此処にも丹波鬼がいた! 旧篠山歩兵第70連隊の演習山盃山と周辺の山城巡り
2001年09月08日 浜谷水辺の森・春日社〜盃山(盃ヶ嶽497m)
2004年04月25日
遊谷城〜盃山城〜矢代城〜大野城
校歌の山  岡野小学校 ♪盃山の朝風にxx…♪
近畿の山城: 盃山城今福城遊谷城 藤井居館
 矢代城・国松居館・坪ノ内城・平志城 大野城

盃山(盃ヶ嶽)山頂「ユニトピアささやま」への分岐
丹波のお話 伊勢三郎の宝筐印塔

盃山展望台から静かで平穏な篠山盆地の拡がりを眺めていると嘗て軍都として・又そのシンボルとして歩兵第70連隊の兵舎と練兵場が山裾に拡がり入隊した兵士たちが厳しい訓練に明け暮れていた事など想像も出来ない日露戦争後の軍備拡張計画・明治40年(1907)の中で翌明治41年には篠山歩兵第70連隊が編成され篠山に新設された兵舎に移駐されて以来、 兵士達は勇猛果敢な事で有名だったといわれます。
篠山歩兵第七十聯隊跡の碑が建つ

昭和15年(1940)には歩兵第百六十八連隊(中部第六十八部隊)となり更に昭和19年中部第百十部隊が編成され日中−太平洋戦々の終戦までの約40年兵舎の背後に聳える 盃山へは朝駆けや多紀連山を舞台の山岳訓練により「丹波の鬼」として勇名を轟かせたというが私の母等からは「また負けたかxx連隊」とよく聞かされたもの…。
矢代城:国松館西砦より池を挟んで対峙する大野城

篠山産業高校・職安篠山出張所xx篠山工場が立ち並ぶ辺りは兵舎跡で戦時期に派兵された将兵を見送り、多くが戦死した暗く悲惨な歴史を語り継ぐかのように古びた赤いレンガ積みの営門や記念碑・旧兵舎一部と思われる建物も見える。車道を隔て篠山産高農場・スポーツセンタや新丹波荘の場所が練兵場。その南方高台が権現山で渋谷氏の城。盃山は其の渋谷氏の砦跡か?山の名が示す通り見張の 狼煙台があったところかも?。山頂からハイキングコースが延びている松○電気産業労組の結成記念事業として昭和48年(1973)開設された休暇村だが一般公開されている「ユニトピアささやま」はユニオン(労働組合

国松館西砦曲輪の高い切岸

)が目指すユートピア(理想郷)から 名付けられたユニトピアとは裏腹に辺り一帯は篠山歩兵連隊の実弾射撃場跡地です。今は一部の旧兵舎を残し、学校や工場等に姿を変えてしまい往時の様子は窺い知れない。営門前の広い地域は前方の小山まで 当時の練兵場跡で背後の盃ヶ岳とともに厳しい訓練の場だった。此の営門の残る位置には何時も歩哨が立っていたところです。
(現地篠山五十三次 案内板参照)
 

第70歩兵連隊・涙の朝駆け訓練の山! 盃山(盃ヶ嶽) H13. 09.08

「山の小箱」みーとさんに丹波の山を案内:第一座弘浪山を登り第二座白山だが時間に余裕があるので帰りの駄賃にもう一座軽い山を紹介します。以前に御一緒した丹波の山入門編!?の西光寺山や高城山(八上城)は勿論白髪〜松尾・鋸岳〜三尾山・多紀アルプス・大野山。盃山は展望抜群しかも往復一時間余りなので前々から紹介したい推薦の山でした。みーとさんとは明日も山のお付合予定だが天候芳しくなく中止濃厚と
展望東屋から多紀アルプスの三山

なってきたので疲れているが折角・もう一座は、 お誂え向きの山なのです。職安横・東浜谷交差点から山に向って一直線。左手は旧篠山歩兵70連隊の兵舎が建ち並んでいたところです。浜谷水辺の森の盃ヶ岳を含む周辺案内板があるが周辺の駐車は浜谷池で釣りを楽しむ人ばかり。 こんな時間に山へ向うのは私達だけ(PM3:20)。春日社(応永16年創建)の鳥居をくぐり狛犬のいる奥の石段を抜け山道に入ると道は荒れてはいるが良く踏まれたコース。 ただ両サイドからの雑木で歩き辛い部分もあり傾斜も急になってくるが此処は岩場混じりの稜上に出ます。 踏み跡伝いよりは歩きやすく第一展望が良いですからね。振り返れば浜谷池の先に篠山盆地が拡がってくる。八上山弥十郎ヶ岳・白髪山〜松尾山、多紀アルプスの三座(西ヶ岳・三岳・小金ヶ岳)が見え始めると僅かの時間で東屋展望所に着く。此処で引返してもよいのだが…もう行程の半分は来ており、 あと少しで丹波の山三座達成です。まだまだ暑いが汗を拭って頑張るみ〜とさんです。
展望東屋から南面を望む:浜谷池と遊谷城(中央に貯水槽の有る丘陵)

雑木の尾根を抜けると登ってきた春日社と「ユニトピアささやま」へ向うハイキング道の案内標識がある。此処が盃山(497m 盃ヶ嶽)の山頂で北の丹波・氷上側に鋸岳のギザギザ稜線が 黒く横たわり三尾・夏栗や金山が頭を出しているが 鋸や多紀連山にお株を奪われ目立ちませんね。木のテーブルと椅子の休憩所と何か?を祀る小さな社がある。遅くなると国道の渋滞が心配な時間になってきたので帰りを促します。みーとさんの丹波の山入門編第二弾は満足の行くものだったでしょうか。 本日雨の確立50%近い予想の中での山行だった。


盃山南麓城巡り今福城・遊谷城・盃山城・矢代城・大野城  H14.04.25

先週笛吹山城から大期山へ縦走したが幾つもの城跡を素通りしてきた事に気付く。幾つかの城を廻るべく先ずは篠山盆地の一大展望地で特に八上城から西の方面を殆ど全て見通せて山名に烽山とも呼ばれた盃ヶ岳へ向かう。
配水施設で遊谷城の壊滅した北郭部から望む盃ヶ嶽

盃ヶ岳(のろし山)はズバリ見張・烽火場の砦。盃ヶ岳の登山口・春日神社へ向う東浜谷を挟んで西側一帯は旧篠山歩兵第70連隊の練兵場跡、向かい東側には北方に位置する盃ヶ岳に向って低い山並みが続く峰の南端丘陵部に遊谷城がある。盃山城の里城(居城)と思える今福城が盃山団地の側にあるので 寄ってみる。篠山産業高校裏・西浜谷集落からは
矢代城西尾根上の連郭

西の県道140号沿い住宅地を挟み込むように延びた二本の丘陵の南端に大野城・今福城が望まれ、直ぐ東の歩兵第70連隊練兵場跡の向こうに連なる丘に遊谷城が見え、白く巨大なタンクの篠山市前山配水場施設が丘上にある。遊谷城の北郭があった所は専用林道と広い舗装された何もない白い平地と
練兵場跡東の丘陵にある遊谷城

円形の立入り禁止の施設が建つ。篠山市の山城でも籾井城吹城八百里城矢代城等は遺構の保存状態が比較的良いが史跡の保護保存と開発の選択や方法に様々な難しい問題が伴うのでしょうが史実に残らない史跡はその価値も認められず人知れず忘れ去られ
今福城に迫る団地と西に迫り出した丘陵には大野城

壊滅の危機に憂いもないのかと!!…人の戒名のように調査報告書だけが残されても…!!道路拡張・宅地開発・近代施設の 明るく冷たいコンクリートの下に埋もれ消滅した。過去の遺物は異物でしかないのかと空虚な思いで東浜谷集落へ下り盃ヶ岳へ向います。 登山口の春日神社〜盃ヶ岳から「ユニトピアささやま」への山道は荒れてはいるが案内標識完備のハイキング道なので山行レポートは省略します。
大野城:大栄神社背後の尾根筋に2〜3段の曲輪・帯曲輪

途中から西南へ延びる枝尾根をトレースして356mピークの矢代城を訪城して篠竹の密集する藪の急斜面を下って矢代城曲輪か…城主の居館らしい神社側へ降り立ち 「ユニトピアささやま」の駐車場に出てくる。さらに車道を南へ戻りながら大栄神社背後の丘を探ります。尾根東西を2-3段の帯曲輪が取り巻く大野城は 各・曲輪の段差や削平は明確ですが一箇所見つけた土塁以外防備らしい施設を見ないので、
矢代城主郭南面の畝状竪堀

八上城をなかなか落せない織田方(明智光秀軍)が先に周辺の波多野勢の支城を攻めた盃山城矢代城を攻める織田方の向城として大栄神社-春日神社の二つの神社を結ぶ200m程の丘陵上・古墳の墳丘を 利用し築いたものでしょう。春日神社の鳥居を出た所に車をデポし今福城〜遊谷城〜盃山城…と廻った今日のSTART地点です。


盃山城
今福城 遊谷城 藤井居館 矢代城・国松居館・坪ノ内城・平志城 大野城

盃山城(盃嶽砦)
  盃ヶ岳・烽山 497m 篠山市東浜谷字盃山

兵第70連隊の旧練兵場の西方・今福には畑氏の今福城があり盃山城は其の詰城となっていたのでしょう?。 天正年間(1573-92)の初年、八上城西部の防衛拠点として特に斥候連絡等の任務にあたり、そのため此の山は狼煙山とも呼ばれてます。畑伊織が八上城との連絡に烽火役を務めたともいわれるのだが…!!?今福・畑郷に勢力を持つ畑氏の別派:野尻畑氏の
盃ヶ岳山頂・本郭西面

掃門・豊後・伊織等が拠った城とされるが遺構は全壊し連郭式6っの曲輪跡らしいものが 認められるだけという。畑氏は此処を詰め城とし平常の拠点は南山麓(多紀教育会館と盃山団地背後の低丘陵)にある今福城(今堡)にあったともされます。盃ヶ岳の南正面1km地点には西岡屋の高地にある権現山(飛の山・富の山)があり戦国時代末の渋谷氏秀の飛ノ山城(市上水道の貯水池施設が本郭部の曲輪跡に建つ)があったところ。そう遠くない位置にあって共に篠山盆地を眺望出来る展望地です。
盃山城西・北面の帯曲輪


渋谷氏が畑氏より勢力で優位にあれば盃山城は波多野氏の被官・渋谷氏の出城だったともとも思えます。畑氏の詰城ともいわれるが詳細は不明だが八上城西方の監視と守りとして波多野氏配下の城砦として県道140号を挟んで共に呼応して篠山川北方の街道筋を守備していたのでしょう。山名に烽山の名があり篠山盆地を眼下に一望出来る眺望極めて良い位置にあって見張り所として物見櫓が建ち烽火台もあった城塞群の一つ。
盃山城南面の帯曲輪?

篠山川を境にして八上城の西北部を護り固める八百里城・沢田城・飛の山城・遊谷城・矢代城・板井城等々多くの支城の 一つだが主城・八上城からの指示を送受して全支城に伝えられる絶好の位置は旗城としても重要な拠点であった事が推測される。比高約260mの急斜な山の山頂部にある本郭部は東面と北面を高い切岸で護られています。この北面切岸を降って続く山道は矢代川(谷間の中程に 「ユニトピアささやま」がる)を囲むように法蓮坊山〜南谷山への縦走コースもあるが此処は山城案内なので、いつか又トレースした時にレポートします。
盃山城・西の城域外にある竪堀


西に続く細く緩やかな200m程の尾根上には幅10m程の段差のハッキリしない削平地が続くが 中程から南面に2〜3幅の狭い曲輪が付随する。西端付近には北面の藪の中に幅のある帯曲輪が 西の斜面を下るハイキング道【エコロジカル登山道(ユニトピアささやま迄約1.2km)】が延びている。土塁と思われる盛土状もなく、道なりに下っていくと小鞍部の南面に向う谷に竪堀が一本走っているのが分かった。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 参考)


今福城(今福堡)   向井山 240m    篠山市今福字向井山

県道140号線「ユニトピアささやま」分岐の看板を左に見送って東に進みます。 この分岐側にある春日神社の裏の森一帯が大野城で城廻り最後は此処に戻って来る。
今福城:主郭南端の土塁虎口

さて「ユニトピアささやま」分岐を過ぎると直ぐ大野バス停・そして今福です。車道北に「多紀教育会館」があり周辺は盃山団地です。盃山から南へ延び出す低丘陵尾根の末端部に位置して盃山団地最西南部の住宅地の裏庭に迫る尾根先に今福城がある…
主郭部北端低土塁と堀切から続く帯曲輪

主郭虎口の土塁付曲輪を南から西に空掘(横堀)が廻っているが横掘を挟んだ南側の小曲輪からは末端部が大きく切り崩されて崖となっているが周囲には住宅地や多紀教育会館が建てられて県道140号線との
主郭北西の帯曲輪・末端(手前)は井戸?

間には数段の曲輪状の段差を持つ丘陵上に在る。主郭部南側が崖となっている部分にも曲輪が続き、城域の西面から県道側 (南面)へ流れる細い溝谷を取り込んだ教育会館の建つ台地までが城域ではなかったかと周囲に残る地形から読み取れる。
今福城:主郭南端虎口からの土塁と空掘

教育会館前の曲輪風の段差は此処や一段上の住宅地、そして崖が迫るがその上に広い削平地が区画されて拡がりを見せている。 南面は宅地開発等で壊滅し全容は計り知れないが城域の状態をR176号線の大山下にある平城の大山城の曲輪と思い重ねています。 規模こそ違いますがよく似た縄張りの状況です。
主郭南西からの土塁と空掘

大山城は河川段丘の切り立つ川岸にあり、 此方は丘城で深い堀切や横堀と高い土塁で周囲を堅められているが何れの曲輪も広く丁寧に削平され居住性を備えています。
北の切通し(大堀切?)道から

天文年間(1532-55)末頃今福・畑郷周辺を勢力下に持ち 此の今福城を居館とした城主・畑氏が先の盃山城を今福城の詰め城にしたと推察されているようです。…!!何代目かの城主!?畑豊後守頼元(頼景!!)が拠っていたが 天文24年(1555)9月に没しています。
主郭の東下段の広い曲輪は屋敷跡か?

畑氏は頼景の後:駿河守頼信〜右兵衛尉満信と続いて 「丹波八上城攻め」の明智光秀軍により天正6年(1578)頃には八上城周辺の城攻めに矢代城・遊谷城等と共に落とされ畑氏も衰えたという。

「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」 (八上城研究改編参考)


遊谷城と藤井居館(浜谷古邸)
遊谷城
 篠山市東浜谷
藤井居館(浜谷館)
篠山市西浜谷

県道140号線の「ユニトピアささやま」分岐交差点側にある大野城を抜けて低丘陵南端にある 今福城を背に建つ多紀教育会館前を過ぎると篠山産業高校の校舎が見えてくる。県道140号線は400m程で篠山ハローワークや 歩兵第70連隊練兵場跡を経て篠山市街地と雲部車塚方面への郡家交差点の五叉路に入ります。其の10数m手前を左折して山手へ真直ぐ延びる道が盃山の登山口・春日神社へ向います。
藤井居館と南面から西方を囲む堀跡!

車道の左手は嘗ての練兵場跡地だが右手には盃山から東南へと長く延び出した低丘陵の末端が迫ります。 盃山山頂には波多野の家臣畑伊織が拠った盃山城があり八上城との烽火通信の城だったとされているが盃山城からの尾根続きには西南尾根上に矢代城・大野城・今福城低い山並みを連ねる東南尾根上には末端部に遊谷城と藤井居館がありました。

遊谷城南郭中央東・曲輪の側から切出される竪堀


周辺の城では前回・登城口が判らず未訪だった遊谷城の取付にある工場目前の藤井居館(浜谷古邸)へ寄るだけの心算なので交差点手前に「伊勢三郎供養塔」導標が立てられているので此処から篠山産業高校正門前〜西浜谷集落に向かいます。 今年(2005年)のNHK大河ドラマは”義経”です。其れにあやかる心算は毛頭ないが笛吹山でも義経伝説を挙げています。
遊谷城南郭:主郭から西面の帯曲輪

義経が大軍で平氏を破った播磨三草山合戦の話より”鵯越”の話に始終するように通りすがりの 丹波路に義経道の名が残る今田付近や北神戸付近の事がドラマに出てくる事は先ずないが、何故か此処にも源義経の四天王・伊勢三郎が登場してきます。
遊谷城南郭:主郭北側の連郭


義経軍最強の剣豪・忍者・鈴鹿の盗賊で熊坂長範の徒党等々、小説での活躍が面白い人物です。集落北部の毘沙門堂からさらに100m程奥の台地に建つ宝篋印塔が伊勢三郎義盛の供養塔と伝えられ篠山市の指定文化財になっています。此処は湧泉(遊仙)山福応寺の跡といわれ、東浜谷に所在にある遊谷城の名の由来が湧泉(遊谷=遊仙)にあるのかなと思われます?
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遊谷城   xxx 270m  篠山市東浜谷

多紀アルプス・西ヶ嶽から岩谷山を経て矢代城に末端を落とす尾根筋は盃ヶ嶽(盃山城)の手前・北東から東浜谷に 沿って南へ張出してきます。標高300m・比高60〜80m足らずの緩やかな低丘陵が東浜谷集落より熊谷集落を抜ける鞍部で途切れたかと思えるが遊谷城は此処から更に延び出す500m程の尾根上のほぼ全域を城域にしています。
南郭の土塁道

南曲輪群を主郭として配水施設の建つ北郭との中程にも2〜3の曲輪を持つ小さな円状高台部がある。細い尾根で繋がった三箇所に遺構を残す結構大規模な山城遊谷(ゆうこく)城がある。個々には小さな曲輪を重ねているだけの様だが曲輪の狭間を抜け上がる 虎口・帯曲輪・竪堀群等には、一在地土豪に此れ程の規模や遺構を残せる勢力があったのかと驚きだが城主や城史は不明。なお山裾に藤井居館がある事で城主を藤井氏と推定されているが近在土豪の浜谷氏・郡家氏・熊谷氏等が使用したとも考えられます。そういえば東浜谷への分岐(県道140号から篠山市街地と城北へ向かう301号)交差点が郡家で藤井居館にほど近い民家にも「郡家」姓がありました。
南郭・本丸付近の高土塁!!

先週は未訪に終わった熊谷城も遊谷城からは東へ約1km地点です。 以前は”藤井居館”の有る尾根末端から登ったが、低山とはいえ薮蚊の襲撃を受ける竹薮からは暑い時期には多少キツイので北の鞍部付近から取付き巨大タンクの見える篠山市前山配水場施設を目指す。小さな石仏を見て尾根上の自然地形の平坦地に出る。1.5m程の木の階段を上って前山配水場の広場に着く。此処が北郭部だが残念ながら配水場施設の為遺構は壊滅しています。
主郭帯曲輪から本ノ丸切岸

しかし山麓の民家傍から比高僅か5〜60mで得られる此の展望はどうだろう。南端から2-3段下がって更に延びる細い尾根筋には西面の藪の斜面に一本の竪堀を見て…配水施設側の丘陵頂部も城域だったと感じる程度でしょうか!!。 平坦な尾根筋は直ぐに低い段差の2段曲輪のある円形の中郭部は円墳のマウンドに立っているようです。特に見るべき遺構には気付かず短く浅い堀切に(尾根筋を 遮断するほど深く掘り切られた溝ではなく 尾根筋が土橋状側に細く付く片堀切?)から急斜面を削平した三段の曲輪を越えて主要郭部の南郭曲輪群に入ります。
主郭最高所の穴状曲輪!


切岸も高くて先にある遺構の確かさにも興味は増大します。切岸を越えると丘陵部の最高地点となる位置に主郭を置く遊谷城の帯曲輪に出て約1.5mの段差で本ノ丸に着いてみると奇妙な遺構を見る。 幅10mにも満たない尾根上は大部分を池状の穴となり其の円状の周囲に高さ1m程の土塁を廻した極少曲輪です。主郭に半地下式の貯蔵倉があるとも思えず、 二層式の矢倉跡なら機能的ですが石積み補強もない不安定さが気になります。穴は南北に欠けており、此の炭焼き窯状の曲輪と外側を捲く帯曲輪への出入口ともなっている様ですが?素人の悲しさ/遺構の道理が解らず推察してみるだけです。
遊谷城南端の帯曲輪と南西角の空堀状間へ堀底道が到達する

同様の穴状で少し大きいのが南郭部南端の堀切道状の横にもあって城域南側最初の虎口を挟む曲輪は”武者隠し”のようにも思えた。主郭に塹壕(たこつぼ)があるのかな?丹波市・篠山市の多くの山城にも余り見かけない遺構に戸惑います。 尾根左右に密生した下草や雑木藪の為に何条か存在する竪堀の確認は儘ならないが細い尾根に沿って段差毎に現れる大小の曲輪と帯曲輪群・曲輪を結ぶ土橋・土塁と 息つく暇なしに現れる遺構に感激です。長い帯曲輪を南端部に出ると小曲輪から竪堀状の堀底道から此の帯曲輪へ到達する虎口の様な登城路があり此処にも曲輪の一画を掘り下げた空掘状の溝遺構があって上部の曲輪を隔てています。
遊谷城南郭部北端の堀切

尾根筋に正対し城域南端部に位置し虚を突き一斉に攻撃をかける”武者隠し”ではないだろうか!小さいながらも 曲輪群等は良く遺構が残されている。此れほどの規模の山城が旧歩兵第70連隊練兵場跡直ぐ近くにあり、宅地等の開発からも遁れ人知れず!!?存在した事は、この後で訪れた矢代城についても同様、資料としての報告書だけを残して消滅することなきよう遺構保存と、 より密な調査や史跡保存を考慮して欲しいものです。
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藤井居館(浜谷古邸・浜谷館・浜谷城)xx 230m 篠山市西浜谷

篠山歩兵第70連隊練兵場跡から東浜谷の盃ヶ岳登山口の春日神社・浜谷池に向う車道脇の田圃側まで延び出してきた丘陵末端に半円形の鬱蒼とした森があり東の山側に赤い鳥居が見えます。稲荷社らしいが此方は某会社の敷地内にあり、
藤井館:土塁虎口から高土塁囲みの主郭に入る


休日の為フエンス内に入って行けず未確認のまま…また延び出してきた丘陵の尾根筋を辿ると僅か100数m・比高30m程で竹薮を抜け尾根の出た途端遊谷城の遺構に出会えます。田圃の端の倉庫裏手から入って行けそうに思えたが私有地の様で、そのうえ藤井居館の所在は西浜谷となっているので場所違いだとの思い込みで前回は諦めたが他に居館跡と思(おぼ)しき場所は此処しかなさそうです(^^ゞ。

藤井館登城口の曲輪から主郭虎口へ(正面は帯曲輪・空掘へ)


早速・取付きを探して嘗ては 水濠が廻っていたと思える田圃の縁に沿って西側から北方へ廻ってみた。西谷館同様に小川が濠状に城域を囲んでいます。小川を飛び越え北側から城域の 小山の鞍部に向かって簡単に入って行かれる…といっても 足元も見えない下草と藪を掻き分けて突っ切るが此処は空掘・行く手に4〜 6mの高い切岸が廻っているのが目に入ります。
藤井館の主郭を囲む帯曲輪からの高い切岸(4〜6m)

探してもよく分からなかった藤井居館(浜谷城)は遊谷城のある丘陵の南西端に位置した此の小山にあった。その外側を西面は水掘・北から東面の遊谷城へ続く丘陵側を遮断する60m四方が城域で 高い切岸を持つ主郭部の北側には帯曲輪がまわし南側の工場へと空掘を周る縄張りです。工場と田圃の間から此処へ入ってくる道もあった。 道は”くの字”に曲がって深い溝状を通って東南角から主曲輪に着きます。
藤井居館:高い切岸の上に高土塁を廻す主郭内部

横矢が掛けられる虎口となり東西18mX南北17m・方形の平坦地が主曲輪で、西南端からも斜上して曲輪に入る道があるようです。高い切岸が周りを堅め石碑の建つ北側背後には切岸の上に更に1〜2.5m程の高土塁をコの字に積み上げています。 肝心の石碑の文字は読み取れなかったが名号碑の中央下に藤井浄向信士・其の両側にも同族か 家臣の者と思われる数名の法名が記されています。
藤井館:帯曲輪沿いの空掘

願主:藤井氏により小さな祠:三白稲荷社が祀られていました。 三白稲荷は此処より南方約1km・飛ノ山城のある 独立丘陵の一角・諏訪神社の背山に「負け嫌い稲荷」飛の山三四郎を祀る三白稲荷社があり何か特別な 関連があるのかも知れない…?。南北に並ぶ「飛の山城・遊谷城・盃山城」の三城か・東西に「熊谷城・遊谷城・今福城」三城の守護神なのか?。
藤井館:帯曲輪の下に空掘が廻る

郡家周辺を領した土豪藤井右(?左)近正次の居館で、波多野氏麾下に属したようで天正6年(1578)頃には矢代城等・周辺の城と共に落城した。 藤井居館が遊谷城の直ぐ側にあるので藤井氏が遊谷城の城主で、此処を”詰城”にしたと考えられるが波多野氏の有力家臣としてはノーマーク?土の城とはいえ 比較的大規模な城が築ける勢力だったかどうかは不明?。遊谷城主として近在の土豪・数氏の名が出てきても不思議ではないが…!。
藤井館西面の濠跡

八上落城後・八上から篠山に城下が移された頃には正次の子?八右衛門は藩命のよって反対に奥谷(旧八上城の西山麓にある 殿町付近?)に庄屋として移り住んだといわれます。 また一方では藤井正次の末:利兵衛が帰農して江戸時代中頃まで此処に居住していたともいわれます。
「丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」(八上城研究改編 兵庫県の中世城館・荘園遺跡 参考)

矢代城(国松城)・国松館・坪ノ内城・平志城
矢代城(国松城)
  xxx 356m  篠山市矢代字坪ノ内

西紀方面からは「西谷」交差点から県道140号は東へ600m程で低丘陵の側のT字辻を県道は南に向かうが「ユニとピア篠山」のサインボードを見て右折する。東西100ー150m・南北400m程の独立低丘陵上に大野城があり、丘陵北端は貯水池に落ちる。 その北側を流れる矢代川が「ユニトピア篠山」側から国松館の南面・大野城北端の貯水池の間と
大野城側から見る矢代城及び国松館とその東西の砦

居館を挟み込む様に回り込み大野城の東麓を南へ流れ出る…。大野城のT字辻から県道140号を600mほど東へ走ると車道沿いに盃山団地・教育委員会?建物に近接して今福城がある。畑氏が居館で其の詰め城が盃山城と云われる。盃ヶ岳(盃山城)山頂から 西尾根を「ユニトピアささやま」へ向うのエコロジカル登山道を暫く進み急斜面の下りが続く下降点に 獣道のような細い道が分岐するのを見誤らなければ盃山城からの 尾根続き・西方の峰(356m)頂部に主郭を置く
腰曲輪の土止め石の腰曲輪・土橋を渡って帯曲輪へ

矢代城(国松城)が在るが分岐点が分からず随分下降してから気付いて引き返したが盃ヶ岳から約1km・西に延びる尾根から外れ峰のように少し離れた356mピークへの鞍部に向って一旦下って南へと派生して大野地区に末端を落とす枝尾根に乗り356mピークに主郭の櫓台を置くのが矢代城。随分下ったなと思う頃やっと緩やかな尾根となり15m程の土橋を通って浅い堀切状の鞍部に着く。
矢代城西尾根端の砦遺構:曲輪と大堀切

矢代城の城域最東部に有る土橋の南面には 深い竪堀状・鞍部から南へ降る踏み跡の間は竪土塁状にも思えます?。<参考>鞍部に至る踏み跡は極普通の杣道かと思ったが少し様子が違う。尾根近くにも関わらず此の斜面下に沿ってコの字状の土塁があり、谷沿いから鞍部に至る道を塞ぐように
相対して同様の土塁が山側の斜面からも左右から迫り出し、通路を塞ぐようにS字状の狭い通路となっています。
西尾根連郭帯中程の切岸

鋭角部は枡形状の土塁虎口の形状です!。谷筋に下ってくると対岸の山裾・河原より一段高い広い台地は屋敷跡?。古井戸(池?)跡や家臣屋敷跡とさえ感じさせる平坦地形が拡がる先には土塁で挟まれた空掘があり、直ぐ前で鹿避けフエンスを出ると未舗装車道・貯水池があり田圃が続く集落を抜け大野城側の県道140号線に出る。

主郭北東部の曲輪切岸

城域東端の鞍部から少し藪っぽい傾斜を登り始めると目前に数段の切岸も高い曲輪を乗り越えて最高所の主郭部の東櫓台上に着く。此処に本丸を置く矢代城の城主は土豪の国松氏で別名:国松城と呼ばれるが国松氏の事や城史については資料等未調査の為不詳。また主郭までの曲輪左右に竪堀・特に左(東南)斜面は3〜4本の畝状竪堀になっています。
盃山城へ向う東尾根鞍部の土橋道

波多野氏の枝城には丹南町大山に波賀尾砦があり矢代右衛門兵衛の名が見えるが関連あるかは不明だが南矢代城主酒井氏治(弥七郎主水介)の重臣国松對馬(対馬)の居城で天正6年(1578)落城したと伝えられる。北へは「ユニトピアささやま」への袋小路の様な谷間に向かう。此の道は大野城から僅か200m程先には矢代城へ続く低丘陵があって尾根末端部には大堀切を挟んで南側に数段の平坦地・北の尾根に続く側にも
主要城域の西尾根端部・曲輪と土橋付堀切

稲荷社らしい祠が建つ曲輪があり国松氏の居館とされるところ?。 国松館を中央にして「ユニトピアささやま」駐車場の向かいから 大堀切道を通って稲荷社の南側に国松館西砦!!の切岸高い数段曲輪遺構があり東側の細長い丘陵上にも 大堀切と空掘で尾根側を遮断して南への尾根上に 段曲輪を並べる国松館東砦があって共に尾根を伝って矢代城に通じます。国松館守護と矢代城の出城・砦としても機能していたものでしょう!!?。
二ノ丸!北角の櫓台?と切岸

大野城に布陣したと 思われる明智軍も正面の国松館をみながら南から東へ廻って谷を攻めあがったものか? 矢代城も此の谷の警護を強めているようで、主郭から南へ延び出す尾根上にも小曲輪群を並べる遺構があり南尾根の主曲輪部西面は主郭東部下と主郭西部との鞍部 付近南の二本の竪堀が特に深く長く大きく思えます。また3-4段続く切岸高い曲輪の下には浅い堀切があり、此の堀切の西側から南下への竪堀も急斜面上に長く落ち込んでいる。此の南尾根部は国松館へ延びる西尾根の
矢代城東:左右から土塁で挟み込むような大手虎口状遺構!!?

小曲輪群が尾根上に段曲輪を重ねているのとは少し様子が違う。細い尾根筋の左右に帯曲輪が並び、 其の帯曲輪の南先端部が尾根上に繋がる様です。先端部付近は小曲輪の段差も小さく尾根筋曲輪群の入口部?も浅い凹角溝状から入る。溝状通路は鞍部まで続き西面の谷筋に下っており、東端鞍部から の道とも繋がっているのでしょう?。縄張り図によると盃ヶ岳主尾根から外れて 南に派生する尾根の最高所にある本ノ丸を主軸にして西方と南方に分かれる530mX200mの城域の尾根上に大小様々な曲輪 ・帯曲輪を繋げて構成され、
矢代城南麓の井戸跡か池跡?

その間・竪堀は全域で合計26条が記されています。 中でも本郭部北東の尾根左右と西尾根上に並ぶ 五条の畝状竪堀(空掘)等は丹波の山城では少ない畝状です。登城道として利用する堀切道以外は城域の外に向けて斜面に穿かれるのが普通!!?の竪堀だが此処には下方にも小曲輪群を置く尾根上に五条のうち 三本は特異な??構造になっているようです。先の谷筋道に対する警護と国松館から続く尾根筋からの攻めに備えたものでしょう!。 丹波の山城では見ることも少ない!?石積遺構らしいものがある。
国松館東砦の東山裾部:屋敷跡と濠跡か!!?

土砂や苔を取り除く訳にもいかないので周囲の様子を観察するが露岩の少ないところなので小振りの石で土塁道と曲輪の角を土止め補強整備したところと思えます。此処と其の下の比較的高い切岸を持つ曲輪下部からは急斜面に段差を伴ってあるかないかも?定かでない 小さな削平地が続く。此処に尾根に併走するように畝状竪堀が走っていたのだが、アレッ!!?と思いながらも見慣れない素人の悲しさで・そのまま駆け下り 雑木の藪を抜け堀切に出た。
矢代城南麓の掘状遺構?

西下へは「ユニトピアささやま」へ降りられそうなので、 このまま尾根を辿ったが直ぐ猛烈で急斜な笹薮に突入する。下方に「ユニトピアささやま」の駐車場があるようで車音がするが山裾を流れる矢代川に阻まれることは必定なので藪の薄い西側に採って下ると山道に出たと思ったら矢代城西尾根の末端部を 遮断する深い大堀切を西側に下ると民家(国松邸)裏手に納屋があり、北の奥まった所には小さな社が建ててある。

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国松館と坪ノ内城(国松館の西砦・東砦) xxx 245m 篠山市矢代字坪ノ内

国松氏城砦群については盃山(盃山城)山頂部から始めた方が分かり易いかも?。 盃山城からの尾根続き西方の峰(356m)頂部に主郭を置く矢代城が在る。矢代城主郭(東郭)から南へ延び出す尾根先が二股の分かれる尾根の西側先端部には 平志城があるので後述する…が矢代城の縄張りが西へ城域を延ばす尾根筋西郭にも畝状竪堀があり、
国松館東砦の北堀切下方の段曲輪は屋敷跡か!!?

更に下降の尾根筋にも堀切を持つ出曲輪があるが、其処より南へ尾根が国松館を囲い込むように二分する短い丘陵の東・西先端部にも砦遺構がある。国松館の西の砦・東の砦としてを記していたが東の砦の更に東隣の丘陵にも「平志城」の存在を確認した。平志城の存在と「国松居館」(敷地内は国松家後裔にあたる方々の一般住宅地)なので五輪塔群や地神を祀る祠等はあるが居館遺構はない?ので避け、
国松館東砦の片堀切(左)と空掘(中央)を挟んで土橋状の尾根!!?

両サイドの丘陵上の城遺構を所在地字名をとって坪ノ内城として纏めてみることにした。付近一帯には酒井党の南矢代城主酒井氏治の重臣で矢代城を”詰城”とした城主国松對馬国松館があった所と推察出来ます。此の一帯が中央の居館を警護して小規模城郭を形成している。館域を挟み込む其の開かれた南面左右の丘陵上西郭には 切岸高い数段の曲輪を重ね最上段には櫓台状の方形壇があり今は地神さんを祀るものか? 祠が建つ。南方直前:約200mには池挟んで矢代城や盃山城の向城と推察される大野城とは 対峙する。県道沿いに余りに近く前は国松館の街道監視の砦だったと思える。
国松館東砦の鞍部:上記画像の空掘部を再掲

また居館の東側に延び出す少し長い低丘陵部東郭にも尾根左右には下方を窺う細長い帯曲輪と幅狭いので 犬走り状の細い棚(二段の帯曲輪)が附帯して城域の北端まで長く延びている。幅狭い尾根筋曲輪段をカバーするような縄張りは隣接の「平志城」や矢代入口の「大野城」にも共通している…土橋付の浅い空掘、南先端正面の急な斜面取付点の直ぐ脇が竪堀で下方の農道まで 直線的に落ちる。西砦の西側は矢代川が掘となり東砦も東山裾は田圃との間の谷筋は濠状の溝が続き田圃一枚ずつも曲輪・屋敷跡に見える。 もっとも鹿猪避けフエンス先の藪中の方がズッと屋敷跡に見えるが!!。
国松館東砦:主郭に入る土橋付空掘

東砦の曲輪群へは此のフエンス手前からの急斜面に取付く。フエンス奥の屋敷跡段曲輪から北へ斜上していくと国松館へ抜ける鞍部に堀切。此処にフエンスの開閉口があり尾根筋を東砦に行ける。西砦は「ユニトピア篠山」駐車場から矢代川を渡り堀切道を進んで 国松館に入ります。南側に段曲輪を見て高い切岸に城遺構が期待出来そうです!!。東側には稲荷社が祀られており、 両側が狭まる細い堀切道を抜けて国松館跡
(民家の私庭内…遺構残存状況は不明だが
国松館東砦:T字道路の取付点まで落ちる竪堀!

トタン屋根の下に集められた五輪塔が祀られている一角があり地神さんの祠の先に畑跡らしい二段程の平坦地が曲輪遺構なのでしょう?其の背後を進み東砦北端の堀切に達します)
に入る。五輪塔群のトタン屋根は今回訪れた際は取り外されていたが「丹波八上城攻め」では八上城周辺の支城を順次落としてゆく明智軍の前哨戦によって 落城した城主:国松氏一族の菩提を祀ったものでしょうか。
国松館東砦:主郭南面の竪堀??

東砦の堀切は尾根を掘り切るのではなく、鞍部の国松館側(西)は堀底道の片堀切・矢代城へ向う 北への尾根に沿って二本の土橋状となり間が空掘状の大きな窪地になっている!!?。空掘端を鞍部から東へ降ると先程見たフエンス内の屋敷跡と思える段曲輪状の平坦地へ、また山腹を直進する通路状は途中途切れながらも帯曲輪?(犬走りか?)に繋がる。
国松館内に祀られる五輪塔群

東砦は自然地形の幅広い尾根が延びているだけのようだが低い段差の曲輪があり、浅い土橋付空掘の南側が主郭。南に続く一段下の曲輪先端部は少し迫り出して 櫓台跡の様に見え其の東側から南下へは直線的に竪堀が下方の農道まで落ち込んでいる。此の正面200mには池を挟んで大野城と対峙していることを付け加えると大野城が矢代城向城となった時には将兵は既に矢代城や更に尾根北奥地の盃山城に籠城し、国松氏居館や城砦は空だったのかも知れない。
国松館西砦の堀切を抜けると国松館に入る

酒井党の多紀郡(現:篠山市)への来住は淀山城の波々伯部氏・大山城の中沢氏等ともに八上:波多野氏より以前に来住していた在地豪族。三好氏・内藤氏に多紀を追われていた波多野氏が領地・八上城を奪還した頃には酒井党・その臣:国松氏等も波多野氏の麾下に属した。戦国末期に国松対馬が屋敷を構え波多野氏に仕え、明智光秀の丹波攻めに抗したが波多野氏は滅亡、没落後は此処に帰農したといわれる国松氏の居館と”詰め城”をセットにした典型的な山城は
堀切道から覗く国松館西砦の曲輪の切岸

再訪・再々訪したい魅力を秘めた山城だ。今日のところは駆け足で通り過ぎるだけ…(^^;帰りの駄賃には 途中の大野城に寄ります。氏吉の次の代氏治(弥七郎主水介)は明智光秀の丹波攻略が始まった天正6年(1578)頃には八上城周辺の城と共に落城したものと思われる。
「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、 遺跡郡に関する総合研究ー」 (八上城研究改編 参考)
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平志城  xxx 250m 篠山市矢代字坪ノ内・大野字平志

矢代城(国松城)を廻る周辺の国松氏城砦群には国松居館を背後から両手で抱き込むように護衛する東砦・西砦を坪ノ内城として修正・加筆することとした。坪ノ内城東郭・西郭は其れぞれの尾根続きが詰城の矢代城西郭群に通じているが矢代城の主郭である東郭群に突き上げる南尾根筋の前衛にも南郭があり、
坪ノ内東曲輪北の櫓台?から谷筋へ下って平志城へ

そこに通じる南尾根先端にも 平志城があった。矢代城(国松城)は矢代酒井党の南矢代城主:酒井氏治の重臣であった国松對島が居城し天正6年(1578)落城したと伝えられる。 弘治年間:三好長慶・松永久秀等による丹波地方攻略の激しい戦いのなか・多紀を追われ(三木城別所氏に匿まわれ!?)ていた波多野氏が旧領地・八上城を奪還した頃には酒井党も波多野氏配下に復帰!?・
北端櫓台?から南先端まで延びる長い曲輪:堀切は背後に

国松氏等も波多野氏の麾下に属したものか。国松氏の矢代地名が旧丹南町南矢代城の矢代に起因するのか?、 矢代城築城時期や土豪国松氏についても不詳…です。国松館を包み込む坪ノ内城両サイドに築かれる城郭の西砦の西麓には「ユニトピアささやま」の大駐車場と 当施設に向かう車道沿いには 矢代城山上部から流れ出る矢代川が流れ出て西郭・国松館・東館域を
幅狭い尾根筋曲輪の 東面を2段程の帯曲輪がカバー?

遮断するように分断するが南側の大野城の北先端に落ち込む麓の貯水池も同様!!。貯水池は近世の圃場用水施設とは思えるが貯水池・矢代川が東へ回り込み坪ノ内東郭の先端部(貯水池の北東角)から 大野城の北東角から南に流れる自然の濠ともなっている。矢代川が大野城と国松館を遮断する形で間を流れ、且つ矢代川の国松館側圃場内は沼田堀や
平志城最南端曲輪のみ!?切岸高い

曲輪形跡を思わせる所もある。矢代城を三好・松永軍や明智勢が攻立てた際は大野城が向城として 利用されたとは思える。平志城も丘陵南先端の曲輪切岸は高いが狭い尾根筋に7-8m幅の曲輪を確保しているが東斜面に1-3mの帯曲輪が北端の主曲輪手前の鞍部まで延びる。円墳?かとも思える約12uの櫓台か主曲輪!?背後を一条の堀切で遮断している。

大野城  xxx 256m  篠山市大野字北山

県道97号宮田交差点で県道140号線から東に約1.5kmで「ユニトピアささやま」入口サインボードを見て右折する。 東西100ー150m・南北400m程の此の独立低丘陵上に大野城があり丘陵北端が貯水池に落ちる。分岐から80m程・春日神社上:の比高僅か35m程の独立したほぼ台形低丘陵の尾根上には古墳の墳丘を思わせるマウンド状の台地があり、
主郭南切岸下部の空掘?

車道沿いの城域南西に春日神社・西北に大栄神社(大歳神社)が祀られている。丘陵東裾を濠状の溝が廻り西側は池になっており八幡神社が山頂に祀られ参道入口の石鳥居側に目立つ樫の大木があり町木に指定されている。此処は天正〜文禄(1573-96)年間頃、西谷・矢代・大野・口坂本の豪族宇治谷右衛門が崇敬する社を此処に勧請して創設したといわれ…嘉永7年(1854)本殿を改築して明治6年(1873)村社に列せられています。
大野城主郭南の切岸と堀切?(右手へ二条の空掘?)

守護神と思える八幡社を祀る宇治氏の存在が不詳で大野城もまた城史は不明。矢代城からの西南尾根先に位置する 国松館とは目と鼻の先。大野城の丹波八上城:波多野氏攻めの天正6〜7年頃の相関関係は?八上城:波多野氏や織田軍:明智勢との関わりが気になるところです。「ユ ニトピアささやま」への分岐から矢代谷に入って直ぐのところに春日神社があり、此の丘陵の神社境内を含めた杜の一帯が大野城で大歳神社の東上辺りが
大野城:主郭群南端のL字状土塁

北端の最高所。其処から南の春日神社の上の辺りまで段々に造成された曲輪群が延び、
南端にはL字状に曲輪を囲む土塁が遺る。西面の堀切外の櫓台状は古墳:其の下方に春日神社がある。南下への尾根通しにもL字状土塁下にも山道?の判別が難しい堀状の溝がある。四方を堀切・切岸・北方からの緩やかに続く尾根上に低い段差の曲輪が並ぶが幅狭く長い尾根通し曲輪の末端部までは同様に東西(左右)段下には平行して
大野城北西(大栄神社)背後の帯曲輪と切岸

細長い帯曲輪が2-3段が終端部まで延びる。ぐるりと取り囲むように連なって楕円形の輪郭を形成する帯状の輪郭は網掛城が吹城の向城として築かれたように本来街道警備なら南面にも防備施設・曲輪が並ぶ と思えるが反対の矢代城に向って北方に段曲輪が集中しており防備施設の堀切や土塁も低く浅い。切岸もさして高くなく態勢は弱い!!。矢代城の向城として考えたほうが良いのかも?。
大栄神社(北西)と背後の曲輪

城主等は不明だが当初は矢代城の国松氏一族が領地支配の砦として拠っていたのかもしれないが波多野氏方諸処の城を攻める明智軍による矢代城や盃山の城攻めに落城した後:向城(陣城)として改修され利用されたのでしょう…!?。警護面からも最重要箇所だけに本の丸(主曲輪)は此処:しかも東斜面下に稲荷社を祀る広い平場があるが其の下方には更に広い平坦地形が大野館とも呼べる居館跡であったかと思わせる。
主曲輪東下の稲荷社と背後の2段帯曲輪

直ぐ下には城域東面を南北に流れる矢代川が 深い壕となっている。尾根上の削平が切れる南端の藪で覆われた10uほどの曲輪がL字形の低い土塁で囲われて雑木藪の斜面で終わる主曲輪だが丘陵上には多くの 古墳があったようで古墳の墳丘を曲輪のマウンドに利用している。南へ続く尾根上:堀切状先の曲輪も古墳で浅いが三っばかりの堀状・
矢代城と対峙する北西端:段曲輪と上り土塁?

:帯曲輪東面下の稲荷社曲輪(古墳マウンド)があり、麓には東西の民家間を繋ぐような藪のなかの堀底道が通じている。 主曲輪から北橋まで延びる主尾根筋の長い曲輪に沿い殊に東斜面2-3段の帯曲輪が北端から西へ回り込む付近、傾斜は緩やかになるが上り土塁から主尾根筋曲輪に入るよう(遺構判別は地形の荒廃で判別難しい!?)。



伊勢三郎義盛の供養塔   篠山市西浜谷


篠山産業高校正門前から田園に囲まれた西北方に向かう真直ぐな道の先には、小高い丘に小屋が見えているのに検討をつけて低丘陵山麓の西浜谷集落に向かいます。 この辺りは元・湧泉(遊仙)山福応寺が在った所といわれ、この後に向かった東浜谷に所在する遊谷城の名の由来も湧泉(遊谷=遊仙)に有るのかなと思われます?最近参道等が 整備されたものか、枕木材を敷き詰めた参道や階段が観音堂へ続き均された台地に小屋かと思えた小さな観音堂が建てられ拝殿正面は?ご丁寧に錠前で閉鎖されているので 中を窺い知ることは出来ないが此処に祀られる石仏の盗難避けの施錠だとは…(-_-;)!。
観音堂

参道入口には 「市指定文化財・伊勢三郎供養塔」の篠山五十三次の説明板が建てられ、祠背後に続く山道の進み鹿避けフエンスを抜けると竹薮の先の平坦地の外れに苔生した”宝篋印塔”が在った。宝篋印塔のある山側の台地が旧福応寺跡です。地元民の話では古墳もあったのでしょう。 宝篋印塔への参道を拡げようと掘ったところ石だらけ。石畳状で石棺も見つかったようです。800m程東には丹波最大級の円墳新宮古墳他の古墳群が近在に点在する。 花立に並ぶ小さな石は六甲山から記念に持ち帰られたものという:宝筐印塔の残欠(九輪)があり三郎義盛の妻のものだといわれ”なんの記録・文書もなく、言い伝えだけでは定かではない…其の成り行きは不明だが三郎が”乳飲み子”を預けられ育ててくれと頼まれたという。伝えられる彼の人物像や往時の状況からはとても信じられず、合戦の都度一般領民を巻き込んで繰り返された 婦女子の戦争奴隷や金銭目的の拉致…を考えてしまうが そんな事は言えなかった (-_-;)…
その子の末裔にあたるという方が、年に数回は墓の清掃に訪れるのだと此の日も石塔周りの落葉を片付けておられた。
伊勢三郎の宝筐印塔

宝篋印塔は隅飾突起の一辺や九輪の最上部が欠けていますが基礎・基壇から請花・宝珠まで完存しています。塔身には月輪(がちりん)内に金剛界四方仏の種子が彫り込まれており、 無銘ながら高さ1.59mの石塔は保存状態も良好で室町期初期かそれ以前のものとされています。笛吹山では義経伝説を挙げたが県道を東に向かえば R173号との合流地点・細工所に至るが、此処には那須与市宗高ゆかりの寺・瑞祥寺があり、那須与市大権現が祀られます。源平の合戦では源義経がデカンショ街道(天引峠〜篠山〜今田)を通って寿永3年(1184)三草山に陣取っていた平資盛を破りその足で一気に須磨浦に向い、一の谷の奇襲「鵯越の逆落とし」での活躍はよく知られた話です。伊勢国に生まれ、鞍馬を出て奥州平泉へ向かう義経と上野国で出会い家来となり、その一字をもらった源義経四天王の一・伊勢三郎義盛が此処に登場です。義経軍最強の剣豪で平家追討では数々の武功をたて壇ノ浦では平家の重臣を味方に付けて 義経軍に勝利をもたらし- 弁舌と交渉術にも長けており度々窮地を救ったとか忍者・鈴鹿の盗賊で熊坂長範の徒党等々、小説での活躍が面白い人物ですが此処では外れますので又別項で…。兄頼朝に京を追われた義経や義盛等は文治5年(1189)奥州衣川館の戦いで敗れ自刃するまでの約三年間の消息は不明だが鷲尾三郎義久(経春)【此処より約2,5km東北方、笛吹山城の北山裾:鷲尾地区に屋敷跡と供養の宝筐印塔が立つ】のつてを頼って 御嶽の修験者達に匿われていたとされており、その間に伊勢三郎は亡くなったといわれています。さらに広く知られる鈴鹿山での自刃や義経と共に北国に落ちて衣川館の戦いで討死したとも…いずれも其々に馴染みの里で供養されたと伝えられているようです。
伊勢三郎の宝筐印塔

篠山市今田 市原城の小野原采女(波多野氏の臣で八上落城後。秀吉に属し慶長2年(1597)朝鮮征伐に従軍)の稲荷社の様に、此の社も伊勢三郎は戦が嫌になり山に籠もったとの伝承から、 地元では「戦争嫌いの神様」と呼ばれ明治以降の徴兵制度が布かれてからの「徴兵逃れ」や戦地に向かう”兵隊さん”の無事を願って御参りする親族等の姿もあったといいます。また宝篋印塔は一時期”青山さん”のところに移されていたといい 篠山藩主”青山氏の頃の篠山城か?と思ったが清掃奉仕の方が国立病院付近に城砦があり、其処の城主だったとの話も聞き現・青山稲荷社に移されていたのではないかと思った。丹波大神宮〜春日神社にかけても武家屋敷や古い時代?の居館が有ってもおかしくない!。 居館や砦等が有ったがどうか?また其の時代も検討はつかないが周辺の遺跡分布調査等記録にはあったのでしょうか?。移されていた宝筐印塔は或る年・疫病が流行った時に元の場所に戻され、昔から”禍い除け”の霊験があると言い伝えられています。
(現地・伊勢三郎供養塔の篠山五十三次案内板  篠山市のHP 参照)
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