大師山-南谷山 木之部城 内場山城 西谷城 板井城 足利義高の卵塔・松平信孝の墓碑
篠山市(五万図=篠山)
大師山遊歩道〜南谷山/内場山城・ 西谷城〜板井城他 2004年05月29日
近畿の山城 木之部城 木之部北城 内場山城 西谷館 西谷城 板井城

大師山:宮田古墳群五葉松:宮田宝筐印塔と足利義高の墓 耳薬師
大師山展望台より板井城(中央の丘 )と夏栗山の遠望

三尾山城主・赤井幸家所縁の西紀町の弘誓寺から山と山城巡りを計画します。阪神間から篠山〜 丹波市へはR176号がアッサリとトンネルで越してしまう 金山城の麓・鐘ヶ坂は難所だった為、篠山〜味間から小峠を越え(大山城のある大山下から 川代渓谷沿いも難所)山南町を経由するか鐘ヶ坂手前で瓶割峠を越えていました。
内場山城から舞鶴道西紀SAと松尾〜白髪岳の遠望

西紀町からは現・佐仲ダムを佐仲峠や鏡峠を 春日町へ抜けるか、街道としては多紀連山の北を栗柄峠を京都三和町側へ西国霊場(丹後宮津の成相寺〜加東郡社の清水寺 )を繋ぐ巡礼道や京都・伊勢へ通じる道があり、丹波市春日町へ出る但馬街道は大石りくが山科から但馬の実家へ向った際も栗柄峠を通り、 氷上の天王坂を抜けています。往時の要衝はR176ではなく県道97号(丹南三和線)沿いに有り山城も集中しています。


大師山遊歩道〜切幡寺大師堂 〜西谷城〜南谷山(点名:西谷)  H16.05.29
 
R176大山下から舞鶴自動車道下を抜け 県道97号(丹南三和線)を北に進めば宮田の篠山市西紀支所・西紀シャクナゲ園・佐仲ダム分岐の下板井”(健康と福祉の里)大師山遊歩道”案内板を見かけます。実は先刻 西谷館(岡本丹後守の居館)に寄った後、西紀トンネル上部にある西谷城への登山口に向った。
三尾山弘誓寺

南側からではなくトンネルを抜けた北側の二宮神社から天台宗比叡山末弘誓寺 (ぐぜいじ)山門を潜る。寺マーク(切幡寺の大師堂)のある山腹へ遊歩道をすすむ。 よく考えれば赤井幸家は観音信仰の厚かった人物なので観音堂では?とおもっていたが・・・弘誓寺は下板井ではなく板井バス停近く、集落内をクランク状に山手に向う車道の入口に二宮神社が建つ。その一宮が 河内多々奴比神社で舞鶴自動車道側の板井城にも寄ります。
三尾城主:赤井幸家"孤舶釣月…"の墓碑

弘誓寺は大化年間 (645-650)法道仙人の創建といわれ大同3年 (808)天台宗の開祖・伝教大師により中興されたと 伝えられています。弘誓寺は文治4年(1188)焼失したが観音信仰の厚かった黒井城主・赤井直正の弟で明智の丹波攻めの時は 三尾山に拠った城主赤井刑部幸家によって天正年間(1573-92)に再建されたと伝えられるが三尾山城は天正6年 (1578)12月に 落城しますので天正期の初頭でしょうか?。 同寺には幸家が寄進したという 涅槃図(市指定文化財)や城中で祀っていたという大日如来座像が残され境内には法名”孤舶釣月…”の墓碑が残されています。
展望台から南谷山と大師堂(中央上部に白く屋根が見える)

境内から続く山道は入口から八十八ヶ所観音の石仏道が大師堂へと延びる遊歩道です。 マークを見誤ったのは宮田の天満宮と境内続きにある光照寺でした。山城の西谷城は丹波では珍しく畝状竪堀が 見られる城なので藪が枯れる頃に… とはいっても松茸と狩猟解禁が終わるのを待つ必要はあるが西谷城のある清水向井山(357m)から三角点峰・南谷山は直ぐ其処です。展望の無い尾根だが南谷山山頂(点名:西谷3等三角点375m)です。山頂には此処にもテレビ受信ケーブルが延びてきており、南面に一筋の切開きから篠山盆地と松尾山から白髪岳への 山並みが望めます。三角点の点標名の付与方法には基準があるのでしょうが?
切幡寺大師堂への 巡拝道・縦走路は右手直進

測量の為の登路にとった集落・谷・尾根の名が安易に付けられているようなので、何か釈然としない感じを持つこともあるが、此の場合は山名の南谷山に疑問を感じます。 山名は望む集落からの位置や生活の関わりから名称が異なる事は有る。直ぐ其処・尾根の低部に西谷(西ヶ谷)城があります。矢代城からは西方に対峙し、屋城からは宮田川沿いに西方に位置する城で岡本丹後守の居館(西谷館)と西谷城との関連は分かりませんが南麓に有ります。しかし北に東多紀アルプスの峰が走り南を意識出来るものは 二つばかりの集落だけです。…地名考を調べる必要があるのかも!!
主郭部を囲む長い帯曲輪 H17.6

帰路は再度・西谷城外周の帯曲輪を見て歩きながら「大師山遊歩道」START地点の天満宮と光照寺へ戻ります。 「大師山遊歩道」は天満神社からのハイキング道と水道施設前で合流し八十八ヶ所観音道分岐を「モミジ谷」方向へ10m程進むと高さ5〜6m程のコンクリート偽木の展望休憩所がある広場にに着きます。 大師山大師堂の屋根が白く光って見えます。宮田川を眼下に河内平野が拡がり舞鶴自動車道そば近くには板井城が見える


大師山・宮田古墳群

健康と福祉の里を目指す町つくりを進めている西紀町の玄関口・篠山市西紀支所には”ホロンピア’88 摂丹波の祭典”を期に1988年9月に建立され「健やかで幸せ多い町つくり 」を願って、其のシンボルとしてギリシャの 彫刻家ムスタカス氏によるギリシャ神話の「アスクレピオスの像 (紀元前1200年頃、食事・入浴・運動により多くの奇跡的な治療を行ったといわれる医術の神アポロンの子で、 其の才能を受け継ぎ死者さえ蘇らせたといわれる医神)」が製作され、姉妹都市提携されたギリシャのパレア・エピダウロス市で採火された「健康の火」・神殿風の モニュメントがあります。上記の説明が無ければ奇異な感じがするだけです
西紀町「アスクレピオスの像」

…杖に絡みつく蛇は日本では精力・活力の○X酒となるマムシと考えて良いのかな?。篠山市西紀支所近く、宮田天満宮から下板井弘誓寺に至る尾根上に設けられた「大師山遊歩道」のほぼ中央付近。巡拝コースの遊歩道が切幡寺大師堂へ下っていく分岐点からは急に道は細くなった尾根通し道ですが周辺には5世紀後半に築造された 10数基の古墳が存在しているようです。
西紀町シャクナゲまつり H17.4.24

いずれも主体部は 木棺直葬で低い墳丘を持つ円墳ですが、大師山6号墳からは全国的にも出土例の限られる鉄の延べ板”鉄てい”や剣・直刀・勾玉・銅鏡等の副葬品が出土しています。また宮田1号墳からは純金の金環(耳飾り)や碧玉製管玉等の 貴重なものが出土しており、宮田川流域を治めた首長達の墓と考えられています。
(現地・支所前の説明版 大師山古墳群近くの兵庫県教育委員会! 説明版 参照)
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天満宮の五葉松と光照寺の宝篋印塔
「大師山遊歩道」の登山口は 宮田地区の天満神社の西側にあり、其の拝殿東前には、樹齢推定700年のヒメコマツ樹高約4.5m・根廻り4.5m・枝張り 約12mの壮観な【五葉松(市指定天然記念物)】がある。本来は山地の険しい尾根や岩場に自生するが、庭木や盆栽に多用され愛好する人が多く、針状の五枚の葉をもつ松の意から五葉松の和名をもつ。
天満神社の「五葉松(ヒメコマツ)」

代々氏子の 手厚い保強保護を受けて強い樹勢を保ち続け、 今もその枝葉を今も広げているが、此れが一本の木による造型とは思えない程の見事なもの。 【天満宮[五葉松]説明書参照 町指定(昭和53年(1978)8月1日・天然記念物)】摂取山光照寺は宮田村大蔵谷の豪商・山本彦兵衛が建立した。創築・開基等の詳細な由緒は不明だが 本尊に阿弥陀如来が祀られます。境内東に一際目を引く大きな宝篋印塔があります。
天満神社:脇障子の彫刻

光照寺の北の浄福寺(廃寺)は天譽覚山和尚【足利義高】(下記の覚山天誉上人を参照)が此処に隠居し享年61歳で寂滅:足利第14代?将軍になっていたかもしれない人物です。また直ぐ近くには庶長子でなければ篠山藩の (形原)松平第 3代藩主となっていた松平信孝の供養碑(下記の松平安房守信孝の供養碑を参照)と夫人・子等家族のものと 思われる墓石が祀られている。
宮田宝篋印塔(市指定文化財)は高さ216cm市内最大。基礎には複弁の反花(かえりばな)・4面に輪郭をとる 格狭間の装飾が刻まれています。
宮田の宝篋印塔

塔身は後世に灯籠として使用する為くり抜かれ、 この部分の装飾の様相は(四仏の種子が彫られていたか?)判別できません。笠の隅飾り突起はほぼ直立し2弧の輪郭が刻まれています。相輪も立派で全体的にバランスのとれた宝篋印塔の造立時期は不詳だが、 各部の手法からみて鎌倉時代後期を下らない県内でも古い時期のものとされます。
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覚山天誉上人(足利義高)卵塔 室町幕府の第11代将軍(在位1494-1508)足利義高(後に義澄と改名)は先の第10代:義稙により官位を剥奪して追放すると再就任します。応仁の乱以後続く畠山氏や細川氏の不和・内紛…戦国の世に翻弄され永正8年(1511)32歳で近江で病死した義高(義澄)は歴史上の人物として良く知られています。その後・第13代将軍となった義輝が家臣の三好義継、 松永弾正久秀らによって永禄8年(1565)殺される。その義輝の嫡男足利義高(幼名:乙若丸3歳)は 北川六郎右衛門久寿ら近臣に助けられ京都・誓願寺に逃れ、
天譽覚山和尚(足利義高)の卵塔

仏門に入り教山善誉上人に師事して一時期、八上城主波多野秀治に預けら修行した後・京都誓願寺にいたが八上城の山麓に誓願寺を創建して 覚山天誉上人と称します。慶長14年 (1609)篠山城が築かれて八上城下の商家や寺は全て篠山城下へ移転されますが誓願寺も市内魚屋町に移されています。 晩年は廃寺となっていた宮田の浄福寺に隠居し、元和10年(1624)享年61歳で寂滅したとされ此処光照寺(旧浄福寺)の裏山に葬られたとされ、谷道から見上げる古墓地の最奥に祀られた一基の卵塔が見えます。第11代将軍・足利義高 (義澄)は31歳で死去しています。しかし足利義高(覚山天誉上人)も世が世であれば将軍となっていたかも知れない人物です。
(現地案内板「丹波篠山五十三次ガイド」篠山市教育委員会を参照)

松平安房守信孝の供養碑

光照寺の北・宝篋印塔(市指定)から墓地内を丘陵側へ向かうと、覚山天誉上人の卵塔との間・集合墓地の上に独立して削平された一角に 立派な笠塔婆石塔と数基の墓碑が並ぶ。松平安房守信孝の供養碑は元禄3年(1690)庚午年:戒名に「源松院殿従五位前房列尊誉一法樹廊?大居士」と刻まれ、命日は十月十八日と!!。篠山藩歴代4代藩主で、形原松平家初代松平康信が摂津高槻藩より5万石で入り、2代は松平典信・3代には典信の次男信利と、 其々に在職僅か3-4年の藩主を務め康信の孫:信庸が4代目を継いでいる。東京都台東区の英信寺に祀られる松平信孝が…篠山の地にも祀られている事については不詳ですが、信孝夫妻と家族と思われる墓碑が並ぶ。 藩主は篠山藩・亀岡藩を交互に務めており形原松平家の歴代菩提寺は亀岡の”光忠寺”に、後の藩主:青山家菩提寺は 飛の山城南東麓の蟠龍庵にある。
宮田の松平安房守信孝の供養碑(笠塔婆)

松平信孝(のぶなり)は明暦元年(1655)丹波篠山藩の第2代藩主(形原)松平典信の庶長子として 生まれているが篠山藩での状況は不詳!?。寛文11年(1671)駿府城代であった大叔父松平重信の養子となり、 延宝元年(1673)養父の死で家督を継いでいる。江戸幕府の小姓組番頭・御側衆・書院番頭・若年寄を勤め元禄2年(1689)には11万石の大名となり駿河小島藩の初代藩主であり小島藩(滝脇)松平家初代でもあったが翌元禄3年10月17日 享年36歳で死去したが、領内に善政を布き・領民を思いやる・そして文武両道の名君であったと…若くして病死したことが惜しまれます。
(信孝についてはフリー百科Wikipediaを参照)


川内多々奴比神社と「多良地根の公孫樹」

籾塚古墳のある近畿自動車道の高架を抜けると川内多々奴比神社(延喜式内社で祭神は 天照皇大御神と建速素戔鳴命)です。神社に伝わっている由緒によると第10代 ::崇神天皇の御代(3世紀前半)四道将軍の一人「丹波道主命」がこの地に野陣を張り賊徒征伐に苦慮されていた時、白髪の白衣の老人が現れ、 白玉と剣を丹波道主命に授け、 その加護によりこれを平定する事が出来たので朝廷に言上し、勅命を受けて此処に宮地を営んだのが縁起とされます。この神宝を二神【白玉を天照皇大神:剣を建速素盞嗚命】として社殿を創建したと伝えられています。
多々奴比神社:宿り木と漏斗状の葉が目立つ「垂乳根の公孫樹」

古代より神楯や矛を製作奉仕する斎部の氏族集団 「楯縫氏」が祖神「彦狭知命」を祀ったので楯縫神社と呼ばれたのが時代とともに転訛し多々奴比となり、祭神も変わったのではないかと考えられています。第38代天智天皇の2年(663)勅命により祭祀を執り行ったのが祭礼の始めで 第40代天武天皇の白鳳元年(673)国司により造営され式内社に列せられた。川内郷氏子中20社の総社で平生は「一ノ宮」と呼ばれています。川内多々奴比神社の境内には一際目立つ見事なイチョウの木がスギと並んで立っています。 大きさは幹周り4.3m・樹高20m・枝張り23m・樹齢 300年以上の老木です。イチョウは老木になると乳柱と呼ばれる下垂突起が現れ、 当神社のイチョウも:太い幹や枝に乳柱がたくさん垂れ下がり”垂乳根(たらちね)の公孫樹(ぎんなん)”と呼ばれ、乳房に似ていることから、昔から子育ての神木とされ長寿を祈る御神木としても 崇められています。この木には宿り木が繁茂し、其の数十種に及び、生きた化石とも云われる特殊葉の漏斗状のラッパイチョウの原始葉が彼方此方に見られ、オハツキ葉もみられるといい植物学的にも貴重で注目されているようです。
源頼光駒止めの樫
正暦元年(990)3月・摂津守源頼光が 丹波大江山の賊徒征討(鬼退治伝説で有名)に向う際、多々奴比神社に立ち寄り、太刀一振りを奉納して必勝祈願しました。 伝説の駒止めの樫は老木の為・昭和38年(1963)1月8日の豪雪で(!温暖化の今:豪雪とは想像も出来ませんが…)枯れてしまい現在・直系の樫が育っていると…!。多々奴比神社の二つの神宝:神玉神剱は元弘年中(1331-34)の兵火によって 紛失したといい万治元年(1658)にも社殿や古文書・宝物悉く焼失し、僅かに此の源頼光が奉納したという太刀が神社の社宝として保管されているようです。
(多々奴比神社現地案内板・由緒 及び「丹波篠山五十三次ガイド」篠山市教育委員会を参照)


木之部の耳薬師と宝篋印塔

県道140号(長安寺篠山線)東木之部の緩やかな峠への坂道途中に”耳薬師”の看板を見つけます。石段上の高台には薬師如来と十二神将を祀る薬師堂が建っており、耳の病に霊験があり・耳薬師として信仰をあつめている。 其の境内西端・尾根斜面に2基の宝篋印塔と五輪塔が一基残されています。内場山城 の城主・内場氏夫婦の石塔とも伝えられています。石碑は南北朝期のものと推定されますので、内場氏が内場山城・板井城等に残る山名氏関連の城主なら位置や時代的には誤差は無さそうですが、笠石の隅飾り突起の角度から二基が同時期に 建立されたものではなさそうです。
木之部の宝篋印塔

また内場氏が板井城主:山名小太郎の重臣だったとも伝えられるが、小太郎が城主だった天正6年(1578)織田信長「丹波攻略」による 明智光秀軍の侵攻で落城している。建立時期や石碑の様式は合うのかな…?宝篋印塔は本来 「宝篋印陀羅尼経」というお経を納めた供養塔で、基壇の上に台石・塔身・笠石・相輪を乗せて構成されています。此処に建つ2基は完全な形で残されており台石には複弁の反花座をつけ、側面に輪郭をとり裏面を除く三方に格狭間 (こうざま)が刻まれています。軸石には各面に蓮華座付き月輪という円を刻み、その中に金剛界四仏の種子(梵字)が刻まれています。笠石の隅飾り突起は2孤の輪郭を描き、やゝ外側に開きながら直立しています。建立年代は明らかではない、 各部の手法から南北朝期のものと考えられており市指定<昭和45年(1970)10月13日>文化財(石造物1号・2号)を受けています。

(現地・木之部の薬師堂案内板 篠山市教育委員会)



木之部城木之部北城 内場山城  西谷館 西谷城板井城

此れ等の城は八上城の北方を守る付城というより南北朝期 ・応安年間(1368-75)山陰に一大勢力を張っていた守護大名・山名氏一族が 丹波守護職を得て板井城をはじめ宮田荘に築いた城砦群だったのでしょうか?舞鶴若狭自動車建設工事に先立ち発掘調査が行われた西木ノ部の遺跡(西紀サービスエリア付近)では奈良時代末期〜鎌倉時代初期頃の荘園遺跡・遺物が出土しています。
木之部北城(左奥の峰に少し先)と木之部城(手前右の停丘陵)

木組の井戸や100点以上の緑釉陶器 ・祭祀に使用されたと思われる斎串・青鋼製の丸鞆(礼服に使用された革帯の飾り金具)・硯・墨書土器等:宮田荘と関係する遺跡です。 緑釉陶器等の重要な遺物出土は、荘園内でもかなり地位の高い人々が住んでいたのではないかと推察されています。
東木之部北城:城域北端の土橋付堀切(西側から)

【ひょうごの遺跡6号昭和60年参照】…宮田荘は平安時代前期:貞観年間(859-877)に摂政であった藤原良房が 所領していた荘園名…です。宮田荘は室町中期頃までは近衛家領として 木之部・栗柄・小坂・板井等のほか、北河内・南河内や大野・矢代を含めた広い地域でした。その後・丹波守護に山名氏が入り、守護交代で細川氏の支配するところとなり、土豪達はその被官に組入れられています。

木之部城と木之部北城

木之部城  丸山 275m  篠山市西紀町西木之部丸山・東木之部油谷

大山下からR176号線を北上すると直ぐ西には大山川が、深く切れ込んで自然の要害を形成する丹波篠山側では珍しい平城の 大山城が見えてきます。とは言ってみても目につくのは河川段丘に拡がる耕地だけかも…!!鐘ヶ坂に向う国道の最初の「長安寺」信号を右折して篠山市街地へ向う県道140号(長安寺篠山線)に 入る。舞鶴若狭自動車道唯一の西紀サービスエリア(駐車場脇の芝生公園には 篠山築城石の刻印残石が移設されています)からも内場山城に次いで近い位置にあるがインターでは無いので篠山・春日間では出入り出来ないが残念です。
木之部城・主郭を同心円状に曲輪が取囲む


長安寺交差点から篠山市西紀支所へ抜ける 県道140号は山間の緩やかな峠を登って西木之部のバス停を過ぎ、東100m程で再び丘陵を分ける山間の峠を右カーブして下っていきます。カーブの先の左手に耳薬師 (市指定の宝篋印塔が建つ)・直進する道路の先に自動車道と内場山城が見えてきます。この峠を挟んで南側の丘陵上に木之部城と北側の山頂に木之部北城 がありました。 木之部城、木之部北城ともに築城時期や城主等の城史不明ですが、宮田荘側の豪族の城と思われます。西方に東寺領の大山荘とは木ノ部の峠を境として、 近衛家領の宮田荘があり「近衛家文書」にも度々・大山荘地頭中沢氏による宮田荘への介入があった事が記されているようです。
木之部城・西北方の土塁道?から主郭部

西多紀アルプスの西端にある三尾山【黒井城主・赤井直正の弟・赤井刑部幸家が拠ったが天正6年(1578)丹波攻めで落城の 三尾山城があった】から黒頭峰〜夏栗山(此処も砦があった・・詳細不詳 )へと南東に延びる稜線が丹南町の大山荘と西紀町の宮田荘を分けています。境界は南端で尾根が消える木之部付近は篠山町の境界も近く、 大山荘への玄関口ともなる山間の街道を監視する城です。承久の乱(承久3年1221)の功により元仁元年(1224)大山荘の地頭職として入部してきた 中澤氏(または長沢氏!?)が宮田荘へ攻め入った記録があるようですが、山名氏が丹波守護として宮田荘に入り板井城(城主は山名氏清の嫡子・時清)を築いた応安3年(1370)以前の事か?。
木之部城主郭下:東〜北側への輪郭

丹波4強の中沢氏でも「六分の一殿」山名氏相手では…!!木之部城へは峠の南側の山傍に ”陸軍細見xxx”氏の碑が建つ側から、蜘蛛の巣掻き分けながら急斜面の藪に取り付いてみます。西木之部側から見ると南から尾根筋を辿るのが楽そうですが個人の持ち山の様なので、民家の庭先から登り道も無さそうな山へ 取付く決断が出来ません.西尾根を辿って城域に入るのが大手道の様で、15m程の土塁道を通って2段の帯曲輪を越すと直径15m程のほぼ円形の主曲輪に立ちます。主曲輪の周囲を同心円状に2〜3段の帯曲輪が取囲みます。 主郭東角と一段南下の帯曲輪から南東方に 竪堀の遺構が見える。
東木ノ部の峠を挟んでは・北側丘陵のピークには 尾根上約150m範囲を城域とした梯郭式縄張りを持つ木之部北城が在り、 木之部城とは対照的に大きく異なる輪郭式の縄張りですが、宮田荘領主の支城として呼応していたのでしょう。
木之部城北西:城域に入る土橋状遺構?

西側の峠からの急斜面(比高約40m)程で県道140号を足下に見る尾根端に登り着く。城の縄張り図等に表示やコメントで指摘はされていないようですが、 自然地形の小広い平坦地の東に一段程?、西側に2段ばかりの平坦地がある。中澤氏の領地:大山荘側からの監視の様にも思えるが西木ノ部バス停の西は両側の丘陵を分けてカーブして降る峠で見通しは悪い。しかし主郭の縄張りは監視や 通信機能の砦以上に城の体裁?を整えているので木之部城の見張台としての出丸だったのかも?。此処から東西に延びる尾根上に一つ広い平坦な瘤(ピーク?)を経て主郭部土橋状に着くが、途中に切岸状や堀切等の防御を感じさせる段差?もなく、 南方の西木ノ部側の民家裏から通じている大手道とも思える参道【役行者を祀る祠のある細長い平坦地】に至る緩斜面の尾根上にも、堀切等の防御設備は無い。木之部北城と共に大山荘への出入り口を固める 内場山城の出城だったのでしょうか。


木之部北城 xxx奥谷 345m  篠山市西紀町西木之部奥谷

県道140号(長安寺篠山線)西木之部の峠を挟んで木之部城の北側の尾根続き 500m程の丘陵上に木之部北城がありました。峠から東へ500mも下れば 舞鶴自動車道へ出る。 此処に内場山城があるが、これら三城が宮田荘を領していた丹波守護山名氏の時代の城だったのでしょう!。
木之部北城:竪堀と主郭部

木之部城から登路を引き返して、北の集落奥へと谷筋に登路を見つけようと思うが民家から谷を詰めるには遠周り過ぎるようです。比高も左程でない (等高線を数えても120m程)。 峠へ落ち込む夏栗山へ続く尾根末端に墓地があり、そこから踏み跡を辿ってみる。城域の尾根南端に 低い切岸に出曲輪らしい不整地な削平を見て、緩やかな尾根を 5〜60m程進むと左右に帯曲輪を伴った低い切岸が現れ斜上する土塁道(平入りの虎口?)をとって最上部の主郭(10x15m程)に登り着く。

北城主郭の虎口(中央)左右に帯曲輪


方に展望が開けて篠山市西紀支所(県道140号は此処に出て県道97号丹南三和線と交差する)を中心に宮田荘を見下ろす眺望は、 近くに内場山城・西谷城・飛ノ山城や篠山城、遠く八上の愁眉な山影を見る。此処から北の尾根に向っては、通路とも犬走り状とも思える 極幅狭の小曲輪と帯曲輪を伴い、尾根上から東へ一本の竪堀が走るが細い尾根上西端は土塁道の様。竪堀の頭部に有る露岩を捲く様に屈曲して尾根下方へ続く。竪堀というより尾根上の通路を加工する片堀切?。
木之部北城・主郭部北端にある竪堀(土橋付き片堀切!!)

10m程先には土橋を伴った堀切があって 城域が終わる、尾根上に幅25mx長さ150m程の小さな城です。二つの城(木之部城/木之部北城)共に土塁の残欠も無く!!?切岸も低い等防御性は低い様で、中世後期以降は見張所程度以上の機能をもって使用された城とも思えませんが …如何なものでしょうか ??城史が少しでも分かれば内容を更新していきます。


内場山城(宮田城)  内場山(巫場山) 242m  篠山市西紀町東木之部

内場(ないば)山は「巫場(なぎば)山と呼ばれた斎場山で、神霊を招き奉った神奈備の山だったと云い ”なぎば”が「ないば」と転訛したものでしょうか。内場山城は上記の二つの城(木之部城/木之部北城)を抜ける県道140号 (長安寺篠山線)の峠を下り 舞鶴自動車道の高架を潜る手前、小さな丘に登っていく階段が続き小さな赤い鳥居が見えるところの、山頂部を南北に、
内場山城・南方から望む

部分的に削平した長い主郭部があり、円墳状の曲輪があって南側にある一段下の曲輪に 愛宕!?神社が祀られています。 この石段の参道から神社までの尾根筋にも連郭に小曲輪が並んでいたようですが、これ等を含めた 城域の東半分が、 舞鶴自動車道の建設工事により消滅してしまいました。ただ丹波では珍しく!!遺跡分布調査よって発掘による 調査がなされていますので、調査報告書を見れば少し遺構の詳細が分かるのかも知れません。
帯曲輪北端の竪堀(右手)と竪土塁(上部曲輪から)

尾根上の主郭部は猛烈な藪漕ぎで通過、 遺構の様子は判りません。中程に祠が祀られていた残骸があり、南端に有る社が元は此処にあったものと思われます。 兵庫県測量2級基準点を示す標柱が埋められていました。木之部北城から南への往時を取らず、東への枝尾根を下って峠下へ降り大きな溜池のある西側から 取付き北の尾根に乗ると舞鶴自動車道を走る車騒が・・
内場山城・西面の帯曲輪

直ぐ近くに 響いてくると程なくして2段ほどの曲輪をみて城域に入ったと感じる。尾根筋の藪を進むと主郭部北端の曲輪に着く。其の先に2m程の段差をもつ曲輪があり、 左右(東西)には竪堀があり竪堀に沿って内側が少し高くなった土塁がある。丹波では珍しい!!??竪土塁の遺構で主郭西側の方が掘も深く …土塁から西下方の急斜面上・竪土塁には1〜2段曲輪が並ぶが1段目は主郭の尾根に沿って幅2〜3mで南方に向って帯曲輪が長く延びています。
端一段下の曲輪から竪堀(東側)と竪土塁

内場山城は山上部にある古墳の墳丘を利用したものか、其のマウンドを曲輪として室町時代中期以降に築かれた城らしいが、舞鶴自動車道の建設工事で東面一帯が 切り崩されていて城域の旧状はわかりません。要衝監視としては此の東側がより重要!。西側同様に帯曲輪が廻り、愛宕社?を祀る南側の尾根に沿っても数段の曲輪が連なっていたようです。山名小太郎の家臣で内場籐十郎の城と伝えられます。 「六分の一衆」守護大名の山名氏が丹波守護ともなり、山名氏清が築城した板井城 の南約1km地点にあって京街道から栗柄峠を越えて但馬街道を氷上郡の春日町や京都・三和町へ、また佐仲峠を越えれば氷上郡の春日町へ抜ける道があり、宮田荘から大山荘に通じる交通の要衝にあって
主郭部北端から(同上)下段の曲輪と竪堀(西側)

木之部の城と共に板井城を守る前衛の支城として機能したと思われます。部分的に改修されていることも分かっています。天正6年(1578)明智光秀の ”丹波攻め”では波多野秀治の家臣山名豊恒が拠ったといわれます。山名豊恒は波多野秀治の弟・秀香や能瀬久元とともに高家三人衆と称され、常に八上城の大義に参与した武将で八上城に篭城して討死しています。
(西紀町史 参照)


西谷館(岡本館)   xxxx 215m   篠山市西紀町西谷字岡

R176大山の長安寺から県道140号(長安寺篠山線)で木之部城/ 木之部北城の山裾を抜け、内場山城を見て舞鶴自動車道の高架を潜り、西谷の交差点で左折して西紀トンネルに向かって走る新しい道!!はトンネルを抜けると”黒豆の館”の前に出ます。県道97号で栗柄峠を越えて 京都府の三和町を結ぶ旧但馬街道です。 此の西谷交差点を北に向うと直ぐ右手の森が西谷館です。
西谷館・水田と城域の間を堀が廻る

交差点を直進する県道140号も直ぐ先は”ユニトピア篠山”への分岐で、先日訪ねた大野城・矢代城・今福城が周辺に点在しています。 母の通院に何度か行ったXXクリニックの真東・西紀トンネルに向う車道を隔てた 向かいの民家裏手の森に西谷館があります。西谷城がある南谷山から南へ派生した 尾根の端が西へ少し突き出した先端の低い丘で此処に岡本丹後守の居館があり、 つい西谷城とは居館と詰城の関わりを考えてしまいます!?。田圃に接する北面から西〜南面三方をグルリと 堀が囲って守られ、東側は整地で大きく崩されているが堀切で区切られていたと思われます。
主郭を廻る腰曲輪

南面際まで民家が迫っているが、岡本氏の子孫がお住まいとか!!。居館跡は20m四方の主郭の東北隅に
真新しい!!?「岡本丹後守信光之墓」と 彫られた一石五輪塔が建てられ、傾斜の緩い切岸の一段下には北面を除き三方を腰曲輪が囲んでいます。また民家の農機具置き場の北側(居館の南西端)には城主が祀られているのでしょうか !お堂が建てられています。


西谷城 清水向井山 357m  篠山市西紀町西谷字奥の谷

県道140号(長安寺篠山線)の西谷交差点を左折して正面の山並みを”西紀シャクナゲトンネル”で抜け出ると県道97号です。 西紀町の川北は 丹波黒の産地で此処に道の駅風の郷土名産館”黒豆の館”があります。県道97号を左折して 少し南下すると板井バス停から山手に向かうと三尾山弘誓寺の山門を潜ります。

主郭より帯曲輪末端部の畝状竪堀

此処は黒井城主・赤井直正の弟で三尾山城に拠った城主・赤井刑部幸家の眠る菩提寺です。 西谷城へは弘誓寺からでも、 宮田の天満神社からでも「大師山遊歩道 」案内板のあるハイキング道を利用して切幡寺大師堂経由で到達出来ます。 地蔵尊を祀る切幡寺大師堂からは尾根筋を分けて、いよいよ薮っぽい踏跡を辿り荒れてはいるが薮漕ぎ不要な道は快適。
主郭尾根続き二重堀切と片堀切

直ぐに切岸状?5m程の急斜面上の独立した曲輪状台地には小さな祠が建つ。西谷城の出曲輪(砦)は大手門跡か?、大手筋をかためる番所跡のよう?。是より二つばかり尾根幅いっぱいの平坦段 ((低土塁・低い段差ながら切岸加工されている)もあって、西郭・二ノ郭を形成して連続する西郭部。 その入口部最下段曲輪の端を捲き上がる部分は虎口?。曲輪段の上部で主郭に入る。尾根筋の主郭をとり囲む帯曲輪が北に一段・南側には二段長く(約80m程?)延びる。
西谷城・城域の南北を囲む長い二段の帯曲輪(約80m)

主郭南側を二段の帯曲輪が平行に延びて、 下段は南東端で三本ばかり平行に斜面に落ちる畝状縦堀の前で消える。主郭東末端部切岸からの尾根続きに二重の堀切があり、畦状縦堀とも連動している。平坦な尾根筋には堀切から3-40m程にも南斜面に落ちる片堀切 (縦堀)が一本。此れよりは更に約300m程??広く緩やかな登りで最高地点だが展望のない南谷山 (点名:西ヶ谷3等三角点375m)に着くが、薮に埋もれる山頂部は狭く・此処にもテレビ受信用のアンテナ・ケーブル施設が残されているだけ。西谷城域は先の清水向井山(357m)が主郭なので引き返します。
主郭東末端部切岸と堀切・土橋

西紀町の川北は丹波黒の産地・此処から西紀トンネルを 抜けたところに郷土名産館”黒豆の館”があるが、トンネル上部清水向井山に西谷城が位置しているが、トンネル南出口側には西谷館(岡本館) があって岡本丹後守の居館だと云われる。西谷城・西谷館の城史等は不明ですが、居館と山城の関係からは岡本氏との可能性も …山城が丹波でも数少ない畝状竪堀。 西谷城の西北方僅か約1.2km地点には板井城がある。応安年間 (1368-75)全国六分の一の勢力を張った山陰の守護大名 ・山名氏が丹波守護となった山名氏清が奥畑城を築き・宮田荘に入っては此処にが築いた城であり、
主郭南側に二段の帯曲輪

西谷城の北方約2km、佐仲峠に通じる宮田荘西北部の最奥部には小坂城があり、 板井城の支城だったのかも?。同様に城主不明ですが互いによく似た縄張りの城です。板井城は室町時代末:山名小太郎(宮内少輔氏時の末裔?)が拠っており天正6年、 明智光秀の「丹波攻略」に落城している。畦状竪堀の多用等からも但馬山名氏一族の城塞群。西谷城主の岡本氏は但馬山名氏の家臣だったのかも?。

板井城  城山 240m   篠山市西紀町上板井

西谷城へ向う途中に大師山展望台から眺めた板井城は、公文堂山から舞鶴自動車道を突っ切って東へ突き出す平凡な台形の丘陵が上板井集落の北に延びてきて、其の東北部端には小坂川が流れており、その川に架かる長田橋の西方に天満神社が祀られています。 此の小さな天神の杜の丘陵が城山と呼ばれ、南北朝期から戦国末期にかけて板井城がありました。
分厚い上り土塁が主郭南西端の虎口に延びる(右にUの曲輪)

此の小山の周辺は田園風景が拡がる平野ですので此処を”詰め城”にして「平城の坪」と呼ばれる一帯には館城や武家の屋敷が建ち並んでいたことでしょう。その場所が大手道南の入口辺りか、集落南西部に小さな祠があり 居館?適地な場所と思えたが…!!?
主郭へ延びる上り土塁(Uの曲輪より)

主郭北側麓に在る 天満神社は祭神に日吉神社 (猿田彦命)・広嶺神社(素戔嗚尊)・文智神社(恩兼命)を祀り、 文安2年(1445)11月10日の創建で、天正11年(1583)3月社殿が再建され、岩崎天満大自在天神と云い篠山城主松平家より神領が寄付され、延命武運長久を祈願されています。
主郭(北郭)に入る南東側上り土塁虎口とU曲輪(中央郭)の切岸

城山の主郭部が 此の天満神社真上にあり、其処には城主を祀った祠(地蔵堂)が荒廃したまま、ポツンと残されていますが 祠も松平紀伊守によりこの時建立されたものでしょうか?。祠には"松平紀伊守 ・・領xx・・?"の札が立てかけてある!!。 天満神社の社殿は元禄13年(1700)及び明治5年 (1872)4月にも再建されています。山裾の神社の角に天満橋が架かりますが此の橋からほぼ直角に南へ流れを変え、深い溝が自然の水堀を形成して集落内を流れ宮田川へ合流します。
大堀切上の南郭(3郭)には幅広の土塁(櫓台)が残る

当時・耕地のある西側は沼地で、僅か比高3〜40m程の丘ですが四方が断崖状となり、 南北には土塁と高い切岸に囲まれて、深く大きな二重堀切があり箱を伏せたような要害の地です。 先に天満神社の真上が本郭部だと表現しましたが、大岩を抱き込んだ絶壁で上部からは真下に天満神社の屋根の一部が見えていました。
南郭側に高い切岸をもつ二重堀切:中央土塁から南郭側

南端曲輪の南には櫓跡とも思える幅広い大きな土塁があり、高い切岸の下に幅15m・深さ10m程の 大堀切と深さ約 5m程の堀切が二重に城域を遮断して、緩斜面の丘陵尾根が南西端部の佐中峠に向う車道側まで延びています。南北朝期の中頃:山陰で勢力を張っていた山名一族は全国六十六ヶ国の内、六分の一にあたる十一ヶ国を支配し六分の一衆と呼ばれた山名氏全盛の頃で 大守護大名でした。
南郭の櫓台土塁から二重堀切:内側を見下ろす

山名時氏が室町幕府から因幡 (鳥取) ・丹後等四カ国と一緒に丹波守護職を命ぜられ四男山名氏清に命じて応安4年(1371)茶臼山に 奥畑城(八百里城の北方)と、前年の応安3年には京都と山陰を結ぶ交通の要衝の此地:近衛家荘園宮田荘に居館を造らせたのが板井城でした。
南郭側二重堀切:中央土塁から外側の堀切

氏清は和泉守護として堺へ移り、 長男宮田左馬介時清と二男・七郎満氏が城と宮田荘を護り受けますが、此処を拠点に活動したのは小林左近将監で その子!! 小林修理享が「明徳の乱」で勇名を馳せています。時氏の死によって後目相続をめぐる山名氏の内紛が起こり、山名氏の勢力が強まってくるのを怖れていた将軍・足利義満が、
城主・山名小太郎を祀る地蔵堂(板井城主郭)

本家争いを上手く利用して明徳元年(1390)氏清に命じて但馬を攻め、 山名時熈(ときひろ)を討たせるが 時熈は備前(岡山)に逃れます。山名氏本家争いは氏清の謀反へと発展し翌・明徳2年(1391)氏清は室町幕府を相手の合戦となる 「明徳の乱」で氏清の甥・山名満幸、板井城の宮田左馬ら降伏するもの多く謀は洩れ・裏をかかれて大敗を期し多くの武将が討死し・
主郭北:地蔵堂裏手・天満神社上方の堀切と土塁

戦いに敗れ丹波へ逃れた宮田左馬介と満氏は翌・明徳3年(1392) 奥畑城に拠って兵を集めようとしたが志内・大芋・村雲等の土豪達に叛かれて 自分達の命さえ危ぶまれ有馬へ逃がれ尼崎から紀伊国へ落ちていったといわれます。山名氏清は没落して<明徳3年〜応永 4年>丹波守護に細川頼元・守護代には小笠原備後守成明(修理亮 ・蔵人入道)が代わります。
東側帯曲輪から南郭と中郭の中央部に一折れして入る幅広い虎口部

その後豊前 ・筑前から和泉 ・紀伊の守護をも与えられた大内義弘が応永6年(1399)室町幕府の足利義満に対立して和泉堺に挙兵するが、破れて自殺した応永の乱では山名時清(宮田左馬介)も参戦しているが将軍足利義満からは 氏清在世の功により氏清33回忌にあたり・応永16年(1409)宮田荘を領することを許されて板井城へ復帰することができたともされます。 室町時代末には 山名小太郎(宮内少輔氏時の末裔?)が拠り天正6年(1578)8月:織田信長の「丹波攻略」による明智光秀の侵攻で落城しています。城山に祠を祀る主郭(20x16m)の地蔵堂北端は 土塁の痕跡を残し、
主郭北:地蔵堂裏手・天満神社上方の堀切と土塁

急斜面となり更に 露磐の絶壁の下に天満神社の屋根が見えます。主郭へ斜上する土塁道の東側にある2郭(19x28m)も丁寧に削平されているようで主郭の切岸も高い。2郭と南の3郭の間には東から登ってくる幅の広い虎口がある。南側の3郭(20x30m)の南に 一段高い曲輪があり、二重の大堀切を見下ろす幅広の土塁が囲んでいるが櫓台の跡と思えます。
(西紀町史・郷土の城ものがたり丹有編・「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」 八上城研究改編を参照)
   
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