納山は故郷の城山で
蛇山(岩尾城)〜大谷 / 岩尾城〜人間地獄
丹波市 (5万図=生野)
T和田〜稲荷社 〜蛇山岩尾城〜愛宕山〜和田 1999年12月05日
U薬草薬樹公園〜蛇山岩尾城〜応地坂〜点名:大谷(395m) 2000年2月11日
V道祖神〜岩尾城〜応地坂〜本城古道〜親縁寺 2000年12月29日
W和田小学校〜岩尾城〜人間地獄〜櫻井稲荷大明神
200年04月24日
二ノ丸虎口から天守台 H16.01.02
十二支の山
蛇山
(岩尾城址)
近畿の山城
:
岩尾城(和田城)
山端城
和田代官所
丹波のお話(猟奇伝説)
蛇山岩尾城
蛇山山頂にある
岩尾城
は 戦国時代の山城で天正7年((1579)明智光秀の丹波攻めにより 一旦は落城した
が後年に来村の木戸十乗坊(佐野下総守と名のった)が城主となり、 近世の築城様式を取り入れて再建されその後・豊臣秀吉の廃城令で取り壊されましたが本丸跡を始め、 いくつかの山城遺構が残り戦国歴史の変遷をとどめているため近年高く評価されています。
井戸の前の竪堀:左手の詰めには石積が残る
応地と坂尻側の山本を結ぶ尾根近くの出城跡?も含め、城郭研究家や郷土史家のより深い調査を期待したいところです。山南町の
薬草薬樹
公園
を登山基地として利用、帰着後は公園にある薬草風呂に入る等して楽しめます。
●下知殿丸から堀切に出て尾根筋を直登し主郭部に入るのは、 山道が砂地の急斜面の上、崩壊で危険でもあり、ロープがフィックスされていましたが、
岩尾城古城の堀切
丹波森の径・整備支援事業によりH13〜H14に変更コースが設定され、堀切から井戸を経て西ノ丸経由に変更されています。此の分岐を山腹に沿って直進すると「人間地獄」に行けるのですが…
【ご注意】
和田小学校の校内を通って岩尾城へ登山はする場合は学校の安全管理上
電話連絡76-0002
にて許可を取って下さい。休校日はこの限りではありません。
T
稲荷山〜岩尾城〜愛宕山
H11.12.05
西脇・JR谷川方面から井原交差点に出ると175号線を離れて和田方面に向います。船戸橋付近で正面に蛇山岩尾城址を左手に
石金山
行者山の入道頭と三組尾
の小さな山塊、蛇山の右に
延命寺山から篠ヶ峰
の姿
が見えるでしょう。和田下町の入り口で牧山川の橋を渡りますと左へは先述の薬草薬樹公園です。右折は柏原方面へ175号線に出ますが正面右手に”正一位
釼光稲荷大明神
”赤い鳥居が見えるが、それより大きな岩尾城址登山口の看板が目に付くはずです。此の鳥居を潜って登り始めます。
岩尾城天守台
最近ハイキング道として整地されてはいいるが季節により 少し薮っぽくなるが山道としては良い方で比較的明るい尾根コースです。距離が短いのに城址へは中々着かないので 期待が大きいせいか変にあ
せってしまう。応地方面からの尾根の分岐の直ぐ上方が岩尾古城(土城)・ほんの目と鼻の先、突然視界が広がって石積みの遺る本丸の蛇山山頂(358m)です。標高こそ低いが展望の良さは流石に山城です。西の丸跡を始め随所に残る石垣がある種の感慨をもって迫ります。
和田下町の岩尾城址登山口・下町稲荷(山端城)
南側へ急な下降ですが虎ロープが設置されていますので、ゆっくり行動すれば子連れ山行もOKです。堀切跡へ降立ち右方向へ井戸跡標識がありましたが私はなをも南への尾根を辿ります。随所に曲跡等の案内板はあるがこのルート余り人の歩いた形跡はないが愛宕社があるので、数ヶ所を除き道を見失うことはないでしょう。愛宕社は薬草公園の方から見れば岩壁の見える山腹に注連縄の架かる大きな岩(ダルマ岩)が麓の地区内から見えているのでわかると思います。
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U
小学校〜岩尾城〜応地坂〜点名:大谷
H12.02.11
和田小学校の校門を入って行き、校舎裏側の散策道をしばらくで山道となる。ます。タヌキ・猪・鹿・兎と随分
色々な動物に 出会いますが此処では初めて狐くんに出会いました。面食らっているのか余り驚いたそぶりは見せずに消えていきます。 このルートで尾根に出ると正面に南曲輪説明板が立っているところでした。
井戸郭付近の長い野面積み
此処より山頂までは前回の逆コースですので省略します。城址の本丸端は物見台だったそうで前回登りつめれば突然展望が拡がった訳もわかります。応地坂への尾根分岐は直ぐです。わかりにくいので左への踏み跡に注意して進んでください。この尾根道を応地坂までに坂尻側の山本(県
指定の薬師堂が有名)へ下る道と付近に出城か砦跡 (石で囲った水場が残っているとか)は後日聞いた話で気づかず素通りです。応地坂は坂尻側へは雰囲気のある峠道が下っていきます。
こんな高所に水を湛える井戸が・・!!
お堂に祠られたお薬師さん?には花と水が供えられています。応地側は暗い谷筋に向って薮のなかに消えていく。お堂の前の岩場から尾根を辿ります。 背後の岩尾城は東の峰が同じ様な形と高さで迫ってくる。前方の大谷(395m)も幾つも岩を
抱えた良い山です。 途中で出会う大きな露岩の連なりは乗り越してください。難しくはないし岩の上の展望も良いですよ。山頂直下にも急な階段状の岩場が続くところがありますが、此処は左の林間の傾斜の緩いところを狙って登るほうが良いでしょう。山頂には腰掛岩がありますのでオカリナ演奏でも楽しんでください。
大竪堀の詰め・井戸の前には石積が残る
此処から先の縦走は正面東へ続く切り開かれたほうではなく、左側の木々に隠れた先の方に赤い布が見えます。応地峠へ引き返して応地集落へ下ります。 荒れてはいるが広い道が続き往時(古城の土の城への大手!!?)を忍ばせるが、それも束の間で下るほどに道がわからなくなる。この応地から坂尻へトンネルを穿ち西脇の中町へと続く道路工事が始まったようです。
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V
応地の道祖神(裏の登城口)〜岩尾城址〜本城古道を親縁寺へ
H12.12.29
岩尾城への裏の登城口の応地には
「蛇ない」
の祭りが大歳神社で毎年 1月(成人の日)に行われる。 その神
社の 直ぐ近くに丹波には珍しい道祖神が祀られてる。
道祖神
に逢ってから前の林道を詰めて蛇山岩尾城へ登るのが今回の目的です。干支の山として来春早々にもオフ山行計画のグループがありますので正月準備の飾り(ウラジロ)を採りにいく名目で事前調査です。
二ノ丸東の腰曲輪から天守台 H16.01.02
道祖神
(PM12:50)前の林道は直ぐ小道に変わり深い溝谷に沿って進むが急斜面の登りとなりいつしか道は消えてしまう。踏み跡は分かれるが右手への道を辿れば直接蛇山へ上り詰めたかもしれませんが直上して尾根に飛び出します。稲荷山コースで相似峰のような手前ピー
クと蛇山の中間付近の尾根です。東のピークに立ち寄ってから蛇山に向いますが手前で応地坂へ向う尾根分岐になります (山頂へ約5分)正月のお飾りの採集が主目的ですので 峠への道を辿ります。
岩尾城まつり登山参加記念
左手に
行者山と三組尾
の山塊、正面に岩場を抱いた大谷の勇姿を望みながら、いつしか深い落ち葉の積もる堀割り状の応地坂に下り立っていました(PM1:40)。南無阿見陀仏の石碑は
大谷から古天神〜高釣瓶
に続く尾根取付にある。宝暦2(壬申年)銘の子安地蔵尊が祀られており 坂尻側へ広く明
るい峠道が下っていく。元の道を城址へ引返すが途中大きなヌタ場があり コースの広範囲に猪の泥の跡が草木に残っています。先の分岐に戻ると直ぐ土塁跡や北の曲輪跡・堀切を越して急な斜面は直ぐ展望の良い本丸跡の物見台に飛び出す。
”打込はぎ”工法をみる西ノ丸石垣から本丸虎口
此処が
蛇山山頂(岩尾城)
で(358m PM2:15)・緑色のプレートは 三組尾山頂のものと同じでした。標高は余り高くないが展望と周辺の天守跡や西の丸 ・曲輪の石積みにキッと感動されることでしょう。西の丸の下方にも顕著な石積みが何ヶ所かあります。砂や石に混じって瓦の破片も多く見かけます。展望は
石金山
が目立ちますが行者〜三組尾、広い二の丸の
ベンチ付近へ出れば大岩山の岩場も見えるでしょう。山頂からはロープ伝いに急斜面を掘り切りへ降りるが直ぐ 右方に井戸跡がありますので覗いてみます。深さ7m余り・しかし今も1m程のところまで水を湛えており低い山の山頂近くにあるこの井戸は珍しいそうです。
達磨岩から石金山〜妙見山の稜線
曲輪等を設けても守るべき貴重な水源が堀切の延長線上にあることがどうも私には解せません。…元に戻って堀切の先は
「丹波史」
(江戸時代、福知山藩主の命で 編纂された郷土史の元祖!)にも記されている下知丸殿、続く平地尾根は南曲輪に着きます。説明板の正面踏み跡は前回和田小学校からの道です。しかしこの先の鞍部に案内板もあるハイキングコースがあります。なをも
傾斜を強めながらの下降道は
本城古道(大手道)
で砂地を削った大手門跡と呼ばれる平地を経て 岩交じりの斜面を抜けると注連縄をつけた
だるま岩
に出てきます。石金山〜妙見山をバックにそそり立つ(PM2:40)。薬草薬樹公園を眼下の展望地です。
大谷山”大福稲荷大明神”
真直ぐ下方へ降れば”大谷山正一位「大福稲荷大明神」”の祠を和田町内地区道へ、参道伝い西へは愛宕小社?を経て地区道へ出るが、次の分岐は町へ降りず水平道を採って、大手道を進み石造り観音像の立つ墓地へと出ると城主の菩提寺:舌丹山
親縁寺
(浄土宗本派)(PM3:00)。永正13年(1516)和田日向守が石蓮寺を建立したが岩尾城落城の折に兵火により焼失していた。佐野下総守(木戸十乗坊)が天正15年(1587)に幼誉心空上人(木戸十乗坊の実弟)を開山に再興し親縁寺と名を改められた。県指定の鎌倉中期の木造阿弥陀如来立像が有ります。
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W
和田小学校〜岩尾城址〜人間地獄〜櫻井稲荷大明神へ
H16.04.24
低山徘徊MLメンバの新春(H13.01)干支の山・」蛇山岩尾城に来た時は下知殿丸より堀切道の今も清水を湛
える井戸側から西ノ丸に入り山頂のオフ参加者と合流したことがある。この時は未だ踏み跡も定かでなかったがH15年・城サイト仲間で同郷のYORIさんと訪城では同じルート・西ノ丸へは整備された登山道となり分岐標識に「人間地獄へ」と気になる表示があったので
「人間地獄」の正体は!!山抜けの大擂り鉢
…何なのか其の正体を確かめたくて午後の散歩に出掛けます。堀切から城址への直登が急斜で危険な為に迂回整備された様ですが城址への分岐から 道標により約7分ほど西尾根を辿ると突然砂地の山抜けに出る。此処に表示はなかったが”此処だ”と思った。大きく弧を描く擂り鉢状の急斜面が深
い谷底に向って落ち込んでいます。”人間地獄”とは此の巨大な蟻地獄の事だったかと思います。擂り鉢の頭からは岩尾城古城の雑木ピークが、篠ヶ峰に向う西尾根は岩屋山〜、東は
高釣瓶〜新郷
〜
の峰が連なっています。
岩尾城登山口が山端城
…如何したことか先ほどよりコース上に道標類を見かけない。”山抜け”からの尾根筋も一般ハイキング道にしては細いが他に道も無く、道なりの進んでいくと”NHK山南城山”テレビ中継放送所”に着きます。此処からは歩きやすい巡回路を辿って麓の櫻井稲荷大明神に降り立つ。城山テレビ中継施設からの尾根散歩では
延命寺山の鋭鋒〜カザシが思いのほか大山に見える 〜そして何処までも富士形の容の良い岩屋山
を目前に・西南には入道頭の
行者山〜三組尾
が暫くの間は望めます。
【注・櫻井稲荷は、そのTに記した登山口看板の建つ和田下町側ではなく西の若林地区です】
岩尾城
山端城
和田代官所
岩尾城(和田城・蛇山城・蛇山岩尾城)
蛇山 358m 丹波市山南町和田
和田の城下町から望む
蛇山岩尾城
は規模こそ小さいが山城の見本のような城で、 加古川(加古川上流の
旧佐治川枝流の牧山川)の左 岸:和田小学校背山の山頂部に築かれた天守台を持つ総石垣造りの城郭と城址から望む展望が素晴らしい。 また山麓には薬草薬樹公園があり(2000.05月)リニューアルで薬草風呂もオープンしました。
岩尾城古城・二重堀切と土塁
この城の山麓・応地には
道祖神
があり信州からの来住者があることは窺えます。 蛇山城主としては室町時代中期・至徳2年(1385)信濃国南和田より山南町西部の市場庄に地頭として入部した源頼 綱の二
谷(源)出羽守基綱
から谷姓を名乗り、文明2年(1470)「城ケ谷」山麓南東にある親緑寺附近に下屋敷を建て居館とした。 基綱より4代目の
谷出羽守兵部介頼衛
(よりひら)に子がなく、永正元年
(1504) 信州南和田から頼衡を頼って寄食していた文武ともに優れた
和田日向守齋頼
(ひとより)を婿養子としていたが永正10年(1513)齋頼は岳父頼衡を刺殺し和田姓を名乗って当主となり永正13年(1516)蛇山山頂に城郭を完成させます。
岩尾城古城:土塁囲いの曲輪
永正15年(1518)には市場村を城下に移し和田村と名付け城下町を形成。天文17年(1548)斉頼は病死・後を継いだ子
作右衛門尉師季
(もろすえ)が最後の城主となっていた。天正3年(1575)明智光秀軍の激しい丹波攻略戦が始まる 黒井城主:荻野(赤井)直政に付いて丹
波防衛の 第一線として岩尾城に立て籠るが
天正7年5年(1579)光秀の援軍として西丹波攻略を命じられた丹羽長秀等の攻撃を受けた
鍋倉城
(太田城)・
玉巻城
・
岩屋城
に次いで和田氏も討死して此処に滅亡します。
岩尾城古城?・本丸大土塁にも石積が残る
玉巻城・岩屋城などが落城後修復されることもなく廃城となったのと異なって
和田日向守
が築いた中世戦国期外郭(土塁使用)は、豊臣秀吉の全国制覇が進んだ天正14年(1586)3月に近江木戸村(滋賀県)のもと比叡山の法師で(
木戸十乗坊
前田玄以の武将!!)が3,750石を領して入部し岩尾城主(
佐野下総守栄有
と改名) となって 統治10年・佐野氏の居城として主郭部を近世(初期)の石垣を使用した城郭様式に修改築され、今に見る総石垣の城として復活します。和田氏の中世”土の城”・佐野氏の近世城郭”石の城”の城郭様式が混在する点でも日本城郭史
上貴重な城といえます。文禄4年(1595)栄有がお国替えにより、再び近江木戸へ転封された後は城主を置かず秀吉政権下五奉行の一人:前田玄以が和田荘を領していたが慶長元年(1596)豊臣秀吉の命により廃城となっています。
岩尾城古城西尾根の竪土塁と竪堀
和田小学校の校舎裏から南曲輪を経て下知殿丸に辿るのが近道ですが、稲荷神社から達磨岩又は親縁寺の近くに城主の下屋敷があり、ここから達磨岩を経て岩尾城へ向う大手道もあります。和田日向守が建てた菩提寺:石蓮寺が天正7年(1579)明智の丹波攻めで岩尾城は落ち寺も焼失したが秀吉の家臣:木戸十乗坊(佐野
下総守)が天正14年岩尾城主として此処に移り、実弟の信窮(候誉上人)を開山にして石蓮寺を再興して親縁寺とした。徳川時代中期の火災にも焼け残った山門は改修されてはいますが建築様式はかなり古いものと云われ、 岩尾城落城の際にも焼失を免れた城門を移したものと伝えられています。
岩尾城唯一の遺構:親縁寺山門
坂道を登ると山を削った平地に 親縁寺からの大手道に「大手門跡」、直ぐ和田小学校からの登山道と合流して辿ると「南曲輪」さらに峻険な山道を登ると広い削平地へと3〜4段の曲輪を経て「丹波志」に云う
下知丸殿
(南北約60m・
東西15m)跡と伝えられる曲輪に着く。辿ってきた親縁寺・和田小学校側の南から・山本・富田側の西から・山端城(稲荷社)から続く東尾根と、三方の尾根が集まる攻防ともに重要な位置にあり、
下知殿丸北面の堀切
一部に野面積みの古い石垣が遺り大堀切正面の急斜面が本丸跡へ続くが、滑りやすい激急斜面のため左手へ堀井戸跡から西曲輪へと延びる水平の堀切道を進む。南下へ落ちる竪堀を見て越えた所には今も水を湛える井戸跡があり、本丸北端(蛇山最高所の物見台)には高さ約2mの石積土壇が
あり此処が和田日向守の古城本丸で、北に堀切を挟んで曲輪が続くが北端は土塁囲みの細長い曲輪になっている。新城の本丸天守台からの展望は良く領内を眼下に望み、
岩尾城主郭(右に新城天守台・左は古城の櫓土塁!?)
遠くに
穂壷(母坪)城
・
氷上城'(霧山)
・
黒井城
の千丈寺砦や播磨への街道筋を 一望におさめる要害の地でもありました。物見台の土壇を含め北方には天正7年(1579)に 落城するまでの岩尾城古城(土城)遺構が残る。大土塁から北へは和田城古城遺構が残り、堀切を隔て二段の曲輪があって一段目は広く 削
平 (一部区画されていたかも..!!)され、西方への尾根上には中央に土塁の高まりをみせて二重堀切が、更に下方にもう一本の堀切が西尾根を遮断しています二段目の北端部は土塁で囲われた細長い曲輪があり尾根先端を堀切る。
蛇山・岩尾城本郭と天守台
本丸の南側には高さ2.5m・南北9m・東西に6m程の石垣を積んだ台地の一郭があって天守台跡と考えられます。その南西に接して縦5m・横6mの付櫓が付属し、この本丸を三重、三重の石垣が取り囲みしかもこの石垣には要所要所に屏風折れをつけ横矢が掛かり、防御性を高めています。
物見台と旧本丸跡の西側には高さ4mの石垣を積んだ横8m、縦12mの平地がある。これは「西の丸」(仮称)の跡と考えられます。このように天守台や櫓を設けたり、本丸の石垣は自然石を用いた野面積、石垣の隅には
打込はぎ
(表面に出る石の角を削り・面を叩き、
西ノ丸下の石垣虎口から城門・本丸西石垣
石どうしの接合面隙間を減らして組合せ・積上げる方法で野面積みより高く ・急な勾配が可能となる)を用いたり、石垣は直線でなく途中に直角に折り曲げる屏風折れの手法を用いる等、世城郭の様式を示しています。西の丸と
天守台北側曲輪には瓦片を見つけられ、瓦葺き天守(天守台は小規模なので天守閣の存在は疑わしいが)御殿が在った様。佐野氏は本丸部分のみを改修し、他の部分は従来の山城をそのまま使用したものと思われます。
岩尾城天守台(手前は本丸上の段)
現在は石垣と土塁と堀切りを残すだけの小規模の山城だが戦国時代の丹波の山城の実態を伝えるとともに、近世の豪壮雄大な城郭に移行する過渡期の城郭としてよく遺構をとどめた貴重な城趾です。今も西ノ丸附近には素
焼きの瓦片が散乱しているのが目につく。今も清水を湛える石組みの城内唯一の井戸と通路を挟んでY字状の竪堀となるが竪堀側の詰めに石積をみる。天守台の北・蛇山最高地点の大土塁も岩尾城古城側は石積になっています。また古城から西へ延びる尾根上には土塁を挟んで堀切があり、
岩尾城:本丸西面の石垣(西の丸枡形虎口入城部)
更に降っていくと篠山の金山と同レベルの竪土塁と竪堀がある。竪堀は長く延びて新城側から山腹を捲いて尾根に向かう鞍部の通路を越えて深く落ち込んでいきます。土橋状に尾根を少し登ると
人間地獄
。若林・山
本集落に尾根の末端を落とす丘陵上には3〜5!!?の程の曲輪を連ね、曲輪間には3箇所の堀切 ・左右の谷に竪堀らしい溝状も見る。尾根末端のピークに広い平坦地があり集落に降る山道が左右に分かれて二本続く。 急な斜面ではないが、此れより先に城砦遺構は見かけない。
二の丸側虎口から本丸:天守台
狭い尾根状に展開する意向は岩尾城古城の出郭で、東播磨へ越える小野尻峠への要衝・氷上町から応地坂を越えて坂尻から小野尻峠へ向う間道監視に当っていたものか?。生野鉱脈と通じる妙見山一帯の鉱山の採鉱や丹波路側への輸送等には古城 ・新城共に深い関わりを感じますが…。
(文化財のすがた 山南町昭和59年度版 参照) 近世の城への変遷について明らかにされた郷土史研究家
村上完二
氏(春日町)研究冊子「岩尾城の歴史」があります。
鶴牧藩代官所跡(和田代官所跡)
山南町和田
漢方(薬草)の里・和田地区は岩尾城下町として八千代町・中町・加美町等の北播磨から小野尻峠を超えて篠山・三田や京都・摂津へと京街道に通じ、北方の氷上町へ向えば遠坂を但馬、塩津峠や戸平峠を丹後・若狭へも通じる要衝で氷上郡(丹波市)六宿場の一つは 20数軒の宿屋があり京橋の名も残るまた和田地区東側
を流れる加古川(佐治川)が水運として利用され、播丹相互の物資集散が成され市場之庄と呼ばれる”地の利”から月に六回・代官所公認の市が立った氷上郡(現:丹波市)五市場の一つでもあった。
妙閑寺裏手辺りが和田代官所に比定されているが?・背後は岩尾城
和田下町の牧山川を渡る右手に岩尾城址登山口があり赤い鳥居の参道が稲荷社=
山端城
に登ります。車道に沿って左手・和田地区内に入って行くと集落のほぼ中央部に
狭山神社
、その西方の城通山
妙閑寺
(法華宗)までの住宅と田畑に囲まれた一画に
鶴牧藩代官所
があり石垣と堀跡遺構の一部が残存しています。城主の菩提寺で(城ヶ谷)
山麓南東にある
親縁寺
(山レポートの
そのV
を参照して下さい)に文明2年(1470)谷出羽守基綱が下屋敷を建て居館としています。その東北部・妙閑寺の裏手一帯が代官
所跡と比定されているようですが?広い数段の平地一帯は地場産の若松(正月の松飾等に使われていますね…)の植林の造園で遺構は無さそうですが、此処は「隠谷」の口にあり、岩尾城を築城した和田日向守斎頼が居館としたところといわれます。
牧山川から山端城(丘陵左端部)と岩尾城
ある資料では 城ヶ谷(上の写真参照)となっているが山を背にした陣屋や城館ではなく代官所。旧街道筋に面して藩邸や納屋(倉庫)等が建っていたのでしょう。民家の間を北へ真っ直ぐに細い道が伸び石積みの側溝が続いている。その少し先には区画を南北に二分して走る細い路地があり1〜
1.5m程の石垣と2m程の堀跡に沿っています。石垣上は民家となっていますが其の先には田圃が拡がり、東端部の畔道は、狭山神社へ通じる地区内の車道となり、此の間までが代官所敷地と思われます。
和田代官所・正門前の石垣と堀跡
此の地区内車道の北側が和田日向守の居館のあった!?「隠谷」口で小川を挟んで同・西側が「城ヶ谷」で谷氏の下屋敷・親縁寺から岩尾城へ大手道が通じます。さて代官所推定遺構は先ほどの石垣と堀跡だけ、後は地形を見ながら推察するだけ。 東の民家前は正門跡か!…柏原藩織田家
の所領だったが慶安3年 (1650)織田家廃絶後・天領と小掘家 ・杉浦家など諸家の所領となり郡奉行が和田代官所に置かれ
鶴牧藩水野家
【天和2年(1682)信濃国(長野)で5,000石・丹波国で2,000石を領し後・享保20年(1735)には丹波国で加増され氷上・天田・船井の3郡7,000石・
和田代官所・正門前の石垣と堀跡(板橋を渡って正門に…!)!
安房国 (千葉)で8,000石を領有した】
水野周防守忠増
(鶴牧藩水野家の祖)が領有して統治した。 忠増は信濃松本城主水野忠清の四男で 5,000石で旗本として分家を許されます。忠増没年の元禄7年(1694)長男の忠位(ただつら)は大坂定番となり、5,000石の加増を受け信濃・丹波・摂津の12,000石を領有している。水野
忠増は鶴牧水野家の祖とされるが鶴牧藩が立藩されたのは文政10年(1827)上総に陣屋【鶴牧城=現・千葉市原市の姉崎小学校が建つ】を置いた 水野忠韶(ただてる)の時で以降3代45年続いて明治の廃藩置県を迎えています。
狭宮神社本殿
(文化財のすがた 山南町昭和59年度版、水野家については千葉市原市 「市原のあゆみ」市原教育委員会を参照)
狭宮神社
(山南町和田138)の神主さんには 私の産土の一宮神社の種々祭礼にはお世話願っているが 「鶴牧藩日記」にも登場し平安時代中期(927頃)には延喜式内社として列格した丹波有数の古社で、安土桃山時代〜江戸時代後期にかけて奉納された能【丹波猿楽】の舞堂が本殿真向かいにあり、衰退していた能楽も平成
14年5月・約150年ぶりに復活されました。丹波猿楽は岩尾城主佐野下総守から 鶴牧藩主へと替わっても代々世襲され、狭宮神社は鶴牧藩主の直願社ともなり、厄除祈願や雨乞いの際に能楽が奉納されています。
狭宮神社参道H19.11
”丹波の神社”サイトの高坂さんや神社ファン”のりちゃん”に狭宮神社の由緒をも少し…
主祭神・若沙那売命は若々しく成育する御神徳 【若くて清らかな少女神
様!】で健康長寿・不老長寿を始め安産 ・交通安全等、 命の守護神として広く崇敬されています。本殿は江戸中期・宝暦8年(1758)の再建で入母屋造檜皮葺に千鳥破風が組まれ、特に本殿の各彫刻は江戸期以降・現在も職人の間で「彫聖」と語り継がれた中川利兵衛尉の手になるものです。
拝殿前の茅の輪くぐり H18.01
本殿と共に山南町指定文化財に能面の小尉面・一面があります。 鶴牧藩代官所の手代として在地有力者に領地支配の管理を充てて和田七人衆(野添・大嶋・梅田・関・渡辺・中野等)の 野添氏宗が元禄6年(1693)筑前(福岡)の源氏信治に依頼して寄進したもので丹波猿楽の面掛神事能があでやかに行われています。
(現地 町観光協会の狭宮神社案内板及び神社パンフレット を参照)
山端城
xxx
Ca160m 山南町和田
和田下町の入り口で 牧山川に架かる橋を渡ると、左へは先述の薬草薬樹公園に、右折は柏原方面の175号線に出ますが正面右手に”正一位
釼光稲荷大明神
”赤い鳥居が見えます。 それより大きな岩尾城址 登山
口の看板が目に付きます。此処から和田蛇山岩尾城へと丘陵の東尾根を辿ってハイキング道が 整備されています。 岩尾城手前の尾根筋の東峰が砦跡ではないかと思っていたのですが、なんと登り始めて直ぐの稲荷社参道と祠のある境内付近が城跡でした。
南端部の土橋付き堀切
氷上郡教育委員会の調査報告書等の資料は未調査のため城史等一切が不明だが、氷上郡埋蔵文化財分布図で
山端城
の城名と位置を想定しながら出掛けてきた。山域の最高所・岩尾城 358mから東へ
延びる山稜の城名が示す山の端に位置する山端城は 尾根端の258m峰より更に下方の岩室古墳に至る尾根途中の 平坦な幅広の尾根が続くあたり、釼光稲荷大明神を祀る台地周辺に有ったと思われます。
登山口堀切の東側竪堀
此処には四国霊場巡り石仏が並び、和田中心部の狭宮神社方面へ通じているが尾根へ上り着くには急斜面です。下町の登山口から尾根に出ると堀切となり東側の急斜面に竪堀となって延びています。下方にもう一本の竪堀・東南側にもう一本、 さらに南には土橋付き堀切があり、尾根の東斜面には同方向に粗等間隔に3本ばかりの竪堀が並んでおり、奥丹波では珍しい畝状竪堀ともされるようです…!土橋付き堀切の南側尾根にも曲輪2〜3続き(果樹園の一部)?篠山川と加古川が合流する播磨国
境への展望が拡がります。稲荷社の祠を祀る広い平坦地が主郭で、曲輪付近の尾根東西に竪堀らしい凹角部を見ますが果たして?南西に数段の段差も曲輪らしいが ミニ観音霊場の参道が交錯しているので?城砦の遺構かどうかは判断出来ません。
下町稲荷参道の堀切!!
岩尾城の尾根続きには東塞城が在るものと推察するが資料不足でもあり雑木と藪に埋もれてか?なにも発見出来そうにない。後世の岩尾城との関連は無さそうですが、坂尻峠から佐治川沿いに柏原及び氷上町、加古川沿いに 西脇方面や篠山側沿いに篠山方面に向かう通行の交差点でもあ
り、此れ等要衝の通行及び和田城下や市場の 出入り口に位置して城下の監視に当たった砦ではあったのでしょう。岩尾城が近世の天守を持った石積みの堅固な城ではあっても単独で機能したとも思えない。
下町稲荷”釼光稲荷”が主郭部?
まして中世の古城時代には尾根続きの東には山端の砦、岩尾城の西方・櫻井稲荷へ向い 人間地獄を経て少し先の尾根上には堀切状を場所や小さな平坦地も見かけます。自然地形を利用したものではあっても此処にも砦は有ったでしょうし、北の応地坂(車道が通じたがトンネル上は旧峠道は残っている筈ですが)は堀切状で、古城が機能した頃は
道祖神
のある応地からの”搦め手”にも木戸くらいは設けられていたと思うのですが…