播丹国境 妙見富士へ  東山古墳群〜城山(貝野城)〜妙見山〜段ノ城 (向山)
北播磨 (五万図=生野)
T2000年04月30日牧野大池〜牛引坂〜 樺峠〜妙見山〜牧野大池
U2002年07月21日東山古墳〜城山(貝野城)〜妙見山
V 2002年08月13日安楽田〜向山!(段ノ城480m)〜妙見山 693m
W2004年05月15日 加美運動公園〜妙見山〜段ノ城(向山)〜寺内

段ノ城(向山)から妙見山への西尾根

近畿の山城: 貝野城段ノ城 段垣内構居(荒田構居!!)
ふるさと富士:妙見山(妙見富士・多可富士)

校歌故郷の山:中町町歌 ♪朝日さやかな妙見の 裾に開ける那珂の里…♪

西脇市から427号線を千ヶ峰に向う途中、中町の北に聳える妙見山が目に付きます。播州峠から千ヶ峰〜笠形山や竜ヶ岳〜篠ヶ峰〜妙見山に囲まれた加美町を流れる杉原川(加古川上流)流域の中程に位置する中町のシンボル妙見山の秀麗な姿は 妙見富士とも呼ばれます。地元では親しまれ展望も優れた妙見山ですが近畿100山・関西100山・ふるさと兵庫の50山からも選外の不遇!!?
旧鍛冶屋駅記念館から延びる廃線跡:ポッポの道

…が・それで良かったとも思えます。ふるさと富士・妙見山への途中には山城跡や伝説の「…忘れ石」があったり、登山口には「北はりま田園空間博物館」の東山古墳群や歴史散歩も楽しめ北播磨余暇公園もある楽しみスポットも点在している。山頂付近には古代祭祀跡があり慶長(1596〜)の頃は赤金(あかがね)山と呼ばれた鉱山で今も牧野大池側や杉原川側等に採鉱跡も残っています。多くの銅が産出されたが同時に鉱毒で田畑も在れ、為に「災害滅除・人の福寿を増す」 妙見菩薩をこの山に勧進して祀ったのが山名の由来と云う。
貝野城:本丸から南ノ丸へ延びる帯曲輪”伝:馬つなぎ場”

天から火が降ってきた際 「あまんじゃこ」が逃げこんだと言い伝えの「あまんじゃこの忘れ石」が展望台下方にあリます。此れは播磨富士笠形山から妙見山へ橋を掛けようとしたアマンジャクの据え石・立岩の奇岩伝説と対を成すものとして面白い。
車道の左右には酒米「山田錦 」の田園が拡がる山田錦発祥の里で耕作地の50%以上はササニシキ。妙見山への登山口は小野尻峠手前の牧野大池からと東山古墳群・那珂ふれあい館 ・多可高校西側から城山鞍部に至る東山ルートがあり牧野大池ルートも近年整備されたようです。
妙見山登山口の東山古墳群から妙見山と左に城山(貝野城)

東山の取付き点から林道を牧野へと戻れるが時間に余裕が有れば東山古墳群を見学し、北播磨余暇村公園に寄っての休憩がお奨めです。427号線の門前や寺内辺りまで来ると妙見山の峰端に 台形の城山(段ノ城)がその山城の姿を見せていますが今回も!!何を勘違いしたのか展望所から「あまんじゃこの忘れ石」へ寄り、そのまま尾根伝いに東山コースへ藪漕ぎで降ってしまい立ち寄れず…。


T牧野大池から古道の樺峠〜妙見山(多可郡中町)へ縦走  H12. 4.30

石金山〜妙見山(山南町)を迷走した後で和田から中町へ小野尻峠を抜ける。 トンネルからの坂道が緩くなる頃、標識を見て右折し牧野大池のゴルフ場 ・キャンプ場を通り越して池の西北に駐車して(AM10:15)出発します。地図を持っていないが!!奥の林道を左に取れば 西谷側からの林道終点(牛坂峠!)か茶屋跡辺りへ続いている様だ。 右に直進し尾根に取り付くと妙見山が良い感じで望め、道を右へ巻いて尾根筋を下りきれば林道終点の 白いガードの有る牛坂峠!(AM10:45)です。此の縦走コースの入口に随分と狭いが坑口があります。
妙見山山頂 693m

広い水平道は名前通り牛も通った旧道か …途中には石垣の残る茶屋跡?を経て石仏(AM11:00右まきの・左たんばの表示有)の樺坂です。ここからは加美町との境界尾根で加美町側の登山コースとして整備されているようだ、随分ときつい登り下りの続くコースを先ずは覚悟して下さい・迷うことは?ありません。岩場通過・露岩帯は山頂が近くなると 目立ってきます。
貝野城本丸から鍛冶屋・間子方面:左手丘陵先端付近は森本城

妙見山頂693mは以前の暗さは微塵も無くすっかり様変わりしています。(PM12:00)方位盤が設置され山頂はすっかり観光名所風。牧野大池への下山ルートはハイキングルートとして最近整備されたようで急斜面に 丸太の階段が続く所もあります。旧コースからのルート変更箇所もあって、まだ地肌の固まっていないところも有ります。展望は望めませんが自然林の中の「椿の林」等は、シーズンを待って再度訪れて見たいところです。 杉林を抜ければ牧野大池側からの登山口に着きます。(PM12:45)


U多可高校裏手林道〜城山(貝野城 364m)〜妙見山〜 H14.07.21

妙見富士カントリーと多可高等学校の西隣一帯の丘陵に、うねる様に丸い芝生の小山の起伏が点在する 「東(ひむかし)山古墳群」がある。当日レポートの内・古墳については 東山古墳群に移転しました。4〜5年ぶりに北播磨余暇村公園とゴルフ場の間を通って 旧来の多可高校西側から妙見山への登山口に向います。此処には調査を終え「北はりま田園空間博物館」として
中町高岸から望む妙見山

公園整備された東山古墳群があって周辺の様子は僅か数年で見違えてしまいます。近付くとセンサーで 感知され岩室内をライトアップする 古墳もある。(H17.01.23)に参加のメンバーとは中町ボランティア・ガイドの皆さんにお世話になった後の 帰路に寄り、 西脇市大木町の鍛冶の神様・天目一神社にも立ち寄りました。
妙見山登山道1合目「さくら橋」

村東山古墳にも事前にガイドを依頼していたので、研修センタ南西部にある鉄工所の資材置き場の様な場所で、 地区内の道からも南に開いた石室が石垣の上に見えています。城山(貝野城)から妙見山頂を目指し、少し手前の妙見砦から馬蹄形に西方へ延びた尾根の最高所にある段ノ城を訪ねてみます。 八千代町の野間山城の有田(在田)氏と此処・段ノ城の有田(在田)氏や西脇市の 尾山城(上松氏/在田氏)日延山城(本郷氏)とは共に赤松一族として 別所重棟と戦い落城の運命を共にしています。東山古墳群の西端(AM6:20)から林道が山に向って延びていて「妙見山登山道東山側口に至る0.7km」の導標が見えています。林道入口脇の塚は上部が破壊された為か 底部を復元した形の展望台になっています。
妙見山登山道3合目(鞍部の休憩所) ・目前の木階段上が城山(貝野城本丸)

山城が築かれたことで盗掘ではなく軍事・戦闘で破壊され消滅した古墳もある事でしょう。右手の林の中・ゴルフ場のグリーンの間に、数基の墳丘を垣間見ながら 10分ばかりで舗装路から地道に変わり、東へカーブして降り始める辺りに「妙見山登山口」の導標のある東山口があります。緩やかな檜の植林帯から松の木の目立つ疎林の道は3合目休憩所(ベンチあり)のある鞍部へと続きます(AM6:45)。 「シロ山⇔頂上」のプレートが掛かり右上へは整備され道標やテープの続く 妙見山への道だが西側の傾斜のある山に向って続く細道に向かいます。シロ山とは妙見山山頂の妙見砦跡から西方へ延びる稜の先端に位置する貝野城 (364m AM6:50)に着きます。
貝野城”伝馬つなぎ場”曲輪から南ノ丸(右端が平入虎口・左には石垣も残る)

5合目付近から6合目にかけては以前のコースが 南端側へ付け替えられているが 展望は良くなり、背後の貝野城が下方に見えてくると緩斜面となり、周囲に自然林の続く明るい遊歩道は気分も爽快です。 少し岩混じりの道となりコースが大きく左へ捲きながら7合目の展望台下へ向かう細い踏み跡が「あまんじゃこの忘れ石」へ続きます。道標もなく藪っポイ中で岩登りに近い急登、展望も良く 無いのでワザワザ立ち寄って見ることも無く、展望台ピーク(619m AM7:40)の ベンチでゆっくり休み 周囲の展望を楽しむに越したことは有りません。7合目分岐を直進すれば展望台を捲いて8合目に着きますが 往復するのでなければ 是非寄ってみるべきポイントです。
段ノ城中継塔〜下山途中からの貝野城 H16.11.28
 
南と西面に酒米「山田錦」の穀倉地帯!!や数曽寺の山塊が望めます。 展望台から8合目の鞍部に下るが僅かに妙見山の富士型が見える箇所があります。城山(貝野城)途中から望む姿と変わらない。妙見を富士としてイメージ出来る箇所が少ないようなので追記しておきます。登りきった9合目付近?には、 もともと太陽や北斗七星等天空の星を神として崇めた古代祭祀址!!だったかもしれません。其処に山名由来の妙見菩薩を祀ったところでしょうか石垣に囲まれた一角があります。山頂へは直ぐの所ですが途中の林の中に「中町ネットワーク21」の標札!!のある隙間だらけのログハウスがある。前回には無かったので山道整理の作業用に建てられたもののようですが、 少し手を加えれば立派に休憩・避難所に利用出来るので、このままにして置くのは惜しいですネ。
妙見山山頂付近/妙見山砦跡

狭い露岩を魅せる高見の頂上が妙高山(2等三角点 693m AM8:10)で 山名と標高を示す標識や周囲の山名を示す方位盤があり 北に篠ヶ峰〜竜ヶ岳や千ヶ峰、西に笠形山へとほぼ300度!!の好展望台です。 山頂から引き返して段ノ城へは山林境界のある、此処石積みの祭祀所付近から西へ尾根を辿ればと思ってはいたのですが地図も無く、気にもとめずにそのまま「あまんじゃこの忘れ石」近くの展望台まで来てしまいました。 段ノ城へは正規の門前!!?からリベンジするつもりで今回諦め展望台からて南の尾根を直進とて 「…忘れ石」への踏み跡を辿ります。 踏み跡は途中の岩場の上部を経て展望台へ戻る道が続いているが、天からの降ってきた火を避けて「あまんじゃこ」が逃げこんだのが、この岩場だったかも知れない!!そして周辺に点在する石は、逃げ込んだ穴を塞ぐ為のものだったかどうか・・?
貝野城南郭〜本郭間・石塁・石列の遺構が残る

登山道に案内標が有るが所在も・ お話も不鮮明な「わすれ石」ではあります!!。踏み跡も尾根筋が不明確になるにつけ薄く左右の谷筋へ消えていく獣道・・!!大きな土砂崩れの跡の台状になったところから先はイやな棘の混じるブッシュ帯、谷筋へ向うほどに棘藪はひどくなる。 対岸に渡り終えた檜の植林に山道をみつけたが、其処から30m程で東山コース取付き地点に出ました(AM9:05)。


V 安楽田・八幡宮〜向山(段ノ城480m)〜妙見山 〜東山古墳群  H14.08.13

先月(H14.7.21上記 U参照)城山(貝野城)から妙見山頂を往復して妙見堂跡!!(石積みが残る)へ戻り、 此処から谷を挟んで馬蹄形に西方へ延びた尾根の最高所にあるという段ノ城へと有田(在田)氏の ”二つの山城”を訪ねるつもりだったが果たせなかったので再度、今度は安楽田(あらた)の集落から谷を詰めて西尾根に取り付いて段ノ城に向かいます。
貝野城(中央)低山と段ノ城(中央奥)

妙見山へは東山古墳群のある多可高等学校側から城山(貝野城 )への 鞍部に出て向うのが一般的ですが先月から宿題になっていた段ノ城を訪ねて西尾根を妙見山へと辿ります。千ヶ峰に向う427号線の門前から安楽田(あらた)川に沿って山裾を目指します。 集落奥の八幡宮前(AM8:45)の駐車スペースに車を寄せてさらに伸びる林道を辿ります。霊園前を抜け八幡宮から5分程で、中町第二貯水池(大きなタンクのある施設)があって林道が分岐します。城山(貝野城)の西面の谷 (安楽田川)沿いに直進する林道は終点からも 明瞭な山道が続いているので、妙見山近くの 567mピーク西の鞍部に達しているようです。
大岩群の岩門の一つから中継塔と段ノ城

私は尾根西端の点名:向山(妙高山の山名プレートがあったと聞いていますが!!) 段ノ城が目的なので左折して 中継施設の鉄塔の見えるピーク目指して谷沿いの道を稜線へ向います。舗装道がダートになり山道になり、踏み跡程度になってもコースは明瞭に続いてる …が谷沿いの湿気た踏み跡です。倒木と落葉が積もった先が気になり枝木でつつくと1m四方にナンと4〜5匹のマムシがたむろしています。一匹はトグロを巻いて脅してもすぐには逃げてくれません。 此れより先は慎重に進むことになりますが、程なくして谷を埋める急斜なガレ場に出る。砂防の石積みを登るにも見えない部分でマムシがトカゲ??を決め込んでいるかも知れません。谷筋以外にも広い範囲で石積みが見られます(AM9:25)。私の登ってきた安楽田付近では、 大正の頃に土砂崩れで廃村になったところでもあり、地盤の緩い枝尾根の採石場のような崩壊の進むガレ場は治山の石積みも通過は要注意です。
最高峰(向山)直下の岩門も砦を構成する

荒田は「播磨風土記」にも記された荒れた田でしたが、 後世にも度々洪水で田が荒れ、村人は安楽に暮らせるようにと「安楽田」と改名したと伝えられています。目的の段ノ城より、遥かに北東の枝尾根に出て15分程で妙見西尾根に着くと (AM9:45)細いが明確な山道となり西に向って歩き始めるが降る一方の道。
降り切って?短い急斜面を登りきると向山(480m 4等三角点 ! 妙高山のプレートが 有ったとも聞くAM9:25)のピークです。雑木藪の中、彼方此方探したが三角点は見出せず城址らしい2〜3段の平坦地形も見られたが本丸にしては狭すぎる?最高所は見張台、その下に見られる曲輪は番小屋でも建っていたのかも!!此処から、さらに西へ進むべく下り始めて大岩の前に出ます。 北面は藪っぽいので南面の潅木帯側の急斜面をトラバースしながら進みます。正解はこの北側で捲き道がちゃんとあります。
段ノ城(下段)大堀切・堀底道の石積部 H16.11.28

最高ピークの向山(4等三角点 480m)から無線中継所までの 僅かの間には山城を守る頑丈な大岩が城門ともなって次々と稜線上に立ちはだかる。南面を捲いて大岩群を通過していくと 広い平坦地に出ます。此処が麓から目標にしていたDocomo 門前無線中継所(AM10:15-40)。 中継施設にしては広すぎる平坦地です。段ノ城の北の丸だったのでしょうか。此処からは直ぐに腰曲輪を伴った広く長い削平地があり堀切・土橋付き堀切 ・竪堀や何段も続く連郭の間に在って、部分的には石積も見られます。曲輪が続く西への境界尾根に ピンク布が続く様ですが、私は本来た道を向山に引き返し妙見山へ向います。567mピークへは急登・鞍部からは安楽田への下降点に青テープが在った。 八幡宮から続く直進の林道に出るのだが、 登りに採って無事に此処へ登り着くには踏み跡探しに苦労しそうです。
東山古墳群から妙見山と左に城山(貝野城)

鞍部からの激登りで尾根筋に岩が目立ち始めると567mピークも近い。 緩急の尾根筋は一旦は踏み跡不明瞭な所もあるが藪漕ぎすることもなく最期の急登りで妙見堂跡?の石積みに出てきます(AM11:40)。ここで東山側の城山(貝野城)や 「あまんじゃこの忘れ石」から展望台を経て来る登山道と合流して妙見山山頂へは3分程で到着です。暑くなってきたので山行は打ち切って多可高等学校・東山古墳群のある 北はりま田園空間博物館へ下降します(PM12:25)。


W エコミール加美〜妙見山〜480m峰〜段の城(高城と築ヶ鼻城)〜月ヶ花橋 H16.05.15

東山公園の妙見山登山口から 城山貝野城分岐鞍部の三合目から妙見山頂を目指すが、山頂から西へ延びる尾根中の480m峰から西南の峰々に三つ!!の砦城で構成される ”段の城(高城・築ヶ鼻城・段垣内構居)”と安楽田の谷を隔てた尾根続きに繋がる。此処へはVで城域を途中まで確認して 妙見山頂側へと引き返したが、貝野城遺構に刺激され・改め段の城へも再訪してみます。
落合【杉原川と多田川(手前)合流地点】より段の城を望む


前回は中町安楽田の八幡宮から谷を詰めたが、今回は加美町豊部!?の運動公園側から登ってみます。 加美町からは大人気の千ヶ峰が控えているので、反対側の妙見山を登山対象にする人は少ないようです。其の上・急登の一辺倒で展望もなく、益々利用者は山麓の加美町青年の家に合宿した団体位でしょうか。 R427からエコミール加美の看板を見て右折、住民センタ前を抜けると清流の杉原川に架かる大平橋を渡り、 青年の家(AM8:00)からの遊歩道を辿ります。遊歩道は東屋から青年の家に下るようで急に雑木藪の中の細い道のなる。境界杭も倒木や 石がゴロゴロした荒れた場所で踏み跡も見失い適当に登り続けて 未舗装林道に出た。
加美青年の家から 妙見山

20m程下った所が妙見山登山口で白い標識が立っているが、直接・妙見山頂へと競り上がってゆく尾根は急登の連続でヒノキや杉の植林の中では展望も無いコースは、 此れから秋口までは風もなく最悪…。町界尾根も近くなった肩に出るまで続いた急登りも露岩が目立ち始め大岩の頭(AM8:50)へ出てやっと緩やかになる。岩頭からは正面の千ヶ峰が横たわり 三国ヶ岳やまたに山と飯森山が左右に従っています。登るならヤッパリ…”千ヶ峰同好会”の面々が 山頂石碑側に寄り集まって談笑している図を想像してみた…鹿除けネットの続く枝尾根からよく踏まれた町界尾根に出ると直ぐ其処に妙見山山頂は見えています(30m程)。
段ノ城(上ノ段)本郭部・南東面の石積 H16.11.28

合流地点は牧野大池からのコース( Tだが樺坂からの急登に山慣れない人にはビックリするほどの激登りです。妙見山山頂(2等三角点 693m AM9:10)からの展望は良く 笠形山や目立つ千ヶ峰を始め、故郷の山篠ヶ峰 石金山そして中町から西脇市への拡がりは、山頂に方位盤があるのでゆっくり確認して見てください。妙見堂跡へは100m程。登山道は城山(貝野城)への鞍部を経て 東山古墳公園へ下るが”段の城”城砦の向山へと町界尾根分岐を辿る道は下降点から一気に長い激降り。明確な尾根道も何時しか藪と下草・落葉で段々と怪しくなってくるが安楽田川を捲き込むような尾根なので 進行方向はキープレフトです。不安を思えるほどの下降の後、 尾根も緩やかになると踏み跡も現れてるが露岩が現れて激登を予感させる登り口になる。
段ノ城(上ノ段)岩門付近の石積

今まで単調な尾根だったので城域なら此処に堀切や左右に竪堀が有っても…!と思うが気付かず登り始めます。 途端に深い棘の多い藪に突入かと思わせるが直ぐ平坦地に登り着くと向山(4等三角点 480m AM10:55)で既に”段の城”の最高所に立つ。三角点標石は段の城本郭部曲輪の北側藪の中に小石に囲まれて有った。段の城の上の段(主郭)で、既に東北末端付近には石列があり見張櫓台跡らしいところ、東へ廻れば数段の石積み、尾根上の曲輪は切岸も高く南下に向って3〜4段連なっています。雑木が目立つ山頂だが東に 妙見山から辿ってきた町界尾根・北方に千ヶ峰〜飯森山入相山〜笠形山への展望が楽しめます。更に下ったDoCoMo門前無線中継所(AM11:10)から南の尾根上に整然と腰曲輪・堀切・竪堀を伴って連郭を載せる中の段で、上の段の向山山頂から無線中継所の建つ肩に下り着くまでに、この尾根で最大の見所となる巨石群が待ち構えます。砦を守り、また尾根上からの侵攻を押さえるジャンダルムであり自然の木戸口・岩門ともなっています。
段ノ城(本城)南端付近の浅い堀切

DoCoMo門前無線中継所敷地は南北両谷の頭に在り、 何らかの重要な施設が有ったと思われますが消滅、その南端からは既に主郭部の切岸で帯曲輪が尾根上の曲輪に沿って長く延びています。曲輪を繋ぐ土橋や土塁道・堀切と土塁補強の為か一部には土止め 加工の石列や石積みも残っています。長い城域の曲輪の南端付近の浅い堀切を越えると、曲輪群が姿を消して藪の急斜面の下降が続きます。貝野城と段ノ城が安楽田川を挟んで相・呼応した場合、二つの城を繋ぐ秘密の連絡道が谷を介して通じていても不思議では無いと思いそのVでは安楽田から入ってみたが良く分からなかったが此処・南端へ堀切道となって通じているように思えた。確証は何もないが…薄い踏み跡は消え、それでも尾根筋と思える稜を辿れば時々踏み跡は現れ鞍部に出た。この鞍部が此処迄の稜上では一番深く大きな堀切で、手前に2〜3段の曲輪が有り西は岩場でも無いのに真下は 覗き込まないと見えない断崖状を呈しています。
段ノ城(本城)の堀切と土橋

南への稜へも高い(10m程)切岸を、 雑木や木の根頼りに乗り越え上部に着いた294m峰も本郭部からは随分離れているので出曲輪よりは独立した段の城の支城として遺構は良く残っています。此処にも幾つか曲輪が続き、曲輪の南側切岸をグルリ取巻く石積み跡が見られ、東側には石垣の枡形状の 門跡らしい部分さえ見かけられます。削平地を抜けた尾根筋は又もとの雑木藪となり 踏み跡も判然としませんが車騒を頼りに粗忠実に境界尾根を辿り民家裏の鹿除けネットを抜けてR427号線の杉原川に架かる月ヶ花橋前に下りてきた(PM12:05)。辿ってきた妙見から 向山〜段の城への尾根や、緩やかなスカイラインを見せる千が峰の姿を望み、途中太郎右衛門の顕彰碑を訪ねながら杉原川に沿って加美運動公園へ引き返します。
杉原川と段の城主郭部と南砦(中央)

段の城を望む西山麓の熊野部の稲荷社裏には、杉原川を背にして「夏梅太郎右衛門」の顕彰碑が建っています。何だろう…!!加美町を網羅した パーフェクトガイドにも紹介されていない場所です。しかし妙見山も中町の山としての認識なのか同様に観光パンフからは除外されているようです。夏梅太郎右衛門は徳川時代も後半、世は乱れ始め、 民は過酷な税に喘ぎ、悪い役人等はその税により私腹を肥やす者もが増えた。当時・熊野部は生野代官の所領に属しており、悪政に耐え切れず山林田畑を捨てて他村へ流浪する者も多く田畑は荒れ村は衰えるばかりでした 。 この状況を見て庄屋・夏梅太郎右衛門は一身一家を捨てて此れを救う為、当時禁止されていた直訴を行った。 訴えは取り上げられ減税が行われたが太郎右衛門はこの地に於いて明和元年(1764)6月25日”火あぶり”の刑に処せられます。夏梅太郎右衛門顕彰碑は、 明治44年(1911)7月此の義拳を永く讃えるため建立されています。
段ノ城(下段)の大堀切

丹波でも唯一の副業として杜氏としての出稼ぎも篠山藩では、 米増産による年貢増備の為、寛政5年(1793)禁じられたが、寛政12年(1800)市原の清兵衛父子が、当時江戸詰めの藩主青山忠裕(ただやす)に直訴します。 その結果秋の彼岸から春三月までの百日稼ぎは勝手次第と禁制を解除され百日稼ぎは増加し全国に丹波杜氏の名は高まります。
(現地 顕彰碑説明文より)


貝野城と妙見砦 段ノ城 段垣内構居(荒田構居)


貝野城と妙見山砦 城山 364m  妙見砦 678m  多可郡中町東山

東山古墳群・那珂ふれあい館の北方、北東奥に聳える妙見山への稜線とは対照的に馬の背状の頂部を見せる低い山容の城山・其れが貝野城です。中町【妙見山の合唱組曲】(橋本喬雄作曲)の「三太郎狐」の章に♪…阿鼻叫喚のざわめき 三太郎狐は貝野の城も段の城も下僕に身を変えてうたかたの夢と消え…♪貝野城段ノ城の在田氏(赤松家)が、

貝野城”:伝馬つなぎ場”西面畦状竪堀群側の石積 ・右上は南の丸

同じ赤松家一族の三木:別所重棟に攻められた文中に記載の”荒田城合戦”による落城悲話「三太郎狐」の話にも興味があり「多可郡史」や「播磨鑑」等 再調査して訪れたいものです。登城口はやはり門前から…!!二つお城については教育委員会等の調査報告がされているはずですが文書等、未だ接する機会なく私感 ・私見による勝手な判断で レポートしていますので、間違いの御指摘や情報を 御提供いただければ幸いです。赤松氏一族で 赤松三十六家に其の名を連ねた在田(有田)氏の二つの城。
門前・安楽田川からの城山(貝野城)

妙見山頂 (693m)から西へと尾根の高度を徐々に落としてくる中程の峰(4等三角点向山480m)に段ノ城の上ノ段・末端の高みに下ノ段が有り、南へ張り出して高度を落とす尾根の末端が鞍部から少し背伸 びするように盛り上がる半独立峰のピーク(城山362m)には貝野城。 此の二つの山城が馬蹄形に配置され、其の二つの城を尾根通しに繋ぐジャンクションピークには 小規模な砦遺構 【妙見山砦】があります。妙見山砦は石積遺構が残されており、妙見山頂へは僅か200m程の位置に有って比高555mを測ります。
中区の川口氏<郷土史家>製作の貝野城ジォラマ

見張所としてなら妙見山の山頂が ほぼ 360度の眺望が得られるが、二つの城を繋ぐ要部の尾根分岐には、露岩を削っての平坦地と妙見山頂に向う南東側と、段ノ城へ向う西尾根への激急斜面の下降部に石積みの削平地が残ります。山頂の岩場には古代祭祀の遺構があって此処もそうだったと思えます。妙見信仰の山としても此処に妙見宮が祀られていたのでしょうが、
妙見山山頂付近の妙見堂跡(妙見山砦)

在田氏の貝野城・段ノ城の見張所として丹波国境にあり但馬・生野への 重要な 要衝の拠点としての連絡所としても機能したことでしょう。その詰の城「貝野城」の主郭には二箇所の井戸や土塁・出曲輪があり、曲輪の一部には 石積みもあって野間城のものと同時期(穴太積技法以前)同工法のようです。 築城時期や城主については不詳ですが松井氏によるものといわれ石積・石列の無い土城の遺構が南郭の一部に残るようです。
貝野城:主曲輪東端切岸には石垣跡!!。
帯曲輪左に廻ると本丸への平入虎口、右手北斜面には畦状竪堀群


其の後・文和年間(1352-56)に在田氏が来住し、 天文年間(1532-55)以降、在田氏が河内城(加西市)から 野間城(多可郡八千代町)へ本拠を移した事を契機に・対別所氏の介入を意識して戦略的な城の 整備改修と共に防備補強に此処に築かれたものと思うのが筋だが実は・敵対する赤松氏の宿敵・山名氏とは生野鉱山と妙見鉱山の鉱脈で繋がり、
<貝野城南ノ丸:”馬つなぎ場”側 〜東方に石積みを見る

摂津や中央への販路等や採鉱に対する種々の保護や鉱山の権益の為に連携し、山名氏の指導も有ってか 大改修された貝野城は 主要部を堅固な石垣積とし、播磨では珍しい畝状竪堀も山名氏の城の特徴を見せています。多可高校東山古墳公園側から 妙見山への登山コースで三合目鞍部に着くと妙見山へとは反対の西方に「城山」への表示がある。急斜面を登りきると広い数段の曲輪が 2〜3mの段差で連なる南郭部のピークです。
貝野城南ノ丸:東末端曲輪の切岸

北郭部間の鞍部には曲輪東面に土止めの石積み・石列を見つけ興奮 気味に北の本郭に向います。北郭部の東端曲輪には高い石積みが残り、本郭北側の斜面には北播磨には珍しい畝状竪堀群が有って10数条も走っています。此の東山古墳からの登山コースは旧貝野城の登城ルートで、 山名氏により改修されてからは荒田神社の西・貝野側に付替えられて城下町(新屋形)が整備されたといいます。
貝野城本丸側から搦め手側の西ノ丸!:に残る土留め石列

秀吉の”播磨平定”後は但馬への連絡や補給基地として馬による物資の運び上げもされたという登城ルートですが、 よく判らず前回は”搦め手”を西曲輪へ、今回(H16.11.28)は上部で横道に逸れ、大きく迂回して妙見道3合目の鞍部休憩所へ廻り込んでしまった。」
【貝野城と段の城】
室町時代・文和年間(1352-56)赤松範資の子朝範は父に従い足利直義と滝野・光明寺等で戦い 、その戦功により足利尊氏から恩賞として東播地方を領有し、多可郡在田荘に移り有田肥前守を名乗り、子の則康が二代目を継いで城主となります。弟の重友は分家して 野間城を築きます。嘉吉の乱(1441)に没落した赤松氏も応仁の乱(1467-77)に播磨を回復するが旧赤松家家臣と新赤松家臣団として台頭してきた別所氏の介入に東条谷の依藤氏等 【永禄2年(1559)】が滅ぼされて北播磨侵攻の拠点となった様です。
貝野城南ノ丸:西面虎口石積の残石・この下方に畦状竪堀群と石垣が残る

赤松政則が但馬国境・生野の真弓峠の戦いに大敗を喫した後・政則を追放し赤松家は分裂 !!…在田氏等が赤松家とは永年の宿敵だった山名氏に付いていますが、但馬国境にも近い在田氏にとっては但馬山名氏の 生野鉱山(銀山)開発と京・阪神間への輸送ルート(銀の馬車道等・姫路方面へルートは後世のもの!!)同じ生野鉱脈が延びる妙見山山系内の鉱山開発等、共存共栄の関係にあって、応仁の乱頃には山名氏方に付いていたものか?、
貝野城”伝馬つなぎ場”西面の畦状竪堀群
公園整備で伐採された曲輪観察は容易になったが特徴の畦状竪堀は倒木で埋もれる

乱後の文明12年(1480)赤松氏との戦いに破れ、摂津国に敗走して様です。 永禄年中(1558-70)多可郡内の合戦には山名氏から在田氏へ援軍を送ったといい、其の時の山名氏拠点は”あらた(荒田?・安楽田?)”に在ったと云う。何れにしても貝野城の南山麓・西山麓にあたる。 貝野城が赤松氏が多用する!!??石垣とともに、 北播磨では珍しい畦状竪堀群が設けられている事で、 但馬山名氏系の山内氏が文明年中(1469-87)山名政豊がら松井荘知行を得、山名四天王の一:太田垣氏を代官として防御施設を施して居城したとの説も有る。
貝野城南ノ丸から”馬つなぎ場”:右立木の側に石垣・左植林帯の下に畦状竪堀

「段ノ城」は城主有田源之丞朝行 ・主馬介朝祐・有田源八郎朝勝と続くが、天正3年(1575)7月23日夜半から翌24日にかけての
「荒田城合戦」が起こります。 織田信長方の武将で東条谷の同族の旧赤松家(依藤氏の豊地城(東条城<加東市>を攻め滅ぼして居城とした)別所孫右衛門重 棟(後の八木城主)が森本城 (多可郡中町)森本巻右衛門秀清、朝日城(丹波市春日町)赤井(荻野)悪右衛門直正等の連合軍で夜襲をかけます。 別所連合軍は先ず城主・有田源八郎朝勝の荒田構居!!?瑞光寺と「貝野城」を奇襲して焼き討ち、一気に「段の城」に迫ります。
貝野城”伝馬つなぎ場”から本丸

貝野城・段の城・ 野間山城を始め多可郡の在田氏一族の諸城は二日余りの戦いに次々に落城していきます。別所方の連合軍に参軍した森本城主・森本秀清もまた、東播磨の多くの赤松一族の城と共に 別所重棟によって落とされてしまいます。在田(有田)朝勝主従は落城の際、再起を図る為に城を焼き奥荒田(加美町奥荒田)へと 逃れますが、此の地で自刃したとの伝承があり、村人が五輪塔婆を建立し従者たちの武具、刀等を「若宮大明神」として祭祀したのが若宮(大明神)神社の創始と言われます。 奥荒田は名水の里で神崎町へ抜ける高坂峠付近の松葉の清水「松ヶ井の水」が有名ですね。
大手道!!・左手に畦状竪堀・正面は南ノ丸

なを荒田(安楽田)は貝野城南麓の東山と門前の 中程にあって現在・荒田神社一帯は大正年間での土砂崩れで廃村になりましたが安楽田構居の在った所と想定されます。 貝野城本丸と南ノ丸の長く広い渡曲輪?の西端(切岸)は土留めの石積・石垣を見るが、西斜面に畦状竪堀も有り、竪堀群下方へ続くのが屋形へ通じる旧大手道。下山コースの谷筋を誤って荒田神社に降り立った。 祭神に小名彦命(すくなひこのみこと)・五百箇磐石命(いほかいわれいしのみこと)を祀る。 創建は不明ですが、慶長年中(1596-1615)安楽田東端道路の北側に建立されていたが、寛文8年(1668)9月の荒田町大火により神社初め・別当大乗寺等が燃失した。
荒田神社

此の頃:北方の貝野村は人家も少なく荒田町に合併されていたので、貝野村の大歳神社域を拡張して寛文11年に合祀されました。 鳥居は元禄6年(1694)・石燈籠は寛保三年(1743)・拝殿・鐘楼・随身門が延享3年(1746)に建立されています。延喜式神名長(905)に”荒田神社”天平神護元年(765)とあり、加美町(現:多可郡加美区)の 二宮荒田神社と本家争いをしたとされています。鳥居から」随身門を経て社殿に至る参道は広大で、大乗寺跡等がある…。
(歴史街道:荒田神社の案内板 参照)


段ノ城   高城山城(段ノ城上段・向山) 480m 築ヶ鼻城段ノ城下段) 230m多可郡中町門前

段の城への訪城レポートは その4を御覧下さい。城域の北から西面を抜け南へ杉原川が流れ奥丹波の氷上郡青垣町を経て福知山や生野峠を経て和田山や生野への迂回ルートや、奥荒田から高坂峠 (播磨の名水で知られる)を越えて神埼町へ抜ける街道筋の分岐点ともなる寺内へ”月ヶ花橋”を渡りますが此の東に荒田構居(段垣内構居)があり背後の峰を並べて妙見山へ突き上げる尾根上には 段ノ城の下段の築ヶ鼻城と中程から山頂部にかけて上段の高城山城があり、 二城を段ノ城と呼び、東2km地点にある貝野城と共に有田氏の城でした。

段の城 (上ノ段)城域中央付近の土橋

貝野城は東山古墳群から妙見山への登山コースが整備されているので3合目鞍部からも手軽に立ち寄れる山城なので、登山者の幾人かは城名は知らずとも 此処を訪れているようです。一方貝野城の西・門前から安楽田川を挟んで山頂にDocomo無線中継施設の建つ所にから下方に位置する段ノ城への尾根や 山城に興味をもって臨む人が幾人いる事でしょう。 妙見山山頂近くに古代祭祀跡があり、其処に山名由来の妙見菩薩を祀ったところでしょうか石垣に囲まれた一角があります。段ノ城から尾根を辿れば、この祭祀跡に出てハイキング道を東山古墳群(多可高等学校側)へ辿れば 3合目の鞍部から貝ノ城へと繋がる。二つの城は妙見山を軸として安楽田の谷川を挟み込むようにその両サイドの稜線の先端付近に築かれ、双頭の鷲のように 奥丹波の青垣や福知山・夜久野方面や播磨の神埼町や生野を経て但馬に向う街道を押さえる、赤松氏方の在田氏 (有田氏)が拠って東播磨の要衝として睨みを効かしていたのでしょうか
段ノ城の下段にある石積 H16.11.28

貝野城と同じく荒田構居の詰の城として段ノ城が築かれた。 妙見山西端の城域の最高地点480mが主郭で上の段には削平地や城門ともみなされる 巨岩が守りを固めて「門岩」と呼ばれる岩が立ち塞がります。尾根を塞ぐ巨岩と巨岩の間にも僅かに平坦な空間を残しています。 Ca430m付近の中の段には多くの広い曲輪が尾根の左右に連なり、水場や石垣、土塁・堀切や竪堀も彼方此方に残されています。此の中核部から南東への山道が谷を隔てた貝野城と通じており戦いの時には連繋しあっていたといわれるが、 そのルートはおそらく妙見山への西尾根を辿り手前の576mピークへの鞍部から 安楽田川を下って途中から貝野城への枝尾根に向ったと思える。尾根の南端Ca230m付近は本郭部の中の段とは 随分離れた位置に有って此処までの途中に遺構は見当たりませんでした。此処に下の段があって2〜3段の曲輪の南側には 土塁を伴った深く大きな堀切が尾根を遮断して 東へ竪堀となって続き、 石積みで補強された竪土塁が並走する堀切道を下降すると段垣内構居(荒田構居!!)へ繋がります。
有田朝勝主従の供養塔

高い切岸を越すと此処にも石積みの残る曲輪群があり、居館から繋がる山城部・更に尾根筋を辿り高城へと三群の城域構成。 段ノ城の山麓・門前に 瑞光寺があって室町時代初期・正慶元年(元弘2年1332)赤松則祐が再興しています。段ノ城は文和年間(1352-56)赤松範資が築城し其の子・朝範が城主となり、何時の頃かは不詳ですが赤松氏の臣 ・宇野能登守が段ノ城に入っていた様です。その後経緯も分からないが赤松一族の有田八郎太郎が居り !!有田源之丞朝行・主馬介朝祐と続き、天正3年(1575)7月23日の夜襲から翌24日にかけて貝野城の最期の城主 有田源八郎朝勝の時、城は別所重棟に攻められ落城【上記の荒田城合戦=貝野城を参照】その戦禍で門前の瑞光寺は焼失し運命を共にしたと思われます。室町時代・赤松義村が定めた播磨十水に選ばれた名水 松葉の清水は「松ヶ井の水」 と名を変え、細い高坂峠越えの場所から取水場所も新トンネル手前から車道側が危険なので更に下方に変わり公園となっています。 「名水の里」標示ある奥荒田公民館横から向う若宮神社には
段の城(上ノ段)岩門付近の石積

有田朝勝は僅かに残った従者と逃れる途中・奥荒田の山麓で力尽き、主従共に自刃したとの伝承が残っています。御神体は有田源八郎朝勝と記された人形と小太刀が祀られています。 自刃跡とされる一段高い所に一基、比較的新しい大きな五輪塔を加えて並んでいます。従者6人と自刃した事になっているが五輪塔は2基増えています。しかし境内側の空き地には宝篋印等の残欠があったり、 彼方此方から五輪塔が出てくる話をグランド・ゴルフのプレイに興じているご老人(!私も?)から聞きます。上記・貝野城末尾の説明とも重複していますがご容赦…。

(現地 若宮神社由来の案内板 加美町歴史探訪研究会 参照)

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段垣内構居(荒田構居)  xxxm  多可郡中町門前字段垣内

門前のR427号の杉原川に架かる”月ヶ花橋”の名に優雅さを感じていたが、 妙見山から延び出す尾根突端 (鼻)付近の尾根上に築かれ”築ヶ鼻城”の語源。鹿除けネット沿いの山麓を東へ数10m先に段ノ城を詰め城とした在田氏の段垣内構居がありました。安楽田町の瑞光寺を目標に走るが、集落内は狭いので瑞光寺付近か 門前の公民館から歩く心算です。
瑞光寺の山門

荒田の名が 「播磨風土記」にも記される「荒れた田」で度々洪水で、田が荒れるので安楽に暮らせるようにと「安楽田」と改名したと伝えられる所です。「播磨鑑」に記され荒田神社付近と推定されている「荒田構居」ですが 荒田神社から更に西約1km、同じ荒田郷内の門前・段垣内構居である可能性は 高いと推定されます(荒田神社は焼失等により当初の位置から移されているらしい!!)。妙見山登山口として何度か利用した多可高校や東山古墳群のある東山・田野口や荒田神社の安楽田、
段垣内構居の石積遺構・庭園か区画の為の築地?

それに門前は旧荒田郷ですが、門前は南北朝期・足利尊氏がこの地の230石を 瑞光寺に寄進した事から寺領地となったところ。丹波国境にあり播磨と但馬・山陰出雲を結ぶ交通の要衝にあって、荒田の地は街道の宿場や瑞光寺の 門前町として栄えたかもしれません。稲作では山田錦の発祥地で知られる肥沃な土地ですが、妙見山周辺は鉱山も多く、精錬された水によって池には魚棲まず・田は「荒れた田」。 高坂や播州峠を越せば鉱山の町・生野町へ、
先ずは西端の空掘を越えて

安楽田から山野部を越せば北方から 在田氏の本拠となった野間城へも近い位置に有り領地としても 軍事的にも重要拠点となっています。
集雲山瑞光禅寺(臨済宗天龍寺派)は元弘2年(1332)赤松則祐が 母の菩提を弔う為夢窓礎石(夢窓国師)を招請して建立した寺です。天正3年(1575)段の城・貝野城は三木・別所氏連合軍による「荒田城合戦」により攻め落とされ寺も兵火にかかり全焼。
瑞光寺本堂裏の紅葉?

荒廃していた寺は天和3年(1683)本山天龍寺より夢窓礎石十世の法孫・文礼禅師により、 往古の地より東方に伽藍が再建され、寺運は再び隆盛したが、しかし享保17年(1732)10月の失火に遭い寺の大部分は再び焼失するが享保20年(1735)再建、天保13年(1842)には堂宇を改築されました。 幸い開山堂は類焼を免れ、県下でも類の少ない江戸中期の禅宗様の伝統手法をよく伝える遺構として、境内の庭園とともに文化財として価値のあるものです。夢窓疎石【作庭家としての方が有名!!?】は池泉回遊式庭園等設計を手掛けており、 瑞光寺の池泉観賞式と枯山水様式を駆使した庭が、礎石による作庭なら南禅寺や西方寺
瑞光寺本堂裏の紅葉

・天龍寺庭園以前のものとして重文級名庭として知られ、さらには紅葉の名所として現状の様な自由に入山鑑賞などは出来なくなっているのでしょうが、 作庭は上記:失火前後の宝永(1704-)頃から元文年間(-1741)にかけてのものらしい…。妙見山頂から南西へ派生した峰の突端部が杉原川に接する峰上に段ノ城の下段部があって 、其の山麓に位置し杉原川を濠とし迫る断崖状の背山を切岸とした段垣内構居の遺構が残ります。 山側は未防備だが、構居の東端部からは堀切道が段ノ城(下段)に通じているので、一体として機能したのでしょう。構居は民家に隣接していますので許可と、不愉快な感情をもたれない様に節度をわきまえて
段垣内構居・南面を囲む二重土塁/横堀と櫓台遺構(東面から)

…此処を訪れる人は少ないと思いますが…天正3年(1575)7月荒田合戦の後、在田氏の構居には別所重棟が入り構居を整備し天正5年(1577)但馬八木城へ移るまで北播磨最大の拠点として多可郡を支配したところです。 別所氏が移った後・織田信長方の池田源五郎が入部したとされます。主郭部の南面を囲む長さ約 120〜130mもの二重土塁の間に横堀があり、其の中央部分には櫓台遺構があって横矢が掛かる。長大な横堀の東側には主郭への大手口があり、平入虎口となる中央の土橋を左右に振り分けて大堀切 ・大土塁を越えて入城します。
段垣内構居・櫓台から望む城山(貝野城)

これ等戦国期も後半の構造は天文年間(1532-55)初期頃・在田氏が河内城(加西市)から 野間城(多可郡八千代町)へ本拠を移した事を契機に対別所氏の介入を意識して整備改修や防備補強されたでしょうし、 在田氏退去後に入った別所氏以後の改修による「織豊系城郭」の特徴も指摘されているようです。 草刈作業中の土地の人にお願いして、段垣内西の民家裏手の畑地から裏山へ入らせてもらった。集落内12〜15件ほどの民家に在田・有田姓の家は無いとの事なので、戦乱後も二度と復帰する事は無かったようです。
空掘を分けて土橋を渡る大手口の平入状虎口 H16.11.28

段垣内構居=荒田構居に最後に?入居していた池田源五郎等・・池田氏に付いては不詳ですが、 荒田郷の瑞光寺や荒田神社の再建に熱心で、なにかと力を貸している実力者でもあったのは在地支配が長かったからでしょうか!。 もともと在田氏以前の在地土豪だったのでしょうか…? 門村構居と共に遺構の残存状態も良く、スケールも大きな居館です。
(現地 瑞光寺山門の歴史街道案内板) 播磨・水尾城址の調査と研究 西脇市教育委員会 を参照)
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旧国鉄鍛冶屋線鍛冶屋駅記念館    多可郡中町鍛冶屋

加美町へ向かうR472号との交差点・鍛冶屋。多可郡の名の発祥とされ、白鳳時代に創建された播磨地方 屈指の多哥寺跡 や子供の頃には手を曳かれ徒歩で丹波市側から小野尻峠を越えて参詣した話を聞かされた”金毘羅さん”も此処に有り、加古川線の枝線・旧国鉄鍛冶屋線が通じていた。
鍛冶屋駅舎と妙見山

山陽 本線加古川駅から福知山線谷川駅に延びる加古川線は 当時から支線が多かったが、 私が利用した谷川駅や久下村駅へは殆ど直通は無く、何も無い野村駅(現在の西脇駅)で乗換え・乗継の為に長い時間待合わせさせられたものです。そんな加古川線も昭和60年頃には国鉄スリム化により高砂線は廃線になり、三木線・北条線は第三セクターに移り 鍛冶屋線も民営化されて間もない平成 2年(1990)3月末で廃止。 明治43年11月播但鉄道として発足し鉄道80年間の歴史を閉じます。
鍛冶屋駅記念館

当初は妙見山の鉄鋼材を ・木材や特産の播州織 ・山田錦(酒米)の出荷駅として賑わった事でしょう。市原駅記念館や市原交差点から此処・鍛冶屋駅にかけての廃線跡は、 歩っ歩の道=汽車ポッポの「ポッポの道」として公園整備され、嘗て駅の有った証としてのモニュメントが造られた約2kmがサイクリングや遊歩道として、ランニングやウオーキングに利用されています。平成2年 (1990)廃線となった鍛冶屋線の終着・鍛冶屋駅舎は鍛冶屋線記念館となり、往時の面影を留めながらも集会所として利用され ・テーブルが置かれ改札口を挟んだ小部屋は鍵がかかっていたがミニ資料館として、鉄道関連物が展示されている。
鍛冶屋線終着・鍛冶屋駅舎とホーム

北の鍛冶屋や西の天田方面から侵入してくる周回バスが鍛冶屋駅舎をロータリーにして、 東へ西へと転回していきます。 南にはモニュメントを潜って真直ぐ延びる廃線跡”ポッポの道”が続き、幻想の鍛冶屋線には西脇市に向かって駅舎の機動車が発車のベルを待っているようです。
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