丹波古城は展望の山 丹波悠悠の森〜高見城山〜石戸山〜岩屋山
T小寺山〜高見城山〜石戸山〜岩屋城〜観音寺 2001年02月18日
U丹波悠悠の森〜高見城山〜石戸山〜岩屋山 2001年09月02日
V
禅座坂〜高見城山(485m)〜丹波悠悠の森2001年10月13日
高見城山より譲葉山〜向山連山

近畿の山城 高見城山の神城 大新屋代官所(佐野家陣屋
 見田の谷垣氏?居館と鴨野城見田砦?
校歌故郷の山 新井小学校 ♪白雲なびく高見山…♪
          小川小学校♪朝夕仰ぐ岩屋山…♪
丹波のお話 石見神社・日本一の大碁盤 見田井堰の咳止神

佐治の流れ(加古川)を見下ろし:いくつもの山城を望む展望地が此処にある。高見城山・石戸山は多くの史跡が点在しキャンプ施設のある丹波悠々の森から 鴨野コースや丹波の古刹石龕寺・寺坂コースや八の瀬コースもある。
高見城南曲輪から高見城山

西コースは佐野から高見城山へかつては登城ルートが利用されているだけのよう。R175号夫婦橋辺りから顔を覗かせる岩屋山・石戸山に4人10脚で展望と古城を結ぶ丹波の山の特選コースをご案内。丹波の山特選コ-スは二人+一匹にとって始めての山"丹波悠々の森"からのSTARTはオカリナの演奏付きの見送りで感激報告はコースUにて


T 福田〜小寺山〜高見城山〜石戸山〜岩屋山(506m)〜観音寺  H13.02.18

西脇方面からR175号を柏原に向かい立石山-大岩山の山麓を走り抜け夫婦橋の交差点・喫茶店南角を右折し峠の送電線を目印に進む。福田坂にはカーブミラーと簡易倉庫のある巡視路(No78)入口があり路肩スペースに駐車して出発。
鉄塔285mから中央・蛇山〜尖山は大谷395m

プラ階段が暫らく続くが後は快適な1m幅の道が延びている。尾根分岐左を2分歩けば鉄塔のあるピークに到達し展望益々よくなり360度遮るものない鉄塔手前に小寺山(3等別名:大清水峰365m)。岩尾城とこれから向う高見城山と岩屋山、独立峰のようにどっしりした岩の鎧を纏った二つの山白山とその右には弘浪山がぐるりと取り巻く。山影で見えないが穂坪城はじめ多くの山城が点在しています。
小寺山から白山(手前)と右手に弘浪山を望む

急斜面はプラ階段になっているが巡視路は急に左へ下り始めると目の前には大岩が累々と続く。岩間を縫うようにすり抜け攀じ登る右側はスッパリと切れ落ちています。急な岩場を稜上近くで左側の岩間を此処も急斜面を下って巡視路と合流する。石戸山手前の賽の河原展望ピークからは
南曲輪(中の台の城)から高見城山

稜線中央付近の露岩を見せる先鋒が目立ち此処の様子がわかるので確認してみてください。岩場通過は岩慣れた人には快適でスリリングな場所だが 殆ど通る人もなく浮石等充分注意が必要です。このコースも急に良く踏まれた道に出れば高見山-石戸山の縦走路・折角なので目前の高見城まで往復。此方側からだと山城の面影が窺がわれる。
馬背山砦(仮称)から氷上盆地の霧海H19.11.24


丹波の森公苑-坊の奥(364m)縦走分岐からは整備された道が通じる。直接本丸へ行かず裾を巻き亀井戸に出る。貴重な高見城の水源?跡らしい面影はない。「この山裾から18町(約2km)朝日輝き夕日射し込む三つ葉柳の露の下 一丈五尺の井戸の底黄金の束が7・8ッ」朝日・夕日…の埋蔵金伝説が此処にもあるが三つ葉柳」とは果たしてどんな木なのでしょうか?
賽ノ河原から石戸山へ向うH13.09.02

高見城山に真新しい石標がたち標高低くとも四方を睨む眺望の山城は春日:多紀の三尾山や三岳から播州方面の山々まで遠望できる。山頂の700m東に般若寺跡があり三体の虚空蔵菩薩は落城の際それぞれ麓の鴨野・母坪・稲継の村へ移して祀られた。小寺山への分岐を過ぎメインストリートは鉄平石が散乱する賽の河原に着き更に5分くらいで石戸山(1等 549m)だが展望は望めないので素通りして岩屋山へ向います。
高見山登山口:三寶寺の朝H19.11.24

8岩屋山(506m)山頂付近は石龕寺城で石龕寺へ降る展望広場への分岐は正面の鉄塔の見える稜線伝いに重ね岩鉄塔下へ出て鉄塔を過ぎ少し上ると今度は急激な降りになるが巡視路に階段はない。MTBだと放り出したくなるような斜面ですがしばらくの辛抱。左のゴルフ場側へ巻きながら降る道が下降路らしいが最終目標へは短い登りで観音寺(4等3角点370m)山頂だが展望はよくない。三角点から尾根通しの踏跡は下草藪に覆われて消えていくようだ。
登山口:三寶寺の紅葉

山頂手前左へ比較的明瞭な道が続くのでこれを下ったがこの道も途中で消えてしまい薮を漕ぎ酪農民家脇へ出た。そのまま車道に飛出したところが福田橋。どうやら最後の山頂への手前の道を辿りこの福田橋下手100m位か?の送電線下に出るのが正解かも?。福田橋からは公民館横のT字辻を峠へ左折して駐車場に戻る。


U 丹波悠悠の森〜高見城山(485m)〜石戸山(549m)〜岩屋山(506m) H13.09.02

昨日は六甲・西山谷で一緒した「山と小箱」(=^・^=)★さんと私・メールでお付合いのNさんと愛犬KOBOちゃん6才が一緒です。二人+一匹を丹波は始めての山域へご案内。「丹波悠々の森」からとメールで知らせていたので低徘・丹波のたぬきさん「山であそぼっ」島田さん。一緒に登れないが…とお迎え。先着の島田さんや程なく到着の丹波のたぬきさんとは初めて御対面の(=^・^=)★さんです。
般若寺跡付近から石戸山

島田さんのオカリナ(ソプラノ?)・たぬきさんの(アルト?のオカリナ共演が静かな朝の森に響き渡る音色に演奏者も陶酔しているよう…島田さん・たぬきさん夫婦に見送られ4人10脚の今日の行程・高見城山-石戸山へと出発します。悠々の森の林の中にある「ベルピーマン」は山から降りてきたら寄る約束なので管理棟の横からキャンプ場を抜け山道に入っていきます。展望台への分岐尾根からは山道の左右にツルリンドウ等草花を花好きなNさんは早々と見つける。尾根からは段々展望が開けて向山・弘浪山・白山、お二人の次の目的五台山-愛宕-五大山と氷上の山が顔を揃えてくる。左手下方には悠々の森のハウスや二つの池(山ノ神上池・下池)が見える。
丹波悠々の森・ログレストラン:ベル・ピーマン


その先の坊の奥〜丹波の森公苑へと続き井戸跡?に到着。これよりは石戸山〜高見城山や頭光嶽〜石戸山-八の瀬等を参考にしてください。汗ばむ顔を撫ぜていくのは心地よい秋の風。降雨50%の週間予報は良い方向に軌道修正です。高見城山頂からの好展望にはお二人とも\(^o^)/。賽の河原を通り抜ければ石戸山 (1等 549m)だが展望もなく岩屋山に向かう。岩屋山からは元来た道を引き返し鞍部の堀切から金屋鉱山跡地へ降りランチタイム。下ってきた急斜面の登り返しに 二人ともガックリの様子だが鉱山跡の広場は明るくKOBOちゃんも美味しい水が飲めて一応満足…。
石戸山山頂

こんなコースで登返し・あまつさえ石戸山からは藪っぽい尾根〜谷を下って元の「悠々の森」に戻る行程をお二人は今振りかえってどのように感じられているのでしょうかね?。石戸山へ引返し八の瀬に向う稜線を辿り鞍部からは谷に向う踏み跡を辿るが谷筋は荒れ歩き辛くなってくる。水量も段々多く少し落差のあるところには水溜り?喜んでいるのはKOBOばかり。次々流れの中に入り行水している。随分長く感じた荒れた谷も橋が現れ歩きやすくなる。この林道も短時間に抜けられると思っていただけに実に長い単調な歩きで大新屋の集落(林道入口ゲート)です。これより道を山側へとっての峠越えは車でも抜けられそうだが生易しい峠道ではありません。
岩屋山鉱山跡地

棘や蜘蛛の巣を掻き分けながら丸木の階段を進み巡視路を分けて谷筋に沿っての道は荒れて崩れて峠道なのに谷を登っている感じです。やっと歩きやすくなってくるとしだ坂峠?登ってきた大新屋側には 山ノ神が祀られている。此処から丹波の森公苑へハイキングコースが整備されている。峠からの降りも道は広くなったが足元は湿気て苔むした石は滑りやすい。連日の疲れからか(=^・^=)★さんはヘロヘロ・よく転んだり・躓いたり…大丈夫ですか-山ノ神下池に突き出るように弁天の祠のある空き地に10数本ユリの花が咲いている。道の左右の秋草を愛でながら駐車場に帰り約束なので「ベルピーマン」に寄り貸切状態でのティータイムです。



V 丹波悠悠の森〜禅座坂〜展望台〜高見城山    H14.10.13

佐中三山(三尾山・黒頭峰・夏栗山)を予定しているが早朝になって霧が出始めたので丹波の霧海が見られそうなのでAM5:30起床。関東から長期出張中の”低山徘徊派”山登家さんを昨日から招待しての丹波の山廻り。朝食を済ませ母が用意してくれていた昼食の鯖寿司をザックに積め霧の中を出発します。
馬背山砦(仮称)から氷上盆地・弘浪山・水山方面

柏原へ迂回すれば360度展望の高見城山に寄り霧海の氷上盆地を楽しめるはず。客人には「丹波悠々の森」からキャンプ場への道をとらず三宝寺の仁木頼章の墓から禅座坂へ向かう。夏場は早朝だと足下が露でズブ濡れ状態だが今はササを分けて登る必要もなく濡れることもない。猪垣の柵を開閉して入れば其処はもう禅座坂・室町末期の五輪塔がある。晴れていれば南東方向に坊の奥を見るが山名からは山中に寺院があり此の峠で寺院に向かい座禅をしていたものか?。
高見山山頂から黒頭峰・金山方面H19.11.24


本光山三寳寺(臨済宗妙心寺派)は540年前開山の禅宗の寺。因果関係は不詳。此処からは尾根伝いに整備された広い道、丸太の階段も続く。九十九折れを繰り返すうち傾斜も緩やかになると周囲の木々が展望を遮る東屋の展望台に着くが登山者以外利用者もなさそうです。
禅座坂・五輪塔は室町時代のもの…

この辺りからは霧がなければ俄然目の前に聳え立つ高見城山や足下に悠々の杜ログハウスやキャンプ場・山の神池が見えるが 尾根筋の他は真っ白の世界。「松茸山につき入山禁止」のロープや止札は此れより山頂直下の亀井戸の跡付近まで尾根筋には数段の曲輪跡を見る。「高見城跡950m・展望台600m」道標は 悠々の杜からのコースと合流する鞍部・山頂にかけては凝灰岩の露岩急登となり展望も開けてくる。
三宝寺庭園

上方は一気に霧が晴れ高見城山が輝きだし期待通り。亀井戸の跡を過ぎる山頂の主郭を東南にグルリと捲いていく山道を送って右への登りは三ノ丸曲輪に鎮まる愛宕社の祠前に着く。高見山山頂からは北方に見える岩壁への瘠せ尾根に続く分岐点。愛宕社の上部は直ぐ高見城山山頂。周囲の山々は全て裾を白いベールで隠し浮かぶが客人には霧海の感慨がなさそう。石戸山へ往復をも考えたが次の目的地夏栗山・黒頭峰・三尾山の佐中三山に向かう為「丹波悠々の森」へ引返す。
三宝寺境内

三宝寺周辺新井神社の参道から西の山裾に向かうと”丹波悠々の森”の駐車スペースに着く。秋のシーズンなら紅葉の絨毯の山門を潜って三寶寺境内の景観を楽しみながら高見城の城主で丹波守護職ともなった仁木頼章の墓から禅座坂-東屋展望台稜線に出て悠々の森からの高見山コースと合流するルートがある。展望台-禅座坂-尾根東末端部までが東鴨野城域で東末端に曲輪・空掘遺構が残る。本光山三寶寺(臨済宗妙心寺派)は530年前の開山とか。
三寶寺参道

三寶寺・悠々の森・山の神池が近接する周辺には古墳群が点在する。三寶寺裏には山根古墳群・野外活動施設側入口の駐車場から高見城山への登山口にかけての山林には七ッ塚古墳群があり登山コースからも見える。駐車場から南、山の神下池・上池の二つの池が並ぶ東側、新井神社に向かう側道上の丘陵には高見城支城の山の神城があり南側山麓と山の神上池東一帯には4〜5基の古墳が確認されている山ノ神池古墳群があります。



高見城
山の神城 大新屋代官所(佐野家陣屋) 見田の谷垣氏?居館と鴨野城見田砦?

高見城(佐野城)  高見城山485m  丹波市氷上町佐野・稲畑 柏原町鴨野
・三の丸北東曲輪群  ・三の丸北西曲輪群  ・南曲輪「中の台の城」

柏原町大新屋・鴨野と氷上町稲畑・佐野にまたがる高見城山は南北朝期・後醍醐天皇の嘉暦2年(1327)仁木左京太夫(兵部・二郎三郎・大輔)頼章築城の丹波最古城の一つ。仁木頼章は室町幕府管領を努め建武2年(1335)足利尊氏より丹波守護職を任じられている。正平9年(文和3年1354)12月南朝軍の山名時氏・師氏父子が京都へ攻め上ったとき「太平記(31巻)」には仁木頼章が佐野の城に
小寺山からの高見城山

楯籠っている所へ山名父子が…」とあり足利尊氏を攻める為伯耆の山名伊豆守時氏と手を結んだ足利尊氏の 子右兵衛佐直冬が大将となり京都へ攻め上るのを防ぐ事もなく城に篭り軍勢が城下を通り過ぎるのを傍観していたといい、その後の動向をみても嵐山まで出陣したが其れ以上は進まず京都には入っていない。二人の天皇のどちらにつくか親子・兄弟でも攻め合った時代なので決着を見極める行為も仕方なかったのかも知れない。
三宝寺の登山口にある城主(伝)仁木頼章の墓

高見山頂に祀られていた神(般若寺の虚空蔵菩薩)が矢となり麓の佐野・稲畑・鴨野にそれぞれ降立ち、その村々で祀られていると伝えられている。仁木氏の頃は西麓の佐野が大手道で釘貫(かんぬき)門の遺構が残るが 東口の鴨野側にも釘貫門(大手門)があった登城口。南側の尾根筋は搦手だったようです。また鴨野には堀の内・屋敷跡の地名があり家臣団屋敷があった所と考えられる。仁木頼章はその子・義尹と頼章の弟義長の三代にわたり高見城主だったが文中年間(1372-)には仁木氏も去り丹波守護:山名時氏は玉巻城久下時重を守護代として高見城を守らせます。細川頼元が丹波守護となってからも久下氏が預かっていたようです。応仁の乱以降(1467-77)丹波地方も大きく乱れ守護の言う事を聞かない武士が増え高見城も玉巻城の久下氏・氷上町
高見城南端:登山道にある崩れかけた石積

後谷城の赤井一族との勢力争いに赤井氏の城となり赤井家清が城主となり稲継・後谷の城と共に防備線を形成しており高見城最後の城主赤井新五郎忠家父の赤井家清は新郷の後屋城と高見城を持ち武勇に優れた人だが戦いの傷がもとで弘治3年(1557)32歳で死去。忠家は3歳で父の後を継ぐが実際の仕事は叔父の荻野直政(黒井城主)が後見役で行っています。母は波多野秀治(八上城主)の娘。幼い忠家は赤井一族や波多野一族に守られ成長した。天正7年(1579)8月19日明智光秀「丹波攻め」で氷上郡内の城は悉く落城したが黒井城と高見城は健在でした。
高見城最高地点南側の石積は余り知られていない!!

荻野直政は前年病死その子正置が城主になった。丹波攻めの明智光秀・細川藤孝らの侵攻により赤井忠家は城中200人ほどを残して保月城へ応援に駆けつけた留守を狙い明智十郎左衛門・三宅藤兵衛綱朝・藤田伝五・四方政孝等に1200の兵をつけて攻め立て城は落ち 250年余り存続した高見城の歴史を閉じます。黒井に向っていた高見城最後の城主・忠家この時31歳でしたが 家の再興のため伏見に逃れ後豊臣秀吉に仕えて二千石の知行をもらい慶長9年(1605)京都伏見で死亡。子の忠泰は徳川家康に仕えている。主郭の南端からの下降点付近と10m程東より等には崩れた石垣の石が雑木の中にころがり二ノ丸跡の北東側・三の丸の愛宕社が祀られている少し上部にも崩れかけ土砂に埋もれ苔生してはいるが石積が残る。石積みかと見紛う岩質も山頂周辺には 多い…また本丸跡南方の稜線上から炭化米が出土することがあるとか!
高見城三ノ丸北西出曲輪(仮称):西面袖曲輪更に下の小曲輪の石垣

仁木氏の頃は佐野が大手口だが今は鴨野ルートで北方に数段の曲輪群がある。悠々の森から亀井戸を経て本丸に至るルートが一般に利用される。高見城は南北朝期に始まり戦国時代の末期まで機能した多くの曲輪・城塞群に囲まれた城域の広さでは丹波随一の山城。三ノ丸を少し下ったところに亀井戸と呼ばれ清水の湧出る所があり高見城の「水の手」であったと云われる。主要郭南側に石垣が築かれており下方にも小さな曲輪がある。また「丹波悠遊の森」からの登城道途中にも曲輪群が確認されるが 登城道を守るための「番所」があったものと思われます。
馬背山堡塁(仮称):第一岩峰北側の石積み堡塁!

天正7年(1579)に明智光秀の丹波攻めで落城し廃城となった。最後の城主・赤井忠家はのち豊臣秀吉に仕えて近江国で2000石を与えられたと云います。萱刈坂-穂壷城への各諸城のほか高見城三ノ丸から北西側尾根上にも大きな岩場を捲き降り立つところに削平地があり左右に腰曲輪があるが西方下の曲輪を見て更に驚く。高見城主郭にさえ南側尾根続きに崩れかけた石垣が遺されているだけだが三ノ丸北西出曲輪には中世の石積み(古い石積技巧である事は穴太衆石匠栗田氏が瑞雲寺で講演された際写真で確認してもらった)が10数m南北に延びており其の先にも崩れてか?石垣が続いていたと思える石材が周囲一面に散乱しており南側は谷に向かって斜面を覆う幅広い一枚岩が遮断しており、石垣はスラブの岩場を利用して此処まで幅一杯・石垣が延びていたと思える。
高見城三ノ丸北西出曲輪(仮称)

更に石片が散乱する斜面下15m程にも小さな曲輪(5mx10m)があり石積がある。兵庫丹波の山城に土留め石列や低い石積みは観る事もあるが石垣(定義を知らないが4‐5層以上の石積と解釈する!!?)が残る中世の城は黒井城・八上城<岩尾城の石垣は近世のもの>は別としても珍しい。しかも石垣曲輪の西北端から谷下方へ延びる道は向いの山への谷筋を越えて其の頂部に位置する馬背山城・馬背山堡塁に連絡しているのでしょう?。下段石積の小曲輪下方に続く道の路肩も一部石積で補強されている。山腹を捲いて進む道は急に細くなり鞍部付近で消え(見失う)岩場に砂地が混じる危険な程の斜面を鞍部に出て砂地の急斜面を登ると馬背山城主曲輪に着く。石積はないが主郭から南下へ多くの曲輪を並べ尾根続き西の尾根先岩場の ピーク付近には堡塁(幅2m程・高さ3-5m・長さ35-40m)の石積みが遺る。馬背山堡塁からの西尾根は堡塁石積があるので石積部を抜けてトラバース気味に進むか厳しい急斜でしかも尾根幅も狭い一枚岩の岩尾根を
高見城からの主尾根から南曲輪を望む

経て 佐野集落へ下る高見城が佐野城と呼ばれていた 当初の登城ルートだったのでしょう?。前進するにもエスケープルートのない岩尾根通過以外になく堡塁石垣に向かい岩場をトラバースするしかない要害地点で完璧に此処で敵の進入を遮断出来る。岩稜の尾根を抜けやっと幅狭ながら尾根道に出るとL字状に堡塁一体となって 狭い尾根上の曲輪域確保の為の石積も残る。高見城砦群の中でも至近距離で直結している三城砦や更に北尾根を穂壷城へ延び萱仮坂に降立つまでにみる2‐3城砦遺構らしいものについては城史等資料や専門家による現地調査解明が待たれる。城名築城主等の城史不明の為、高見城砦群として穂壷城へ尾根通しに続く城砦は別項に写真:記事を掲載しておきます。
(「郷土の城ものがたり」丹有編 兵庫県学校厚生会 等を参考)

高見城を取巻く城塞群

明智光秀の侵攻に抵抗した最後の城主赤井忠家の高見城は支城に穂壷城・石龕寺城・玉巻城・山の神城等周囲の峰々に多くの城砦を配し其の城域は丹波随一の山城でした。高見城山から北に延びる尾根の末端には穂壷城があり此の間の
南曲輪の主曲輪北面(小曲輪3!?よく分かりませんが)

尾根上に幾つもの城塞遺構があるようです。R175から柏原へ抜ける間道が萱刈坂の北に鴨野城・更に延びる低丘陵北末端に位置する穂壷城。鴨野城と穗壷城の中央部付近・和泉神社や母坪古墳群のある高みに泉山砦(遺跡分布図等に記載なし?)があった。”丹波悠々の森”から東鴨野へ抜ける禅座坂の左右の峰(縦走路側260m峰に東屋休憩所が有る)と東側の峰(あかのキ山?175m)の尾根に平坦地。北山麓の新井小学校裏手には土塁横掘・竪堀・竪土塁と高切岸で
南曲輪の2段目と3段目曲輪に連続させる幅広の低土塁

家臣団屋敷跡の広大な曲輪を堅める東鴨野城がある。また住宅地とおさん茂平古跡の間に茶臼山があり現在山は切崩され団地やゴルフ練習場となっているが明智向城としての伝承がある。萱刈坂から高見城への尾根に出た所に権現堂か愛宕堂?が建てられて離れた箇所には平坦地があり砦跡の様。尾根の最南端から左へは高見城山へ直前の急斜な鞍部を終えて愛宕社の祠を祀る三の丸に至る右手・露岩の尾根に向う
南曲輪

斜面の南面に幾つかの削平地が見られます。西曲輪群として調査されたかどうか知らないが南曲輪共に大手筋の佐野側を守備する重要な位置にある。高見城山の南東の鉄塔の建つ峰も砦の様相です。大新屋からの峠道・しだ坂から坊の奥を経て丹波の森公苑へのハイキングコースも一度は確認したいところ。石戸山への縦走路は其処から下降するが縦走路の約300m先には鉄塔を載せた峰が急斜な尾根を西方に落としています。
南曲輪群の東に低土塁を廻す出曲輪

高見城南曲輪群(中の台の城) Ca480mは”中の台”と呼ばれる南曲輪は関電送電線播磨中央線No86号架設工事の為氷上郡教育委員会の手により発掘調査されたただ鉄塔工事の終わった後の現状保存が難しいのでしょうか殆ど遺構確認出来ないほど荒廃している。この峰に向う北尾根部の3つの小曲輪、西方へは南側に土塁が残る6段の曲輪があり建物跡と広範囲に焼土が確認されっており硯・火鉢・碁石・銅銭・鉄釘・白磁や天目椀等も発見され居城として、また発見された遺物からも
土橋と竪土塁(右手前)をもつ小曲輪側を抜けると東出曲下部を通り南曲輪(中の台)へ

光秀の”丹波攻め”で落城した可能性が高まります。石龕寺城・玉巻城から尾根通しに山南町側からの侵入に防備した塞城だったのでしょう。各曲輪の南面に土塁が見られるが南西側の谷は深く絶壁状で小曲輪曲の削平も危険なほど送電線に沿って巡視路は西の急斜な稜線を佐野集落へ延びているようだが大手口の佐野からは本城への大手道のほか南曲輪への登路が此のルートで通じていたのかも知れません。
(氷上郡教育委員会の埋蔵文化財分布調査報告書資料 参照)


山の神城 xxx山 Ca180m 丹波市柏原町大新屋

嘉暦2年(1327)築城の丹波では最も古い城の一つで丹波守護・仁木頼章が拠った高見城(佐野城)は展望良好で登山としても人気がある。登山口”丹波悠々の森”域の三寳寺には仁木頼章の墓と伝わる墓碑もある。三宝寺入口に第二・第一駐車場があり此処から登山口へ向わず南に直進する簡易舗装の林道がある。
山の神城(中央):右に山の神池・左端に悠々の森施設・丘陵左端に新井神社

この道はやがて荒れた山道となり山南町奥野々へ抜ける"しだ坂峠?"に向かう。其の峠への入口であり高見城への東登城口/大新屋に山の神城がある。峠を越えると石戸集落があり山南町側の県道86号線まで100m近く?が石戸地区でJR谷川から久下氏の本拠・玉巻城東裾野を通って奥野々峠を越えて柏原町に至る長い道程を思うと此処が既に柏原町とは一寸吃驚の町界です。県道86(中柏原線)奥野々からは”石戸農園”看板を見て県道291に入ると
山の神城:主郭東の土橋付き堀切

石戸-丹波悠々の森を経て新井-母坪城-本郷-成松に至る。馬を使用する延喜式旧山陰道は山南町井原から佐治川沿いに通じていたが篠山から馬で越すには難儀でも歩きなら問題のない近道はいくつも想定できる。下滝や久下から柏原・氷上へ抜ける旧山陰道の間道は鐘ヶ坂〜柏原道が通じる以前から久下-奥野々峠越えの道は久下氏が丹波守護代となっていた観応1年(1350)頃は柏原・小倉地区の荘園は久下氏が領していたので県道86号奥野々峠を越え柏原側に残る
東曲輪切岸と土橋付き空掘・土塁(右手前)

大部谷城・円成寺館・円成寺城等は一番の旗印で割拠していた頃の久下氏一族全盛の頃の城館だったか?。下滝-篠場-小倉へ抜けて柏原へ入るルートの他、久下城(玉巻城)からは高見城にダイレクトに通じる石戸地区からの県道291号も久下-石戸-柏原や氷上-成松へ入るルートで軍事連絡用に大いに利用されたと思われます。

主郭より北面の帯曲輪


校区が柏原町石戸地区の小学生は県道291号(山越えで石戸集落から悠々の森へ急斜面もある)を新井小学校まで通学していた。悪路の為簡易舗装された今の峠付近・特に石戸側は雑木藪で埋り道筋は荒れて崩れ(状況は山レポートコースU参照)浮石等で足下は不安定。勿論今では奥野々峠を越える県道86号をスクールバスで送迎されている。古くから一般的にも利用されてきた道と考えられるが土地・山林の
主郭・副郭:虎口受け曲輪から

領有については”石戸の山争い”で特異な境界となったのかも…!!?築城当時は旧山陰道筋の佐野が大手だった高見城は山陰道が柏原を通るようになると?播磨・但馬へは北の鴨野を通る街道が要衝となり大手筋が変わり街道監視には高見城の尾根続きにある東鴨野城や鴨野城が当たった事でしょう。しかし山の神城は此の道からは少し奥まっているが長々と前説を入れたのも、
東曲輪の二重堀切から南へ落ちるY字状竪堀

柏原を繋ぐ石戸への街道監視が重要になってきたと思えるからで当初は戦国期に久下氏との勢力争いで高見城に入った赤井氏が久下氏の監視を兼ねた 砦だったのかも?其の後・黒井を本城とした拠点の高見城の出城として特に大新屋の谷筋を挟んだ北約 500mの東鴨野城とは呼応して高見城の東玄関口を抑える 双門として重要な守備位置にあったものか!?。
山の神城・主郭北切岸と帯曲輪

悠々の森入口から100m程先に二つの”山の神池”(上池と下池)があり池の東側丘陵の先端部の約40mx100m四方を城域として山の神城の遺構が残ります。西面から北側を新井神社にかけて谷が廻っており比高僅か40m程だが北面から西面にかけて山麓を溝谷が廻るが傾斜は特に北面は上方に露岩を伴っての激急斜。東に続く尾根筋は鞍部が比較的緩やかで尾根道が最高所 Ca200mピークに延びる。此の最高所から北東へ落ちる尾根下が新井神社で神社本殿裏手の崖上部には分厚い
山の神城・東北斜面下部から望む主郭

土塁状を残して尾根中程より麓まで竪堀状の深い溝が落ち自然地形とも思えない?。此れを堀底道とした大手道が新井神社背後から山の神城へ通じていた様に思えます。此の東からの緩やかな短い尾根筋には北面を除き三方を囲む曲輪?尾根筋に平坦地形を遺し藪に隠れる幅狭い堀切を渡る。20m程の平坦地を挟んで土橋付き堀切に着く。堀切へ岸を切り落とした段差5m程の東曲輪の上方に山の神城主郭がある。
東曲輪南面:Y字状竪堀に続き3状程が並ぶ畝状竪堀群

此の二本の堀切は・いずれも山の神池のある南斜面側に長く延びY字状竪堀となって落ちる。以前確認時より薮化は深刻で確認し辛いが主郭側(西)の堀切側からは南に竪堀がもう三条・畝状に落ちている。崩れ・埋もれた城址は城主や築城時期等の城史は不明。露岩を切岸に取込む主郭は余り広くはないが城域は西に3段程の小曲輪をのこして一気に麓の山ノ神池側に落ちる。主郭から尾根続きの東に一段の曲輪が4‐5mの切岸を立て土橋付き堀切をもつ。
山の神城・主郭から最高峰Ca200m間:三方土塁囲み曲輪状の平坦地形!!?

東から北面へも2‐3段小曲輪があり其の下部からは激急斜面を麓を廻る溝谷に落とす。西面と北面は斜面も急斜ですが石戸の峠道(県道291)や高見城を望む。北方に展望はないが立木を取り払えば柏原母坪・稲継から石生方面に展望は期待できるので 石戸越えの旧街道が東からの山陰道に合流する。街道監視と高見城の東口を堅める重要な砦だったのでしょう。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書・柏原町 参照)


大新屋代官所(佐野家陣屋)
 丹波市柏原町大新屋

加古川沿いR175号「稲継」交差点から萱刈坂を越え柏原町に向かう県道290号の新井小学校前東約250m程に新井神社への 案内標識をみて大新屋集落内へ右折する入口に難波金兵衛(2代目)の高灯籠が建つ。石工初代難波金兵衛が良質の石材をもとめ此の地に移った。子のなかった金兵衛が養子に迎えたのが
上山家代官所

但馬・和田山町の丹波佐吉だが金兵衛に実子が生まれると家を継ぐのは2代目…と家を出て村上源照信を名乗っている。難波金兵衛の高燈籠から竹安川沿いに地区内の車道を進むと新井神社・高見城山の登山口悠々の森へ向かう県道291(山道を石戸・山南町側へ通じる)の分岐交差点手前の橋の北詰めから西へ入る路地道の先・道路沿いからは 庭塀のある旧家が大新屋上山家代官屋敷(後:佐野家陣屋)で塀の傍らの石標柱には片面に旧代官跡「天然記念物 鶏冠木
代官所・佐野家陣屋の 見栄亭(左)

兵庫県・昭和13年3月…」と彫られている!!。氷上郡内の市島町と青垣・春日町の一部を除き前期柏原藩織田家の領有地も 天和2年(1682)佐野修理大夫政行(下野国・<栃木県佐野市>佐野藩主)が稲継・鴨野・大新屋の三ヶ村を領有した。赤井家家臣上山氏は明智丹波攻めに 落城・赤井氏滅亡に帰農し初代より大新屋の庄屋を務めていた宝永元年(1704)6代目上山勘兵衛宗寿が
上山家代官所:シンボルの鶏冠木(楓・天然記念物)も枯れて…

佐野家より名字・帯刀を許され代官(総勘定方)を仰せ付けられて以来・慶応4年(1868)明治政府による版籍奉還まで佐野家の知行所(相模国・下野国・丹波国)の 内丹波国三ヶ村の行政を管轄し代々代官を務めた上山家代官屋敷跡。鶏冠木(カエデの中国名?) は上山家初代が植えたものと伝わるが枯れたため撤去された石積み 平坦壇の跡地は無用?となった”天然記念物”石標柱と共に空しく残されている。9代目当主上山吉茂成績は文政11年(1828)佐野氏の代官に任じられ弘化2年(1845)孝之進と改名し嘉永2年(1849年)佐野時行家が大坂船手奉行として大坂川口番所に 執務の際・孝之進(成績)も川口勤番となり大任を果たした。安政2年(1855)上山家を陣屋として新築され、離れ座敷は見栄(けんえい)亭と名付られており庭園を望む陣屋屋根下の破風部に描かれている黒地に白で描かれた旗本佐野家の揚羽蝶紋の鏝絵が陽を受 けて鮮やかに見えるが反対に寫されたものか?一般的には左向き?の蝶が右向きに描かれている?。母屋瓦紋の木瓜は上山家の様だが八角形枠内に木瓜紋?をよくは知らない。
陣屋の妻入り破風にみる家紋(揚羽蝶)の鏝絵

安政4年(1857)佐野家により上山家居宅も陣屋として買上げている。母屋は明治期に建替えられたが妻入り・入母屋屋根・2階部分が狭いツシ<物置>2階建ての構造。丹波佐吉が幼少期・読み書きを教えたのも上山孝之進。大新屋旧上山代官所は景観形成重要建造物として平成22年指定を受けている。
【丹波人物誌・(柏原町文化協会)文化財散歩…を参照】


見田の谷垣氏居館と鴨野城見田砦? 丹波市氷上町稲畑(見田)

現在の稲畑区に稲畑と見田を区分されていないが「見田の咳止神」の伝承や潅漑・排水の治水工事には今も見田井堰の名は健在です。稲継が稲継村と見田村の分れていた次期もあり、
光秀を祀る御霊神社前に数段の曲輪

今回発見した旧見田村の城砦遺構を稲畑とすると砦の混在が紛らわしいので旧見田の名で整理する。加古川沿いのR175号の稲畑地区で県道290号が「錦橋東詰」で交差する。錦橋の親柱には稲畑土人形の「鯛持ち小僧」等が
観音寺砦に向かう尾根筋南は上り土塁と曲輪群

描かれている。県道290号に折れると:高見城からの北尾根筋分ける萱刈坂がを鴨野・新井を抜け柏原町に向かう。萱刈坂から更に北への尾根が鴨野城・泉山城を経て穂壷城の北先端が柏原川・高谷川・加古川が合流する地点。鴨野城(谷屋砦)は建武年間頃の高見城主で丹波守護:仁木頼章の弟で四郎(和泉守)義長が在城し稲畑谷垣氏の遠祖とされる。
観音寺砦に向かう尾根筋:左からの片堀切状?

鴨野城主郭からの北尾根先端部に砦規模だが4-5の段曲輪を麓の(旧)見田に降立つ所が御霊神社(明智光秀を祀る)の入口。丹波にあって何故…「補足”丹波攻め”敵将の明智が何故此処に祀られているのか?…またR176号「柏原本町」交差点を東に入った通りに近年まで”門屋さん”と呼ばれていた萱葺屋敷門が遺されていた…が 此処も明智光秀家臣で豪傑:四方田(但馬守)政孝の居館。
鴨野城:東に二段副曲輪:主曲輪南北に帯曲輪

高見城を攻め落とした将の一人です…。丹波平定後:光秀により「地子銭(税)」免除や、弘浪山高山寺から柏原八幡社への梵鐘運搬に稲畑・見田の民衆が賦役し其の報償を与えられたものか!?、祭日は福知山市の御霊神社と同じ」…御霊神社参道に入って直ぐの広い平坦地に 燈籠・五輪塔の残欠がある。稲畑・見田両村の大歳神社跡?で矢降(大明神)神社(別院のようなものか!?)社殿があったよう…和泉山西麓でもあり赤井和泉守の墳墓があったという。
鴨野城主郭北尾根側下の曲輪

赤井和泉守?を知らないが 此処がそうであったか!?。鴨野城から穂壷城への北主尾根筋を進むと泉山城(泉山砦・谷屋敷・谷垣殿)・観音寺砦と城砦群が続くが観音寺砦から主尾根筋を外れて短い西枝尾根を下ると尾根先端に光秀を祀る御霊神社(祠)があり周辺には片堀切状・上り土塁曲輪…等広い曲輪群が点在する。稲畑谷垣氏の遠祖とされる仁木頼章の弟:四郎(和泉守)義長の居館・家臣団屋敷跡だろうか?。
鴨野城最北端出曲輪(5-6段の曲輪群)

鴨野城主郭からの北尾根先端部に見る数段の曲輪段「稲畑砦?(見田砦?)と仮称」は 鴨野城主郭へ直上する搦め手の 登城口を固める番小屋・御霊神社(大歳神社でもあったか?)付近の居館・家臣団屋敷?入口部の守備・監視砦だったか?。土塁・堀切等施設はない。鴨野城北尾根筋が稲畑の奴々伎神社側に続く踏跡を分け、北へ直進する急斜面を下る尾根筋中程には長い平坦地があり東斜面に竪堀?状が一本・尾根続きに何故か?一基のみ夫婦墓碑「寛延2年(1749)」が残るが此処も曲輪!!で此の下段に4段程曲輪が続く。
御霊神社(左)入口・鴨野城最北端の正面フエンス・左峰は泉山城

尾根筋にも一基の墓碑:江戸時代中期 (1700年代?)が遺されている!?。更に北先端に下り始める先に只削平されただけの段曲輪群を見る。稲畑区見田の「谷垣氏?居館・家臣団屋敷跡?」や「鴨野城の稲畑砦?(見田砦?)」の立地位置は加古川沿い(R175号)からは稲畑全体が見渡せるのに、その奥の旧見田は
鴨野城から先端の穂壷城と左に見田:送電線右端が泉山城・…

萱刈坂から鴨野城〜稲畑奴々伎神社〜先端の宝光寺背後の低丘陵尾根筋が 隠れ蓑となり、また東側の穂壷城から泉山城への丘陵に挟まれた狭い隠れ谷の様な地形で見通せない。穂壷城-泉山城に掛けて小さな城砦群が林立!!するが居館等が丘陵東側の県道291号沿い…等にも有ったかは不詳だが北山・田路・母坪に掛けて流れ出る柏原川の氾濫で度々沼下するため、稲畑・見田側に居館…等が多い筈…。



新井神社と木彫りの猿見田井堰の咳止神


新井神社と木彫りの猿   丹波市柏原町大新屋字湯の森

石見神社の右手奥に見える古めかしい新井神社の萱葺き本殿は県指定(平成3年3月30日)重要文化財で第29代欽明天皇(6世紀 509‐571在位)の頃の創建といわれ延喜式・氷上郡内式内社17社の一つ。元は滝ヶ谷(現在地より約500m奥)に祀られていたが天正7年(1579)高見城落城の際の兵火により焼失。
新井神社本殿

その後「湯の森」に再建されたもので 建築様式から江戸時代中期の建築と推測され祭神は天地創造の神 ・高皇彦霊神(たかみむすびのかみ)だったが江戸時代初め比叡山延暦寺の守護神「日吉神社」の分霊が遷移された。日吉神社は「山王権現」とも呼ばれ山王の使者 猿であることから本殿両脇には中井権治(橘)正貞で子孫は権次の名を継いで権次・正次・権次正胤と続く)の手になる一対の木彫りの猿が置かれています。 3代目権次正貞の彫刻は甲賀山の大護神社にも残されています。
(雌の吽像)木彫の猿(雌の吽像)

新井・石見神社の大囲碁(日本一)

高見城山登山口の丹波悠々の森駐車場の向かいに高見山・自然寺があり裏手の山裾を東へ延びる山道"囲碁の道を150m程進むとアラカシの大木が 迎えてくれる新井神社に出る。正面に石の鳥居と白壁で囲まれた小さな神社が石見神社。祭神に:隣村との領地争いを元和年間(1615‐24)囲碁の勝敗で解決を図り 見事勝利して村民に平穏な暮らしをもたらしたと伝えられる谷垣岩見守を祀り、祠の前に巨大な石造りの碁盤が置かれている。平成4年(1992)”日本一大きな石の大碁盤”として奉納された。高見城山の尾根続きにある石戸山(石童山)も昔から山の利権をめぐり山争いが
木彫の猿(雄の阿像)

絶えなかったところ。石童山の境界紛争を囲碁の勝敗で決着をつけた谷垣石見守の古事にならい献納された 縦205cm・横1.90m・高さ78cm・重さ約4瓲で実物の23倍・日本一の石造大碁盤。その昔:新屋の庄にはこれといった持ち山もなく村人達は他の領山へ米を下(もと)に出して薪刈りに出かけていた。岩屋山〜カブト鉢山裾の佐治・小倉の十三人塚同様に生活に密接に関わりあう 山を持たない里人の深刻なお話が此処にもある「石童山へ薪買いに行こうか」「もう薪を買える米がないので 止めにするよ」「では今年の冬はどうするんだ。そればかりか飯も炊けないではないか」「仕方がない、生米噛んで頑張るよ」…こんな会話を耳にする 新屋庄の代官は何とかして石童山の山林を手に入れたいと所有の久下庄(山南町)の代官を訪ね窮状を訴え、快く事情を受け入れ永正6年(1509)米100俵・銭100貫を代償として大新屋他四ヶ村の領有となった。
石見神社の大碁盤

其の後百年、代米で買った筈の石童山へ久下庄からも入込んで、どちらの所有か分からないようになり山争いが絶えず「此れは捨て置かれぬ」と時の新屋庄守護の谷垣岩見守は久下駿河守に使いを送って解決策を相談。岩見守と駿河守は囲碁の良い相手、囲碁に勝った者の領地としては…ということになった。村の此の先何百年も運命を決するだけに囲碁の勝負位で決めようとは…なんと愚か者かと岩見守は幾度も考え直したが約束したことでもあり何としても勝たねばと囲碁の研究にふける。駿河守も祖先が売った土地だが今は欲しい・絶対負けられぬと一心不乱。さて試合当日の試合稽古で岩見守は考え、
石見神社の大碁盤

この一番で負ければ相手は 自分の力量を信じ本番では気軽に試合するだろう。本番では想像通り駿河守は冗談を飛ばしながら石を置きます。一方岩見守は必死で一石置く毎に汗をかきます。…やがて「参った。石童山は貴領のものだ」こうして石童山は新屋庄のものとなり谷垣岩見守の徳を慕う村人によって文化5年(1808) 新井神社境内に岩見神社が建立され其の後:大正3年(1914)現在地に移された。
(現地:石見神社案内板を参照)




見田井堰の咳止神 氷上町稲畑

旧佐治川(加古川上流の丹波市域)は古来より 毎年の様に荒れ氾濫の都度流域の田畑は水害被害を被り農民の生活は困窮のどん底にあったといわれます。西脇市方面から「氷上回廊」を 加古川沿いR175号の西方に白山(山麓は赤井氏発祥地)・弘浪山(高山寺城跡)を、北に犬岡山・甲賀山の低山を認めながら東方へカーブする国道の稲畑地区中程に中河原川(白山・弘浪山との
見田井堰の改堰碑と…咳止神:背後にR175号と白山(後谷山城)

山間)が佐治川本流に流れ出る。また金山城・鐘ヶ坂からの柏原川が南から、向山連山・日本一低い谷中分水界を流れ出る高谷川が東からR175号小橋を潜り合流する。此処に穂壷城東山麓を北へ回り込む溝谷(排水路)がR175号を隧道で佐治川側に抜け…北方の本流:佐治川(加古川)には南郷城山麓を経て成松を抜けてくる葛野川…が本郷で合流する。
穂壷城北麓の見田井堰と柏原川背割堤左に加古川・奥に流量観測塔?

穂壷城北は此れ等河川の十字路で幾度となく増水で沼・池と化す。北からの佐治川が柏原川側へ逆流してくるのを抑える為の背割堤が穂壷城北東山麓から中河原川の河口まで約1Km延びる。潅漑用取水が主の見田井堰・萱刈坂を越えた鴨野には柏原川への排水溝がなく土石流入を防ぐ土留めの堤防高土塀が築かれていた。直ぐ下手:新井から県道291号沿い!?に田路・母坪・穂壷城東裾を北に抜ける排水溝も見田井堰により流れが遮られる為、
穂壷城北東端:・新井・田路方面からの排水路(R175隧道で佐治川に抜ける!!

安永終期(1775?)頃ー寛政初期(1789)に掛け設けられた。其の後:昭和ー平成期に入っても見田井堰・母坪・田路の 排水溝・高谷川の樋門や柏原川から佐治川合流部にかけ深刻な氾濫箇所の治水対策に護岸・掘削・補修・改修工事が近年まで(昭和・平成…)繰り返されてきた。見田の咳止神のお話は柏原藩前期織田家初代藩主(慶長3年 1598-)織田上野介信包の時見田は稲畑地区稲畑に統合され現在「見田」の名はないが ”見田井堰”名称は工事名等で
見田井堰の改堰碑と…咳止神(中央):R175号正面に穂壷城

現代も使用される。堰を設け下流の畑地を切開き水田とする潅漑用水事業として近在の百姓等を集め堰堤に着手したが出来上がった井堰も田植時までの洪水に都度に流され壊れ一日でも早く完全な工事をやれ…との厳命を 工事奉行から伝えられた頭領は近国の堰を見て研究したが成算思案も立たず 「人柱を立てれば成就する…」と聞かされた頭領は奉行に人柱を立てることを進言し 密かに自分が覚悟の人柱に立ち 井堰工事は完成した。其の後:堰の側に御神木として檜を植え人柱となった頭領の霊を祀り”堰止め神”として崇めた。
見田井堰:柏原川との背割堤と排水樋管施設(樋門ゲート?)

時は移り”堰止め神”は「咳止め神」として霊験あり…と。昭和7ー10年の改修に御神木の檜がなくなるのを惜しみ・其の檜材で 新たに小祠を造り改修記念碑(改堰碑)と並び堰の堤防横に安置された。新井ー田路…からの排水溝は安永終期(1775?)頃ー寛政初期(1789)に掛け設けられたが見田井堰に遮られていた…が昭和29ー31年排水溝は完了したようだ。R175号脇に見た古い樋門ゲート門柱が潅漑用の見田井堰遺構か?・新井ー田路ー母坪に至る排水溝遺構の橋梁なのか?、もう一箇所橋梁遺構らしい?建造物を見るが不詳。

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