大師山-南谷山 木之部城 内場山城 西谷城 板井城 足利義高の卵塔・松平信孝の墓碑
大師山遊歩道~南谷山・ 西谷城~板井城他 2004年05月29日
近畿の山城 木之部城 木之部北城 内場山城 板井城
      西谷館 西谷城 打坂砦(南谷山砦)
 大師山:宮田古墳群 五葉松:宮田宝筐印塔・足利義高の墓・ 耳薬師
大師山展望台より板井城(中央の丘)と夏栗山の遠望

三尾山城主・赤井幸家ゆかり弘誓寺からの山城巡り。篠山市から丹波市へ越えるR176号金山城の麓・鐘ヶ坂も大山城から川代渓谷沿いも難所で篠山から味間経由の山南町や鐘ヶ坂トンネルの手前で瓶割峠を越え春日町へ抜けるルートや、
内場山城から舞鶴道西紀SAと松尾~白髪岳の遠望

西紀からは佐仲ダムを佐仲峠や鏡峠を越え春日町へ抜けるか,街道としては多紀連山の北:栗柄峠を京都三和町側へ西国霊場(丹後宮津の成相寺-加東郡社の清水寺)を繋ぐ巡礼道や京都・伊勢へ通じる道があり丹波市春日町へ出る但馬街道は大石りくが山科から但馬の実家へ向った際も栗柄峠を通り氷上の天王坂を抜けている。往時要衝はR176ではなく県道97号(丹南三和線)沿いにあり山城も集中している。


大師山遊歩道~切幡寺大師堂~西谷城~南谷山(点名:西谷)  H16.05.29

R176大山下から舞鶴自動車道下を抜け県道97号(丹南三和線)を北に進めば宮田の篠山市西紀支所・西紀シャクナゲ園・佐仲ダム分岐の下板井(健康と福祉の里)大師山遊歩道案内板を見るが西紀トンネル上部にある西谷城へ南からではなくトンネルを
三尾山弘誓寺

北に抜けた板井バス停近くの集落内を山手に向う二宮神社から天台宗比叡山末弘誓寺(ぐせいじ)山門から切幡寺の大師堂へ歩道をすすむ。赤井幸家は観音信仰に厚い人物なので観音堂とおもっていた(その一ノ宮が河内多々奴比神社で舞鶴自動車道側板井城にも寄る)弘誓寺は大化年間(645-650)法道仙人の創建といわれ大同3年(808)天台宗開祖・伝教大師により中興されたと伝えられ、文治4年(1188)焼失したが観音信仰の厚かった
三尾城主:赤井幸家(孤舶釣月)の墓碑

黒井城:荻野直正の弟で三尾山城主赤井刑部幸家により天正年間(1573-92)に再建されたと伝えられる。三尾山城は天正6年(1578)12月落城するので天正期初頭でしょうか?。同寺には幸家が寄進したという涅槃図(市指定文化財)や城中で祀っていたという大日如来座像が残され境内に法名孤舶釣月の墓碑がたつ。境内から続く山道は入口から88所観音石仏道が大師堂へ延びる遊歩道。宮田天満宮と境内続きにある光照寺だった。西谷城は畝状竪堀があり藪の枯れる頃…とさらに松茸と狩猟解禁が終わるのを待つ必要もある。西谷城(清水向井山357m)から三角点峰・南谷山は直ぐ其処。展望のない尾根だが南谷山(点名:西谷3等三角点375m)にはテレビ受信ケーブルが
展望台から南谷山と大師堂(中央上部に白く屋根が見える)

延びてきており南面に一筋の切開きから篠山盆地と松尾山から白髪岳への山並みを望む。三角点の点標名付与方法に基準があるか測量の登路にとった集落・谷・尾根の名が安易に付けられているのか? 何か釈然とせず山名の南谷山に疑問を感じる山名は望む集落からの位置や生活の関わりから名称が
切幡寺大師堂への巡拝道・縦走路は右手直進

異なる事もあり直ぐさき尾根の低部に西谷城がある。矢代城からは西方に対峙し屋城からは宮田川沿い西に位置する城で岡本丹後守の西谷館と西谷城との関連は分からないが南麓にある。しかし北に東多紀アルプスの峰が走り南を意識出来るのは二つばかりの集落だけ。地名考を調べる必要があるのかも!帰路は再度・西谷城外周の帯曲輪を見て大師山遊歩道START地点の
主郭部を囲む長い帯曲輪 H17.6

天満宮と光照寺に戻る。大師山遊歩道は天満神社からのハイキング道と水道施設前で合流し八十八ヶ所観音道分岐を「モミジ谷」方向へ10m程進むと高さ5~6m程のコンクリート偽木の展望休憩所がある広場に着く。大師堂の屋根が白く光って見える。宮田川を眼下に河内平野が拡がり舞鶴自動車道そば近くには板井城が見える


大師山・宮田古墳群

健康と福祉の里を目指す町つくりを進める西紀町玄関口の篠山市西紀支所には:ホロンピア88摂・丹波の祭典”を期に1988年9月建立され「健やかで幸せ多い町つくり」を願い其のシンボルとしてギリシャの彫刻家ムスタカス氏による神話アスクレピオスの像(紀元前1200年頃、食事・入浴・運動により多くの奇跡的な治療を行なったといわれる
アスクレピオスの像

医術の神アポロンの子で其の才能を受け継ぎ死者さえ蘇らせたといわれる医神が製作され姉妹都市提携されたギリシャのパレア・エピダウロス市で採火された健康の火・神殿風のモニュメントがあるが説明がなければ 奇異に感じる杖に絡みつく蛇は日本では精力・活力の○X酒となるマムシと考えて良いのかな?。西紀支所近く宮田天満宮から弘誓寺に至る尾根上に設けられた大師山遊歩道の中央付近。巡拝コースの遊歩道が切幡寺大師堂へ下っていく分岐点からは急に細くなる尾根道だが周辺には5世紀後半に築造された10数基の古墳が存在している。
西紀町シャクナゲまつり H17.4.24

いずれも主体部は木棺直葬で低い墳丘を持つ円墳だが大師山6号墳から全国的にも出土例の限られる鉄の延べ板”鉄てい”剣・直刀・勾玉・銅鏡等の副葬品が出土した。宮田1号墳からは純金の金環(耳飾り)や碧玉製管玉等の貴重なものが出土しており宮田川流域を治めた首長達の墓と考えられている。
(現地・支所前の説明版 大師山古墳群近くの兵庫県教育委員会! 説明版 参照)


天満宮の五葉松と光照寺の宝篋印塔

大師山遊歩道登山口は宮田地区の天満神社の西側にあり其の拝殿東前には樹齢推定700年のヒメコマツ樹高約455m・根廻り45m・枝張り約12mの壮観な五葉松(市指定天然記念物)がある。本来は山地の険しい尾根や岩場に自生するが
天満神社の「五葉松(ヒメコマツ)」

庭木や盆栽に多用され愛好する人が多く針状の五枚の葉をもつ松の意から五葉松の和名をもつ。代々氏子の手厚い保強保護を受け強い樹勢を保ち枝葉を今も広げているが此れが一本の木からなる造型とは思えない程見事なもの(昭和53年8月1日・町指定天然記念物)摂取山光照寺は宮田村大蔵谷の豪商山本彦兵衛が建立。創築・開基等の詳細な由緒は不明だが本尊に阿弥陀如来が祀られ、
天満神社:脇障子の彫刻

境内東に一際目を引く大きな宝篋印塔がある。光照寺の北の浄福寺(廃寺)は天譽覚山和尚【足利義高】(下記:覚山天誉上人を参照)が此処に隠居し享年61歳で寂滅:足利第14代?将軍になっていたかもしれない人物です。また近くには庶長子でなければ篠山藩の(形原)松平第3代藩主となっていた松平信孝の供養碑と夫人・子等家族が祀られる。
宮田宝篋印塔(市指定文化財)の216cm高さ216cmは市内最大。基礎には複弁の反花(かえりばな)と4面に輪郭をとる格狭間の装飾が
宮田の宝篋印塔

刻まれています。塔身は後世に灯籠として使用する為くり抜かれ、この部分の装飾の様相は四仏の種子が彫られていたか?判別できない。笠の隅飾り突起はほぼ直立し2弧の輪郭が刻まれ相輪も立派で全体的にバランスのとれた宝篋印塔は造立時期不詳だが各部の手法からみて鎌倉時代後期を下らない県内でも古い時期のものとされます。


覚山天誉上人(足利義高)卵塔 室町幕府の第11代将軍(在位1494-1508)足利義高(後:義澄と改名)は先の第10代義稙により官位を剥奪し追放すると再就任する。応仁の乱以後続く畠山氏や細川氏の不和内紛と戦国の世に翻弄され永正8年(1511)32歳で近江で病死した義高(義澄)は後・第13代将軍となる義輝が家臣の三好義継、松永弾正久秀らによって永禄8年(1565)殺される。その義輝の嫡男足利義高(幼名:乙若丸3歳)は北川六郎右衛門久寿ら近臣に助けられ京都誓願寺に逃れ仏門に入り教山善誉上人に師事して一時期、八上城主波多野秀治に預けられ修行後・
天譽覚山和尚(足利義高)の卵塔

京都誓願寺にいたが八上城の山麓に誓願寺を創建し覚山天誉上人と称した。篠山城が慶長14年(1609)築かれ八上城下の商家や寺は全て篠山城下へ移転されるが誓願寺も市内魚屋町に移された。晩年は廃寺となっていた宮田の浄福寺に隠居し享年61歳で寂滅し元和10年(1624)此処光照寺(旧浄福寺)の裏山に葬られたとされ谷道から見上げる古墓最奥に祀られる一基の卵塔が31歳で死去した足利義高(覚山天誉上人)で世が世であれば第11代将軍足利義高(義澄)となっていたかも知れない人物です。
(現地案内板「丹波篠山五十三次ガイド」篠山市教育委員会を参照)

松平安房守信孝の供養碑

光照寺の宝篋印塔(市指定)から墓地内を丘陵側へ向かうと覚山天誉上人の卵塔との間・集合墓地の上に独立して削平された一角に立派な笠塔婆石塔と数基の墓碑が並ぶ。松平安房守信孝の供養碑は元禄3年(庚午年:戒名「源松院殿従五位前房列尊誉一法樹廊?大居士」と刻まれ命日は10月18日。篠山藩歴代4代藩主で形原松平家初代松平康信が摂津高槻藩より 5万石で入り2代は松平典信・3代には典信の次男信利と其々在職僅か3-4年の藩主を務め康信の孫:信庸が4代目を継いでいる。東京都台東区の英信寺に祀られる松平信孝が…篠山の地にも祀られていることついては不詳だが信孝夫妻と家族と思われる墓碑が並ぶ。
宮田の松平安房守信孝の供養碑(笠塔婆)

藩主は篠山藩・亀岡藩が交互に務めており形原松平家の歴代菩提寺は亀岡の光忠寺。 後の藩主:青山家菩提寺は飛の山城南東麓の蟠龍庵松平信孝(のぶなり)は明暦元年(1655)丹波篠山藩の第2代藩主(形原)松平典信の庶長子として生まれているが 篠山藩での状況は不詳?。寛文11年(1671)駿府城代であった大叔父松平重信の養子となり延宝元年(1673)養父の死で家督を継いでいる。江戸幕府の小姓組番頭・御側衆・書院番頭・若年寄を勤め元禄2年(1689)には11万石の大名となり駿河小島藩の初代藩主であり小島藩(滝脇)松平家初代でもあったが翌元禄3年10月17日享年36歳で死去したが領内に善政を布き領民を思いやる・そして文武両道の名君であったと…若くして病死したことが惜しまれます。
信孝についてはフリー百科Wikipediaを参照)


川内多々奴比神社と「多良地根の公孫樹」

籾塚古墳のある近畿自動車道の高架を抜けると川内多々奴比神社(延喜式内社で祭神は天照皇大御神と建速素戔鳴命)。神社由緒によると第10代崇神天皇の御代(3世紀前半)四道将軍の一:丹波道主命がこの地に野陣を張り賊徒征伐に苦慮されていた時、白髪の白衣の老人が現れ白玉と剣を丹波道主命に授け、その加護により平定出来たので朝廷に言上し勅命を受けて此処に宮地を営んだのが縁起とされ、この神宝を二神(白玉を天照皇大神:剣を建速素盞嗚命)として社殿を創建したと伝えられる。
多々奴比神社:宿り木と漏斗状の葉が目立つ「垂乳根の公孫樹

古代より神楯や矛を製作奉仕する斎部の氏族集団「楯縫氏」が祖神「彦狭知命」を祀ったの 楯縫神社と呼ばれたのが時代とともに転訛し多々奴比となり祭神も変わったのではないかと考えられている。第38代天智天皇の2年(663)勅命により祭祀を執り行ったのが祭礼の始めで第40代天武天皇の白鳳元年(673)国司により造営され式内社に列せられた。川内郷氏子中20社の総社で平生は「一ノ宮」と呼ばれている川内多々奴比神社の境内には一際目立つ見事なイチョウの木がスギと並び立ち大きさは幹周り43m・樹高20m・枝張23m・樹齢300年以上。イチョウは老木になると乳柱と呼ばれる下垂突起が現れ当神社のイチョウも太い幹・枝に乳柱がたくさん垂れ下がり”垂乳根(たらちね)の公孫樹(ぎんなん)”と呼ばれ乳房に似ていることから子育ての神木とされ長寿を祈る御神木としても崇められている。この木には宿り木が繁茂し其の数十種に及び、生きた化石とも云われる特殊葉の漏斗状のラッパイチョウの原始葉が彼方此方に見られオハツキ葉もみられるといい植物学的にも貴重で注目されているようです。
源頼光駒止めの樫
正暦元年(990)3月・摂津守源頼光が丹波大江山の賊徒征討(鬼退治伝説)に向う際多々奴比神社に立寄り太刀一振りを奉納して必勝祈願した。伝説の駒止めの樫は老木の為・昭和38年(1963)1月8日の豪雪で枯れてしまい現在直系の樫が育っている!。多々奴比神社の二つの神宝:神玉神剱は元弘年中(1331-34)の兵火によって紛失したといい万治元年(1658)にも社殿や古文書・宝物悉く焼失し僅かに此の源頼光が奉納したという太刀が神社の社宝として保管されているようです。
(多々奴比神社現地案内板・由緒及び「丹波篠山五十三次ガイド」篠山市教育委員会を参照)


木之部の耳薬師と宝篋印塔

県道140号東木之部の緩やかな峠への途中”耳薬師”の看板を見つける。石段上の高台には薬師如来と十二神将を祀る薬師堂が建ち、耳の病に霊験があり・耳薬師として信仰をあつめている。其の境内西端・尾根斜面に2基の宝篋印塔と五輪塔が一基残されている。内場山城の城主・内場氏夫婦の石塔とも伝えられる。石碑は南北朝期のものと推定されるので内場氏が内場山城・板井城等に残る山名氏関連の城主なら位置や時代的には誤差はなさそうだが笠石の隅飾り突起の角度から二基が同時期に建立されたものではなさそう。
木之部の宝篋印塔

また内場氏が板井城主:山名小太郎の重臣だったとも伝えられるが小太郎が城主だった天正6年(1578)織田信長「丹波攻略」による明智光秀軍の侵攻で落城している。建立時期や石碑の様式は合うのかな…?宝篋印塔は本来「宝篋印陀羅尼経」というお経を納めた供養塔で基壇の上に台石・塔身・笠石・相輪を乗せて構成されている。此処に建つ2基は完全な形で残されており台石には複弁の反花座をつけ側面に輪郭をとり裏面を除く三方に格狭間(こうざま)が刻まれる。軸石には各面に蓮華座付き月輪という円を刻み、その中に金剛界四仏の種子(梵字)が刻まれています。笠石の隅飾り突起は2孤の輪郭を描きやゝ外側に開きながら直立し建立年代は明らかでないが各部の手法から南北朝期のものと考えられる。
(昭和45年(1970)10月13日)市指定文化財(石造物1号・2号)(現地・木之部の薬師堂案内板 篠山市教育委員会)

木之部城木之部北城 内場山城 西谷館 西谷城 板井城打坂砦(南谷山砦)

木之部城と木之部北城
木之部城 丸山 275m 篠山市西紀町西木之部丸山・東木之部油谷

此れ等の城は八上城の北方を守る付城というより南北朝期の応安年間 (1368-75)山陰に一大勢力を張った山名氏一族が丹波守護職を得て板井城をはじめ宮田荘に築いた城砦群だったのでしょうか?舞鶴若狭自動車建設工事に先立ち発掘調査が行われた西木ノ部の遺跡(西紀サービスエリア付近)では
木之部北城(左奥の峰に少し先)と木之部城(手前右の停丘陵)

奈良時代末期-鎌倉時代初期頃の荘園遺跡・遺物が出土している。木組の井戸や100点以上の緑釉陶器・祭祀に使用されたと思われる斎串・青鋼製の丸鞆(礼服に使用された革帯の飾り金具)・硯・墨書土器等:宮田荘と関係する遺跡。緑釉陶器等の重要な遺物出土は荘園内でもかなり地位の高い人が住んでいたのではないかと推察されている。【ひょうごの遺跡6号昭和60年参照】…宮田荘は平安時代前期貞観年間(859-877)摂政
東木之部北城:城域北端の土橋付堀切(西側から)

藤原良房が所領していた荘園名。宮田荘は室町中期頃までは近衛家領として木之部・栗柄・小坂・板井等のほか北河内・南河内や大野・矢代を含めた広い地域でした。その後・丹波守護に山名氏が入り守護交代で細川氏が支配するところとなり土豪達はその被官に組入れられる。

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大山下からR176号線を北上すると直ぐ西には大山川が深く切れ込んで自然の要害を形成する丹波篠山側では珍しい平城大山城が見える…といっても目につくのは河川段丘に拡がる耕地だけ!鐘ヶ坂に向う国道の長安寺信号を右折して篠山市街地へ向う県道140号 (長安寺篠山線)に入る。
木之部城・主郭を同心円状に曲輪が取囲む

舞鶴若狭自動車道西紀サービスエリアの駐車場脇芝生公園に篠山築城石の刻印残石が移設されている。長安寺交差点から篠山市西紀支所へ抜ける県道140は山間の緩やかな峠を登って西木之部のバス停を過ぎ 東100m程で峠を下っていく左手に耳薬師(市指定の宝篋印塔が建つ)・直進する道路の先に自動車道と内場山城が見えてくる。峠を挟んで南側の丘陵に木之部城・北側の山頂に木之部北城がある。木之部城・木之部北城とも築城時期や城主等の城史不明だが宮田荘側豪族の城と思われる。西方に東寺領の大山荘とは木之部の峠を境に近衛家領の宮田荘があり「近衛家文書」にも度々・大山荘地頭中沢氏による宮田荘へ介入があった事が記されている。西多紀アルプス西端の三尾山:黒井城主・荻野直正の弟・赤井幸家が拠ったが天正6年(1578)丹波攻めで落城の三尾山城から黒頭峰-夏栗山
木之部城・西北方の土塁道?から主郭部

へと南東に延びる稜線が 丹南町大山荘と西紀町宮田荘を分ける。境界は南端で尾根が消える木之部付近は篠山町境界も近く大山荘への玄関口となる山間の街道監視の城。承久の乱(承久3年1221)の功により 元仁元年(1224)大山荘地頭職として入部した中澤氏が宮田荘へ攻め入った記録があるようだが山名氏が丹波守護として宮田荘に入り板井城(城主:山名氏清の嫡子・時清)を築いた応安3年(1370)以前の事か?。木之部城は峠を南側の山傍に陸軍細見xx氏の碑が建つから蜘蛛の巣を掻き分け急斜面の藪に取付いてみる。西木之部側から見ると南から尾根筋を辿るのが楽そうだが個人の持ち山の様なので民家の
木之部城主郭下:東~北側への輪郭

庭先から登り道もなさそうな山へ取付く決断ができず!?西尾根を辿り城域に入る。15m程の土塁道を通って2段の帯曲輪を越すと直径15m程の円形主曲輪に立つ。主曲輪の周囲を同心円状に2-3段の帯曲輪が取囲む。主郭東角と一段南下の帯曲輪から南東方に竪堀がある。 東木ノ部の峠を挟んで北側丘陵のピークには
尾根上約150m範囲を城域とした梯郭式縄張りを持つ木之部北城があり木之部城とは対照的に大きく異なる輪郭式の縄張りだが宮田荘領主の 支城として呼応していたか西側の峠から急斜面(比高約40m)程で 県道140号を足下に見る尾根端に登り着く。縄張図等に指摘はされていないが自然地形の小広い平坦段が西側に2段ばかりある。中澤氏領の
木之部城北西:城域に入る土橋状遺構?

大山荘からの監視の様にも思えるが西木ノ部バス停の西は両側の丘陵を分けてカーブして降る峠で見通しは悪い。しかし主郭の縄張りは監視や通信機能の砦以上に城の体裁?を整えているので 木之部城の見張台としての出丸だったのかも?。此処から東西に延びる尾根上に広い平坦な瘤(ピーク?)を経て主郭部土橋状に着くが途中に切岸状や堀切等の防御を感じさせる段差もなく南方の西木ノ部側の民家裏から通じる大手道とも思える参道(役行者を祀る祠の平坦地)に至る 緩斜面の尾根上にも堀切等の防御設備はない。木之部北城と共に大山荘への出入り口を固める内場山城の出城か?

木之部北城xxx奥谷 345m 篠山市西紀町西木之部奥谷

県道140号(長安寺篠山線)西木之部の峠を挟んで木之部城の北側の尾根続き500m程の丘陵上に木之部北城がある。峠を東500mも下れば舞鶴自動車道へ出る。此処に内場山城があり、これら三城が宮田荘を領した丹波守護山名時代の城だったか?!。
木之部北城:竪堀と主郭部

木之部北城へは集落奥へと谷筋に登路がありそうだが峠へ落ち込む夏栗山へ続く尾根末端の墓地から踏み跡を辿ってみる。城域の尾根南端に低い切岸に出曲輪らしい不整地な削平を見て緩やかな尾根を5-60m程進むと左右に帯曲輪を伴った低い切岸が現れ斜上する土塁道(平入りの虎口?)をとって最上部の主郭(10x15m程)に登り着く。

北城主郭の虎口(中央)左右に帯曲輪


展望が開けて篠山市西紀支所を中心に宮田荘を見下ろす眺望は近くに内場山城・西谷城・飛ノ山城・篠山城・遠く八上の愁眉な山影を見る。此処から北の尾根に向って通路とも犬走り状とも思える極幅狭の小曲輪と帯曲輪を伴い尾根上から東へ一本竪堀が走るが細い尾根上西端は土塁道の様。竪堀の頭部にある露岩を捲く様に屈曲して尾根下方へ続く。竪堀というより尾根上の通路を加工する片堀切?。
木之部北城・主郭部北端にある竪堀(土橋付き片堀切!!)

10m程先には土橋を伴った堀切があり幅25mx長さ150m程の小さな城。 二つの城(木之部城/木之部北城)共に土塁の残欠もなく !?切岸も低い等防御性は低い様で中世後期以降は見張所程度以上の機能をもって使用された城とも思えないが…?

内場山城(宮田城) 内場山(巫場山) 242m  篠山市西紀町東木之部

内場(ないば)山は「巫場(なぎば)山と呼ばれた斎場山で神霊を招き奉った神奈備の山だったと云い 「ないば」と転訛したものでしょうか。内場山城は二つの城(木之部城/木之部北城)を抜ける県道140号の峠を下り舞鶴自動車道の高架を潜る手前、小さな丘に登っていく階段が 続き小さな赤い鳥居が
内場山城・南方から望む

見える山頂部を南北に部分的に削平した長い主郭部があり円墳状の曲輪があって南側にある一段下の曲輪に愛宕!?神社が祀られる。この石段の参道から神社までの尾根筋にも連郭に小曲輪が並んでいたようだが、これ等含めた城域の東半分が舞鶴自動車道建設工事により消滅。丹波では珍しく遺跡分布発掘調査されており調査報告書により遺構詳細が分かるかも知れない?。
帯曲輪北端の竪堀(右手)と竪土塁(上部曲輪から)

尾根上の主郭部は猛烈な藪漕ぎで通過し遺構の様子は判らない。中程に祠が祀られていたようで南端にある社が元は此処にあったものか?。兵庫県測量2級基準点を示す標柱が埋まる。木之部北城から南への往時を取らず東への枝尾根を下って峠下へ降り大きな溜池のある西側から取付き北の尾根に乗ると舞鶴自動車道を走る車騒が…直ぐ近くに響いてくると程なくして2段ほどの曲輪をみて城域に入り尾根筋の

内場山城・西面の帯曲輪

藪を進むと主郭部北端の曲輪に着く。其の先に2m程の段差をもつ曲輪があり 左右(東西)に竪堀があり竪堀に沿って内側が少し高くなった竪土塁がある。主郭西側が掘も深く…土塁から西下の急斜面上竪土塁には1-2段曲輪が並ぶが1段目は主郭の尾根に沿って幅2-3mで南に向かい帯曲輪が長く延びる。内場山城は山上部にある古墳丘のマウンドを曲輪として室町時代中期以降に築かれた城らしいが
端一段下の曲輪から竪堀(東側)と竪土塁

舞鶴自動車道建設工事で東面一帯が切り崩されていて城域の旧状はわからないが要衝監視としては 此の東側がより重要。西側同様に帯曲輪が廻り愛宕社?を祀る南側の尾根に沿っても数段の曲輪が連なっていたよう。山名小太郎の家臣内場籐十郎の城と伝えられる。「六分の一衆」守護護:山名氏清が築城し板井城の南約1km地点にあって京街道から栗柄峠や京都・三和町から佐仲峠を越えて但馬街道を氷上郡の春日町へ抜ける道があり、
主郭部北端から(同上)下段の曲輪と竪堀(西側)

宮田荘から大山荘に通じる交通の要衝にあって木之部の城と共に板井城を守る前衛の支城として機能したものか?。部分的に改修されていることも分かっています。天正6年(1578)明智光秀”丹波攻め”では 波多野秀治の家臣山名豊恒が拠ったといわれ波多野秀治の弟秀香や能瀬久元とともに高家三人衆と称され常に八上城大義に参与した武将で八上城に篭城して討死している。
(西紀町史 参照)

西谷館(岡本館) xx 215m  篠山市西紀町西谷字岡

R176号長安寺から県道140号(長安寺篠山線)で木之部城/木之部北城の山裾を抜け内場山城を見て舞鶴自動車道の高架を潜り、西谷の交差点で左折し西紀トンネルに向かい走る新しい道!!トンネルを抜けると(黒豆の館)前に出る。県道97号で栗柄峠を越え京都府の三和町を結ぶ旧但馬街道です。
西谷館・水田と城域の間を堀が廻る

此の西谷交差点を北に向うと直ぐ右手の森が西谷館です。西谷交差点を直進する県道140号”ユニトピア篠山”分岐には大野城・矢代城・今福城が点在する。母の通院に何度か行ったxxクリニックの真東・車道を隔て向かい民家裏手の森に西谷館がある。西谷城がある南谷山から南に派生した尾根の端が西へ少し突出す先端の低い丘に岡本丹後守の居館があり、つい西谷城とは居館と詰城の関わりを考えてしまう?。
主郭を廻る腰曲輪

田圃に接する北面から西~南面三方をグルリと堀が囲って守られ 東側は整地で大きく崩されているが堀切で区切られていたと思われます。南面際まで民家が迫るが岡本氏の子孫がお住まいとか!。居館跡は20m四方の主郭の東北隅に
真新しい”岡本丹後守信光之墓”彫られた一石五輪塔が建てられ傾斜の緩い切岸の一段下には 北面を除き三方を腰曲輪が囲む。また民家の農機具置き場の北側(居館の南西端)には城主が祀られているのでしょうか!お堂が建てられている。


西谷城 清水向井山 357m  篠山市西紀町西谷字奥の谷

県道140号(長安寺篠山線)の西谷交差点を左折して正面の山並みを西紀シャクナゲトンネルで抜け出ると県道 97号です。西紀町川北は丹波黒の産地で此処に道の駅風の郷土名産館"黒豆の館"がある。県道97号を左折し少し南下すると板井バス停から山手に向かうと三尾山弘誓寺の山門を潜ります。

主郭より帯曲輪末端部の畝状竪堀

此処は黒井城主・荻野直正の弟で三尾山城に拠った城主・赤井刑部幸家の眠る菩提寺です。西谷城へは弘誓寺からでも宮田の天満神社からでも「大師山遊歩道」案内板のあるハイキング道を利用して切幡寺大師堂経由で到達出来る。地蔵尊を祀る切幡寺大師堂からは尾根筋を分けて、いよいよ薮っぽい踏跡を辿り荒れてはいるが薮漕ぎ不要な道は快適。直ぐに切岸状?5m程の急斜面上の独立した曲輪状台地には
主郭尾根続き二重堀切と片堀切

小さな祠が建つ。西谷城の出曲輪(砦)は大手門跡か?大手筋をかためる番所跡?。是より二つばかり尾根幅いっぱいの平坦段(低土塁・低い段差ながら 切岸加工されている)もあって西郭・二ノ郭を形成して連続する西郭部。その入口部最下段曲輪の端を捲き上がる部分は虎口?。曲輪段の上部で主郭に入る。
西谷城・城域の南北を囲む長い二段の帯曲輪(約80m)

尾根筋の主郭をとり囲む帯曲輪が北に一段・南側には二段長く(約80m程?)延びる。主郭南側を二段の帯曲輪が平行に延び、下段は南東端で三本ばかり平行に斜面に落ちる畝状縦堀の前で消える。主郭東末端からの尾根続きに二重堀切があり畦状縦堀とも連動している。堀切から3-40m程にも南斜面に落ちる片堀切(縦堀)が一本。此れより更に約300m程??広く緩やかな登りで最高地点だが展望のない
主郭東末端部切岸と堀切・土橋

南谷山(西ヶ谷3等375m)に着く。薮に埋もれる山頂部は狭く此処にもテレビ受信用アンテナ・ケーブル施 設が残されているだけ。西谷城域清水向井山357m主郭に引返す。川北(丹波黒の産地)から西紀トンネルにむかう南出口側に西谷館(岡本館)があって岡本丹後守の居館だと云われる。西谷城・西谷館の城史等は不明だが
主郭南側に二段の帯曲輪

居館と山城の関係からは岡本氏との可能性も…丹波でも数少ない畝状竪堀の西谷城の西北方約1.2kmに板井がある。応安年間(1368-75)全国六分の一の勢力を張った山陰の守護大名・山名氏清が丹波守護となり宮田荘に入って築いた奥畑城。西谷城の北方約2km、佐仲峠に通じる宮田荘西北の最奥部には小坂城があり
西谷城:南端部:竪堀側の虎口

板井城の支城だったか?。 同様に城主不明ですが互いによく似た縄張りの城です。板井城は室町時代末:山名小太郎(宮内少輔氏時の末裔?)が拠っており天正6年明智光秀の「丹波攻略」に落城している。畦状竪堀の多用等からも但馬山名氏一族の城塞群。西谷城主の岡本氏は但馬山名氏の家臣だったのかも?。

板井城   城山 240m  篠山市西紀町上板井

西谷城へ向う途中に大師山展望台から眺めた板井城は公文堂山から舞鶴自動車道を突っ切って東へ突出す平凡な台形の丘陵が上板井集落の北に延びてきて、其の東北部端には小坂川が流れており、川に架かる長田橋の西方に天満神社が祀られています。此の小さな天神の杜の丘陵が城山と呼ばれ南北朝期から
分厚い上り土塁が主郭南西端の虎口に延びる(右にⅡの曲輪)

戦国末期にかけて板井城があった。此の詰め城周辺は田園風景が拡がる「平城の坪」と呼ばれる平野部一帯に城や武家の屋敷が建ち並んでいたことでしょう。その場所が大手道南の入口辺りか?集落南西部に小さな祠があり居館適地な場所と思えた…!?主郭北側麓に在る天満神社は祭神に日吉神社(猿田彦命)・
主郭へ延びる上り土塁(Ⅱの曲輪より)

広嶺神社(素素戔嗚尊)・文智神社(恩兼命)を祀り文安2年(1445)11月10日の創建で天正11年(1583)3月社殿が再建され岩崎天満大自在天神と云い篠山城主松平家より神領が寄付され延命武運長久を祈願されています。城山主郭部が此の天満神社真上にあり
主郭(北郭)に入る南東側上り土塁虎口とⅡ曲輪(中央郭)の切岸

城主を祀った祠(地蔵堂)が荒廃したまま、ポツンと残されているが祠も松平紀伊守によりこの時建立されたものか。祠に(松平紀伊守…領…?)の札が立つ。天満神社の社殿は元禄13年(1700)及び明治5年(1872)4月にも再建された。山裾の神社の角に 天満橋が架かるが此の橋からほぼ直角に南へ流れを変え、
大堀切上の南郭(3郭)には幅広の土塁(櫓台)が残る

深い溝が自然の水堀を形成して集落内を流れ宮田川に合流する。当時・耕地のある西側は沼地で僅か比高3~40m程の丘だが四方が断崖状となり南北には土塁と高い切岸に囲まれ深く大きな二重堀切があり箱を伏せたような要害の地。先に天満神社の真上が本郭部だと表現したが大岩を抱き込んだ絶壁で上部からは真下に天満神社の屋根の一部が見え、南端曲輪の南には櫓跡とも思える幅広い大きな土塁があり高い切岸の下に幅15m・深さ10m程の大堀切と
南郭側に高い切岸をもつ二重堀切:中央土塁から南郭側

深さ約 5m程の堀切が二重に城域を遮断して緩斜面の丘陵尾根が南西端部の佐中峠に向う車道側まで延びています。南北朝中頃:山陰で勢力を張っていた山名一族は全国六十六ヶ国の内、六分の一にあたる十一ヶ国を支配し六分の一衆と呼ばれた山名氏全盛の頃で大守護大名でした。
南郭の櫓台土塁から二重堀切:内側を見下ろす

山名時氏が室町幕府から 因幡(鳥取)・丹後等四カ国と一緒に丹波守護職を四男山名氏清に命じ応安4年(1371)茶臼山に奥畑城(八百里城の北方)と前年の応安3年には京都と山陰を結ぶ交通の要衝の此地:近衛家荘園宮田荘に居館を造らせたのが板井城でした。
南郭側二重堀切:中央土塁から外側の堀切

氏清は和泉守護として堺へ移り長男宮田左馬介時清と二男・七郎満氏が城と宮田荘を護り受けるが此処を拠点に活動したのは小林左近将監小林修理享が「明徳の乱」に勇名を馳せた。時氏の死によって後目相続をめぐる山名氏の内紛が起こり山名氏の勢力が 強まってくるのを怖れていた将軍・足利義満が本家争いを上手く利用して明徳元年(1390)氏清に命じ、
城主・山名小太郎を祀る地蔵堂(板井城主郭)

但馬を攻め山名時熈(ときひろ)を討たせるが時熈は備前(岡山)に逃れます。山名氏本家争いは氏清の謀反へと 発展し明徳2年(1391)氏清は室町幕府相手の合戦となる明徳の乱で氏清の甥・山名満幸、板井城の宮田左馬ら降伏するもの多く謀は洩れ・裏をかかれて大敗を期し 多くの武将が討死し・敗戦に丹波へ逃れた宮田左馬介と
主郭北:地蔵堂裏手・天満神社上方の堀切と土塁

満氏は翌明徳3年(1392)奥畑城に拠り兵を集めようとしたが志内・大芋・村雲等の土豪達に叛かれ自分達の命さえ危ぶまれ有馬へ逃がれ尼崎から 紀伊国へ落ちていったといわれます。山名氏清は没落し明徳3年-応永4年:丹波守護に細川頼元・守護代には小笠原備後守成明(修理亮・蔵人入道)が代わります。その後豊前・筑前から和泉・紀伊の守護をも与えられた大内義弘が応永6年(1399)室町幕府の足利義満に対立して和泉堺に挙兵するが破れて自殺
東側帯曲輪から南郭と中郭の中央部に一折れして入る幅広い虎口部

(宮田左馬介)も参戦しているが将軍足利義満からは氏清在世の功により氏清33回忌にあたり・応永16年(1409)宮田荘を領することを許されて板井城へ復帰することができたともされます。室町時代末には山名小太郎(宮内少輔氏時の末裔?)が拠り天正6年(1578)8月織田信長の「丹波攻略」による明智光秀の侵攻で落城した。城山に祠を祀る主郭(20x16m)の地蔵堂北端は土塁の痕跡を残し急斜面となり 更に露磐の絶壁の下に天満神社の屋根が見える。
主郭北:地蔵堂裏手・天満神社上方の堀切と土塁

主郭へ斜上する土塁道の東側にある2郭(19x28m)も丁寧に削平されているようで主郭の切岸も高い。2郭と南の3郭の間には東から登ってくる幅の広い虎口がある。南側の3郭(20x30m)の南に一段高い曲輪があり二重の大堀切を見下ろす幅広の土塁が囲んでいるが櫓台の跡と思えます。
(西紀町史・「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城遺跡郡に関する総合研究ー」八上城研究改編参照)

打坂砦(南谷山砦) 375m-390m 篠山市(西紀町)打坂

加古川沿いR175号は西脇市黒田庄町船町から丹波市山南町に入って直ぐ佐治川(現:加古川)に篠山川が合流合流する「出合」で井原橋を渡る。井原出合から篠山川へも県道77号沿い谷川駅北方の金屋・岡本・池谷・大河・畑内・篠場…へ川代渓谷沿い久下・
南谷山からの法蓮坊山(479m)

上久下地区:嘗て:栗作郷は久下氏本拠の地を抜けて篠山市側に出た地点に大山城がある。鎌倉時代初期から天正の光秀による丹波攻までを通して 久下氏(応仁の乱以後衰退)と中澤氏は一族以上に 強い結束で結ばれていたが共に光秀「丹波攻略」に落城した。両城史等は割愛するが大山城南端からR176号大山下交差点を直進し77号 (宮田川を渡った黒田交差点)を県道97号(篠山三和線)に
法蓮坊山から「ユニトピアささやま」:矢代城・大野城…八上城を望む

左折すると「宮田」交差点に出る。篠山市役所西紀支所前。天満宮から取付く大師山遊歩道は案内板が残っているが雑木藪・荒れ 踏跡を辿れない部分もあるが嘗てハイキング道は切幡寺大師堂迄は難なく到達出来る。南谷山砦(打坂砦)へは西谷城 北東山城南端切岸から二重の堀切・片堀切から更に続く広く比較的緩斜な尾根筋を約300m程?で最高地点だが展望のない南谷山(点名:西ヶ谷3等
打坂砦(南谷山砦):主尾根筋北端の削平段

375m)は薮に埋もれ山頂部は狭く廃棄されたままの共聴テレビ受信用アンテナやケーブル施設が残されているだけなので 此処で引返したが自然地形の平坦な二つばかりの曲輪?)の尾根続き東へおよそ400m程打坂砦(南谷山砦)390mで南へ延び出す分岐尾根上と打坂峠手前の尾根筋東から打坂峠 (県道97号・宮田川沿い打坂-矢代:ユニトピアささやま)まで下ってみたが南谷山(375m)と其の東で
打坂砦(南谷山砦):主曲輪

打坂峠へ下る分岐南尾根上・打坂峠を見下ろす350mピークにも 北面に段曲輪・峠に向かう北斜面にも数ヶ所に曲輪をみる。三地点に分散する城砦遺構だが最高地点390mを主郭として断崖状激斜面眼下に [ユニトピアささやま]をむ望むが施設を挟んでは矢代城(国松城)・尾根伝いには盃山城(南面に今福・西浜谷・東浜谷・岡谷・熊谷…)の波多野氏城砦群に?がる。
打坂砦(南谷山砦):副曲輪

南至近には矢代(国松城)城砦群の大野城・國松館・坪ノ内城・平志城から篠山川対岸に波多野氏本拠の八上城を望む。打坂峠から更に尾根を辿り法蓮坊山479mまで進んだが露岩の山頂部は 周辺の露岩石積み檀上に役行者を祀る修験道場のよう。ユニトピアささやまへの下降点もあるが尾根通しは岩屋観音へ通じ多紀連山:西が嶽へと「丹波修験のみち」が拓かれていたものか? 天正3年第一次黒井城攻略には「赤井の呼び込み軍法」とされる八上城:波多野氏
主曲輪から「ユニトピアささやま」最奥部のホテル眺望

と策謀したことで明智光秀は先に八上城攻略に着手し周辺の城を落としつつ八上城に迫った…。篠山川流域の篠山盆地には八上城包囲の光秀付城が散存する。丹波市・篠山市・京都丹波側境に栗柄砦や丹波市 境を分断する 鐘ヶ坂峠の金山城・黒井城に迫る春日町境には佐中峠・瓶割峠があり国領周辺に付城群が集中しており黒井勢の反撃:まして波多野氏への援軍は難しかったか?。観応年中(1350ー):丹波守護代ともなって隆盛を極めた栗作郷の久下氏も応仁の乱には衰退し明応(1492ー)年中久下政光は将軍義材に従い 畠山氏(河内国)の内紛に出陣したが留守中に丹波守護:細川政元が新将軍として義澄を擁立したクーデターに大軍で河内に進軍。近隣の国人全て敵方となり孤立した政光は所領を横領され 衰え以後文亀・永正の頃まで流浪していた様?で荻野氏麾下として玉巻城に入ったものか?。天正6年:明智光秀八上包囲の最終段階陣城として八百里山城落城後にあっても板井・打坂からの峠越で矢代城 ・大野城・山城…への
主曲輪の東斜面は断崖上崩壊地

援軍は可能?。西谷城は西紀町から佐中峠を丹波市春日町に栗柄峠から鼓峠を越え本郷・京都府三和町のR9号(山陰道)に?がる要衝の喉元:宮田荘の入口にあり:冒頭で長々述べた衰退為ているとは云え丹波玉巻城:久下氏と波多野氏配下の大山城:中澤氏が宮田荘内・宮田川沿いからなら尾根続き近場の打坂峠越えによる侵攻を警戒したものか?。
法蓮坊山(479m)の役行者像

南谷山砦(打坂砦)は宮田川沿い打坂側に段曲輪群・丘陵上からは矢代城(国松城)・大野城・盃山城等周辺の城砦に対する監視の付城として機能した様だが八上城の眺望も効く。落城時期は不詳だが八上城を孤立させ期を経ずして波多野氏方城砦は落城していく。 今回のルートは登山コースとしても西谷城(清水向井山)-南谷山(打坂砦)-法蓮坊山-(498m峰-盃ヶ岳(盃山城)-へは山城・藪・眺望が楽しめる欲張り山行かと!
 
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