篠山盆地東の要衝、福住の里 桂山〜仁入道山〜奥谷峠〜飛曽山(辻富士)〜点名:飛曽へ
兵庫:篠山市 (五万図=園部)
2005年06月05日 小野駅跡〜桂山〜仁入道山〜奥谷峠〜飛曽山〜小野新
近畿の山城: 西奥山砦仁木城  前谷砦
 姥ヶ谷砦
桂山(点名:福住)南の山抜け(崩壊地)から望む飛曽山(辻富士)

ふるさと富士: 飛曽山(辻富士)
校歌の山  福住小学校 
♪桂の山よ青空よ…♪桂山 459m

篠山市街地から八上城山麓を抜け波々伯部神社前を東へとR372号(デカンショ街道)を走る。 辻富士(飛曾山 663m)を望みながら飛曽山峠を越えて小野新の集落に下りて来ます。更に小野奥谷集落から小峠にさしかかるところに延喜式小野駅跡が在り、 約500m程で峠を超えるとR173号綾部街道筋と合流する小野交差点に出ます。今日は山城探しがてら!!福住周辺を歩いてみます。籾井川の沿ってR372号バイパスが走るが旧R372号は南側・宿場町風情が残る福住地区内に入ります。 史跡・船岡山の丸山神社・一里松・福住本陣跡を訪ねて、R173号に出た所(R372号との合流地点)には 樹齢800年・甚七森と呼ばれる県下一安田の大杉が有り、三草合戦〜須磨へ急いだ源義経が眺め、 丹波へ逃れた足利尊氏も此の大杉を見て一息ついて安堵し休んだかも…!!。
仁入道山南尾根P632m峰付近から振り返る

慶応4年(1868)明治新政府から山陰道鎮撫の総督に任命された西園寺公望は福住に本陣を構えた此処に大砲をを据えて布陣し篠山藩の動向を窺ったといわれますR173号を大阪方面へ少し進めば如来寺、此処に仁木城の案内板が在るが 山城は桂山に在ったか?…仁入道山に在ったか?此の仁木城探しついでには、小野駅跡へ戻り小野奥谷の宝篋印塔から尾根に向い西奥山砦から桂山〜仁入道山を経て奥谷峠から 723m峰〜飛曽山(辻富士)〜点名:飛曽〜東山城〜辻集落へ馬蹄形ルートを考えて見たのですが、複雑な地形で最後に尾根筋を間違えて最後の東山城へは行き着けなかったが、車デポ近くの二之坪集落の 前谷砦にも寄ってきた。京都丹波から兵庫丹波に入って最初の宿場や平安期に制定された「延喜式」による山陰旧街道の小野駅家があった篠山盆地東部の小野・福住に歴史散歩も兼ねて訪ねます。



小野駅跡〜桂山〜仁入道山〜奥谷峠〜飛曽山〜小野新 H17年06月05日

園部・亀岡へ通じる京都街道R372号 (デカンショ街道)で、飛曽山峠を越え大阪池田・能勢方面から綾部へ通じるR173号と合流する手前、小野奥谷の小峠に 小野駅跡の碑・祠 ・案内板が建ち20m程手前から南側集落内への道に入ります。南面には点名:飛曽と飛曽山(辻富士)と東面には
R372から飛曽山・点名:飛曽と西奥山砦(左手)-桂山

小野奥谷川沿いに点名:福住(桂山)〜仁入道山から府県境尾根に伸びる丘陵があり、国道筋からほんの 7〜80m程入った頃小野の宝篋印塔の篠山五十三次の案内板を見て此処から尾根の取り付きます。小野奥谷は中世期には荘園・小野荘で、 宝篋印塔の有る墓地付近は荘園領主・小野氏の屋敷が在った所といわれます。其の跡に西光寺が建てられ栄えていたが、度々の兵火等によって 廃滅してしまったともいわれます。

小野の宝篋印塔


案内板から 苔生す石積みを回り込む様に左手の山麓に入ると小さな墓地の前の一角には高さ1.1mの美しい容の宝篋印塔があります。 笠部の隅飾り突起の一部が欠けているが補修されている以外は完全な姿で残された美しい造型のもので、 台座の正面には宝徳元年(1449)10年4日の銘が刻まれた、室町時代中期の作品として篠山市の文化財に指定されています。 小野奧谷の集落をさらに進むと 大宝2年(702)に紀伊国熊野三山を勧請したという飛蔵山清水寺跡があって、往時は七堂伽藍を配置した大寺であったと 伝えられており現在は熊野神社に移鎮されているようです。
桂山(点名:福住)

R372号小野新には熊野神社の案内標識があるが寄っていない。此の長い小野奥谷から奥谷峠【此れから向かう 仁入道山から飛曽山への稜線を越える峠】や原峠から後川へ出て三田や猪名川町へ通じるので八上城篭城戦では三田側からの 一方の兵糧米等の搬送ルートや間道として利用されたのではないかとも考えられます。宝筐印塔のある背後の稜上北端部には西奥山砦が有って、後に小野荘も領地とした波々伯部氏のものと考えれば八上城・波多野七組の旗頭として 辻の淀山城を本拠とした波々伯部氏の東口の山陰街道 (京街道)と綾部街道の要衝の押さえとして、また小野奥山谷沿いに後川に抜ける間道の監視も兼ねた 砦だったとも思えます。更に尾根を辿った先の桂山や仁入道山は波々伯部氏と共に足利尊氏に仕え活躍した仁木氏の居城が在ったとされるところです。
こんな土橋状地形が多い!?(西奥山砦の城域西北手前)


室町時代初期の建武3年((1336)仁木頼章から貞治2年(1363)仁木義民まで丹波守護職にあった仁木氏一族の城です。氷上町の佐野城(高見城)が本拠城ではあっても 南北朝の動乱時期に荘園主や国人・土豪等武士との領地押領を廻る騒乱期の山城遺構には期待したいところですが!!?…宝篋印塔からも明確な山道は尾根に乗り、更に緩やかに延びる稜線上にも確りと続いています。 そんな要害とも思えない緩やかな尾根上にはCa380mの小さな平坦地を主郭にした西奥山砦があり、続く尾根側を浅く幅も狭い堀切が間を置いて二重に設けて有るが、 此れにも気付かなければ此処が城砦跡とも分からず城域を抜け出てしまう単調な尾根の一角です。
Ca540m峰下りは 目前の飛曽山側尾根さえ目測を誤りオフコース!

そんな緩やかな山道が続き又も土橋状や西の奥谷川側に竪堀状を見て小広い平坦な頂・桂山(3等三角点 459m 点名:福住 )に着いた。展望は効かないが山道は続く。 仁木城は桂山に在ったと云われるが曲輪が想定できる3〜4m以上の 自然地形の平坦地は山頂以外に余り無く、 城跡が稜上の最高所に在るとは限らないが遺構は見当たらず東の枝尾根上に在るのかも知れない。桂山から南へ辿ると”山抜け”からはR372号辻から望む美しい富士の姿とは違った飛曽山の雄大な姿が望まれる。此処から下り初めて5〜60m程 ?でまたまた ・今度は長い土橋状態が続く。
奥谷峠<


この後・対岸の点名:飛曽でも…城跡と思った山頂付近では 尾根が土橋状になっている?!この山塊特有の地形なのかなア?しかも土橋を抜けると城戸の様な凹角の堀底道となり、鋭角に折れを伴ったコーナー部分は高くなって”横矢”さえかかる…。仁木氏の時代の縄張りに”横矢がかり”の意識があったかは 疑問ですが、東側の水無川へ竪堀状や平坦地も有って城跡との思い込みを深めるが、やがて此処まで続いていた山道もいつか細くなり藪っぽく 鹿避けネット沿いに仁入道山(546m)に着いて城跡の気奮も萎えてしまいます。[倒木と藪の急な下降稜線はルートを誤り易いが鹿避けネットが632m峰まで誘導してくれます。
その展望岩から弥十郎ヶ嶽・大野山を望む

ただ赤テープは思わぬ枝尾根にも有り反って迷ってしまう事になるかも(反省 )!]露岩の目立つCa540mへの急斜面の登りでは背後に展望が拡がり、小野奥谷川を眼下に谷を渡る八ヶ尾山〜小金ヶ岳〜御嶽のスカイラインが眺められる。石庭の様な山頂部の南端の露岩横から少し下って632m峰に着く。鹿避けネットと 赤テープに釣られて歩き易い道を下り始めたら樹間に白い空が見えるだけ。左手に目指す飛曽の稜線がある。境界ポールやコンクリート標柱が残されている山頂へ引き返し、鹿避けネットを潜り抜けて奥谷峠を目指すが見かける赤テープは後川へ下るようで踏み跡も無い尾根筋へ山腹をトラバースしながら戻り 奥山峠に着く。此処から飛曽山側へは踏み跡も無く、稜線と思える山腹に向かって取り付き尾根上に這い上がると露岩が続くシドロ北峰北方の縦走路に飛び出した。
飛曽山山頂と展望岩(中央)

4年前に飛曽山から此処を経由して最高峰の丈山北峰(別名:北中山・シドロ大丸726m) 〜弥十郎ヶ嶽へ縦走した時は積雪も有って踏み跡程度に思えたルートは確りした山道となってシドロ北峰(723m)に続いている。樹木に囲まれ展望の無い広い平坦地があり、一段低い南側の立木に”723mP”の赤テープが捲いてある。 北中山へ向いたいところですが今日の馬蹄形ルートの最奥部なので上りついた地点へ引き返して、 北方の飛曽山〜点名:飛曽へと向います。笹薮を分けて進んだコースは 緩やかな遊歩路となって”丹波富士”と魚形のプレートを掲げる飛曽山 (辻富士663m)に着く。狭い山頂だが二つ並んだ岩棚が絶好の展望台を提供して目前に弥十郎ヶ嶽の 北峰・本峰や遠く大野山の無線塔群が見える。辻川から此の展望岩へ登ってきた痕跡は藪の所為ばかりではなくルートが思い出せない・・・(-_-;)しかし稜線道は快適に下って点名:飛曽(4等三角点 479m)に向かう。山頂手前で長い土塁道状の 尾根が続いて三角点石標の建つ小場に着く。
点名:飛曽の南側・長い土橋!状の尾根が続く

すぐ先の2m程の高み(最高所)には3u程の面積に自然石が組まれているようなスペースが有って櫓台跡云われてもの納得。さらには土橋付堀切状が鹿避けネットに沿ってあり、波々伯部氏の辻城?が飛曽山頂に有ったのではと 思わせる要素が 残ります。南北朝期の城ならイザ知らず、室町末期桃山時代初期の永禄年間まで此の地の有った仁木氏が居城とした城は 壊滅したと云われても土の城。其の痕跡はあるだろうと思っていたのですが、それに較べればズッと城遺構らしい ?。さて点名:飛曽から北へ延びる主尾根を辿って 東山城まで後もう少し…403m峰まで来たが何とも複雑な地形。尾根に残される踏み跡はたった一本だけ、 此れにそって続く赤テープを追って北方へ下って行く。気が付けば尾根を2本ばかり手前で飛曽山峠への入口近い集落に降りていた。
点名:飛曽の北尾根には土橋付堀切遺構を思わせる箇所も有る!?


R372号沿いに波々伯部氏の本城・淀山城が見え辻川を 囲むように東山城や南山城、弥十郎ヶ嶽近くには平内丸が在り小野荘を領していた様ですが、南北朝期の同時期・同様に足利尊氏に仕えた波々伯部氏と比較しても、 丹波守護職にあった仁木氏の領有地や其の範囲も、居城が有ったされる位置も桂山だったのか仁入道山だったか?。遺構は残るのか?丹波仁木氏の100年余りの歴史の中では、特に篠山福住へ来住以降の存在を示す資料が少ない様で、 後に勢力を持ってくる籾井氏にのみ脚光が当り、足利氏と共に早々と丹波での消息を断った仁木氏の歴史の足跡を伝えるものが非常に少ないようです。消化不良のままの仁木城と、波々伯部氏?の辻城の存在については、専門家の調査に期待したいところです。 再度・小野新交差点に出てR173号をとって近場の小さな山城前谷砦に寄って帰路につきます。
(篠山五十三次 現地説明版参照)

 
山陰道の小野駅跡   篠山市小野奥谷

篠山市街地から波々伯部神社を経て辻富士(飛曽山)を見ながら飛曽山峠を越えて小野新の集落に入り、小さな峠の坂道にさしかかります。坂を下れば1.5km程で宿場町風情の残る福住の町を抜けて園部・亀岡へとR372号(デカンショ街道)が走ります。 この辺りは中世期(室町時代以前)の荘園(京都加茂社領)小野荘で、峠には平安期に制定の「延喜式」による山陰道の駅家(うまや)小野駅があった所として 説明標柱が建てられています。東海道・山陽道をはじめとして、都と地方を繋ぐ幹線道路を駅使が中央の公文書を伝達したり、地方の反乱や災害等の情報を報告する為に駅家や駅馬の施設が利用された。旧山陰街道は 京丹波から石見(島根県)まで八ヶ国の国府と都を結んだ中世の基幹道路です。
旧山陰道・小野駅跡

「延喜式」によると駅は古代の三十里(約16km)ごとに置かれ、37駅・230疋(頭)の駅馬と75疋(頭)の伝馬が配され、丹波では京都大枝(西京区)・国府(亀岡)・野口(園部)から天引峠を超え篠山盆地に入り 此処小野に至り、長柄(丹南町?)・星角(氷上町?)を通って佐治(青垣町)から但馬・丹後へ遠阪峠を越え但馬の柴(粟鹿)へと続きます。各駅家には5〜8頭の駅馬が置かれて官吏公用で通る駅使に馬の乗り継ぎや、休憩や食糧の供給 ・宿泊等の便宜を図っていました。
桂山〜飛曽山(上記の登山レポート)を周回後に立寄った「前谷砦」が二ノ坪に有りますが、駅使が乗継に使う馬の飼育や馬糧地(1ノ坪や2ノ坪…)の名残の地名といわれます。 駅使の接待や馬の飼育・これ等の経費を賄うための駅田の耕作にも高い利息で稲を貸し付けられる等・・・駅子(えきし)の負担や過酷な労役に逃亡するものもあったといいます。

(現地 「延喜式」小野駅跡・篠山五十三次の案内板等 参照)
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宿場町・福住

現在のJRが国鉄の頃・福知山線篠山口からは 福住線が本篠山を経て篠山市最東部の福住まで通じていました。このまま園部・亀岡まで 鉄道路が延びていれば 廃線となる”憂き目”は無かったかも?その福住はR372号(デカンショ街道・京街道)は旧山陰道で西口の峠には小野駅跡碑があります。
宿場町福住(旧国道筋)

R173号(綾部街道・若狭街道 ・大阪街道)が交差する 交通の要衝にあって、 米商人の往来や牛の市も開かれ、参勤交代の本陣や脇本陣が置かれ、武士や旅人の宿場町として賑わっていた所で、 現在は籾井川に沿ったバイパス道の南側・旧R372号の京街道沿いの家並みに其の面影が感じられ、宿場町風情を残す福住の町並みが残ります。
福住の一里松


福住の一里松 徳川秀忠が慶長9年(1604)江戸日本橋を基点にし、東海・東山・北陸三道の一里ごとに道路の両側に塚を設けて、榎や松を植え里程と休息場としたのが始まりで、 篠山藩でも篠山城の築城に際して、京街道に沿って大手門から一里ごとに土を盛り松を植えて道標としました。八上城下に最初の塚が有り、波々伯部神社の銅葺き鳥居側には 日置の一里松が、そして籾井川に流れ出る福住の旧街道・水無川の架かる橋の西詰には三里目の一里松が植えられました。其の先は天引峠を超え亀山藩領(亀岡市 )に入ります。枯渇した巨木が波々伯部神社には残されていますが、今は其の場所に補植された松が史跡を伝えています。
(現地 福住一里松・篠山五十三次の史跡案内板等 参照)

船岡山丸山神社 籾井川を隔てた北に白尾山(丹波の青鬼の籾井城)西には桂山(丹波守護職・仁木氏の城が有ったという!)を望む福住の中程、 R372号バイパス道・籾井城の表口にある禅昌寺とは反対に旧道へ右折すると正面に赤い鳥居の見える森が見えます。 鳥居の側に「史跡船岡山」の石標が立つ丸山神社の創建等歴史は未詳ですが京都の伏見神社から分霊を勧進されて稲荷社が祀られています。 その謂れは知らないが小祠の正面には俳句や川柳が掲げてあります。
船岡山・丸山稲荷社

此の稲荷神社付近一帯には篠山藩の年貢を納め貯蔵する「御蔵」の倉庫群が建ち並んでいた所で、 藩領内東部の年貢米は此処・福住の「御蔵」に納められ、御蔵係郡奉行・蔵元お払役・蔵番等の役宅があり、お払役が京都・大阪方面へ輸送販売していたと言われてます。
福住本陣跡
参勤交代時は大名の休憩場所となったのが本陣です。 福住の本陣が良く知られるのは慶応3年(1867)の大政奉還後・翌慶応4年(明治元年1868)戊辰戦争が起こり、明治新政府から幕末方の地方動乱を鎮静すること ・各藩の新政府に対する意思確認のため、三位中将西園寺公望が山陰道鎮撫総督 ・北陸道鎮撫総督に任命されて、京都を発ち福住に本陣を置いた事にあります。
福住本陣跡

兵庫丹波では柏原八幡神社近くの西楽寺山門前にも慶応4年正月の「西園寺卿本陣史蹟」の碑が立っています。福住小学校敷地内に「福住駅本陣の跡」の石碑が建っています。旧本陣・荻田弥三右衛門 (荻田六左衛門?)邸の跡で山陰道鎮撫使総督として西園寺公望等巡見使一行は脇本陣の山田嘉右衛宅に本陣を構え、此処に三泊して枕木橋と甚七森( 安田の大杉)に大砲二門ずつを据えて布陣し篠山藩の動静を窺がった。藩からは城代家老の蜂須賀・吉原の両名が来て帰順の誠意を訴えた会見場所です。
(兵庫のふるさと散歩 丹波編)


西奥山砦 仁木城 前谷砦 姥ヶ谷砦


西奥山砦     西奥山 370m   篠山市小野奥谷

R372号(デカンショ街道)は旧山陰街道で其の 「延喜式」駅家(うまや)の有った小野駅跡から 奥谷川側へ集落の路を入ると宝篋印塔の案内標を見る。宿場町福住の中心部から西約1.5km地点にある小峠を越えると淀山城を本城とする波々伯部氏の領地に入ります。福住から南へ続く丘陵はR173号(綾部・若狭と大阪を結ぶ)が交錯する主要街道の要衝を監視する位置に有って京都丹波から天引峠を越え、摂津(大阪)側からは 天王峠を越えて篠山盆地に入る東口を抑える重要拠点になっています。
西奥山砦・本郭東の帯曲輪?

大阪街道に沿うように南へ延びる山稜は宿場町だった福住市街地を望む桂山〜仁入道山に有ったという、室町時代初期の丹波守護職・仁木氏の城探しついでに最初に寄ってみたのが、丘陵北西部の峰に有る西奥山砦です。この位置は小野荘に有り、仁木氏と共に足利氏に付いていた波々伯部氏の領地ですが、 街道の要衝近くに有りながら 主要な東の福住側を見通せず監視するには場所不適 ?西側の小野奥谷や小野新集落の領内を眼下にして、荘園領主の小野氏以後に小野荘の領主となった在地有力者か波々伯部氏一族の砦として、
西奥山砦・東端部の二重堀切(判りつらくて申し訳ありません)


本拠城の淀山城東口の押さえと監視所としたものか?小野の宝篋印塔 (上の山レポートに画像添付)からは直ぐに緩やかに延びる稜線に乗る。それ程に要害とも思えない 緩やかな稜上には、仁木城に向う尾根上にも良く見かける長い土橋状を通る。鞍部とも思えない緩衝帯の様な平坦な細長い尾根続きに、浅く幅も狭い堀切が間を置いて二重に設けて有る。気付かなければ此処が城砦跡とも分からず城域を抜け出てしまう様な 単調な尾根先に築かれています。そのまま竪堀の堀底状の凹角を抜けてCa380m付近の小さな平坦地に出る。 段差も不確かな自然地形の様に思えたが最高所?を主郭にした西奥山砦は、南面に帯曲輪を廻している。


仁木城Prologue 城跡は桂山に在ったのかな?

仁木城は古歌にも詠まれた 桂山に在ったといわれます。西奥山砦から先へも、相変わらず下草の切開かれた単調な緩やかな尾根筋は桂山を経て 仁入道山へ続きますが、尾根上に堀切は無さそうです。ただ桂山や仁入道山の近くではどちらにも土橋状の尾根を抜け堀底道風凹角部を通り、 各一本の竪堀切状の地形を見たが城跡だと思うばかりに、 気の性だったのか? 迷いといえば桂山の方が位置的にも京山陰街道 ・若狭摂津街道の要衝の監視・警備する仁木城址の位置としては本命ですが主尾根の桂山に曲輪と思える平坦地は少ない?。一方仁入道山の方は其の尾根北部を含めて適地が有ります。
桂山三角点南の稜上に有る竪堀切状!

要害の地とも思えず、守護職を罷免され勢力も衰退した仁木氏が監視にも山深過ぎる此処に 留まっていたとも思えません。 もともと遺構は無いといわれる仁木城ですが遺構らしいものは桂山付近よりは仁入道山付近の方に”分”が有る様です!。仁木城址碑の建つ如来寺からは桂山は見えず、背後の山へ続く”仁入道”が大手道なら 仁入道山へ直接登れそうです??。丹波守護・仁木左京太夫頼章の本拠城高見城の支城として 摂津との国境警備にあたっていたのでしょうか? 既に丹波守護は仁木義民(延文5年〜貞治2年1360-63)の代で終り山名氏や細川氏に代わっていた頃の「永享以来御番帳」や「応仁武鑑」には、 仁木頼章の末裔?仁木少輔入道(兵部大輔成長(なりたけ))が文安年間(1444-49)福住10、500石(旧荘園:籾井荘の一部?)を領したと有ります。やがて籾井氏が白尾山に籾井城を築いて勢力を張ってくると、以降の記録は希薄で…領有地も明確ではなく、 永禄年間(1558-70)頃に居た仁木長政を最後に仁木氏は吉野川上流(徳島県吉野川町)へ移ったといわれ、福住に進出して来た国人・籾井氏が領有したようです。
仁入道山北峰への尾根は長い土橋状

此処に登場の仁木氏は頼章の末裔では無く、文安〜応仁の頃・幕府に仕えていた伊勢貞知が丹波仁木荘(籾井荘の一部)をあてがわれて移り仁木氏を称した様で、 天正年間(1573-92)には綾部上林城を攻めた仁木久兵衛がおり四散していった?仁木一族ではと思われます!?。如来寺は籾井氏の祈願・菩提寺となっていますが後に仁木城を籾井氏や 波々伯部氏によって再使用された様子は無さそうです。桂山・地図上の点名:福住を訪ねたのですが、主尾根から東へ延び出した枝尾根上の峰にあったのかも知れないし、桂山と仁入道山の間の峰に在ったのかも知れませんネ。 城跡が明確にされていない?城としては、この後でトレースした波々伯部氏の城とされる辻城も点名:飛曽付近にあったと思うんですが、八上城関連なら八上城顕彰会等熱心な研究グループもあるので、辻城の名は今回は行き着けなかった 東山城の事だったのかもしれません?
(篠山五十三次ガイド 及び”丹波の荘園”細見末雄氏著を 参照)


如来寺と仁木城(福住城)  桂山 458m   篠山市福住字枕木桂山

安田の大杉(甚七森)を右手に見てR173号(摂津・綾部若狭街道)を南に少し走ると如来寺です。 もとは真言宗 ・上ノ坊と称し、白河天皇(在位1072-86)の永保2年(1082)に創建された桂峯山如来寺(浄土宗 本尊 :阿弥陀如来坐像)があって、 籾井城主の祈願所となっていたが、天正4年(1576)明智光秀の”丹波攻略”で焼失し、寛永2年(1625)閑誉上人により浄土宗に改め再建したもとといわれます。後に光秀軍と戦った勇猛な丹波の青鬼の城 籾井城とは籾井川や宿場町福住の要衝を挟んで対峙する
桂峯山如来寺

如来寺南方の桂山には室町時代・丹波仁木氏の仁木城があったといわれます。室町中期の永享年間(1429〜1441)の記録に丹波仁木兵部少輔入道がいたと伝えられ、山上の仁入道山(546m)の山名は少輔入道に因むものと思われ、如来寺裏山への登り口を「仁入道」と呼ばれます。仁木氏の居城は一貫して、仁入道山の尾根を少し北方に下った458m峰の桂山 (点名:福住)にあったとされますが、尾根上の平坦地は狭く精々砦か祠跡程度・・・!如来寺か其の近辺に仁木氏の居館が在ったと考えれば、今残る山門や石垣は其の遺構と考えられますが、もともと仁木城の遺構が残っていないとされます。
籾井城主・籾井河内守照綱の五輪塔

しかし永禄6年(1563)頃仁木左京大夫長政が居たとの記録からも、 山城なら・も少し遺構の手応えが感じられる筈・此処桂山山上部がその城跡とも思えず、仁入道山へ向かったのですが・・!仁木氏は三河国額田郡仁木郷を本領とした足利氏の一族で、南北朝期の動乱には仁木頼章・義長兄弟は一貫して 足利尊氏に仕えて各地を転戦し、建武3年(1336)尊氏が丹波に逃れ九州へ敗走した際には、嫡子・義詮を護って岩屋石龕寺に留まります。 尊氏は再上洛し神戸”湊川の合戦”に楠木正成を討って京都に入り、敗走した新田義貞の追討には仁木氏等が命ぜられ越前の金ケ崎城に義貞を討ち取ります。仁木頼章が丹波守護職として高見城を本拠とし三代続きますが、 尊氏死去後職を罷免された仁木氏の動向は、福住他の丹波領内の仁木氏一族についても同様に資料・調査不足でタネ切れ…。
(現地 如来寺・仁木城址 篠山五十三次の案内板等 参照)


前谷砦
 xxx 270m  篠山市二之坪字前谷

R372号(デカンショ街道)小野奥谷の小峠に「延喜式」旧山陰道の駅家跡小野駅跡が在り、峠を下れば直ぐに綾部・若狭街道R173号と合流する福住で篠山盆地東端 部に有って京都・摂津への交通の要衝です。R173号線を籾井川沿いに500m程走ると左手の丘陵を回り込んだ二之坪集落で、 油圧シリンダ○○精機の看板を見て南へ直進した突き当たりに櫻桃山東林寺が見えます。
前谷砦と右端に辻富士(飛曽山)を遠望

仁入道山〜桂山への稜線は小野駅跡碑の建つR173号(旧山陰道)で遮断されるが、小峠から更に500m程北に延びて籾井川近くでニノ坪集落に落ち込む北西端部末端に東林寺があり、 其の裏手へ延びた低丘陵(比高僅かに2〜30m)に位置して前谷砦があります。東林寺参道前にある民家の横から丘陵裾を入り込むと貯水池に出るが、 其処から疎林の中を適当に登り始め30m程斜面を進んだと思ったら、もう其処からは小さな削平地が何段か続く城域に入っていた。丘陵上の末端ピークから更に延び出した尾根上の平坦地は 西奥山砦が小野庄の領地を望むと同じ様に、籾井川に沿ったニノ坪を望む位置にあります。
前谷砦の虎口!帯曲輪を断つ様に数段続く

後の山の尾根筋を堀切で遮断して城域を確保していますが、正面の北側は比高も2〜30m・曲輪の切岸も1〜2mと低く防備面が弱いようです。同心円状に上部の主郭へと階段状に 4〜5段の帯曲輪が取巻いており、西に寺側から主郭に向かって曲輪を切り裂く様に虎口となり、凹角の溝が延びて主郭に通じます。 左右に分かれた曲輪は上段程に切岸・段差も小さくなり余り広くない主郭部に着く。主郭山側の尾根筋には幅約2m・高さは70〜1.5m程・長さは3〜40mの堀切が西側曲輪群の城域を遮断しています。
しかし峰に続く尾根上部の方が緩やかなで、 より広い平坦地が有って堀切下部の城域よりも広く感じます。
前谷砦の虎口!

領地や通行の監視や通信機能を持った城砦でもなく、防備面でも前方に切岸・土塁・堀等での守備補強の跡もなく、階段状に数段の曲輪が並ぶだけの城砦です。築城時期や城主の関する城史は伝わりませんが、在地の土豪 :波々伯部氏・籾井氏・荒木氏の微妙な境界位置にあります。北方900mに貝田城と其の西900m・前谷砦からは西北約1.5kmには栃梨城と、丹波の荒木鬼・荒木氏の支城が有ります。天文年間末期(1532〜1554)荒木山城守氏香(氏綱!)の 荒木城は天正5年(1577)丹波攻略の明智光秀から攻撃を受けますが、荒木城の東600mの峰には明智軍が大筒を放ったと伝えられる鉄砲丸という 二段曲輪の残る峰があり、その際の明智方の陣城として築かれたものかも知れません。


姥ヶ谷砦
 xxx xxxm 篠山市安田字姥ヶ谷

R372号線(京都街道)は東に一つ峠を越え、小野新の集落を挟んだ次ぎの小さな短い峠(小野奥谷の小峠)に 延喜式【旧山陰道の駅家(うまや)】小野駅の跡が在る。 「延喜式」小野駅跡の篠山五十三次案内板が建つ位置からは 約300m程降ると「小野新」の三叉路交差点。北に福知山・綾部・宮津方面へ・南は天王峠を能勢方面へのR173号、東へ直進は宿場町福住を抜けて天引峠、園部・亀岡へ分岐する 「安田西」交差点。此処には安田の大杉(甚七森)があります。一本の巨木だけで境内が森の様だとの 形容で付けられた名前だけの事はある必見の大杉ですよ。 
R372「小野駅」跡の左丘陵;先端部に姥ヶ谷砦の削平段有り

小野駅跡から南側丘陵沿いの地区道に入り、小野奥谷川沿いに点名:福住(桂山)〜仁入道山から府県境尾根に伸びる丘陵があり、国道筋から100m程・小野の宝篋印塔傍から尾根の取り付き訪れた事があった。その時は知らなかったが、今回:辻集落の南山城をヤッと訪問出来たついでに、 古くには!!(天正期頃には小野・安田庄は籾井氏の領地!!)波々伯部氏が管理していた安田荘側の此の峠にも「姥ヶ谷砦」と記載された城館遺構の在る事が「兵庫県の埋蔵文化財保護の手引き」の行政地区マップにある。
R372・峠茶屋付近から姥ヶ谷砦

八上城下から篠山城へ …篠山市中央部を横断して摂津・播磨へ抜ける通行上の最重要な要衝です。天正3年(1575)頃から始まった明智光秀の「丹波攻め」では、八上城主:波多野秀治に属して東の玄関口を堅固するべく、天引峠から福住にかけては、丹波の青鬼と怖れられた籾井城主籾井教業(のりなり)が、小野奥谷の此の峠は籾井氏か波々伯部氏が拠った監視の砦等が在ったでしょう?。篠山市街地へ篠山街道を西にとらず、北の綾部・若狭方面へ約1kmも進めば荒木鬼:細工所城主荒木氏綱が北東の玄関口を守備しています。峠の「小野駅」と小野新三叉路の中程には一軒の峠茶屋が有り、車道を隔てた北側の工場の資材置き場?と接して鬱蒼とした藪の独立丘陵 (東西400x南北550m)がある。
3〜4段目からの2段目曲輪・白い部分はR372号線

丘陵尾根続きの西北隅には 前谷砦があるが両砦共に「丹波攻め」明智軍の駐屯地になったものか?。Google検索でHITするのは・いまのところ此の遺跡地図だけですが 比高15m程?!!、居館でなく「姥ヶ谷砦」とあり要衝監視の砦との期待を込めて藪に突入する。ぬかるむ足元の先、丘陵裾側は溝谷が廻り 1.5〜2m程の切岸状の段差。其の先に3段ばかりの広い平坦地がある。その先にも高い段差(5〜6m)で2段程の平坦地があって、低丘陵の尾根に出る。
R372側2段目曲輪・左右に溝や低い段差で小曲輪が付く

全て南面のR372号(デカンショ街道・京街道)を正面にしている様ですが、 尾根の先端部に出ると綾部方面に向うR173号や、東正面の籾井城を望む位置にも1〜2段程小さな削平地は有る様です。此処から緩やかな尾根筋が上方に続きますが、丘陵先端低部の斜面に削平段を見るだけで堀切・土塁 ・曲輪を切岸で護る防御施設は見当たりません? 監視の見張所としては北方の細工所方面を望尾根の頂部と思えるし、防御性は弱いが館跡とも思える低い位置に広い削平地があり、砦というより明智勢の駐屯地に利用されていた様にも思えます。 姥ヶ谷砦についての城史は不詳・資料等にも散見する事無く未調査です。 何かわかれば追記・再訪して再確認が必要と思われますが…!!

  
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