東城山(吹城)〜網掛城〜権現山(飛ノ山城)他
篠山市 (五万図=篠山)
「お菓子の里」丹波〜東城山〜網掛城〜西吹城〜飛の山城 2002年12月28日
近畿の山城:吹城  網掛城 西吹城  飛の山城
丹波の民家・長者屋敷(丹南町の旧大西家)今はイタリアン・レストラン

篠山ICを出て東へ進み舞鶴自動車道の高架を潜ると中央図書館の直ぐ北に西吹城・東には網掛城と東吹城が見えている。東吹城の北東には飛ノ山城が在り此処から 南東の篠山城へも程近い。西吹城と吹城(東吹城 )の中間部に「お菓子の里」丹波があり此処を起点の探訪です。「お菓子の里」丹波は兵庫丹波の銘菓や特産品の地酒・陶器 ・ガラスや籠製品の販売もされており、2階には旧民家や商家等で使用されていた道具・民具が展示されていて見学無料・レストランあり多紀アルプスも遠望出来るロケーションです。

吹城(東城山)〜網掛城〜西吹城〜飛の山城(権現山)H14.12.28

田畑や民家の北影には早朝の雪が白く残っている東吹集落に向います。 山頂の貯水槽施設から数段の曲輪の端を下方へ一本の山道が通じ此れが大手道か!?。山上の主郭最高位置に東城山(289m)山名プレートが掛かる。 県道77号沿い南側から峠越えで北へ抜ける道?と合流して岡本病院真裏の駐車場近くへ出て来ます。北方には今日最後に寄る権現山(飛の山城)が森の様な黒っぽい山塊を見せています。

お菓子の里のウイーン館(現:ミオール館)から四季の森・・・

北方には今日最後に寄る権現山(飛の山城)の低丘陵が見える。 篠山市街地へ向う車道を西へ越し「お菓子の里」丹波の北側の菓子工場横を直進して丘陵を越す峠を目指し真っ直ぐ前方の丘に向います。峠の南側上には和風レストランの!!山荘があり少し下ると空掘りを廻らした広場の中に茅葺民家や丹波ウイーン館【(現:ミオール館)は結婚式場にもなっている】等が点在している。大きな貯水池があり東側の丘陵帯の西を囲っています。
網掛城の丘陵東端(監視台?)からの東吹城

此の丘陵は尾根に沿って「森林浴の小径 」と名付けられた道があり北端の春日神社を経て貯水池最奥部の橋や堰提を 西側へ通じており最高所には休憩用の東屋も用意されているが樹々の囲まれ展望は有りません。此処が薬師山で 休憩所を中心に東の山腹へは数段の削平地があって薬師山寺跡と云われます。丘陵の南端は”お菓子の里”庭園の薬師山山荘へ延び此処が薬師山古墳で大きな円墳状で山が丸いため饅頭山と呼び親しまれていたようです。
長者屋敷(丹南町の旧大西家(今はイタリアン・レストラン)

発掘後公園整備で埋め戻されたものか?竪穴式の方墳だったか?薬師山山荘は安政4年(1857)の建築で旧篠山城下町の東北部下立町の在った商家 「油屋」が公園内に移築公開されている。ウイーン館と貯水地の間の西に渡った「四季の森公園」の南一角には丹南町野中に在った江戸時代の民家・旧大西家住宅を昭和63年(1988)5月に此の地へ移築したもので茅葺き入母屋造りの角屋
薬師山山荘

(主屋から直角に棟を突き出した造りで梁屋根の構造が複雑)と呼ばれる摂津・丹波地域の 特色を示す角屋をもつ民家が、時代と共に次第に無くなっていることから此れを保管し後世に伝えるべく移築。此処が長者谷と呼ばれていたことから 長者屋敷と名付けられました。(追記)昨年(H18)「お菓子の里」の東100m・吹城西麓にある喫茶店の店主から「この度息子が店を出しました…」と渡された茅葺民家の写真が此の「長者屋敷」だったので驚いた。
薬師山山荘

明治期の建造物らしく文化財指定を受けてはいないが、此処への移築された同年に開催された ”ホロンピア88北摂・丹波の祭典”の会場の 一つとして「長者屋敷」が使用されたらしい。其の後合併で多紀郡から篠山市に引き継がれ、背後の網掛城の在った丘陵を挟んだ西側麓にある「四季の森生涯学習センタ」が管理していたが利用者減少などから運営を民間に委託され先述のイタリア料理店になった。
ミオール館・本館 (中央)・ドイツ館と東吹城
 

旧大西家は江戸時代:庄屋を務め藩主の出入りもあったとも云う。峠から長者屋敷上方を捲いて元の屋敷跡へ周回する散策道が通じており、 その途中尾根を西へ荒れた踏跡を辿れば最高所が網掛城!。舞鶴自動車道・丹南篠山口ICすぐ近くのにも向かい、小さな山塊を一周して取付き点を探すが稜上の中央部付近に二村神社が在り西吹公民館前から直接石段が続いており簡単に取付ける。 西側から神社まで直接車道も延び、
”丹波の森:四季の森会館”から網掛城

東岡谷へと篠山川に沿って東に向かいます。篠山川に掛かる猪のブロンズ像が親柱を飾る橋の前方に見える森が権現山(3等三角点 点名:富ノ山262m)で山頂に飛の山城(岡屋城) が在ります。南東山麓には篠山藩主(篠山城9代城主・青山忠朝以降の篠山藩主 青山家の菩提寺蟠龍庵があり取付き点を探して駐車した諏訪神社の背山には 篠山城主青山忠裕公が幕府の老中であった文政年間(1818-30)の頃「負け嫌い稲荷」伝説に登場する飛の山三四郎を祀る三白稲荷社がある。
薬師山山荘

王地山稲荷や 清五郎稲荷と共に、篠山藩の8名の力士が将軍上覧の大相撲で連戦連勝して負け嫌いな藩主の溜飲を下げるが、実は篠山内の稲荷神の化身だったという力士の一人飛の山三四郎が祀られています。 多くの山城の遺構が施設や造成で壊され、振り返られることもなく荒れるに負かせ、やがて崩れ去っていく現実には、史蹟保存の防波堤は無いものでしょうか。今日寄った城で、曲輪・土塁・堀切等が明確に残る二つの山城の本郭部に貯水槽等の施設があって 遺構の状況が確認出来ません。せめて詳細な発掘調査を 終えている事だけを願って藪に埋もれた山城を後にした。



(吹城(東吹城) 網掛城 西吹城 飛の山城(岡屋城)

吹城(東吹城・瓢箪丸)西城山 289m  篠山市東吹

舞鶴自動車道・篠山ICから東へ高架を抜けると篠山市街地との中間点に美しい山容を見せる富士型の低山が見えてくる。八上城主・波多野氏の被官井関五郎左衛門秀次が享禄年間(1528〜32)に築城した吹城在り八上城の西の護りを固めていました。吹城の他にも東北 1kmの権現山(289m)には渋谷氏の 飛ノ山城があり西方2kmには難波氏の西吹城網掛城等があって此れ等の各城 ・砦が本城の八上城西方の防衛を固めています。
吹城の堀切と主郭側曲輪の切岸

登路は知らないが比高は90m程なので何処からでも …と思いながら東吹集落に入る。バス停宇土(宇土観音)口近くに小さな赤い鳥居が並ぶ金滝(竜だったかな?)稲荷社があり、其処から今朝降ったばかりの雪で白くなった溝沿いの畦を伝って 山に入って行けそうな道があった。この道は20m程で竹藪交じりの山の斜面で行き止りとなってしまった。竹藪に突っ込んで行きトラバース気味に、 疎林の枝尾根に向う。木や枝に触れると水っぽい雪が音立てて頭上に落ちてくる。辿り着いた頂は西曲輪で南側一段下(2m程)の広い帯曲輪が尾根上を主郭部へと続き、西端と南端を土塁が囲っています。
吹城址 ・主郭への虎口と竪堀

天正6年(1578)には西の網掛城を向城にして井関秀次の子井関三之丞が拠る吹城は攻め落とされます。吹城遺構はこの戦国末期の縄張りを残しすもので、 竪堀を多用し・一折れして主郭に入る虎口構造や、遺構が頂上部分の限られる点では守備する上で合理的な築城方法である等、進んだ縄張りとなっています。東への尾根筋を僅かに(30m程)進むと下り斜面に深い堀切が現われます。 登り着いた西南の曲輪群と東の本郭部を二分する 堀切は崖状急斜で、 乗り越せそうな部分を立木と足掛かりを見つけるが、 濡れて滑りそうな足場と木枝に難渋します。
吹城西端:土塁付帯曲輪から斜上する土塁道を上段の曲輪へ

土塁で囲われた本郭部の西端北の 一番低くなった部分は複雑で、狭く囲われた窪地のような部分を 伴った所は井戸曲輪跡でしょうか??。北の斜面に数条の竪堀が走る。上水道の導管らしい2本のパイプが放置されたまま。 高低差の少ない数段の曲輪があるが雑木藪の中では遺構の様子を 窺い知ることが出来ません。東郭部の最高位置に白壁が見え ・近寄ると曲輪部分をフエンスで囲った配水槽があり、旧遺構が破壊されているだけでなく尾根続きの幅いっぱいに張られたフエンスと高い石垣に、北東端へ抜けるのにチョッと厄介な思いをします。 施設下を東北に2段程の小曲輪をみる。
吹城西端曲輪:西面の土塁付き空掘


北への尾根伝いに一本の山道が続き、古墓地から棚田と貯水池の側へ降りて、 南へ峠越しに抜ける道?と合流して岡本病院裏手に出て来た。城へのルートは西側の県道側の住宅地間からもあって”もう一つの貯水施設”まで巡回路が続いていますが、道は此処まで・此処から急傾斜を廻りこんだ上部は曲輪の様ですが直ぐに大堀切となり 堀切の先はそのまま竪堀となって落ち込んでいます。此の堀切を越えた曲輪が最初に訪れた時に辿りついた西郭部です。
(「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究」八上城研究改編を参照)


網掛城(小屋ヶ岳)   252m  篠山市網掛長者谷・吹新

「お菓子の里」丹波の北側から西へ向かうと…お菓子の里公園内のミオール館・温室<観葉植物等>北の貯水池堤防兼ねた車道に出てくる。 此処は長者谷:丹波の民家 (大西家)が移築されています。名前からも此の辺りに網掛城主?難波佐渡守の居館が在り、背後の山は急斜で丘陵上には「詰めの城」が在ったのではないか ?と思えるシチュエーション。
網掛城主郭東面:埋れかけ浅い土橋付き空堀!!(最奥の暗い部分が主郭)

…今は峠越えの広い車道が”四季の森会館”に通じている。 西吹集落には難波氏の砦西吹城が在ります。長者屋敷上方を捲いて元の屋敷跡へ周回する散策道の途中から荒れた尾根を西へ辿る踏跡を最高所へ出ると 網掛城で曲輪・堀切が残る。知らなければ、そのまま行き過ぎてしまうほど小さな帯状曲輪が山頂主郭から同心円状に配置されており主郭をぐるりと北側へ半周する2〜3m幅の帯曲輪も崩れて自然地形の平坦部かと思えるほどの狭さです。
網掛城(右丘陵上)と長者屋敷?(現:イタリアン料理店)

同心円状の帯曲輪は 禄庄城が其の段差や形状遺構をよく残しています。長者谷には移築された長者屋敷のイメージのような構居が有ったり、また此処は別名:小屋ヶ岳の名が示す通り見張り小屋でもあったのでしょうか。八上城の西の守りとして北・西・南側からの侵入に備えた支城の一つだったと思われます。難波氏は羽柴秀吉が毛利元就を中国地方に攻めたとき 参戦にて戦死したとも、
網掛城主郭西の切岸(4団程の小曲輪と主郭1段下に帯曲輪)

八上城攻めで光秀と交戦したともいわれます!。天正3年(1575)6月頃から始まった明智光秀や細川藤孝等の「丹波侵攻」によって早々と城は落とされて天正6年 (1578)には光秀の吹城攻略の向城として築かれ、また八上城攻めの拠点ともなって丹波・攝津・播磨方面から八上への西の入口警戒にあたったのでしょう。
網掛城北角の縦堀(手前)?と上段に帯曲輪・最奥が主曲輪

鞍部から東にも単郭の藪に覆われた平坦地が有り吹城攻めの監視所だったのでしょうか!。曲輪が続く西南山裾の”四季の森会館”東から 網掛城の在る 小屋ヶ岳丘陵を北に捲き、長者谷”お菓子の里”へ通じる車道からは、城への登り口が南側には愛宕社裏から ・西側は八柱神社【天照大御神・豊受大神・天児屋根 ・蛭子・住吉・大物主大神・・等を祀る:当初は酒井庄(酒井党領内二村神社)を氏神としていたが天正期・
網掛城西面に4‐5段続く小曲輪群と北面の切岸?

明智光秀の波多野氏攻略の兵火に古文書ともに悉く焼失。承応2年(1653)八王子大明神を八柱神社と改称したとある】からも山道がある。神社を祀る山頂から西 (南裾は”四季の森会館”)には西吹城の独立丘陵以外、篠山IC・R176号へは平野が拡がる。物見台でも ?…と思えたが短い尾根上には八柱神社古墳群(6基程のうち二基は顕著で木棺直葬の経10‐15m程の円墳のマウンドが在るだけ。 共に網掛城との関連は無さそうです?


 
西吹城(上山城)  西城山? 230m   篠山市西吹上山

網掛城と同じく?郡奉行・難波氏4代が拠った西吹城は 篠山市中央図書館の北方にあって、丘陵東裾の西吹公民館前から丘陵上の二村神社に向かう。 西側の大師堂から神社まで車道もあるが普段はフエンスで車輌進入禁止。此処から丘陵北端まで極小範囲内に西吹の城遺構がある(城ではないとの見方もあるよう?)だが。緩やかな低丘陵上に堀切は無いが比高30m足らずの丘陵四方の斜面は急俊な崖状で北側裾を濠状の溝がある。竪堀らしいものと北末端部に広い平坦地が有り北側斜面に5〜7段?程の小曲輪が 段差をもって並んでいます。
西側の帯曲輪から西吹城主郭切岸

最下段北端部の曲輪は三方を低土塁が廻しています。 主郭西側にも一段下(段差3〜4m)に帯曲輪が南の二村神社側から登る大手口?にも主郭との間に低土塁を廻した一曲輪があります。此の城は篠山市内に有って波多野氏家臣だったが、丹波守護代内藤氏・三好長慶方に付いた難波氏の城であり、波多野氏が八上城を奪還して 再興成った元亀・天正期には廃城となり波多野氏の持城ともならず明智軍の向城に使用される事も無かった為か?殆ど知られていない城館の一つです。 毛利方に付いて戦死した難波氏は、波多野氏家臣として明知軍との戦闘に加わっていたともされます。
西吹城主郭部(二村神社裏の大手口?)

永享年間(1429−41)頃丹波・攝津両国守護代:内藤備前守 (弾正忠)之貞・元貞の下で郡奉行を努めた網掛城主?の難波佐渡守が其の被官として拠ったといわれ、麓には難波掃部介館と呼ばれる屋敷跡があったとも伝えます。 文亀年間(1501−04)頃の城主に難波兵衛丞基好の名があります。波多野清秀が多紀郡に所領を与えられ永正5年(1508)清秀の子:元清が八上城を築き台頭してくると難波正存の時、八上を追われて此の地に拠ります。網掛城は難波氏の居城だったでしょうが 西方に位置する味間南城主:平野造酒や東方には網掛城が「お菓子の里」を挟んで呼応するかのような位置に有って難波氏とは城主:井関三之丞ともに交遊があったという。 弘治3年(1557)波多野秀忠の八上城は三好長慶方の三好範長・松永久秀等に落とされ久秀の甥・松永孫六郎が其の後の永禄年間(1558-70)八上城に居城しています。
西吹城北郭;登城道を挟んで左右に曲輪が数段続く

其の頃:松永氏の被官となっていた難波氏が居城していたようです。永禄9年(1566)波多野晴通・秀治が八上城を奪回して波多野家を再興すると領地は没収され 難波兵衛丞と其の子・伝兵衛は 備中高松城主(岡山市)清水宗治に仕えています。「丹波志」には高松城の難波氏は後 ・天正10年(1582)豊臣秀吉の 高松城攻略の水攻めに際しては毛利元就に加勢し小船の中で腹したといわれ、城主清水氏と共に自害した難波兵衛丞宗忠の首が持ち帰えられたといわれます。其の後・此の地に葬られたとされ「難波佐渡守の首塚」と伝えられる墓碑が 東山麓集落の民家裏に祀られています。
西吹城山麓にある城主・難波佐渡守の首塚

宗忠の父佐渡守正存も西国で戦死したとされますので、 兵衛丞宗忠の父・佐渡守正存のものなのでしょうが「丹波志」は父子を誤って伝えているのでしょう?。篠山盆地の中にあって篠山川と武庫川の分水界の内側では一番西端の位置にある西吹城は旧山陰道(味間から山南町阿草へ抜ける)や丹波街道 (今田〜古市を経て篠山市街地へ入る)や京都府三和町側の栗柄峠や、春日町側から瓶割峠を経て南下してくる間道等、交通の要衝の見張り所として、東吹城と共に八上城の西の押えとしての機能を発揮したと思われます!!。
(丹南町史を参照 難波氏4代の名前・年代等を転記の際誤っているかも!?)


飛の山城 (東岡屋城・岡谷城・富ノ山城)  権現山(富ノ山・諏訪山)262m   篠山市東岡屋・西岡屋

篠山IC入口から県道36号線から吹城 のある東吹交差点で左折、 東岡谷に向かうと篠山川に掛かると猪のブロンズ像が親柱を飾る橋の前方に見える低丘陵は、 嘗て白山権現を祀った権現山(富ノ山・飛の山)で山上に飛の山城(岡谷城)が在りました。山上部に有った貯水施設も平成20年には撤去された。
飛の山城:貯水施設は更地・此の土塁曲輪!も消滅した

竹藪は伐採され藪内に遺る土塁・曲輪も公園整備されつつあるようで消滅した。此処から南山麓の妙見堂への権現山遊歩道も今は歩く人もいない?程で廃道同然。 県道77号の北約500mに鎮座する諏訪神社境内の稲荷社は文化・文政年間の頃:篠山藩12代青山下野守忠裕の「負け嫌い稲荷」伝説の力士の一人?である 飛の山三四郎が祀られ、権現山頂の白山権現社が 遷移され祀られている。山上の貯水施設は其の跡地に建てられたものでしょう!!?。諏訪神社の参道前坂道を 登った所には憩いの家・兵庫県立「新たんば荘」があり、緩やかに拡がる山間の自然の中にはログハウスや「県立丹波総合スポーツセンター」が隣接する。
西の曲輪から主郭の切岸を見上げる

「新たんば荘」入口の右手から南側の小山へと踏み跡があって直ぐ広い道に出ます。 この道は乾新町の旧篠山藩主青山家の菩提寺蟠龍庵側から山頂部の貯水槽施設のあるところまで延びています 【2007年4月に登った時には貯水施設は撤去され 、跡地は更地となり公園化されて駐車場となっていた】。なを大手筋は南西の東岡屋交差点側から民家裏手の小社を経て続いているのかは未確認。
土塁曲輪?から貯水施設跡:2007年曲輪は消滅。旧陸軍砲台跡だったのかも?
 

飛(富)の山は慶長13年(1608)徳川家康が八上城に代わる天下普請の現篠山城築城の候補地として篠山(笹山砦跡)や王地山と共に候補地の一つに挙げられた山でもある。多紀郡(現:篠山市)一円を 勢力下に治めた八上城主・波多野秀治の重臣(大老を務めた)渋谷伯耆守氏秀が弟の氏昌・昌時・重則らと永禄年間(1558-70)此処に岡谷城を築き 「詰め城」とし東岡屋の篠山川沿いに父・監物が築いた惣構えの構居に一族が住んでいたようです。少し遠い気もするが渋谷伯耆守居館というのが 篠山城の南方・篠山市北にある。明智の「丹波攻め」では八上城西の防衛拠点として 激しく防戦したが天正6年 (1578)6月に落城しています。
飛の山城・貯水槽西側の曲輪と土塁(高約1.5m)は消滅:2002年12月

渋谷氏は源氏の末流で足利幕府の重臣・山名氏の子孫にあたり南北朝期・明徳の乱(1391)で戦死した山名氏清が奥畑城を築城し、 その子時清兄弟も丹波・奥畑城に立て篭もり再建を計るが失敗し、時清は子の直一郎を谷口民部大夫に預けて南紀州に身を隠します。山名直一郎は応永32年(1425)将軍義持に仕えて 手柄を立て名を 渋谷右近大夫と改め渋谷氏を名乗ります。山名氏・細川氏から代わった波多野氏の台頭で、渋谷氏は親戚関係を結び4代目・渋谷氏秀は波多野氏の大老を務め東岡屋、吹一帯の領主として 波多野氏の一方の旗頭となります。
藪で蔽われた貯水施設跡東側斜面にも3段ばかりの削平地を見る

天正3年(1575)6月頃から明智光秀の 「丹波攻め」が始まり長期戦になります。八上城主・波多野秀治は播磨書写山(姫路)に出陣していた羽柴秀吉に和睦しようと 渋谷氏秀を送り大役を果たしたうえ 秀吉から国重の名刀を貰って帰ったと伝えられます。八上城はじめ丹波の全ての城は 天正7年10月までに落城。岡屋城も氏秀の一番下の弟・左近重則が守っていたが明智勢のまえに討死しています。徳川の中頃まで「飛の山」中腹に七面大明神を祭り、 その東の桜の大木の下に先祖渋谷重樹・氏秀・重則の塚があって毎年お参りが義務付けられていたそうです。山頂中央の主要部は貯水施設建設により遺構は破壊されています。
西南下方、遊歩道北面の曲輪

その左右は密生した竹薮に覆われ削平状態も悪く全体的な遺構の状態等は不明。西側一段低い削平地の南西角には約1.5m程の高い土塁が残っており西下へは更に曲輪が有る様です。 南側・特に貯水槽の南は断崖状の激斜面、貯水施設の北側も枝尾根に挟まれた深く急な谷となっています。欝蒼とした藪中の暗さでよく見えないが堀切が走っている様?だが貯水施設なのかもしれない。 東側は一段高くなっていますが西側以上に竹薮と雑木で密生しています。 身体を割り込ませるように入り込んでみると腰曲輪があり、さらに下にも曲輪が有るようです。北1km地点は篠山歩兵第七十連隊本部のあった所だけに戦中の軍事施設の遺構かは不明?。
飛の山城:主郭部より西南下部へも幾つかの削平地(腰曲輪!から)をみる

貯水槽のある中央部の最高所が主郭なのでしょうが篠山川を天然の濠として 東西に細長く拡がる篠山盆地(丹波-但馬・播磨・摂津に通じる要衝)を眺望できる絶好のロケーションは篠山城築城の候補地ともなった。地形からは防備に有効ではなく・縄張りからも砦として監視には重要拠点として盃山城と呼応した「知らせの城 」ではなかったか?!… と思っていたが藪が切り開かれてハイキング道が整備されたので、南下の妙見道へ下ってみて西面から西南斜面に幾つかの削平地があり、これ等が貯水や軍関連・林業用とも思えません!!。 曲輪が途切れて程なく妙見堂に降り立つ。渋谷氏の居館跡!!?。渋谷氏の菩提寺として法蓮山円福寺が創建されていたが、明智光秀の丹波攻めにより岡谷城は落ち、 寺も焼亡して其のまま廃絶したようです。
曲輪の続く尾根筋南麓に有る妙見堂

其の後:慶長年間(1596-1615)日蓮宗妙福寺の末寺として再建されたが今では妙見堂と無住となって荒れ果てた小さな庫裏だけが残されています。このまま住宅地へ下ると県道36号と県道77号の合流する東岡谷交差点に出るが山麓に沿って富山弁財天へ廻ってみます。 富山が転訛して飛の山と呼ばれるようになったものか!!?。僅かの距離(30m程)だが竹薮の段差をもった平坦な地形からは妙見堂から弁財天にかけての山裾に渋谷氏の居館が有ったと云われても納得出来そうな位置と雰囲気があります。 富山弁財天は江戸時代後期・この地の新田開発に併せて 灌漑用の貯水池が造成された折、池の安全と保水を願い厳島弁財天を勧進して祀られたものと思われある大旱魃のとき・お社を目前の篠山川に担ぎ出して雨乞いをした言い伝えから、今も夏祭りの行事に引き継がれて行なわれている。
池端に祀られる富山弁財天

弁財天側の池に姿を映す 目通り2m(推定樹齢約200年)を超える大楓があり廻り込んだ枝が途中で接合し珍しい自然の姿を呈示している。公園化された貯水施設跡地に立てられた周辺案内図には古墳群が青山家の菩提寺 蟠龍庵背後と諏訪神社北の丘陵に諏訪山古墳群も記されている。更には此の古墳群5号墳傍には市野眞徳(篠山藩士)の墓があり、 直ぐ下には不破数右衛門の子が出家し20歳頃まで過した所縁の大膳寺があり、大善寺の北方には後藤又兵衛の5代・6代目の墓も記されており、ごく平凡な低丘陵裾の田畑・宅地のなかだが歴史や由緒を調べていけば何かと新発見もある散策エリアですね。
(篠山市HP「丹波篠山五十三次ガイド」及び「郷土の城ものがたり」現地案内板を参考)


大宝山蟠龍庵 東岡屋

飛の山東山麓に旧篠山藩主・青山氏の菩提寺蟠龍庵(臨済宗・本尊 釈迦牟尼如来)が有ります。藩祖忠成公は家康の信任が厚く、青山宿を与えられ関東総奉行として 敏腕を揮い譜代大名となった。次の忠俊公は武蔵国(埼玉県)岩槻城主で将軍家光の養育役としても名高く、禅の心を求めて京都大徳寺の高僧玉室和尚に教えを請うた。 子の青山宗俊(蟠龍院殿)もまた、その弟子玉舟和尚について参禅されています。青山宗俊は父の改易除封により不遇の生活を送ったが後、御書院番頭・大番頭・信濃国(長野県)小諸城主と昇進し大阪城代を長年務め延宝6年(1678)8月、 遠江国(静岡)浜松五万石に転じ翌年2月76歳で没した。
青山氏の「無紋銭」瓦

翌8年の夏には 生前の望みにより大徳寺より祥山仁禎和尚を開山として迎え、法名にちなんで蟠龍庵が創建された。その後忠重公の転封によって亀山(亀岡市)に移され、更に寛延元年(1748)忠朝公が篠山へ国替えになった際、 前城主形原松平家の菩提所光忠寺跡のこの地に移建されたものです。青山家累代の廟所や元藩主・松平家所縁の阿弥陀堂等が残存しています。駐車場端には屋根瓦葺き替え修復時のものか?青山氏の「無紋銭」弘化4年(1847)の銘があり5代目青山下野守忠良による 改修時の鬼瓦が残されていました。
蟠龍庵の案内板及び「丹波篠山五十三次ガイド」等を参考

本誌丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system