ささやまの森〜船谷山〜深山〜満燈山/白尾山(籾井城)〜荒打/安口城・安口砦
篠山市 (地図=園部)
T ささやまの森公園〜庫坂峠 〜船谷山〜深山〜満燈山 2006年12月16日
U福住・禅昌寺〜白尾山 (籾井城)〜点名:荒打   2001年01月21日
  禅昌寺〜大砲山〜金比羅宮〜白尾山(籾井城)  2003年06月08日
安口城主郭の西北部の土塁・櫓台

近畿の山城: 籾井城(安田城・福住城) 安口城と安口西砦 西野々砦

篠山市街地から飛曽山峠を越え、更に小野奥谷集落から小峠にさしかかるところにある延喜式の古道:山陰道の駅屋 (うまや)小野駅跡の碑を見て、峠を降るとR173号綾部街道筋と合流する小野交差点に出ます。旧山陰道は京都・但馬 ・播磨への基幹街道でR372号(山陰街道・京街道・デカンショ街道)が走る重要な街道筋の要衝を望む丘陵には数多くの城塞(近畿の山城で紹介済み)が築かれています。”ささやまの森”へは籾井川の沿ってR372号バイパスではなく 安田の大杉(甚七森)の巨木を見て旧京街道(旧R372号)を通る南側の筋は 、宿場町風情が残る福住地区内に入ります。
登山コースにある案内板

慶応4年(1868)明治新政府から山陰道鎮撫の総督に任命された西園寺公望が、福住に本陣を構え此処に大砲を据えて布陣し、篠山藩の動向を窺ったと云われます、次に本陣を置いたのが柏原八幡社下の西楽寺かな!。 一里塚(此処では福住の一里松・を過ぎ住吉神社前を通過すると急に福住宿を抜け出た気がしたのも道理で!?、 天引峠が境ではなく篠山藩政時代は此の安口(はだかす)辺りから亀岡藩領有地となっていました。西野々砦訪城の際に尋ねた当地の区長さんとの話の中にでてきて、 あわてて調べ再確認したところですが、平地の民家や田畑の中では境界は分かりにくい。
藩政時代・亀岡領の川原からの山旅は兵庫・大阪 ・京都三府県境界尾根を大展望の深山に向かいます。



T ささやまの森公園〜庫坂峠〜船谷山⇔深山〜蛇岩⇔満燈山(点名:タキ谷) H18年12月16日

旧街道筋の宿場町:福住を抜け川原集落から南方の八幡谷ダムに向かって 「ささやまの森公園」の標識を見て舗装林道を進みます。現R372号線(バイパス道)に大標識も有って判り易いでしょう。 今年(H18年)秋に拠った時・美しい自然に囲まれ・紅葉の只中に建つ公園の活動拠点施設周辺の写真を掲載したかったが、撮り溜めていた画像も今年8月以降のデータはBKUPしていなかったので、HDDトラブルと共に消滅してしまった。 八幡ダム湖の堰堤を見て直ぐ駐車場がある。
広く明るい川原谷の源頭:府県境鞍部が庫坂峠

此処からも整備された散策道が有るが、尾根に登り着けば関電巡視路が満燈山へ通じていそうです(未確認)。終点の「ささやまの森公園」活動拠点施設に向かいます。入母屋造りの丹波の民家を模した拠点の施設を中心として、 八幡谷ダムや満燈山〜船谷山〜683m峰の山腹を巡る散策路が整備されています。只いずれの公園施設も登山対象にはなっていないので道が整備され ・やたら案内標識はあっても施設内専用ガイドパンフレットでもなければ、余計に迷ってしまいそうです。「ささやまの森公園」入口の絵地図では登山ルートを決めかねて・とりあえず園内を直進する緊急用車道林道を進んで 「深山へ」の表示に従って進みます。
ささやまの森公園〜深山へ :落葉踏みしめ自然林の中の散策路

大阪府最北端の三角点峰:深山へは能勢から天王方面へR173で「はらがたわトンネル」を抜け、瑠璃渓側からは幾度か登ったが ピクニック気分で 草原と展望が楽しめるが登頂感の薄い山のイメージが強かった。 「ささやまの森公園」から深山に向かう川原谷沿いの行程は、 せせらぎを耳にしながら落葉を踏みしめて山腹を登り下り、府県境尾根の源頭部からは素晴らしい自然林の中の散策路。最後に熊笹を分けてドーム状の山頂を目指す快感を体感出来る。

府県境:庫坂峠(大阪側は天王に下る)

川原谷沿いに園内を直進する緊急用車道林道の右手・栗林への道にも道標が立つが、 満燈山からの下山路は此処「雨坪」に降り立った。谷沿いの左側に数段の平坦地が有る。畑地跡で往時の石積の猪垣が残り、樹間の奥に見える大木には注連縄も掛けられている。モリアオガエルの池畔には睦まじい !木造りの夫婦蛙が白い目でジッと此方を見ています。苔生す舗装車道も結構傾斜が急になるが、落葉に隠れ突然の様に終点となる。正面に踏み跡も有るが、散策路は左手に続き標識もあるが、此処から山腹を捲くようにして戻る様です。 いよいよ山道・針金も錆びて切れてしまいそうな木の階段道もあるが結構急登・・・満燈山への東尾根へは直ぐと思える頃・山道は谷寄りにドンドン廻り込んでいく。扇岩の横を擦り抜けて少し下ると谷筋を渡り代える「扇ナリ」のコバに着く。 尾根筋でも谷筋でもなく・山腹を捲きながら峠を越えるコースは、公園の絵地図にあったように能勢・天王と篠山川原・福住を結び利用された深山古道です。「扇ナリ」からは谷も広くなり大阪府県境の庫坂峠640mまでは雑木の疎林が素晴らしい。峠の手前からは「胎内こぐり」の岩場〜流れ尾〜林道終点への踏み跡が有り「大正古道」の名が残り、 いずれの道も近年まで能勢・丹波を結ぶ山越えの道が有ったのでしょう。
丹波の山々を背に深山へ最後の登り

庫坂峠から南へはR173号線・天王へ下る道。西尾根は先程より目立つ存在の683m峰〜488m峰〜散策路に出て八幡谷ダムサイトやタキ谷に 活動拠点施設の直前に降り立つルートです。樹林の中で殆ど展望も望めませんが ・自然林の中の広い尾根を 東に向かう階段道も気にならない爽快さです。階段も直ぐ切れると緩やかなアップダウンが続き満燈山 〜天引峠への京都府境界尾根と、深山への大阪府境界尾根が分岐する船谷山(730m)に着く。何処が山頂か分からない平担地に山名が書かれた 大きな標識だけが立てられています。 ドームのピークを見せる深山が姿を見せているので折角です。
深山山頂・深山宮

たいして登りも無く鹿の楽園の様な天上の散歩道なので此処から深山を往復して満燈山に向かうことにします。倒木と落葉で土道が判断できるのは、沁み出した泥濘に落葉が溶け込む様な深山への最後の熊笹道の登りから、疎林帯を抜けると深山宮の石碑の建つ山頂に向かって熊笹を分けて登り切ると石碑の建つ塚の周回道に出て南側・パラボナアンテナの無人雨量観測所や石鳥居を見て深山最高所(791m)前の遥拝所へ出てくる。神域内へは立ち入れないが此処に三角点が在ったというが、現:地理院の5万図には三角点表示が無い。個人所有の山地では事情によって三角点設置場所を変える事はあっても?、断わられて撤去されたり此処での測量を止める事ってあるのかな?。
船谷山〜蛇岩間の土橋状を過ぎて 柳がタワへ

測量後の立入りを拒む所有者は有るようですが?。 やっと着いたら ケーブル山上駅の展望台・そんな深山から三国境の船谷山へ引き返し、 京都府境界沿いの東尾根を下る。山城に見る長い土橋状の柳がタワを渡って蛇岩へ、また急登となる。八幡谷ダムが見え、 独立峰の様に優美な山容を見せる円錐形の満燈山を正面に見るピークに蛇岩526mがあり、「←雑木林の散策路・満燈山→」の標識がある。踏み跡はあるが散策路は暫く下った先に、川原谷林道終点から延びる 「雑木林の散策路」に合流し「松尾台の東屋」休憩所を経て雨坪から栗林の園地の道に降り立ちます。蛇岩から満燈山の姿を望みながら、此処で下山は勇気が要ります・・・(^_-)-☆
満燈山:蛇岩からの下山コース「松原尾」から

また坂を下る松原尾からは富士型の山へ登る宿命!、 登り直してからは鹿避けネット沿いの急登、 背後には遠く深山からの稜線が望めます。山頂手前から西山腹を捲く巡視路が満燈山西肩に建つ送電線鉄塔(丹波線No70)側へ通じています。平坦で露岩の目立つ満燈山 (タキ谷 568m)山頂です。山の姿からは神奈備を・山名からは愛宕社を祀るか雨乞いの山だったのだろうか。 地元の史誌を調べれば何か分かるのかも?。満燈山から天引峠へと食指の動くルートだが、山歩きに慣れない妻君連れなので西の鉄塔側から駐車場への「アカマツの散策路」を下山するつもりでした。
満燈山山頂

しかし其の踏み跡も散策路までは 藪っぽく激下りの杣道なので無理だろう。といって更に北方から西へ鉄塔が続くので巡視路を ・・とも思うが距離的には遠いので、蛇岩まで引き返し「雑木林の散策路」道標に従い「松尾台の東屋」〜雨坪コースで「ささやまの森公園」活動拠点施設に降りて来ました。 公園内の各散策路は周回コースになっていますが、登山ルートとなる尾根筋へは延びていないが、薄くなる踏み跡を追って尾根に出るのは容易です。


U 禅昌寺〜白尾山(籾井城)〜点名:荒打 
雪の薮尾根縦走  H13.01.21
   一度は明智光秀軍を追返した 勇猛な丹波の青鬼の城と支城を訪ねて

昨日の積雪情報を聞いていたので三田経由で古市からデカンショ街道を福住に向います。 173号線と合流する小野新交差点手前は峠の下りですが轍に入ると腹を擦る程の残雪ですが、交通量が多くスリップすることもなく通過。交差点から173号線を池田側へ右折してすぐ安田の交差点を左折して372号線に入ると 左手に白尾山の小さな山並みが田園風景の先に横たわっています。
籾井城遠望

此処福住は京都からの丹波の入り口(口丹波)で古くは山陰道として、江戸期は京街道と呼ばれた交通の要地。この丹波路の要所・白尾山に城を築き拠点とした籾井氏の城址から荒打への縦走です。R372に入って東に 130m程で籾井川に掛かる北山橋を渡れば禅昌寺です。右折はベルグリーン・カントリー倶楽部へ向かう車道で、山門横の寺駐車場を使用させていただき此処から出発です(AM11:00)。橋北詰め左手に城址案内板と「白馬の半左衛門」の案内板があり、寺と墓地への車道の直ぐ左手に整備された登城口が見えます。しかし門前から既に濡れた雪が数センチ。 整備されているが山道は日陰で、落葉の上に積もった雪は濡れ滑り安い。
籾井城本丸の「籾城公園」石碑

その上 ・雨のように溶け音を発てて水滴が落ちてきます。途中に忠魂碑の建つ東屋休憩所(鉄砲山と呼ばれ、忠魂碑前には日露戦争の戦利品として持ち帰られたという大砲 (砲身のみ)が置かれています)を過ぎると、 少し登りも急になり薄暗く感じる登城道です。【此の鉄砲山の20m程手前から東側の谷を越えて向かいの東尾根の 曲輪群に出る遊歩道が整備中?です。此の尾根から堀切を越え4〜5段の連郭を経て (途中本明谷へ降るコースや、北面に一本の竪堀も有る)主郭に到達するコースがあります】10分程で平場や堀切跡を見て 2段ばかり曲輪を越えると山頂の主郭(25x30m程)に着く。広い平坦地の奥に「籾城公園」の碑があり此処が白尾山(はくびさん 籾井城)山頂(390m AM11:20)です。
籾井城西尾根大堀切から主郭

地元の城山は案内板にもあるように安田城・福住城 ・白尾山と様々に呼ばれている武将丹波の青鬼籾井越中守教業 (のりなり)の居城です。大正13年7月、東宮ご成婚記念に陸軍大将本郷房太郎命名・筆の石碑が建つ。此れより先道は無い??細い道が続いているのかも知れないが、 城址の2〜3の平坦地を抜けてベッタリ雪と雑木の薮に隙間を突いて北への稜線を進みます。これから向う先の方で鉄砲の音 ・・此処は丹波しかも篠山だ・・慣れてはいても気持ちのいいものではない ・・気をつけて進まねば・・・枝尾根を持つ414mピーク(AM11:35)に出ると尾根道がハッキリしてくる。 荒打の手前で道は北の三熊川側へ下るようだか稜線にも細い道がある。
籾井城南尾根末端の片堀切

荒打 (3等三角点 502m)は薮の尾根道上にあり標石は雪を被って判らない。地蔵の頭をなぜる様に雪を落すと殆ど埋まったままの三角点が現れた。 展望はあまり良くないが眼下に広々とした誰もいないゴルフ場、大野山のアンテナ群、 とひときわ高く大きな深山が 堂々の山容を拡げています(PM12:10)。荒打から下れば直ぐ本明谷へ 降りられると思っていたのに 雪道の為か見当たらない。それに一帯がゴルフ場なので、 せめてゴルフ場の端へ出なければと思いなをも境界標 (ゴルフ場のものか?)進んでNo.77丹後幹線表示の巡視標と鉄塔下に出た(PM12:35)。巡視路を辿ってベルグリーン ・カントリー倶楽部に向う車道に出た (ここに No76表示巡視標 PM12:40)。雪は殆ど溶けていないようで轍の無いところは10cmはある。
籾井城東尾根緩衝帯中程の土橋と片堀切?

車道を登りゴルフ場へ行けばいいものを車道を下ったばかりに立金公民館(PM1:05)を経て大芋へと昨年夏の荒木城址〜燈明寺山や毘沙門山 〜櫃ヶ岳のときと同じ長い長い車道歩きとなってしまった。 道路地図でも持っていれば立金から大藤を経てR372へ出られるのにこの辺りでは雨さえ降ってきて注意も散漫になっていた。車道を前に進むことしか頭に無く 市野々を通り宮代のバス停を見てエッこんな所へ・・・・此処は櫃ヶ岳の登山口です。R173の細工所(PM2:35)通過。小野新交差点を経て禅昌寺へ帰着(PM3:20)おかげで予定していたもう一つの山は次回になってしまった。



 籾井城  安口城と安口西砦 西野々砦


籾井城(安田城・福住古城)  白尾山 390m   篠山市福住字北山・安田

今は廃線となって久しい?(篠山口から福住まで鉄道が通じていた事も既に忘れ去られていますが!!)篠山線終点に旧国鉄・福住駅跡が在り此処から籾井(安田)城のある白尾山(390m)が望めます。登城口までの道順等は 上記登山レポートと重複しますので省略します。
籾井城主郭西:高い切岸と堀切を挟んで曲輪が続く

籾井氏は清和源氏、近江(滋賀)佐々木氏の子孫で代々足利氏に仕え「応仁の乱」の手柄で将軍義政に取り立てられ籾井庄を貰います。 此処は多紀郡(篠山市)中央部の波多野氏本拠 :八上城に対する東玄関を守備する位置に在り、東方からは京街道・南は攝津から綾部・若狭へ向う街道が交差する要衝の入口にあたります。其の福住の北に籾井(安田)城を築き住み 籾井下野守晴重の名が見える。のち籾井・小野・村雲・大雲庄を治めた籾井春綱は従四位にまで出世しました。
旧街道筋から籾井城遠望・右端が登城口の禅昌寺

その子照綱は神社を祭り仏生山金林寺を建てています。 八上城波多野秀治に属していた籾井城主籾井越中守教業(のりなり)は武勇に優れ黒井城赤鬼赤井悪右衛門直正や細工所城荒木鬼:荒木氏綱、氷上城(霧山城)主で西波多野と呼ばれた波多野宗高等の丹波鬼とともに丹波の青鬼といって恐れられました。
南尾根の帯曲輪から主郭に入る虎口(手前)?

青鬼の異名のみで知られる籾井城主:教業は伝承に諸説あり、実在の人物としてさえ疑わしいのですが?、軍記としての「籾井家日記」には 籾井氏遠祖を清和源氏摂津守頼光の後胤で、矢田判官代源義清の末孫と云い、義清の三男頼清が位田六郎造酒允晴高の入婿となって、丹波に居住したのが始めと云う。後胤には赤井を称し黒井に住んだもの?、波多々伯部氏を後見に、籾井の郷に住み”籾井”姓を名乗って代々籾井を領し、戦国時代に至ったというものです・・・?。八上城の波多野氏家臣団の七頭・七組・先鋒衆には、久下重氏・小野木縫殿助・谷大膳や荒木氏綱(荒木鬼としての細工所城主ではなく、光秀との戦いに負けた後の園部城主として)、
東尾根から主郭部を見上げる

波多野氏とは敵対した内藤方の江田氏(綾部城)・・の名が有って、俄には信じ難い部分も有るが・・・。波多野氏は一時期三田・園部・亀岡方面に勢力をもっていましたが、氷上郡(丹波市)黒井城主の赤井氏が統治していたはず?、城主の存在や史実さえ疑わしくなってきます?!!。籾井河内守照綱が永正年間 (1504〜21)に築城。八上城に新興した波多野氏の旗下に属して、多紀郡東部の京口を守備し、 執拗に丹波氷上・多紀に侵攻を繰り返す三好氏に対しても八上波多野氏に付き行動をともにしています。
東尾根曲輪群の堀切

明智の丹波攻め元亀年間((1570-73)頃、安田城(籾井城)城主は照綱の嫡男右近太夫綱重が後を継ぎ、波多野秀治の妹を妻とした婚姻関係で結ばれています。落城時は既に隠居して長男・福泉下野守綱利(時重!)に後を譲り次男・籾井兵次郎綱正を連れて安口(はだかす)城に居ました。籾井城主として教業の名だけが知られ、此の戦いに参戦して自刃した事になっているが、当時城主は20歳代の若き闘将:綱利なので?真相は不明。
主郭東尾根の竪堀

勇将:教業だけに激戦となった本明谷に劇的な武将の最後を飾らせてやりたいとの思いからか?。京都丹波に在って多紀(篠山)に入る境界を監視守備する為・細工所城の荒木氏綱が園部城に拠った様に、 八田城主だったともいわれる教業は中畑城(八田城)に拠っていたのではと思えるのですが?・・・・京都丹波側から多紀郡への北の境:瑞穂町に八田城を築き拠っていたとは・・・?、とても天正期の城遺構とは思えないが・・・どうだか ? 、綱重は八上城主波多野秀治の妹を妻とし、綱利は高見城の赤井悪五郎の娘を妻としていたので、籾井氏は波多野 ・赤井両氏と深い繋がりを結び此処丹波路の要所を守っていました。
主郭北端:三の丸の土塁虎口から二の丸・正面奥の本丸を望む

(本明谷合戦) 将軍足利義昭を奉じて上京を果たした織田信長が、義昭を追放し、為に離叛した丹波の諸将を討つ為「丹波攻略」が始まった翌:天正4年11月(1576)明智光秀とは激戦の末 ・一度は船井郡(園部方面!?)へ押し返しているが、翌:天正5年10月:光秀軍は藤堂高虎を先陣に天引峠に陣をとり、籾井氏方は安田城 (籾井城)と安口城(東籾井城)から 200余名の兵を引き攣れて迎え撃ち・激しい戦いとなりましたが多勢に無勢、攻め寄せる明智軍に半数が討死(百数人)にして一旦軍勢を引き揚げ、籾井城・安口城・安口西砦に篭城しますが、 安口城は山伝いの搦め手(裏側)からの夜討ちで落城、 本城の安田城も明智軍は東の搦め手から攻め上ります。
土橋付き堀切から主郭北端曲輪の土塁付き切岸

堀切での待伏せ攻撃等で一次は凌げたが、僅か50人ばかりの兵では追い戻され本明谷川の本明谷堂(現ゴルフ場)附近での最後の激戦となります。 綱利は八上城に応援を頼んでいたが、救援の兵が着くまでに一族全員が討死にし綱利(25歳)も自刃して果てます。傷を負った嫡男・右近太夫綱重や孫孝高は、安口城を逃れて原山村に入り、傷を治した後京都に移り住んだとされ、 孝高の子孫は福泉【旧領地の福住の古名:福泉<ふくいずみ>】と称し、代々藤堂家に仕えたと云われます。 孝高の子・福泉小右衛門は謙信流兵法や書道に優れ、その養子福泉久兵衛利重は日光輪王寺一品天真法親王に仕え、親王のお供で京都御所へもしばしば出入りし奏者役にまで出世します。
主郭北端:三の丸の土塁虎口からの土橋付堀切

その後親王の世話で元禄6年(1693)津藩(三重)の藤堂氏に江戸詰め大小姓役として召し抱えられます。 藤堂高虎を先陣の丹波攻めで安田城を落とした城主の子孫を、同じ藤堂氏が召し抱える奇遇・・・本郭部の本丸跡(約30u)には「籾城公園」の碑が建ち北方に尾根には二の丸、三の丸や堀切跡がほぼ完全な姿で残っています。 出城跡の森は守護神の金毘羅宮があり裏門(搦め手)にあたるところには本休寺(もと金林寺)があります。
(現地:籾井城案内板 「郷土の城ものがたり」兵庫県学校厚生会 Web 丹波篠山五十三次ふるさとの探訪 を参照)


安口城(東籾井城)と安口西砦  2004年04月16日
安口城(東籾井城)  xxxx 326m   篠山市安口字殿奥
安口西砦           xxxx 280m   篠山市安口字北ノ谷

八上城の麓を通り天引(あまびき)峠を越えて亀岡方面へ向かうR372号は小野新交差点で京都綾部市や大阪能勢方面に向かうR173と交差します。 西正面に籾井城の在る白尾山(はくびさん390m)を見て東に約1.5km、R372号安口で「ささやまの森公園」の案内標識を見ます。 集落内の車道が旧国道R372号の京都街道筋で、福住地区共に安口地区にも藁葺き屋根の民家が数軒並ぶ。
安口西砦(左)と安口城(右):旧国道筋から

R372号からは石垣上に土塀を連ねて、静かな田園風景の中に、落ち着いた美しい街道の面影を残しています。其の北側・籾井川に面して小さな 谷を挟んで並ぶ二つの低丘陵部には丹波の青鬼と呼ばれた籾井教業(籾井城)の東方を守る支城の安口城(東籾井城) とその西約300mを隔て安口西砦が有りました。籾井川の架かる細い橋を渡った田圃の奥へと、鹿除けネットを潜って進むと此の谷の入口に墓地がある。
安口城:主郭西南部中程の土留石積

段差のある墓地部周辺の平坦地に居館跡では無かったかとも思われる。
安口城へは小さな墓地右手を直進して谷間を進むと直ぐ炭焼き釜跡を見る。 其処から右手に薄い踏み跡を辿るのが大手道か?。土留め石積が残る番所跡らしい場所で一折れして石材・石塁残痕らしいが西北へと幅広い土塁が延びる主郭の虎口に着く。
安口城主郭の土塁虎口と櫓台

主郭西面の切岸中央付近にも土留め石が並ぶ。西北端の櫓台まで土塁側の切岸沿いに石塁が遺る。櫓台の北に続く尾根側は深く高い大堀切が美しい弧を描いて落ち込む。西側の曲輪(一段の小曲輪をもつ)の西端土塁先には三重堀切と、 続いて緩衝帯!?の尾根筋が続く。戻って主郭東切岸の少し下方にも3〜4段程の石積みが遺る。
安口城:主郭北東切岸下方の土留石積

主郭から東へは高低差を持つ曲輪を4段程並べている。安口西砦へは墓地の左手谷筋に沿って進む山道があるが、砦跡へ直接到達する道は無さそうです。 谷から両城への丘陵上に取付く斜面は左右共に激急斜面ですが、北方の標高350m付近で尾根筋をU字状に分け、いずれからも比較的緩斜面の尾根で短絡しているので、両城を繋ぐ連絡道が北方から尾根筋に有ったと思えます <以前:西砦側から尾根筋を安口城へ廻った>。安口(はだかす)と難しい読みは、海の無い丹波の山郷ですので[安口=あんこう]と読むにも無理があると思っていたが、ある意味で「あんこう」は合っていました。山椒魚のことを「ハダカス」と呼ぶのですが、その当て字が無いので山椒魚が口を開けて獲物を捕らえる姿が、 鮟鱇(あんこう)に似ているところから「鮟鱇(あんこう)→安口の字を当て」ハダカスと読むそうです
安口城:主郭北西端の大堀切

安口砦を守って波多賀須源五兵衛が拠っているのですが築城主や城史については不明です。 元亀年間((1570-73)頃の安田城(籾井城)城主籾井右近太夫綱重が支城として築いたと思われ、天正の”丹波攻め”の頃には隠居して、籾井城を長男下野守綱利(教業か?)に譲り、次男 ・籾井兵次郎綱正を連れて安口城に移ったとされます。
安口城:北端部の土類を挟んで三重堀切

八上城の波多野氏傘下にあった籾井城や安口城・安口西砦・西野々砦は、京都府境に有って、京都・亀岡方面からは天引峠を越えて降って来た処。 京都へ通じる篠山街道(京都街道であり山陰道でもデカンショ街道 )の要衝に面しており、更に南正面には能勢・天王から川原・福住へ降ってくる深山古道が間道?として近年まで利用されており、 此れ等の街道警備の任に当たった様です。一時期・都を制した三好長慶軍や、織田信長の天下布武による「丹波平定」に対して防備補強に努めてきた城ですので、城史に不明点は多くても、訪城には期待が持てそうです!!?。
安口城:主郭北西端の大堀切

籾井城の東約1.5km地点の安口城は別名 :東籾井城とも呼ばれる通り籾井氏の支城で、 明智の初期!!丹波攻めにより落城時も運命を共にしています。天正3年 (1575)黒井城主・荻野(赤井)直正に攻められた但馬の山名一族が織田信長を頼って救援依頼した事が 契機となって始まった丹波攻略です。明智光秀に傘下にいたはずの波多野氏ですが、荻野直正との共同戦術による波多野氏の逆襲で 光秀は天引峠を経て敗走する事になりますが、やがて天正5年(1577)11月、
広い安口城本郭部・北側に土塁の残片が見える

天引峠に陣をとった明智光秀は藤堂高虎を先陣に大軍で、籾井綱重の嫡男・福泉綱利が城主の安田城(籾井城)や次男・籾井綱正の守る安口城を攻め、その激しい戦 【本明谷合戦については籾井城を参照してください】で攻め寄せる明智軍に半数を失って (百数人)一旦は軍勢を引き上げます。安口城と安口西砦の両城南面に沿って流れる籾井川が川岸を絶壁状に切り落ち、極めて強固な水堀となって前衛を守っています。また小さな谷を挟みこむように呼応する両城は、共に深く傾斜も急な谷側は攻め立てる兵が 自由に横移動も出来無い程の急斜面なので、竪堀や切岸を高くする要の無い程の要害を成しています。
安口城主郭西北・虎口下方の石積は大手の番所跡!!?

しかし此の二つの城は北に続く比較的緩やかな尾根で繋がっているだけに北側の防備徹底が重要と思われます。 安口西砦は北の尾根続きを二重堀切、西側の斜面には畝状竪堀が6〜7条走って守りを固めます。主郭部の中央部に 7〜8m四方の櫓台の様な高みが有ります。安口西砦の城主は白井右近といわれ、安口城の籾井氏に関わる一族か家臣の一人だったのでしょう。安口城の出城として機能していたと思われます。
安口西砦主郭中央付近の土塁(土壇:櫓台?)

安口城も北に数本の浅い堀切と2〜3段の曲輪を経て、 主郭の北側に大きな堀切 (約・幅10m高さ8m程)を見る。堀切一本で遮断し固めてはいるが、安口西砦と異なり規模は約2倍の城域に一本も竪堀が無い縄張りの違いから、一城別郭や本城と出城の考え方よりは、 元の城主が異なるようなので別城で、安口城とその支城とも考えられるようです。安口城は堀切の端に土塁が廻り西側が虎口となっている。土塁で防備補強された虎口には石積み遺構も見られるようですが今回は気付かず・・・!!。 多勢に無勢とはいえ明智軍は強勢的に正面攻撃はせず、原山峠から北側の○○ゴルフ倶楽部敷地境へ進み、搦め手に廻り込んで 山伝いに夜討ちをかけられ落城した様です。本城の安田城(籾井城)へは城の東・安口西砦の西1km地点にある本明谷の搦め手側から攻め上がり、谷上部の本明谷堂(現ゴルフ場)附近で籾井氏一族全員討死・最後の激戦地となりました。
安口西砦の二重堀切

安口城は主郭部に籾井氏本拠の安田城(籾井城)にも施されていない 三方向の切岸に石積みが見られ、主郭に入る明確な虎口部や、主郭西方を囲む土塁や櫓台も有る。 尾根側を遮断する堀切も籾井城は土橋付堀切が一本あるだけで、 西へ降る緩斜面の尾根筋には堀切もない緩衝帯です?。安口城の主郭北の深く大きな堀切と、尾根筋北端には三重の堀切・安口西砦に見る二重堀切や、 浅く埋もれかかっているが、4〜5条並ぶ畝状竪堀等は、籾井城砦群落城後に光秀軍が八上城篭城戦の際 ・包囲網として改修して陣所・付城としたものと考えられます!!。
安口西砦:二重堀切側帯曲輪 ?と主郭切岸

より以前・多紀郡(篠山市)は波多野氏を追放した三好氏が支配しているので、 京都を結ぶ玄関口の要衝監視に此れ等の城砦を利用しない手はないでしょう?。遺構の現状からは三好氏による改修後 ・再び籾井氏が回復しているが、縄張り(築城)遺構の技術的な相違から、 安口城の方は更に”八上城包囲網”として光秀方により改修されたものか?。安口城の三重堀切を越えて北へ延びる尾根筋は長い土橋の形状が見られるが、 固められた山道以外が崩れ流されて残った自然地形か?。
安口西砦:主郭西北部の竪堀 (画像では判り難いが畝状も在る)

主尾根筋までも短く、尾根筋も緩斜面で延び、谷を挟んだ西側の安口西砦へも 比較的楽に通じている様です。安口西砦は平坦で長い緩衝帯の様な?尾根側を二重の堀切で遮断して、城域を分ける。天然の高く急峻な切岸を立てる東面に較べ、殆ど西面に集中して設けられている竪堀は、二重堀切を越えて直ぐ・主郭北の一段下曲輪に着くが、主郭西側へ延びる帯曲輪となっている。

安口西砦城域最南部の堀切と土塁(主郭側から)


其の西北端付近には、浅く埋もれかかってはいるが、4条程が並ぶ畝状竪堀もある。主郭(約16X35m程!?)の中央南東側には 櫓台と思える土壇があるが、幅のあるL字状に少し迂がってコーナー部をつくる低土塁を持つ。南東下へ続く小曲輪の南側にも二条程の竪堀を見て、最南端の堀切を経て激急斜面の尾根沿いに、降りきった谷筋の山道は墓地の直ぐ近く。
(戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究 八上城研究改編:和泉書院を参照)


西野々砦  xxx 310m    篠山町西野々字森神谷


八上城の麓を通り延喜式にいう古代!山陰道の小野駅跡を越えると小野新交差点に降りてくる。 此処は北に綾部・舞鶴方面、南には天王峠を越えて池田能勢大阪方面へのR173号と交差して、R372号(デカンショ街道 )は東方の京都府境の天引峠を越えて園部 ・亀岡方面へ向かう要衝の京街道・山陰道の要衝で福住の宿場町で栄えた処です。西正面に 籾井城の在った白尾山、籾井川と並走するR372号バイパスに南側の集落内が、旧国道R372号線の街道筋です。
西野々砦(旧国道筋から)

丹波特有の妻入り民家や大阪格子の商家、 一里松や本陣跡 【慶応3年(1867)の大政奉還後・戊辰戦争が起こり、明治新政府から地方動乱の鎮静と各藩の新政府に対する意思確認のため、西園寺公望が山陰道鎮撫総督・北陸道鎮撫総督に任命されて、京都を発ち福住に本陣を置いた。この後・氷上郡(丹波市)に入った西園寺公望は 柏原八幡下に本陣を置いています】等、 福住宿と旧街道筋には藁葺屋根の民家・商家が、往時の雰囲気を漂わせています。
西面の虎口から主郭の妙見社と稲荷社

籾井城登城口に在る禅昌寺前を通り、川原から八幡谷ダム・ささやまの森公園への案内標識を見て分岐の直ぐ先で安口(はだかす )城や安口西砦のある丘陵を、バイパス沿いに見て、通り過ぎる辺りで、篠山藩領から亀岡藩領に入っています。川原には「従是西篠山領」の石標や安口には関所橋が在った(在るかも?)といい、福住地区の住吉神社付近を藩領の境として、安口や西野々地区は亀岡藩領でした。京都を発てば先ず亀岡に入り、次いで篠山へと山陰道 ・山陽道の最重要道の押さえとなる亀岡藩 ・篠山藩には、亀岡から青山氏が、代わって篠山からは松平氏と、譜代大名が頻繁に(原則一代限りとして!)交代しています。
堀切と土塁(櫓台?)


当初は大阪城に対する備えの篠山城・亀岡城ですが、天引峠を越えて篠山市に入って最初の西野々集落が田園地帯の中を真っ直ぐ進む バイパスの左手に見え,右手・籾井川裾に低丘陵尾根の先端を落とす安口城・西安口砦が、更に西に籾井城が在った。 中世:八上城を本拠城とした波多野氏方にとっても篠山側東玄関の口を押さえる京都府境界の重要拠点に変わりは無く、「丹波の青鬼」と怖れられた籾井氏や白井氏が拠って京街道・山陰道に対する最前基地を守備していたのでしょう。
主郭の稲荷社(背後に土塁櫓台と堀切)

其の最も東端に位置する西野々砦を訪れたがR372号線を東へ約400m程の地点で天引峠や原山峠を、また北方の市野々から侵攻してくる間道との合流地点でもあり、其処を監視する波多野方の砦とするには現地点より 東に続く尾根の高みが有効ですが、砦からは此の尾根に遮られて見えず少し疑問を感じます。しかし北から西方には展望が拡がり天正 5年(1577)細川藤孝・藤堂高虎等による八上周辺の支城砦攻めを始めた明智光秀軍により、籾井城や「丹波の荒木鬼」の細工所城(井串城)を陥落させた後、 天正7年(1579)八上城の落城まで八上城包囲の付城群の外郭として築かれたものか?。
櫓台?土塁から見る曲輪

亀山城(亀岡市)・福知山城・周山城を居城とした明智光秀の、多紀郡(篠山市)側の抑えと監視には有効な軍事拠点です。西野々砦の詳細は不詳ですが、西野々集落南に建つ大師堂と 小公園の背後の丘陵上の比高約30mに在って、大阪府北部の最高峰深山(791m)から北の天引峠へ連なる尾根上の高山(510m)から西へ張り出す尾根から、更に北へ流れ出る尾根先を、幅の狭く浅い堀切一本と土塁で遮断された単郭の城砦で、堀切から南への尾根は緩衝地か?広い緩斜面が次ぎのピーク ・更に次ぎのピークへと踏み跡が続くが遺構らしいものは無い。 浅い堀切をカバーするように高さ2m程の土塁を積み櫓台状の幅を持ち・堀切側には稲荷社跡?の小さな塚と碑が建つ。
西野々砦から安口城・安口西砦・籾井城遠望

此の土塁曲輪の下に稲荷社・妙見堂を祀る曲輪があるが、切岸や祠への参道入口部の虎口状以外は、整地され旧状は不明。 城主西村氏についても不詳。丹波・京都街道の要衝を挟んだ安口城・安口西砦とは互いに呼応した波多野方・籾井氏の城砦か?、八上城包囲の明智方付城の一つか?、其れ以前既に・荘園領主から監視等を任された 土豪の居館が在ってものか?

(戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究 八上城研究改編:和泉書院を参照)
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