至山〜大谷城〜天狗岩〜石金山〜小野尻峠:〜行者山〜三組尾
丹波市 (五万図=生野・篠山)
T小新屋観音〜石金山〜坂峠?妙見山 2000年04月30日
U至山〜石金山〜小野尻峠 2001年12月29日
V富田橋〜行者山(402m)〜三組尾 (540m)〜延命寺口 2000年09月16日
W牧野大池〜牛坂〜三組尾〜行者山〜小野尻トンネル2001年02月25日
X 小野尻峠〜三組尾〜行者山〜牧山口〜富田橋 2001年12月29日
Y小野尻〜三組尾〜行者山〜小野尻峠〜長坂峠  2002年3月24日

三組尾・行者山と特産の正月飾りの若松

近畿の山城 :至山城(至山城館) 大谷城
丹波のお話 小新屋観音

T小新屋観音〜石金山〜妙見山(山南町)  H12. 4.30

石金山〜妙見山の周回は集落内の観音堂への分岐にある鞍かけ石(公民館前に駐車AM6:10)から小新屋観音前を経由で石金山に向かいます。観音堂上の林道分岐からは100m置きに木杭が打ち込まれています。山頂から小新屋集落への尾根道もトラロープ設置・切開かれ整備され、イタリ山-石金山の縦走ハイキング道がある。
石金山より ・霧海に浮かぶ岩尾城と篠ヶ峰

小新屋観音(AM6:15)〜尾根(AM6:40)〜石金山(509mAM6:50)までは整備された道…坂峠への道も細いがはっきりしているようなので何も考えずに進んでいたら段々妙見山が遠くなります。途中より枝尾根に入り 藪こぎで谷へ下り登り直して、又谷へ下ると林道に出た。どうやらこの林道は坂峠へ続いているものと思い登り返します。林道終点からの杣道?は藪となりその藪をついて(AM9:10)。
移転された"鞍掛け石"が登山口の目印

全工程2時間の予定が既に4時間以上もかかっています。妙見山(464m AM9:25)からは尾根通しに3本の下山ルートもあるようだが、小新屋へ下るルートをとって植林帯を抜けて林道入り口の松村アクア兵庫工場前に出て 道なりに集落を抜け鞍かけ石【元は岩尾城を望む○△工業南側車道脇(石碑が残る)にあった】小公園近くの駐車位置に戻り 一山頑張れそうなので、もうひとつの妙見山を目指し 小野尻トンネルを播磨側へ越えて向かう。こちらの妙見山は「ふるさと兵庫の50山」笠形山(939m)からこの妙見山へ天邪鬼が橋を架けようとしたむかし噺があります。 小新屋観音

鞍掛石には種々の伝説があるようです。天正期の丹波攻めで岩尾城を攻めた武将が此の石に馬の鞍を掛けて暫しの休息をとったとか!!。また此の辺りの長者が夢の中でこの石に近づいたところ、石の下から鶏の声がかすかにするので石を引き起こすと、金の鶏が三羽出てきたかとおもうと・石金山から白羽の矢が降りそそぎ目が覚めたと云う。どういう意味があったのかな…?。
(山南町誌 参照)


U故郷で納山・歴史と霧海の里  至山274m〜田高坂〜石金山 509m〜小野尻峠 H12.12.29

県道77号線が井原の岩屋谷川を渡る10数mの所にある足利尊氏に因む二重川伝説足利橋は延喜式の旧山陰道)の要衝です。R175号に出ると旧佐治川と篠山川が合流して 加古川となる井原橋の南詰めにミニ道の駅 「山南仁王駅」があり、北詰め側には丹波の名の語源の一つ赤米の里丹(あか)い米が波打つ…井原の里です。
イタリ山公園入口からR175号・山南仁王駅

山南仁王駅南詰めの公園には実物大の石龕寺の国宝 ・仁王像や「いたり山 道のいたりは日の本の もとつ教えのほかにあらめや」 国学者・野々口隆正の歌碑が建っている。都を追われた公卿の親子の悲話三ッ塚の伝承も残る。小川小学校の校庭から望む「いたり山」や校歌に謳った岩屋山から石戸山へ毎年・山南町小川校区委員会や PTA・小川っ子を育てる会等の実行委員会によって”里山体験”ハイキングが行われているようです。

小川小学校から里山体験・イタリ山(左方の丸山)へH15.10.1

今回(H15.10.01)お誘いを受けて・郷里の山河を山上から見せていない妻と参加して播磨国境の低山を子供たちと歩いてみた。里山ハイク至山は播丹境界尾根の末端の低山で此の先に続く尾根はなく篠山川 (思出川)と佐治川(現在は加古川)が合流して加古川となる基点にあります。今朝はAM4:00頃から発生した朝霧で丹波の里は 白いスクリーンに映し出された淡い影のようです。山の姿は見えず川面から立ち上る水蒸気が静寂と神秘さをたたえています。僅か300mに満たない里山からも 丹波の霧海が楽しめる筈だが出発は霧が晴れた後…。
イタリ山であい公園の仁王像(吽像)から至山


道の駅「山南仁王駅」(AM7:40)周辺は釣り公園になっており駐車場奥から至山〜石金山へのハイキングコースが整備されています。つい数年前の藪を突いてのトレースなど想像出来ないほど道標や岩場・急下降場所にはロープもセットされていますので 石金山までのコース そのものの説明は不要ですね。広いハイキング道の途中(6合目)には 至山稲荷跡の石積みが見られ、足利尊氏が播磨 〜九州へ向かい再興を期し都に攻め上る際:必勝祈願した所といわれ、祠は町内の日吉神社本殿背後の岩磐下に 移され鎮座します。
イタリ山稲荷神社跡の石積跡

2m幅の登山コースが整備される以前は中継施設手前から藪の樹林間を トラバース気味に抜けて稜線に出ていたが、 今はその少し先にツーカーホン関西の施設が有りアンテナ塔の横から直接稜線の切り開きを辿れます。NHK山南テレビ中継所のある 山山頂(3等三角点 274m AM8:00)は直ぐ其処ですので拠って行きます。周辺は未だ白の世界で直ぐ 下方の加古川も見えませんので早々に引返し石金山への稜線を辿ります。
石金山頂から岩尾城 ・粟鹿山・霧海の氷上町方面

道標もあるので 道なりに進み展望台のDoCoMo中継施設(AM8:25)辺りからは東播磨の山々が珍しく静かな霧海に浮かんで見える。 此処から急な下降が続き木の葉の滑り台、下りきったところが田高坂で【田高村 寛政8年 (1796)辰11月宝珠を抱く地蔵尊を祀っています】(AM8:28)播州側の田高と山南町梶を結ぶ峠です。此処からが道なき!!藪の難コースだったのですが 見違えてしまいます。急登もあるが、それだけ高度を稼いで此の先の岩場のクサリ場に期待してください。登り終えれば岩頭(AM8:50)は丹波氷上や 篠山側の代表的な山々が顔を揃えて見えるのも霧海が故郷の山を選んで見せてくれているからでしょうか。 5分程で滝の方展望台に着く。此処から望む石金山のアルペン的な山容が素敵です。3分程の下降で 小新屋観音からの分岐です(AM8:58)。
石金山頂から播磨・西脇方面 H16.10.24


石金山登山者の多くは此のルートを利用されている様。分岐から20分程度の自然林の混ざる快適な尾根道が山頂に続き最後の露岩混じりを超えて坊主頭の石金山(2等三角点 508m AM9:15〜25)は360度の展望です。笠形・千ヶ峰・篠ヶ峰と山名を列挙しても余り意味はないですね。周囲を霧海に囲まれて眺望絶佳の山頂に憩います。霧に浮かび上がる山城 蛇山岩尾城の姿は印象的です。此れより、なお西へ稜線を辿ります。
滝の方展望台からの石金山

北へは急斜面下降してロープ伝いに小新屋へ尾根続きの 快適ルートがありますが縦走進路は西方です。 昨年4月末このルートで妙見山(山南町の=近くに名の知られた中町の 妙見山が在りますので間違えないように)へ迷走しながらも縦走しています。 今回は播丹境界尾根ですので前回コースと違い思った以上に尾根の切り開き道が明確ではかどります。石金山から見た魅力的な442mピーク(AM10:00)も側に立つと平凡な山、ただ直進して道なりにそのまま下ってしまいそうで、
田高坂の地蔵さん


慌ててピークに引返すと北方へも踏み跡は有りました。中町側の貯水池を見下ろす露岩の 展望台で辿る尾根を確認します(AM10:15)。この付近からは樹林の間から中町の妙見山が目えてくる。平凡な幾つかのピークを越すたび長谷 362mがどの山なのか捜して見るが、地図が無くてはよく判らない。途中のピーク先から尾根コースの踏み跡を見失いズンズンと藪尾根を下ってしまった。尾根に沿っているつもりで一つ手前の尾根を下ったことが後になって判る。
氷上回廊(霧海の底に加古川沿い)

通過点にある長谷の僅か200m??程手前尾根を下った様で 小野尻集落からの林道に出てしまった(AM10:25)。小野尻峠を目指し林道を詰め上がり中町側からの峠に出ると不明確ながら細い踏み跡が現われますが 段々と明確な山道になってきます。何処から続いているのか判らないが周辺はズッと松茸山入山禁止のプレートやテープが目立ってきます。
白山・弘浪山・愛宕山〜五台山方面を望む


小野尻峠近くのピークから峠上部に続く踏み跡は見出せませんが東へ下降する道が一本有り、旧トンネルの山南町側15mほど手前で丁度、 現在の小野尻峠との中間点に出てきました。稜線に続く松茸山への登行ルートの一つです。小野尻トンネル前から車道を越えて林道を辿ります。これから 小野尻峠〜三組尾〜行者山を縦走して和田・富田橋へ出るつもりです。富田橋からは行者〜三組尾〜妙見山(中町)を縦走(2000.9.16)、今年(2001.2.25)牧野大池から逆コースで富田へ出ています。


V
富田橋〜行者山(402m)〜三組尾(ミクニオ 3等三角点540m)   2000年09月16日


加古川(佐治川)の船町橋を越えると篠ヶ峰〜延命寺山・蛇山(岩尾城) ・正面には行者山〜三組尾・そして左手には僅かに残る樹木が鶏冠頭の様な石金山)が飛び込んでます。 今年(H12)5月に薬草風呂がオープンして名が知れてきた薬草薬樹公園に駐車し、西方の小山の行者山〜三組尾縦走が今日の行程です。三組尾は点標名:延命寺山と呼ばれるらしいが延命寺は対峙する延命寺山の麓の寺で集落としては小畑・富田・小野尻の三集落に尾根を分け主尾根は牛坂峠〜小野尻峠を経て石金山に至る播丹境界尾根から派生しています。
行者山から三組尾

あまり知られた山ではないが 篠ヶ峰〜岩屋山〜カザシと縦走して 延命寺山手前のピーク辺りからは、やけに気になる山容で 夏休みの間に見つけておいた富田のポイントから出発です。(AM6:25)この山は小野尻峠(トンネルの上)からも 尾根通し行けそうですが今回は冨田橋を渡り消防団倉庫より、 火の見櫓のある富田公民館横へ出て正面の鳥居! とお堂 !に向かい側の林道に入ります。(そばに寄ったわけではないので分かりませんが神仏混淆の名残かも!)これから登る山も行者山です。 林道のゲートをくぐり墓地を抜け 短い林道終点には施設跡!貯水曹の跡かコンクリートブロックで囲った?(ナニ)かがあります。数m手前左手の暗いゴロゴロした小石の谷筋に入り踏み跡を辿りますが段々急登となり、 とうとう擦り落ちそうな程の急斜面を木々につかまりながらTVのケーブル敷設コースに沿って登り詰めアンテナのポールが見えれば細い尾根に出ました。(6:45)細い道が現れ稜線に沿って進めば 山容が示すとおり(入道頭に登りますので急登)ですが雑木の中の道は歩きやすい。
延命寺境内

露岩が現れてくると右からの細い踏み跡と合流するが、岩場はなお続きやっと登りきると行者堂跡?の平地に出る。岩壁をバックに役行者像とその左右には手の拳2つ程の小さな鬼が従っています。左手には斧を持った二本角の前鬼と 聖水の水瓶を持った一角の後鬼(いずれも青銅製)です。役小角に仕える鬼神(鬼・後鬼)は夫婦だともいわれ、役小角と共に山岳修行をしていた行者との説もあって呪術や妖術を使いこなす者としても知られている。行者像の岩の上部が行者山山頂で 露岩を伝って登ってみるが展望は皆無です(7:05)。お堂を巻くように三組尾へは MTBで走行可能の小さな登り下りを繰り返す小道を進みます。 三組尾との中間付近には大きな岩が道を塞いでいます。岩の上へ出てみますと2つの尖がりピークが見えます。奥の方が行者山だが・ほんの少し急になったカナと思う頃 三組尾山頂(3等3角点 540m 7:35〜)です。この先へも踏み跡が続いているので 進んでみます。
行者山の役行者像

最高点はこちらのようですので岩場混じりの平坦地は 展望の良いところが有ります。延命寺山〜篠ヶ峰稜線の展望良好.もとの三角点に戻って(8:10)峠状のところより少し戻ると西谷側への下降尾根へ出ます。細い踏み跡がありますので助かります。この道は下るにつけハッキリしてきますのでますますラッキー、 尾根末端の北のピーク209m辺りでは木々の間からは延命寺山がカザシを従えて(標高はカザシの方が高いが)その先方を空に向けています。(8:30)下りきると墓地のある山道は地図上にも破線の有る道か!車道へ出ると延命寺への分岐15〜20m手前。 天気が悪いので雨にならないうち富田橋(8:50)に帰り着く。



W 牧野大池〜樺坂〜牛坂峠〜三組尾〜行者山〜小野尻  2001年02月25日

低山徘徊派メンバの予告山行がきっかけで地元の山 :超マイナーな山行に何人かが集まる。集合時間にあわせて出かけるがAM9:00前後には今年初オフの蛇山岩尾城 の時を思わせる雪。しかし大降りの雪も直ぐに止み県道から 牧野大池へ右折すると、もう青空となり正面に大海山が姿を現します。 車を小野尻トンネル山南町側にデポし歩きで牧野大池への分岐で待っていて、丹波のタヌキさんご夫婦に此処で逢い集合場所へ。既に今回登山の発起人・島田さん、もぐもぐさんは集合場所に着いているとの事。
延命寺境内から望む三組尾

池端の駐車場付近は地元自治会の山の下刈りらしく既に満車状態。林道端に置いて♀タヌキさんのお見送りで出発します。 (AM9:15)林道終点から正面の堰提のある谷を右手から詰めていくと途中に「島田さん曰く」金堀地蔵(この先樺坂〜牛坂間・大海山何面は幾つかの鉱山後を見受けます。その採掘に従事した工人を弔ったり 安全を祈願した仏達と思われます)が 石積みの整地に鎮座しています。(AM9:30)この先のガレ場から谷を左へ移りますが、此処の付近には当時のタタラ跡があったらしく足元には精錬滓(カラミ)が混ざるガレ場をトラバーすると樺坂に向って踏み跡が続きます。 樺坂の道標地蔵(AM9:45 功徳と通行安全祈願か施主は戒名が銘記されている)此処からの 千ヶ峰は残念ながら頂上付近を望めません。飯森山への稜線ははっきり見えるのですが、これより三組尾への行程では何度も雪が降ったり止んだり 薄日が射したりと安定しません。樺坂〜牛坂へは中町・加美町・山南町を結ぶ古い峠越えで、途中石垣・石積みを残す茶屋跡や牛坂には鉱掘跡が口を開けています(PM10:10)。山南町西谷から舗装の林道は此処まで上がってきています。 牛坂からの道は境界尾根に続きます。このルートは先に大柿氏が三組尾〜行者山(2000.12.xxに)をトレースされており真新しい赤い布が目立ちます。樹間の間からは妙見山が常に右手に姿を見せており、振り返れば白い稜線を見せる千ヶ峰〜飯森山、 時々カザシ〜岩屋山が目立たない山容を覗かせます。小野尻峠へ向う境界尾根が右手へ下降始める分岐から、いよいよ修験の峻険な!尾根歩きとなります。人跡稀な為、岩場は浮石多く急な為、持った木枝は簡単に折れて便りになりません。 おまけに落葉が足を掬って滑りやすいので要注意です。三組尾手前の峻峰は岩頭にあり (AM11:50)直ぐ下方のギャップからは、さらに深く谷に向って 岩がそそりたって見えます。 此処が西の覗きでしょうか。ギャップから先なをも岩場の急登ですが登り切れば岩場の展望台です。見晴らしの良い分風はありますが先ずは我慢して…村落から一気に突き上げる延命寺山〜カザシ〜岩屋山〜蛇山の城山としての 様子や石積みがはっきりと見える。

行者山の役行者青銅像

高見城山〜石戸山〜岩屋山・妙見山や西光寺山・白髪山〜松尾山へと展望は良好で直ぐ先が三組尾山頂(3等三角点540m PM12:05〜PM12:30)です。三組尾周辺には磨崖仏や東の覗きが有るというので探しながら進むが、 それらしい場所・岩場は随所に見られるが分からない。山頂からはズンズンと急に降りが続く。前回逆コースで登った時はこれほどきつい坂とは感じなかった、MTBでも可の道のはずだったので一瞬コースを疑い先の尾根に目を凝らす。 しかし前方に双ッの丸い突山を見て確証できた。随分急な降りを繰り返した後だったが、しっかり赤い布があった。左に岩が累積する高みが行者山頂で直ぐ下の岩場に目をやれば左右に二つの小さな青銅の前鬼(斧を持った2本角の鬼)と 後鬼(水瓶を持った一角の鬼)が、これまたちいさな石を少し刳り貫いた中に安置されているのが見えます(PM01:15)。さっそく岩場の下の広場(役行者のお堂跡の平坦地)に降立つ。石仏研究班は青銅の作り物にも興味が御ありのようです。 この先、私の登ってきたルートや大柿氏が降った西谷・小畑へは帰りが遠いため、少し戻気味に小野尻への下降点があったと思い探したらすぐに見つかり、しかも此れが正規の行者道と思われた。しかもNHKケーブル敷設により踏み後は立派に今に生きています。 分けなく小野尻の県道に降立ち一路、小野尻トンネルに向け歩き出す。(PM2:10)小野尻トンネル中町側出口で車を止め、 石仏を見て旧トンネルに向います。閉ざされたトンネルを後に、さらにその上を通る峠の街道(牧野・鍛冶屋の集落に通じる)へ登ってみる。 小野尻から新・旧トンネルの上を通って荒れて崩れてはいるが広い道が通じていた様子は、九十九折の道に沿って数段の石積みが残っています。峠最頂部の上に石組の祠とおぼしき遺跡があり奥は二段の石積みとなっています。おそらくそのうえの段に 石仏が祀ってあったと思われます。その石仏が先にみかけた新トンネルから旧トンネル入り口に向って最初に出会う石仏であろうとは調査員皆さんの考えの様で、調査を終え、一応満足して出発点の牧野大池の駐車場に戻ります(PM3:05)。


X 播丹境界から行者の山へ 小野尻峠〜三組尾540m〜行者山402m   2001年12月29日

篠山川と旧佐治川が合流して此処から加古川となる出合いに道の駅「山南仁王駅」が在る。 出合い公園(桜と釣り)が駐車場もある登山口。先日行われた低山徘徊派オフの至山〜石金山も此処からスタートしています。私も遅ればせながら同じルートで(AM7:40) 至山〜石金山を経て小野尻峠の旧トンネル山南町側出口に 降りて来たが(AM11:35)今回は自宅から至山登山口まで徒歩・自宅へも其のまま徒歩で帰るつもりだったが時間も充分余裕が有り、 更に少し先へと尾根を辿ってみます。
イタリ山公園から篠山川と加古川の合流点

現在の小野尻トンネルは中町牧野から 鍛冶屋へ通じているが旧県道86号線のトンネル(閉鎖され歩行の通行も不可)が遺っている。昔(昭和20年頃!!)はこの旧トンネルを山南側から徒歩で抜けて鍛冶屋の金毘羅宮への参詣にも利用されていた。 新トンネル前の車道を横切ってブロックとチェーンで閉鎖された道(旧県道)は大きくカーブして 小野尻集落に下っていきますがカーブの角から山に入って行く未舗装の林道があるので此れを辿ってみます。こんな林道でも利用されているらしく 深い轍の跡を残しながら、ぬかるんだ道がトンネル上部に向かっているようです。先に石金山から小野尻までの尾根途中には長谷(360m 4等三角点 )が在るのですが僅か手前で尾根のトレースが出来ず迂回して小野尻峠に着いたので未通過の 尾根は次回の楽しみとして長谷 〜三組尾〜大海山の縦走計画で実践したいと思いますので、峠からの尾根通しルート確認はせず、峠とは反対の右手の谷に延びる明確な山道を辿り、谷通しに三組尾へ詰めあがって見ようと思います。
行者山

三組尾と行者山は上記に過去のログが在り、出来るだけレポートは省略します。 思いのほか、いい山道が続くと 期待した道でしたか、水流の少ない谷の出会いを過ぎ何かの測量用なのか、先に布をつけた長い竹を立木に結び付けられたものがあり、其処からは急に棘の木の多い最も嫌な藪漕ぎモードになり道も細くなる。 比較的良さそうな踏み跡も右に左にと小川を越えて蛇行します。倒木や深い藪、崩れやすいガレ場や岩場を避けての踏み跡ですので進路の上方に注意しながら、やがて途絶えた踏み跡(けもの道)を追って尾根に取り付くが、何時果てるとも判らない急登が続きます。 それ程時間がかかった訳でもないが!!藪と潅木を抜けて這い出たところは大海山〜牛坂から続く稜線上の展望所で 千ヶ峰〜飯森山高見城山〜石戸山〜岩屋山 西光寺山・白髪山〜松尾山・カザシ〜岩屋山】の拡がる露岩の近く、三組尾山頂直下で 2分弱で到着しました(3等三角点 540m PM12:20)。 山頂からは激降りで落葉の滑り台が続きます。樹木の間からは辿ってきた石金山からの播丹境尾根をさえぎる様に妙見山(山南町の)が大きな山容をみせています。向う尾根の先には行者山が 丸い頂を覗かせてそそり立っています。その鞍部が随分下方にある事を伺わせますが、鞍部からはそれ程の登り返しを 意識することも無いうちに 行者山山頂に着きます(PM12:40)。山頂の7〜8m下方に岩場があり二匹の鬼を伴った役行者像が祀られています。掌に乗る程の小さな青銅のユーモラスな鬼の姿態には親しみを感じます。
丹波市山南町特産の正月飾りの若松と三組尾の遠望

前回は少し引返した山道を県道側に降りたが、 今回は以前富田橋から辿ったコースを逆進します。この折、西谷側からの踏み跡を認めていたので其処を下降するつもりでしたが、珍しく遠間隔ですが大柿氏の赤布(H12.12.XX)が残っているので彼のコースを追って山本集落に降りてきました。 行者山を中心に修験の道があったとすれば三組尾が点名:延命寺山なので、コースTの延命寺口へ降り立ったルートがメインで延命寺から辿っていたのかも知れません。この延命寺の背に、すっきりとした山容と先鋒を見せているのが延命寺山〜カザシ〜岩屋山〜篠ヶ峰のコースは何度か紹介していますね。
石積みが長々続く猪垣に沿って墓地を抜け車道に出ると牧山口のバス停です(PM1:10)。 富田橋(県道)に向って歩き始めます。西に行者山が入道頭を突き出しています。道に沿っての畑には若松が育てられ 正月の飾り松等に利用されていますが行者の山の山裾を飾っています。若松は山南町の地場産業で京阪神市場の70%を占めているそうで此処 ・和田地区では薬草と共に盛んです。県道に出れば蛇山(岩尾城址)を眺めながら登山口の和田小学校前(PM1:25)を抜け旧城下町の東側へ出ると和田下町の登山口(稲荷社)です。


Y行者山〜播丹境界尾根を小野尻峠〜長坂峠へ2002年3月24日

昨2001年末
至山〜石金山から 三組尾縦走では播丹境界を辿りながら長谷(4等 360m)を踏めず小野尻峠へもトンネル上を通過せず旧トンネルに出て、三組尾へも尾根を辿らず直接三組尾山頂へ向かった。一年前(2001.2.25)低山徘徊派のミニオフでは牧野大池〜牛坂を経て三組尾へと縦走しています。その空白地帯を埋めるべく今回、短時間決戦の山行を決行しましたが藪尾根!!??縦走での尾根取り違えてニアミス、 僅かの距離を残して長谷のピーク目前で尾根を踏めずして林道長坂へ降り立ちます。
三組尾の展望岩から (手前2峰)延命寺山とカザシ

登り直しても20分とかからない峠真近の林道終点付近ですが、またしても僅かの時間をのこして帰ります。「遊んでばかり…」の抵抗を和らげる為にも此処は残念せざるを得ません。 家を出て10分程度で小野尻に着きます。トンネルへ向う集落外れの広いスペースに駐車して取り付き点へ戻ってきます。取り付き点は峠より最後の民家近くで電柱(オノジリ18W1E1)が目印です。低山徘徊派のミニオフの時に行者山から降りてきた処ですから判ります。 杉の植林帯に真っ直ぐ奥に向って余り広くない山道が延びています
(AM10:30)。NHK共同受信施設の「ケーブル埋設」の白いプラ標柱に沿って登れば 間違いなく受信施設の共同アンテナまでは通じているから(AM11:00)。施設の8m程先には磨耗して 文字も仏像も判別出来ない石仏が立ち ・枯れたシキブが周囲に堆積していますので 此処まではお参りしてくる人もあるようです。
86号線・和田大橋付近から石金山

低山ですが車道から直ぐ見上げる山ですので結構急登が続きます。 大きな露岩が目立って現われる稜線に出ると其処が行者山(402m AM11:08)の山頂です。行く手に三組尾が聳え立っています。岩が積み重なったような山頂の直下 4〜5mの岩場には中央に役行者と左右には役小角に仕える斧を携えた前鬼と 水瓶を抱えた一本角の後鬼が控えています。三組尾への稜線は荒れてはいるが山道は明確です。10分程で最低鞍部に出ると楽しみの急登が待っています。5分程登った所で大きな岩場へ出て左右に捲きますが大柿布のある北側よりも南側の潅木帯が楽のようです。 岩頭からは行者山と今降って来たピークが丸い山容を二つ並べています。落葉の重なるフカフカ道を歩いていて、少し足下に硬さを感じる岩尾根になってくると三組尾山頂(点名:延命寺 3等 540mAM11:35)に飛び出してきますが展望は 1〜2分先に露岩帯の展望所がありますので、そこで休むことにします。
蛇山 から手前の 延命寺からカザシ〜岩屋山〜篠ヶ峰、その先に 古天神〜高釣瓶 弘浪山 五台山… 残念ながら西面の 妙見山・千ヶ峰 方向が開けていなくて 眺望半減ですが此処以外に展望を楽しめる所も少ない単調な尾根歩きで、牧野大池方面と小野尻峠への分岐に着きます。 牛坂へ向う主尾根!!へは 大柿布が先導してくれます。
至り山北山麓:井原橋さくら公園と旧佐治川(加古川)

小野尻峠への播丹境界尾根にテープ等一切ないが快適道が続きます。南側の476mピーク(AM11:55)近くで鹿除けネットが現われ 何度かネットを潜って進みます。 気を良くして進みますがこの道も峠のトンネル上部には達せず途中で牧野側へ降ってしまうようです。どんどんネットに沿って降り始めますが車の音が聞こえてくる峠近くまで来て道が急に不明瞭になります。 藪を突き抜けて尾根通しか谷へ降るのか判らない状態の下降で新小野尻トンネル(現在の車道)上から小野尻へ抜ける古い峠道に下りてきました。此処は低徘オフミーティングでトンネル付近を探索した時通った道です。 小野尻側からの荒廃した車道終
点 (PM12:20)から
石金山へと続く 境界尾根に取り付きます。踏み後程度の道でしたが境界プラポールと赤黒の木標も有って10分程で旧小野尻トンネルへ降った山道に登りつめます。付近は松茸山で小さなコブ毎に「三ヶ村山林委員会」の立入り禁止表示板が立てられています。
イタリ山山頂

その為踏み跡は稜線を外れ思出川(良い名前の川ですね。中町の鍛冶屋集落)方面に降るか 外れ峰の点名:小野尻峠に向うようです。長坂峠の僅か手前で355mピークの方に寄ってしまったようで時間が無いのでそのまま藪を降って 林道に出てしまいました(PM1:10)。20分もあれば行き着けたかもしれない長谷 (点名:ヲコサカ4等三角点360m)は 又も次回の楽しみとなってしまいました。植林の中の長坂林道を降って小野尻集落に戻ります。林道南側の山裾に「是よりXXX延命寺山」の古い石標柱を見かけます
。先に登って来た三組尾も点名を延命寺と呼び小野尻峠を挟んで対峙する長谷(点名:ヲコサカ)側も延命寺領の寺山だったようです。 今の延命寺は山南町小畑にあり、 背山の尖峰465m峰を延命寺山と呼んでいます。
イタリ山山頂:西尾根側の上り土塁状?と切岸?

普段は行者山しか見ることの無い山域ですが小野尻集落内に降りてくると
石金山や山南町の妙見山への取付きに利用できる林道塩屋線と合流する。 全国的にも出荷数を誇る!!地場産業の若松の畑の奥に三組尾と行者山が並んで姿を見せてくれます。小野尻公民館から小野尻川を渡って今日の三組尾取付き点の車道(県道86号線)の 電柱(オノジリ18 W1 E1)の10m程下手に出て来て駐車場所に帰着します(PM1:40)。


至山城(至山城館)
大谷城

至山城(至山城館)   イタリ山 274m  山南町井原

丹波国と播磨国の国境尾根の東先端が此の合流点に落ち込む所に有るイタリ山は加古川(旧佐治川)と篠山川が合流して此処を基点に加古川と名を変える。”いたり山 道のいたりは…”と謳われる山で、 ”イタリがハ
ナ(端)”とも呼ばれます。丹波・播磨両国を分ける境界は三国岳辺りから 播州峠〜鳴尾山〜篠ヶ峰〜三組尾〜石金山へと続き 標高僅か250m程の低いイタリ山を東端に一級河川の加古川に落ち込む丘陵上は加古川・佐治川と篠山川合流付近と北播磨・丹波の両国を見通せ展望が良い。
段差をもった平坦地は無線施設による削平か曲輪跡か?

山裾北面の井原郷は篠山方面からは丹後や出雲へ向う旧山陰道が、播磨側の黒田庄町から丹波路に入る玄関口は但馬や篠山や西脇経由で京都へ向う交通の要衝でもあり、また加古川流域は物資輸送に船もおおいに利用 された事でしょう。交易・交通の要衝で軍事的にも重要な位置にあり、三つの大河が囲む ”イタリのハナ”に監視の砦城が有ることは至極当然と思えますが、 両国の境目の城は播磨側か丹波側の城で有ったかは城史不詳。
山頂の曲輪跡?放送施設工事によるものかは疑わしい!

河川を要害とした場合は播磨側にとって有利な城ですが…佐治川に架かる井原橋を渡って公園から登り始める登山道の 6合目付近には至山稲荷大社があり(現在は石垣跡が残るのみ)
三ッ塚古墳の話もあって、緩やかな流れは簡単に船で行き来出来たようです。観応2年(正平6年1351)足利尊氏が石龕寺に逃れ、再興を期して播磨から九州へ向かう際:此の至山稲荷社に必勝を祈願したと伝えられ、祠は町内の日吉神社本殿背後の岩磐下に移され鎮座します。
田高坂の東側尾根上にある石列

主郭部の東・北・西に各1段程度の削平地が有るよう?ですが 山頂一部を除き藪がひどくて 立ち入れない。削平状態も粗く・他に土塁や堀切も無さそうで”見張台か狼煙台”の監視砦だったのかも…。西脇市田高側の支尾根や石金山への縦走尾根に点在する範囲に点在する城砦の曲輪群?が、丹波側ではなく・播磨側の国境防衛線として築かれたのではないか思えます。
DoCoMo無線中継所山頂の曲輪跡?


イタリ山山頂の主郭!からは 播磨側への南尾根上に 4段程の段差も低い削平地が西脇市側船町かかりの 民家そばへ下る尾根筋(登山道として整備されるかも?)にある。下段程段差なく削平も粗い小曲輪・上段の曲輪は一段下に
帯曲輪が捲いている様?だが一帯には平坦地形以外・曲輪の切岸や土塁・堀等の遺構は見られない!?。船町側に中世の一石五輪塔等が 発見されているようです。田高坂へ向う尾根を辿っていると、幾つもの平坦地が有るが、いずれも播磨側の尾根筋 ・水源さえ確保出来れば居住空間は結構随所に有ります。
アッ・・と驚きの石垣は自然の造形!

やはり播磨側の防衛最前線基地だったのでしょう …イタリ山のNHK放送施設から北摂長田線の送電線鉄塔までにも砦が有ったと思われる最適場所の峰々の頂には、もう一本の送電線(黒田庄支線)やDoCoMo及びJPHONEの中継施設が建ち遺構の確認は専門家にお任せです。調査時の記録や縄張り図等が見られな
いので私の勝手な推測では特にDoCoMo施設が曲輪跡の様相で、縦走路となっているところは物見台が、施設の東南には2段の曲輪が有ったように思えます。イタリ山から最初のJPHONE中継塔への登りでは尾根を断つ様に高さ2.5m・
至山南尾根上の曲輪群から


長さ7〜8mの見事な 石垣積みを見て一瞬アッと驚きます。曲輪の石積にしては他に城砦遺構としても明確なものは無い。まして土塁や堀切・空掘・竪堀等、低山なのに防備設備が無い城なのに …良く見ると自然の造形でした。ところが田高坂へ下る手前の緩やかな長い尾根の途中、前後には岩等見当たらない箇所なのに其処だけに、 ほぼ同じ大きさの岩が10数個集まった箇所が有ります。気になる石列は他にも有ったが自然のものか判別が付きません?。
至山主郭からの南尾根上曲輪群

古墳のマウンドや石材と思われるが田高坂までの尾根上には東播磨と丹波路を結ぶ街道監視の物見の曲輪が、西脇市(旧多可郡黒田庄町 )側の 2〜3の尾根にも数段の曲輪が並ぶ様です。 其の先では階段状の急斜面を下り切って田高坂に着きますが此の急坂上部の尾根端部に石列の有る場所があり、 30〜40m程続く緩やかな傾斜尾根の中程です。古墳の石材?石段にしては不自然? 曲輪の段差?果たして…??
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書の分布地図と一覧表参照 氷上郡教育委員会)


大谷城  xxxx山 Ca320m  山南町梶・黒田庄町田高

大谷城は山南町と黒田庄町との播磨国境を東西に延びる主稜線から南へ突き出す支尾根に位置する。城史等は不明で、明確な遺構も発見出来なかったので 山行レポートとします。360度展望が効き、丹波と播磨両面の雲海が楽しめる石金山山頂へはAM4:00頃から霧が発生しはじめ家を出る頃は霧の中。そして石金山〜田高坂〜至山への縦走コース上には、大谷城と至山城(至山居館)があった事を 氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書の分布地図で知っています。
田高西山から大谷城

ただ・どちらの城についても城史不明のうえ、 私のような素人には明確な遺構の無い、自然地形の平坦地に曲輪を・浅い凹角部に堀切を判断出来るほどの見識・洞察力も無く、縄張り図とて無いので”此処だ”と指摘を受けなければ気がつかない。こんな頼りない状態での超マイナー山城探索なので、 期待通りの発見は覚束ない。”鞍かけ石”の有ったXX会社の車道脇を過ぎる頃には、霧もアッという間に晴れて、岩尾城の石積さえ見える程。集落内にある”鞍かけ石”の置かれた小公園前が小新屋観音への入口です。 既に周囲の山々は朝日と青空の中に有って雲海見物は、またも先送りと思ったが所用の合間で往復2時間の猶予しかないので 城跡探しをメインに登ってみようと道なりに進んで小新屋観音前から石金山登山口に進みます。
石金山頂から氷上町方面(正面最奥が五台山

短い急登 40分程で山頂に着くと宝塚から来たという男性が一人撮影モードです。霧は薄いが播磨・西脇側、北には氷上町が消えかかった白雲の底に有った。 余り余裕も無いので石金山から引き返し、イタリ山への縦走尾根を採って大谷城を目指します。小新屋観音への 下降点からの緩い尾根を登りきると ”滝の方展望台”で白山〜妙見山や西光寺山、大谷城がどこかは良く分からないが、 此処からは至山の手前・西の峰続きには目印の送伝線鉄塔を載せるCa320m峰が見えています。滝の方展望台からのコースは左下の岩場 ”天狗岩”へ向います。縦走中唯一の!鎖場を過ぎてもドンドン下って行き、緩やかな尾根歩きに移るが、縦走コースが開かれる以前は、此の辺り・特に大谷城〜田高坂の藪漕ぎは棘類も多くて大変だった事を思い出す。送電線が山南町梶と播磨側 ・黒田庄町田高の国境を越える尾根上にある大谷城は丹波の城に入れたが、佐治川(加古川)を望む位置からは播磨側の国境警備の城と思えてきます。
小新屋観音

山南町側へ藪の山腹をトラバースして下る巡視路 ”ガラガラ”を過ぎると小鞍部に片堀切のような 凹部を見て送電線(北摂長田線No57)鉄塔に。此処から自然地形の平坦な場所が続き2〜3段差も見るが遺構としては納得いかない!(古墳跡らしい)この先・下って広い鞍部に 出るが堀切らしくも無いが左右の藪に隠れた谷筋は急な様子です。 此処からさらに登り始めた急斜面が城域に入って行くような感じがした。ピーク付近には自然地形の平坦地が有り、峠(田高坂)監視の至山城の砦が 有ったのなら此の辺りだったか?他に何も気付かないまま斜面を降り、大谷城の城域を抜けたらしい。 送電線・黒田庄支線No34 鉄塔を50m程下った田高坂に着いた。
大谷城の主郭部?(実は古墳)

”寛政8年(1796)辰11月建立の地蔵尊像”が建つ。県道86号の船戸橋辺りから見ても田高坂に近い306m峰近くが大谷城らしい?。 何の成果も無かったが・今は松茸シーズンなので深入り出来ません、 此の辺りで引き返し次回改めて田高坂周辺を播磨側主体に歩いてみたい。”田高坂”の峠越えは播磨〜丹波間での難所・加古川(佐治川)を渡らずに往来出来る間道なので 通行監視の砦が有ったのでしょう。大谷城〜至山城への尾根上に 堀切や切岸加工の明確な曲輪は無く、至山城に見た(一部だけ??)数段の 曲輪群も段差は低く、曲輪を繋ぐほどの帯曲輪も無い(腰曲輪らしいものはある?)自然地形に近く 相当荒れているので、
天狗岩から大谷城付近(中央)と至山(中央奥)

よくはわからないが至山城から大谷城にいたる長い稜線上に点在して、東播磨と丹波への玄関口を警備する街道監視・連絡の砦として機能したものでしょう。大谷城追記:下記資料からは 主郭から西に1段・北へ1段・東に12段の曲輪を連ね東に2段目に曲輪の南側には”食違い虎口”が有り、周囲にも小曲輪が配置されているという。また城域の両端には堀切も有るそうなので中世まで使用されてきた山城の様だが未確認。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書の分布地図と一覧表参照 氷上郡教育委員会)




小新屋の観音さん   丹波市山南町小新屋


丹波市から坂尻峠を越えて那珂郡(旧多可郡中区・加美区方面)へ通じる県道86号線(中・柏原線)は牧山川 沿いに蛇山和田岩尾城址の山城を望み、薬草風呂や薬膳料理が味わえる薬草薬樹公園前を通ります。其の岩尾城登山口への分岐・薬草薬樹公園の手前250m程に 小新屋(こにや)観音への道を示す標識を見て牧山川を渡り集落内の公民館前交差点で観音堂へは直進するが、小公園に鞍かけ石がある。
小新屋観音の屋根付き橋(廊下橋!)

以前の場所(xxx会社横に記念石碑有り)から移設されていますが、岩尾城関連の伝承が有ります。直進する小新屋観音への道は ふるさと兵庫50山の一つで 「丹波の霧海」のスポットでもある石金山への登山口ともなっています。この小新屋観音には「石船伝説」と、何時の頃からか由縁はわからないが足の病に霊験有りと伝えられ松葉杖等の他由来のある「手押し車」が奉納されており、 此れに纏わる伝承がある。小新屋観音はご本尊に十一面観音・両脇侍仏に毘沙門天像(伝:弘法大師作) ・不動明王像(伝:智証大師作)を祀り、 古くから足の病に霊験が有るとされ、遠く播磨や但馬等各地からの参拝者が多く境内の桜・紅葉の知られざる名所であり名刹となっています。
小新屋観音本堂

永正7年(1510)和田庄を領していた
岩尾城主 和田日向守斎頼(よりとき)は織田信長が兵を挙げた・今川が京に向って上がる…等々の使者の伝える、世の中の動向に眠られぬ日が多かった。「殿:顔色が優れませぬが… 」気づかう家臣に平静を装ってはいるものの、大きな勢力を持ったものが 京に上るとなると、西国の咽喉元に当たる丹波一円の領主にとって、 いくら中国地方の雄・毛利一族と同盟を結んでいたとしても、ひとたまりも無い事は分かっていた。どうすれば良いかと色々思案してみては 眠れぬ夜が続いていた。
小新屋観音

そんな或る夜:不思議な夢を見た。岩尾城の南正面に立つ石金山に紫雲たなびき、 石船二つに乗って千手観音が現れ、此の地を指して 「我 久しく石金山に在るが 此れより鍵掛尾の麓 (現:小新屋観音の建つ地)清水を前にして 安置せよ 子孫まで守護せん」と告げて消えるという霊夢を見た。翌日家臣に命じて直ちに此の地を整地し、四間四面の神殿造りの本堂と小庵を建立し、自ら「観音院」と名付け格式高い祈願所としたのが始まりと云われます。明智光秀の丹波攻めの際堂宇を焼失し、 寛永7年(1630)水野周防守源忠増(鶴巻藩水野家の祖)【享保20年(1735)丹波国で加増され氷上・天田・
小新屋観音にて

船井の3郡を領して前期織田家廃絶後に和田代官所が置かれ、和田を領有し統治しているが元禄7年(1694)に没】によって再建 ・小野尻峠を越えた播磨側の西安田の円満寺(多可郡多可町中区)より明覚証人を中興に招聘され、寺院を造営して石金山常照寺と号したとされます。其の後・天災により大破していていたものを貞享年中(1684-88)檀家により再建されています。 明治新政府より出された神仏分離令や廃仏毀釈(きしゃく)運動によって寺院は廃され其の址を遺すのみですが、信仰帰趨の足の病の霊場として、松葉杖にすがって来拝し・帰りには杖を納めて下山するの霊験は枚挙に暇無し…!!と云う。 なを境内に置かれた石船は宇堂床と呼ばれる様です。谷川に架かる屋根付き橋も珍しいのですが、屋根の下には満願成って平癒・快復したものか、 祈願者が納めていった松葉杖や義足類が残されています。
小新屋観音:伝承の石船「宇堂床」に乗る十一面観音像

其の中に目を引くのが一台の手製の手押し車。台車の下には
「足悪く 手押し車に吾が娘乗せ京より参る 小新屋観音」と書かれています。播州からは姫路の円教寺・加西の一乗寺を、摂津方面は中山寺・花山院・清水寺と、丹後の成相寺や松尾寺を結ぶ其の中間付近ににあって、此の西国三十三ヶ所観音霊場巡りの道すがら、 足の病に霊験あると播州、但馬の方から小新屋観音に参詣する人も多かったという。大正12年(1923)秋:遥々と京都は右京区梅ヶ畑の一ノ瀬村より、不自由な娘さんの足をなんとか治してやりたい一心で、霊験を伝え聞いた父親は手押し車に乗せて 小新屋観音へ詣ってこられました。観音堂を守る地区の人々も参詣の人々を温かく迎えていました。まして京からの遠路を山・峠越えの難所を、 手押し車に娘を乗せてのお参りに、暖かい励まし・支えもあって、父娘は籠り堂で寝起きして一心に観音に祈願しました。
小新屋観音:伝承の手押し車

一ヶ月程たったある日:娘さんは遂に一人で歩けるまでに快復し、感謝し喜び・手押し車を観音堂に奉納して京に帰っていきました。現在は廊下橋は架け換えられて無いが正面観音堂の屋根下 ・袋戸の上に乗せてある手押し車の住所を手掛かりに、地区の故・佐山某氏が調査され、親子の遠縁にあたる方々と出会われ、小新屋観音に御参りされ手押し車や名前等を確認されています。このお話は和田小学校PTAにより人形劇として、 昭和60年(1985)本尊<十一面千手観世音菩薩>開眼供養の際に上演されました。
注:屋形橋は付替えられ姿を消し、手押し車は観音堂東側戸袋の上・更に本堂縁側の其の戸袋傍に置かれている。
(由緒を尋ねて 現地:小新屋観音及び石船由来等案内板 地元の奉仕会メンバ作成の栞を参照)
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