〜南面への展望が拡がり素晴らしい角度で五台山・鷹取山・愛宕山が望める。 特に五台山が三角型に雄大に裾を広げる様は絶景です。此処に立てば先ほどの栗栖からクロイシ山へのスカイラインは是非トレースしなければとの思いが新たになります。これらの山々が600m程度の低山とは思えないスケールで迫ってきます。 少し山頂周辺を探索します。
西尾根露岩帯上部の堀切・連郭(5〜6段か?)を越えて小室城主郭に着く

山頂は三方を土塁で囲んだ本丸です。北方の尾根伝いには広い曲輪跡が4〜5段あるが胎蔵寺からの尾根沿いの西尾根にも、東尾根には少し離れた位置から数段続く曲輪群があり、夫々が二の丸・三の丸として機能したのでしょうか。 此れから下山ルートにとる西方の尾根筋には多くの小さな曲輪が連続して見えます。下り始めて幾つかの曲輪跡を経て急に露岩が目立ってくる箇所があり急斜部分は堀切を越えてしばらくは露岩帯が続きます。緩斜面となり殆ど水平に近い馬駆け場とも呼べそうなところを越すと案内板を随所にみるが、いつのまにか案内板を見かけなくなった。尾根を忠実に辿っているつもりのコースを 途中左折した様だが全然気が付きません。
小室城本ノ丸南下部の石垣

しかし尾根筋を辿ったおかげで吼子尾山の両ピークの写真が撮れた。 この位置辺りから踏み跡も急にあやしくなり消えてしまいます。左の谷よりを外さないように急傾斜を木々に掴まりながら下り続けて稲荷社の屋根の見えるところへ降りて来て左へトラバースしながら「方便水」への参道へ出てきた(PM4:00)。 芦田川を挟んで対峙する栗栖と吼子尾山二つの三角点を結んで周回出来た満足感と次回への楽しみなコースを土産に福祉センター駐車場へ戻ります(PM4:08)。



U 沼城〜点名:沼〜点名:山田〜牛ノ尾(点名:南御油)   H14.8.28

県道7号(青垣柏原線)と福知山方面へ向う県道109号の分岐を過ぎると氷上町から青垣町に入り栗住野の田園風景が拡がり祖父祖父堂の案内標が何箇所か立てられています。ほそい集落内へ入っていくと栗栖野公民館前に”首塚”其の先には広い石段の参道と其の先に山門と 白壁を廻らした石垣の豪壮な奇秀山宝林寺があり、境内に祖父祖父堂が建つ。此処には芦田一族の丹波では珍しい平城の栗住野城があった。
沼城〜点名:沼への岩稜尾根から五台山〜鷹取山・井階山の遠望


宝林寺境内からは吼子尾山や正面には沼城から点名:沼〜点名:山田へと段々にピークを連ねて 高さを増してゆく稜線を望みます。今日はこの尾根の末端付近にある沼城から尾根伝いに水山〜カヤマチ山や安全山への周回ルートを模索し試登してみる。城の縄張りは点名:山田から往路を引き返し後でゆっくり調べる心算にしていたがCa380m付近の分岐尾根付近では展望が効かないため”ホワイトアウト”ならぬ”グリーンアウト”?に陥って彷徨し 結果思わぬ所へ降りてしまいます。
点名:山田近くの”山抜け”から安全山を望む

ピークの山腹を捲くように続く明瞭な山道があり尾根を外してしまい覚えが有る様な・無い様な所を2度ばかり往復し、暑さと疲れで諦めて途中リタイヤして降ったのが井中地区でした。方向違いも甚だしくお話に もなりません。皆さんは地図はウル覚えではなく持参し・その場その場で現在地を確認しながらトレースしてください。方向を誤った御蔭で??牛の尾 (4等三角点 点名:南御油302m)を通過したが植林の中の城域からは展望が効かない。
沼城西北の広い曲輪:虎口

抜け出た先からは点名(266m 4等三角点)へと岩稜が続き、南(氷上町側)は切れ落ちた断崖状が 続き露岩の展望箇所も多く小室城(芦田城・東芦田城)のある吼子尾山や大きな山容を見せる五台山から鋭い先鋒の鷹取山 -五台山に向う位階山からの尾根を望み、安全山から水山への尾根を始終・左手に見ながら進む登山には快適ルートです。 点名:沼〜点名:山田を経て安全山への周回コースや水山・カヤマチ山へのロングコースにも一部藪っぽい箇所は有っても踏み跡は繋がっています。
西遊歩道コース・稜線直下にある鉱口

点名:山田側からの逆走は386mピークからの分岐付近が要注意。私は尾根を取り違えて牛の尾(点名:南御油4等)から井中地区へとトンデモないオフコース。御油からは句碑の立ち並ぶ円通寺( 高源寺石龕寺と共に丹波の紅葉三山)側の【近畿自然歩道】を沼地区に戻ります。沼地区から沼城跡への遊歩コースから稜線上の行者堂跡に出る手前付近には数箇所に鉱口が開き、入口から直ぐ下方や左右には身体がやっと入る程度の狭い坑道が、 複雑に入り組んで内部で繋がったり別れたり
真下・左右からも枝分かれする”蟻の巣”状の坑道

蟻の巣状 ・迷路のような坑道の一部が見える。今は東端の廃止林道?経由の遊歩道も余り歩く人もいない様子ですが、コースは行者堂跡から露岩の急な尾根伝いに”行者さまの岩場”を経て沼城に通じます。 後日・改めてコーストレースするつもりですので詳細は其れまで…お預けです…このコース前半は下記「近畿の山城」の沼城を参照下さい。



栗住野の"祖父祖父堂"


栗住野(芦田)の祖父祖父堂 青垣町栗住野

R427号線の丹波少年自然の家への分岐手前 ・西芦田の田園風景の拡がる辺り、左側に「首塚・祖父祖父堂」跡の標識を見ます。栗住野には東芦田城(小室城)と共に滅んだ栗住野城(二重の堀に囲まれた丹波では 珍しい平城)があり城主栗住野治朝(はるとも)も芦田一族です。東芦田城の井上三郎家光から5代目の芦田持氏が栗住野に移り久留栖野を名のります。 共に本家・分家の関係をハッキリしていて、いざという時には一体となって事にあたっていたでしょう。
祖父祖父堂

東芦田城主:芦田金猶の「矢塚」が栗住野城の近くにあり両家の深い関係がわかります。栗住野城主の一族・芦田(栗栖野)五郎左衛門治朝・小兵衛兄弟が、柏原八幡山に陣を置く明智光秀に呼び出され、調べられたが許されて村へ帰る途中、 どうも其の様子がおかしいので暫く隠れ住んだという山中に「左衛門畑」の地名が残り「小兵衛谷」「隠れ谷」「小兵衛隠れ谷」と呼ばれ、今もその名が残っているそうです。 「丹波志」の他に・祖父祖父堂の案内説明板には下記の話がある。「南無阿弥陀仏…」声をひそめて読経する宝林寺の奥まった一室に村の年寄り達が一人二人と人目を忍んで集まり、明智光秀に謀殺されて栗住野川原に晒し首となった 足立主人之介以下 36人の成仏・冥福を祈っていた。天正7年(1579)5月・栗住野落城後、明智光秀は城の関係者を調べ殺したり他国へ追放していたが…。
栗住野36人塚(首塚)
「大軍の大将ともあろう者が、多寡が30や40の地侍に恐れをなして騙まし討ちを仕掛けるとは…」 「仔細を糺(ただ)しに行った僧侶まで刃に掛けるとは、仏をわきまえぬ鬼畜の仕業…」と口々に恨みをぶちまけていました。黒井城(保月城)進攻の為、柏原八幡山に陣を構えた明智日向守光秀が栗住野城に拠った栗栖野・西芦田・口塩久の地侍36人を 柏原陣屋へ引き立て、帰順を奨めたが聞き入れないと知るや、和睦と称して饗宴を装って八幡の森に招致し、毒酒を盛って謀殺してしまう。様子がおかしいと不安におののく村人を代表して、仔細を尋ねに行った極楽寺の和尚も殺害されてしまいます。 これらの首を竹槍に突き刺して栗住野川原に晒されたが、 村人達は其の痛ましさに胸を痛め、密かに亡骸を宝林寺麓の現在:栗栖野公民館の前庭に埋め「首塚」をつくり菩提を弔い其の冥福を祈ったといわれます。首塚には此の通説の他 ・弘治元年(1555)氷上町の油良や桟敷の芦田氏領地に接する油良坂・天王坂付近を最前線として郡内(丹波市)で起こった最も激烈を極めた香良合戦
【下記香良合戦の項を参照願います】に赤井氏方の奇襲を受け尽く戦死した芦田氏・足立氏の両一族36人を祀ったものとの別説もある。
栗栖野の宝林寺と城山?(西山)

慶長6年(1601)傍らに一堂を建て 祖父祖父堂と呼ばれてきました。安政5年(1858)僧・卓龍がお堂を再建したと云い毎年大施餓鬼・法要を営み続けてきました。「祖父祖父堂」は集会場建設の為、昭和61年(1986)秋・里の人々の浄財により改修され、 奇秀山寳林寺(曹洞宗)に移設されましたが、お堂と首塚の苔むした墓標が戦国悲話を伝えています。幅広い石段も参道と古めかしいが重厚な山門(古い軸部が折れて扉の片側が山門前に倒れていたが)、忍び返しのある城壁の様な石垣と 白い長塀が本堂を囲む荘厳な宝林寺は山を背にして境内からも長塀越しに望む栗住野集落の様子に居館跡!!、むしろ此処が栗住野城かとも思える雰囲気です。

(現地・祖父祖父堂改修奉賛会の案内板 由緒を尋ねて・丹波新聞社版 参照)



小室城 栗住野城中殿屋敷と西倉城(仮称) 沼城

小室城(芦田城・東芦田城)  吼子尾山(城ヶ嶽) 519m   氷上郡青垣町東芦田

吼子尾山は城ヶ嶽とも吼子尾の峯とも呼ばれ、 その山上にあった東芦田城は芦田氏の本拠地であり、最初の築城は平安時代・保元3年(1158)とも鎌倉時代・元徳年間(1329-31)の頃ともいわれますが明確にはされていません。 いずれにしても氷上郡(丹波市)内では最古級の芦田(葦田)氏の居城です。
小室城本丸・南面の石垣

源満実の三男井上判官(芦田五郎大炊助)家光が信州信濃・芦田庄小室から来住し、名を井上から芦田と改め芦田氏の祖となっており芦田氏から分かれたのが赤井氏・荻野氏だとする説もあります。芦田氏は隣接する山垣城の足立氏と領地問題では小競り合いが絶えなかったようだが、 一族滅亡の危機となる様な大きな争いには発展しなかった。「丹波史」では芦田八郎金猶(かねなお)ですが足利尊氏が京都を追われて丹波路に逃れ、
北尾根上の曲輪切岸と堀切

久下氏一族と図ってこの地で兵を集めていた。小室城もこの頃戦いで落城し金猶とその弟・七郎金朝の代で小室城は滅びます。文和(1352〜)-康安(〜1362)の頃となっているが …東芦田城が最初に攻められたのは南北朝期の明徳の乱元中8年 (明徳2年 1391)丹波守護の山名氏清が将軍足利義満に叛いて守護職を取れあげられ、 代わって守護職に任命された細川頼元が山名氏清を攻めた勢力争いが始まります。その時の城主・芦田八郎金猶、弟の七郎金朝は、どちらにも附かず成り行きを見ていて勝利した細川方に攻められ長享2年 (1488)城を捨てたともいわれます。
小室城本丸・西尾根曲輪群から

傍観!中立主義は成り立たず、退けば押され、強い勢力に付くのが一族の生き残る道だったのでしょう!。なを金猶は前年に死去していますが東芦田城主には芦田六郎少将家次がいて延徳2年(1490)佐治城を攻めたといわれますので、 この時の細川方による落城説の行方は不明です。城はその後も 続き天正7年(1579)まで400年近い歴史を刻みます。 芦田一族は弘治元年(1555)「香良の戦い」以降に赤井氏の傘下に組み入れられていったと推察されます。一度は細川方に攻め取られた城も芦田氏の手に戻っています。
西尾根上の曲輪群

元亀・天正(1570〜1591)の頃、城を再興した最後の城主芦田国住は先祖を同じとする (?過去一般的にそう云われてきたが!!?)保月城(黒井城)の赤井直政に属しており、 穴裏峠を越して福知山から侵攻する明智光秀軍を抑える役割を負っていました。戦国期に氷上郡の大部分を支配していた赤井氏 ・荻野氏は芦田家から分家した一族とされています。 但馬から遠阪峠を越して進攻してきた羽柴秀長軍は天正7年(1579)5月に山垣城栗住野城と共に 山室城(東芦田城)を攻め落とし氷上城を攻めています。胎蔵寺はこの時全焼して再興されることもなく石積みと伝承をのみ残しています。
東尾根の出曲輪群

丹波でも最も古い時代の東芦田城も380年の長い歴史を閉じるが中でも芦田金猶が弟・七郎金朝と力を合わせ良い政治をしたので領地内では慕われています。また丹波氷上の大部分を支配した赤井・荻野・栗栖野も皆、芦田一族です。訪城ルートに選んだ胎蔵寺参道が大手道と思えたが県Web遺跡分布地図には寺院跡の東北から城跡への 尾根筋が城域となっているので、大手なのでしょうがトレースは未。全盛期は相当の規模の城となっていたようで本丸、櫓台、石積、二の丸、三の丸、堀切があり東の峰にも曲輪址が残っています。
最高所の本丸より 北尾根の曲輪群を下る

水の手は八合目あたりのわずかに岩場から沁み出す水が利用されたようです。 城ヶ嶽(吼子尾山)の北の麓に穴地蔵がありその上に建つ石碑は芦田八郎金猶の矢塚だといわれています。また高倉神社の末社には芦田八郎金猶を八幡として祀った小社があり、芦田館跡の瑞雲寺にその墓があります。東尾根にも峰ピークの主郭を中心に9段の曲輪があり土塁・虎口も確認されています。

栗住野城  xxxm    青垣町栗住野

栗住野は人皇56代・清和天皇8代芦田(井上)九郎為家が居住したことから”九郎住の城”と云い、九郎住の→栗住野と呼ばれるようになったと云われます。小室城(芦田城・東芦田城)と共に滅んだ芦田一族の栗住野治朝(はるとも)が拠る栗住野城(西北東三方に堀跡あり、享保年中(1716-36)頃までは四方に二重の石垣に囲まれ外堀も残されていたといわれ、山に囲まれた奥丹波地方では珍しい平城)がありました。
栗住野城比定地!!

川普請に石垣が使用されて今は何も無く、本丸跡を内屋敷・周囲には西に市場 ・東に秣(まぐさ)田・南の山手に射場・北に内が構・大工田・櫓が下の字名が残ると「丹波志」に記されている程度。先ずは集落奥の”36人衆の首塚”から祖父祖父堂のある宝林寺を訪ねてみます。 所在の分かりにくい集落内より高台に立派な石積みと低い白塀で囲まれた宝林寺が余ほど居館跡に見えてきます。 栗住の集落内を宝林寺に向う車道を分けて射場 ・大工田・櫓ノ上・櫓ノ下・秣(まぐさ)田の字名が有るようで、居館跡の事や五輪塔、古墳の事等を話題にして地元の人に尋ねてみます。
栗住野城は二重の濠に囲まれていたと…!!

場所は山裾ではなく県道側、田畑と民家の境目にあって堀跡に囲まれた一角もまったくの平坦場ですが”櫓ノ下”が一番良く遺構を残しているようです。県道や河川の改修の石材として多くの石垣が運び出されたようで、藪や桑畑だった土地は整地され民家と畑地になっています。高さ2.5m程の濠も中程は民家の車道になって中断し土塁が囲っていたと思われる箇所も更地になっています。しかし南北に掘られた濠の東側の田圃も、此れを囲むように三方が濠に囲まれます。
栗住野城の濠跡!?

二重の濠を廻していた西(山側)の備えは集落内の民家や道路で往時を想像も出来ない。栗住野城比定地で芦田姓は見かけず殆どが足立姓の家ばかりですが、足立さんの案内で庭の隅に祀られる五輪塔に案内していただいた。この家の先代(祖父)が石室で囲って五輪塔を祀ったと云われ、今も4軒の民家の方により供養されているとのこと。元々此処に在ったのかは不明だが、大きな木が二本立っていたと云い、伐採されたが其の木の輪切りが玄関脇に置かれています。此処は鬼門の北面になるので鬼門避けの意味を持っていたのでしょうか !「丹波史」には ”内屋敷”の字名がみえ、
栗住野城の五輪塔

他にも”殿墓”と呼ばれている石碑や中殿屋敷の字名の丘があり、近くには宝筐印塔・五輪塔・石仏等が集められた墓がある。丹波市に平城は珍しいが、芦田氏の分家にあたる赤井氏の後屋城(氷上町)や黒井城主・荻野秋清の時?野村城と其々に芦田一族が平城を築いています。東芦田城(小室城)井上三郎家光から5代目の芦田持氏が栗住野に移り久留栖野という姓を名乗った。
【栗住野氏の祖は又五郎持家(沼城主の芦田大炊助家光ともいわれるが)といい弟 ・為家が氷上の新郷に移って赤井姓を興し、為家の二男朝忠(後に重家に改名)が荻野氏をお輿したとも… !!)】 「兵庫の城紀行」巻末リストに記されている栗住野村家が拠ったのは何時頃か?共に本家・分家の関係をハッキリしていて、有事には一体となって事にあたっていたのでしょう。
宝林寺から望む西倉城

東芦田の城主・芦田金猶の「矢塚」が栗住野城の近くにあり両家の深い関係がわかります。天正7年(1579)5月・最後の城主栗住野(芦田)五郎左衛門治朝と小兵衛兄弟の時、但馬から遠阪峠を越えて黒井城攻略のため奥丹波へ侵攻してきた羽柴秀長の 大軍によって東芦田城と運命を共にして栗住野城も落城します。五郎左衛門兄弟については上記の話(祖父祖父堂)が知られています。五郎左衛門の三代・源兵衛は豊臣秀吉に仕えて文禄元年(1592)朝鮮に渡ったとも…。 芦田九郎為家の居城とも云われるが歴代城主等不詳。
(青垣町史 を参照)


中殿屋敷と西倉城(仮称)
中殿屋敷  青垣町栗住野
西倉城(仮称)    城山 Caxxx0m  青垣町栗住野字西倉ノ上

北近畿豊岡自動車道が氷上町と青垣町境の”沼トンネル(トンネル上の稜に沼城が在る)”を北に抜け出た所が栗住野(西芦田)です。県道9号線が沼城の在る丘陵東裾を捲く手前で県道109号線が東芦田を抜けて穴裏峠を越え福知山方面に向います。芦田氏本拠の小室城が在り、 5代目の芦田持氏が栗住野に移り久留栖野という姓を名乗ったのが栗住野城の初めと云われます。
中殿屋敷(推定地内)最奥の民家

県道9号線は左手に田圃が拡がり直ぐ祖父祖父堂の案内標識を見て集落内の細い道を首塚や宝林寺へ向かうが、付近に駐車スペースはなさそうなので、丹波少年自然の家のある倉町川の桜公園に随所有る駐車 場を利用して此処から栗住野集落に向かう方が良いでしょう。兵庫県埋蔵文化財遺跡分布地図 No37(黒井)にはツキ山古墳・栗住野宝筐印塔が並ぶ丘陵裾の田畑と民家集落が点在するツキ山・坊ノ谷等古墳群の在る
点名長ズエ (525m三角点峰)山頂

西倉谷川付近は栗住野の中でも最も早い時期に拓けた所と思われ丘陵裾・南東一帯に中殿屋敷が在る。「丹波志」に云う天正期頃 :中山某氏の屋敷を示す中殿かは不明だが、中山氏の定紋は”丸に桐ノ頭”とあり、 墓石の家紋を探してみるのも場所比定のヒントになるのかも!!?。この狭い谷間周辺地域に所在不明ながら空照寺 ・長源寺・西方寺と三ケ所に廃寺跡が在る。 急傾斜で聳え立つ丘陵頂を目指し辿る其の南には点名長ズエ(3等三角点 525m)【MTB登山で有名!!な”播磨に山猿”こと大柿氏のプレート<2006,.11,18>が掛かる。
鹿除けネットの先に見えたもの!!正しく山城の切岸(南郭)

稜線は山ヌケ状態の荒れた箇所も有る】から北へ延び出した枝尾根が440m峰から分かれて北への丘陵末端部に坊ヶ谷古墳群・宝筐印塔印・ツキ山古墳がある。440m峰から東へ延び更に北に向う尾根先端付近には西倉古墳が記されているが古墳自体はコメントには横穴式石室を持つ円噴かどうか未確認とある。点名:長ズエから東へ延びる主尾根は末端部に在る沼城に通じます。以前:地元で宝林寺の背山の・なだらかな山頂に広い平坦地があり其処が山城跡だろうと聞いて
南郭上り土塁:上部は城域南端の鹿除けネット

栗住野宝筐印塔・坊ヶ谷古墳群から 取付き激急斜面を詰め長ズエまでトレースしたが此の440m付近は大岩・露岩が目立つが緩斜面が続く。中殿屋敷とされる一帯の山際の民家(無人)からも同様の急斜面だったが尾根に出ると広い平坦地があり少し登った所で前回通過した露岩の平坦地に出た。此の尾根を東の宝林寺に下りたが結構な急斜面・山麓付近で緩斜面に見えた尾根筋に平坦地形もない。
南郭・主郭を分ける土橋付き堀切

諦め切れずに出掛けた三度目の正直!!。宝林寺の北・首塚(36人塚)の有る栗住野公民館の西正面には西倉谷川が山麓を北側から 捲いて東に公民館から栗住野城跡へ流れ出る。西倉川を天然の濠とし其の北には中殿屋敷があったと云う。地区道の民家東の田圃は大池跡ともいう。屋敷比定地は西に此の丘陵尾根と西倉谷川が北背後から東にかけても尾根の裾に囲まれており山裾を土塁が南〜東面の地区道沿いは田圃とは一段高い位置にあり、大池と堀で防禦を強めたラインが取り巻いていたと思えた。栗住野宝筐印塔を抜け出た山麓の空き家?の屈曲した敷地内・石垣積みの南へは広い畑地が数段・地区道側の民家まで続く。
南郭の切岸と帯曲輪

東側の丘陵末端に古い個人墓がある辺りが”との墓”だろうか?。此の中殿屋敷と西倉谷川の西に突き出してきた比高30m程の丘陵上に”詰め城”が在ったら…。西倉城(仮称)を探して芦田氏の栗住野城は丹波市では数少ない平城で、其の南に当初は氷上町側境の沼城と近接しているが黒井城の赤井・荻野氏一族の台頭で、沼城は芦田氏の持ち城から離されたと思えます。此の栗住野城の北にも其の支城として館城を守る山城があったら…。丘陵東北麓の稲荷神社からは、直ぐに西倉城堀切の外側の尾根筋に登り着く。
上の画像帯曲輪側でクランクして麓まで落ちる竪堀

丘陵尾根筋南末端部から猪垣フエンス沿いに取り付いたが尾根を遮断するフエンスに突き当る。…が直ぐ尾根の斜面上部の様子は城砦の切岸…!!。西倉古墳とされる位置には北尾根側を幅約5m・主郭側を高さ2.5m程で掘り切った空掘りがありに東斜面に長く落ち込む。主郭東面を帯曲輪が捲き、一段下の曲輪へは西側に通路がある。其の曲輪も西側から降るが南(尾根先)には 土橋を伴う堀切があり、更に南へ3段程の曲輪を並べ、二段目の東斜面には竪堀が一条走る。竪堀は曲輪下で南に折れて三段目の曲輪に入る。
西倉城(仮称)主郭

登城用の堀底道?は出撃用シューターとして?も使用できそう。南北約 6〜70m・尾根幅15m程を城域とする砦規模の小城跡ではありました。北の堀切側や南の帯曲輪側から見る主郭の切岸の盛上がりや8〜10m規模の土壇状を古墳とされたか、古墳だったかも知れないが其のマウンドを取り込んだ城砦だったのかも知れません?。城主等の城史は一切不明ですが、寳林寺の創建は天正10年(1582)頃で、其れまでは栗住野の豪族:山田氏が居り、一族の菩提を弔うための堂宇が建ち 道喜庵と呼ばれていたという。
主郭北面の尾根を遮断する堀切

栗住野城や栗住野氏を称した芦田氏との関連も不明なだけに、 山田氏が西倉城<仮称>主であった可能性は残ります。中殿屋敷側の尾根西麓に長源寺跡(未確認)、東側尾根先の字山ノ下に空照寺跡(未確認)が在った。 山麓沿い一軒の民家を挟んで建つ宝林寺の山門前の小庭には空照寺に有った石燈篭(火袋は新造品?に置き換えられ、竿(柱)は未加工の自然石!!)が移されていた様な?。


沼城 xxx Ca230m   氷上町沼

県道7号(青垣柏原線)が福知山方面へ向う県道109号の分岐を過ぎると祖父祖父堂の案内標が建つ青垣町の栗住野へと入ってきます。此処には丹波氷上でも最も古い時代(鎌倉時代・保元3年(1158)築城)芦田(葦田)氏の小室城(芦田城・東芦田城)があり、其の支城として芦田一族の丹波では珍しい平城の栗住野城がありました。この城(居館)の詰め城として南の山の尾根筋に此の沼城が有ったのではないかと思われます。
栗住野側の県道から沼城の遠望

氷上町の御油や沼地区からは 特徴のない三つばかりのピークを連ねた低山ですが稜線近くに露岩が目立ちます。しかし青垣町の栗住野や田井縄地区からは尾根が東北部の 県道7号へ落込む先端付近、いかにも城山の形状をしているので 気にはなっていたのですが、城跡だったので出かけて見ます。 西へは水山からカヤマチ山〜R427の播州峠へ続く尾根筋と、南東へは安全山へと延びる尾根上の675mピーク分岐から、北東へ延びる枝尾根が点名:山田(3等)・点名:沼(4等)を経て、其の先端が沼の県道7号線に落ち込む
沼城東端の曲輪と低土塁!

氷上町と青垣町の境界尾根の先端部・但馬街道を押さえる要衝にあって鎌倉時代に氷上郡の北部に勢力を張った芦田一族の沼城は、いま下方を春日インターから 和田山方面へ通じるバイパス (無料になる予定)のトンネル工事中です。当初はトンネル付近からと思っていたが立ち入れそうにないので取り付を送電線巡視路からと 決めていたので予定の駐車スペースに寄せて登り始めます。
一折れして仕切り土塁囲みの虎口受け曲輪に入る


送電線は直ぐ尾根をかすめて栗住野へ降っていく巡視路の山道?が切れる先から疎林の急斜面に取付いてみたらアッサリと稜線最東端部の城域に着いたようです。麓の栗栖野側から見れば 自動車道トンネル上部の平坦な稜線が見える付近。 10m四方の2段の削平地があり、上段は低い土塁の高まりが見られます(円墳のマウンドなのかも?)。 此処を過ぎた南側の鞍部で”沼城址→”の導標が現れて遊歩道が城跡まで案内してくれます。【沼城址への遊歩道は沼地区の八柱神社北100m程から鉱口(間歩)を見て、または行者道から岩稜尾根上の小曲輪群に入るものと、
沼城:行者様の岩壁

集落東の県道7号寄り民家の側から未舗装林道を詰める遊歩道があるが此方:林道終点からの緩斜面を150m程?で尾根鞍部の此処に着く】南西へ向う尾根端が土塁道状になっている。只何処が本丸部か肝心の表示がないまま道標を信じ進む東尾根上の遊歩道は露岩の尾根を降り始めると ”行者様→”の標識を見て行者道が山腹を捲いて延びています。此処に高さ20m程のチャートの露岩が、うねる様な縞模様を綺麗に並べて頭上に覆い被さるように突っ立っている。行者様!?大岩基部の洞に城主鎮守の毘沙門天の社殿が建てられていたとも…!?。

主曲輪東下部に自然の要害が切岸と虎口を造る

先程の尾根分岐?に戻って標識を直し先を進むと錆びた鎖がフイックスされた 3m程の自然の要害・岩の切岸を越えます。広い尾根幅一杯に自然地形に近いが平坦地があり、今までは曲輪遺構も明確ではなかったが丁寧に削平された15mX20m程の曲輪が 一段下に見える場所に来た。点名:山田までの尾根縦走の試登後に此処へ引き返す心算なので、あまり注意していなかったが 今立っている場所が本郭だったようです。
沼城尾根上の小曲輪段と左下に帯曲輪

長い尾根上に点在する曲輪群は複数 (1〜3程)の曲輪を繋ぐ帯曲輪は無く(腰曲輪?は有)、余り整然とは纏まっていない様です。城域を抜けるまで尾根上に堀切は無かった様で気付かなかった。 竪堀らしいものは2本ばかりあった様だが思い過ごしかも…(^^;? 室町期の城ならともかく戦国期に入っての戦いでは、御油や沼から南西のCa380mピークから尾根伝いに攻められたら途中・障害物もなく、簡単に本丸まで攻め込まれる状況にあって戦国期まで使用されたかどうかは疑問です。
沼城主郭西末端曲輪の切岸は大岩

城主芦田上野介光遠が”香良合戦”で討死後、城は荻野(赤井)直正に攻められ落城したようだが落城等の城史は不明です。 黒井城・赤井(荻野)氏傘下に組み入れられ、但馬側の守備として見張り所・砦として使用されたのかもしれませんが…(^^ヾ 栗住野氏の祖は保元3年(1158)関東から来住の芦田大炊助家光が栗住野城に居て沼城も統括していたようです。植林の中の城域からは展望が効かないが抜け出た先からは点名 :沼(266m 4等三角点)へと岩稜が続き南(氷上町側)は切れ落ちた断崖状が続き露岩の展望箇所も多く
沼城主郭西端の二段曲輪

小室城(芦田城・東芦田城)のある吼子尾山・大きな山容を見せる五台山から鋭い先鋒の鷹取山、五台山に向かう位階山からの尾根を望み安全山から水山への尾根を始終・左手に見ながら進む登山には快適ルートです。点名:沼〜点名:山田を経て安全山への周回コースや水山・カヤマチ山へのロングコースにも一部藪っぽい箇所はあっても踏み跡は繋がっています。点名:山田から逆走は386mピークからの分岐付近が要注意。私は尾根を取り違えて牛の尾(点名:南御油 4等)から井中地区へとトンデモないオフコースをしてしまい御油からは
主郭西端曲輪は露岩部を切岸に取り込む

句碑の立ち並ぶ
円通寺 (高源寺石龕寺と共に丹波の紅葉三山)側の道を 【近畿自然歩道】沼地区に戻ります。道路沿いの句碑には”りくの道”(天王坂を参照)として謳われているものを2〜3見かけるが、此処は但馬と丹波を結ぶ要衝の地であり、 東北部の田井縄から 延びる尾根先にある小室城(芦田氏の本拠)と相対した沼城は麓の栗住野城と一体となって機能した室町時代初期の芦田氏一族の城です。栗栖野城側から沼城の北西尾根上には 城域最大規模の曲輪があり、削平が甘く段差を感じるところは平坦地に幾つか区画された曲輪に分かれていたのかも?。 北端にも小広い帯曲輪・腰曲輪が廻り、虎口らしい部分からは低土塁!?沿い窪んだ帯曲輪を抜けて主郭群の尾根筋に向う通路があり、
場所不定・竪堀跡か?(点名:沼〜山田間!!)

栗栖野城と沼城は芦田氏の城としての関わり、むしろ館城の栗栖野城”詰め城”が沼城ではと推察し、古城主芦田上野介光遠が居城といわれます。
香良合戦:弘治元年(1555)氷上町の油良や桟敷の芦田氏領地に接する油良坂・天王坂付近を最前線として郡内(丹波市)で起こった最も激烈を極めた香良合戦【細川晴元側の赤井時家・家清・直正等の赤井・荻野一族と、晴元に背いて細川氏綱方となった三好長慶軍の松永久秀・八木城主内藤国貞(キリシタン大名・飛騨守忠俊ジョアンの父)が沼城主の光遠
沼城芦田上野介光遠・山垣城足立権太兵衛基則の連合軍が香良に集結した戦闘】に赤井・荻野方の奇襲を受けたが三好軍が芦田・足立方援軍に加わることはなく壊滅的な負戦。
幅尾根筋の主郭曲輪と露岩の帯曲輪

栗住野の祖父祖父堂は此の際の芦田・足立一族 36人?を祀ったものとも云われます】 芦田・足立氏は無論・勝利した筈の 赤井方にとっても益無き戦いで、後に氷上・天田・何鹿の三郡を領し但馬・丹後方面へも覇勢し「丹波の赤鬼」の異名を持つ荻野直正(当時25〜6歳!?)も此の戦闘に負傷し、背負われて峠を越え黒井本城に引揚げた伝承が残されています。沼城主:芦田光遠は此のとき討死したと(天正2年(1574)に死去したとも!?いわれ、二代目を出雲守家治が継ぎます。元亀・天正初期の城主は芦田上野介光信で当時8000石の所領を持っていたといわれ、城山の南西麓の明勝寺(芦田家菩提寺)には天正2年9月に没したされる光遠の墓がある。
沼城・低丘陵だが・嶮しさは県道7号から窺えます

芦田氏・足立氏一族のなかには足立基則のような【岩本城<足立館>・足立遠政下屋敷の妙法寺に墓所あり】将もいた。赤井氏打倒に燃えながらも其の赤井の幕下となっていたが黒井攻めの天正3年(1575)〜天正7年(1579)の頃には明智光秀に付き”本能寺の変”に参戦。 後・天正11年(1583)秀吉の残党狩の際、足立一族安泰の為に自刃したといわれます。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)
 丹波霧の里へ
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