初田酒井党の山城 禄庄城〜大沢城〜火とぼし山〜音羽山〜佐幾山城/南矢代城
兵庫丹波 (五万図=篠山)
禄庄城〜大沢城〜火とぼし山〜音羽山へ 2004年03月21日
校歌・故郷の山:♪…xx秋の空 音羽の谷の気も清し♪ 味間小学校
近畿の山城: 初田館 禄庄城 大沢城 佐幾山城 南矢代城

佐幾山城(工事で壊滅 )への尾根から禄庄城(左)と大沢城(右)

八上城主波多野氏重臣:酒井党一族<初田酒井氏>の山城を廻ります。JR篠山口駅の西方・R176号を挟んで間近に迫丘陵尾根の北端には、 如何にも見張台か砦が想像できる台状に山肌を削り落とされた断崖を見せています。 R176号線から中野 ・味間南を抜けて県道36(西脇・篠山線)へのバイパス 道路拡張工事で尾根の北端はバッサリ切断されています。此の北端山上に佐幾山城が在りました。
「大沢ロマンの森」の八幡神社

以前から崩壊していたようで城址の北先端は消滅していたが、工事によって小さな城域は主郭も含めて完全に消滅、切り崩された断崖先の空間の城域に 縄張りの幻影も想像出来ません。佐幾山城から尾根筋を南に辿れば其の南端が火とぼし山(501m)です。主尾根を東へ大沢城・禄庄城を経て八幡神社に降りてくると「大沢ロマンの森」の案内板が建つ。
禄庄城主郭から南尾根(小曲輪群)を降る

「ひょうご豊かな森づくり構想」に基づき県と丹南町により平成10年遊歩道整備されたコースは丘陵尾根上に遺る中世の山城【佐幾山城・禄庄城・大沢城】を巡り”火とぼし山”を経由すれば周回出来る散策路です。 「火とぼし山」山頂部の狭い台地も”物見の砦”跡。大沢城を中心として砦や館が築かれていたところです。 山麓の山城屋敷・石野館・福井谷館及び、北方の味間の里の三崎伊豆守屋敷等は篠山歴史散歩Vにレポートを集約しています。 火とぼし山からは西へは人気の
大沢城から火とぼし山へ:幅狭い露岩混じりの尾根が続く

松尾山(高仙寺山)〜白髪岳(丹波富士)へ向かう人気の縦走路。10分程で送電線鉄塔No.121が建つ草原状で素晴らしい眺望所に着きます。 篠山市街地を眼下にして北方に夏栗山・三尾山鋸山 西ヶ嶽〜三嶽へと多紀アルプスや三嶽前衛には盃山笛吹山八百里山など八上城の枝城の山城があった山々、愛宕山等の太平三山から大野山、 南に虚空蔵山や六甲・北西には篠ヶ峰 千ヶ峰此れほどの展望台は白髪岳までない。主尾根を更に西へと小さなコブを越え数10m?で音羽山山頂 (3等三角点531m)だがピークハンター以外には 余り長居は出来そうもない狭く展望もない所です。
音羽山近く展望の無名ピークから

主尾根を下っていく山道はハイカー向けで快適ですが此処から先は味間地区の2〜3の城を探訪の際にトレースすることにして此処で引返す。自然環境の保全は勿論「大沢ロマン…」を謳っての歴史ハイキング道なので佐幾山城の壊滅状態を思うとき遺構保存の現状が、 此れ以上に悪化することのない様、城史や遺構の解説板を設置する等で、丹波の里山や中世の歴史を理解し認識を新たにするような対策も必要ですね。


 初田館 禄庄城 大沢城(奥谷山城)  佐幾山城 南矢代城


初田館(酒井勘四郎館) と「酒井党」の山城
初田館(酒井勘四郎館)
    篠山市丹南町初田字堀ノ坪

丹波杜氏で有名な篠山盆地の西の口に位置して丹波と摂津を結び、東へは篠山市街を亀岡・京都:西へは今田から社を抜けて播磨への京街道が、 さらには山南町側へ旧山陰道が通じた交通の要衝でもあり四方に通じる丹波への玄関口。八上城を取巻く数多くの支城の中でも油井城 高仙寺城等と共に重要な最前線基地のこの付近一帯に、波多野氏配下の酒井党が拠って勢力を張った
禄庄城大手口(西面からの輪郭)

城がありました。酒井氏の祖は桓武天皇の皇子・葛原親王の後胤で筑後守家貞の嫡子・筑後守定能とされ平清盛の家人として 源頼朝に敵対したが源平争乱の後は出家して、宇都宮朝綱を頼り頼朝の許しを受けています。貞能の4代・兵衛太郎穐政(明政)の子酒井兵衛次郎政親が 承久の乱(承久3年 1221)の功績により相模国(神奈川県)大住郡酒井郷の豪族が地頭として
初田館から牛ヶ瀬の浄福寺背後を大沢城へ

油井に来住したのが丹波酒井党の始まりとされています。承久の乱以前・既に此の地の地頭職を与えられていた酒井太郎明政(穐政)?が移り住んだ?…とも、 政親の子で矢代城主:孝信より6代後・益氏の二男酒井弥九郎が永享年間(1429-41)始めて此処・初田の地に別居したのが初田館だといわれるが、…さらには益氏の孫で奥谷山に大沢城を築城した酒井(初田)和泉守豊教
初田館(酒井神社旧址)!?

永禄年間(1558-70)此処に居し、初田酒井党最後の城主酒井勘四郎の居館ともなり【勘四郎館】とも呼ばれます。 初田館は通称「さかいさん」として伝承されてきた「酒井勘四郎館」の遺跡です。当野・矢代・栗栖野・初田・波賀野の村を酒井の庄と呼び、 それぞれに酒井主水氏治・酒井菊夜叉丸(勘四郎氏武の幼名)・酒井筑後守等の酒井一族が移り住み、やがて酒井庄一帯の武士団「酒井党」となった勢力だが、 永正年間(1504〜21)頃には 丹波一円に勢力を持つ八上城主・波多野秀治に対抗したが敗れ 以降その傘下に属します。天正6年明智光秀「丹波攻め」の八上落城に光秀の軍門に降り、天正10年山崎の合戦に従軍し・近江瀬田で討死した(享年僅か18歳)。 酒井家最後の武将:勘四郎氏武の首を持ち帰り此の館に葬り「酒井大明神」として社殿を造営し、初田酒井一族の氏神として崇敬されてきたが、明治41年八柱神社に合祀された。北近畿舞鶴若狭自動車道建設工事に伴い兵庫県教委による事前発掘調査(昭和61年)が行なわれ、 古墳時代後期(6世紀頃)より近世?(中世後期)に至るまでの住居跡であることが判明。残された西半分の遺構には「酒井神社旧址」石碑が建つ。篠山口駅の南R176号が牛ヶ瀬で接近して大きくカーブする地点の東方に水田地帯が拡がる。 圃場整備された周辺の水田地帯や川も綺麗に護岸工事され、環濠屋敷跡の遺構はおろか其の位置さえ定かでないが、初田館含め周辺は弥生式土器や瓦が発掘された遺跡です。

禄庄城と山城屋敷
禄庄城 
禄庄 325m   篠山市丹南町大沢上山
山城屋敷(山城館)? 篠山市丹南町大沢片山
石野館  ?   篠山市丹南町大沢片山の坪

JR篠山口駅から一番近い山城:禄庄城へは、西出口からR176号を渡って 大沢地区に入り、 石の鳥居から奥谷川に沿って進むと左手にグラウンドとヒノキ林に囲まれて円錐状の小山・禄庄城が見えます。直ぐ先の少し開けた谷間に八幡神社が里山整備事業により
禄庄城:輪郭北斜面(搦手側)に落ちる竪堀

環境整備された「大沢ロマンの森」の入口で、禄庄城〜大沢城〜火とぼし山〜佐幾山城を 周回する散策道。中世山城の戦国ロマンを謳った歴史と里山の自然を廻る周回コースだが、 北端に外れた佐幾山城は道路拡張工事?で山は削られ、一部崩壊?しながら残っていた小さな砦も遺構は見る影をなく壊滅・
残念ながら空中に消滅してしまった。 中世・波多野氏配下の酒井党 (初田酒井党)が拠った三つの城(禄庄城・大沢城・佐幾山城と狼煙台か見張り砦!?)を[大沢ロマンの森(杜)]の
禄庄城本丸と虎口

案内板が立つ八幡神社から廻る。低い瓦を乗せた白塀の中に由緒有りそうな枯巨木が立派な瓦屋根付き祠に収まっています。八幡神社から奥谷川の谷出合い付近が大沢城主:酒井(初田)勘四郎の家臣 杉本山城守与右衛門や石野久兵衛が居を構えていた山城屋敷や石野館と呼ばれる所でしょう?。禄庄城は大沢城の尾根続き北方を防禦する支城 ・出城として築かれて杉本氏・石井氏等の家臣団が拠った城。枯れ巨木の側を奥谷川に沿って延びる山道は案内標識完備のハイキング道です。直進する火とぼし山への分岐で左に取り、 隠れ谷への道は小谷を越え数箇所に
禄庄城:大手虎口曲輪から主郭

畑地か屋敷跡の削平地を見てヒノキや杉の植林の中の九十九折れの急登を進むと山頂2〜3段手前の曲輪に着き、禄庄城の主郭を捲く輪郭の様子は此処からでも想像できます。登って来たのが大手で此処・凹角の土塁虎口状を抜け、帯曲輪から小広く削平された本ノ丸のある山頂に立ちます。城址標柱とベンチのある展望台ですが土塁の高まりは有りません。「大沢ロマン…」を謳った整備ですので土塁が整地で壊されたとも思えないが。
禄庄城:輪郭北東面には塹壕か?土塁・空堀状窪地形が残る

山頂最高所の主郭を軸にして同心円状に北面から東面にかけては特に、 幾重にも山肌を囲む帯状の輪環状の曲輪からは3条程の竪掘も見るが、尾根筋に堀切は無く切岸も高くはないので・此れだけが防備施設では手薄だが!?大沢城の砦として ・篠山盆地の西口を足下に俯瞰し通行監視 の要素は大きく同心円状に曲輪を廻す輪郭式の構造は網掛城同様に天正6年(1578)杉本山城守与右衛門・石野久兵衛等は禄庄城に拠って 明智勢を迎え撃つが
禄庄城・同心円状に続く帯曲輪


所詮は多勢に無勢、降伏の勧告を受けた勘四郎は杉本氏・石野氏を使者に立て、戦いを解いて城を降りる事を指示して、自らは松尾山の高仙寺城に入った様で?、合戦・落城はなかったような様子だが城跡からは”焼き米”等が出て城は落城炎上した感もあるが、いずれにしても僅か20年余りで歴史を閉じた小城です。勘四郎は八上城に入り 落城後は光秀の軍門に降り天正10年(1582)山崎合戦に従軍し
禄庄城:東面に4段程の帯曲輪(最上部に主郭)

9月大津瀬田にて討死(享年僅か18歳)したと云われます。本城・大沢城に向っては直線的に南に延びる細い尾根となり堀切が無いのが不思議??ですが左右に一本の竪堀が走っているようです。居館から禄庄城へ、さらに大沢城へと二段式詰め城の構想も考えられます。


大沢城(奥谷山城)   奥谷山 422m  篠山市丹南町大沢奥谷
  火とぼし山城 火とぼし山  422m  篠山市丹南町大沢

禄庄城からの尾根続き・前方には大沢城の奥谷山・西側には火とぼし山から低く稜線を落とす北端に佐幾山城のある山並み、更に西奥には音羽山を経て白髪岳に向う稜線が大きな山容を見せている。
JR篠山口駅側の 大沢集落から禄庄城・大沢城を望む

大沢城は初田酒井党の支流で鎌倉時代:承久の乱(1221)の戦功により相模国(神奈川県)大住郡酒井郷の豪族酒井兵衛次郎政親が 地頭職を与えられて多紀の地に来住し一帯に勢力を張り 同族団を形成していったがJR古市駅一帯を領し油井城を本城とした油井酒井党が始まりと云われます。 子の矢代城主・孝信の支族・益氏の子:弥九郎が初田村に別居し其の孫酒井(初田)和泉守豊教が永禄年間(1558-70)
主郭東の段曲輪まで長い平坦地形が延びる

”酒井の庄”の一帯は初田酒井氏で初田館(JR篠山口南の牛ヶ瀬の東方)に居住し、奥谷山に大沢城を築城し八上城主・波多野秀治に属し 其の被官となっています。初田氏の大沢城や杉本氏の禄庄城・佐幾山城(城主不明との事ですが山城後の直・50m東下には 八幡社が祀られ杉本家一統の墓地もあり同族による砦城とは思わる)については初田館同様に築城時期や城史について資料未調査で不明点が多いが初田館は勘四郎館とも呼ばれ、初田和泉守豊教の子・勘四郎が酒井姓を名乗ります。
主郭帯曲輪北東端の竪土塁と竪堀

天正6年(1578)丹波攻めで八上城を落せない明智光秀軍は兵量攻めで八上城を包囲する一方、 周辺の支城を一つ一つ落としていく。西紀町にある宮田氏の板井城や内場(ないば)山城を落として 大山城を攻める寄せ手には明智光秀、織田信澄には 家臣に藤堂高虎が参加して先陣として活躍・細川藤孝と子の忠興(奥方は光秀の娘で後ガラシャ夫人)・丹羽長秀の軍勢が加わっています。
主郭部北の帯曲輪東端には溜水井戸の遺構!!

城主中澤孫十郎伯耆守重基【波多野七頭の一人・長澤治部太輔義遠とも 云われるが?】が拠る大山城には 高蔵寺の僧兵も加わるが、丹波では珍しい平城の大山城も堅城とはいえ大軍を前に破れ城主は自刃し落城します。 明智勢が此処へ攻めて来るのも時間の問題…と大沢城主酒井勘四郎氏武(幼名:菊夜叉丸)は大沢城(奥谷山城)家老・杉本与右衛門や杉本八左衛門・石野久兵衛は 禄庄城へと別れて待ち構えます。
主郭部北の帯曲輪東端には溜水井戸の遺構!!

此の時点で杉本氏の小さな砦(佐幾山城)の兵は撤退し禄庄城に籠もったのかも知れません。しかし所詮は多勢に無勢、勘四郎は部下に戦いを解いて城を降りる事を指示し合戦・落城は無かったようなイメージですが城址からは”焼き米”等が出て城は落城炎上した感もあり、 いずれにしても僅か20年余りで歴史を閉じた小城です。勘四郎自身は八上城に入り落城後は光秀の軍門に降り天正10年(1582)山崎の合戦に従軍し9月大津瀬田にて 討死(享年僅か18歳)したといわます。
大沢城主郭部からの連郭・左右下を帯曲輪が囲む

禄庄城から続く尾根を辿って大沢城の城域に入ってからは 南北に展望が拡がり、狭いながら東西に延びる尾根上に小曲輪群が並ぶ連郭式山城で南北を帯曲輪(北に二段の帯曲輪・南には犬走り状の幅狭いながら尾根上の段曲輪西端近くまで延びる)が囲みます。 主曲輪の北側帯曲輪の東端には天水受け溜める井戸跡と思われる顕著な円形窪地があり、井戸を庇い帯曲輪の端を断つ様に大土塁が遺る。 井戸曲輪確保?の土塁か?・ 東側には北斜面に落ちる竪堀に双対しており、竪土塁ともなっている。
主郭北面切岸と二段の帯曲輪

禄庄城同様に 大沢城にも尾根を断つ堀切は見られないが禄庄城側から城域に入る主郭東端からの長い平坦地形から主郭側への段曲輪切岸下には南東側に片堀切がある。尾根筋北側は浅く直ぐ急斜面となって堀切・竪堀となっているのかを見極めに自信はない。尾根筋曲輪端は南北共に激急斜面・西に向う馬の背状の尾根筋は露岩が目立つ比較的幅狭い土橋状。登山ルートとしては気持ちの良いアカマツの林でR176号沿い・JRみなみ矢代駅付近の 街道を見下ろす南側は急斜面で要害を呈しています。
大沢城主郭(手前虎口?・)最奥部は櫓台?

北下方に広い平坦地があって分岐表示に”大杉の広場”とあります。素人考えですが狭い詰城では居住空間や武者溜りとしても利用出来そうに思える。鞍部から南下すれば此の山域・音羽山への数少ない山レポートのHPを見ても此処へ登ってくる メインルートのJR南矢代駅に至ります。音羽山側へ登り返してしばらくで道標の立つ枝尾根分岐です。此処が火とぼし山(501m 火とぼし山城)の小ピークで佐幾山城からの枝尾根筋を南に辿ると八幡神社・禄庄城登城口を経て
主郭西尾根の小段曲輪(此処まで左右の帯曲輪が捲く)

枝尾根に乗るコースに合流し、其の尾根筋南端が大沢城から松尾山(高仙寺城)-白髪岳への主尾根に合流する地点です。 眼下南東にR176号線・JR南矢代駅・初田酒井氏の居館初田館跡(酒井勘四郎館)、油井から栗栖野方面へと酒井党の領地を望み、 篠山盆地や主城の八上城や多紀アルプス連山を眺望する。北山麓には味間から西脇市・山南町阿草へ抜ける旧(延喜式)山陰道が通じる。
火とぼし山山頂

道標の立つ山頂部は僅か6-7m四方の平坦地形ながら大沢城の見張台・狼煙台として酒井党の領内・八上城諸城への”知らせの城”としての任に当たった砦だったのかも!!?。なを佐幾山城の北・R176号から味間地区への入口丘陵上に 平井山城が在るが小屋床と呼ばれ「火ともし山」とも呼ばれる山で共に常番の見張り所だったのかも…。



佐幾山城佐幾山 250m 篠山市丹南町大沢三山佐幾山

JR篠山口駅からR176を西の山裾を通って味間南を通り県道36号(西脇・篠山線)へ抜けるバイパス道路工事で??尾根末端がバッサリ切断され、 赤い山肌を露出して数段の段差をみせる様子は中世 山城の風貌。以前から崩壊していた末端部の丘陵上には崩壊消滅しているが2〜3段の小さな削平地を残した
工事で消滅の佐幾山城(墓地・杉本稲荷社から望む)

佐幾山(さきやま)城があった。大沢城付の砦として機能した小さな城の遺構は中野地区〜南味間の道路拡張工事によって、 今その本郭部も含め完全に消滅してしまい”天空の城”となってしまいました。つまり展望台としてベンチとフェンスに囲まれた断崖の外(空中)側に嘗て小さな城があったが、今はハイキング道の案内標に示された城址名が空しさを増幅させるだけ。城三つの城を辿る「大沢ロマンの杜」の最終点は僅か高離4〜50mながら山上から篠山盆地を眺望できる環境は 八上城西口と山陰道の要衝監視の八上城砦群の一
佐幾山城は空中に消えて…下方に拡がる住宅街

な〜んにも遺構の残らない消えた空間とコンクリート台地が中世山城の想像を逞しくして戦国ロマンを語る会議卓を提供しているのかもしれない。「この先危険」のロープを前にして(今は展望台兼ねての手摺付きフェンス)東下へ急斜面を下ると杉本稲荷の祠前に降り立つ。隣には杉本家一統の墓地があり禄庄城共に杉本氏が城主だったのかも?。
工事で消滅の

奥谷川を挟んで伸びる二つの尾根に築かれた城は大沢城の支城と言うより 禄庄城の出城として機能したようですが佐幾山城の城主や城史は不明ながら、 初田酒井氏の家臣・杉本氏か同族の家臣が拠ったと思われ勘四郎が大沢城を開城し、禄庄城の杉本氏・石野氏も明智方に降りたのでしょう。杉本氏子孫は大沢の大庄屋を務めている。屋敷門を構える豪邸が其の後裔の家かは知らないが。 八上城の向城にする必要が無いほどの小城ですが、八上城落城後?篠山城への城下町移転後も、篠山盆地西の入口警備の見張番所として利用されたのかも知れません。


南矢代城(矢代城)
  北山!! 317m  篠山市丹南町南矢代奥村北山上

白髪岳〜松尾山から東へ延びる稜線は音羽山〜火とぼし山〜奥谷山大沢城へとのびて 禄庄城で其の尾根の末端を落とします(上記に山行レポートがあります)。JR南矢代駅の西北部、R176号線の南矢代と犬飼集落間の北側の丘陵上に送電線鉄塔が見えますが南側の鉄塔の直ぐ北側が城域です。京都街道のR372(デカンショ街道 )と武庫川を挟んで南方約 2kmには栗栖野酒井氏の 栗栖野城が対峙しています。初田酒井氏は地頭職酒井政親の子・矢代城主孝信の支族であり、孝信より6代後に益氏がいて、
南矢代城・南端の堀切

其の次男・弥九郎が初めて初田に居館を構え永禄年間(1558-70)には其の子(益氏の孫)和泉守豊教がいて酒井一族として波多野氏に属して其の子が最後の大沢城主・勘四郎氏武です。 酒井一族の惣領職を継いだ矢代酒井氏は一族の中心的活動を成し永亨3年(1431)頃から初田・福井・西川等の各氏に分かれる。宗家の矢代酒井氏は益氏・氏盛・貞氏: 秀氏・氏吉・氏治と続くが南矢代城の築城時期は不明ですが 酒井宗家の矢代酒井氏を益氏が引き継いだ文明年間(1469-70)頃と考えられています。
栗栖野城側の農道から南矢代城と大沢城(右端)

その後・三郎四郎氏吉は弘治3年 (1557)波多野孫四郎【丹波守護・細川高国の被官として頭角を現した八上城主・波多野孫四郎元清の事か?もし其れだったら孫四郎が70近い年齢の 時なのですが?!!】から感状を与えられています。この頃は三好長慶・松永久秀等の丹波地方攻略で 激しい戦いが続いており、この年・弘治3年(1557)八上城が落城しているので其れまでの戦功によるものでしょうか!!。又その弟・酒井右衛門兵衛が 波賀野城の城主になっています。 酒井一族は波多野氏に仕えて転戦し 氏吉の次の代・氏治(弥七郎主水介)は明智光秀の丹波攻略が始まった天正3年(1575)には籠城し天正6年(1578)波多野方の中澤孫十郎重基(長沢氏?)の護る 大山城救援に出兵するが傷を受け矢代城へ退き帰すが

南矢代城・城域中央東の虎口(手前右)

味間の地で没したと伝えられます。この時の寄せ手には明智光秀と織田信澄・細川忠興(奥方は光秀の娘で後ガラシャ夫人)・丹羽長秀の軍勢です。織田信澄の家臣・藤堂高虎も参戦していました。大山城から味間口までは約1.5km程だが、 いかに勇猛でも大軍の敵陣の中を大山下から切り抜けて逃れたとは思えません。大山城内にいたのなら篠山川を(川代渓谷沿いに)下流に向い、 途中川を渡って味間北へ出たのでしょう。矢代城に戻るのに街道筋は利用出来ないでしょうが山伝いには幾つかのコースが取れますが、
南矢代城・主郭(櫓台)下には石仏が一基祀られる(中央左)

傷は深手だったか覚悟の自刃だったのか!!?。此の城も登路が良く分からないうえ、集落内の道は狭く駐車位置も見つかりません。 幸いにも丘陵上には高圧送電線鉄塔が通り、 巡視路を墓地の横に見つけて辿る。この尾根道こそ音羽山から続く稜線の火とぼし山付近の尾根分岐を目指し、そのまま大沢城〜
禄庄城へと城廻り縦走が可能です。鉄塔から尾根に向わず水平道を取って山腹を捲きながら 稜線に出ると南端の堀切に着きます。2段目の曲輪の東中程(城域としても中央部)には斜上して此処に出る虎口が在り、さらに二段の余り高くない切岸を越えれば本郭部の櫓台状の上に出ます。
南矢代城・北端から主郭の切岸


小さな城の本郭の切岸側に一基の石仏が祀られていました。既に花を手向ける人はおろか、此処へ登ってくる人も居ないのでしょう(松茸シーズン以外は?!)。本郭から北への尾根に一本の堀切があり、後は登山としては快適な道が続き次の鉄塔に着くと、 音羽山や奥谷山への山並みや南下にはR176号に沿う矢代集落や田園の拡がる向こう(南方)には栗栖野城が見える。

(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会を 参照)
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