此処にも丹波鬼がいた!  旧篠山歩兵第70連隊の演習山 盃山と周辺の山城巡り
市(五万図=篠山)
そのT2001年09月08日 浜谷水辺の森・春日社〜盃山(盃ヶ嶽497m)
そのU2004年04月25日
遊谷城〜盃ヶ岳(盃山城)〜矢代城〜大野城
校歌の山 岡野小学校 ♪盃山の朝風に 平和な虹の たつところ…♪
近畿の山城: 盃山城今福城 遊谷城 藤井居館 矢代城  大野城
丹波のお話 伊勢三郎の宝筐印塔

盃山(盃ヶ嶽)山頂「ユニトピアささやま」への分岐

盃山の展望台から、静かで平穏な様子の篠山盆地の拡がりを眺めていると、 嘗て此処が軍都として又そのシンボルとして歩兵第70連隊の兵舎と練兵場が山裾に拡がり、 入隊した兵士たちが厳しい訓練に明け暮れていた事などは夢のまた夢・想像も出来ません。
篠山歩兵第七十聯隊跡の碑が建つ

日露戦争後の軍備拡張計画・明治40年(1907)の中で翌明治41年には篠山歩兵第70連隊が編成され、此処・篠山に新設された兵舎に移駐されて以来、兵士達は勇猛果敢な事で有名だったといわれます。 その後、昭和15年(1940)歩兵第百六十八連隊(中部第六十八部隊)となり、更に昭和19年中部第百十部隊が編成されました。日中〜太平洋戦々へと終戦までの約40年間、兵舎の背後に聳える盃山(盃ヶ嶽)へは、朝駆けや多紀連山を舞台としての山岳訓練により「丹波の鬼」 として勇名を轟かせたといいます。(しかし私の母等からは…「また負けたかxxx連隊」とよく聞かされましたが…。
矢代城国松館西砦より池を挟んで対峙する大野城 を望む

篠山産業高校・職安篠山出張所XXXX篠山工場が立ち並ぶ辺りは兵舎跡で戦時期に派兵された将兵を見送り、多くが戦死した暗く 悲惨な歴史 を語り継ぐかのように古びた赤いレンガ積みの営門や、 記念碑・旧兵舎の一部と思われる建物も見えます。車道を隔てて篠山産高の農場・スポーツセンタや新丹波荘のある場所が練兵場です。 その南方に高台が権現山で渋谷氏の城址です。盃山は其の渋谷氏の出城か砦跡か、山の名が示す通り見張の狼煙台が有ったところかも知れません。山頂からハイキングコースが延びている、 松○電気産業労組の結成記念事業として昭和48年 (1973)に開設された休暇村ですが 一般公開されている「ユニトピアささやま」(篠山市矢代)はユニオン(労働組合)が目指すユートピア(理想郷)から名付けられたユニトピアとは裏腹に、この辺り一帯は篠山歩兵連隊の実弾射撃場の跡地です。

国松館西砦曲輪の高い切岸

今は一部の旧兵舎を残し、学校や工場等に姿を変えてしまい往時の様子は窺い知れません。 営門前の広い地域は前方の小山まで当時の練兵場跡で、背後の盃ヶ岳とともに厳しい訓練の場でした。そして此の営門の残る位置には何時も歩哨が立っていたところです。
(現地篠山五十三次 案内板 参照)
  

そのT第70歩兵連隊・涙の朝駆け訓練の山!! 盃山(盃ヶ嶽)  H13. 09.08

「山の小箱」のみーとさんに丹波の山を案内です。第一座に弘浪山を登り第二座は 白山ですが、少し時間に余裕があるので帰りの駄賃にもう一座、軽い山を紹介します。以前に御一緒した丹波の山・入門編!!??の西光寺山高城山(八上城) は勿論白髪〜松尾鋸岳〜三尾山 .多紀アルプス、大野山。盃山は小山ながら展望抜群で、しかも往復一時間余りですから、 前々から機会があれば紹介したい推薦の山でした。みーとさんとは明日も山のお付き合い予定ですが天候芳しくなく、中止濃厚となってきましたので疲れているが折角です。
展望東屋から多紀アルプスの三山


明日は休みのつもりのもう一座。 お誂え向きの山なのです。 職安横・東浜谷交差点から山に向って一直線。左手は旧篠山歩兵70連隊の兵舎が立ち並んでいたところです。浜谷水辺の森の盃ヶ岳を含む周辺案内板が有ります。周辺に駐車の車は、この浜谷池での釣りを楽しむ人ばかり。こんな時間に山へ向うのは私達だけです(PM3:20)。 春日社(応永16年<1409>創建)の鳥居をくぐり、狛犬のいる奥の石段を抜けて山道に入ります。道は荒れてはいますが明確な良く踏まれたコースです。ただ両サイドからの雑木で歩き辛い部分もある。 傾斜も急になってくるが 此処は岩場混じりの稜上に出ます。
展望東屋から南面を望む:浜谷池と遊谷城(中央に貯水槽の有る丘陵)

踏み跡伝いよりは歩きやすくて第一展望が良いですからね。振り返れば浜谷池の先に篠山盆地が拡がってきます。八上山弥十郎ヶ岳・白髪山〜松尾山、そして多紀アルプスの三座(西ヶ岳・三岳・小金ヶ岳)が見え始めると 僅かの時間で東屋の展望所に着きます(PM3:35)。此処で引き返しても良いんですがね。…もう行程の半分は来ています。後少しで丹波の山三座達成です。まだまだ暑いが汗を拭って頑張るみ〜とさんです。 雑木の尾根を抜けると登ってきた春日社と「ユニトピアささやま」へ向うハイキング道の案内標識が有ります。此処が盃山(497m 盃ヶ嶽 PM3:55〜4:10)山頂で、北の丹波・氷上側には 鋸岳のギザギザ稜線が黒く横たわり、三尾・夏栗や金山が 「此処に居るよ」と頭を出しているが 鋸や多紀連山にお株を奪われ目立ちませんね。木のテーブルと椅子の休憩所と、何かが?祀ってある小さな社があります。 遅くなると国道の渋滞が心配な時間になってきましたので、ゆっくりしたいが仕方ないので帰りを促します。
浜谷水辺の森にて・ツリフネソウ

帰りついた春日社の駐車した側でツリフネソウを発見。釣り客はバスを釣揚げ記念写真中。 私たちはソッと可憐な花にカメラを向けます。みーとさんの丹波の山入門編第二弾は満足の行くものだったでしょうか。本日雨の確立50%近い予想の中での山行きでした。早朝の出発で六甲〜三田 〜篠山過ぎる頃までフロントガラスは雨粒が…しかし登山開始から三座終了まで雨どころか良い天気でした。台風の影響ですがこの調子だと明日も山行き出来るかも…と思ってしまいます。 盃山からの尾根ルートを確認したので今度は法連坊山〜南谷山へ「ユニトピアささやま」を軸に周回したいのですが、昨年の「山を駆ける風・・」織田さんのレポートを思い出して一寸思案してしまいます。


そのU盃ヶ岳南麓城巡り今福城・遊谷城〜盃山城 〜ユニトピア分岐〜矢代城〜大野城 H14.04.25

先週笛吹山城から大期山へ小縦走したところですが、幾つもの城跡を素通りしてきた事に気付き、そのうち幾つかの城を廻るべく・先ずは篠山盆地の一大展望地で特に八上城から西の方面を殆ど全て見通せる、 山名に烽山とも呼ばれた盃ヶ岳へ向って見ました。盃ヶ岳(のろし山)はズバリ見張所・烽火場のあった砦。 盃ヶ岳の登山口・春日神社へ向う東浜谷を挟んで西側一帯は旧篠山歩兵第70連隊の練兵場跡、
配水施設で遊谷城の壊滅した北郭部から望む盃ヶ嶽

向かい東側には北方に位置する盃ヶ岳に向って低い山並みが続く峰の南端丘陵部に遊谷城がありました。盃山城の里城(居城)と思える今福城が盃山団地の側にあるので寄ってみます。篠山産業高校裏・西浜谷集落からは西の県道140号沿い住宅地を挟み込むように延びた二本の丘陵の南端に 大野城・今福城が望まれ、直ぐ東の歩兵第 70連隊練兵場跡の向こうに連なる丘に遊谷城が見えています。
矢代城西尾根上の連郭

白く巨大なタンクの様に見える篠山市前山配水場施設が丘上に有ります。遊谷城の北郭が有った所は専用林道と、 広い舗装された何も無い白い平地と円形の立入り禁止の施設が建ちます。篠山市の山城でも籾井城吹城八百里城 ・この後で向った矢代城等は遺構の保存状態が比較的良いが、史跡の保護保存と開発の選択や方法には、様々な難しい問題が伴うのでしょうが史実に残らない史跡はその価値も認められず、人知れず忘れ去られ壊滅の危機に憂いもないのかと!!…
練兵場跡東の丘陵にある遊谷城

人の戒名のように調査報告書だけが残されても…!!道路拡張・宅地開発 ・近代施設の明るく冷たいコンクリートの下に埋もれ消滅した。 過去の遺物は異物でしかないのかと空虚な思いで、東浜谷集落へ下り盃ヶ岳へ向います。登山口の春日神社〜盃ヶ岳から 「ユニトピアささやま」への山道は、荒れてはいるが案内標識完備のハイキング道なので山行レポートは省略します。みーとさんの丹波の山入門編第2弾は満足の行くものだったでしょうか?。本日雨の確立50%近い予想の中での山行きでした。 早朝の出発で六甲〜三田〜篠山過ぎる頃までフロントガラスは雨粒が…
今福城(手前中央)に迫る団地と西に迫り出した丘陵には大野城が

しかし登山開始から三座終了まで雨どころか良い天気でした。台風の影響ですがこの調子だと明日も山行き出来るかも…と思ってしまいます。盃山からの尾根ルートを確認したので今度は法連坊山〜南谷山へ「ユニトピアささやま」を軸に周回したいのですが、昨年の「山を駆ける風…」織田さんのレポートを思い出して 一寸思案してしまいます。途中から西南へ延びる枝尾根をトレースして356mピークの矢代城を訪城して篠竹の密集する藪の急斜面を下って矢代城の出城か・・
大野城:大栄神社背後の曲輪切岸・尾根筋に向い2〜3段の曲輪・帯曲輪

…城主の居館らしい神社側へ降り立ち 「ユニトピアささやま」の駐車場に出てきます。さらに・この車道を南へ戻りながら大栄神社に入り、 その背後の丘を探ります。尾根の東西を2〜3段の帯曲輪が取り巻く大野城は各・曲輪の段差や削平は明確ですが一箇所見つけた土塁以外防備らしい施設を見ないので、
矢代城主郭南面の畝状竪堀

八上城をなかなか落せない織田方(明智光秀軍)が、 先に周辺の波多野勢の支城を攻めたが盃山城矢代城を攻める織田方の向城として、大栄神社〜春日神社・二つの神社を結ぶ200m程の丘陵上 ・古墳の墳丘を利用して築いたものでしょう。春日神社の鳥居を出た所が車をデポして今福城〜遊谷城〜盃山城…と廻った今日のSTART地点です。



盃山城
今福城 遊谷城 藤井居館 矢代城大野城

盃山城(盃嶽砦)
  盃ヶ岳・烽(のろし)山 497m  篠山市東浜谷字盃山

歩兵第70連隊の旧練兵場の西方 ・今福には畑氏の今福城があり盃山城は其の詰め城となっていたのでしょうか。天正年間(1573-92)の初年、 八上城西部の防衛拠点として、特に斥候連絡等の任務にあたり、 そのため此の山は狼煙山とも呼ばれてます。 畑伊織が八上城との連絡に烽火役を務めたともいわれるのですが…!!?今福・畑郷に勢力を持つ畑氏の別派:野尻畑氏の掃門・豊後・伊織等が拠った城とされますが遺構は全壊し、 連郭式6っの曲輪跡らしいものが認められるだけという。
盃ヶ岳山頂・本郭西面

畑氏は此処を詰め城とし平常の拠点は南山麓(多紀教育会館と盃山団地背後の低丘陵)にある今福城(今福堡 )にあったともされます。 盃ヶ岳の南正面1km地点には、西岡屋の高地にある権現山(飛の山・富の山)があり、 戦国時代末の渋谷氏秀の飛ノ山城(今は篠山市の上水道の貯水池施設が本郭部の曲輪跡に建つ)が有ったところ。
盃山城西・北面の帯曲輪


そう遠くない位置にあって共に篠山盆地を眺望出来る展望地です。 渋谷氏が畑氏より勢力で優位にあれば盃山城は波多野氏の被官 ・渋谷氏の出城(砦)だったともとも思えます。畑氏の詰城ともいわれるが詳細は不明ですが、八上城西方の監視と守りとして波多野氏配下の城砦として、県道140号を挟んで共に呼応して篠山川北方の街道筋を守備していたのでしょう。 山名に烽(のろし)山の名が有り、 篠山盆地を眼下に一望出来る眺望極めて良い位置に有って見張り所として物見櫓が建ち、烽火台もあった城塞群の一つです。
盃山城南面の帯曲輪?

篠山川を境にして 八上城の西北部を護り固める八百里城・沢田城・飛の山城・遊谷城・矢代城 ・板井城等々多くの支城の一つですが、主城・八上城からの指示を送受して全支城に伝えられる絶好の位置は、 その旗城としても重要な拠点であった事が推測されます。比高約260mの急斜な山の山頂部にある本郭部は東面と北面を高い切岸で護られています。この北面切岸を降って続く山道は矢代川(谷間の中程に 「ユニトピアささやま」があります)を囲むように法蓮坊山〜南谷山への 縦走コースが取れるのですが此処は山城案内ですので、いつか又トレースした時にレポートします。
盃山城・西の城域外にある竪堀


西に続く細く緩やかな200m程の尾根上には、幅10m程の段差のハッキリしない削平地が続くが、中程から南面に2〜3幅の狭い曲輪が付随する。 西端付近には北面の藪の中に幅のある帯曲輪が西の斜面を下るハイキング道【エコロジカル登山道(「ユニトピアささやま」迄約1.2km)】が延びています。土塁と思われる盛土状もなく、 道なりに下っていくと小鞍部の南面に向う谷に竪堀が一本走っているのが分かった。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 参考)


今福城(今福堡)   向井山 240m    篠山市今福字向井山

県道140号線で 「ユニトピアささやま」分岐の看板を左に見送って東に進みます。この分岐側にある春日神社の裏の森一帯が大野城で、 今日の城廻りの最後は此処に戻って来ます。
今福城:主郭南端の土塁虎口

さて「ユニトピアささやま」分岐を過ぎると直ぐ大野バス停、 そして今福です。 車道の北に「多紀教育会館」があり周辺は盃山団地です。盃山から南へ延び出す低丘陵尾根の末端部に位置して、 盃山団地最西南部の住宅地の裏庭に迫る尾根先に今福城がある…というより、
主郭部北端低土塁と堀切から続く帯曲輪

主郭虎口の土塁付曲輪を南から西に空掘(横堀)が廻っているが、 横掘を挟んだ南側の小曲輪からは 末端部は大きく切り崩されて、 崖となっていますが近接して、周囲には住宅地や多紀教育会館が建てられて、県道140号線との間には数段の曲輪状の段差を持つ丘陵上に在る。
主郭北西の帯曲輪・末端(手前)は井戸?

主郭部南側が崖となっている部分にも曲輪が続き、 城域の西面から県道側(南面)へ流れる細い溝谷を取り込んだ教育会館の建つ台地までが城域ではなかったかと、 周囲に残る地形から読み取れます・・。
今福城 :主郭南端虎口からの土塁と空掘

教育会館前の曲輪風の段差は、此処や一段上の住宅地、そして崖が迫りますがその上に広い削平地が区画されて拡がりを見せています。 南面は宅地開発等で壊滅し全容は計り知れませんが、城域の状態を丹南町 (R176号線の大山下交差点西北)にある平城の大山城の曲輪と思い重ねています。規模こそ違いますがよく似た縄張りの状況です。
主郭南西からの土塁と空掘

大山城は河川段丘の切り立つ川岸にあり、此方は丘城で深い堀切や横堀と高い土塁で周囲を堅められていますが、 何れの曲輪も広く丁寧に削平され居住性を備えています。
北の切通し(大堀切?)道から

天文年間(1532-55)末頃、今福・畑郷周辺を勢力下に持ち、 此の今福城を居館とした城主・畑氏が、 先の盃山城を今福城の詰め城にしたと推察されているようです。 …!!何代目かの城主!!?畑豊後守頼元(頼景!!)が拠っていたが天文24年(1555)9月に没しています。
主郭の東下段の広い曲輪は屋敷跡か?

畑氏は頼景の後:駿河守頼信〜右兵衛尉満信と続いて「丹波八上城攻め」の明智光秀軍により、天正6年(1578)頃には 八上城周辺の城攻めに、 矢代城・遊谷城等と共に落とされ畑氏も衰えたという。

「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー 」(八上城研究改編参考)


遊谷城と藤井居館(浜谷古邸)
遊谷城
   篠山市東浜谷
藤井居館(浜谷館)
 篠山市西浜谷

県道140号線の 「ユニトピアささやま」分岐交差点側にある大野城の側を抜けて低丘陵南端にある 今福城を背に建つ多紀教育会館前を過ぎると、 篠山産業高校の校舎が見えてきます。県道140号線は400m程で篠山 ハローワークや、歩兵第70連隊練兵場跡を経て、篠山市街地と雲部車塚方面への郡家交差点の五叉路に入ります。 其の10数m手前を左折して山手へ真直ぐ延びる道が盃山の登山口 ・春日神社へ向います。
藤井居館と南面から西方を囲む堀跡!

車道の左手は嘗ての練兵場跡地ですが、右手には盃山から東南へと長く延び出した低丘陵の末端が迫ります。 盃山山頂には波多野の家臣畑伊織が拠った 盃山城が在り 八上城との烽火通信の城だったとされていますが、此の盃山城からの尾根続きには西南尾根上に 矢代城・大野城・今福城低い山並みを連ねる東南尾根上には末端部に遊谷城と藤井居館が有りました。

遊谷城南郭中央東・曲輪の側から切出される竪堀


周辺の城では前回・登城口が判らず 未訪だった遊谷城の取付に有る工場目前の藤井居館(浜谷古邸 )へ寄るだけの心算なので、交差点手前に 「伊勢三郎供養塔」導標が立てられていますので、此処から篠山産業高校正門!前〜西浜谷集落に向かいます。 今年(2005年)のNHK大河ドラマは”義経”です。其れにあやかる心算は毛頭無いが 笛吹山でも義経伝説を挙げています。
遊谷城南郭:主郭から西面の帯曲輪

義経が大軍で平氏を破った播磨・三草山合戦の話より”鵯越”の話に始終するように通りすがりの丹波路は ”義経道”の名が残る今田付近や北神戸付近の事等の挿話がドラマに出てくる事は先ず無いでしょうね。 そんな中ですが (^^ゞ…何故か此処にも源義経の四天王・伊勢三郎が登場してきます。
遊谷城南郭:主郭北側の連郭


義経軍最強の剣豪・忍者・鈴鹿の盗賊で熊坂長範の徒党等々、小説での活躍が面白い人物です。集落北部の毘沙門堂からさらに100m程奥の台地に建つ宝篋印塔が 伊勢三郎義盛の供養塔と伝えられ篠山市の指定文化財になっています。此処は、もと湧泉(遊仙)山福応寺の跡といわれ、 東浜谷に所在にある遊谷城の名の由来が湧泉(遊谷=遊仙)に有るのかなと思われます??
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡(篠山五十三次 篠山市のHP参照)
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遊谷城    xxxx 270m   篠山市東浜谷

多紀アルプス・西ヶ嶽から岩谷山を経て矢代城に末端を落とす尾根筋は、盃ヶ嶽(盃山城)の手前・北東から 東浜谷の沿って南へ張出してきます。標高300m・比高60〜80m足らずの緩やかな低丘陵が東浜谷集落から 熊谷集落に抜ける鞍部で途切れたかと思えるが、遊谷城は此処から更に延び出す500m程の尾根上のほぼ全域を城域にしています。南曲輪群を主郭として配水施設の建つ北郭との中程にも 2〜3の曲輪を持つ小さな円状高台部が有る。
南郭の土塁道

細い尾根で繋がった三箇所に遺構を残す結構大規模な山城遊谷(ゆうこく)城が在りました。個々には小さな曲輪を重ねているだけの様ですが、 曲輪の狭間を抜け上がる虎口・帯曲輪・竪堀群等には、一在地土豪に此れ程の規模や遺構を残せる 勢力が有ったのかと驚きですが、城主や城史は不明です。なお山裾に藤井居館がある事で城主を藤井氏と推定されていますが、近在土豪の浜谷氏・郡家氏・熊谷氏等が使用したとも考えれています。
南郭・本丸付近の高土塁!!

そういえば東浜谷への分岐 (県道140号から篠山市街地と城北へ向かう301号)交差点が郡家で、藤井居館にほど近い民家にも「郡家」姓がありました。先週は未訪に終わった 熊谷城も遊谷城からは東へ約1km地点です。以前は”藤井居館”の有る尾根末端から登ったが、低山とはいえ薮蚊の襲撃を受ける竹薮からは暑い時期には多少キツイので北の鞍部付近から取付き、 先ずは巨大タンクの見える篠山市前山配水場施設を目指します。
主郭帯曲輪から本ノ丸切岸

小さな石仏を見て尾根上の自然地形の平坦地に出る。1.5m程の木の階段を上って前山配水場の広場に着く。 此処が北郭部ですが残念ながら配水場施設の為遺構は壊滅しています。しかし山麓の民家傍から比高僅か5〜60mで得られる此の展望はどうだろう。南端から2〜3段下がって更に延びる細い尾根筋には、西面の藪の斜面に一本の竪堀を見て… 配水施設側の丘陵頂部も城域だったと感じる程度でしょうか!!。平坦な尾根筋は直ぐに低い段差の 2段曲輪のある円形の中郭部は円墳のマウンドに立っているようです。
主郭最高所の穴状曲輪!


特に見るべき遺構には気付かず、 短く浅い堀切(尾根筋を遮断するほど深く掘り切られた溝ではなく、尾根筋が土橋状に片側に細く付く片堀切?)から急斜面を削平した三段の曲輪を越えて主要郭部の南郭曲輪群 に入ります。 切岸も高くて先にある遺構の確かさにも興味は増大します。切岸を越えると丘陵部の最高地点となる位置に主郭を置く遊谷城の帯曲輪に出て、約1.5mの段差で本ノ丸に着いてみると奇妙な遺構を見る。 幅10mにも満たない尾根上は大部分を池状の穴となり其の円状の周囲に高さ1m程の土塁を廻した極少曲輪です。 主郭に半地下式の貯蔵倉が有るとも思えず、二層式の矢倉跡なら機能的ですが石積み補強も無い不安定さが気になります。
遊谷城南端の帯曲輪と南西角の空堀状間へ堀底道が到達する

穴は南北に欠けており、此の炭焼き窯状の曲輪と外側を捲く帯曲輪への出入り口ともなっている様ですが?、素人の悲しさ/ 遺構の道理が解らず推察してみるだけです。 なを同様の穴状で少し大きいのが、此の南郭部南端の堀切道状の横にも有って、城域南側最初の虎口部を挟む形の曲輪にあって”武者隠し”の様にも思えました。 主郭に塹壕(たこつぼ)があるのかな…?丹波市・篠山市の多くの山城にも余り見かけない遺構に戸惑います。尾根左右に密生した下草や雑木藪の為に何条か存在する竪堀の確認は儘ならないが、 細い尾根に沿って段差毎に現れる大小の曲輪と帯曲輪群・曲輪を結ぶ土橋・ 土塁と息つく暇なしに現れる遺構に感激です。長い帯曲輪を南端部に出ると 小曲輪から竪堀状の堀底道から此の帯曲輪へ到達する虎口の様な登城路が有り、 此処にも曲輪の一画を掘り下げた空掘状の溝遺構があって上部の曲輪を隔てています。
遊谷城南郭部北端の堀切

尾根筋に正対し城域南端部に位置して、虚を突き一斉に攻撃をかける”武者隠し”ではないだろうか!小さいながらも曲輪群等は良く遺構が残されています。 此れほどの規模の山城が、旧歩兵第70連隊練兵場跡直ぐ近くにあり、宅地等の開発からも遁れて人知れず!!?存在した事に感謝ですが、この後で訪れた矢代城についても同様で、 資料としての報告書だけを残して消滅する事がない様に遺構保存と、より密な調査や史跡保存を考慮して欲しいものです。
「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、 遺跡郡に関する総合研究ー」(八上城研究改編 参考)
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藤井居館(浜谷古邸・浜谷館・浜谷城)xxx 230m 篠山市西浜谷

篠山歩兵第70連隊練兵場跡から東浜谷の、盃ヶ岳登山口の春日神社・浜谷池に向う車道脇の田圃側まで延び出してきた丘陵末端に、 半円形の鬱蒼とした森があり東の山側に赤い鳥居が見えます。稲荷社らしいが此方は某会社の敷地内に有り、
藤井館:土塁虎口から高土塁囲みの主郭に入る


休日の為フエンス内に入って行けず未確認のまま…また延び出してきた丘陵の 尾根筋を辿ると僅か100数m・比高30m程で竹薮を抜け尾根の出た途端遊谷城の遺構に出会えます。田圃の端の倉庫裏手から 入って 行けそうに思えたのですが私有地の様で、そのうえ藤井居館の所在は西浜谷となっているので、場所違いだとの思い込みで前回は諦めたが 他に居館跡と思(おぼ)しき場所は此処しか無さそうです(^^ゞ。

藤井館登城口の曲輪から主郭虎口へ(正面は帯曲輪・空掘へ)


早速・取付きを探して嘗ては水濠が廻っていたと思える田圃の縁に沿って 西側から北方へ廻ってみた。西谷館同様に小川が濠状に城域を囲んでいます。小川を飛び越え北側から城域の小山の鞍部に向かって簡単に入って行かれる…といっても足元も見えない下草と藪を 掻き分けて突っ切りますが、此処は空掘・行く手に 4〜6mの高い切岸が廻っているのが目に入ります。
藤井館の主郭を囲む帯曲輪からの高い切岸(4〜6m)

探してもよく分からなかった藤井居館(浜谷城)は 遊谷城の有る丘陵の南西端に位置した此の小山に有りました。ほその外側を:西面は先程の水掘・北から東面の遊谷城へ続く丘陵側を遮断する様に、ほぼ60m四方が城域で高い切岸を持つ主郭部の北側には帯曲輪が周り、 南側の工場へと空掘りが周る縄張りです。 工場と田圃の間から此処へ入ってくる道が有りました。

藤井居館:高い切岸の上に高土塁を廻す主郭内部

道は”くの字”に曲がって深い溝状を通って東南角から主曲輪に着きます。横矢が掛けられる虎口となり、 東西18mX南北17m・方形の平坦地が主曲輪で、西南端からも斜上して曲輪に入る道が有るようです。高い切岸が周りを堅め、石碑の建つ北側背後には切岸の上に更に1〜2.5m程の高土塁をコの字に積み上げています。肝心の石碑の文字は読み取れなかったが、名号碑の中央下に藤井浄向信士 ・其の両側にも同族か家臣の者と思われる数名の法名が記されています。
藤井館:帯曲輪沿いの空掘

願主:藤井氏により小さな祠:三白稲荷社が祀られていました。 三白稲荷は此処より南方約1km・飛ノ山城のある 独立丘陵の一角・諏訪神社の背山に「負け嫌い稲荷」飛の山三四郎を祀る三白稲荷社が在り、 何か特別な関連がある野かも知れません…ネ?。南北に並ぶ飛の山城・遊谷城・盃山城の三城か!東西に熊谷城・遊谷城・今福城三城の守護神なのか?。
藤井館:帯曲輪の下に空掘が廻る

郡家周辺を領した土豪 藤井右(?左)近正次の居館とされおり、 八上波多野氏の傘下に入っていた様ですが、天正6年(1578)頃には矢代城等・周辺の城と共に落とされたようです。藤井居館が遊谷城の直ぐ側に有るので 、藤井氏が遊谷城の城主で有り此処を”詰め城”にしたと考えられるが波多野氏の有力家臣としてはノーマーク ?土の城とはいえ比較的大規模な城が築ける勢力だったかどうかは不明?。遊谷城主として近在の土豪・数氏の名が出てきても不思議では無いですね…!。
藤井館西面の濠跡

八上落城後・八上から篠山に城下が移された頃には、 正次の子?八右衛門は藩命のよって、反対に奥谷(旧八上城の西山麓にある殿町付近?)に庄屋として移り住んだといわれます。また一方では藤井正次の末:利兵衛が帰農して江戸時代中頃まで 此処に居住していたともいわれます。
「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」(八上城研究改編 兵庫県の中世城館・荘園遺跡 参考)


矢代城(国松城)と国松館
矢代城(国松城)
   xxxx 356m   篠山市矢代字坪ノ内

盃山城から矢代城へのレポートなので直接国松館 ・矢代城へは下記の大野城を参照のうえ、大野城ー国松館ー矢代城を廻って今福か大野集落へと周回してみては如何かと思いますが…!!?。 盃ヶ岳(盃山城)山頂から西尾根を「ユニトピアささやま」へ向うのエコロジカル登山道を暫く進み、 急斜面の下りが続く下降点に、獣道のような細い道が分岐するのを見誤らなければ問題ないのですが、分岐点が分からず随分下降してから気付いて引き返します。
大野城側から見る矢代城及び国松館とその東西の砦


盃ヶ岳から約1km・西に延びる尾根から 外れ峰のように少し離れた356mピークへの鞍部に向って一旦下って南へと派生して、大野地区に末端を落とす枝尾根に乗ります。この分岐356mピークに主郭の櫓台を置くのが矢代城です。随分下ったなと思う頃やっと緩やかな尾根となり、 15m程の土橋を通って浅い堀切状の鞍部に着く。
腰曲輪の土止め石の腰曲輪・土橋を渡って帯曲輪へ

矢代城の城域最東部に有る土橋の南面には、深い竪堀状・鞍部から南へ降る踏み跡の間は竪土塁状にも思えます?。 <参考>鞍部に至る踏み跡は極普通の杣道かと思ったが 少し様子が違う・・・?。尾根近くにも関らず此の斜面下(左手からの深い谷側角と山の斜面)に沿ってコの字状の土塁があり、
矢代城西尾根端の砦遺構:曲輪と大堀切

谷沿いから鞍部に至る道を塞ぐように、相対して同様の土塁が山側の斜面からも・左右から迫り出して、通路を塞ぐようにS字状の狭い通路となっています。鋭角部は枡形状の土塁虎口の形状です!!。 谷筋に下ってくると対岸の山裾・河原より一段と高い広い台地は屋敷跡か?。古井戸(池?)跡や、 家臣屋敷跡とさえ感じさせる平坦地形が拡がる先には、土塁で挟まれた容の空掘(?濠状)があり、
西尾根連郭帯中程の切岸

直ぐ前で鹿避けフエンスを出ると未舗装車道・貯水池があり、田圃が続く集落を抜け大野城側の県道140号線に出ます。
城域東端の鞍部から少し藪っぽい傾斜を登り始めると、目前に数段の切岸も高い曲輪を乗り越えて最高所の主郭部の東櫓台上に着きます。此処に本丸を置く矢代城の城主は土豪の国松氏で別名:国松城と呼ばれますが、国松氏の事や城史については資料等未調査の為不詳。
主郭北東部の曲輪切岸

また主郭までの曲輪左右に竪堀もあり、 特に左(東南)斜面は3〜4本の畝状竪堀になっています。 波多野氏の枝城には丹南町大山に波賀尾砦が有り矢代右衛門兵衛の名が見えますが関連が有るのかは不明ですが、 南矢代城主酒井氏治(弥七郎主水介)の重臣国松對馬(対馬)の居城で 天正6年(1578)落城したと伝えられます。遊谷(ゆうこく)城同様・縄張り図を携えて廻れば無駄なく見残しもなく 残念な思いを残すことも事も無かったのですが・・北へは「ユニトピアささやま 」に向かう袋小路の様な谷間に向います。
盃山城へ向う東尾根鞍部の土橋道

此の道は大野城から僅か 200m程先には矢代城へ続く低丘陵があって、尾根末端部には大堀切を挟んで南側に数段の平坦地・北の尾根に続く側にも、稲荷社らしい祠が建つ曲輪が有り、国松氏の居館とされる遺構 (下記を参照下さい)が有ります。 国松館を中央にして、「ユニトピアささやま」駐車場向かいからの 大堀切道を通って稲荷社の南側に国松館西砦!!の切岸高い数段曲輪遺構が在り、東側の細長い丘陵上にも大堀切と空掘!!で尾根側を遮断して南への尾根上に段曲輪を並べる国松館東砦が在って、 共に尾根を伝って矢代城に通じます。
主要城域の西尾根端部・曲輪と土橋付堀切

国松館守護と矢代城の出城・砦としても機能していたものでしょう!!?。大野城に布陣したと思われる明智軍も、 正面の国松館を睨みながら、南裏手から東へ廻って谷を攻めあがったものか?矢代城も此の谷の警護を強めているようで、 主郭からは南へ延び出す尾根上にも小曲輪群を並べる遺構が有り、南尾根の首?部西面は、主郭東部下と主郭西部との鞍部付近南の 二本の竪堀が特に深く長く大きく思えます。
二ノ丸!北角の櫓台?と切岸

また3〜4段続く切岸高い曲輪の下には浅い堀切が有り、此の堀切の西側から南下への竪堀も急斜面上に長く落ち込んで様です。 此の南尾根部は国松館へ延びる西尾根の小曲輪群が尾根上に段曲輪を重ねているのとは少し様子が違う。 細い尾根筋の左右に帯曲輪が並び、其の帯曲輪の南先端部が尾根上に繋がる様です。先端部付近は小曲輪の段差も小さく、尾根筋曲輪群の入口部?も浅い凹角溝状から入る。
矢代城東:左右から土塁で挟み込むような大手虎口状遺構!!?

溝状通路は鞍部まで続き西面の谷筋に下っており、東端鞍部からの道とも繋がっているのでしょう?。 縄張り図によると盃ヶ岳主尾根から外れて南に派生する尾根の最高所にある本ノ丸を 主軸にして西方と南方に分かれる530mX200mの城域の尾根上に、大小様々な曲輪・帯曲輪を繋げて構成され、 その間・竪堀は全域で・・合計26条が記されています。 中でも本郭部北東の尾根左右と西尾根上に並ぶ五条の畝状竪堀(空掘)等は丹波の山城では少ない畝状です。
矢代城南麓の井戸跡か池跡?

登城道として利用する堀切道以外は城域の外に向けて 斜面に穿かれるのが普通!!?の竪堀ですが、 此処には下方にも小曲輪群を置く尾根上に五条のうち三本もある特異な??構造になっているようです。先の谷筋道に対する警護と国松館から続く尾根筋からの 攻めに備えたものでしょう!。丹波の山城では見ることも少ない !!??石積遺構らしいものがある。
国松館東砦の東山裾部:屋敷跡と濠跡か!!?

土砂や苔を取り除く訳にもいかないので周囲の様子を観察しますが、 此の城域も露岩の少ないところですので小振りの石で 土塁道と曲輪の角を土止め補強整備したところと思えます。此処と其の下の比較的高い切岸を持つ曲輪下部からは、 急斜面に段差を伴って有るか無いかも定かでない小さな削平地が続く。此処に尾根に併走するように 畝状竪堀が走っていたのですが、 アレッ!!?と思いながらも見慣れない素人の悲しさ・・そのまま駆け下って雑木の藪を抜け堀切に出た。
矢代城南麓の掘状遺構?

西下へは「ユニトピアささやま」へ降りられそうなので、 このまま尾根を辿ったが直ぐ猛烈で急斜な笹薮に突入する。下方に「ユニトピアささやま」の駐車場があるようで 車音がするが山裾を流れる矢代川に阻まれることは必定なので 藪の薄い西側に採って下ると山道!!に出た…と思ったら・此れは矢代城の西尾根の末端部を遮断する深い大堀切を西側に下ると民家(国松邸)裏手に納屋があり、北の奥まった所には小さな社が建ててある。

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国松館
盃山城からの尾根続き ・西方の峰(356m)頂部に主郭を置く矢代城が在る。その山城から南方へ二本の枝尾根が伸び出して、矢代川裾に其の末端を落としています。二つの尾根が包み込む小さな谷間一帯に 数軒の民家が軒を突き合わせるように並び建っている付近一帯には、酒井党の南矢代城主:酒井氏治の重臣で、矢代城を”詰め城”とした城主:国松對馬の居館が在った所と推察出来ます。民家も国松姓:後裔にあたる方々なのでしょう!!。 此の一帯が中央の居館を警護して小規模城郭を形成していますので、矢代城とは別に国松館と其の西砦・東砦として紹介しておきます。
国松館東砦の北堀切下方の段曲輪は屋敷跡か!!?

居館域を挟み込む其の開かれた南面左右の丘陵上には、 切岸高い数段の曲輪を重ね最上段には、櫓台状の方形壇が有り今は地神さんを祀るものか? 祠が建つ国松西砦の遺構が在る。南方直前:約200mには池挟んで、矢代城や盃山城の向城と推察されている大野城と対峙しています。県道沿いに余りに近い向城なので、 ては国松館の街道監視の砦だったと思えます。
国松館東砦の片堀切(左)と空掘(中央)を挟んで土橋状の尾根!!?

また居館の東側に延び出す少し長い低丘陵部にも、尾根左右には下方を窺う細長い帯曲輪 (幅狭く犬走りか?)や、土橋付の浅い空掘、南先端部には下方の農道に直線的に落ちる竪堀状の凹部地形となっています。西砦の西側は矢代川が掘となり、東砦も東山裾は田圃との間の谷筋は濠状の溝が続き、田圃一枚ずつも曲輪・屋敷跡に見える。もっとも鹿猪避けフエンス先の 藪の中の方がズッと屋敷跡には見えますが!!。
国松館東砦の鞍部:上記画像の空掘部を再掲

東砦の曲輪群へは此のフエンス手前からの急斜面の取付きます。フエンス奥の屋敷跡段曲輪状から北へ斜上していくと国松館へ抜ける鞍部が 堀切になっています。此処にフエンス開閉口が有り、尾根筋を東砦に行けるが、 途中にフエンス開閉口は無さそう。西砦は「ユニトピア篠山」駐車場から矢代川を渡り堀切道を進んで国松館に入ります。 南側に段曲輪を見、高い切岸に城遺構が期待出来そうです!!。
国松館東砦:主郭に入る土橋付空掘

東側には稲荷社が祀られており、両側が狭まる細い堀切道を抜けて国松館跡
(民家の私庭内…遺構残存状況は不明ですが、 トタン屋根の下に集められた五輪塔が祀られている一角があり、 地神さんの祠の先に畑跡らしい二段程の平坦地が曲輪遺構なのでしょう ?其の背後を進み東砦北端の堀切に達します)に入る。五輪塔群のトタン屋根は 今回訪れた際は取り外されていたが、「丹波八上城攻め」では
国松館東砦:主郭部東面の帯曲輪

八上城周辺の支城を順次落としてゆく 明智軍の前哨戦によって、落城した波多野氏方の城主・国松氏一族の菩提を祀ったものでしょうか。 東砦の堀切は尾根を掘り切るのではなく、鞍部の国松館側(西)は堀底道の片堀切・矢代城へ向う 北への尾根に沿って二本の土橋状となり、間が空掘状の大きな窪地になっています!!?。
国松館東砦:主郭南面の竪堀??

空掘端を鞍部から東へ降ると先程見たフエンス内の屋敷跡と思える段曲輪状の平坦地へ、また山腹を直進する通路状は、途中途切れながらも帯曲輪 ?(犬走りか?)に繋がる様です。 東砦は自然地形の幅広い尾根が延びているだけのようですが、低い段差の曲輪があり、浅い土橋付空掘の南側が主郭の様です。
国松館内に祀られる五輪塔群

南に続く一段下の曲輪先端部は少し迫り出して櫓台跡の様に見え、 其の東側から南下へは直線的に竪堀状の窪地が下方の農道まで落ち込んでいるようです。 此の正面200m足らずには池を挟んで大野城と対峙していることも付け加えますが、大野城が矢代城向城となった時には、将兵は既に矢代城や・更に尾根北奥地の盃山城への籠城で、 国松氏の居館や城砦は空だったのかも知れません?。
国松館西砦の堀切を抜けると国松館に入る

戦国末期に此の地の土豪・国松対馬が屋敷を構え波多野氏に仕え、 没落後は此処に帰農したといわれる国松氏の居館と”詰め城”をセットにした典型的な山城です。 再訪・再々訪したい魅力を秘めた山城ですので、
堀切道から覗く国松館西砦の曲輪の切岸

史跡調査報告書等資料を目にすることが出来れば、より詳細なレポートになるのですが…今日のところは 駆け足で通り過ぎるだけ…(^^; 帰りの駄賃には途中の大野城に寄ります。氏吉の次の代氏治(弥七郎主水介)は明智光秀の丹波攻略が始まった天正6年 (1578)頃には八上城周辺の城と共に落城したものと思われます。
「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー 」 (八上城研究改編 参考)


大野城     xxxx 256m   篠山市大野字北山

県道97号(丹南・三和線)宮田交差点で県道140号線から東に約1.5kmで「ユニトピアささやま」への入口に看板を見ます。分岐より県道140号沿い100m程進む道沿いに沿う比高僅かに 20m程の独立したほぼ台形の低丘陵があり、尾根上には古墳の墳丘を思わせる マウンド状の台地があり、 車道沿いの城域南西に春日神社・西北に大栄神社が祀られています。此の大野城跡よりも、…西200m程にある円形丘陵の方が城館跡らしく 思えて寄った事がありました。
大野城主郭:南切岸下部の堀切?(空掘?)

丘陵東裾を濠状の溝が廻り西側は池になっており、八幡神社が山頂に祀られ参道入口の石鳥居側に目立つ 樫の大木が有って町木に指定されています。此処は天正〜文禄(1573-96)年間頃:当地の西谷・矢代・大野・口坂本の豪族宇治谷右衛門が崇敬する社を此処に勧請して創設したといわれ、…嘉永7年(1854)本殿を改築して明治6年(1873)村社に列せられています。 守護神と思える八幡社を祀る宇治氏の存在が不詳で大野城もまた城史は不明。
大野城主郭南の切岸と堀切?(右手へ二条の空掘?)

矢代城からの西南尾根先に位置する国松館とも目と鼻の先です。大野城の丹波八上城 :波多野氏攻めの天正6〜7年頃の相関関係は ?八上城:波多野氏や織田軍 :明智勢との関わりが気になるところです。城主 さて「ユニトピアささやま」への分岐から矢代谷に入って直ぐのところに春日神社があり、 此の神社裏の森一帯が大野城です。
大野城:主郭群南端のL字状土塁

今日の城廻りの出発点とするつもりでしたが盃山城〜矢代城へと予定コースの尾根を周回して此処 ・大野城に戻って来ますので最後に立ち寄る事にします。此処は盃ヶ岳から 南に延びる尾根上と末端部分に矢代城が有ることは上記にレポートしていますが、その尾根が目と鼻の先・池で隔てられた低い丘陵上にも大野城がありました。
大野城:北西側曲輪の切岸

北西部に大栄神社があって 此処から城域に入りましたが、社殿の背後に数段の曲輪が見えます。 登城口とした大栄神社・春日神社ともに大野城の曲輪の一つだったようです。緩やかに続く尾根上に低い段差の曲輪が並ぶが其の主郭部の左右(東西)にも平行して細長く帯曲輪が2〜4段、

大栄神社(北西)と背後の曲輪

ぐるりと取り囲むように連なって楕円形の輪郭を形成しています。帯状の輪郭は網掛城が吹城の向城として築かれた様に本来:街道警備なら南面に防備施設・曲輪が並ぶと思えるが?、反対の矢代城に向って北方に段曲輪が集中しており、 防備施設の堀切や土塁も低く浅い。切岸もさして高くもなく態勢は弱い!!。矢代城の向城として考えたほうが良いのかも?。
八幡社か愛宕社か?北東側の社背後に数段の帯曲輪と其の切岸


城主等は不明ですが、 当初は矢代城の国松氏一族が領地支配の砦として 拠っていたのかもしれませんが、波多野氏方を攻める明智軍に落とされた後、矢代城や盃山城攻めの向城(陣城)として改修され 利用されたのでしょうか…!!?。尾根上の削平が切れる南端の藪で覆われた 10uほどの曲輪が、 L字形の低い土塁で囲われて雑木藪の斜面で終わる。
矢代城と対峙する北西端の段曲輪(4段程)

さして深くもなく、緩やかで幅広の尾根を遮断する程でもない片堀切か空掘?状がある。 この丘陵上には多くの墳丘が在ったようで、曲輪は古墳の墳丘を利用して築かれたもののようです。尾根通しに下ると先方は幅広い空掘状になっており西に平坦地が見える。 寄っていくと此処が春日神社で石段を下った所が「ユニトピアささやま」へ向う矢代谷の車道・START地点まで僅か10数m地点でした。



伊勢三郎義盛の供養塔  篠山市西浜谷


篠山産業高校正門前から、田園に囲まれた西北方に向かう真直ぐな道の先には、小高い丘に小屋が見えているのに検討をつけて低丘陵山麓の西浜谷集落に向かいます。 この辺りは元・湧泉(遊仙)山福応寺が在った所といわれ、この後に向かった東浜谷に所在する 遊谷城の名の由来も湧泉(遊谷=遊仙)に有るのかなと思われます ??最近参道等が整備されたものか、枕木材を敷き詰めた参道や階段が観音堂へ続き均された台地 に小屋かと思えた小さな観音堂が建てられ、拝殿正面は?ご丁寧に錠前で閉鎖されているので、 中を窺い知ることも出来ませんが、 此処に祀られる石仏の盗難避けの施錠だとは…浅ましい事ですネ(-_-;)!。
観音堂

参道入口には「市指定文化財・伊勢三郎供養塔」の篠山五十三次の説明板が建てられ、 祠背後に続く山道の進み鹿避けフエンスを抜けると竹薮の先の平坦地の外れに苔生した”宝篋印塔”が在った。宝篋印塔のある山側の台地が旧福応寺跡です。 地元民の話では古墳も有ったのでしょう。宝篋印塔への参道を拡げようと掘ったところ石だらけ。石畳状で石棺も見つかったようです。800m程東には丹波最大級の円墳 新宮古墳他の古墳群が近在に点在しています。 ところで宝筐印塔の残欠(九輪)が有り、三郎義盛の妻のものだといわれます。其の前の花立に並ぶ小さな石は六甲山から記念に持ち帰られたものですが!、 持ち帰り此処に置いたという方は”なんの記録 ・文書が有るわけではなく、単に言い伝えだけで定かではないが”と前おきされて…其の成り行きは不明で すが、三郎が”乳飲み子”を預けられ育ててくれと頼まれたという。 伝えられる彼の人物像や往時の状況からは、とても信じられず、合戦の都度一般領民を巻き込んで繰り返された婦女子の戦争奴隷や金銭目的の拉致…を考えてしまうがそんな事は言えなかった (-_-;)・・・
その子の末裔にあたるという方が、年に数回は墓の清掃に訪れるのだと、此の日も石塔周りの落葉を片付けておられた。
伊勢三郎の宝筐印塔

宝篋印塔は隅飾突起の一辺や 九輪の最上部が欠けていますが基礎・基壇から請花・宝珠まで完存しています。塔身には月輪(がちりん)内に金剛界四方仏の種子が彫り込まれており、 無銘ながら高さ1.59mの石塔は保存状態も良好で室町期初期かそれ以前のものとされています。先日の 笛吹山では義経伝説を挙げましたが、県道を東に向かえばR173号との合流地点・細工所の至りますが、 此処には那須与市宗高ゆかりの寺・瑞祥寺があり、那須与市大権現が祀られます。源平の合戦では源義経が、デカンショ街道(天引峠〜篠山〜今田)を通って、 寿永3年(1184)三草山に陣取っていた平資盛を破り、その足で一気に須磨浦に向い、一の谷の奇襲「鵯越の逆落とし」での活躍はよく知られた話です。伊勢国に生まれ、 鞍馬を出て奥州平泉へ向かう義経と上野国で出会い家来となり、その一字をもらった源義経四天王の一人・伊勢三郎義盛が此処に登場です。 義経軍最強の剣豪で平家追討では数々の武功をたて、 壇ノ浦では平家の重臣を味方に付けて義経軍に勝利をもたらし弁舌と交渉術にも長けており度々窮地を救ったとか、 忍者・鈴鹿の盗賊で熊坂長範の徒党等々、小説での活躍が面白い人物ですが此処では外れますので又別項で…。兄頼朝に京を追われた義経や義盛等は文治5年(1189)奥州衣川館の戦いで敗れて、 自刃するまでの約三年間が消息不明ですが地元では、 義経は篠山出身の家臣!?鷲尾三郎義久(経春)【此処より約2,5km東北方、 笛吹山城の北山裾:鷲尾地区に屋敷跡と供養の宝筐印塔が立つ】のつてを頼って御嶽の修験者達に匿われていたとされており、その間に伊勢三郎は亡くなったといわれています。 さらに広く知られる鈴鹿山での自刃や、義経と共に北国に落ちて衣川館の戦いで討死したとも…いずれも其々に馴染みの里で供養されたと伝えられているようです。
伊勢三郎の宝筐印塔

篠山市今田市原城の小野原采女(波多野氏の臣で八上落城後。秀吉に属し慶長2年 (1597)朝鮮征伐に従軍)の稲荷社の様に、此の社も伊勢三郎は戦が嫌になり山に籠もったとの伝承から、地元では「戦争嫌いの神様」と呼ばれて、 明治以降の徴兵制度が布かれてからの「徴兵逃れ」や、戦地に向かう”兵隊さん”の無事を願って御参りする親族等の姿も有ったといいます。また宝篋印塔は一時期 ”青山さん”のところに移されていたといい、篠山藩主”青山氏の頃の篠山城か?と思ったが、清掃奉仕の方が、国立病院付近に城砦が有り、其処の城主だったとの話も聞き、 現・青山稲荷社に移されていたのではないかと思った。丹波大神宮〜春日神社にかけても武家屋敷や古い時代?の居館が有ってもおかしくない!。 居館や砦等が有ったがどうか?また其の時代も検討はつかないが、周辺の遺跡分布調査等記録には有ったのでしょうか?。移されていた宝筐印塔は或る年・疫病が流行った時に元の場所に戻され、 昔から”禍い除け”の霊験があると言い伝えられています。本場?の三重・伊勢は”寂誉さん”にお任せサイトなんですが、丹波の伊勢三郎義盛は如何でしたでしょう?是非一度お訪ね下さい。
(現地・伊勢三郎供養塔の篠山五十三次案内板  篠山市のHP 参照)

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