丹波富士と山岳寺院跡と酒井党の山城  松尾山(高仙寺山)~白髪山
山岳寺院と古城と丹波富士を訪ね…松尾山(高仙寺山)~白髪岳 2002年10月12日
近畿100山関西100山 白髪岳
ふるさと富士 白髪岳(丹波富士)
近畿の山城: 高仙寺城 (味間北城と味間南城 )
校歌・故郷の山 古市小学校
♪松尾の山に朝が来た…♪
          丹南中学校 
♪高仙嶺に みどり濃く…♪
東尾根から白髪岳(丹波富士) H16.11.7

無名峰が多く知名度の低い兵庫丹波の中にあって白髪岳は多紀アルプス(三尾山・三嶽・小金ヶ岳)がガイドブックにも紹介され、登山者の姿を見る事が多く、改めて紹介することもないのですが、登山コースが治山治水等で整備・変更された事で山の歴史を伝えるポイントが忘れ去られ気付かず通り過ぎる人もいるようで今回・丹波の代表的!!な山を案内する契機に書き加えました。

山岳寺院跡と山城と丹波の富士を訪ね…松尾山(高仙寺山)~白髪岳 H14.10.12

R176号線で日出坂を草野へ下ってくると白髪岳の雄大で堂々たる山容が飛び込んでくる。古市から372号線に入り踏切を渡って直ぐ天神川沿いの住山集落への道を辿ります。登山口には大きな案内板があって不動滝・雲海・高仙寺跡・卵塔等の名所や 史跡スポットの絵付き登山案内板がある。山に向って進むと直ぐ白髪岳・松尾山コースの分岐となる(AM7:00)。
南尾根から松尾山(高仙寺山)

不動の滝・高仙寺跡から松尾山-白髪岳へ勿論・縦走途中で丹波富士らしく見える白髪岳の姿も確認します。真っ直ぐ延びる短い作業林道の中程から茶畑の中を右手に斜上する山道は 首無地蔵から三基の石仏へ出る道ですので谷筋に沿って杉林に囲まれた山道に入っていきます。しばらく歩くと左手にロープの見える登山コースの正面に苔むした黒い岩場が見える。此処に不動の滝があり 以前滝を捲いていた左手に不動明王を祀る。足下は苔むした岩場だが手掛かりは安定しているので上部の斜瀑(此処からは見えない)と一緒に越して先ほどの滝を捲く登山コースに合流します。7~8mの水量も少ない滝だが行者が身心共に浄めた行場。不動と上部の滝を一緒に捲きあがる岩間には”金剛蔵王”と 台座に彫られた像が祀られていたりもする。
高仙寺城(松尾山頂) H16/11/07

程なくして "近道"と書かれたT字路に出る。右手へは首無地蔵を経て住山へ下る道。近道の右手を採って愛宕堂の建つ高仙寺本堂跡に着く。 右手の一段高い平坦地には案内板のある阿弥陀堂跡で三基の石仏が祀られる肩越えの辻を経て文保寺への分岐路でもある。法道仙人の供養塔や愛宕堂、地蔵尊の建つ本堂前を通って山腹を捲くように西へ少し降り気味に 10分程進んだところが松尾山への尾根取付きで西面に開けた台地に卵塔群 (AM7:45)が建ち並んでいて高仙寺が山岳大寺院であったことが伺い知れます。此処から松尾山南峰手前にある仙ノ岩へはロープも混じる 急勾配が続くが東(右手)が明るくなると一気に展望の開ける仙ノ岩(AM8:00)の頭に出ると東南側の霧も殆んど消え多紀アルプスの 三嶽・小金ヶ岳や弥十郎辺りまでは何とか 確認できる。 白髪までに展望の良い休憩場所は此処だけなのでゆっくり六甲の山並み 大船山羽束山有馬富士西光寺山・虚空蔵山と目ぼしい山座の同定を始めます。
高仙寺跡・卵塔群

南峰から松尾山本峰へ降る鞍部途中には千年杉(樹齢数500年)の巨木があり根元付近から二本に分かれて立つ。 もともと二本の夫婦杉なんでしょう。鞍部からの短い登り返すと豪族:酒井主水介氏治が明智光秀の丹波攻略に攻し築城の城。尾根伝いに 小さな数段の曲輪を抜け最期2m足らずの段差を越して本郭の山頂削平地に着くと高仙寺城(松尾山687m)。周囲の植林で展望はないが暗く陰気な城のイメージはない。西側にも一段下に広い曲輪があるが倒木や雑木・ササが覆っている。
白髪岳山頂 H16.11.7

仙ノ岩で充分休憩しているので白髪岳に向ってドンドン下り文保寺への分岐も過ぎると尾根筋に有った山道が途中 689mピークの 山腹をグルリと捲いてゆく。黒石ダム~小峠にかけての県道36号で行われていた送電線工事の次は此方へも伸びて来るのか!!?途中森林工事用とは思えない広い道が 出来ている。ただ山腹を捲く道とこの工事道での切り開きで丹波富士・白髪岳の聳え立つ姿を望むことが出来る。689m中間ピークを過ぎるまでの緩やかな道も白髪岳を真上に見るほどの最後の激登りが待っています。坂が急なだけではなく崩れたり侵食された深い溝状に登路を探すが現在は太いロープが張られており助かる。しかし登山者の多いコースは益々荒れていくようです。多紀アルプスの三嶽に不用とも思える程の長い偽木のコンクリ階段が設けられているが、資材の一部を此処に回せなかったもかと…!?篠山市になる前だったので無理か!?。左右に立木やロープがなくなれば松尾~白髪を歩く人はすくなくなるかも?急坂を登り切ると白髪岳山頂(2等 722m)には露岩の360度展望台が待っている。
住山集落入口付近から白髪岳
「恋しくば 尋ねても来ん白髪岳 隠れはあらじ住山の里」平家の尼 蓮司

北方の丹波大山付近は住吉台住宅付近をポッカリ空けた白い霧が拡がっていますが明日の予定の高見城山・佐中三山(三尾・黒頭峰・夏栗)から西嶽 ・三嶽・小金ヶ岳や妙見~白山・身近の尖山~西寺山や西光寺山・安全山のアンテナ塔から篠ヶ峰や 千ヶ峰が同定出来ます。紅葉しかけた眼下の尾根・谷間を見ていれば、後しばらくの我慢で山を埋める紅葉の素晴らしい景観が想像できます。南側の住山に下り始めれば直ぐに露岩が目立ち始めます。展望岩場に立つも良し。リッジ通しの岩尾根も愉しいが、この後の行程も長いので一般道を下ります。ゴウロの谷筋で山道が谷向かいへと続いている。谷を降る道は新しい堰提が三つばかりあって、その迂回路が出来てしまい堰提との間にある銀鉱穴跡も迂回路から見えているが藪に隠れそうになっています。
文保寺の山門

明治8年から3年間にわたり 銀を堀り時の兵庫県知事・伊藤博文に収めたとのことです。住山から白髪を目指す初めての登山者で"銀鉱穴跡 "に気付く人はいるでしょうか??林道終点は直ぐ其処で東屋の休憩所が出来ていた(AM9:30)。此処が林道終点と思っていたが車道は未だ先へと延びていた。林道を下れば桜公園だが今は雑木藪に埋まり公園の名前はとっくに消えてしまっている様。 今・白い花を咲かせている茶畑の広がる林道を抜け出れば松尾山・白髪岳分岐の案内板のところへ帰り着く(AM9:45)。住山集落の入口付近で再度・白髪岳と別れの挨拶をして宿場町の面影を残す古市の細い道を抜けて次の目的地 ・多紀アルプスを目指して篠山市街地へ向かいます。


 高仙寺城

高仙寺と高仙寺城(松尾城)  松尾山(高仙寺山) 687m 丹南町見内・南矢代

丹波富士・白髪岳(丹南町の最高峰)から東に延びる尾根に並び立つ松尾山 (高仙寺山)の南側中腹には大化元年(645)法道仙人開基を伝え最盛期の鎌倉時代には七堂伽藍や26もの僧坊が建っていた高仙寺跡があって肩越えの辻への分岐の広い削平地は阿弥陀堂跡で3基の石仏があり段下の平坦地には 本堂跡に愛宕堂が建てられ鐘楼・不動堂・宝 蔵等の跡や法道仙人供養塔が残っています。
高仙寺跡の無縫塔(卵塔群)

大正10年(1921)まであった高仙寺本堂跡から松尾山へのコースを西へしばらく進むと大小様々な40数基の僧侶の墓碑【卵塔(無縫塔)】群が西を向いて並んでいる。平安遷都をされた桓武天皇の修理改築の勅令により 伝教大師(天台宗宗祖)が比叡山より御来錫され、松尾寺として再建復興以来国家の勅願寺となった。鎌倉時代には栂尾の明恵上人によりもたらされ高貴薬として珍重された中国茶は金山茶と称された丹波茶の始まりです。
高仙寺城(最高地点松尾山頂の主郭)

宇治茶に押されて名前の存在感は薄いが母子(もうし)茶とともに松尾山の北側にある味間地区は丹波霧が育てる丹波茶の里です。南北朝期には比叡山天台座主:大塔宮護良親王は北条追討を当山に下され、地方豪族酒井氏と共に大義名分のため南朝に参じて勤皇の誠を尽くしています。此処より尾根通しの 急登が始まりますが途中:一枚岩の巨岩仙ノ岩(仙人岩)からは岩盤上からの展望が楽しめる。此処も高仙寺城城塞群の一砦跡だが遺構の見分けが出来ず確認出来なかった。
高仙寺城本郭西側一段下の帯曲輪

コース途中にある千年杉を見て鞍部から尾根上に数段の曲輪を観て顕著な最後 2m程の段差を越すと高仙寺城の本丸跡の広い削平地に着きます。戦国時代天正期には八上城の波多野氏に属し明智光秀の”丹波攻め”に抗し波賀野城を酒井党の右衛門兵衛を守らせます。永禄年代(1558-70)末期には 更に高く険しい松尾山頂にも城を築いて酒井金吾に守らせた南矢代城主酒井主人介氏治も天正6年(1578)5月大山城の中沢 (長沢)氏を救援の途中で矢を受けて落命したと伝えられます。町史や資料では新田氏一族の大舘氏義の末孫で波多野七頭の一人・左近将監氏忠が拠ったとの記述もありますが…!!

高仙寺城本郭東側は崩れているが石積らしい跡が見られる


広い腰曲輪を持つ山頂部から仙の岩付近や其の南下部へと 南尾根上の三箇所に数段の曲輪等:城砦遺構が観られる。波賀野城・南矢代城・大沢城等の酒井三家が独自の城を持っていたとも考えられ油井城と共に 酒井党の拠る最後の詰め城ともなっていたようです。松尾山も”丹波攻め”で全山焼失したが秀吉が天下を平定後、この戦禍災厄のつぐないに朱印状を下され、宝永3年(1706)に再建され、次第に僧坊建ち並び高仙寺は天台中本山として 丹波有数の寺として復興したが明治維新の廃仏令により衰減荒廃するが大正10年(1921)現在の地(南矢代の国道176号線沿い)に改修築されて移されました。

=============================================================================

【文保寺】
白髪岳~松尾山登山はJR古市駅側の住山からのルートが知られるが北側の味間側から古刹:松尾山文保(天台宗:本尊に聖観世音・千手観世音両観音菩薩)からのコースもあり仙の岩等の岩場・岩尾根を辿る白髪岳や松尾山を回峰する。
文保寺本堂

北の登山口:文保寺と其の開山:法道仙人(空鉢仙人とも)は播磨の多い伝説からも役行者と同一視されているが丹波修験の道場として拓かれていたのかも…。文保寺は大化年間(645-650)印度より来朝の法道仙人が聖備山長流寺を開創し七堂伽藍を造営し聖観音(法道仙人開基の寺といえば本尊は十一面観音!かと思うが!)を本尊とされたが承平・天慶(931-47)頃の兵乱に荒廃した。鎌倉時代後期の花山天皇の御代:正和年間(1312-17)御本尊に慈覚大師の
文保寺本堂・正面扉の透彫り

千手観音を安置再興され文保年間(1317-19)京都宝鏡寺門跡(人形寺で知られる)一品親王より寺号「文保寺」直筆の勅額を賜り山号「松尾山(聖備山の読替え?)寺号は年号から文保寺と改められます。戦国時代:天正の乱でも焼失し再び荒廃していたが江戸時代に再興されています。全盛期には21ヶ坊を数える大寺院となっていたが明治以降の塔頭寺院には真如院・大勝院・観明院の 三ヶ院を残すのみとなっています。寺に入るのに先ずは石の鳥居を抜けて山手に向います。
文保寺本堂と法道仙人供養塔

境内に味間地区一帯の総社でしょうか …二村神社があり波多野氏の勅願所として加護を受けていた。先ず目を引く堂々の大きな構えの山門の文保寺楼門は市指定文化財 (昭和47年4月24日)で鎌倉の建長寺に模して建立されたと伝えられ、天正の乱で焼失 ・天正末期頃には再建された。大正14年(1925)に下層部が解体修理された銅板葺き入母屋造り、三間一戸の楼門で肘木に唐模形式が見られるが 全体は和様を基調としており、上層部に再建時の部材がみられ彩色されていた形跡があるという。
二村神社


室町時代末期の 構造的風格があり、篠山市内の楼門建築中でも最も古制の遺存した建造物とされます。此処に公孫樹の大木が有って、銀杏の実を拾うのに夢中になってしまいますが…山門(楼門)同様、威風堂々と静寂の中に建つ本堂も立派です。本堂の正面扉を飾る欄間の透かし彫りの中国故事に由来する物語には一話一話に興味が湧いてきますね。
現地文保寺略縁起案内板 篠山市教育委員会 等を参照)

本誌丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system