藤坂の大カツラ・大平山〜西山(西谷山) / 白藤城 

兵庫丹波 篠山(五万図=園部)
藤坂の大カツラ・弓谷峠〜!!〜大平山(藤坂山)〜西山 (西谷山)〜板坂トンネル 2003年08月15日
近畿の山城 :白藤城(藤坂城・中馬城)
丹波の由緒 藤坂峠の大カツラ
板坂峠北の稜上鉄塔附近から大平山を望む

御嶽〜小金ヶ嶽からさらに延びる東多紀アルプスの稜線は八ヶ尾山から一気にイヤ谷に落ち込み藤坂川と R173号線に合流します。 しかし藤坂川とR173号線で断ち切られた稜線が直ぐ東でせり上がり、鎧のような露岩を散りばめる荒々しい山容の毘沙門山が雨石山へと、さらに東多紀アルプスが継続するかのような山域が続きます。 此処は小原渓谷から県下最大級の毘沙門洞を経て雨乞いの雨石山と、今年の数少ない干支の櫃(羊)ヶ岳への縦走がお奨めのコースです。 今日は藤坂川に沿って此れらの山の間をさらに北上して八ヶ尾山北麓の藤坂集落に向います。お盆の親戚への御参り等を午前中に済ませたが、疲れて転寝していたが、思いの外涼しそうなので遅ればせながら午後からの出発です。 昨年豊林寺城〜篠見四十八滝〜八ヶ尾山を廻った際、気になっていた山域の藤坂に白藤城址と天然記念物に指定されている 【大カツラ】を訪ねる小さな山旅のつもりだったのですが・・


八ヶ尾山北方:藤坂峠の大カツラ /弓谷峠〜大平山〜西山(西谷山)〜板坂トンネル H15年08月15日

午後3時を過ぎる頃・今日から二日間「デカンショ祭り」で賑わう篠山市街地を抜けて行きます。 丹波地方最大の車塚古墳を過ぎればR173号と合流する細工所に出ます。正面には丹波の荒木鬼と恐れられた勇将 ・荒木山城守氏香の井串城(細工所城・荒木城)が見えます。山城の裾を走るR173号を北上して八ヶ尾山の北山麓にある 藤坂集落へ向います。
藤坂・春日神社付近から太平山

京都・瑞穂町との府県境にある 板坂トンネル手前の三叉路で県道本郷藤坂線に入って直ぐ春日神社の鳥居を見ます。府県境尾根の大平(たいら)山の名が示すように緩やかな姿が印象的です。 集落内抜けて藤坂峠へ向う県道の正面には伐採され山頂部を露にした丘陵が見えます。位置は漠然としか覚えていないが 藤坂にある白藤城はキッと其処だろうと決めて、もう一箇所の訪問先を目指し藤坂峠に向います。県下一のカツラの巨木 藤坂峠の大桂があり此処を訪ねた後でって、林景山長谷寺(曹洞宗)下の駐車スペース(PM3:40)に車を寄せて歩き出します。
藤坂集落と八ヶ尾山

白藤城主:脇屋義治の父で中馬氏の先祖脇屋義助(新田義貞の実弟)の位牌が祀ってある長谷寺から目指す弓谷峠へは、藤坂公民館隣の「ふれあい広場 」から藤坂川に架かる数路橋を渡って車道を進みます。橋を渡って直ぐ山の端(はな)から取り付くつもりだったが適当な侵入口!!が見出せないまま弓谷峠 (PM3:52)に着いてしまいます。大平山への府県境尾根を辿り、 途中から城址への枝尾根を降るつもりで見通しの利くTV受信アンテナの建つ尾根を採ると尾根の急斜面の先に当初見当をつけていた、 伐採された狭い台形ピークが見えるが余りに小さく又、 大芋衆の城として直ぐ近くの農林寺城や山上城の様に、二つの曲輪群で構築された 二段式詰城だといわれるが確認出来ない。
鞍部鉄塔からの西山(西谷山)

尾根分岐が確認出来ず 通り過ぎてきた木々の茂る短い尾根だったのか?? 白藤城址への不確かさに、大平山への誘惑が増して強くなり、いっそのこと京都府側の西山(さいやま)迄90分以内を目途に、途中まででも縦走してしまおうと予定変更。 地形図に山名の無い大平山ですが藤坂の集落からは、八ヶ尾山は見えず此の山しか目立ちません。「心ある人は来て見よ大くもなる 藤坂山の花のさかりを」平安中期・紫式部や清少納言と並ぶ情熱の女流歌人和泉式部の歌や、和泉式部とは冷泉天皇!!つながりで、 共に丹波に歌を多く詠んだ大江匡房【おおえのまさふさ:平安時代後期の漢学者で、歌人としても知られた文人官吏で後冷泉!!・後三条・白河・堀川と四天皇に仕えた】
藤坂j城址遠望 H17.12

も「君が世に逢ふかひありて紫の雲たちわたる藤坂の山 」と詠った山ですが山の名は有りません。八ヶ尾山は点名 :大芋(おおくも)ですが集落から山頂は見えないし城山(白藤城・藤坂城)を指すには無理がありますので、どうやら藤坂山は大平山と思われます。 大平山の古名を馬代山と呼ばれますが、白藤城の脇屋氏は4代目・右近之進義貢が中馬氏を名乗っていますので中馬氏が管轄とした山か、なにか関連する山名かも知れませんね!!???。 主稜に戻ったが藪尾根に、少し方向を見失いかけたが細く時には薄くなるが踏み跡が山頂へと続いています。雑木に囲まれ展望の無い大平山山頂(古名 :馬代山 古歌の藤坂山か!! 540m PM4:30)に着くと緩やかな尾根続きの太平山東峰へ明確な山道となる。
府県境尾根・鉄塔から毘沙門山(正面)と雨石山

安心して少し山頂から西側へ下ってみると南から西面には八ヶ尾山から 小金ヶ嶽・御嶽・西嶽 三尾山へ続く多紀アルプスの全望、西方から北にかけても鹿倉山や 五条山等が望めます。 集落から見る姿からは想像できなかったが西面は足下に数箇所の岩場が見えるだけで 覗き込んでも裾が見えない程で断崖になっているようです。ゆっくり展望を楽しみたいが時 間に余裕無く西山への縦走に移ります。 展望も無く単調な尾根道も前方に送電線鉄塔が見えて来ると右手(南面)に八ヶ尾山や 送電線越える毘沙門山と雨石山の尾根を望み送電線(丹後幹線)鉄塔のある鞍部に着きます(PM5:00)。巡視路が此処から南下に続きますので、 此れ幸いと下降ルートに使用し目前の西山に向いますが藪。良く見ると藪の北端に稜上で初めてテープを確認。藪を分けると確りと踏み跡有り露岩混じりの短い登りで山頂に着いた。

西山から大平山を振返り御嶽・鋸岳から向山連山を望む

道はさらに八田集落への尾根につけられています。 三角点は判らなかったが潅木に「京都みさやま山の会」の黄色いプレートが掛かっていた。西山山頂(さいやま 点名:八田 3等三角点 560m PM5:08)は送電線(丹後幹線)を越えて京都府側の山。 麓の瑞穂町八田から見て西の山ですが八田からは西谷が入って西谷(さいだん)山と呼ばれるようですが地形図には「さい」とルビが付されています。潅木で展望の無い山頂を後にすると南と西に雨石山・八ヶ尾山 ・御嶽へ延び・続く山並みの展望が拡がります。鞍部の鉄塔から巡視路は下方で再度二つの送電線下を潜って進みます。此処からは大平山の台形の長い山頂部と西山のドーム型山頂が望めます(PM5:30)。 10分程で板坂峠の荒れて下草が覆って埋もれ湿気た林道に降り立ちます。最後は下草で溝か道か分からない草地を抜けてR173号線の板坂トンネル南側へ出た(PM5:45)。


春日神社   篠山市藤阪

R173号線の井交差点から約2kn北上すると京都府側瑞穂町の府県境 ・板坂トンネル手前で藤坂の三差路を左折して 直ぐ左手に春日神社があります。当初は現在の京都府天田郡三和町中出に、文治5年(1189)古代から屈指の豪族紀氏の先祖を祀る梅田七社の一つで、元中・至徳2年 (1384)ご祭神を梅田の神・春日明神・加茂明神として梅田神社を創建されたのに始まります。その後、 権力・人脈・地縁関係などによって、この神社の信仰が広がり「丹波志」に元中9年(明徳31392)3月上棟・大檀那太郎九郎尾張守義治・・・と記されてあることから、
春日神社(梅田神社)

当地に来住した新田義貞の弟脇屋義助の子で白藤城主・脇屋尾張守義治が社殿を寄進しています。 莵原下の梅田神社、高杉の春日神社、友淵の春日神社。それに多紀郡(現・篠山市)に入って、草山の梅田神社(現・本郷の春日神社)、藤坂・小原に梅田7社内の春日神社があります。毎年5月10日に行なわれる、 お田植式は豊作を祈って西方の藤坂峠から奥深い森にある県下一の巨木大桂の小枝を、その成育ぶりにあやかろうと植えてお祈りするのだといいます。
(篠山市の丹波篠山五十三次ガイド 及び現地案内板参照)
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藤坂峠の大カツラ 県指定平成2年(1990/3/20)天然記念物   篠山市藤坂

春日神社前から、 さらに県道本郷藤坂線を約1km程走ると、藤坂峠手前の左手に「藤坂の大桂」の案内板や丹波篠山五十三次の石標が立っています。 狭く短い(約500m程)林道は途中"猪除け"ゲートを開閉して進みます。 関係者以外乗り入れは控えたほうがいいでしょう。また松茸時期も。立入り禁止区域となります。林道からは階段や木橋で整備された遊歩道が大カツラまで続いています。
藤坂の大カツラ

案内板のある入口から15分程で到着です。県道本郷藤坂線からも南方の杉林の山腹の谷筋に、 そこだけ別の樹木の群生のように見える位置が同定出来れば其処が、丹波には数少ない自生のカツラは篠山市内では黒岡の春日神社境内に一本あるほかは報告されていません。県指定の天然記念物で県下一のカツラの巨木があって、村の人々に親しまれ大切に保護されています。植林の杉が育ってしまい車道からは、もう判り辛くなってしまったが ・・ 急な谷沿いの坂を登っていくと 谷筋に大きな木が見えてきます。近づくに連れ、その木が一本ではなく10数本の木々の集合体に思えます。
藤坂の大カツラ

但馬の東床尾山登山ルートの糸井渓谷にも大カツラがあり、 数10本の"ひこばえ"が朽ちた主幹を取り囲んでいますが、藤坂のカツラは樹高25 〜30m・幹周(目通り)約12mで幹の5〜6m上で周囲から14〜15本の成木が株立ちして、真っ直ぐ聳え立っており樹勢も良くその姿も壮大です。毎年5月10日に藤坂の 春日神社で行われるお田植え式には、この大桂の生命力にあやかろうと、この木の枝を24本切り取って祭礼に用いられます。小枝を苗に見立てた”お田植え祭り”で、棚田に見たてた神社の舞台に植えて豊作を祈願します。
(篠山市の丹波篠山五十三次ガイド 及び現地篠山市教育委員会案内板 参照)



 白藤城

白藤城(藤坂城・中馬城)     大谷山 Ca360m   篠山市藤坂字大谷山

東多紀アルプスの東端に位置する八ヶ尾山を左手奥にみて京都府船井郡瑞穂町へ抜ける国道 173号線を北上します。府県境の板坂峠手前で藤坂川に沿って左折、県道本郷藤坂線に入ると春日神社があり、 前方に目立つ緩やから山稜のピークが目に止ります。 名のとおりの大平(タイラ)山から西へ続く尾根が弓谷峠へと延びています
竪堀から主郭(東郭)の切岸(約2m)

以前・白藤城を目指して車道正面に見える丘陵の伐採された禿山の頂附近が城址かと思い又・弓谷峠近くなので峠を越えれば草山温泉から三和町へ、藤坂峠から西紀町の鼓峠を越えて氷上郡春日町へ、 勿論・街道(R173号)南へは篠山市街や能勢を経て摂津や園部・亀岡への要衝なので、これ等の要衝監視と警護の城砦と思い弓谷峠に向かったが白藤城は藤坂集落中程の低丘陵末端の少し盛り上がった山頂部に主郭を置く東郭と 其の西南下の尾根上に堀切と曲輪を置く 西郭がありました。藤坂公民館から藤坂川を渡り以前は間違えて弓谷峠へ向かったが、 川沿いに向代橋と大谷橋間の山側が城跡です。大谷林道側から西尾根伝いに城域に入ったが、僅かの段差の平坦地や東面に土塁を見るが雑木薮の中・下草も覆って判りにくい。
白藤城主郭(東郭)・西側の竪堀

西端に2〜3mの段差で本郭を囲む切岸下の曲輪に降りると西から南側を幅の狭い帯曲輪が捲き、 西下へは幅3〜4mで長い竪堀が一本走る。直ぐ北方には二重堀切が、緩やかに続く丘陵北の尾根を遮断して城域を確保しています。丹波と攝津を結ぶ要衝には有るが 八上城黒井城への「丹波攻略」の拠点として明智が新たに築城した藤坂城が此処なのでしょうか??。 尾根筋も判らないうえ雑木に埋まる広い南西への斜面を下ると大堀切がある。幅5m・西側城域へは7m程の急斜面を上って幅広の土塁を越えると、直ぐ目の前に空掘りが有り左端の土橋を渡って4m程の切岸を登ると、 其処にも幅広く高い土塁で尾根側からの侵攻に対処しているようです。堀切・長方形の池状の空掘・高い切岸上の土塁と其々の設備は 規模が大きいが、後は4〜5段連続して低い段差で平担地が続く。周囲は雑木薮に囲まれて、縄張りの様子が判らないまま薮の空いた所を選んで下ったが、これ以降は目立つ遺構も無さそうで低い段差で幾つかの平坦地が残る様です。
白藤城主郭(東郭)・北面

この西郭 (二の丸!)の堀切や上部の土塁曲輪付近の様子からは、二段式の詰城の場合・下段の西郭が居館が在ったと思われる正面の南の斜面下方防備に薄く、背後尾根の東郭(主郭)に向って防備強化を図っている事がよく判りません?。 其の南麓へ下ると民家上の祠と石碑に出てきます。石碑には文政9年(1826)建立”大乗妙典・・・一字一石一拝塔”とある。願主は中馬氏となっており、此の民家の地神さんの様で民家の裏庭に降り立っても其処から外へは 出られそうに無い?様子・・(^^ゞ 急斜面を戻りながらトラバースして鹿避けフエンスを開閉して藤坂公民館に戻ります。"土居の内"と呼ばれているところは中馬氏やその家臣たちの上村・上野・藤田 ・奥村氏らが居住していた区域と思われ、土塁と堀跡が僅かに残っているといわれるのですが、山麓に残る館跡は:其の中心の中馬氏の子孫といわれるのが此の民家の主だったのかも!(^_-)-☆。 近くの林景山長谷寺には中馬氏の先祖脇屋義助の位牌を祀ってある。【巨那院殿大史従四位下義顕里鷹大居士 応永12年(1405)酉3月8日当家元祖脇屋尾張守義治】鎌倉で活躍した南北朝期の南朝方の武将 脇屋二郎義助は新田義貞の実弟で「太平記」に知られる人物です。【義助の子脇屋義治 (後述)の奥方も「太平記」で有名な南朝の忠臣・児島高徳の娘です】 元弘3年(1333)新田義貞・義助の兄弟は挙兵し建武の中興で北条一族を倒した後、足利尊氏と戦って越前金ヶ崎・杣山城と移り、 斯波高経勢の藤島城攻撃の際に義貞が灯明寺畷で戦死し、義助は伊予で病死しました。
白藤城主郭 (東郭)・北面の二重堀切

その後、文和元年(正平7 1352)観応の擾乱(足利尊氏・直義兄弟両派の紛争)に乗じて南朝の新田義貞の二男義興・三男義宗兄弟と脇屋義治(義助の長子)は、 宗良親王を奉じて上野国(群馬県)新田郡で挙兵し河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠り、畠山国清を総大将とする北朝軍と2年に渡る籠城戦を闘い、足利尊氏を追って一時は鎌倉を占領しさらに越後に転じたが翌:文和2年年3月、 足利尊氏に惨敗し鎌倉を脱出して越後に逃れた。延文3年(1358)足利尊氏が、その後・足利基氏や義詮が没したのを期に正平23年(応安元年1368)南朝方の新田義貞の三男義宗が脇屋義治と共に兵を挙げ義興・義宗が討死にした後 も義治は、 軍勢を整えて上杉能憲等と戦ったが敗れて出羽・信濃と逃れ遂には明徳年間(1390〜94)新田義貞の弟 ・脇屋義助の子脇屋尾張守義治が丹波に逃れて藤坂に来住し、その子孫が築城したと言われる。
白藤城西郭・大堀切を越すと土橋の架かる空掘がある


古書などによると4代目右近之進義貢が文明3年(1471)に中馬氏と称して居館を構え、さらに2代後の中馬越前守治秀が元亀元年(1570)に築城したとされます。 街道の南・約2kmにある農林寺の背山には応永年間(1394〜1428)大芋式部丞が築城の農林寺城があって、 代々大芋氏の拠点となっていましたが大芋(おくも)衆として白藤城主中馬越前守治秀の頃には波多野氏配下の部将として活躍したと思われます。明智光秀の「丹波攻め」では天正5年(1577)に降伏して光秀に従った様です。 此処には時代の異なる二つの規模の曲輪群があるとされています。尾根上に二つの曲輪群を構築する二段式詰城は、直ぐ近くの農林寺城や山上城等・大芋氏の城に見られる形状です。天正10年(1582)6月山崎の合戦に戦死した為に一族は 各所に逃れ白藤城は荒廃します。戦後の大芋氏一族や家臣達は、この山間の地・藤坂の里に帰郷して旧館に住んだとも言われています。古木の側に文政年間建立の石碑が建てられていた民家が城主の子孫が住まわれている家だったのかな・・?
(篠山市の丹波篠山五十三次ガイド 参照)

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