盃山と周辺の山城巡り 2
校歌の山 岡野小学校 ♪盃山の朝風に…♪
近畿の山城熊谷西城(東浜谷城 仮称) 別荘城(西浜谷城 仮称)
       名柄芦砦と名柄芦北城(仮称)
篠山歩兵第70連隊跡

盃山(盃ヶ岳)の展望台からは山麓の静かで平穏な篠山盆地のほぼ中央部眺望が拡がる。丹波市からは鐘ヶ坂トンネルを篠山側へ抜けR176号「長安寺」交差点を左折して県道140号線を東進するか、丹波市山南町丹波竜の里から篠山川沿い川代峡谷をR176号「大山下」に
名柄芦砦・名柄芦北城・盃山(盃ヶ嶽)山頂

出る県道77号を直進し「西岡屋」交差点(目前の諏訪山は飛の山城“岡屋城”手前)を左折する県道140号が県道301号線沿い篠山産業高校前に合流。ハローワーク・篠山警察署・xx篠山工場等が立ち並ぶ一帯は 篠山歩兵第70連隊兵舎跡。此処が嘗て軍都のシンボルとして”歩兵第70連隊”の兵舎や練兵場が山裾に拡がり、入隊した兵士たちが厳しい訓練に明け暮れていた事などは 夢のまた夢・想像も出来ない。
浜谷池”浜谷水辺の森”

日露戦争後の軍備拡張計画の中で翌明治41年(1908)篠山歩兵第70連隊が編成され、篠山に新設された兵舎に移駐されて以来、日中〜太平洋戦線へと1945年の終戦(敗戦)までの約40年間・兵舎の背後に聳える盃山へは、朝駆けや多紀連山を舞台としての山岳訓練により 兵士達は勇猛果敢な「丹波の鬼」として勇名を轟かせたといいます。
春日神社からの丘陵上に別荘城(仮称)

県道沿いの篠山産業高校東隣には戦時期・戦地へ出征する兵士を見送り・多くが戦死した暗く悲惨な歴史を秘める、古びた赤いレンガ積みの営門や記念石碑が建つ。車道を隔てて篠山産高の農場・スポーツセンタや新丹波荘のある場所が練兵場。盃山山頂から西へのハイキングコース終端は「ユニトピアささやま」だが一帯が歩兵連隊の実弾射撃場だったところ。 今福・西浜谷・東浜谷に点在する古文書・地史・遺跡調査等
熊谷西城(仮称)

未確認の城砦遺構の城名表記には山名も不詳、所在地内に複数遺構があれば…と市の”地名考”等を参考に、殊に町界尾根を分ける山城の所在位置と所在地との関わりも…と迷走。先ずは:東浜谷城としたい集落北の山域一帯が熊谷だが熊谷には 熊谷城があるので”熊谷西城(仮称)”として紹介する。


熊谷西城(東浜谷城 仮称) 別荘城(西浜谷城 仮称)
名柄芦砦と名柄芦北城(仮称)

熊谷西城(東浜谷城 仮称)
 xx山 xxm 篠山市東浜谷(熊谷)

盃山と周辺の山城巡りTでは県道301号「東浜谷交差点(GS前)」を左折して浜谷池への直進道路を入って直ぐ右手の森 (某会社正門前北側)が藤井居館(浜谷館)・此処から幅狭い尾根筋に遊谷城を訪れ ・尾根筋を北に辿り排水施設から北の山麓:東浜谷集落(熊谷・郡家ー東浜谷間を結ぶ地区道沿い)東入口付近に降立ったが、
城域北先端:左右に片堀切

更に集落から北側に延びる尾根を辿ると遺跡分布地図に記載のない結構大規模な城郭遺構が隠れていた。東浜谷集落を挟んで南北の丘陵上には南に遊谷城・藤井居館、北に熊谷西城(仮称)が呼応?するが築城時期・城主等の城史不明!?。八上城西部の防衛拠点として今福・畑郷に勢力を持つ野尻畑氏の掃門・豊後・伊織(畑伊織は八上城:波多野氏家臣)等が拠った盃山城(盃嶽砦)の支城群の一つだろうか?。
城域北端外側土塁から大堀切

盃山は烽山の名からも波多野氏家臣:渋谷氏秀(飛の山城主)・被官人吹城(東吹城・瓢箪丸)城主井関秀次…等への通信基地だったか?。しかし天正6年(1578)頃には明智光秀軍の八上城攻略を前にして周辺の城攻めに矢代・遊谷城等と共に落とされた衰えた 畑氏一族の城砦群の一つだったか?。取付を東浜谷集落内からではなく盃山登山口の八幡神社横から延びる林道の側:浜谷池(二つある池間の堤防を渡って)「浜谷水辺の森」の休憩東屋から
中程の堀切からの段曲輪

直接急斜面に取付き、竪堀状の溝(殆ど稜線まで延びる)添い。尾根上部から城域を抜けて南下し東浜谷集落へ降りるつもり。 尾根幅は広く直登してきた西側斜面に幾本も自然地形の竪堀状溝を見て進む!!。左右の片掘切の先 :いよいよ正面に土塁と大堀切を越え切岸を上ると主曲輪に到着。幅狭い棚状以外に顕著?な腰曲輪・帯曲輪を見ず、尾根沿い直列に段曲輪が並ぶだけだが尾根筋南北に延びる城域内に三本の堀切をもつ。全長150m規模の城域だが、
中程の堀切

最南端堀切を越え緩斜面となった先にも2ヶ所ほど2−3段の削平段がある。何れも段差は小さいが 比較的広い平坦段と山側に排水溝?や流水禦ぐ土塁?が二ヶ所ほどみて、尾根上の踏み跡痕を探しながら熊谷側へ降りる。後は藤岡川沿いに直線道路を南へ進むと、県道301号(本郷東浜谷線)に合流する地点に郡家の 新宮古墳(新宮神社・丹波最大級の円墳と云われ周濠跡の田圃も印象的!!)へ出る。



別荘城(西浜谷城)
 xx240m 篠山市西浜谷(別荘)・今福

西浜谷集落北から・あるいは丘陵南東端に位置する長源寺西背後の丘陵を浜谷池”浜谷水辺の森”の一角・浜谷池は釣を楽しむ人たちで賑わっていたことも…!!)側の春日神社(東浜谷:盃ヶ嶽登山口)までの尾根筋に掛けて遺る城郭遺構で、此処も西浜谷城としたいところだが西浜谷別荘・東浜谷・今福が
城域北端から主曲輪を望む

町界を三分する位置に主郭がある。西浜谷集落内からの取付点探しは土地勘もなく勝手に入り込むのは無謀!!。長源寺からがベストなのだが…寺裏手北から西尾根側にかけての樹木が 伐採され地肌を見せているが伐採樹木は”枯れ放し”状態のまま・そのうえ荒れた急斜面と猪垣フエンスが巡らせ、其の出入口の開閉も侭ならず…。 取付き点を浜谷池側の春日神社からにする。境内右手の盃山登山口からは城趾主郭付近の疎林部が見える。
主郭西面の帯曲輪

別荘城(仮称)は盃山から南へ伸び出す丘陵尾根が春日神社西で南東・南西二方向に分岐して尾根先を落とす位置から 双方に自然地形か?緩斜面に低い段差を伴う平坦地形を観るが最高所に切岸加工の主郭・一段下部には帯曲輪・腰曲輪や、 数ヶ所には曲輪側から落ちる竪堀や浅くなっているが堀切を残す…。数段連続する曲輪段の先には尾根途中に
短い竪堀含む南端曲輪から主郭切岸西面

土塁状盛土?を二ヶ所ほど観るが、土石を抱き込んだままの大きな樹木が 土砂流失を防いで残ったものかも?。城域の尾根筋を北から南へトレースして長源寺背後の稜上に出たが、長源寺前へ出るフェンス開閉口は伐採された樹木が積まれたままの”枯れ放し”状態のうえ激急斜面。フェンス沿いに降り 長源寺から延びる南東端の寺墓地参道に出て、墓地入口前で藪を突いて西浜谷集落への地区道へ降り立った。


名柄芦砦と名柄芦北城
 
名柄芦砦: 丹波篠山市今福字名柄芦
今福の八幡社裏山に名柄芦砦がある。今福城と関連する砦のようで麓民家には畑姓もある。
八幡神社背後に塹壕状?空堀と綺麗な曲輪

遺構は八幡社直ぐ裏手の空堀・曲輪から始まり、浅い堀切道?(山道)が名柄芦1号墳(前方後円墳 径25m・高4m)にまで延びる。北面下部に観る曲輪 ・土塁は古墳の周溝であったか!!?、尾根続き緩斜面に名柄芦2号墳(円墳 径12m・高2m)もある?…。「旧多紀教育会館」近くの圃場で作業中の方と立ち話していて、
名柄芦砦:主郭(古墳)北曲輪の土塁

八幡社のある山の山主さんで、目の前の丘陵に「今福城」・西方の大野城の存在はご存知だったが、持山が古墳らしい?が山城跡とは 気付かれていなかったよう。曲輪が古墳のマウンド(名柄芦1号墳・2号墳)を利用したもので城砦名を「名柄芦砦」とした。此の八幡社山麓東のお寺裏の山林に”明治37年4月7日6時35分頃隕石が落下。 正に八幡社裏手に廻り「名柄芦砦(仮称)」に向かい歩き出した付近か?。
今福電波施設から東に熊谷西城・遊谷城:西に名柄芦城

落下した日時が確認されており、目撃者もある隕石は鉄の成分が非常に高い(94.85%が鉄)岡野隕石”サイズ11.1cmx18cm・重さ4.74kg”は京都大学総合博物館に「隕鉄岡野号」と名付けられ保管されている。
近年:故郷創生・啓蒙活動の一環としてか!?、隕石落下地点に記念石標建立の計画もあったようだが…。
【神戸新聞 2021.3.7付 落下地点の山林に記念碑が設置され現地で式典があった旨記事を見た】
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名柄芦北城:
丹波篠山市今福・西浜谷・矢代

名柄芦砦の古墳北側下の曲輪の土塁(古墳の周溝跡とも思えないが)切岸4mほど下から暫く尾根筋は緩斜面だが…更に7-800m程?続く登り尾根は積もり重なる落葉に足を掬われ・愈々急峻となり孤軍奮闘:灌木の木枝を手掛かりの登行となるが、気付けば上方には南斜面に末広がり!?扇状に拡がる3−5mほどの切岸加工された曲輪群が階段状に連続:しかも左右にも広がり
名柄芦北城:尾根筋を塞ぎ切岸加工の段曲輪群が現れる!!

幾重にも重なり上方:山上部主郭まで積み上げるが全面に土塁・堀切・竪堀等防護施設はなく、特異な形状の縄張りは近在には珍しく・尾根続きの城域末端には堀切もある「名柄芦北城」がある。陣城か?…眼下の街道筋は見えず・眺望は余り良いとは云えない。西南方に舞鶴若狭自動車に添う宮田荘 (旧西紀町宮田川沿い)内が僅かに望まれる…が距離的に遠く!?、山麓を東に入ってくる矢代・川北の平野部や、半峠状の西玄関口を大野に入ってくる要衝監視には適していない!!?。此処はとても畑氏の詰城とは考え難い。主郭背後を少し下ったところに敷設されている堀切を越え、此処からは更に続く急斜面上ピークを目指すと、丹波県民局の「今福反射板」施設がある。直ぐ其処に見える筈!?の盃山まで 距離は近いが踏み跡なく藪漕ぎと起伏を越えた更に先。矢代・西浜谷・東浜谷・熊谷・郡家…等一帯を睥睨する盃ヶ嶽だけに、今福の畑氏以外にも:周辺に城砦(城主等城史不明)は多く、
主郭南面の切岸

所在は「今福」だが名柄芦砦も尾根続きなので名柄芦北城(仮称)とする。 地理院標準地図と「赤色立体地図 PRIM10_2016(無料DL可)」を見比べて観ると驚いた。近在には無さそうな特異な縄張りが見えてくる。巻貝?の螺層を思わせる様な横に広がる切岸と曲輪が末広がりに重なり、山上の主郭は差詰め”殻頂”といったところか!!。主郭北東端に堀切があるが此の先尾根続きも激急斜面。
主郭背後の堀切

上方ピークには丹波県民局今福反射板(電波施設)が建ち、盃山へも遠くない筈だが踏み跡薄く方向さえ見失いそうな深い藪漕ぎになりそう…。盃山山頂へは諦め、今福反射板から浜谷池は見えないが池を挟む西浜谷・東浜谷集落への二つの尾根筋が望めるので、西浜谷側尾根筋を盃山登山口の東浜谷の春日神社を目指しておりる。
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