丹波古城は展望の山 丹波悠悠の森〜高見城山〜石戸山〜岩屋山
丹波市(五万図=篠山)
T小寺山〜高見城山〜石戸山〜岩屋城〜観音寺 2001年02月18日
U丹波悠悠の森〜高見城山〜石戸山〜岩屋山  2001年09月02日
V
禅座坂〜高見城山(485m)〜丹波悠悠の森 2001年10月13日
高見城山より譲葉山〜向山連山

近畿の山城 高見城 山の神城 大新屋代官所(佐野家陣屋
校歌故郷の山  新井小学校♪白雲なびく高見山xxx…♪
          小川小学校 ♪朝夕仰ぐ岩屋山xxx…♪
丹波のお話 石見神社・日本一の大碁盤の意味は!

故郷の山に佐治の流れ(加古川)を見下ろし5つの山城を望む展望地が此処にある。高見城山(高見城=仁木氏の古城)・石戸山については多くの史跡が点在しキャンプ施設のある丹波悠々の森から鴨野コース、 又は丹波の古刹(山南三山の一つ)石龕寺・寺坂コースや八の瀬コースも有ます。
高見城南曲輪から主郭の高見城山H16.09.20

しかし西面からのコースは佐野から高見城山へのかつての登城ルートが利用されているだけのようです。175号線の夫婦橋辺りから顔を覗かせている岩屋山や 石戸山をと今回「丹波森の径」兵庫県丹波民局作成ガイドを手に出かけます。4人10脚で展望と古城を結ぶ丹波の山の特選コースをご案内 丹波の山特選コースは二人+一匹にとっては始めての山”丹波悠々の森”からのSTARTはオカリナの演奏付きの見送りで感激 報告はコースUにて



T 福田〜小寺山〜高見城山〜石戸山〜岩屋山(506m)〜観音寺  H13.02.18

西脇方面からR175号線を柏原に向かい 立石山〜大岩山の山麓を走り抜け夫婦橋(レストラン)先の喫茶店南角を右折して奥の白いガードレールと、その上方の送電線を目印に進むほうが分かりやすいでしょう。福田坂の峠にはカーブミラーと簡易倉庫のある巡視路 (火の用心No78)入り口が有ります。路肩のスペースに駐車して出発(AM7:50)。プラ階段が暫らく続くが後後は快適な1m幅の道が延びていきます。
鉄塔285mから中央・蛇山〜尖山は大谷395m

明るい道で右手に石戸 〜高見城山への稜線が後方には蛇山〜大谷〜古天神が岩頭の片鱗を覗かせています。送電線を挟んで 高釣瓶〜篠ヶ峰稜線の先には カザシ〜(西の)岩屋山も篠ヶ峰に向って稜線を連ねています。尾根の分岐から左へ2分歩けば鉄塔のあるピークに到達する。 展望益々よくなりしかも360度・遮るもの無しです。鉄塔の手前に小寺山(3等3角点別名:大清水峰 365m AM8:10)があります。
小寺山から白山(手前)と右手に弘浪山を望む

先に5つの山城と書いたのは先ず 岩尾城とこれから向う高見城山と岩屋山( 石龕寺城)、独立峰のようにどっしりした岩の鎧を身にまとった様な二つの山塊が 白山(赤井氏発祥の地に近い赤城山・赤井城祉であり白山権現山とも呼ばれている)とその右には 弘浪山(高山寺城祉)がぐるりと取り巻いています。 勿論 山影で見えないが穂坪城はじめ多くの山城が点在しています。急斜面はプラ階段になっていますが、いよいよ巡視路は急に左へ下り始めると目の前には大岩が累々と続きます。 岩間を縫うようにすり抜け攀じ登る。右側はスッパリと切れ落ちています。
悠々の森〜高見城コースから向山連山

急な岩場を稜上近くで左側の岩間を此処も急斜面を下って巡視路と合流します。 此処の周辺の様子は後刻、石戸山手前の賽の河原の展望ピーク(河原の中の岩の突起ではない)からは稜線中央付近の露岩を 見せる先鋒が目立ち、此処の様子が分かりますので確認してみてください。岩場通過は岩慣れた人には快適でスリリングな場所ですが殆ど人の通過の無いところです。 浮き石等充分注意が必要です。
馬背山砦(仮称)から氷上盆地の霧海H19.11.24


このコースも急に良く踏まれた道に出れば高見山〜石戸山のメインストリートです。折角なので目前の高見城まで往復します。 此方側からだと山城の面影をはっきり窺うことが出来ます。丹波の森公苑への坊の奥(364m) へ縦走の分岐(AM9:00)からは整備され案内標識もある道が通じているようです。直接本丸へ行かず裾を巻いて亀井戸(AM9:15)に出ます。此処は貴重な高見城の水源 だったが跡としてだけで面影なし。「この山裾から18町 (約2km)朝日輝き夕日射し込む 三つ葉柳の露の下 一丈五尺の井戸の底 黄金の束が 7・8ッ」 朝日・夕日伝説は此処にもあり種々の埋蔵金伝説を産む。 三つ葉柳」とは果たしてどんな木なのでしょうか?
賽ノ河原から石戸山へ向うH13.09.02

高見城山 485m(AM9:20)には 真新しい山頂石標が建てられ標高低くとも四方を睨む眺望の山城で、此処からだと春日:多紀の三尾山や三岳から播州方面の山々まで遠望できる。本丸(山頂)から東700mには 般若寺跡があり 三体の虚空蔵菩薩は落城のさい三体はそれぞれ麓の鴨野、母坪(穂坪)、 稲継の村へ移して祀ってあるとのこと。小寺山への分岐を過ぎてメインストリートは鉄平石が散乱する賽の河原 (AM10:05)に着き更に・
高見山登山口 :三寶寺の朝H19.11.24

8分くらいで石戸山(1等三角点 549m)だが展望は望めないので 素通りして岩屋山へ向います。岩屋山(506m AM10:22)山頂付近は石龕寺城で 石龕寺へ降る展望広場への分岐は正面の鉄塔の見える稜線伝いに重ね岩(AM10:30)鉄塔下へ出て鉄塔を過ぎ、少し上ると今度は急激なくだりになりますが、この巡視路に階段は有りません。 MTBだと放り出したくなるような斜面ですがしばらくの辛抱。左のゴルフ場側へ巻きながら降る道が 下降路らしいが、最終目標へは短い登りで観音寺 (4等3角点370mAM11:00)山頂だが展望はあまり良くない。三角点から伸びる尾根通しの踏み跡は下草藪に覆われて消えていくようだ。
登山口:三寶寺の紅葉

山頂手前左へ比較的明瞭な道が続きますのでこれを伝って下りましたが、この道も途中で消えてしまい薮を漕いで酪農民家脇へ出てきた。そのまま車道に飛び出したところは福田橋(AM11:30)のところでした。どうやら最後の山頂への 手前の道を辿ってこの福田橋下手100m位か?の送電線下に出るのが正解のようでした。福田橋からは公民館横のT字辻を峠へ左折して駐車場に戻る。(AM11:45)


U 丹波悠悠の森〜高見城山(485m)〜石戸山(549m)〜岩屋山(506m) H13.09.02

昨日は六甲・西山谷で お付き合い願った「山と小箱」(=^・^=)★さんですが、私とはメールでお付き合いの愛犬KOBOちゃん(6才)とママのさんも一緒です。 二人+一匹を丹波では始めての山域へご案内です。「丹波悠々の森」AM8:30とメールで知らせていたので低徘 :関西支部きっての有名人 ・丹波のたぬきさんと「山であそぼっ」播磨の島田さんが一緒には登れませんが…と出迎えです。先着の島田さんや程なく到着の丹波のたぬきさんとは初めて御対面の(=^・^=)★さんです。
般若寺跡付近から石戸山

み〜とさん・Nさん+KOBOちゃんとの御対面の後 :島田さんのオカリナ(ソプラノ?)・たぬきさんの(アルト?)のオカリナ共演です。静かな朝の森に響き渡る音色に演奏者も陶酔しているよう…(AM8:55)島田さん・たぬきさん夫婦に見送られ4人10脚の今日の行程・高見城山〜石戸山へと出発します。 悠々の森の林の中にある「ベルピーマン」は山から降りてきたら寄る約束ですので、 管理棟の横からキャンプ場を抜けて山道に入っていきます。展望台への分岐尾根からは山道の左右にツルリンドウ等草花を、花好きなNさんは早々と見つけますが指摘されなければ素通りしてしまう。
丹波悠々の森・ベルピーマンにて


尾根からは段々と展望が開けて近くの向山や弘浪山・白山、お二人の次の目的?五台山〜愛宕〜五大山と氷上の山が 顔を揃えてきます。左手下方には悠々の森のハウスや二つの池 (山ノ神上池・下池)が見えてきます。その先に続く山塊は 坊の奥〜丹波の森公苑へと続きやがて井戸跡?に到着します(AM9:50)。これより後の登山コースは石戸山〜高見城山や頭光嶽〜石戸山〜八の瀬 等を参考にしてください。汗ばむ顔を撫ぜていくのは心地よい秋の風。降雨50%の週間予報は良い方向に軌道修正です。 高見城山山頂(AM9:55〜10:20)からの好展望には、お二人とも○(マル)の表情です。賽の河原(AM11:20〜11:30)を通り抜ければもうそこは石戸山(1等三角点 549m AM11:37)ですが展望も無いので岩屋山に向います。
石戸山山頂

岩屋山からは元来た道を引き返し鞍部の堀切から金屋鉱山跡地へ降りランチタイム (PM12:10〜12:40)。今下ってきた旧斜面の登り返しに、二人ともガックリのご様子ですが、 鉱山跡の広場は明るくKOBOちゃんも美味しい水が飲めて一応満足のご様子です。こんなコースで登り返し、あまつさえ石戸山からは藪っぽい尾根〜谷を下って元の「悠々の森」に戻る行程を、 お二人は今振りかえってどのように感じられているのでしょうかね ?。 石戸山へ引返し(PM12:55)八の瀬に向う稜線を辿り鞍部(PM1:15)からは谷に向う踏み跡を辿ります。谷筋は荒れて歩き辛くなってきますが、水量も段々多く少し落差のあるところには 水溜り?喜んでいるのはKOBOばかり。次々と流れの中で水溜りに入り行水しています。
岩屋山鉱山跡地


随分長く感じた荒れた谷も橋が現れ歩きやすくなる。この林道も短時間に抜けられると思っていただけに実に長い単調な歩きで大新屋の集落 (林道入り口ゲートPM2:15)です。これより道を山側へとっての峠越え。地図では車でも抜けられそうだが、 そんな生易しい峠道ではありません。棘や蜘蛛の巣を掻き分けながら丸木の階段を進み、巡視路を分けて谷筋に沿っての道は荒れて崩れて、峠道なのに谷を登っている感じです。 やっと歩きやすくなってくるとしだ坂峠?登ってきた大新屋側には山ノ神が祀られている(PM2:40)。
ログレストラン:ベル・ピーマン

此処から丹波の森公苑へハイキングコースが整備されています。峠からの降りも道は広くなったが 足元は湿気て、苔むした石は滑りやすい。連日の疲れからか(=^・^=)★さんはヘロヘロ!!?? よく転んだり、躓いたり…大丈夫ですか〜山ノ神下池に 突き出るように弁天の祠のある空き地には10数本のユリの花が咲いています。道の左右の秋草を愛でながら駐車場に帰りつきます(PM3:25)。帰るに良い時間ですが約束なので 「ベルピーマン」に寄って貸切状態でのティータイムです。
   


V 丹波悠悠の森〜禅座坂〜展望台〜高見城山     H14.10.13

佐中三山(三尾山・黒頭峰・夏栗山)を予定しているが早朝になって霧が出始めたので、丹波の霧海を見せてあげられるかも知れないとAM5:30起床。関東から長期出張中の”低山徘徊派”「山登家」氏を昨日から招待して丹波の山廻りです。サラダも用意していたが"茹で卵 "とトーストで朝を済ませ、母が用意してくれていた昼食用の鯖寿司をザックに積め霧の中を出発します。
馬背山砦(仮称)から氷上盆地・弘浪山 ・水山方面

柏原へ迂回すれば360度展望の高見城山へ寄って霧海の氷上盆地を楽しめそうです。 客人には「丹波悠々の森」からキャンプ場への道をとらず三宝寺北側;高見城主仁木頼章の墓から禅座坂へ向かう。夏場は早朝だと足下が露でズブ濡れ状態だが、今はササを分けて 登る必要も無く濡れることも無い。猪垣の柵を開閉して入れば其処はもう禅座坂・室町末期の五輪塔があります。 晴れていれば南東方向に坊の奥が見えるが山名からは山中に寺院が在り、此の峠で寺院に向かい 座禅をしていたのでしょうか。
高見山山頂から黒頭峰 ・金山方面H19.11.24


本光山三寳寺 (臨済宗妙心寺派)は540年前開山の禅宗(座禅を修業に取り入れる)だが!!。因果関係は不詳。此処からは尾根伝いの整備された広い道、 丸太の階段も続きます。九十九折れを繰り返すうち傾斜も緩やかになると 東屋のある展望台に着きます。しかし周囲の木々は展望を遮って伸び続け、ただの休憩場所だが、軽登山者以外余り利用者も無さそうです。 この辺りからは霧が無ければ俄然・目の前に聳え立つ高見城山や、 足下に悠々の杜ログハウスやキャンプ場・山の神池が見えるが、尾根筋の他は真っ白の世界です。
禅座坂・五輪塔は室町時代のもの…

「松茸山につき入山禁止」のロープや止札は此れより山頂直下の「亀井戸の跡」付近までの尾根筋には 数段の曲輪跡も見かけます。「高見城跡950m・展望台600m」道標は、悠々の杜からのコースと合流する鞍部 ・山頂にかけては凝灰岩の 露岩急登となり展望も開けてきます。上方は一気に霧が晴れてきて高見城山が輝きだし期待通りのタイミング。
三宝寺庭園

亀井戸の跡を過ぎると山頂の主郭を東南にグルリと捲いてしまう山道を送って、 右への登りは三ノ丸曲輪に鎮まる愛宕社の祠前に着く。高見山山頂からは北方に見える岩壁への瘠せ尾根に続く分岐点です。愛宕社の上部は直ぐ高見城山山頂です。グッドタイミングで周囲の山 々が全て裾を白いベールで隠し浮んでいますが …客人には霧海の感慨があまり無さそう。石戸山への往復も考えたが次の目的地夏栗山・黒頭峰・三尾山 の佐中三山に向かう為:「丹波悠々の森」へ引返します。
三宝寺境内


三宝寺周辺新井神社の参道から西の山裾に向かうと”丹波悠々の森”の広い駐車スペースに着きます。秋のシーズンなら紅葉の絨毯の山門を潜って三寶寺境内の 景観を楽しみながら高見城の城主で丹波守護職ともなった仁木頼章の墓から禅座坂〜展望台(東屋)の稜線に出て ・悠々の森からの高見城山コースと合流する登山ルートがあります。展望台〜禅座坂〜尾根東末端部にかけては東鴨野城 域で東末端部には曲輪・空掘遺構が残ります。
三寶寺参道

本光山三寶寺(臨済宗妙心寺派)は530年前の開山とか。三寶寺・悠々の森 ・山の神池が近接する周辺には古墳群が点在しています。三寶寺裏には山根古墳群・野外活動施設側入口の駐車場から高見城山への登山口にかけての山林の中には 七ッ塚古墳群が有り登山コースからも見えています。駐車場から南、山の神下池・上池の二つの池が並ぶ東側、新井神社に向かう側道上の丘陵には高見城支城の山の神城があり、 南側山麓と山の神上池東一帯には4〜5基の古墳が確認されている山ノ神池古墳群があります。


 高見城
山の神城 大新屋代官所(佐野家陣屋)

高見城(佐野城)  高見城山485m  丹波市氷上町佐野・鴨野・稲畑

柏原町大新屋・鴨野と氷上町稲畑 ・佐野にまたがる高見城山は南北朝期・後醍醐天皇の嘉暦2年(1327)に仁木左京太夫<兵部・二郎三郎 ・大輔>頼章築城の丹波でも最も古い城の一つ。 仁木頼章は室町幕府管領を努め建武2年(1335)足利尊氏より 丹波守護職を任じられています。 正平9年(文和3年1354)12月南朝軍の山名時氏 ・師氏父子が京都へ攻め上ったとき『太平記』(31巻)には、丹波守護「仁木左京大夫頼章が佐野の城に楯籠っている所へ山名父子が…」とあって、
小寺山からの高見城山

足利尊氏を攻める為伯耆 (鳥取)の山名伊豆守時氏と手を結んだ足利尊氏の息子:右兵衛佐直冬が大将となって京都へ攻め上るのを防ぐ事もなく、城に篭り軍勢が城下を通り過ぎるのをただ傍観していたといい、その後の動向をみても 嵐山まで出陣したが其れ以上は進まず京都には入っていません。二人の天皇のどちらにつくかは、この時代親子・兄弟でも攻め合った時代ですので、決着を見極める行為も仕方なかったのかも知れません。高見城山頂には削平地が数ヶ所あって城址であったことを窺わせます。もと頂上には神が祀られていたが神(般若寺の虚空蔵菩薩)が矢となり麓の佐野・稲畑・鴨野にそれぞれ降立ち、 その村々で祀られているのだと伝えられています。
三宝寺の登山口にある城主(伝)仁木頼章の墓

仁木氏の頃は西麓の佐野が本道(大手門)のようで、釘貫(かんぬき)門は 大手門の遺構が残りますが、東口の鴨野側にも釘貫門の跡があり、どちらも城への登城口だったようです。南側の尾根筋が搦め手だったようです!。 また鴨野には「堀の内」とか「屋敷跡」の地名があり家臣団の武家屋敷が在った所と考えられます。仁木頼章はその子・義尹と頼章の弟義長の三代にわたって高見城主でしたが文中年間(1372〜)には仁木氏も去り、その後は山名時氏が丹波守護となり玉巻城主久下時重を丹波守護代として 高見城を守らせます。その後、細川頼元が丹波守護となってからも久下氏が預かっていたようです。
高見城南端:登山道にある崩れかけた石積

応仁の乱以降(1467〜1477)丹波地方も大きく乱れ、守護の言う事を聞かない武士が増え、高見城も玉巻城の久下氏と氷上町新郷 後谷城の赤井一族との勢 力争いの場となります。戦国時代には赤井氏の城となり赤井家清が城主となり稲継・後谷の城と共に防備線を形成しており、高見城最後の城主は赤井新五郎忠家 ・父の赤井家清は新郷の後屋城と高見城を持ち武勇に優れた人でしたが 戦いの傷がもとで弘治3年 (1557)32歳で死去しました。忠家3歳で父の後を継ぎますが実際の仕事は叔父の赤井直政 (黒井・保月城主)が「後見役」で行っています。母は波多野秀治(篠山・八上城主)の娘です。幼い忠家は赤井一族や波多野一族に守られ成長しました。天正7年(1579)8月19日明智光秀の 「丹波攻め」で氷上郡内の城は悉く 落城したが黒井保月城と高見城は健在でした。
高見城最高地点南側の 石積は余り知られていない!!

赤井直政は前年病死してその子・正置が城主になっていました。織田信長の命による丹波攻めの明智光秀・細川藤孝らの 侵攻により赤井忠家は城中200人ほどを残して保月城へ応援に駆けつけた留守を狙って、明智十郎左衛門・三宅藤兵衛綱朝・藤田伝五・四方政孝等に1200の兵をつけて攻め立て、城は落ち250年余り存続した高見城の 歴史を閉じます。 黒井に向っていた高見城最後の城主・忠家この時31歳でしたが家の再興のため伏見に逃れ後、豊臣秀吉に仕えて二千石の知行をもらい慶長9年(1605)京都伏見で死亡。その子・忠泰は徳川家康に仕えています。本郭部の南端からの下降点付近と10m程東より等には崩れた石垣の 石が雑木の中にころがり、二の丸跡の北東側・三の丸の愛宕社が祀られている少し上部にも崩れかけ、 土砂に埋もれ苔生してはいるが石積の遺構が残ります。
高見城三ノ丸北西出曲輪(仮称) :西面袖曲輪更に下の小曲輪の石垣

石積みかと見紛う岩質も山頂周辺には多い…また本丸跡南方の稜線上から 炭化米が出土することがあるとか!仁木氏の頃は 佐野が大手らしくかんぬき門等の遺構と別名:佐野城が残っている。 今は登山口として柏原・鴨野からのルートも北方に数段の曲輪群が残っています。今は「悠々の森」から亀井戸を経て本丸に至るこのルートが一般に利用されています。高見城は南北朝期に始まり、戦国時代の末期まで機能した、 これら多くの曲輪・城塞群(小規模だが)に囲まれた城域の広さでは丹波随一の山城です。三の丸から少し下ったところに亀井戸と呼ばれる清水の湧出る所があり、この亀井戸が高見城の「水の手」であったと云われています。 主要郭南側には石垣が築かれており下方にも小さな曲輪がある。また「丹波悠遊の森」からの登城道の途中にも曲輪群が確認されるが、これは登城道を守るための「番所」があったものと思われます。戦国時代の高見城主は赤井氏ですが、 天正7年(1579)に明智光秀の丹波攻めで落城して廃城となりました。最後の城主・赤井忠家はのちに豊臣秀吉に仕えて近江国で2000石を与えられたと云います。下記に「高見城を取巻く城砦群」として挙げた城 ・萱刈坂〜穂壷城への各諸城のほか、高見城三ノ丸から北西側尾根上にも大きな岩場を捲き降り立つところに削平地が有り、左右に腰曲輪を設けているが・西方下の曲輪を見て更に驚く。高見城主郭にさえ最高所:本丸南側尾根続きに崩れかけた石垣がなんとか数えるほどに残されているだけだが 三ノ丸北西出曲輪(仮称)には中世の石積み
馬背山堡塁(仮称):第一岩峰北側の石積み堡塁!

(古い石積技巧である事は穴太衆石匠・栗田氏が瑞雲寺で講演された際 写真で確認してもらった)が10数m南北に延びており、其の先にも崩れてか?石垣が続いていたとも思える石材が周囲一面に散乱しています。南側は谷に向かって斜面を覆う 幅広い一枚岩が遮断している。石垣はこのスラブの岩場を利用して 此処まで幅一杯・石垣が延びていた様に思える。更に石片が散乱する斜面下15m程にも小さな曲輪(5mx 10m)があり其処も石垣が積まれている。兵庫丹波の山城に土留め石列や低い石積みは観る事もあるが石垣(定義を知らないが 4‐5層以上の石積と解釈する!!?)が残る中世の城は黒井城・八上城<岩尾城の石垣は近世のもの>は別格としても極めて珍しい。しかも石垣曲輪の西北端から谷下方へ延びる道は、向いの山への谷筋を越えて、其の頂部に位置する 馬背山城・馬背山堡塁(仮称)に連絡しているのでしょう?。下段石積の小曲輪下方に続く道の路肩も一部石積で補強されている。山腹を捲いて進む道は急に細くなり鞍部付近で消え(見失う)岩場に砂地が混じる危険な程の斜面を鞍部に出て、砂地の急斜面を登ると 此の馬背山城(仮称)最高所の主郭部曲輪に着く。石積みは無いが主郭から南下へ多くの曲輪を並べ尾根続き西の尾根先岩場のピーク付近には堡塁(幅2m程・高さ3-5m・長さ35-40m)の石積みが遺る。
高見城三ノ丸北西出曲輪(仮称)

馬背山堡塁(仮称)からの西尾根は堡塁石積があるので、石積部を抜けてトラバース気味に進むか、 厳しい急斜でしかも尾根幅は狭い一枚岩の岩尾根を経て佐野集落へ下る、高見城が佐野城と呼ばれていた当初の登城ルートだったのでしょう?。前進するにもエスケープルートのない岩尾根通過以外に無く、堡塁石垣に向かい岩場を トラバースするしかない要害地点で・完璧に此処で敵の進入を遮断出来る施設になっているようです。岩稜の尾根を抜けやっと幅狭ながら尾根道に出るとL字状に堡塁一体となって狭い尾根上の曲輪域確保の為の石積も残っています。 高見城砦群の中でも至近距離に有り、尾根で直結していながら、此の三つの城砦や更に北の尾根を穂壷城へ延びて萱仮坂に降り立つまでにある2‐3城砦遺構らしいものについても専門家による城史等資料や現地調査による解明が待たれます。城名・築城主等の城史は不明の為、高見城砦群として当面は穂壷城から高見城に尾根通しに続く城砦として別項にも別の写真:記事を掲載しておきます。
(「郷土の城ものがたり」丹有編 兵庫県学校厚生会 等を参考)

高見城を取巻く城塞群

明智光秀の丹波侵攻に抵抗していた最後の城主赤井忠家の頃、高見城は支城に穂壷城・石龕寺城・玉巻城・山の神城等、 周囲の峰々に多くの城砦を配し、其の城域は丹波随一の山城でした。高見城山から北に延びる尾根の末端には 穂壷(母坪)城が有り此の間の尾根上にも幾つもの城塞遺構があるようです。R175から柏原へ抜ける間道が萱刈坂の北に鴨野城・更に延びる低丘陵北末端に位置する穂壷城。
南曲輪の主曲輪北面(小曲輪3!?よく分かりませんが)

鴨野城と穗壷城の中央部付近・和泉神社や母坪古墳群のある高みには、 泉山砦(遺跡分布図等に記載が無い!?が穂壷城の出曲輪か?)が在った。”丹波悠々の森”から東鴨野へ抜ける禅座坂の左右の峰(縦走路側260m峰に東屋休憩所が有る)と東側の峰(あかのキ山?175m)の尾根に平坦地。 北山麓の新井小学校裏手には土塁横掘・竪堀・竪土塁と高切岸で家臣団屋敷跡の広大な曲輪を堅める 東鴨野城がある。跡新井地区の東方・住宅地とおさん茂平の古跡の間に妙見山 (茶臼山)があり、現在は山も切崩されて団地やゴルフ練習場となっているが、明智軍の向城としての伝承が残ります。

高見城本郭南端から南曲輪(鉄塔の峰)を望む


萱刈坂から高見城(そのUに山行レポート有り)への尾根に出た所に権現堂 !か愛宕堂?が建てられて、離れた箇所には平坦地が有り砦跡の様。 尾根の最南端から左へは高見城山へ直前の急斜な鞍部を終えて愛宕社の祠を祀る三の丸の至りますが右手・露岩の尾根に向う斜面の南面に幾つかの削平地が見られます。西曲輪群!として調査されたかどうか知らないが、 南曲輪共に大手筋の佐野側を守備する重要な位置に有ります。高見城山の南東の鉄塔の建つ峰も砦の様相です。大新屋からの峠道 ・しだ坂?からは坊の奥を経て丹波の森公苑へのハイキングコースもあるので一度はトレースがてら確認したいところです。
南曲輪の主曲輪・南面に低土塁の残欠

高見城本郭の南斜面にはよく知られた石積が残っています。 石戸山への縦走路は其処から下降しますが、縦走路の約300m先には鉄塔を載せた峰が急斜な尾根を西方に落としています。高見城南曲輪群(中の台の城)Ca480mは”中の台”と呼ばれる南曲輪跡は 関電送電線架設工事の為氷上郡教育委員会の手により発掘調査が行われています。ただ鉄塔工事の終わった後の現状保存が難しいのでしょう。殆ど遺構確認出来ないほど荒廃しています。この峰に向う北尾根部の3ツの小曲輪、西方へは南側に 土塁が残る6段の曲輪があり、建物跡と広範囲に焼土が確認されっており硯 ・火鉢・碁石・銅銭・鉄釘・白磁や天目椀等も 発見され居城として、また発見された遺物からも戦国期・天正期の光秀”丹波攻め”で落城した可能性が高まります。
南曲輪の2段目と3段目曲輪に連続させる幅広の低土塁

石龕寺城・玉巻城から尾根通しに山南町側からの侵入に防備した塞城だったのでしょう。各曲輪の南面に土塁が見られますが、南西側の谷は深く絶壁状で 小曲輪曲の削平も危険なほど、送電線に沿って巡視路は西の急斜な稜線を佐野集落へ延びているようですが、大手口の佐野からは本城への大手道のほか、南曲輪への登路が此のルートで通じていたのかも知れません。
(氷上郡教育委員会の埋蔵文化財分布調査報告書資料 参照)


山の神城  xxx山 Ca180m 丹波市柏原町大新屋

嘉暦2年(1327)築城の丹波では 最も古い城の一つで 丹波守護・仁木頼章が拠った 高見城(佐野城)は展望に恵まれ 登山対象の山として人気がある。登山口の一つ”丹波悠々の森”域の三寳寺には仁木頼章の墓と伝わる墓碑もある。三宝寺入口に第二・第一駐車場が有り、此処から登山口へ向わず南に直進する簡易舗装の林道が有ります。
山の神城(中央):右に山の神池・左端に悠々の森施設・丘陵左端に新井神社

この道はやがて荒れた山道となって 山南町奥野々へ抜ける”しだ坂峠 ?”に向います。其の峠への入口であり、高見城への東からの登城口となる大新屋に山の神城が在りました。 峠を越えると石戸の集落がありますが山南町側の県道86号線まで100m近く迄が石戸地区でJR谷川から久下氏の本拠・玉巻城東裾野を通って 奥野々峠を越えて柏原町に至る長い道程を思うと此処が既に柏原町とは一寸吃驚の町界です。
山の神城:主郭東の土橋付き堀切

県道86号(中柏原線)奥野々からは”石戸農園”看板を見て県道291号に入ると石戸〜丹波悠々の森を経て新井〜 母坪城(R175と交差する)〜本郷〜成松に至ります。馬を使用した延喜式の旧山陰道は 山南町井原から 佐治川沿いに通じていたが、篠山側から馬で越すには難儀でも歩きなら問題のない近道はいくつも想定できます。下滝や久下から柏原・氷上へ抜ける旧山陰道の間道は鐘ヶ坂〜柏原道が通じる以前から 久下〜奥野々峠越えの道は久下氏が丹波守護代となっていた観応1年(1350)頃は柏原・
山の神城・東の空掘と土塁

小倉地区の荘園は久下氏が領していたので県道86号奥野々峠を越えて柏原側に残る大部谷城・円成寺館・円成寺城等は ”一番”の幡印で割拠していた頃の 久下氏一族全盛の頃の 城館だったと思えます。下滝〜篠場〜小倉へ抜けて柏原へ入るルートの他、久下城(玉巻城)からは 丹波守護職・仁木氏の高見城にダイレクトに通じる石戸地区からの県道291号も久下〜石戸〜柏原や氷上〜成松へ入るルートで、軍事連絡用に大いに利用されたと思われます。

山の神城主郭部


校区が柏原町の石戸地区の小学生は、県道291号(県道としては丘陵部を抜けるが、 石戸集落最北部から”悠々の森”へは急斜面もある)の山越えで新井小学校まで通学していた。悪路の為簡易舗装工事もされたのですが、 今の峠付近 ・特に石戸側は雑木藪で埋り道筋は荒れて崩れ 【状況は山レポートコース U参照 】足の踏み場も無いほどです。勿論今は県道86号をスクールバスで送迎されていますが…。
山の神城 ・東尾根側から主郭

古くから一般的にも利用されてきた道と考えられますが、土地・山林の領有については”石戸の山争い”で特異な境界となったのかも …!!?築城当時は旧山陰道筋の佐野が大手だった高見城は、山陰道が柏原を通るようになると?播磨・但馬へは北の鴨野を通る街道が要衝となり大手筋が変わり、 街道監視には高見城の尾根続きにある東鴨野城や鴨野城が当たった事でしょう。
山の神城:東尾根上の二重堀切(手前二本の立木側と上の茶部分)

しかし山の神城は此の街道からは少し奥まっているが、 長々と前説を入れたのも、柏原を繋ぐ石戸への間道監視が重要になってきたと思えるからです。当初は戦国期に久下氏との勢力争いで高見城に入った赤井氏が久下氏の動向監視を兼ねた砦だったのかも知れないのですが?、其の後・黒井を本城とした拠点の城・高見城の出城として、特に大新屋の谷筋を挟んだ北約 500mの東鴨野城とは呼応して高見城の東玄関口を抑える双門として 重要な守備位置に有ったのかも知れません。
山の神城・主郭北切岸と帯曲輪

悠々の森入口から100m程先に二つの”山の神池”(上池と下池)が有り、池の東側丘陵の先端部の約40mx100m四方を城域として山の神城の遺構が残ります。 西面から北側を新井神社にかけて谷が廻っており、比高僅か40m程ですが北面から西面にかけては山麓を溝谷が廻るが、傾斜も急・特に北側は上方に露岩を伴っての激急斜面。東に続く尾根筋は鞍部が比較的緩やかで、
山の神城・東北斜面下部から望む主郭

尾根道が最高所 Ca200mピークに延びる。此の最高所から北東へ落ちる尾根下が新井神社で、神社本殿裏手の崖上部には分厚い土塁状を残して、尾根中程より麓まで竪堀状の深い溝が落ちる。自然地形とも思えない!!?。此れを堀底道とした大手道が新井神社背後から山の神城へ通じていた様に思えます。此の東からの緩やかな短い尾根筋には途中、北面を除き三方を囲む曲輪?、尾根筋に平坦地形を遺し、 藪に隠れてはいるが幅狭い堀切を渡る。20m程の平坦地を挟んで土橋付き堀切に着く。
大手堀底道か竪堀か?、右手土塁状の外は絶壁状の新井神社背後の崖

堀切へ岸を切り落とした段差5m程の東曲輪の上方に山の神城主郭がある。此の二本の堀切は・いずれも山の神池のある 南斜面側に長く延びて落ち込む。 以前確認時より薮化は深刻で確認し辛いが、主郭側(西)の堀切側からは南に竪堀がもう一条落ちている。崩れ・埋もれた城址は城主や築城時期等の 城史は不明です。露岩を切岸に取込む主郭は余り広くはないが、城域は西に3段程の小曲輪をのこして一気に麓の山ノ神池側に落ちる。主郭から尾根続きの東に一段の曲輪が4‐5mの切岸を立て、
山の神城・主郭から最高峰Ca200m間:三方土塁囲み曲輪状の平坦地形!!?

土橋付き堀切をもつ。東から北面へも2‐3段小曲輪があり、 其の下部からは激急斜面を麓を廻る溝谷に落とす。西面と北面は斜面も急斜ですが石戸の峠道(県道291号)や高見城を望む。北方に展望はないが立木を取り払えば柏原・石生方面に展望は期待できますので、石戸越えの間道と東からの山陰道を 監視高見城の1砦だったのでしょう。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書・柏原町 参照)


大新屋代官所(佐野家陣屋)
 xx 丹波市柏原町大新屋

加古川沿い R175号「稲継」交差点から萱刈坂を越え柏原町に向かう県道290号の、新井小学校前東約250m程に(式内社)新井神社への案内標識を見て 大新屋集落内へ右折する入口に難波金兵衛(二代目)の高灯籠が建つ。石工:初代難波金兵衛が良質の石材をもとめ 此の地に移った。子の無かった金兵衛が養子に迎えたのが但馬・和田山町の丹波佐吉だが、
上山家代官所

金兵衛に実子が生まれると 二代目を弟として育つが、家を継ぐのは二代目…と家を出て”旅の石工”として村上源照信を名乗っている。難波金兵衛の高燈籠から竹安川沿いに地区内の車道を進むと新井神社・高見城山への登山口・悠々の森へ向かう県道291号(山道を石戸・山南町側へ通じる )の分岐交差点手前の橋の北詰めから西へ入る路地道の先 ・道路沿いからは
代官所・佐野家陣屋の見栄亭(左)

庭塀のある旧家が 大新屋上山家代官屋敷(後:佐野家陣屋)で、塀の傍らの石標柱には片面に”旧代官跡”・「天然記念物 鶏冠木 兵庫県・昭 和13年3月…」と彫られている!!。氷上郡内の市島町と青垣 ・春日町の一部を除き前期柏原藩織田家の領有地も天和2年(1682)佐野修理大夫政行(下野国・<栃木県佐野市>佐野藩主)が稲継・鴨野・大新屋を領有した。
上山家代官所:シンボルの鶏冠木(楓・天然記念物)も枯れて…

赤井家家臣上山氏は明智丹波攻めに落城・赤井氏滅亡に帰農し初代より大新屋の庄屋を務めていたが、宝永元年(1704)6代目上山勘兵衛宗寿が、 佐野家代官(総勘定方)を仰せ付けられて以来・慶応4年(1868)明治政府による版籍奉還まで代々代官を務めた上山家代官屋敷。鶏冠木【カエデの中国名?】は上山家初代が植えたものと伝わるが、枯れたため撤去された石垣積みの 平坦壇の跡地だけで、今は無用?となった”天然記念物”石標柱と共に 空しく残されている。9代目当主:上山吉茂成績は文政11年(1828)佐野氏
にみる家紋(揚羽蝶)の鏝絵

の代官に任じられ弘化2年(1845)孝之進と改名し、嘉永2年(1849)佐野家が 大阪川口番所御船手奉行となった際・孝之進成績も川口勤番となり 大任を果たした。 安政2年(1855)上山家を陣屋として新築され、離れ座敷は見栄(けんえい)亭と名付けられており、庭園を望む陣屋の屋根下の破風部に描かれている黒地に白で描かれた旗本佐野家の揚羽蝶紋の鏝絵が陽を受けて鮮やかに見えているが、絵が反対に寫されたものか?、一般的には左向き?の筈の蝶が右向きに描かれている様?。 母屋瓦紋の木瓜は上山家の様だが八角形枠内に木瓜紋?をよくは知らない。
陣屋の妻入り破風にみる家紋(揚羽蝶)の鏝絵

安政4年(1857)には佐野家により上山家居宅も陣屋として買上げている。母屋は明治期に建て替えられているが妻入り・入母屋屋根・ 2階部分が狭いツシ<物置>2階建ての構造。丹波佐吉が幼少期・読み書きを教えたのも上山孝之進。大新屋旧上山代官所は景観形成重要建造物として平成22年指定を受けている。
【丹波人物誌・(柏原町文化協会)文化財散歩…を参照】







新井神社と木彫りの猿   丹波市柏原町大新屋字湯の森

石見神社の右手奥に見える 古めかしい新井(にい)神社の 萱葺き本殿は県指定 (平成3年3月30日)重要文化財で、第29代欽明天皇(6世紀 509‐571在位)の頃の創建といわれ延喜式・氷上郡内式内社17社の一つ。元は「滝ヶ谷」(現在地より約500m奥)に祀られていたが、天正7年(1579)高見城落城の際の兵火により焼失。その後「湯の森」に再建されたもので、建築様式から江戸時代中期の建築と推測されます。
新井神社本殿

祭神は天地創造の神・高皇彦霊神(たかみむすびのかみ)でしたが、 江戸時代初め比叡 山延暦寺の守護神「日吉神社」の分霊が移されてきました。日吉神社は「山王権現」とも呼ばれ山王の使者・猿であることから、 本殿両脇には中井権次(橘)正貞 (中井権治の名は権次が正確の様で、子孫は源次の名を継いで権次正次・権次正胤と続く)の手になる一対の木彫りの猿が置かれています。三代目:権次正貞の彫刻は 甲賀山の大護神社にも残されています。
(雌の吽像)木彫の猿 (雌の吽像)

新井・石見神社の大囲碁(日本一)

高見城山登山口の丹波悠々の森駐車場の向かいに高見山・自然寺があり、その裏手の山裾を東へ延びる山道 "囲碁の道"を 150m程進むとアラカシの大木が 迎えてくれる新井神社に出ます。正面に石の鳥居と白壁で囲まれた小さな神社が石見神社。祭神に:隣村との領地争いを元和年間(1615‐24)囲碁の勝敗で解決を図り、 見事勝利して村民に平穏な暮らしをもたらしたと伝えられる谷垣岩見守を祀り、祠の前に巨大な石造りの碁盤が置かれています。平成4年(1992) ”日本一大きい 石の大碁盤”として奉納されたもの。高見城山の尾根続きにある石戸山(旧名:石童山)も昔から山の利権をめぐっては山争いが絶えなかったところです。 石童山の境界紛争を囲碁の勝敗で決着をつけた谷垣石見守の古事にならい献納された縦205cm・横1.90m・高さ78cm・重さ約4瓲で実物の23倍・日本一の石造大碁盤。
木彫の猿(雄の阿像)

その昔、新屋の庄にはこれといった持ち山も無く、村人達は他の領山へ米を下(もと)に出して薪刈りに出かけていました。 岩屋山〜カブト鉢の山裾にある佐治・小倉の十三人塚と同じ様に生活に密接に関わりあう山を持たない里人の深刻なお話が此処にもあります。 「石童山へ薪買いに行こうか」「もう薪を買える米が無いので止めにするよ」「では、今年の冬はどうするんだ。そればかりか飯も炊けないではないか」「仕方がない、生米噛んで頑張るよ」…こんな会話を耳にする新屋庄の代官は何とかして石童山の山林を手に入れたいと所有の久下庄(山南町)の代官を訪ね窮状を訴え、快く事情を受け入れ永正6年(1509)米100俵・銭100貫を代償として 大新屋他四ヶ村の領有となった。
石見神社の大碁盤

…が其の後百年、 代米で買った筈の石童山へ久下庄からも入り込んで、どちらの所有か分からないようになり山争いが絶えず「此れは捨て置かれぬ」と時の新屋庄守護の谷垣岩見守は久下駿河守に使いを送って解決策を相談します。岩見守と駿河守は囲碁の良い相手、 囲碁に勝った者の領地としては…ということになった。村の此の先何百年もの運命を決するだけに、囲碁の勝負位で決めようとは …なんと愚か者かと岩見守は幾度も考え直しましたが、約束したことでもあり何としても勝たねばと囲碁の研究にふける。
石見神社の大碁盤

駿河守も祖先が売った土地だが今は欲しい・絶対負けられぬと一心不乱。さて試合当日の試合稽古で岩見守は考え、この一番で負ければ相手は 自分の力量を信じ、 本番では気軽に試合するだろう。本番では想像通り駿河守は冗談を飛ばしながら石を置きます。一方岩見守は必死で一石置く毎に汗をかきます。…やがて「参った。石童山は貴領のものだ」こうして石童山は新屋庄のものとなり谷垣岩見守の 徳を慕う村人によって文化5年(1808)新井神社境内に岩見神社が建立され、其の後:大正3年(1914)現在地に移されました。
(現地:石見神社案内板を参照)

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