岩磐から辿る神奈備の山と城山 石像寺〜親不知〜荒木山(荒木城)〜室山
丹波市市島(五万図=福知山)
石像寺〜岩倉山〜コケズラシ〜親不知〜荒木山〜室山  2001年05月26日
寺内〜鉄塔尾根〜室山〜荒木峠〜荒木山〜荒木峠〜市ノ貝 2006年1月03日
近畿の山城新道貝城 荒木山城
石像寺の霧海の庭

石像寺(曹洞宗 本尊・釈迦牟尼仏)は磐座寺とも呼ばれます。斉明元年(665)開基されたが、天正期に明智光秀の「丹波攻め」で堂宇全てを焼失し現在の本堂は正保2年(1645)に円通寺(氷上町)の透関和尚により再建されたもの。 在郷の俳人西山(亮三)泊雲(酒造家・丹波の銘酒は有名)の師高浜虚子や親交のあった関東の画家 小川芋銭等文人・墨客が来山し 短冊や襖絵等の作品も数多く残っています。曹洞宗のこの寺の裏山中腹には 磐座(イワクラ)があり、これに発想を得て 本堂前には日本庭園史に特筆の「四神相応の庭」(青竜・白虎・朱雀・玄武)があり、山門横には句碑の庭「霧海」があり高浜虚子「丹波路も草紅葉して時雨して」 小川芋銭は「鹿鳴いて蘭若の秋の晴れに座す」の句碑があります。
旧R175号:竹田街道沿いに建つ西山酒造

小川芋銭が大正15年院展に発表した「丹波霧海」は篠山〜三田・母子間にある美濃坂峠からとのことですが、私は石象寺の庫裏の2階を画室としていた逗留していた芋銭が横峰山 (高谷山)や目前の景色を題材にイメージしたものと思っている。荒木山は京都側では神奈備山と呼ばれるが中世の丹波守護・仁木氏の居城でその遺構が残っています。



石像寺〜磐座〜岩倉山/コケズラシ/親不知/荒木山(荒木城址)/室山  H13.05.26

塩津峠を福知山市へ 越えるR175号線は八日市交差点からJR丹波竹田駅前・西山酒造前を通る旧街道筋からスポーツピア市島前を通る竹田バイパスが途中(今回下山してきた妙見宮)まで開通していた。スポーツピア市島からバイパス沿い約200m程 :寺山号となっている磐座の岩を望みながらで 石像寺へ通じる参道入口に向かう。 濃緑の山の中に目立つ白い岩だが 傍に立つと思ったほどの大岩ではなかったが、古代の岩信仰の神の御座として祀られた7-8mの切り立った岩の基にはお堂があり岩頭からの展望も中々良好です。
石像寺の四神相応の庭

名刹・曹洞宗の 石像寺の石庭東の青竜(徳島県の青石) 西の白虎(徳島県の白石) 南の朱雀(京都・鞍馬の赤石)北の玄武(市島町内の黒石)】を拝見して(AM9:00)本堂裏手から磐座(タカクラ)岩 (AM9:10)までは散策の小道が整備されています。その先・道は細くなるが明確な道は岩倉山(3等三角点 373m AM9:45)まで続く。やがて眼下に大杉ダムの蒼い水面が見えてくると、樹間越しに堂々として起立する 美しい親不知が聳えています。此処は松茸山なので延々とビニールテープ沿いですが注意して進まないと広い道はトンでもない方向に下っていきます。関電巡視路の分岐(AM9:55)に合流すると火の用心No130は大杉ダムに下っていきます。 No131に沿って鉄塔下に出ると展望良く送電線の先には五台山〜鷹取山〜愛宕の峰々を望む。コスゲラシ山(4等三角点 310m AM10:15)の三角点は見えなかったがポールが立ててある側の落葉を掻き分けるとその下に隠れた三角点が頭を覗かせました。山頂の少し先で広い山道が竹田町側に続いている。親不知の山頂を踏んでから 引返して荒木山へ向うつもりですが展望が利かない尾根筋から分岐点を偵察しながら辿ります。
R175号バイパスからの荒木山〜親不知(最奥)

467ピーク(AM10:45)を過ぎ次のピークが荒木山/室山分岐(AM10:55)でした。親不知へ近づくにつれ展望が開け京都側の鬼ヶ城〜烏ヶ岳と遠くに霞む 大江山の山並みや三岳山・龍ヶ城が見えてくる。親不知山頂 (3等三角点 605m AM11:20)には一片が大きく欠けた三角点を中央に池田市の ピークハンター堀内氏他、何枚かの山名札がかかっています。 以前に大原神社からのテレビ受信施設ケーブル敷設沿いの道を 辿ると山頂近くで朽ちた祠と石の手水鉢があったのだがどこだったか?探してみたが見当たらなかった。此処は福知山側から望む最も高く際立った峻峰で、 大阪泉南の四石山のように軍事上の都合で登山出来なかったり山名が伏せられたりしてる山も多く地元では、 いろいろな名前で通っているようです。
石像寺裏山の磐座岩と高谷山

市寺山・犬ヶ頭高や行者山 ・滝山の名もある親不知登山ルートとして京都側の榎原や穴裏峠下の豊富ダム(用水路)付近からを考えたことがあった。引返すが荒木山への尾根分岐はテープ等を注意していないと、つい左手に下るのでご用心。 私は往時を引返して室山(獄)への分岐に戻ってきた(AM11:50)。ベタベタ続くと表現したほうが良いほどのベルマークを辿って下りますが迷いやすい急な斜面に限って不思議と テープ類が途切れたり少ないですネ。下り始めてしばらくで権現堂?(堂周辺は露岩が散在し石積みの祠に木造りの扉のお社を挟むように 左右に石造りの小さな役行者像と刀剣のない不動尊像が建っています)へ出て市ノ貝峠?に出る(AM12:05)。
親不知山頂:黒い斑点は近くを飛び回る羽虫なのでムシしてください!

此処に古い道標があり竹田側からの道は親不知の方向を、福知山側からの道は荒木山方向を神奈備山の名で示していて、 この尾根筋から姿を現わす荒木山は形良く堂々と聳え立ち、山城としての風格?もある雄々しく凛々しい山容を見せているが、残念ながら樹間越し且つ近すぎてカメラに収まりきれません。山頂近くなって登り始めの小さな堀切を越えると 直ぐに二段ばかり曲輪を越して小さな主郭を取り囲む様な腰曲輪を越せば小広場の山頂に着きます。石積みは無いが曲輪角には土止らしい石列や低土塁らしい高まりが有り、尾根北方に向かって数段(3〜5段の小曲輪 が連続して堀切が有る。南北朝期から続く山城らしいが、此れ等遺構からは更に室町期(戦国)へ継がれた構築を偲ばせています。 丹波近在の山々で見かける緑の山名札は立木が無いので平地の中程に山名柱が建てられています。
荒木城主郭の南直下:親不知への尾根を絶つ堀切


展望のあまり良くない荒木山山頂(神奈備山:権現山 416m AM12:25)からは二方に派生する尾根にテープが有り下山を迷います。 一つは山頂表示標横から良く踏まれた山道を下るが、この先稜線に沿っての道が消え谷に下って細い道となる。福知山側の荒木神社へ下る道のようです。小道を峠へと登りなおすが途中で消えてしまい 向かいの尾根に向って急斜面を登り又急坂の下りや登りなおしで疲れ…1時間近く彷徨してしまいます。室山へは尾根が続かず大きく左へ迂回し、別尾根に乗り此処で赤テープに出会う。一旦この尾根を荒木山まで引き返します。(PM1:30)もう一つはテープの少ない下り尾根で、途中に竪堀跡の溝横を辿り深い堀切となっている峠へ 飛び降りると此処が荒木峠です。
荒木峠

神奈備山案内標のあった峠 ?から此処へ続く明瞭な山道が何処かで合流している様です。この道も福知山側から又は市島・市ノ貝から辿ればなかなか良いコースのようで(PM1:40)荒木山登山口の小さな白いプレートが遠慮がちに掛かっています。 正面の尾根に取り付き室山を 目指しますが地図を持ち現在位置を確認できないと難しいですよ。テープ類も殆ど無いうえに枝尾根道が多いが、送電線鉄塔を過ぎれば室山近くへ巡視路が続きますし、 福知山側からの林道が直ぐ眼下に見えるのも位置の確認にはなる。随分と回り込み遠回りした気がする室山へのコースもやっと終盤。辿り着いた室山山頂(点名:下竹田 2等3角点 313m PM2:20)も展望はありません。三角点側から白い木柱に書かれた「タケダ」を頼りに、せめて最後に下降途中からでも荒木山や親不知の姿をと思ったが此れも空振りです。
荒木城:主郭切岸と南から西面を捲く帯曲輪

おまけに周辺が騒がしくなったと思えば、 大粒の雨となってしまいました。林道の池の前に降立ちます。露岩の先に駐車スペースと小祠が祀って有ります。取り付き点は「火の用心No139」標識があり室山山頂まで明確な道が続いていますよ。林道は175号線丹波竹田駅の先で 竹田幼稚園(PM2:50)の前を通リます。新装成った(まだ妙見宮側から延長工事中)バイパス道路を辿って市島町総合運動公園「スポーツピア・市島」へ戻ります(PM3:20)。バイパス途中・市ノ貝集落への入り口付近からは 周回してきた山々がグルリと見渡せます。親不知を最高峰にコスゲラシ山・荒木山が望めます。低い山ですが今日一日随分歩いたものだと・・・雨で新緑が美しいナァと思っていたら又雨が降ってきた
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2 寺内〜鉄塔尾根〜室山〜荒木峠〜荒木山〜荒木峠〜市ノ貝H18年1月03日

上記1の逆コース且つ、 よく利用される水西集落からではなく・一つ東の寺内側から山裾沿いに送電線鉄塔の立つ稜線目指し室山山頂へ直登する。 倒木や土砂崩れで荒れるが山道は続き、水西側からの巡視路と合流すると僅か250m程の急登で室山 (点名:下竹田)山頂です。親不知からの導標だろうか?「タケダ」の白い標柱をコース中に見かける快適歩道が続きます。
市ノ貝から荒木峠へ向かう途中:谷を詰めると出現する抗口 H19.2.12

早朝から気紛れに振り続く雪は、少し強くなったり止んだりを繰り返しすが積もる程ではなく、粉を噴いたように落ち葉を少し白くする程度だったが、山頂付近になって数10cmの残雪を見る。此れより親不知への縦走コースに移るが 目的は途中の荒木山迄です。二つばかりの緩やかなピークからは樹間越しに鬼ヶ城〜烏ヶ岳・姫髪山・三岳山等京都丹波の山々や 福知山市街地を見下ろし、見近の荒木山も綺麗な富士型の姿を見せますが雑木が邪魔で写真を撮らせてはくれません。雪道の急斜面の鞍部へ下ると 市ノ貝側の小場に地蔵尊の立つ荒木峠です。
室山山頂 H18.01.03

【市ノ貝からの峠は二つあるので 室山〜荒木山間で 地蔵尊が立つ峠を荒木峠 ・荒木山〜親不知間の室集落へ越える峠を市ノ貝峠と呼ぶ事にします】切通しの峠は 深く急斜な堀切ともなり、此処から荒木山(荒木城)への搦め手道となります。荒木峠からの斜面を登り切った10m四方の平坦地が荒木山 (権現山)山頂だが、親不知への縦走路は此の曲輪横を通って降り、堀切を越えて緩やか尾根を下降気味に進みます。 荒木山山頂部は1.5m程の段差を越えた平地で 展望は望めませんが北面・福知山側への尾根上に小曲輪が数段並び堀切を経て、なを続く尾根上に遺構が有りそうです?。此処も積雪は15-20cm程で雪のベールで平坦な地形が判る程度。
鎌倉山清薗寺の「鎌倉総門」と石燈籠・大杉(町指定天然記念物)

どうも雑木と 下草が繁茂する薮山の遺構確認は難しいかも?…と云って雪が有っては堀切や低い段差の曲輪を写真で判別するのも厄介。再度・福知山市誌等で荒木山城を調べ、今度は福知山側を主に探訪する事を自分自身に約して山を引き返した。 現在では八日市交差点から直進するR175号線ですが、旧R175号線の走る旧竹田街道沿いには、石像寺の歌碑にみえる、 高浜虚子や関東の画家小川芋銭等文人・墨客と親交のあったが酒造家で在郷の俳人:西山(亮三)泊雲の酒造蔵 (当ページ上の画像添付)や、寺内交差点近くには清薗寺が有るので寄ってみます。
西山家の酒造蔵

街道に面して建つ山門【鎌倉総門】は余り例を見ない造りだと云われる六脚門で、茅葺の為損傷甚だしく元は「丹波の赤門」と呼ばれた朱塗りの門は江戸時代初期:寛永年間(1624-44)の建築と推定され、 名工:左甚五郎が彫刻したとも云われています。道路改修い伴い現在地に移されたといわれ平成4年11月 ・銅版葺きとして改修されていますが町指定の文化財です(市指定になったかは未確認)。山門から真直ぐ延びる参道の 石段を登ると仁王門の前には意匠も優れ均整のとれた端正・優美な石燈籠が立つ。南北朝期の貞和3年(正平2 1347)佐衛門尉平顕信 (あきのぶ)が奉納したもので、各所の格狭間・竿石の珠文帯・火袋石と蓮花座・金剛界種子等、細部手法に南北朝期の特徴がみられ、刻銘には「右志者為天下泰平 六道四生一切普利」とあり、六道思想が窺われ県指定文化財 (昭和38年8月24日)になっています。
室山山頂 H18.01.03


又薬師堂の直ぐ東側には 高さ30m有ったといわれますが此処55年間に三度・落雷に遭い高さ約23m・幹周り6m、樹齢推定500年の大杉(市島町指定天然記念物)が有り、落雷から御堂を守る御神木とされています。落雷により幹の内部が殆ど空洞で、 腐朽部の治療と雨水の入らないよう樹脂で治療したり枝打ち・間引き、肥料の投入等・・檀家や地域の人々により治療され見守られています。此処を訪れたほんとの理由は麻呂子親王の「鬼退治伝説の扁額」が有るというので 見たかったのですが何処に有るのかな?六脚門に左甚五郎作の伝承があるくらいなので、薬師堂に麻呂子親王開基の伝承が有っても不思議ではないですね。麻呂子親王と源頼光の大江山鬼退治伝説が混在して 伝えられているように・・・!!。


 新道貝(東)城  荒木山城

新道貝(東)城  市島町中竹田新道貝

舞鶴若狭自動車道「春日IC」を降り市島町へと竹田川沿いのR175号を北上。八日市交差点を直上して塩津峠に向かう竹田バイパスから 古墳や柿園の看板を見て、市ノ貝地区への分岐を南側へ右折して旧道・JR丹波竹田駅側へ向かう直ぐ左手の丘陵上一帯が新道貝(東)城です。
新道貝城北・墓地と田の間にある空掘状 (配・排水溝では無い!)

竹田川の河川段丘上の丘陵南末端部には墓地が有り 空堀状の溝が二段の圃場をL字状に囲こんでいる。 開発工事でスッかり辺りは一変し、新興の宅地と一帯に取り残された田畑の中の新道貝(東)城が、何処まで旧態の城遺構を留めているのかは不詳です。なを丹波志には場所定かでないが奥新道貝の古城・・・との記載があり、おなじ城址なのかは不詳だが、居城主:東氏の新道貝城【新道貝(東)城】としてレポートしておきます。新道貝集落内の南東側から墓地へ斜上する 広い道があるので 此処から城門跡を思わせる墓地側に登ってみます。
南北に長く延びる堀切と土塁線

道を挟んで墓地の北側にはバイパス道に接続するように田畑が広がるが、墓地の側には深さ2m程の逆L字状の空掘になっています。溝は排水・配水の灌漑用では無さそうです。墓地からは竹田川を挟んで友政城が望まれ友政城の支城として、 福知山方面から荒木城(荒木山)の峠越えで市ノ貝や塩津峠(R175号線)や竹田川沿いに六人部(むとべ)からの各街道が交差する。
北端で交差する横堀も東西に長く延びる(土塁も堀沿いに竪土塁状!!?)

此の要衝の地は黒井城にとっては重要な北の最前線基地として街道監視や警護を固めた城館があった。 天正年間(1573〜92)友政城の指揮下で機能した城と思われ「丹波志」に東氏の居城とされているのが此の城に比定されます。 帰農していた東氏が黒井城(友政城配下?)に仕え、家紋は「下り藤の丸」落城後再び帰農したという。墓地北側の田畑一枚一枚の広さや段差や溝からは、此処も城域ではなかったかと思わせる曲輪を並べていた様相です?。
南北の空掘線と土塁線は北端で横堀と交差する


今残る城域の遺構は墓地と田畑を分ける道の西側 1.5m程の高みを越えた雑木と竹薮が混じる一帯に有って、 先程バイパス道から下りてきた地区内の車道間に位置しています。 5m幅程の不整地な平地の先には南北4〜50mほぼ直線的な空掘りが走り南端部は広い平坦地に続く。 城域を東西に分けて南北に延びた空掘は其の北端をさらに分け、雑木に隠れ写真では分かりにくいが南北に走る横堀に繋がっている。
東西・南北の横堀が交差する北端にある土塁囲みの小曲輪

高さ1.5m・幅1.5〜2m程の 堀は侵入を遮断すると云うより、通路としての機能が優先している様です。側の最高所には果樹園か畑地だったか?独立した広い台状の主郭部と思える平坦地があります。一番広い西郭部は不整地も多く、 周辺の河川段丘に点在する古墳を数基包含しているようです。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書・市島町 氷上郡教育委員会を参照)


荒木城(荒木山城) 荒木山(神奈備山:権現山) 416m  丹波市市島町市ノ貝・福知山市堀字荒木

荒木山城は京都丹波・旧天田郡(福知山市)荒木の奥に位置しているが、兵庫丹波側の市島町市ノ貝からの 入山が訪城には登り易いようです。荒木山は兵庫側には熊野神社【正一位:熊埜権現】、京都府側に式内荒木神社が祀られ荒木の権現さんと呼ばれる平安時代からの霊地で、 背後の山を神奈備山としています。
荒木城主郭南

山中に真言宗の寺院が建立され、寺院を一時は山城として 補強・改修し、 山頂部に郭が造られと思われます。荒木山山頂にも南北朝期から中世にかけての山城遺構が残る荒木城跡があって、本丸跡は府県境となっています。山城が築かれた南北朝期〜中世・戦国時代〜そして近世も 丹波市と福知山市を結ぶ交通の要地でもあり今も往時の峠道を偲ばせる幅広い山道が通じます。峠の市の貝(丹波市)側に 地蔵尊が立てられているが深く高い切り通し道が堅固な堀切ともなっていて市島・市ノ貝側の搦手道を護っている様にみえます。20m程の土橋状や竪堀状もある様です。本ノ丸から福知山市側へは幾段もの曲輪を連ねた大手道で 周囲に堀切りや竪堀も有る。
荒木城:主郭北方の堀切


堀切上部の曲輪端には土塁を積んで 切岸を高く防備を堅固にしている事でも山城が南北朝期:丹波守護職にあった仁木義尹時代に居館(荒神山館・福知山市堀)を築き、権現山に詰めの山城が築かれて以後、堀切・竪堀・曲輪の切岸や 帯曲輪を廻す等遺構からも中世戦国時代まで使用されています。義尹が管領:細川頼之方に謀殺された伝承以降の城史についての詳細は未調査だが黒井城:赤井氏傘下に三村氏がいて、黒井城落城時まで在城していたとされ、 防備は北方(福知山市側)の尾根や谷に集中しているようなので、主に但馬山名氏の侵攻を意識していたのでしょう。 親不知側からの縦走路からは、 山頂近くなった登り始めに小さな堀切を越えると直ぐ二段ばかり曲輪を越え小さな主郭を囲む帯曲輪を越して小広場の山頂に着きます。
荒木城主郭:北側の曲輪から。

石積みは無く曲輪南面角に土止の石列や低土塁が有り、 少し内側に残石見るが権現山と呼ばれる山頂部なので、 愛宕か熊野の権現社が祀られていた 祠跡なのかもしれない!!。主郭は本ノ丸から尾根北方(福地山市側)に向かって数段(段差1.5〜2mで3〜5段の小曲輪が連続して堀切に出る。さらに小曲輪らしい段差を見るが自然地形に近い平坦地。堀切下方にも曲輪を見るが、いずれも削平は粗く・主尾根から外れた 比較的緩やかな広い平地は、城に籠もった城兵達の武者隠しか 駐屯場所として利用されたものか !!?此の平坦地から上方の主曲輪に向かう西面には竪堀が一本走っている。
荒木城主郭北の堀切側の土塁付き曲輪


荒木城は南北朝期の正平17年(貞治元年・1362)〜康暦2年(1380)頃まで仁木(兵部大輔)義尹【よしただ 丹波守護職:仁木頼章の子で、 頼夏の養子とも云われますが!)も貞治元年(1362)頃は丹波守護職に、応安元年(1368)頃は伊予国(四国)守護職を補任している】が荒神山の館を構え和久庄(福知山市)の地頭職:土豪の荒木一学尚恒(なおつね)を味方として 荒木山の山頂に城砦を築いていました。正平17年 (貞治元年・1362)幕府方と山陰地方を支配した山名左衛門佐時氏は、子の師義と其の臣で小林民部丞が 京都に攻め上がる際・和久郷に侵入して来た。幕府方は義尹を救援するため若狭守護:尾張心勝・遠江守護:今川貞世・三河守護 :大島遠江守を派遣し丹波の諸豪も加勢に加わった。山名氏方の小林民部丞は 700騎余りの手勢で対抗したが、兵糧が尽きて本国の伯耆国へ引き上げたという。
荒木城主郭部北側の堀切

永和4年(1378)頃、管領:細川頼之の被官:内藤備前守と波多野五郎重康の軍勢が天田郡の仁木義尹を攻撃してきた。荻野朝忠【文和元年 1352義尹から山名時氏に丹波守護が代わった時に 守護代を勤めていた】と赤井氏一族は義尹に加勢し荒木山に拠り細川軍と戦ったが義尹は細川方の謀略に掛かって城の北麓の寺へと誘い出されて 風呂の中で刺殺され遺骸は池に沈められたという (風呂ヶ谷と呼ばれるところ!?)。荻野朝忠は淵に沈められた義尹の死骸を引き上げて近くに弔い、菩提樹を植えて墓印にしたと伝えられ京都側・荒木と兵庫側・市ノ貝には これにまつわる伝承がある(未調査)。
荒木城:本ノ丸南東角の低土塁と祠跡の石材?


永禄元年(1558)八木城主 :内藤貞勝方の城主荒木一学尚雅を丹波の赤鬼と呼ばれた 黒井城主赤井悪右衛門直政が、曽我部・庵我(福知山市)の戦い以前に攻め滅ぼしています。天正7年(1579)荒木城の侍大将 :三村三右衛門の子・助左衛門は黒井城落城の時、母親と共に黒井城を出て下竹田へ逃れ一年を過ごしたという。前木戸城主で帰農していた 高橋氏によって庇護を受けていたと推定されます。福知山側の荒木神社については、寛文9年(1669)福知山藩の寺社奉行・中目権兵衛盛治が朽木種昌に従い関東の土浦から赴任した際、古事を調べて再興しています。
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