八上城西方の城砦群 槙ヶ峰・岩崎城・谷山城・四季山城・高山城・館山城・足見寺城
槙ヶ峰~四季山・谷山城・高山城他 2004年05月22日
近畿の山城 :岩崎城 谷山城 平林大膳館小丸山砦 四季山城

真南条上城(高山城) 館山城 岡崎山砦 順手山砦
足見寺城 真南条下館(助太郎屋敷) 宇土砦と宇土城(仮称)
宇土観音(弘誓寺)大イチョウと多宝塔

校歌・故郷の山:♪朝日に輝く四季山は…♪城南小学校
丹波のお話 鼻の助太郎 二村神社の塩掛の庭

篠山盆地の最西部に位置する奥谷山(大沢城)-音羽山周辺に佇む小さな山塊を登山対象としてみる人は少ない。また東北の槙ヶ峰を最高点に東へ延びる尾根の東端部の谷山迄は直線3km余りの稜線が続いている。
館山城:曲輪と重連する竪堀群と大土塁の不思議な縄張りを見せる

尾根の北面は篠山川を挟んで東西に長く拡がる篠山盆地を望み亀岡方面から古市・社を経て小野市へと播磨路を三田・有馬へと攝丹の要衝を結ぶ街道がとおる。
八上城の西方を固める付城群とJR篠山口の裏山へ
宇土観音へは沿道の彼方此方に「槙ヶ峰千軒坊古蹟宇土観音看板が立っているので分かるでしょう。仁王門を潜った境内中程にある見事な大銀杏の巨木が印象に残る。槙ヶ峰の麓に建つ-清瀧山弘誓寺は宇土観音の名で知られ”病気封じ”にご利益ありとされ地図にも宇土観音と記される。
佐幾山城からの槙ヶ峰

孝徳天皇の大化・白雉年間(645-654)法道仙人の開創を伝える古刹で当初は天地山極楽寺を称し「槙ヶ峰千軒坊」といわれた多くの僧坊堂宇が建つ仏法の霊地だったが寿永元年(1182)源平の兵乱に?…とあるが寿永3年(1184)のことか。源義経が京街道を一の谷へ向い途中播磨三草山での合戦も知られる。 宇土を通過の際千軒坊に平家の伏兵ありと見てか義経軍による兵火に遭い全山焼亡したが極楽寺本尊の聖観世音菩薩像は滝のそばにあったので
宇土観音展望台から網掛城・吹城を望む

その水底に隠され難を逃れ後中興:室町期文明5年(1478)曹洞宗として再建・再興されたさい本尊として祀られ清瀧山弘誓寺と呼ぶようになったと云う。槙ヶ峰へはバス停丹南町役場前から辿るつもりだったが駐車予定場所が整備中の為、当分の期間利用出来ないので宇土観音から廻ります。多宝塔から「西国33所観音霊場巡拝」案内板のある山道に入る。
弘誓寺から東屋展望台(宇土砦)

観音霊場石仏が並ぶミニ参拝の参道とは第一番(那智青岸渡寺)如意輪観音の直ぐ先で 多宝塔と右手に錫杖・左手には空鉢ならぬ未敷(みふ)蓮花。蕾の状態の蓮花が未だ修行中を示すものか?法道仙人立像が立つ逆打ち?巡拝コースの分岐点はどちらの道をとっても 槙ヶ峰北尾根端の東屋休憩展望所に着く。尾根筋は削平改変されているが吹城に対峙する明智群の付城と思える宇土砦
西国霊場(逆打ち分岐?)の宝篋印塔・法道仙人立像

眼下に篠山盆地が拡がり北正面「お菓子の里」の左右に網掛城と吹城東に八上城に向かう街道筋を望む。此れより南へ尾根筋を辿り槙ヶ峰の東峰に向かう。第18番観音から周回する巡拝の参道を外れ山道に入り尾根沿いに長く続く溝状の山道?が消えると急斜面となり2段程の小曲輪を経て暫く(約150m程)続く緩斜面上に何段もの曲輪群・左右の下段にも帯曲輪・城域南端部は二重堀切を越える。
弘誓寺か

宇土砦との関連は薄いと思えるので吹城主井関氏の出城か岩崎城の柳本氏(波多野氏から出た柳本方春が知られる)一族の在地土豪の宇土城?。地誌等に遺跡報告はない?未調査遺構のよう。槙ヶ峰へは北尾根の無名ピークから藪っぽい尾根筋を鞍部への降り始めはコースアウトしそうな迷いやすい箇所なので要注意。鞍部からは直線の登りで「槙ヶ峰神社」石碑と石祠が祀られる削平された東峰山頂に着く。
東屋手前東斜面の段曲輪

何か鬱陶しい東峰と違い僅か5分程で展望の良い槙ヶ峰西峰(点名:宇土3等 467m)の山頂には共同アンテナが立ち東下方を通過する送電線巡視路プラ階段が初田地区に下っていく。西方に拡がる展望は眼下にJR篠山口駅と対山に大沢城-禄庄城の尾根越に篠ヶ峰 千ヶ峰北に金山盃山等の城山を望み。北西へ延びる尾根も巡視路の快適な散歩道が続く。もう直ぐゴール近くで右下へ広い山道が下ってゆき
槙ヶ峰神社(槙ヶ峰東峰)

黄色テープも此の方向に巻かれているが細くなった尾根筋をとると直ぐの所に明治22年建立のものだが素朴な不動尊石仏が立つ。此処から2分程度・疎林の急坂を適当に下り「島姫神社古蹟」の石碑と 祠が祀られる側に降立つ。石段を降りたところがバス停・役場前で小公園となっています。宇土観音までは歩きで25分程・JR篠山口駅へは5分程で戻れる地点です。


岩崎城  宇土砦と宇土城<仮称> 谷山城 平林大膳館 小丸山砦 四季山城
真南条上城(高山城) 岡崎山砦館山城 順手山砦 足見寺城 
助太郎屋敷

岩崎城   坊の奥 266m 篠山市丹南町岩崎字坊の奥

宇土観音から槙ヶ峰山塊の北側山麓を1km程で岩崎の集落に入りバス停・岩崎公民館から南山手に向う集落内に入っていくと槙ヶ峰山塊の東峰・谷山西の峰から北方に延びた枝尾根末端付近から 西へ突き出すように延びた二本の指先のような先端が丸い岡が民家に迫る奥に見える小さな山頂に低い3~4段に段差を持った削平地が柳本左近兵衛が拠った岩崎城
岩崎城(正面の小丘陵)

坊奥(ぼうのく)の篠山盆地西方を望む丘陵上に位置し八上城も東方の直近にあり右前方吹城と正面網掛城が望まれる。岩崎城の西端麓に春日神社があり神社裏手へ回り込むように斜面に取付くが最高所迄は比高僅か4-50m。城域の西端付近3m程の段差の曲輪は全体がブッシュの中で藪を分け上部に出ても削平はあまく僅かな段差の平坦地が4~5段続いて40m程の距離で
岩崎城から望む篠山盆地・吹城(右)と網掛城(中央)

最高所へ延びているだけ。東へ降る尾根もさほど急でもなく途中に低土塁付きで竪堀を曲輪端に備えた遺構を見て植林の鞍部に降りるが此処に堀切がある訳でもなく東の尾根伝いからは無防備で自然地形に頼るだけだが比高は低く何処からでも侵入出来そうで 大手口や虎口は不詳。天正期(1573-92)にまで残っていた城にしては防御性に欠ける臨戦的な使用目的の縄張りで”詰の城”とするには弱過ぎる!!?。 丹波攻めの始まった天正3年(1575)頃からの緊迫した状況下で、
春日神社の背山に岩崎城がある

この城が果たした役割は何だったのだろう?波多野氏勢力下以前の領主・柳原氏の領地支配の為の館城だったでしょう!?。周辺の民家に酒井姓を見かけるが真南条の尾根越に北方にも酒井党一族の勢力があったのか?柳本氏については未調査で勝手な推測だが 天正6年(1578)以降八上城周辺の波多野城砦群が明智軍に攻め落とされていったころ城主柳本左近兵衛は防御性を欠いた岩崎城を捨て八上城に籠もって最後を迎えたようです。


宇土砦と宇土城(仮称)
宇土砦 Ca290m 西国霊場巡拝東屋休憩展望所  篠山市宇土
宇土城 401m 槇ヶ峰(東峰)手前(西北)尾根上  篠山市宇土

宇土砦宇土観音と大銀杏で知られる清瀧山弘誓寺と背後の丘陵上にあって山麓の宇土(舞鶴若狭自動車道側・バザールタウン)や弘誓寺背後には台形の尾根上に東屋休憩展望所が望まれ東屋へは弘誓寺の多宝塔側から続く「33所観音霊場巡拝道」に
東屋展望所から吹城(左)・東城山(中央)

通じている。東屋が建つ山頂尾根先端周辺の凡そ東西30x南北50mの尾根筋左右に低段差の小曲輪があり尾根筋は 東屋施設建設で改変してている様だが2-3段の曲輪・東屋南面に約1m・北面は約2mの切岸を落す。東屋西斜面2段程の小曲輪・通路?が東屋を北面3段曲輪に廻込み繋がる。一段目は東へ廻込む帯曲輪。小曲輪群が集中する北斜面は正面に市立中央図書館や手前に福祉センター・四季の森会館を望むが東隣側に丘陵裾を落とす
東屋北面切岸2m

網掛城と「お菓子の里丹波」を挟んで吹城(瓢箪丸)が北正面約1kmの距離で対峙する。吹城から東へはJAや岡本病院側へ抜ける峠越え山道を挟んで東城山三角点峰があり丘陵東末端を篠山川に落とす。此の尾根筋にはU字状土塁を廻し塹壕状もみる小曲輪が点在する…!!?。
東屋南面切岸1m

網掛城は八上城落城の前年・波多野氏被官井関氏の吹城攻略に明智勢が築いたとされているが ?網掛城と吹城の間は遮るものなき平野部のうえ距離が近過ぎる。しかも吹城を背にする南・西斜面に輪郭状の段曲輪が集中?。鞍部東側峰にも2-3小広い曲輪があるが吹城出曲輪か?
宇土砦東屋北面2-3段小曲輪

西面に展開する別郭の様で吹城攻略後に八上城と 篠山盆地西口監視のため改修したものか?吹城の南正面に位置し兵の動きを監視できる近距離にある宇土砦は明智勢の吹城攻略の付城か攻略後は網掛城や東城山の東尾根にも八上城包囲と西玄関口を堅めるための向城を築いたものと推定します。宇土城宇土砦の東屋展望所から西国33所観音霊場道に戻り槇ヶ峰467mへの登山コースを辿る。
城域(主郭)北先端部曲輪群

槇ヶ峰山頂一帯には多くの僧坊堂宇が建ち槇ヶ峰千軒坊と呼ばれ隆盛を極めた仏法の霊地だった八上城の西方を固めるる付城群で観音霊場巡拝道の法道仙人立像が見送る分岐「逆打ちコース」から東屋に来る鞍部を外れると羊歯が覆う下草藪の尾根筋沿いに深い溝谷状の旧山道が続き溝谷道が途切れると急斜面上の尾根筋は俄に低い段差を伴うが比較的長い緩斜面になる。
城域北正面尾根側の曲輪群と切岸

以前は槇ヶ峰西峰(三角点)から槇ヶ峰東峰(槇ヶ峰神社の祠を祀る)から急斜面を宇土観音まで降った際には山城の事等は意識になく全く気付かなかったが槇ヶ峰側に二重堀切を設け・此の北末端部まで凡そ東西の尾根幅30x南北に長さ150mにも及ぶ城域。尾根筋に幾重にも低段差の小曲輪を積む(切岸は曖昧なものが多い)・城域中程を空堀状で区切るが此れより北側の曲輪は
城域(主郭)北先端:尾根上曲輪段と帯曲輪

幅狭い尾根筋を左右からの帯曲輪が繋ぐ様な曲輪段が続き、城域北最先端部が宇土観音へ右寄りに下る急斜面には長い溝谷以外に城遺構は見当たらないが登山道から北(左手)へ曲輪切岸?下を廻り込み藪を抜けると藪少ない疎林の北正面枝尾根に出ると今見てきた上方の城域遺構とは異なり単独及び3段程の小曲輪が連続する個所があり・いずれも切岸をたてる。宇土観音からではなく宇土集落に先端を落とす北尾根筋が登城大手道か?。
城域南端(二重堀切の一)

さて!!槇ヶ峰山上部は僧坊堂宇が建ち並ぶ”槇ヶ峰千軒坊”と呼ばれた霊地。途中の尾根筋に築かれている宇土城の築城目的・時期・城主は?。波多野氏重臣井関氏の吹城とは篠山盆地を挟み呼応する位置にある吹城の支城か。槇ヶ峰北東麓には柳本氏の岩崎城がある。波多野氏から出た柳本氏?(波多野秀長の子柳本堅春・弟の香西元盛・兄の波多野稙通がいる)。谷山城・四季山城?に波多野一族!?の家老平林氏等在地土豪が此所に根差した波多野氏庶流や別一族がいたのかも…?。
城域南端(二重堀切の一)

城域最高地点からは槇ヶ峰を・麓は西方に住吉台(新興住宅街)までが望まれる。明智光秀による天正3年「丹波攻略」黒井城攻めの際に始まった八上城主波多野氏攻略の為・周辺に築いた付城群の一つとして宇土城が北方に対峙する吹城向城として、また展望からも八上への西口抑えとして利用された可能性もありそうだが下方の宇土砦との関わりは不明。


谷山城    谷山 401m  篠山市丹南町谷山風呂ヶ谷

岩崎公民館前を更に東へ約1km程で谷山の集落に着きます。右手に見える高い土手は圃場用貯水池です。谷山城からの帰路は踏跡はないが疎林を縫って斜面を降り此の池の東端の出てきた。城への登城路は倒木や雑木に時々は邪魔されるが明確です。
小丸山砦北裾から平林大膳館(中央柿木先の台地)と谷山城遠望

槙ヶ峰でも宇土観音の観音巡りコースからの取付点や西の峰の三角点・島姫神社へ続く尾根道にも見掛けた。谷山城を越え更に西のピークまで足を延ばしてみた。谷山城から真南条の北を槙ヶ峰まで続く山塊の全山尾根縦走を完成させてみたい。谷山集落中程から山手に向う道は
谷山城主郭部の切岸と帯曲輪

分岐から200m程で公民館前を通り祥雲山法福寺の石柱の山門を潜ります。本堂前を抜けて正面に続く石段を詰めていくとx神社です(神社まで行かなかったので名前は??)。石段登り始めの右手石垣で囲われた一角には宝篋印塔が一部を石積の石の一つの様に頭だけを出していました。
谷山城:空堀沿いの曲輪!!?

此処から谷通しに続く山道があるようだが10m程戻って谷に二本の丸太を渡した簡易橋を渡り尾根を辿るが大手道・搦手道は東山麓の居館(平林大膳館!!)から東尾根を主郭へ、また北山裾の貯水池側からの北尾根筋に通じていたのかも?。主郭に至る東尾根上にも細長い曲輪・竪堀。城域主体部は最高所を中心に帯曲輪を廻す主郭から北方へ延びる尾根筋に
連続段曲輪群の中には低土塁曲輪も見られる

数多い曲輪を連ねる比較的大規模(北-西へ約200m以上・主郭から東へ細長い尾根上約150m以上)城郭ながら 防備設備の土塁も低く・極浅く短い竪堀状・埋もれた浅い堀切状を見る程度だけに城域北末端部に見る畝状に並ぶ数本の大きな竪堀が城遺構なのかは?異常に思え近代の山仕事様ではと疑問に思える。東方向に展望が拡がる箇所があって四季山のミニ独立丘が篠山盆地の中に浮かんで見えます。
累々と段曲輪だけが続く!!?

丸い小山の小丸山砦・小さな小山の四季山城が望まれ其の奥には本拠城の八上城や弥十郎ヶ岳・ほっと憩える展望休憩適地がある。此処を過ぎて未だ続くだろうと急坂を登り始めクランク状に斜上する山道は虎口か。曲輪の片鱗を感じたと思った時には既に堀切・竪堀・曲輪に土塁等を見ないまま幾重にも連なる曲輪が段差をもって続いています。前方に高い切岸を持たせた曲輪が見えその下の広い曲輪には井戸跡らしい凹部さえあります。
東尾根部の東端の切岸・右手奥に竪堀が一本走る

腰曲輪から斜東下方へ急斜面の尾根が延びているので辿ってみると 削平状態が悪く低い段差の小曲輪が幾つかあるだけだが東端部に切岸を持たせ底部の北隅からは竪堀が一本走っている更に尾根下方へは小規模な削平地があるようだが顕著な防備施設はなさそうで主郭直下の切岸と急斜面の自然地形に頼っているもののよう。槙ヶ峰に続く西への尾根筋を辿ると直ぐ小さく浅く、幅の狭く浅い土橋付き堀切と竪堀状があって緩やかで城域よりも僅かに高いピークに続いている。
谷山城主郭西端の小土橋と幅の狭い!!竪堀

真南条との町界尾根の切開き道は延びており槙ヶ峰まで縦走してみたいが今日は周辺の山城が未だ四つ残しているので引返す。東尾根の曲輪群の防備の弱さに加えて西尾根からの攻撃に対しても小さな竪堀だけで尾根上の防御するものはない?。本郭部を帯曲輪で防御し北方へ延びる曲輪群は丁寧に削平されているが土塁を設けての防備強化が図られていないようです。
北尾根:連郭入口?部の平入虎口?

室町時代初期・中期の古い城が改修されずにそのまま残ったものとも思えない。「丹波志」には八上城波多野氏の家老平林大膳秀衛の名が見えるが岩崎城主柳柳原左近兵衛等と同様籠城戦には八上城に拠ったと思われる。築城や城史については不詳ながら波多野氏重臣として七頭・七組として氷上郡の玉巻城久下氏・朝日城荻野氏・福知山城・小野木縫殿介…等の名が挙げられるだけに信頼性は薄く疑問も多いxx家文書等の
谷山城北尾根先端曲輪から落ちる畝状竪堀(3-4状)

古文書に重臣:家老として渋谷伯耆守氏秀等とともに平林大膳秀衛の名があり谷山城近隣に位置する四季山城や 小丸山砦も谷山城主:平林氏の付城・支城砦の一つではないかと思えます。四季山の南方に火打ヶ嶽337mがあり西山麓の小枕地区には平林大膳秀衛の居館があったといわれ殿垣内の地名が残ります。平林大膳秀衛は永正年代(1504-)以前!多紀郡(篠山市)を与えられ因幡(鳥取)国八上郡より 来住の波多野(藤原)経基の兄・平林忠義の末裔といわれ波多野氏一族と共に八上城に滅びます。



平林大膳館 xxxCa220m  篠山市丹南町小枕字北山

岩崎公民館前を更に東へ約 1km程で谷山の集落に着く。右手に見る高い土手は圃場用貯水池だが更に250m程東に進むと小枕川に架かる学校橋。川の東側に古墳の様な半円状の小山が小丸山砦。東側の県道49号線に面して建つ城南小学校の校歌に「朝日に輝く四季山は…」

平林大膳館から小丸山砦(中央を小枕川が流れる)

と謳われる四季山城は篠山城の南約2km地点に位置しR372号(デカンショ街道)小枕交差点まで約500m程。小枕川を挟んで東側150mに小丸山砦があり 西南方に仰ぐ谷山城から東に延びだす丘陵尾根の北山裾、田圃を抜けて250m程先には竹薮や栗林の一段高い平坦地が見える。
田圃と栗林・植林の中の曲輪

小字”平林の坪”が平林大膳館跡とされ渋谷伯耆守氏秀等と共に八上城主波多野氏の家老谷山城主平林大膳秀衛の居館。居館から東尾根伝いに山上の谷山城への搦め手道が通じていたのでは?。大手道は谷山集落からの北尾根筋。居館と詰め城がセットで残されている遺構の例が少ない様ならばなんとか残して調査していただき、
曲輪と空掘状間の土橋を伝い上段曲輪へ

来れば此処から谷山城への往時の登城ルートを大手道と共に整備していただければよいのだが私有地ならば無理かも…!!。学校橋を渡り小枕川右岸(西側)に沿って進み田圃の畦道を谷山裾に位置する平林大膳館のある台地(田圃の端:植林・竹薮・栗林となっている)に向う。小枕川を外堀として
空掘?側の土塁道から広い曲輪と東北側の一段下曲輪

田圃境の溝を越えると東面には1.5m~2m程の広い削平段がある。三段目の一番広い曲輪の北端部は土塁跡か?盛り上っている様に感じられるが其の延長線上の曲輪端は土塁道、北側は空掘となっている様です。密生した竹林の奥は雑木藪で曲輪があるのか空掘が続くのか様子を窺えない。
虎口?らしい南端から見る土橋・土塁付?きの一番広い曲輪


土塁道・土橋の先が館の最高所らしく伐採材や枝木が散乱しで平坦地の様子は判らないが 山側との明確な境界がないままに山頂部にある谷山城へ続く斜面に溶け込んでいる?搦め手道が此の斜面からなのか谷寄りに詰めて尾根に出るのかは知らないが、いつか谷山城~槙ヶ峰の縦走計画に含めてトレース出来れば歩いてみたい。

【多紀郡埋蔵文化財調査委員会(郷土史研究家)による分布調査報告書 昭和47年を参照】

小丸山砦   小丸山 230m   篠山市丹南町野中小丸山(城南)

谷山城の北裾野を抜ける地区内の車道を東へ500m程で野中地区のバス停小枕口の県道49号線 (三田篠山線)に出る。此処から直ぐ東南方400m程に四季山城があり地図上では比高20m足らずの小さな森程度で古墳の様なドーム状の独立小丘陵が 城南郵便局・小学校・保育所に囲まれてある。
谷山城を背に立つ円墳状の小丸山砦

県道側からは赤い鳥居が立つ急な石段道が下草や木の根が張り出した山道となって山頂部に祀られる「正一位小丸山稲荷神社」への参道です。野中に八上城落城伝説「女畷・乙女塚」碑が祀られ東に向かう田園風景の先に浮かぶ八上城と共に知られるが南に迫る低丘陵上の四季山城さえ城址である事が知られてはいない程なので小さな高台の此処が砦とされているのは「平成12年3月版県教育委員会 兵庫県遺跡地図」以外に私は知らない。四季山城と谷山城の中間部に位置し源義経も通った京街道(デカンショ街道)監視の砦というより東西に二つの詰め城を持っていたと思われる
小丸山砦:北面の高い切岸下には広い帯曲輪

谷山城主平林秀衛(八上城・波多野氏の家老)か重臣の居館跡ではなかったか?。小丸山砦を訪れた過日:其の西面に小枕川が流れ天然の堀となっており同様に此の小枕川を外堀とした平林大膳館(平林大膳秀衛)が谷山城の東山裾に在った。八上城籠城戦になると平林氏等は小城を捨て八上城に籠もった。八上城を隔てるものなく直視出来る四季山城や此の小丸山砦は明智軍にとって絶好の 包囲網の拠点として八上城の西を固める向城に利用されたと思える。
「長者八剱大神」祠前から頂部の主曲輪

落城寸前の城を出て西方に逃れ出て「女畷」を辿る老人・侍女達を四季山城や小丸山砦の明智方は自分の家族を想い見過ごしたでしょうか? 恩賞のない下級武士等の戦利品として金品目当てに殺されたり捕らえられたのでしょうか?隠された陰惨な行為が落城悲話に語られる事はない…!!小丸山への参道が大手でしょう。途中で二手に分かれるが 西側は直ぐ幅1m程の水平道となり
小丸山砦主曲輪に建つ稲荷社

そのまま頂部の稲荷社が祀られる主曲輪の北面の小広い帯曲輪に入る。 帯曲輪は山容が示す通りの極急斜面北に迫り出している。丁寧に削平されているが神社施設跡ではなさそうです。木の根に掴って8m程の切岸を登ると1m程の低い段差の小曲輪と西側にも2m程の幅狭な曲輪が在って主曲輪に出る。 南の参道からは「長者八剱大神」の祠が建つ腰曲輪から2段ほどの小曲輪を経て城史不詳の主曲輪に入る。


四季山城  四季山(甑山) 290m  篠山市丹南町小枕

谷山城への登城途中の展望所から四季山へ登れそうな取付点を探し模索してみます。小丘なので何処からでも…とは思うが田植え前の苗代作業の真っ最中なので畦道を伝って山裾へと歩くわけにもいかない。R372号に面した東側から 緩やかな尾根が続いているのが見え♪朝日に輝く四季山は♪と四季山を校歌に謳う城南小学校も見える。西・北面の車道側からも登路はあるのかもしれないが
谷山城から小丸山砦/四季山城

デカンショ街道側からがよさそうです。四季山の別名が丹波杜氏の里に相応しい!!”甑山”で酒米を蒸す用具にでも似ているのでしょうか!!?。 四季山城へは篠山城から県道49号を真南の木枕交差点:R372号(デカンショ街道)に出ると東に200mほど。交差点を越え直進すると虚空蔵山城(仮称) 西麓を三国ヶ岳から茶で有名な母子(もうし)・花の寺・永澤寺を経て三田市へ抜ける。関東の画家小川芋銭が描いて一躍有名となった「丹波の朝霧」は49号線が越える美濃坂峠から描いたものとされているが?…R372号の四季山城の南を抜け200m程で次の「小多田」交差点から集落に入ると小谷城(小ノ谷城)がある。
四季山城:北東の尾根にも大小の曲輪が続く

いずれも八上城への物流・通行監視に対する備えの砦だったのかも知れない。次の県道77号と交差する一帯南側が旧八上城(蕪丸)の殿町・その東丘陵上に波多野氏本拠の八上城がある。R372号の真南条から四季山東へ抜けると北方や篠山川沿い東方が一気に拡がる田園地帯。どこからでも…と畑の奥からダイレクトに直上する立木に赤いペンキに沿って急登する
主郭と低い段差の曲輪が二段程

尾根筋は西南端からの山道と合流するが松茸山なので登り口はOPENではなさそうです!?此処でも何の予感も無く突然尾根上に居住空間とも思える平坦地があり此処でも谷山城と同じ様な幅が短く浅い堀切に土橋が架かる。差ほど急でもない登り25m程で最高地点に到達です。5~6m四方の櫓台風の曲輪から北へ段差も分からない緩やかな傾斜が続きます。
四季山城:土橋付堀切(主郭から)

その北端に一番広い曲輪があり高い切岸の下方に数段の小曲輪が続いています。高さは6~7m程度だが更に北と東下方に小帯曲輪が半円を描くように配置されているが八上城を望む東面だが山麓の馬口池東の小山に眺望遮られ東面曲輪は東北先端付近のみ。東方約3km地点に八上城があり八上城落城伝説「女畷・乙女塚」や八上城を望む北・東への尾根筋に沿って大小の曲輪が並び最後には明智方の八上城の向城として 改修され利用されたものか。
四季山城:土橋付堀切

西・北・東三方の斜面下方を輪郭状に小曲輪群・帯状の細長い小曲輪群が幾段にも重なり城域を取り囲こみ西面曲輪群は墓地辺りからの登城口を守備・北から東面に掛けて小曲輪群が八上城下西面一帯を監視する。
摂津三田方面や古市方面からR372号(デカンショ街道)に入り真南条を抜けて八上城へ、北尾根筋北東斜面の曲輪段また丹波氷上側から味間や大山下方面を杉・宇土・岩崎を経て
北尾根筋北東斜面の曲輪段

八上城へ向う西面の要・玄関口に位置する通行及び防衛上も 重要な拠点なので要衝の砦としても 此処・小枕に居館を持っていた波多野氏の家老で谷山城 主平林大膳秀衛の持城ではなかったかと思えるが…!!?城址であることは地元史誌等にも記述なく城史一切は不明。四季山城東麓に馬口池がある・南側を通るR372号(デカンショ街道)は寿永3年(1184)源平の戦いに源頼朝の命を受けた源義経が平家討伐のため京都から鵯越・一ノ谷・須磨浦・湊川へと向かう時、
四季山城北端の曲輪の切岸

真南条の街道通過には龍蔵寺や槙ヶ峰千軒坊を焼払いながら 通過し(龍蔵寺合戦!!=弘治3年には三好長慶・松永久秀軍とも交戦しているが…)不来坂峠を越えて社(加東市の)三草山合戦に勝利し一ノ谷へ向かった。真南条街道(R372号)”木枕”通過の際には武運を祈り春日神社に鞍を奉納して戦勝を祈願し飼葉を与え・近くにある池で馬の口を洗った(水を飲ませた)伝承の馬口池。篠山市内の義経道は篠山川を挟む北方県道301号があり鳳鳴高校北に
四季山東麓の馬口池

笛吹山(笛吹山城)・源義経に追随していた二人の三郎:(猟師)鷲尾三郎義久は篠山市鷲尾が出身地と云い義経軍の道案内をしている。義経四天王の一で剣豪伊勢三郎義盛二人の養碑もある。R372号を福住で分かれR173号に入り細工所に向かう井串には那須与一宗隆ゆかりの寺・瑞祥寺がある。軍を二手に分けR372号から不来坂へ・もう一方はR173号から県道702ー301号を経てR372号に合流したものか?。



高山城(真南条上城・真南条城・龍蔵寺城?!)  小谷山(古谷山) 321m  篠山市丹南町真南条上

JR古市駅近く:油井城を本拠の酒井党は近在に当野・矢代・初田・波賀野・栗須野…等酒井党の山城がある。八上城主波多野秀治の義弟となり 八上城落城時の守将二階堂秀香が油井城主:酒井守重(重貞)の二男:氏重。
高山城遠望

R176(丹波の森街道)からR372(デカンショ街道)沿いの京街道を東へ走り栗須野の先で直ぐ真南条…右手に二村神社の鳥居をみて「龍蔵寺→」への入口を示す案内標識がみる。狭い道を抜ける車道の西に見えてくる低丘陵・太平三山の一:中尾の峰から北東北に延びる尾根に沿って龍蔵寺川が流れ、尾根が真南条上集落に落ち込む先端の小谷山(古谷山・高山!!?321m)山頂に高山城がある。
高山城主郭下部の倒壊した鳥居間にある土橋付堀切

山頂の主郭と此の下城?の中間にも尾根上には緩衝帯の様な自然地形?の長いL字状の平坦地が続く。太平三山は「三国ヶ岳・愛宕山・中尾の峰」を指し車道終点の愛宕山山麓に太平山龍蔵寺(天台宗)がある。大化~白雉元年(645-650)法道仙人開基を伝える天台宗の修験道場として栄え隆盛期には72もの堂宇が建っていたと云われるが
城址碑西背後には竪堀状

源平争乱の寿永3年(1184)木曽義仲を討った源義経軍が平家追討の為龍蔵寺や槙ヶ峰千軒坊を焼払いながら通過し三草山合戦に勝利し”鵯越の逆落とし”奇襲で”須磨の浦”へと向かっています。弘治3年(1557)丹波に攻め込んできた三好長慶・松永久秀軍と交戦した「龍蔵寺合戦」の際:兵火により焼亡する。このとき愛宕山の山腹に在った龍蔵寺の僧坊堂宇を城郭化して波多野氏が籠もり迎撃:対抗したのが
高山城主郭の城址碑

龍造寺城と云うが龍蔵寺は篠山藩政となった江戸時代初期には再興され篠山市の旧郡名:多紀三山”龍蔵寺・文保寺(味間)・高山寺(矢代)”筆頭としておおいに栄えたといわれます。龍蔵寺口に築かれた高山城が龍造寺城であったと考える。河村氏は永正年代(1504~)以前:因幡国(鳥取)八上郡より波多野氏等と共に丹波に来住した重臣の一人とされます。其の高山城の東山裾を南奥地に詰めて登っていく先の龍蔵寺城を攻める為
城址碑西背後にも幅15m・長さ20m程の広い2段曲輪

三好方が築いた付城と推察するには手間を懸け過ぎているように思えるが果たして…?。 三好長慶軍が攻め落とした「細川両家記」による龍蔵寺城が此の高山城を指すのであれば後日龍蔵寺への入口・高山城を正面に見る岡崎山砦が その縄張りからも龍蔵寺合戦の三好長慶軍の付城を築くに適地。波多野氏は比較にならないほどの三好方大勢力に対抗し八上城に立て籠もったが落城しているので八上より西南に位置する高山城…等々へは三好軍の別働隊が攻撃したものか?。
円応寺背山から中央:二村神社・右小丘が順手山砦と館山城・左端手前が高山城

三好方の付城?と思われる岡崎山砦側:近くには 高山城ともに河村氏の見寺城があるが落城した八上城へは松永久秀の甥・孫六が入り居城して永禄9年(1566年)波多野秀治が八上城を奪還するまでの10年間を多紀郡は三好氏が支配するところとなるが波多野氏を追放し多紀郡を横領した三好・松永時代を伝える関係資料が 余りにも不足しており合戦の全容を知るべくもなく詳細不知だが、
高山城(主郭部の東側二段曲輪

龍蔵寺城は此の高山城であったと推察してレポートを続ける。その後は八上城支城の真南条城(高山城)を波多野氏家臣:土豪の河村紀伊守嘉が改修して拠ったか!。”丹波攻め”明智光秀軍の八上城攻撃(天正4年(1576)1月頃から始まった。城主や留守将らも八上籠城戦に参軍したものか?。天正5-7年(1577-9)明智軍は大軍で八上周辺の支城を一つ一つ攻め
高山城中郭の虎口部切岸

を落としていきます。高山城も天正7年(1579)に落城したとされるが八上城を直ぐ近くに控えた高山城が此処まで 明智の大軍に抵抗しながら残ってきたとは考えにくいのだが…「高山城址」碑裏面の 嘉高公顕彰文によると小林株の講中により河村大明神の例祭日は8月21日。八上城も天正7年8月落城なので高山城主河村氏は八上城に籠城して最後を迎えたのかもしれません。
高山城:土橋付き堀切手前の竪堀!?

丘陵先端部)から取付けば城主:河村嘉高(波多野氏家臣)を「河村大明神」として祀る「高山城」主郭への参道が通じており幅の狭い堀切の土橋を渡ると本郭部の下部に二本の鳥居が立ち小さな祠跡の石垣が残っており切岸側に開く虎口を上がると幅20mx南北に50m程の細長い単郭の削平地が拡がる山頂の主郭部で中央付近には平成4年(1992)頃までは此処に嘉高公を「河村大明神」として崇め祀られた祠が 建てられていたようだが祠は壊され屋根瓦やブリキ製の屋根の一部が残置されています。ここまで参道が通じているので楽に辿れる。
尾根中間部の広く長い緩衝帯?

城主波多野:秀治兄弟が安土で処刑された後も二ヶ月持ち堪え8月に落城しているが高山城も同8月です!!。八上城を直ぐ近くに控えた高山城が此処まで 明智の大軍に抵抗しながら残ってきたとも考えられない!!?。取るに足りぬ小さな城として無視されていたとも思えないが高山城主は八上城に籠城して最後を迎えたのかもしれない。山上で執り行われてきた祭礼も核家族化や高齢化により伝統行事の実施も次第に困難となり祠は麓に改修された様で祠跡には
高山城(尾根先端部郭)西端曲輪の切岸:腰曲輪が下段に延びる

平成5年4月建立の高山城址記念碑が建てられていた。天正6年(1578)末から籠城6ヶ月三木合戦に次ぐ飢餓作戦に天正7年八上城は落城する。真南条上の土豪・河村氏の高山城と真南条中の館山城に挟まれた南側の谷間の集落奥に二村神社があり其の東に見える高山城へ向う。高山城への初登城は公民館西約50m程にある民家と倉庫の間から藪地の奥に続く参道を尾根に出て中程の平坦段(曲輪群)に着いたが今回は地区道を更に60m西の民家の手前から。
岡崎山砦西方の円応寺

取付の竪堀状堀底道?を抜け土塁虎口上の西先端曲輪に入る。山上主曲輪同等の城域を持つ高山城下城か居館跡!?広い曲輪奧の土塁虎口に続く小曲輪群を抜けると当初に取付いた民家間からの参道?から屈曲して上部に通じる虎口部を西先端曲輪(居館?)直ぐ上部 緩衝帯の様な中央郭に出るが下方から稜上に出る段差のある急斜面も虎口形状。さらに長さ40m程の竪堀状(堀底道?状の山道)を伝い主郭下部にある城域内唯一!?の土橋付き堀切に着く。
古墳に稲荷社を祀る岡崎山砦主曲輪

堀切を挟むように二基の赤い鳥居と石垣が残る小祠も祀ってあった筈なのだが!?。主曲輪に向かう前に東枝尾根の先に二段曲輪?があり龍蔵寺川沿いの道を眼下に望む位置だが龍蔵寺への参道往来監視の必要性には疑問?も。主郭南端土塁近くから南西の二村神社へ降る荒れた枝尾根にも小曲輪段?をみて池や畑地に降りる。直接主郭に通じる尾根筋だが搦め手道と呼ぶには…?。主曲輪南端には土塁と西南側下に小テラスが石碑西背後には竪堀状の凹角を見る。竪堀状側西南の枝尾根筋には幅15m・長さ20m程の広い2段曲輪がある。



岡崎山砦   xxxm  篠山市丹南町真南条上

R372(デカンショ街道)から龍蔵寺へ向かう交差点入口に近くに高山城(龍蔵寺城)があり北方200m程:山裾に円応寺があり其の東に北方から延び出す丘陵先端付近:南東先端角から山上部の稲荷社へ続く参道がある。山上部には二基の古墳の間…というか山頂部に稲荷社を祀る古墳を主曲輪として、
参道右手の2段曲輪

其の前面(南下方)二手の枝尾根上に共に2-3段の曲輪を置くが段曲輪周囲に堀切や竪堀もな縄張りの岡崎山砦がある。R372(デカンショ街道)を挟んで龍蔵寺へ向かう交差点の右手に高山城(真南条上城・龍蔵寺城?)があり岡崎山砦とは南正面に対峙し曲輪は全て南正面を望む。弘治3年(1557)頃と云う龍蔵寺合戦の際の三好長慶・松永久秀方の向城でしょう!。河村氏の城砦群には高山城及ぶ其の西隣の二村神社参道の
左枝尾根の下2段曲輪)

西・田圃の先(比高15-20m程)の低い丘に順手山砦(仮称)・その西に江原氏(河村氏・酒井氏とは同族か?)の館山城が岡崎山砦の北方:願勝寺の背山にも河村氏の拠る足見寺城がある。三好勢による高山城攻撃の時には:押し寄せる三好勢の大軍との 前哨戦前に…?足見寺城を捨て高山城に入ったか?其れとも:直ぐ北西麓の初田酒井党や尾根伝いには宇土観音を経て井関氏の吹城・円心寺背後・谷沿い?には
稲荷社を祀る岡崎山砦主曲輪

岩崎城へ抜け出てルート上の波多野氏傘下の近在領主・郷氏等と一足先に波多野氏の八上城に籠城したのかも?。しかし此の戦いに高山城(龍蔵寺城?)も波多野氏本拠の八上城も落城した。永禄9年(1566年)波多野秀治が八上城を奪還するまでの10年間を多紀郡は三好氏が支配するところとなるが三好政権下の多紀郡状況は不詳。その後は波多野氏の八上城支城としての 真南条城(高山城)を波多野氏家臣:土豪の河村紀伊守嘉高が改修して拠ったらしい…!!。


順手山砦  xx 250m  篠山市真南条上

高山城の西麓に鎮まる 二村神社へと扁額の掛かる石鳥居から神社へと向かう参詣道の圃場を挟んで西正面に並ぶように南北100m程・比高僅か20mもない低い林は山上に愛宕社?の祠を祀る神社の杜だった。此の低丘陵の西向うをを塞ぐように館山城が聳え立つ。
丘陵上の祠は愛宕社か?

館山城は城主:江原左馬之助と伝えられるが江原氏も河村一族か其の属城か?。呼応する河村氏の足見寺城・高山城間の連絡・通信の砦か?。地区道を挟む南向かい斜面の崖状は現状:道路拡幅工事による「土取」か?…丘陵上の土塁・空堀?・この崖近く祠東斜面にみる竪堀…等の様相からは崖も切岸!!?城遺構とかんがえると低位置に平坦段だけの単郭城域は、
祠背後の空堀状と低土塁(西下に幅狭帯曲輪!)

丹波市の井中城(仮称)同様に異形縄張りの最右翼級で特異なもの!!。高山城(真南条上)・館山城(真南条中)・真南条下の氏神・二村神社の社務所横には以前塩掛の庭「丹波篠山五十三次」案内板が立てられていたのだが?。丹南町古市地区神内(現:見内)の式内社で「伊弉諾尊・伊弉冉尊」をお奉りする二尊神社がある。
低土塁面西下の帯曲輪

真南条上の高山城と真南条中の館山城に挟まれた入江の様な中央部奥に二村神社があり其の手前に浮かぶ小島の様な丘が順手山砦。二城を結ぶ地区道の側に地蔵堂?と二基の石碑(郷土力士?と謡曲師か?)が建つ。
祠背後の空堀

北正面に足見寺城や槙ヶ峰を望む位置。南側は車道拡幅工事や土取りで崖状になっているが西の民家そばから参道が延びる。比高15m程・幅20mx東西に長さ約150mの独立超低丘陵全体を神社 愛宕社か?)が占める杜だったが祠を含む北2段は境内として大きく改修されているようだが南方に延びる藪地の長い平坦地形の南半分をコの字状の低土塁が囲み祠側東斜面には竪堀が…。
祠東斜面の竪堀

低土塁南西面を幅狭いが帯曲輪(犬走り?)を回し土塁西北端は短い空堀土塁状がある。 祠のある長い平坦地形(主郭 80m程?)の南端にも太土塁・4-5mの切岸下部に数段の小曲輪が南西面は 竹林だが高い段差で荒れた曲輪内は家臣屋敷跡だったか?小曲輪と竹林の間の踏跡から田の畦道にでて二村神社側の民家に延びている。 高山城か館山城関連の河村一族の居館・家臣屋敷とも考えられる。

館山城(枝城)   館山(点名:真南条中) 298m  篠山市丹南町真南条中

R372号線(京街道・デカンショ街道)・真南条上で龍蔵寺の案内標識を見て山手の南方を見ると右肩上がりの小山が高山城(真南条上城)だが其の西方に同様に左肩上がりの小山が見えています。真南条中集落の南に位置しする小山から 北に派生する丘陵の西端に円錐形のピークがある。
山上部の主郭切岸と櫓台

この円錐形の丘陵の山頂に主郭を置く真南条の土豪・河村氏一族の枝城(館山城)があった【古史に江原左馬之助の居城と伝えられるだるだけで城史の詳細は不明だが!?】また小枕から真南条~栗栖野へは京都から播磨-須磨へ駆け抜けていった源義経の伝説をはじめ多くの昔話や伝承が残る一帯でもある。龍蔵寺の回峰の行場だった太平三山の愛宕山と中尾の峰から
山上部の主郭と櫓台

北へ派生する枝尾根末端の東側に位置して高山城(真南条上城)西側には館山城(別名:枝城)があり、その間に挟まれた谷間のほぼ中央部には二村神社があって塩掛の庭があるので上記に紹介している。二村神社の北方に見える丘陵部には足見寺城があり高山城と共に河村紀伊守の
鞍部クランク状土橋/片堀切


城なので此処・館山城もまた土豪河村氏一族の城と考えます。R176号沿いの古市から矢代・初田やR372号線に沿って波賀野・栗栖野・真南条辺りは”酒井の庄(酒井郷)”と呼ばれた一帯で八上城主・波多野氏が統治する以前は承久の乱(1221)の功績で相模国大住郡酒井郷から酒井兵衛次郎政親が此の地の地頭として来住したのが
R372号沿いから館山城

始まりとされる武士団「酒井党」の勢力下にあったところ。真南条は大化年間(645-50)以後全国的に 大規模な耕地開発がされてきた条里制の地名”条”【土地の横列を東西「条」・縦列を南北「里」に区切りその田圃の区画を「坪」として整備されたもの】の名残と思われる。館山城へは北の集落(R372号線)側から直接山頂にある
南鞍部:空掘の間に突出す竪土塁

給水施設・館山城主郭へ二本の道と西側から主郭南の鞍部に至る道。 東から谷川を渡って此の鞍部に至るルートが考えられます。北側山裾の集落内道傍から下草に覆われて足場も見えない細い道が真南の山頂に向って一直線に延びる。
家臣屋敷群から主郭南鞍部へ縄張を外周して延びる長い土塁道

山容通り円錐状の山への激急斜面のプラ階段を上り詰めた所が山頂で、簡易貯水施設のコンクリート水槽があり北側に(点名:真南条中298m4等三角点)三角点石標が埋まります。遺跡分布地図にはこれ等の工事によるものか?用部のコメントには「消滅」とさえ記されている小規模城砦で水道施設整備で消滅したことになっているのかな?。山頂の主郭10x25m程の削平状況は壊滅的だが2-3曲輪跡が残る。
東山裾に展開する家臣屋敷群

南端部に1.5m程の段差で幅広の櫓台と思える土塁を置くだけの単郭の城です。しかし此の城一番の見所は貯水施設のある主郭から南側への斜面を下った鞍部から東側の谷筋一帯にありました。東側を深く崖状に削り込んだ 二本の片堀切の間を竪土塁・尾根上にはクランク状の土橋がある。今日見てきたどの山城の堀切も浅く短かいが此の東側の堀切の
稲荷曲輪から延び出す竪土塁と空掘⇒竪堀

深さ・土塁の高さ・竪堀となる先端は自然地形?だが、その長さも幅もBIGスケールです。土橋で繋ぐ二条の片堀切の間には竪土塁が急斜面を堀切の先へ突き出ています。反対側(西面)は緩やかな植林が拡がり天水受けの池跡なのか?凹角状が残るが無防備です。東面に対してのみクランクする土橋・大土塁と片堀切で堅固な防備施設で護られている様です?。
曲輪と重連する土塁・竪堀が不思議な縄張りを見せる!!??

此の鞍部で城域は切れる様だが登山なら猪垣のフエンスを抜けて此の尾根続きを太平三山の”中尾の峰”目指しても良さそうです。中尾の峰付近では棘の多い相当に手強い藪を覚悟しておく必要もあるがしかし驚きは此処から。片堀切に間の竪土塁を降った所から始まります。居館部と詰めに山城の間は尾根筋や谷筋の山道を介して有る程度!!は距離を置き其の間には堀切等の防御施設が伴うのが普通?と思われますが、
稲荷曲輪側竪堀から擂鉢底状の曲輪を窺う!!

此の館城は急峻な北側斜面から山上の主郭まで何の城砦遺構も見出せなかったが南斜面を尾根続きの鞍部にかけては先述の通りです。此処から東方に降る谷一面には息も継がせずに連続する段曲輪・曲輪を竪堀や空掘が囲う。竪堀が4重に連続するが竪堀と竪堀の間には異様な程に高く屏風を立てた様に切立つ大土塁が目を惹く。この連続する竪堀・大土塁は東北端に位置して竪土塁部を残す小広い曲輪に出ると稲荷社を祀る祠が建つ。北方の山麓から石段の残る参道があるが、
擂鉢底状の曲輪から大土塁と竪堀落口を窺う

石段を土砂で埋もれがち、稲荷の赤い鳥居参道脇に倒れ朽ちかけている。稲荷曲輪周辺にも小曲輪が附属しているが東側に低土塁を残す曲輪の間の平坦地に北から入る虎口がある。山麓に数段の家臣屋敷群があり西寄りには土塁道は主郭南下の鞍部に向うが東寄りには此の土塁と竪堀群に囲まれた稲荷曲輪に入る登城道で稲荷への参道とは違う。登城道途中に腰曲輪が山腹を捲く様にあり、
曲輪と重連する土塁・竪堀が不思議な縄張りを見せる!!??

この曲輪を廻り込んでいくと稲荷社石段参道の下に出る。稲荷曲輪や其の東側曲輪の下方には周囲の山の斜面と土塁・竪堀の口?に囲まれ擂鉢状の底に有るような円状の曲輪を見る。曲輪に降りると蒸気機関車操車場のターンテーブルに乗って(土塁に囲まれた竪堀の!!)どの出口に向おうか?…なんとも形容し難い不思議な光景が目前に展開する。城郭の専門知識もなく城廻り暦も浅いのでよくは判らないが、こんな縄張構造を持つ城郭に出逢った事が今迄にはない…!!。
めいず」を抜け出た曲輪で第一ステージ ・クリア!!の館山城

稲荷曲輪からは参道をとり薄暗い植林帯の中を山麓の家臣屋敷の曲輪群へと降りてくると中世戦国の時代から突如としてタイムトンネルを抜け出してきたように明るい日差しを受ける長閑な谷間の集落の中に居た。息つく閑も無いほどウネリの様に次々現れた大土塁と竪堀は何だったのだろう?夢を見ている様な気がして…。


足見寺城(中山別堡)  足見寺城山 Ca360m   篠山市丹南町真南条中足見寺地内

二村神社の北方・R372号線を挟んだ北側には東西に緩やかに裾野を延ばす半独立峰の城山360mの山頂一帯には河村紀伊守嘉高の拠る足見寺(そっけんじ)城がある。槙ヶ峰から南方へ派生する尾根が二つの要衝:R176号(丹波の森街道:阪神・摂津から丹波・但馬・若狭を繋いで南北に延びる但馬道)側の初田集落とR372号 (京・丹波・山陽道や摂津・阪神方面に通じる京街道が 東西に走る)真南条上の集落を結ぶ未舗装林道(諸車通行禁止)が峠を越えています。
主郭から北曲輪へ続く細長い土橋状の尾根と切岸左手に一条の竪堀

足見寺城への登城路はいくつか考えられるが取付点を探して南山麓の寺と神社マークを目指し願勝寺【曹洞宗:中世細川氏により再建されたが 天正期の明智の丹波攻めで焼け、寛文3年(1663)酒井氏により中興されたといい、先に訪れた宇土の弘誓寺や山南町の慧日寺と共に丹波五山に列した寺】裏手から池を回りこんだが今度は峠から直接アタック・真南条上集落内を山裾の東に廻り込みR176号線側の初田へ抜ける峠越えの未舗装林道を選んで進み北側の峠から尾根に取付いて辿ってみます。
足見寺城・主郭部南端の大堀切

峠から更に南へ延びる尾根上へは雑木・下草を手懸かりにしての急斜面だが 足見寺城主郭部から北に土橋状の細長い尾根末端部の曲輪に登り着きます。二つの要衝を繋ぐ間道を監視する物見の出曲輪のようだが雑木に阻まれ眺望は皆無。しかし低土塁らしい高まりを残す。緩斜面に細長く続く尾根筋には・自然地形の 凸部が土橋風に見えたり堀切かと思えたり…!!??。細すぎ・浅すぎて判断出来ないが土橋付堀切らしい部分もあり、いよいよ主郭北端にある比高60m程の最高所の切岸下に着く。切岸左手(東側)に沿って竪堀が一条切られている。
主郭部南端の大堀切

主郭に入ると北の尾根続き側から東面にL字型に幅のある土塁状盛上りがみられ南への尾根に整地された低い(1m程)曲輪が三段並んでいる。主郭部最高所東へも急斜面の先にも平坦地があった。主郭を中心に尾根上の北・東・南三方に堀切や土橋・土塁で防備を強める曲輪を配した連郭式山城遺構がのこる足見寺城です。主郭部三段目の曲輪端に土塁があり前方は高さ4~5m程・幅10m程の大堀切となる。今日見てきた山城の堀切や竪堀は館山城の片堀切を除いては、どれも此れも浅く・短かいものばかりだったので幅や高さからも少し感動を覚える。
主郭部の三段曲輪

大堀切を越えた先にも低い南側に曲輪は続き、荒れた斜面を下ると尾根筋は自然地形の緩衝帯の様で遺構は何も見出せないまま・なだらかな部分を降っていく…が突然藪にぶつかる。少し藪中を抜けると下草の間に踏み跡が現れて願勝寺の墓地や、寺の裏手にある灌漑用貯水池へ通じる参道だろうか?尾根端の鞍部に降りると荒れた神社が建っている。鳥居はなかったが真南条川を渡って二村神社へ戻る際に渡った橋が「びしゃもん橋」なので此処が毘沙門堂なのでしょうか。河村氏は応仁の乱の頃に波多野清秀等と共に丹波に來住したと思われ大永年間(1521-28)波多野備前守の有力武将の一人として河村善兵衛が仕えています。
高山城東山裾(龍蔵寺川沿い)から足見寺城を望む

弘治3年(1557)にも三好長慶・松永軍が八上城主:波多野氏方が拠った「龍蔵寺城」を攻めた頃、龍蔵寺に僧徒の争論があったといいその際・河村竹千世(後の紀伊守!!)が裁決し寺法を制定したとされます。三好長慶軍が攻め落とした「細川両家記」による龍蔵寺城が 真南条上城(高山城)を指すものと思われます。R372号(京街道)を挟んで南側の丘陵部には高山城(真南条上城)・館山城があり三城共に河村氏の持城となっています。二つの主要街道筋一帯は酒井党の勢力下にある為、河村氏も酒井党の一派として酒井氏勢力下に組した在地土豪だったのかもしれません。
主郭部南端曲輪:大堀切側の土塁

龍蔵寺合戦では八上城主:波多野氏方として参戦して高山城・館山城・足見寺城等・三っの持城に籠もった 河村氏一族には多大の犠牲が伴ったことでしょう。二村神社側から足見寺城に向かう集落の外れ真南条川に架かるコンピラ橋を渡る手前には三城を望む位置に見かけた古い五輪塔群が其れを語っているようにも思えました。明智の丹波攻めに対抗したのも 紀伊守で自ら足見寺城を廃して火をかけ八上城に籠り戦死したといわれます。
「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」(八上城研究改編 参考)


助太郎屋敷(真南条下館) xxxm  篠山市丹南町真南条下字溝ノ坪

JR古市駅付近でR176号線(丹波の森街道)と分岐して八上城山裾を亀岡方面へ向うR372号線(デカンショ街道・京都街道)がある。約2.5km程で舞鶴若狭自動車道の高架を潜った東側約100m程のR372号と専用自動車道の間・田圃の中に現状では方形の高さ3m程、土壇の基部に石積みをのぞかせているのが見えなければ古墳の墳丘かと見紛う様な壇状が見えます。
助太郎屋敷:墳丘状の頂部には五輪塔と祠が祀られている

土壇上は南北約6m・東西に7m程の狭い平坦地になっていて壇上には燈籠と小さな祠が祀られ 5~6基の五輪塔が舞鶴若狭自動車道を眺める様に並んでいます。民家と隣合って民家側の段差下には小さな池が残っていたが今はコンクリートで四角に囲われ 小橋も架かる養魚用池!?があり其処が「助太郎屋敷」跡でした。東方からだと館山城麓からR372号(京街道)を約1km程西に位置して民家を抜けて田圃に出る高い段差の下に 小さな墳丘状の壇を残すのみの”助太郎屋敷”を見ることになる。狭い壇上から居館であった 往時の状況を推し測る事はできないが…。北面から西方へ田圃の形状や段差・南面の小さな池は井戸か庭園跡?、民家と其の南側をR372号が走るが、
助太郎屋敷の北西に続く丘陵の頂部(約1km)に足見寺城がある

此処は篠山城築城の際・大量の築城石材を運搬する為改修された筈。篠山城の築城石の多くが・此の屋敷前R372号線沿いに大量に運ばれているので 石材運搬に関わり文書等の記録があるのかは知らないが各所に設置された代官所?跡の一つとも思える。丹波のむかしばなし(第3集)の載っている鼻の助太郎の屋敷跡なのでしょう?。歌舞伎脚本のなかには”丹波国助太郎館”があり宝暦4年(1754)に初演されたという人物は天正年間?豊臣秀吉に寵愛された人物だったともされ伝承のみを伝えるが土地や時代が特定出来る程に明確ではありません。登場人物の「○○太郎」の名前で代表され、天狗の話と云い長者伝説として何処かにありそうな(例えば香川県多度津郡?に「鼻かぎ名人」)同じ様な話を伝える民話鼻の助太郎は 素直・素朴・単純でほのぼのとした人情味に溢れる暖かさ等、その内容が大筋で変わらない全国どこにでもありそうな「おはなし」が民話の世界ですね。
助太郎屋敷:墳丘状の頂部から舞鶴若狭自動車道を眺める五輪塔群

周辺一帯は篠山藩第四代(形原)松平若狭守康信(在位慶安2~寛文9・1649-69)の地検の際に破壊された。南面の一段高い民家側の間には池があり田畑と池は周囲を堀で囲った環濠居館で在った事を語っているのでしょうか?。池は庭園だったか・井戸跡か・屋敷を囲んでいた濠跡だったのかもしれません。此の舞鶴若狭自動車道の北にも田園風景が拡がり山裾にR176号とJR篠山線が並走している。城砦・居館遺跡として城史や城主は不明だが酒井党一族の居館跡(源義経伝説に由来する不来(こぬ)坂に近く 京・摂津・東播磨・丹波を結ぶ交差点にあって街道通行の監視を兼ねた代官所?)とは考えられないのかな。かけ離れた伝説と遺構に接点を見出せない!!?。
助太郎屋敷:遠望する田の形が曲輪・下段の田が沼田濠?

真南条川(武庫川源流)を渡り城山(足見寺城)の丘陵先端部に出ると初田酒井党の初田館(酒井勘四郎館)跡も1km程先に見える筈?(自動車道工事や圃場整備により発掘調査後消滅した)。酒井党は承久の乱(承久3年1221)の功績により相模国大住郡酒井郷から地頭として油井に来住したのが丹波酒井党の始まりとされるが承久の乱以前・既に此の地の地頭職を与えられていた酒井太郎明政(穐政)が初田館
【永正年間(1504~21)波多野氏に対抗して敗れ其の傘下に組み入れられて以降・一方の旗頭として織田信長の丹波攻略では部将明智光秀の八上:波多野氏攻めに波多野氏に付いた初田酒井党の拠城:大沢城の拠った若き城主勘四郎の居館=酒井勘四郎館として地元では知られているようです。舞鶴自動車道工事や圃場整備等で発掘調査後は環濠屋敷跡の遺構も消滅し、既に位置も定かでなくなっていた】に移り住んだのが始まりだとも云われます。







鼻の助太郎
篠山市真南条の助太郎屋敷は丹波のむかしばなし(第3集)「鼻の助太郎」・伝説の 兵庫県(西谷勝也著)に「鼻かぎ名人」・日本の民話(14)には「助太郎はん」として紹介されています。立身出世物語?として類似する話に「日本の民話」に香川県に「鼻きき五左衛門」が載っています。「彦一ばなし」等の頓智話と「藁しべ長者」ばなしを合わせた様なお話です。民話の舞台となる此処:助太郎屋敷の西方約700m程にある 若林寺背後の丘陵に栗栖野城が在って其処の地蔵堂にはイボとり地蔵さんの話も伝わります。昔:丹波篠山の真南条の下村に助太郎という働き者の木挽(こびき)が住んでいました。毎日朝早くから弁当を持って光龍寺山へ入っていたが近所の人から「嫁さんは、あんたが山へ行った後、いつもおいしいものを作って食べているらしいで」…と聞いていた。
墳丘状の頂部には小さな祠と燈籠・五輪塔が祀られている

そんな或る日の事山へ行ってから鉈を忘れてきたことに気がつき、鉈を取りに家へ戻ってくると嫁さんがぼた餅を作って美味しそうに食べています。助太郎がこっそり覗いているのを知らず「いくら何でも、これだけみなは食べられない、残りはまた後で食べよう」と戸棚に隠してしまいました。助太郎は知らぬ顔をして「今帰ったで…」と言いながら、わざと鼻をピクピク動かしながら戸棚に近づき「なんだか美味そうな匂いがするぞ」と辺りを嗅ぎまわる振りをしながら戸棚の中の牡丹餅を見つけて食べ始めます。「あんたの分を置いとったんやで…」と言い訳しながらも 助太郎の良く効く鼻にビックリする嫁さんに助太郎は「山で天狗に何でも嗅ぎ当てる術を教えてもろうたんや」と言う。
助太郎屋敷の北西約1kmの足見寺城山麓の曲り屋民家と灰屋

嘘に決まっている「鼻かぎの術」を、すっかり信じ込んでしまった嫁さんが近所で逢う人ごとに「うちの助太郎はん・そらよう効く鼻を持っとって不思議に何で嗅ぎ当てるんやで…」噂は広まり:或る日のこと助太郎が留守の間に隣村の長者の家から使いが来て 「長者の娘さんの大切にしていた金のカンザシと銀の櫛が無くなったので助太郎さんの鼻で嗅ぎ当てて欲しい…」と言う。不思議な鼻の力を信じている嫁さんは容易く引き受けてしまいます。山から戻った助太郎は驚き「大変のことになった。ちょっと嫁さんを吃驚させようと思うただけなのに今更嘘とも言い辛い…」どうしたものかと一人思案していると夜になって長者の家のお手伝いさんがやってきました。助太郎に「実は、あの金のカンザシを盗んだのは私です…どうか私のことは内密に…」と 蔵の入口の石段の下の隠し場所を教えます。助太郎は「人のものを盗むのは悪いこっちゃが正直に言うたんやから、あんたのことは言わんとくわな」と諭してお手伝いさんを帰します。翌日:助太郎は長者の家に行き、たちまちカンザシを見つけた事で、ますます村中の評判となり噂はとうとう都まで伝わります。或る日:助太郎のところへ殿様の使いがやってきます。「家宝として大切にしていた刀がなくなり困っている、その鼻で嗅ぎ出してもらえないか」殿様の頼みでは断るわけにもゆかず仕方なく都に出掛けて行くが、どうすれば良いのかわかりません。
助太郎屋敷

都に上る途中・小さなお宮さんで 助太郎は手を合わせ「どうかお助けください」と一心に祈ります。子供達に捕まえられ・いじめられている子狐を助け、其の母狐が恩返しに殿様の家宝の刀の在り処を教える話となったり又有りそうな?別の話では助太郎がお宮さんの陰でひと休みしていると2-3人の侍が通りかかり、何かひそひそと話しているので思わず聞き耳をたててみると「刀は屋敷の梨の木の根本に埋めてある。いくら助太郎でもわかるまい」という声が聞こえてきます。 助太郎は大喜びで思わず、お宮さんにお礼を言って都の殿様の屋敷に向かい、たちまち刀を探し当て・殿様から沢山の褒美を貰い真南条に帰ってきた助太郎は褒美で建てた大きな屋敷で暮らしたといい堀を廻らした立派な屋敷跡が今でも真南条の村に残っています。
篠山市HPの民話と伝説 丹波のむかしばなし(3) 伝説の兵庫県 日本の民話(14)等を参照

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二村神社の塩掛の庭

高山城(真南条上)・館山城(真南条中)に挟まれた谷あいに鎮まる二村神社の社務所脇に塩掛の庭がある。 文明14年(1482)丹南町古市神内(現在は見内)に式内二尊神社(二村神社)が祀られており、神社氏子は今田町の小野原から 丹南の古市・大山・味間・真南条・西紀町の南河内や北河内と広い範囲にまたがっていた。
真南条:二村神社「塩掛の庭」

例祭の当番は各村が当番制で回り持ちだが見内の名主は神社鎮座地ということで何時も一番上座に列し次に各村の名主が座するのが慣いとなっていたので大所帯の村の名主ほど自分達は見内より多く負担しているのに上座に座ることができないと不満に思っていた。文明14年(1482)の例祭には日頃の思い点に達し神事も終了した直会も半ば濁り酒に心地よく酔いしれた頃、 またもや宮座争いの口論となり、挙句は力ずくで…神殿の扉を押し開き、御神像一体(伊弉冉尊)を持ち出したのが近郷にも剛の者と知られる真南条村の名主でした。
館山城主郭東下方に広がる怪異!!?な土塁・竪堀遺構

神内(見内)の追っ手を振り切って御神像を持ち帰った真南条の名主は宮の谷の二つの流れの合流点塩掛の清流で御神像を浄め、宮の谷奥にある磐座に御神像を安置してお祀りされた。その場所をバンヤノマワリと呼ばれ、由来を残す為に塩掛を模した庭が造られた。奥の大きな石は磐座/散在する石は真南条の集落/白砂は谷の流れを表現されている。この御神像争いの時には味間が神輿(文保寺山門)・西吹(西吹城東麓)が馬具・矢代新田が椀箱・を持ち帰り 其れ等を御神体として、それぞれ集落の神社で祭事が行われているようです。
R372から二村神社へ、入口正面の順手山砦(小丘)

二村神社はいつまでも山中に御神体を祀っていては勿体ないと 山裾を切開いた現在の場所に移され元亀元年(1570)石鳥居が元亀4年(1573)には御神殿を建て御神像を遷すにあたって村人達は塩掛で御神像を洗い清め彼らもまた・同じ流れで心身を清め御神像を安置しました。今も二村神社への赤ん坊の初詣は塩掛の水で清めてから御参りする習わしになっています。
(二村神社の篠山五三次案内板 等参照)
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