東多紀アルプス末端の山 豊林寺城〜篠見四十八滝〜八ヶ尾山
丹波:篠山市 (五万図=園部)
豊林寺城〜篠見四十八滝〜八ヶ尾山678m  H14年9月16日
八ヶ尾山ダイレクト  大原〜イヤ谷〜山頂〜林道  H19年03月13日
校歌の山 : 大芋小学校♪・・緑あかるい 八ヶ尾を 仰げば心みちてくる…♪
近畿の山城 :豊林寺城  福井城(森本城)と福井居館
  山上城(中村城)・三宮古墳  小谷城 八ヶ尾山城
合戦場跡の酒造会社から篠見48滝の谷を挟んで峠山と無名峰(右側)

丹波篠山の北方を西は三尾山・黒頭峰・夏栗山等、佐中ダム辺りに端を発して鋸山・御在所山西ヶ嶽・三嶽・小金ヶ嶽を経て八ヶ尾山の東で藤坂川と国道173号まで幾つかのピークを連ねる多紀連山は多紀アルプスとも呼ばれ県道97号の栗柄峠を隔てて東多紀と西多紀に分けても呼ばれます。東多紀アルプスの三嶽〜小金ヶ岳、西多紀アルプスの三尾山は数多くのガイドブックに紹介の人気スポットだが少し外れた鋸山や八ヶ尾山も奇岩や絶壁を山中に隠して展望・岩尾根 ・春のヒカゲツツジ等楽しめる山で人気の無いのが 不思議ですが御蔭で静かな山行を一人占め出来る。元来多紀連山は吉野大峰山と並ぶ丹波御嶽修験道の山として栄え、その行場が連山中に点在しています。
市野々集落で見かけた民家の長屋門

筱見の滝で身を清めて八ヶ尾山に登り小金ヶ岳へ縦走して西ヶ嶽から栗柄峠へ降って不動の滝(宮の滝)での水行で行を終える修験の道の一部を今日は逆回りするコース採りです。八ヶ尾山(畑山・三嶽山)と昨日登った(H14.9.15)波賀尾嶽が旧多紀(篠山市)地方のニ大標山(シメヤマ)【古代の民俗が聚楽(集落)地を求めて移動する際に目標とした特殊な山】にあたり細工所辺りから続く農耕地の奥に起立する八ヶ尾山の姿は的山・標山として目立つ存在です。低山の豊林寺城跡から九頭女へ縦走して 筱見四十八滝から八ヶ尾山が予定だったが結果は九頭女への稜線を誤り縦走失敗だが、山麓の九頭女神社へは寄った。



東多紀アルプス末端の標山へ 豊林寺城〜筱見四十八滝〜八ヶ尾山〜大原・大日堂 2002年09月16日

篠山城址から北方に多紀連山を望み、真近に三嶽南麓の低山と並行に県道702号を走り、丹波地方最大の車塚古墳を見て国道173号の細工所交差点に出ます。正面に荒木鬼の井串城(細工所城・荒木城)が見えます。田園風景が拡がる真っ直ぐな車道の正面に台形のピークから緩やかに西へ延びる尾根は豊林寺城址から九頭女への緩やかな稜線、その奥には鎧武者の荒々しい山容をのぞかせる八ヶ尾山、三角頭の峠山が見えてくると 小田中で筱見四十八滝へ向う車道の入口です。
櫛岩窓神社前から豊林寺城址を遠望

少し先の櫛岩窓神社 に駐車すれば今日の周回コースの基点としてはベストですが、駐車スペースが余り無いので此処・小田中にオープンした「チルドレンミュージアム」を基点とします。駐車ついでに集落内を少し歩いてみると 清五郎稲荷神社 稲荷山古墳があります(AM8:30)。小田中のバス停・丹波東雲から国道に沿って北に向うと、右前方に露岩を見せる小山が見えてきます。名前も珍しい 櫛岩窓神社は櫛岩窓命、豊岩窓命、大宮比売命等を祀り、その坐像は国の重要文化財にもなっている兵庫丹波唯一の延喜式名神大社です(AM8:43)。 神社と国道を挟んだ向かい 「玄渓山・豊林寺」の石標側の道を 北に向い篠山川に架かる坂本橋を渡ると道標があって集落内の道を東に進むと小原の大銀杏直進は「豊林寺」を指しています。
筱見四十八滝への分岐・東雲から城山と八ヶ尾山

豊林寺奥の不動明王堂前から山道に入っていくと(AM8:50)二段ばかり続く小広い! !削平地があります。此れが豊林寺城への大手道なら木戸や番小屋跡とも思えますが谷筋の片側だけに見受けますので昔有ったという地蔵堂や庚申堂の跡なのかも知れません。いよいよ辿ってきた踏み跡が薄くなってきた頃、 南方への枝尾根と最高ピークの間の谷の詰めに棚状の平地が見え、今まで見かけなかった石片が散在している箇所があります。山側は切立っており、谷に面して平坦地が長さ約35m・幅7〜8mでのびています。西端には谷よりに1m程小石を積んで土塁状になっていて1m幅の通路の背後にも小石を、うず高く積み集めた箇所があります。 後ろの岩場を崩して集めた石片のようです。 付近に山林・採石・測量等の作業跡等は見受けません(AM9:20)。
豊林寺城(城山)尾根の露岩から小原集落と毘沙門山〜雨石山

城址であった為の思い込みが強いのでしょうか!!、この場所は出曲輪で、積まれた石片の山は戦闘時の防衛策として、投石に使う為だったでしょうか?。 背後の4〜5mの岩場を乗り越えて南へ延びる枝尾根から山頂までには最高ピーク下に 小さな曲輪があるほかは堀切もなく北側に 竪堀と思われる跡が見られるだけでした。この尾根筋に曲輪等防禦施設が乏しいことは 南端のピークまで辿ってみて納得します。南端のピーク (Ca420m AM9:45)は三方が切れ落ちていると思える程の急斜な露岩混じりの場所です。 ズット展望皆無の樹林の中。此処に立って確認した八ヶ尾山の位置と方向に最初の失敗を身をもって確認します。
南尾根ピークから豊林寺城と八ヶ尾山

この枝尾根のピークを九頭女(432m)と勘違い、 地図か概念図を書いて持っていたら、 こんな間違いは無かったはずです??が…九頭女は城山から北への尾根筋だったので…元に戻って城山(豊林寺城址)のピークへの登り返しは直ぐで小さな曲輪を越えると広い平坦地へ出てきます。樹林の中で期待した展望は有りません。赤白の測量棒と、此処でも大柿氏のプレート・赤布を認める豊林寺城跡(527m AM10:15)です。彼は八ヶ尾山から此処に至り東の尾根を降ると記されている。いよいよ辿ってきた 踏み跡が薄くなってきた頃、南方への枝尾根と最高ピークの間の谷の詰めに棚状の平地が見え、今まで見かけなかった石片が散在している箇所があります。山側は切立っており、谷に面して平坦地が長さ約35m・幅7〜8mでのびています。西端には谷よりに1m程小石を積んで土塁状になっていて1m幅の通路の背後にも小石を、うず高く積み集めた箇所があります。後ろの岩場を崩して集めた石片のようです。付近に山林・採石・測量等の作業跡等は見受けません(AM9:20)。
農林寺城址527mピークと南尾根の曲輪

城址であった為の思い込みが強いのでしょうか!!積まれた石片の山は戦闘時の防衛策として投石に使う為だったでしょうか?。背後の4〜5mの岩場を乗り越えて南へ延びる枝尾根から山頂までには最高ピーク下に小さな曲輪がある他は堀切もなく北側に竪堀と思われる跡が見られるだけでした。この尾根筋に曲輪等防禦施設が乏しいことは南端のピークまで辿ってみて納得。その東の尾根に向って長い平坦地が続き、数段の曲輪が続く様ですが途中で引き返した。尾根をも少し下ったところに三角点標があったことは 後日知ります。この三角点峰(520m)が豊林寺城址だと篠山市のHPログには説明されているので二つのピークのどちらかが 本城だったのでしょう。また、この東尾根末端のピークCa410)には森本氏の福井城(森本城・福井塁)が有ったのではないかとも思えてきました。福井城も山城で豊林寺城址は福井の山城とも呼ばれるようですから!!!山頂の北へも腰曲輪を経て一段の曲輪があり、林の中に「HCやまびこ」のプレートがあった。
豊林寺城址西麓の鉱山跡

このまま尾根を北上すれば大正解だったのですが八ヶ尾山を正面に見て、 東側の枝尾根ではないかと既に方向を勘違いしています。先ほど辿り着いて小さな曲輪の横からテープと境界ポールが続く急斜面があり、てっきり此れがコースだと思い
改めて北の九頭女に向います ・・・おかしいなと気付いた時には既に遅く、朽ちた作業小屋と、大きな鉱口を開けた鉱山跡地に降り立っていました(AM10:25)。5分程で下筱見集落内の車道に降り立ったが、辺鄙な山の辺鄙な場所から下りてきた私に 怪訝な眼差しを背後に感じながら九頭女神社(AM10:40)のある藤坂口バス停に急ぎます。昨日に続き今日も一つのピークを外してしまった。START地点の櫛岩窓神社の側にはXX酒造の丹波精米工場が有り、此処・上筱見には▽△酒造の丹波工場があって正門からは、 四十八滝を挟み込むように峠山と無名峰が荒々しい岩肌を見せて起立する姿が望めます。
八ヶ尾山から雨石山〜櫃ヶ岳方面 H12頃

一帯は「応仁の乱」で丹波守護代内藤氏(細川方)等が山名氏の軍勢と激戦し大敗した「村雲合戦」の跡地で合戦場 (かせんじょう)の名があるところです。工場の西側で四十八滝への分岐がありますが此処に戦死者の供養と除災を祈って筱見観音(聖観世音菩薩立像)が建てられています(AM10:50)。分岐から林道を10踏んでキャンプ場もある筱見四十八滝公園に着きます(AM11:00)。始終滝の水が流れているから名が付いた四十八滝も水量に乏しく最初の「手洗い滝」もチョロチョロと一筋の細い流れがあるだけ。大滝の右岸を捲き最期の 一ノ滝側への鎖場手前に「四十八滝終点」と訳の判らない標柱が立てられています。以前から何故こんな所にと訝しく思っています。
八ヶ尾山から多紀アルプス・小金ヶ岳〜三嶽方面 H19.3

「引き返せ」の意味なら「大滝」の所か、 そのまま一ノ滝からの登山コースが判りやすいように標示板を設置する方が良いのでは !!慣れないハイカーが標識の意味を取り違えて、ウッカリ鎖場を通らずガレた谷を直進されたら事故に繋がるかも・・と心配です。岩場の鎖場を抜けると二ノ滝と一ノ滝の間に着く。右岸の登山ルートと一ノ滝の間の快適な 25m程の階段状のフェースを上部に出ると絶好の展望休憩地点です。四十八滝を源頭部に詰め上がって来ると 「多紀アルプス・小金ヶ岳」への道標が立っているが八ヶ尾山を示すものは以前から無い。此れから向う八ヶ尾山への道は スッカリ様子が変わっている。車でも入っていけるほどの道だったが雑木藪の中に棘や笹で覆われた細い道になっている。!!余りの変わり様に道標を一つ見誤ったかな!!?と思うが過去に一度は通った道。方向を見定めて進むが藪はひどく足下の踏み跡も獣道のように薄い。八ヶ尾山への取付きは 以前から分かりにくかったが藪道はいつの間にか深い笹の中の明確な道を辿りだした。途中で以前の広く明るい道に逢うことも無かったので 順当に!!コースを辿っているようです。遠くに八ヶ尾山を一瞬見て長い余り展望の無い稜線を降り続けて鞍部に到達します。
八ヶ尾山山頂:八ヶ尾水分神社のほ祠 H19.3

此処からが本日のメイン・エベントで東多紀アルプス最期の岩稜と展望のコースです。この為だけに藪を抜け、蜘蛛の巣で顔面泥パック状態になりながら進んで来た様なものです。さな岩稜を越すところも 手垢や足型の形跡が感じられないほどで清清しい。深く切れ込んだ四十八滝の谷を見下ろし、酒造工場から見上げた露岩帯の核深部に今居るのだと実感する(PM12:30)。まだまだ遠くに見える八ヶ尾ですが、 この後の岩稜部を過ぎると、もう山頂部に向って最期の登りとなっていました。登山道を閉ざすように伐採された木々が散在していて進行を妨げますが、おかげで八ヶ尾山山頂 (3等三角点 点名:大芋T別名:畑山 ・三嶽山 678m PM12:55)部は前回と同様の展望を見せて拡がります。 枯れて白っぽい木に打ち付けられている山名プレートも懐かしい。畑山の名が示す標山で此処も丹波修験の最初に入峰する山ですが低徘の先輩 ・兼武さんHPに「八の字の山形から名付けられた」といわれるが麓から望んだ姿が 太く凛々しい八の字に見えなくも無い。
八ヶ尾山から多紀アルプス・小金ヶ岳〜三嶽方面 H12頃

伝説では此処に八つの頭を持つ大蛇が住んでいて、里に下りて来て娘をさらっていったという。源頼光一行が大江山(旧加佐郡大江町)に鬼退治に行く途中、小原の里を通りかかった際・村人達は天の助けとばかり 大蛇を退治を頼みます。頼光は鬼退治の良い演習と快く引き受け、名刀鬼切丸で大蛇の首を切り落とした。其の大蛇の血を浴びた頼光等一行は、刃や矢を受けても無傷の霊力を得とも云われます。大蛇の頭を八つの峰の 其々の尾に埋めたと伝えるほうが山名の伝承としては解かり易いが・・・。 山名板の向こうには毘沙門〜雨石〜櫃ヶ岳が見えます。国道173号線を隔てて続くこの山並ですが毘沙門〜雨石辺りまでは稜線としては 続いていないのですが山容はソックリ東多紀アルプスの続きです。毘沙門には兵庫県下でも最大級の岩窟があり登山の際は必見のスポット。振り返れば東多紀アルプスの主峰というより多紀アルプスの三嶽〜小金ヶ岳が聳え立って見えます。 勿論・南面には弥十郎ヶ岳〜飛曽山、北摂の深山や大野山と300度!!の展望です。前回は筱見から往復したが今回は 173号線沿いの小田中が基点です。下山を南に採って怪しい踏み跡を辿れば周回距離は短いが、山頂から北側をイャ谷?沿いに降り、思った以上に良く踏まれた山道が続きます。浅く広い谷筋への下降点に大柿氏の赤布が・・・彼は此処から八ヶ尾山へ登り四十八滝源頭部を抜けて峠山手前の峠(藤坂峠へ下る道)から筱見へ降り、 どんなルートかは判らないが豊林寺城址へMTBでトレースされたようです。
八ヶ尾山登山口 :弁天池への林道 H19.3

何処でも通れそうな降りと違い、登りでは結構時間もかかりそうな長いコースですネ。行程が長いだけに緩やかな登りが続くと考えた方が良いのかも。小原の集落に降りてくるが地図なし、 当てずっぽうに歩く私ですので、このコースを登りに採れば100%近い確立で失敗、集落の道を直進して訳のわからない谷を詰めていたかも知れません。国道筋の先には毘沙門滝から毘沙門への入口の橋が見えています。 きらびやかに露岩模様を散りばめた豪華な衣装を披露する毘沙門山の見送りを受けて集落内の道を南へ歩き出すと小原の大銀杏(大日堂)の前を通ります。 そのまま集落内の道を辿れば出発点の豊林寺への参道口の坂本橋へ戻ってきますが、広い国道を福井の交差点に出て小田中の「チルドレンミュージアム」の駐車場へ戻ります(PM2:15)。


八ヶ尾山ダイレクトコース 小原〜イヤ谷〜八ヶ尾山〜弁天池林道   2007年03月13日

東多紀アルプスの東端部のピーク:八ヶ尾山の山頂に城砦が有った事を知る人は、西多紀アルプスの一角を占める 佐中三山(勝手な呼称で一般的ではないのですが、 佐中ダムを基点に廻れる三尾山・黒頭峰・夏栗山の三山)の一つ、 夏栗山山頂にもある 城砦と同様に少ないことと思います。其の土地の 領主のものであっても、地元で伝承も残らない城館が有りますので、 これらの城砦を攻める為の向城や陣城等、侵攻側の一時的な城砦が明確に記録 ・資料に残されることも少ないでしょう。まして築城の目的も、 其れらしい?平坦地以外には遺構も残っていないとすれば関心も薄くなるでしょう。
八ヶ尾山への道:イヤ谷

八ヶ尾山へは藪で多い尽くされる前にダイレクトに向かえば片道約1時間の行程なので、小原集落からイヤ谷を詰めて山頂へ、山頂からは何時もの北尾根を下って弁天池に通じる林道の降り立つ。八ヶ尾山への取付点の左側に露岩が有り側に祠が祀られ案内標識が有る。林道端しには駐車スペースも有るので判るでしょう!。R173号と平行に集落内の大日堂前を通り宅地が途切れ、国道と合流する手前から西方の集落に向かう車道を進んで右手のイヤ谷に入る。直進する車道は八ヶ尾山への 直登尾根コースへ取付く林道となって弁天池へ延びているが、此の尾根はマダマダ利用者は少ないようですが「八ヶ尾クラブ」の方々の手によるものか登山道として比較的整備されていますので 下降ルートとします。イヤ谷も小川に沿って相当奥地まで護岸には石積みも残る作業林道で、水線が消えて更に上方にも炭焼き窯跡が点在する程で、源頭部近くで踏み跡は消えるが・雑木藪さえなければ道の無い自然林の中は気分爽快で快適です。
八ヶ尾山源頭部:西稜線鞍部直下付近

八ヶ尾山の山裾を東から北へ回り込みながら稜線の鞍部に登り着き、尾根道を15分程・引き返し気味に辿って、以前の雰囲気とはガラリと変わってあか抜けて !!?明るく・切り開かれ広くなった平坦な山頂に着く。八ヶ尾水分神社と書かれた石標が基壇の露岩に立てられ、小さな祠が祀られていて、天照大神と梅田大神の二神の札が納められています。其の西下部は帯曲輪状、北面も自然地形に近い 粗れた段差がある。其のつもりで観察しないと気も付かない?明智光秀の遠見の砦八ヶ尾山城が在った所です。其の北面尾根に沿って続く急傾斜の 登山道が大原集落へ下るダイレクト尾根。篠見四十八滝を結ぶ縦走コースとして活用されてはいかがでしょう!!。
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合戦場跡と筱見観音    篠山市上筱見

細川氏(東)と山名氏(西)の両守護大名が京都を中心に天下を二分して始まった【応仁の乱】応仁元年(1467)によって、 此処・曾地の丹波守護代内藤元貞(細川勝元方)等は、主力が上京しており陣営を立て直すことが出来ないまま、 侵攻して来た山名宗全の軍勢に押されて「村雲合戦」の激戦で大敗しました。その舞台が筱見川沿いで、この付近を合戦場(かせんじょう)と伝えています。この戦場跡に百萬石酒造の丹波工場があり、 篠見四十八滝への入口・道路脇に小公園が設けられて戦死者の供養と除災を祈って聖観世音菩薩立像(1.8m)が建てられています。
筱見四十八滝・長滝(33m)
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筱見四十八滝(多紀連山県立自然公園 )県指定の森林浴場50選の1

多紀アルプスからの渓流が巨岩・奇岩の断崖層に多くの滝を懸けており、下方から「手洗いの滝」、弁財天・九眼白天王を祀る「弁天の滝(椿の滝)」、巨岩と絶壁に囲まれ滝壷を持つ 「肩の滝」、直ぐ上に「長滝33m」但し此処へは弁天滝下手から大きく迂回して捲き上がる、何代目かの篠山城主が名付けたという「シャレ滝」は二つの巨岩を裂くように岩間の細い溝を縫うように流れています。「大滝(20m)」「ニの滝」 「一の滝」が続き八つの滝が始終流れているところから四十八滝と名付けられて、中世の頃・丹波修験道の修行場で付近には6ヶ寺があり栄えていたが、その後・福寿山多聞寺のみを残し他は廃滅した。
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小原の大銀杏  市指定文化財(昭和45年(1970)10月13日)

小原の大日堂へは櫛岩窓神社前から国道173号線を1.5キロほど北上するか篠山川に懸る坂本橋を渡って 豊林寺への道を分けて右手 ・集落内の道を進めば大日堂に着きます。お堂の前にある珍しく雌雄一対の 銀杏の大木は樹勢は今なを盛んです。高さ25m,目通周囲6.2m推定樹齢 250〜300年・木造大日如来坐像県指定文化財(昭和62年3月24日)丹波修験道が盛んだった頃、最初に入峰する山が背後にある八ヶ尾山(678m)で、この付近にも寺坊があって修験者の登山口として 当時は栄えた所だったようです。
小原の大日堂と大銀杏

堂内には智拳印を結ぶ金剛界の木像 (寄木造)大日如来坐像が安置されており、 平安時代後期の作と考えられ内刳り・漆箔・彫眼を施してある。大日ヶ尾山中にあったが、三岳修験道の廃滅後(大峰修験道に敗れた)に移したという像高97.5cm、面相はふっくらした円満な顔立ちで、 ゆったりした姿に安定感があり、 保存状態も良いとのこと尊顔を拝したいものである。



 豊林寺城 福井城(森本城)と福井居館山上城(中村城)  小谷城八ヶ尾山城


豊林寺城 (大雲城・福井の山城)  城山・豊林寺山 527m   篠山市福井字豊林寺・阪本

国道173号線を挟んで櫛岩窓神社の北方約700mにある玄渓山豊林寺 (真言宗)は白雉2年(651)法道仙人の開基を伝え、朝廷の尊崇が厚く元慶元年(877)には陽成天皇 (876〜84)の勅願所になったとの伝承があります。教仙僧都が宝治年間(1247〜49)に七堂伽藍 ・天台寺院19僧坊を建て、三岳修験道の一寺として栄えといわれます。永徳3年(1383)には寺領300石の朱印状を賜ったといわれます。
西北側曲輪から農林寺城本丸


室町時代中期・応仁元年(1467)細川氏と山名氏が対立した「応仁の乱」では此の地、 福井の西1km付近 ・篠見川が篠山川に合流する辺りでは、丹波守護代内藤元貞(細川勝元方 )等が主力が上京の手薄のところを、侵攻して来た山名宗全の軍勢に押されて「村雲合戦」と云われる激戦地となり兵火で焼亡したが、大芋兵庫助慶氏は永正7年(1510)細川高国から安堵状を受けています。
農林寺城・主郭東中程の曲輪

その後、南山裾にある福井城の森本氏が豊林寺城に居たといわれ、福井の山城の別名とともに 福井館の詰城(福井城)の詰城とも考えられます。 大雲城の別名が大芋(おくも)荘や大芋氏から付けられたものでしょう。最高地点の527mから城山(三角点520m)にかけてが豊林寺城の城域ですが、同じ尾根の東南下方の Ca290m付近には福井城があり、露岩混じりの急斜面を降った山裾には福井居館があります。 元亀年中(1570〜73)に出羽和尚が再興したが天正5年(1577)明智光秀の「丹波攻め」により、またも焼失したが慶長4年(1599)天台宗の2坊・真言宗の2坊が再興され、
八ヶ尾山頂から豊林寺城〜福井城を望む

この時の下の坊が現在の本尊・観世音菩薩像を祀る豊林寺で1947年に金剛峰寺の直末寺となっています。農林寺の背山には応永年間(1394〜1428)頃に 大芋式部丞が築城の豊林寺城があり、代々大芋氏の拠点となった城山が最高地点の 527mピークにあり、少し尾根東へ下った所に520m三角点標柱が埋ります。最高点のピークには広い削平地があり三方の尾根に曲輪跡や北の枝尾根側には竪堀や豊林寺からの谷の詰め(北尾根と最高ピークの20m程下方には
農林寺城・主郭東中程の曲輪

出曲輪らしい削平地と小石を土塁の様に積まれた箇所と、 その後方には通路幅の1.5m程を隔てて、此処にも石片が寄せ集められ築山風になっている箇所があります。鉱山として鉱口が彼方此方に有るようですが工事・作業用とも思えません。谷筋もこの近辺に露岩は見受けませんので 戦闘時の投石用なのか!!?その筋の方に調査してもらいたい所です。
(現地・丹波篠山五十三次案内板 参照)


福井城(森本城・福井塁)と福井居館
福井城(森本城・福井塁)  xxx Ca 290m  篠山市福井字阪本
福井居館     xxx Ca 240m  篠山市福井字阪本

前回(H14年09月16日 )は農林寺から背後の豊林寺城へは、踏み跡も消えた谷を詰め上がり、後年・手にした戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」(八上城研究改編)の縄張り図に書かれていない城域の西南の谷の頭で、削平された台地に小石が多く集められた場所が有り、
福井城北面:左右に竪堀と高い切岸

付近にも2〜3曲輪が有った様な!!?。山城については未だ疎くて注意も払わず、 三角点峰が城址は判るが、直ぐ東下方の三角点に立ち寄らずに 篠見四十八滝〜八ヶ尾山へと縦走では、 八ヶ尾山山頂付近が城址であり、此の三角点からさらに尾根を下ったところに福井城が、
福井城・北端(本丸!!)の幅広土塁

更に山裾に下りた所には福井居館があることが分かり、豊林寺からは谷を詰めず右手(東の)尾根に取付き、 先ず豊林寺城への尾根を往復してから前回は所在も城史も不詳だった南へ派生する尾根を下って福井城(森本城)へ向います。踏み跡も消え、 そのうえ更に降る尾根筋も判別し難く、枝別れしますが 尾根の西端をキープしながら進みます。
福井居館・石組の井戸

アレッ違ったかな・ミスコースの不安を 感じ始めた途端目の前には、左右に竪堀と正面には高い切岸が現れて、やっと着いた・間違い無かったと安堵します。・・・が切岸が先に目立ち、雑木の藪に隠れていて、 杣道かと思い通り過ぎた直前にあった筈の堀切や竪堀と 土橋には気も付かなかった。北端の曲輪は幅広の土塁を積んで更に切岸を高くしています。堀切に土橋が設けられる場合は尾根伝いに通じる道があるとされ、直前まで辿ってきた道は此の福井城の更に詰め城として豊林寺城への連絡路だった様です。尾根に沿った稜上100mに満たない単郭の小城は北面を堀切・竪堀で防備を固めますが 南面に防備施設は無いようです。露岩が多く立木に掴まりながら摺り落ちていく程の急斜面に曲輪を置く余地も必要性も無いようです。
篠山川の側溝・福井居館東の土塁と堀

永禄年間(1558〜70)大芋氏一族の森本筑前守秀弘が拠った福井城は福井館の詰城で、 永禄6年(1563)筑前守秀弘の死去後、 嫡男・喜太夫秀光と弟・十兵衛秀貞が継いで、 そのまま尾根続きに福井の山城とし豊林寺城を詰めの詰城とする二段式の詰城として利用され、森本氏が豊林寺城にも拠ったと丹波史は伝えます。大芋衆の山上氏の山上城(中村城)が藤坂川を挟んだ西方に有るが、 規模の小さな曲輪を置いた城址があるが、同様に同一尾根上に二箇所に城郭を持つ二段式詰め城の形式になっているようです。
大芋小学校から望む福井城

【城ファンの方から後日MLで教えていただいた情報を追記紹介】福井居館、その裏山の尾根先端に福井城、そしてその背後 (277m)に豊林寺城という位置関係にある。 その地域は大芋荘という荘園があり大芋衆という地域領主連合があり、その指導的立場にあったのが大芋氏で、16世紀まで豊林寺城領主としていたが、その後:大芋荘の小領主森本氏にとって代わられる。現在も福井居館跡地には森本さんという方が住んでおられるそうです。明智の丹波攻めの余波で、この一族は追い払われたり、 滅ぼされたりしていないようなので、明智方の勧告を受けて帰農したのでしょうか!。
福井居館跡

滑るように降りてきた広い平坦地には小さな祠が祀られ、側には石組みの小さな井戸跡が有り、その南側には”福井城址”の碑が建てられています。側の民家(森本氏邸)裏庭に空堀跡の一部と思われる石積みの庭池や、 民家の東側から南側へは篠山川に沿って側溝が走っており土塁の残欠を見ます。西側には地区内の車道から水掘(一面菖蒲園みたいになっているが・・)が民家を囲い込むように真っ直ぐ北の山裾に延びる掘跡が残ります。
(戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、 遺跡群に関する総合研究 八上城研究改編:和泉書院を参照)


山上城(中村城)と三の宮古墳
山上城(中村城・山上堡・中村堡・中村砦)   城山 Ca380m   篠山市中村字三ノ宮

雲部車塚の側を抜け荒木城の麓・細工所交差点からR173号線に入り、 北上して八ヶ尾山の峰を望み篠見四十八滝の分岐を過ぎると櫛岩窓神社前は近い。車道を挟んで北側は玄渓山豊林寺 (真言宗)への参道で、直接・豊林寺城のある城山への登城口です。 ・・と云って明確な 登山道が整備されいるわけではありません。
右手集落の尾根端に山上城の下郭が有る

三角点の山頂が城域の西端の様ですが、此の山頂から豊林寺の北から東面を囲むように南へ延びる尾根中程の峰の南にある小ピーク付近の福井城を経て 尾根先端の裾にから福井居館がある。福井居館から詰めの福井城、更に尾根伝いの山頂にある 豊林寺城へと二段式の詰め城形態になっているようですが、R173号線・福井交差点を挟んで東側にあって、此れから向かう山上城(中村城)も同様に二段式になって 上位の山頂に詰め城を持っているようです。
登城口の民家は居館と水濠跡か?!

昨年訪城した白藤城も一城別郭です。いずれも大芋衆の城に見られる二段式の詰め城の形態をとっています。 山上城の下郭部の山側尾根の 深い堀切と延長線を長く直線的な竪堀・高い切岸と幅広い土塁・其処に主郭の曲輪を置く様子は、 白藤城を思い起こす程に良く似た縄張りです。R173号の福井交差点を直進すれば後は藤坂へ左折して、多紀アルプス稜線の北裾を草山温泉から栗柄峠を西紀か京都府側三和町へ、
山下城・下郭の主曲輪(右手に高土塁)

藤阪へ入らずR173号で板坂峠(トンネル)を越せば船井郡瑞穂町、正面に山上城(中村城)を見て福井交差点を右折すれば、 船井郡丹波町との府県境です。豊林寺城・福井城の森本氏:白藤城(藤坂城)の中島氏:山上城 (中村城)の山上氏ら大芋(おくも)衆は、丹波守護職:細川氏か山名氏に付いたかは微妙な位置関係?にありますが、
山上城・下郭の堀切

八上城の波多野氏の旗下に有った様ですので丹波守護代内藤氏には敵対したと思われますので、 舞鶴・若狭街道の要衝に面して八上城北方の守りを固めていたのでしょう。”詰め城”山上城も通常時は、 下郭は南に福井地区を望み、 主に京都府丹波町に通じる要衝を、上郭は小原・藤坂方面の展望良く、 瑞穂町側から板坂峠を越えてくる舞鶴 ・若狭街道の要衝監視に当たっていた事でしょう。R173号福井交差点は藤坂川が篠山川に合流する地点ですが、 此処からは北方に露岩が目立つ毘沙門山の山容を背景にして、大芋小学校の背山に城山があります。
山上城・下郭の堀切は鋭角に延びる竪堀に連結する

尾根末端ピークの更に下・・・というより 民家の上方の下ノ郭部があります。 堀跡らしい池や2段程の平坦地の上にある民家、駐在所上の保育所と更に上にある神社跡地?も居住スペースだったようです。登城口は此処からで、幅広の山道は此の先で寺跡らしい所を経て 末端ピークの北へ続く尾根側(何かの施設か木材切出用の道だったか?)まで延びています(後述)。登りはじめて直ぐ林道を離れ、右手の斜面に取り付いて民家上方へと トラバース気味に登って行くと、 矢竹の多い薮に入っていくが藪漕ぎするほどでもない。
山上城・下郭の深く長大な竪堀


目の前に真っ直ぐ急斜面を滑り落ちる長い竪堀に行く手を遮断され、上方に向かうと切岸を持った主郭前の小曲輪に出た。 単郭の曲輪を西側から北へ廻り込むと尾根続きの山側を遮断する堀切に降りる東側にも小曲輪から主曲輪に入れる。主郭部は約20uの半円月状の平坦地で、其の北側に高さ5m程の岩を削り取った様な崖か壁状の高みが有って、 一段・曲輪が有るように見えたのは、広く櫓台を設置出来るほどの土塁で、北面を深く堀切って切岸を高くしています。
古墳・羨道と玄室部(最奥)の葺石が残存

東西に幅広い尾根を堀切り、東側へ延びる長い堀切は緩斜面の為に空掘状ですが、傾斜を増しL字状に折れて其のまま南へ真っ直ぐ、更に長く深い竪堀となって落ち込みます。先の(主郭真南 )竪堀以上に深く大きく長い(50m以上か)ものです。20m程の間隔で平行に走る二本の長い竪堀と尾根側の堀切・土塁が此の郭の 最大防備施設ですが、たった今・登ってきた西面の防禦に弱いのが難点・・・です?。堀切を越えると 比較的傾斜もなく末端ピークの台地!に着きます。末端ピーク付近には横穴式石室:三の宮 古墳X?号墳【玄室が天井葺石の間から見え、 キッチリした石組が残されている様子ですが、羨道は土砂で埋まり玄門部から玄室部に傾れ込んできています。しかし羨道部の盛り土は少し残っていて3枚程の 天井石が露出している。
古墳・玄室部の内部が隙間から見える

写真の様子からは玄門部の加工処理状況に 興味と期待が持てませんか?
 玄室部は天井までの高さ2m程 ・幅も2.5m程なので玄門部も片袖形式程度かと思われます?。羨道開口部までは確認しませんでしたが、 この分なら側壁も崩れず残っているのかもしれません。古墳の多い地区ですが遺跡分布図等の資料未調査の為、 詳細な!紹介は割愛します】がありました。此の少し北側に山裾からの広い山道が登って 来ており (下草が生え荒れた使用済の林道?)林業施設だったらしいコンクリート壁と空地が有った。 その横の尾根側にも工事用とは思えない3〜4段の平坦地?があるのですが、下記資料の縄張り図には記載が無いので先へと尾根を辿ります。
山上城・上郭の主曲輪北の土塁

此れよりは傾斜も強くなり藪っぽくなり、尾根筋も判り難くなります。大岩が剥き出した崩壊地際を抜け上がった所で、下方からでもグルリと帯曲輪が捲いているような数段の曲輪を認めます。 最後の上段の郭(南北に約30m、東西に約25m程だが丁寧な 削平状態)からは 白藤城〜大平山〜西山及び板坂峠への車道 ・若狭へ通じる街道の要衝を眼下に納めます。”詰め城”は、ほぼ同心円状の帯曲輪や小曲輪を周囲に配した輪郭で、露岩の多い場所で岩を切岸に抱込んだり、土止め用の石列らしい箇所があります。 荒れていて其れと確認出来るほど明確な石積み ・石組を見かけません。
山上城上郭・東側に2段の帯曲輪が捲く

それどころか北面にも南面を遥かに凌ぐ 凄まじい程の崩壊場所が有って、このまま山頂部を残して周囲が崩れてしまう程・・・(^^ゞ 南面の曲輪の切岸・南東に2段程の帯曲輪、本郭部の削平と北部のL字状の低土塁は遺構の残存状態も良い方ですが、此の土塁・曲輪を囲うには 一部のみで中途半端で、削り残しにしては後僅かで完成なのに?建物・倉庫等施設の区画を分ける者だったのかな。 北面への尾根筋の堀切は尾根を完全に掘り切ってなく、しかも崩れ埋もれたか浅いので判りにくい。 更に北尾根の高みに向かう尾根筋は緩く城の遺構は此の先無さそうです。戻って帯曲輪の北から西方へ斜面を移っていくと、竪堀状に 凹角の谷筋があるが崩壊結果の様です。
山上城上郭南・主曲輪への虎口か?

其の先・西面一帯は一斉に崩れ落ちそうな、 割れて崩れ落ちた岩が散乱する場所で、主郭部から見て曲輪と見えたのは、堆積した土砂だった様です。山上氏は上野国(こうずけのくに =上州:群馬県)の住人で来住の時期は不明ですが南北朝期後期〜室町時代初期と考えられます。 戦功により領主としての来住なら事情や時期は、古文書等で明確な場合が多いのですが、北条氏の滅亡後に所縁の氏族が丹波に流れて来たのかな?南北朝期以降なら 「応仁の乱」により、応仁元年(1467)丹波守護代内藤元貞(丹波守護職:細川勝元)等が山名宗全の軍勢による丹波侵攻で、激戦となり全滅に近い大敗をした 「村雲合戦」の合戦場((かせんじょう)も近い。
山上城上郭 ・東側に2段の帯曲輪が捲く


永禄年間(1558-70)始め頃には八上城の波多野氏に属した城主山上左衛門尉秀本が築いたとされます。明智光秀の丹波侵攻による”八上城攻め”では、其の子助之丞秀勝が守っていたが、 落城後は父子共に光秀に仕え、山崎の合戦後には此の地に戻って蟄居していたと云います。秀本の子:助之丞秀勝と喜兵衛秀家は文禄元年(1592)豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍したといいます。
「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」縄張り図参照)


小谷城(小谷丸)
     xxxx Ca350m   篠山市立金

小谷城のある立金に向かうルートは幾つかある。丹波の荒木鬼・荒木山城守氏綱の 荒木城(井串城・細工所城)の山麓を、京都瑞穂町に抜ける板坂峠へのR173を走り、豊林寺城や福井城・山上城のある福井交差点で県道303・703号に入るか、R372(デカンショ街道)の福住から丹波の青鬼・籾井越中守教業の居城 籾井城登山口・又は西野々から下原山 集落を経て県道R303号の立金・市野々に向かうルートがある。
篠山川・定宗橋から小谷城(左の峰)

R173号板坂峠から雨石山〜櫃ヶ嶽〜三国岳を経てR372号天引峠へと続く京都府境界尾根の西側に延びる県道303号が、福住宿を結ぶ要衝としてか 間道として往時に利用されて街道かどうかは調べていませんが、大芋荘には土豪:大芋(おくも)氏一族・配下の大芋氏・森本氏・山上氏等 大芋衆の小領主がいます。明治31年(1898)町村制改正によって「大芋」と呼ばれますが、地名起源によると「大蜘蛛」→「大雲」となった様です。小谷城に近い市野々には洞窟に土蜘蛛が住んでいたと云い、
小谷城・南西端の土橋付き浅い堀切

大阪・葛城山系にも「土蜘蛛」を退治した妖怪伝説がありますが、出雲地方だったか渡来民族だったか ?山に隠れ住んだ土蜘蛛族と呼ばれる人々だったのでしょう。上記の山レポート:八ヶ尾山の八つの頭を持つ大蛇の話も、実は此の様な「山の民」だったのではないかと思えてきます。土蜘蛛と呼ばれた民は焼畑を行っていた様で、 其々の山を領分とし境界を示す為に大石を立て、また天然の磐座を祀ったといい、R173号の豊林寺参道入口付近にある櫛岩窓神社 の磐座も元々は・天照大神の天孫降臨伝説!!により創建される以前、此の境界識別に利用されていたのかも知れません? さて県道303号市野々には谷の溝を掘とした小橋を渡って赤壁・茅葺の長屋門を潜る民家がある。田より一段高く石垣と塀で家の廻りが囲われています。長屋門が武家のものか豪商のものかは専門知識が無いのでわかりませんが、 篠山城北にある旧澤井家【青山歴史村】を思わせる立派なもので、
小谷城・主部北端の低い段差と土塁の高まり

山上城のある 近くには当主の縁故が有るようにきいた!。其の市野々の次の終点?バス停が立金で 4〜5日前に降った雪が未だ少し残る林道・ゴルフ場のある峠を越え、天正5年(1577)11月頃:丹波八上城攻めの明智軍と戦かい、援軍の兵が着くまでに 全員討死して敗れた籾井軍の激戦地・本明谷に下り福住側に出るまで民家は無い。436m峰から市野々へ 突き出してくる尾根の一部が立金集落側へ短い枝尾根を落とす比高50m程の末端部:篠山川沿い立金集落の北西、 立金橋と定宗橋(城主に関わる名称の様にも思えるが?)の間の川向かいに位置して小谷城(小谷丸)が在りました。 城主等・城史は不明です。北面の畑地から尾根先を東寄りに登りついた頂部は20x30m程の削平も甘い狭い城域です。
小谷城・削平の粗い主部から東面の2段曲輪

登りきった曲輪北端に低土塁の盛り上がりが、東斜面側に低い段差で2段ばかりの曲輪が見えるだけの 単郭の城の名はあるが砦。城域の南西部にある尾根側を2m足らずの段差で、崩れてか浅くなった土橋付き堀切が城域を区切ります。緩衝帯となった尾根筋が西方に緩く高度を上げていくだけで、堀切・曲輪等の遺構らしいものは無さそうです。 要害の地でもなく・篠山川沿いの道を監視するが要衝だったとも思えません?。城主は福井城の森本氏と云われるようです。竪堀も無さそうですが「縄張り」からは山上氏の関係も捨て切れません。大芋衆の二段構えの縄張り構想からは 上方の尾根にも城址がある可能性が有るのですが、今日は居館跡を感じさせる登り口の畑地へと戻ってきます。

(「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー 」縄張り図 篠山地名考の[大芋]を参照)


八ヶ尾山城(藤坂城・遠候古跡)
 八ヶ尾山(蜂ヶ尾山) 678m   篠山市藤坂字峠

丹波の荒木鬼・荒木山城守氏綱の 井串城(細工所城)の山麓を、北上して京都瑞穂町に抜けるR173は、 篠見四十八滝へ案内板を見る頃・ちょっと姿を現す八ヶ尾山の姿を見て、上記の豊林寺城や福井城・山上城のある福井交差点を直進すると、小原集落の分岐バス停に着く。 八ヶ尾山頂へ直接登れるルートはこの小原から イヤ谷を詰め上がるか、弁天池に向かう林道からダイレクト尾根 (通常登山ルートとして「八ヶ尾クラブ」により?整備されている)に取り付く 二つのコースが考えられます。
八ヶ尾山城山頂部マウンド:西面帯曲輪?から

兵庫丹波では丹波富士 ・ふるさと兵庫の50山にもなっている白髪岳の尾根続きにある松尾山の高仙寺城(687m)に次ぐ高地にある八ヶ尾山城です。別名を藤坂城とも呼ばれますが、 八ヶ尾山の尾根筋北側の山裾にある藤坂集落から八ヶ尾山への登路は余り知られず ?、また藤坂集落にも白藤城があって藤坂城と呼ばれて通じて居る様なので、混乱しそうなので八ヶ尾山城で統一します。八ヶ尾山は蜂ヶ尾山の名もあり 「烽→蜂」と字の転訛したものと思われ、連絡・通信の烽火台・見張り台が有った所。烽明智光秀が天正5年(1577)京都丹波・兵庫丹波の土豪:須知氏・山内氏・大芋氏等一族に命じて、井尻信濃守と須知出羽守(須知城=市森城主)を奉行として 築かせた出城といわれます・・・・が、なぜこの様な高所に城が築かれたかは疑問視されています。「丹波志・真享記」には天正の頃・明智光秀により「夜討用心の為」に築かせたと記されています。城は八ヶ尾山山頂部に約70mX20m程規模の 削平地が造成されているだけで、曲輪の段差も低く、切岸加工や尾根筋に堀切等の防備施設は見当たりません。 兵庫丹波の八上城(波多野氏)・黒井城(赤井・荻野氏)や京丹波では福知山城を落とした光秀ですが、其の丹波制覇の足掛かりとして其の後の地盤を固める為にも、播磨・摂津・京都側の綾部・亀岡・京都方面までを監視し、 其の”知らせの城”構想の一環だったのでしょうか?
八ヶ尾山城山頂部:北面尾根筋の小曲輪から

いかに展望良く見通しの効く見張り所でも「丹波志」にいう”夜討用心の為”にしては余りに遠く高い八ヶ尾山砦の築城意図がよくわかりません。 見えなかった信長に対する憎悪や野望?が既に渦巻き始めていたと考えるのは早計でしょうが、 福知山城主となり、亀山城主(亀岡市)ともなった頃には、京都:友淵の山城【西の古城や東の古城】が奥丹波 ・北播磨 ・但馬方面と京都府側を結ぶ街道警備に準じて、多紀郡(篠山市)の北部の要衝にあり、京都・口丹波・播磨・摂津方面からの交通に対する国境警備・守備監視にあたった砦であったと思えます。時代を遡れば奈良朝期・ 官令に依り制定されていた烽火台(40里ごとの烽火を揚げる)が有ったところでしょう。亀岡:半国山近くの三ッ石(711m)にあった烽火台?の様に・・・!!
(「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」を参照)
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