[戦国無頼]の古城を訪ね高城山(八上城・丹波富士)・蕪丸・法光寺山城
篠山市(五万図=篠山)
T 法光寺山〜殿町〜朝路池〜高城山(462m)〜藤之坂2001年2月10日
U
藤之坂〜芥丸〜朝路池〜高城山(462m)〜十兵衛茶屋 2001年08月04日
V十兵衛茶屋〜高城山〜般若寺城(井根山) 2003年06月22日

W小多田〜小谷城・法光寺城塞群〜法光寺山(点名:殿町) 2004年09月12日
篠山川(弁天橋)から望む高城山(八上城)

近畿の山城 :八上城小谷城 法光寺城 蕪丸城(奥谷城)
   般若寺城 勝山堡塚ノ山砦野間砦 篠山城 御下屋敷
ふるさと富士 : 高城山(朝路山・丹波富士・多紀冨士)
校歌の山 篠山小学校♪仰ぐ朝路のあけぼのの・・・♪
       八上小学校♪日出ずる高城 輝き出でし八上よ・・・♪
篠山城・二ノ丸堀(内堀)と犬走り
市内歴史散歩⇒篠山藩校/武家屋敷/誓願寺/玉水村上忠勝の墓等

市内歴史散歩2⇒居館廻り/丹波のお話:朝路池伝説・女畷と乙女塚等

標高459mが示す!?様に山姿も展望も四五九美しい山なので〜す。 観光案内では一様に其の様に説明されているようですが、再測量では462mに修正されているはずです。其の山の様子を井上靖「戦 国無頼」の一節から…その見るからに峻険な山の城砦が八上城であろうと思った時、河原の上に棒立ちになった。なんと美しい山、なんと美しい城だろうと思った。 蒼く澄み切った丹波の空を背景にして、しいんとした静かな・どこか淋しいところのある風景だった。
八上城・岡田丸から主郭の石垣

R176号線古市からは堂々の山容を見せる白髪岳・松尾山と別れ篠山への372号線に入ります。この道は太平三山の登山口・龍蔵寺や丹波霧を全国的に有名にした小川芋銭が 丹波の朝霧を描いたという美濃坂峠から三田へ抜ける道とも交差するが今日は直進。篠山市内や舞鶴自動車道・丹南篠山口から合流して 10数m先が「八上ふるさと館」で八上城祉登山の登山基地・駐車場でもあります。
篠山城天守台から八上城遠望


道を挟んで重兵衛茶屋から集落内を進めば全国xxx骨董屋「国寶堂」と八上城祉の案内板があり、此処から春日神社を経て山頂に至る代表コースが有るが今日は少し違います。高城山(八上城)への序説
八上城址は高城山 ・朝路山・八上山・丹波富士とも呼ばれるが山頂からの眺めは樹木に阻まれて残念ながら余り眺望には恵まれません。本丸を中心に山全体が攻めにくく守り易い模範的戦国時代の山城で 丹波最強の要塞です。登山口は家臣たちが住んでいた殿町、藤ノ坂口、首塚のある弓月神社、西荘口、野々垣、市の谷等から道があり夫々に各所に砦跡・掘割等の城施設や 朝路姫伝説の池があります。
篠山・河原町商家群が”町割り”の名残

城下に町や神社・寺院を多く集めた城下町の形態は篠山築城で篠山へ移転したものが多い。十兵衛茶屋から城主 ・波多野秀治の創建といわれる春日神社境内から、広い主膳屋敷跡(植林により面影なし)を経て九十九折の大手道を登ると鴻ノ巣の平地 (本丸への最初の防御施設)・下の茶屋丸から上の茶屋丸・右衛門丸の廓跡(階段状)、急坂を登りつめれば三の丸、二の丸跡に続き、目の前が最高所の本丸跡で波多野秀治の表忠碑(昭和7年建立)と顕彰碑が建っています。
篠山場内:大書院

本丸の下の眺望の良い岡田丸から掘割の残る九十九折を馬見所から磔松(落城の際、 人質となっていた光秀の母が磔にされた)根株も朽ちてしまいました。ここから血洗池(磔槍の血を洗ったとの伝説の池・今は埋もれて無い)への急な谷筋の道は出来れば避けて茶屋の壇・馬駈場・芥丸と史跡・展望を楽しみながら 三本杉へ出て藤之坂登山口へのコースがお勧めです。


高城屋敷門北新町 1969年11月18日町指定
八上城は篠山城の造られた慶長14年(1609)の直前まで 存続したが篠山城築城後、篠山藩主から八上城からの撤去命令を受け高城屋敷門は家臣宅に移築されていたもので、 個人所有されていたが、自宅新築に伴い解体することになり同町に無償譲与されたもので室町末期の創建、総ケヤキ造りで八上城唯一の残存建築物とされ、町指定文化財「高城屋敷門」は一間一戸の薬医門で木造、
高城屋敷門(八上城の移築遺構)

柱間間口2.4m・奥行1.5m・高さ3.8mで柱と扉、梁は八上城時代のものと考えられます。 り妻造りの屋根は当初は茅葺きだったが移築後瓦葺きに改装され、北新町の本郷図書館南側に保存されたものです。西隣に青山歴史村があるので、観光客には目立たない存在のようで門の内側は駐輪用スペースになっていた。


T法光寺山〜殿町〜朝路池〜高城山〜重兵衛茶屋   H13年02月10日/H17年04月17日

高城山の写真と全体の様子を知りたいと思い今日は奥谷川と対峙する小さな山塊を繋いで歩いてみたいと八上ふるさと館(AM8:35)から、今来た道を引き返し北端に位置する最初の民家の向かいに稲荷神社と書かれただけの石の鳥居と苔むした参道から取り付く(AM8:40)。 小さな本殿下には屋根からの雪が少し残っている。左側からの踏み後は直ぐ明瞭な山道となるが
高城山登山口近くにある重兵衛茶屋

シーズン中は松茸山なのかテープ残骸も残る。急登だが登りやすく稜線尾根を辿って快適な雑木の山道が続き法光寺山 (4等三角点 344m AM9:10)は直ぐだった。 きれいな標柱だが山道から数m離れた場所で殆ど埋もれた状態で顔を出している。此処は名前が示す通り寺跡だったか軒瓦の破片が一枚山頂に有った。何段かの平坦地のようなところもあり益々その感が強まる。 この先へも快適な山道は続いていたが335mピーク付近で急に下多田か野々垣の方へ道が折れる為、尾根を直進するが途端に薮となる。 たいした薮ではないが倒木に阻まれ中々進めなかったが三杉山荘・浪漫の郷三野(どちらも個人の山荘)に出て、峠に続く?道から殿町へ向う。
八上城・下ノ茶屋丸から法光寺山

集落最初の民家(最奥の!)を右折し東へすぐ棚田が 続く道がありこれを詰めると棚田の突き当たりから 谷沿いに踏み跡が続いている。 高城山南面の稜線に突き上げるがこのルートは踏み跡薄く急な上に稜線近くなってガレ場・岩場が続く自然の要塞を経て高城山を目前のピーク348mに着いた(AM9:55)。二分ほどで 殿町からのルート?と合流するが随分荒れた非一般コースのようです。やがて、こんな山頂近くで水音が…と驚く間もなく谷に出合い湿気た道は直ぐに池東下の番所朝路池へと導いてくれた(AM10:00)。 八上落城の悲話伝説からは想像出来ない綺麗な?丸く小さな浅い池です。
法光寺城本郭北の堀切 H17.4.17

本丸の山頂から僅か5分程の位置にあり谷筋に沿って下れば野々垣コース・すぐ上部で藤之木坂コース分岐に出る。擬木の階段を登り切れば城主・波多野秀治の顕彰碑が建つ本丸の高城山頂上 (459mシゴク・・ではなく462m AM10:10〜10:25)は今も市内案内ガイドでは至極(459m)美しい山…との説明がされて入るようです。 辿ってきた法光寺山の黒い山影、振り返れば明るく連なる多紀の山々・北摂の山々も霞んで見える。
高城山:主郭西虎口と正面に岡田丸

少し引き返し展望を楽しめる馬駈場〜芥丸跡へ出て (AM10:40)左手の階段を下れば、磔松からの血洗い池コースからの道と合流して藤之坂登山口に着き(AM10:50)車道をふるさと館へ戻る。途中には1里松があり、 かって篠山城を基点に京に向って植えられたらしいが、此処が最初の基点。先日籾井城に登ったが途中の福住にも1里松が残っているらしいのです。 実家に帰る前にもう一山を何処にするか決め兼ねて鐘ヶ坂(柏原方面)に向います。


U : 藤之坂〜芥丸〜朝路池〜高城山(462m)〜重兵衛茶屋   H13年08月04日

西光寺山へ真夏の花見に行った後、篠山市街に入って昼食は丹波の味覚を 〈旬のものは少ないが黒豆だけはバッチシ、松葉に刺して載せてある>。そして窓から見える丹波富士(高城山・八上山・朝路山)に登ってみることにします。 篠山城址の堀端の蓮を見て重兵衛茶屋へ車を走らせます。この時期ですので谷沿いの木陰の道を選んで藤之木坂から血洗い谷に沿う コースだが谷には殆ど水も無くズッと日陰で風も無い。通常高城山登山の逆コースです。
芥丸跡

出発は何時も八上ふるさと館(PM1:30)からですが重兵衛茶屋から春日社を横目に 「1里松」も過ぎて藤之坂口(AM1:45)からだが血洗い谷の水は殆ど伏流となり水音もない。磔松に出るコースを右に採って階段道の続く 芥丸跡へのルートです。展望は先ず先ずですが同伴者も暑さと風も無く2山目のため疲れで先へ進みます。朝路池(PM2:25)も水枯れ寸前で伝説の池の面影はありません。
大書院側から二ノ丸の北廊下門


山頂本丸跡(PM2:35)から多紀アルプス等を一通り遠望した後は城址から下の茶屋丸〜鴻巣〜春日神社へと降立ち八上ふるさと館の駐車場へ(PM3:10)。 車に載せているクーラーボックスから少し残っている缶コーヒーを飲み干して、次の夏の花は篠山城の南堀にある蓮を訪ねました。未だ殆ど蕾ふくらむ程度でしたが淡いピンクの花びらを精一杯拡げているのもある。黒豆アイスを頬張りながら 大正ロマン館では黒豆コーヒーを…骨董の国宝堂を右折すると春日神社の参道で入口に八上城の名所図絵登山コース案内板がある。 此の先・物置小屋前の木の鳥居を潜った処にも案内板が建っています。
篠山城二ノ丸の北廊下門 ・桝形と大書院

此方は「負け嫌い稲荷」伝説で篠山城主・青山忠裕が幕府の老中にあった文政年間(1818-30)頃、毎年江戸で行なわれる将軍上覧の大相撲大会に、いつも真っ先に負ける丹波の力士が活躍した話です。 話の詳細は篠山四十八滝と八ヶ尾山で清五郎稲荷,「お菓子の里」の東城山と権現山(富の山)で 飛の山三四郎稲荷・日置の裸榧〜曾地城に 曾地山左近稲荷丹波のお話に載せていますので御覧下さい。


V近江衆との混合オフは大盛況 八上城〜土居〜青山範墓所〜篠山城 H15年06月22日

南朝楠木ファンanne猫さん・石田三成さま一筋の近江衆「びわこさん」の女性が管理する 城サイトの掲示板を通じての東西合同城オフを八上城で行なう事になり、西軍はanne猫さん御夫婦にKAIさん・口さん・YORIさん ・遠路広島からはトラマさんが夜八郎さんと前泊で御出陣、迷ノ介さんも前泊で口さんと西軍から参加です。
八上城下にある1里松

東からはびわこさんは城オフに参加しない友人に送ってもらい、なおのすけさんは伊勢から前泊で参加、鯖丸さんは北の櫓さん…と13名の混成大部隊となった。当日の集合地・篠山城へ参集する前の早駆けには2〜3の城に寄ってみようと誘った 私のグループへに口さん・迷いの介さんが同行で道場 蒲公英城(松原城)に寄ったが相変わらず藪の中、しかも蒸し暑い夏場です。
八上城主郭と波多野秀治顕彰碑

全員蚊の猛襲に遭いながら城ファンでもあまりご存知無い? 大原城にも寄る。城名リストで知っても立寄った事の無いと思われる城ですが、しっかり残る遺構には口さん達も満足されたご様子です!!。 KAIさんは般若寺城近江衆の前泊組は 籾井城へと其々に早駆けの様子。篠山城に定刻までに全員集合して初顔合わせの挨拶とエール代わり!?の城情報の資料交換の後八上城に向う。
右衛門丸(城主・波多野右衛門秀治)石積

夜八郎さんは体調優れず共に行動出来ないので此処で皆の帰りを待つとの事。 びわこさんは一足先にスタート地点の「八上ふるさと館」で待たれているので3台に分乗して出発。
一里塚は徳川秀多忠が慶長9年(1604)江戸に日本橋を基点にして東海・東山・北陸三道の道路の両側に1里ごとに榎や松を植え道程の目標としたのが始まりで、各藩でも江戸・京都への里程を示す一里塚を設けるようになり篠山藩でも 篠山城完成に際し京街道に沿って大手門から
八上城二ノ丸の門礎から本ノ丸

1里ごとに土を盛り松を植えて標識とした此処が一番目の八上一里塚がある。「八上ふるさと館」で待つびわこさんは我々に直ぐ気付かれたがML交換での話が弾んで中々出発出来そうに無い。さすがに三成さま専用HPを主催する"びわこさん"のお土産は三献の茶【木之元町特の緑茶ですが豊臣秀吉が鷹狩の途中で寄った寺で 所望したお茶を献上した石田三成の気配りに、
鴻の巣

その才能を見込んで小姓として召し上げた故事と 出合いに由来する】 今回オフには最適PRお土産ですね。重兵衛茶屋の南、田圃の端の土塁へも一応案内…こんな所に興味を持って集まるのは 私達だけ!!野良仕事のお爺さんには「道を間違えてるんじゃないのか…」と思われたかも??鴻の巣砦辺りで雨が降り出した。
伝:はりつけ松・登山道は正面”茶屋の壇”沿いに手前を下る

右衛門丸跡の石積みで八上城の山城遺構を見てからは急に元気付いた人も…東へ下ってみると 何段もの曲輪が現れる。三の丸の南端・門の礎石を二の丸出て北東の岡田丸にすすむ。主郭の石垣は羊歯や雑草に覆われているので一部の雑草を下刈りすると其の下から立派に石垣が出現して拍手まで受けてしまった。悲惨な落城記録が気になってか!!今回はミステリーツアーともなった候補の一つ 朝路池へ向う。雨は止んだが濡れた周辺は静寂そのもの。池は僅かの水を湛えているが何時もより澄んだ綺麗な水の色だった。
篠山城三ノ丸グラウンドからの本丸と天守台

次のスポットは磔の松だが二代目の松も朽ち果てたが小説・ドラマ等では知られるモッともらしい伝承地。 馬駆け場の先の木場で昼食とします。雨が上がりかけて高城山の山頂付近に霧が流れ「戦国無頼」の丹波霧をイメージ出来たかも知れません。 芥丸から通常登山ルートを藤ノ木口へ下ったが藪を突いて尾根を辿れば西蔵丸へと縄張り図では示される。一里松をみて「ふるさと館」へ戻る。 篠山城北・大手馬出しの土塁残欠(正面奥)と堀跡?

八上城を終え篠山城へ戻る途中にも幾つか案内したい山城や丘城はあるが時間に追われ次々と予定変更を余儀なくされますが 此処だけはと思う土居の内へ向います。東西混成の小隊ですが一応に皆から感歎の声があがり成功…。次は飛の山城だが僅かに時間切れ、山麓にある旧篠山藩主青山家の菩提寺 蟠龍庵に寄る。何も無いけど青山藩の「無紋銭」の軒瓦だけでも見ておけば篠山城訪城の土産話にはなるかも・・・!!

篠山城南外堀沿いの武家屋敷風情


八上城からの唯一残る移設遺構・高城屋敷門とその横にある青山歴史村の旧澤井家の長屋門を見て篠山城天守台迄行って再度、八上城の高城山を眺めてから帰途に着く。 栗栖野の残石公園前を古市に出る。歩かずとも寄れる曲り城 (堀城)は堀相模守の埋蔵伝説が伝わる居館で、極端に屈曲する武庫川を水掘りとした居館城の様子を 見ていただいて本日の打ち止めとした。
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W 小多田〜小谷城・法光寺城塞群〜法光寺山 H16年09月12日

法光寺山へは以前(H13.2.10そのT) 西八上の稲荷神社から短い尾根を辿って南の峠?付近の個人山荘へ出た事があった。其の時は城跡が点在する 法光寺山城の城塞群に無関心のまま、殿町へ出て朝路池を経て八上城山へ向ったが、その八上城の西面を守るジャンダルム(前衛峰 )が法光寺山城で尾根上に幾つもの城・砦が点在していたことを知って再度コースを変えて辿ってみた。
小谷城址(左)遠望

訪城記は後述の「近畿の山城」で紹介します。尾根筋の峰に分散して残る遺構は 城塞群としていますが一つの城 (一城別郭)が妥当のようです。JR古市駅からR176を越えてR372を東へ走り特徴のある小山四季山裾の峠を越えて真っ直ぐ延びる車道を篠山城の南約3.2km・小多田の交差点を右折すると、小多田集落の入口を警護して法光寺山から西へ延びだした丘陵尾根の先端部がR372号線に落ち込む。 尾根続きの東を除く三方・特に南西側から北西面にかけては切り立つ断崖状を呈しており、易々とは取付口を見せてくれません。
小多田集落の入口に起立する法光寺城第三砦

其の山麓から小多田集落内を西南に進んでゆくと公民館の東に小さな丘陵が台形の尾根を北に延ばして落ちる。此処に八上城下の守備にあたったと思われる小谷城が有り寄ってみます。三好氏が波多野氏の八上城攻めの際に其の支城:法光寺城攻めの向城となったものか?・明智光秀の八上城攻めの陣城となったところか? 比高5〜60m程の城山です。東側の山稜には法光寺山城の城・砦の城塞群が点在しています。その尾根の西北の突端部がR372の小多田分岐にあり、 三方は露岩を覗かせた 崖となっています。この崖上に法光寺山城塞群の一つで小さな砦があります。
法光寺城第二砦

其々の砦城は 一城別郭の城として特に名前を知らず。北の集落内から登りはじめます。もう9月なのに湿った岩場側に山ユリを見つけた。墓地横から急斜面を尾根に突き上げる踏み跡を見つけて先ず、小多田集落入口部の砦に寄り尾根を引き返して主尾根に向います。奥谷川に沿う殿町集落を挟んで八上城・蕪丸(奥谷城)法光寺山城が呼応して城下の殿町を守備し、三好勢や光秀にとっては八上城攻めの絶好・最短 距離の向城として改修され利用さ れたことでしょう。
最西端の小多田砦から法光寺山城へ三つの砦が続く

主尾根までの二つの尾根ピークには其れぞれ単郭の城遺構があるが、数段の段差を持った小曲輪の平坦地を見るだけで、 堀切・土塁を持たず遺構探しよりも尾根を外さないよう進む事に専念し過ぎて?気付かず通り過ぎたかも!?尾根に出ると今辿ったコースも主尾根にも踏み跡は明瞭です。松茸山という事も関連しているのかも…ということで今シーズンOFFまで丹波 の里山散歩はお預けです。主尾根から前回の逆コースで主郭の有った法光寺山頂(点名:殿町4等3角点 344m)に着く。標柱は山道から数m離れた場所で 殆ど埋もれた状態で顔を出している。
法光寺山城の三角点側に古い丸瓦が有った。

法光寺跡は山裾らしいが以前のまま三角点に残る一枚の軒丸瓦はこの古寺のものだろうか?。殿町へ降る東の尾根に数段の小曲輪があるが、北へ続く尾根上に曲輪にはこのコースでは見なかった土塁も残り、向城として再利用され改修されたと思われる 遺構の様です。尾根を忠実に?最北端へ辿ると最後に広い曲輪に出て踏み跡も途切れた。台風の影響による倒木の被害は 丹波氷上郡よりは少ないようで、前回・登山口に採ったR372の西八上・稲荷神社より30m程東の車道に出てきた。一旦車のデポ地点の小多田公民館・天満神社へ戻ってから殿町にある蕪丸城(奥谷城) を訪ねます。
法光寺山城の曲輪群と堀切!


追記 ==小谷城〜法光寺山城〜奥谷城==
篠山市の指定史跡(平成6年5月20日)となった八上城の前身蕪丸(奥谷城)には、山行ついでに何時か寄ろうと 思いながら数日後には松茸山としての止山で入山出来なくなる前にと9月中頃に法光寺山城を訪れる尾根歩きの後で向います。以前・法光寺山への登路に使った西八上集落の稲荷神社を下山口として四ヶ所に遺構が残る法光寺山山塊を巡るのには 西端部の砦からと決め小多田集落に向います。地区も直ぐ南800m程には小谷城が有るので、先ず立寄ってから法光寺山城の一城郭(小多田の砦)への取付きを探します。
平成17年(2005)3月には八上城 ・法光寺城を中心とした一帯が「国指定史跡」になっています。


八上城小谷城 法光寺城 奥谷城(蕪丸城)  般若寺城 勝山堡
 
塚ノ山砦 野間砦 篠山城 御下屋敷

八上城(八上高城)   高城山・朝路山462m   篠山市八上上・城東町

丹波一円と攝津の一部を支配していた 波多野氏3代(多紀郡八上古城の奥谷城の入封から4代)本拠城の上城は多紀アルプスを望む篠山盆地のほぼ中央部に位置する 高城山にあり秀麗な 山容は459mでシゴク美しい山丹波富士朝路山と呼ばれています。国土庁の地図では462mだが未だに語呂の良いシゴク459mで通っているようです。
殿町から八上城の前身・蕪丸 (奥谷城)を望む

野々垣口や藤ノ木坂口や春日神社からの登山口がある。殿町から朝路池へ出るコースが搦め手口のようです。尾根伝いに右衛門丸・三の丸・二の丸 ・本丸・岡田丸・芥丸等の曲輪や伝説の磔松や朝路池・門の礎石の一部・石垣・堀切が散在しています。八上城を中心に篠山盆地を取囲むように山や丘には 籾井城細工所城 八百里城・沢田城飛の山城・東吹城等々数多くの支城が築かれています。八上城へは主膳屋敷跡から登る一般コースが大手道でしょうが
右衛門丸(城主・波多野右衛門秀治)石積み

城下町のあった奥谷側からが大手道の様なので、 いつかは蕪丸城から辿ってみたいもの。永正5年(1508)波多野氏は元秀から秀範(別名:秀忠 )から永正12年(1515)頃には波多野秀通?へと築城・改修を進め、蕪丸(奥谷城に対して八上高城と称していた。波多野秀長が細川勝元方に属して各地を転戦していたが「応仁の乱」後、室町幕府・細川政元から丹波・多紀郡を与えられ、
三ノ丸から二ノ丸へ

因幡(鳥取)国から来住し朝路山の麓に「蕪丸(殿町の奥)」を築いたのが始まりで因幡の八上を移して八上城と名付けたといいます。 【注】八上の波多野氏は因幡ではなく石見国からの来住で、石見源氏吉見氏が細川勝元に仕え、主命により吉見氏は母方の波多野の姓を名乗った。波多野氏は代々 周防の大内氏の家臣だったとされます。秀長の子秀忠は丹波守護職として(波多野元清築城説も有り!!)永正5年(1508)朝路山に陣地を構え高城といい秀忠の子、秀経がさらに守りを 固めていたが天文19年(1550)頃より幾度となく繰り返される三好長慶・松永久秀らの攻撃に
八上城 ・岡田丸から本郭部石垣


天文23年(1554)<弘治3年(1557)?>遂に落城、久秀の甥・松永孫六が入城し内藤宗勝(八木城主・蓬雲軒 )等により約10年間・多紀郡は支配されていた。一時失った城は波多野晴通・秀治の代となった 永録9年(1566)黒井城主:赤井直政の援助を得て此れを奪回し本丸・二の丸等次々に築き周囲に城壁や射撃口をつくり堀を廻らし城門を固める等城塞化して 丹波の三大山城八木城黒井城の中でも最大・最強の城郭を完成させ 秀忠から三代約50年間にわたって修築されています。
八上城主郭南東の虎口

八上城四代目城主 波多野秀治は一族 霧山城波多野宗高(氷上町)や因籍関係にある稲壺城 赤井景遠(氷上町)、三木城別所長治さらには中国の毛利氏の支援はもとより、多紀・氷上の50余りの山城の豪族を家来とした。これら豪族(荒木・久下・赤井・籾井・荻野・波々伯部・畑・曽我部等)は波多野氏の七組、七頭等と呼ばれ互いに連絡を取り合い「いざ戦い」には波多野の命令に従って戦う仕組みになっていました。
八上城・朝路池

丹波武士の勇敢・巧妙な軍略と自然の地形をうまく取り入れた軍略的な陣地構築が 織田勢を寄せ付けなかったといえます。八上城の水の手”朝路池”の三方を囲む急斜面の尾根筋は曲輪群で囲まれ、野々垣口・ R372号線の日置から篠山川に流れ出る谷筋だけが南東に開けている。両サイドの尾根筋には大堀切で尾根を断つ曲輪群・背後の主郭側も、
左肩に土塁が延びる藏屋敷

本丸から芥丸へと北に延びる尾根上は本丸北側直ぐ下方には北面を高土塁で囲む蔵屋敷があり、其の下段には水の手を守備する池東上の番所・池東番所がある。 更に降る谷筋の尾根端には芥丸 ・さらに降る尾根先端には 弓月砦や安明寺砦が京街道東方(京・亀岡方面)からの通行監視・朝路池への登城口侵攻を警戒する番所として、全山を要塞化した八上城砦群が護っていた。嘗ては大手道だったと思える八上古城の奥谷城 (蕪丸)から直接本丸に登り着く尾根伝い・
朝路池・池西下の番所?or西南丸<尾根筋先端に奥谷城が在る>

朝路池の西上方の丘陵からも朝路池のある井戸曲輪東北端に落ち込む竪堀(堀切)がある。堀切を挟んで下方(南)には広い平坦曲輪の「池西下の番所?OR池西南丸の曲輪群が・堀切からの尾根続き北西には二段の広い曲輪段 池西の番所(背後に土塁 (櫓台か?)状と小曲輪が続く。此処から篠竹藪を突き進む短い 直上ルートは本丸側に飛び出す。右手寄りに倒木を避けながら朝路池側の落ちる斜面沿いを 廻り込んで進むと蔵屋敷に通じており、八上城の長期籠城戦を支えた重要曲輪群が高城山山頂直下・主郭近くに存在していた。
朝路池・池西上の番所・広い二段曲輪の上部は土塁道?(櫓台状)

天正3年(1575)長篠の合戦に 勝利した織田信長の「丹波攻略」が始まり明智光秀を派遣したが地の利と堅城(堅塁)の波多野秀治の抵抗にあって前後十数回に渡って攻めたが、軍略に優れた光秀も簡単には落せなかった。異常とも思える一年余りの包囲による食料攻めと内部分裂を計る。 この異常さは有名な「赤井の呼込み戦法」(天正4年1月)と呼ばれる 黒井城赤井氏等と事前に示し合わせ光秀とは偽りの同盟による裏切り行為で光秀の私恨によるものと思われます。 天正7年(1579)になっても八上城を落とせず主君・信長に対する面目から、
八上城・主膳屋敷前(春日神社の土塀)


光秀は母親を人質に八上城に送って和議を図り城主波多野秀治 ・秀尚の兄弟を本陣の本目城(亀岡・神尾山城)に招き入れて捕え安土城に連行して殺害します。【安土の慈恩寺にて自刃ではなく磔刑に処せられます。 人質となったのは光秀の叔父・明智兵庫助宗宿の妻で左馬助光治の母ともいわれます】城に残った義弟・二階堂秀香ら多くの将兵は2ヶ月の籠城の末、同年8月 9日本丸に火を放ちことごとく自刃した。 光秀による六ヶ月余りの包囲作戦は秀吉の三木城に対する22ヶ月にもわたる 悲惨な飢餓作戦「三木の干し殺し」と共に戦国の悲惨・残酷な戦闘となったことを伝えています。
篠山城・大書院

八上城への登城口・春日神社からのハイキング道を辿ると広い削平地を抜けて行きます。前田茂勝や松平康重(篠山初代城主)が篠山城完成までの一年程居た館跡だが、 倒木や下草が密生しているうえ足元は泥濘んでおり、入り込んでいく人もいないでしょう。 登山道の側には 八上城主前田主膳正重勝の供養塔が建ち周辺にも削平された曲輪が残ります。神社に釣鐘は奇異に感じますが”春日の鐘”と銘入りの釣鐘が最近・寄進されています。此の鐘堂から林の中に主膳屋敷を見ますが、 正面の凹角の虎口を抜けた主膳屋敷の上にも削平地が拡がります。
八上城 ・波多野氏の御前屋敷(主膳屋敷上)

八上城主・波多野氏時代にあった御前屋敷跡とされています。落城後は明智光世(光忠)が入城、丹波亀山城の支城ともなったようです。秀吉の時代には並河飛騨守等の代官が居城、 慶長7年(1602)からは亀山城から前田玄以の三男(二男?)前田茂勝が 5万石で入部し7年間在城するが キリシタンのため幕府からは危険視されていたが自ら素行不良・終いには発狂のため改易となり同13年(1608)家康の実子松平康重が入封されたが翌慶長14年(1609)新築の篠山城に移った為廃城となり、高城の石垣の多くは篠山城に転用され 八上の城下町にあつた誓願寺・来迎寺・観音寺等の寺々や商家は篠山城下に移されています。
篠山城埋門の「三左之内」刻印【池田三左衛門輝政寄進の石】

辞世の句(天正7年6月12日)よわりける 心の闇に迷わねば いで物見せん 後の世にこそ  波多野秀治 51歳
おおけなき 空の恵みをつきしかど いかで忘れん あだし人をば
  秀尚  25歳
MEMO  【波多野氏の重臣】
三人衆:二階堂伊豆守秀香<大路城主> 山名和泉守豊恒(宮田城主)能勢丹波守久基( 能勢城主摂津守護)
家老:平林大膳秀衛・渋谷播磨守宗貞・渋谷伯耆守氏秀・三田肥後守綱氏・荒木藤内左衛門氏修・渡邊大學綱俊
七頭== 久下越前守重氏 (久下城)・長澤(中澤)治部大輔義遠(大山城 源義経の落胤の末孫!!)・
      江田兵庫頭行範(ゆきのり 綾部城主・新田義貞一族の江田行義の末孫!!)・
       大舘左近将監氏忠( 高仙寺城新田義貞一族の大舘氏義の末孫!!)・
       小林修理之進重範(澤田城山名氏の管領 小林氏重の末孫!!)・

       荒木山城守氏綱(園部城主波多野の末流)・赤井悪右衛門尉景遠( 稲壷城主)
七組==荻野彦六左衛門朝道(朝日城 後屋城?)・須知主水影氏(景俊)須知城主)・内藤備中守顕勝曾地城主 )
     足立右近光永(足立城主)遠阪城か??)・波々伯部次郎左衛門光政( 淀山城主)・野尻玄蕃康長(野尻城)・
 酒井佐渡守重貞(真南条城主 真南条上城? 館山城?か 畠山重忠の末孫!!)
先鋒衆=東方 籾井越中守教業( 籾井城)
     西方 小野木縫殿助吉澄(福知城)・谷大膳( 山家城)・雲林院式部国位(鬼ヶ洞城)

篠山城・埋門

(注記)軍記「籾井家日記」にみる波多野家臣組織は 実際に存在したものか城主名からは疑わしい。 八上城:波多野氏が大路城以外にも一時期・丹波市側の城を統治しても、京都府側の福知山や綾部等を統治していたのは黒井城の赤井氏だった筈。室町初期に丹波守護代を務めた久下氏が八上城傘下に入った事はない?…重氏?(重治)は既に赤井氏幕下にいたし、穂壷城も久下氏から赤井氏の持城になっていて 城主が波多野秀治の時の七頭とは?…
篠山城大書院:上段の間

また波多野氏と敵対していた内藤氏配下の江田氏、 園部城主の荒木氏は一時期で本城は井串(細工所)城であり、山家城:谷氏に至っては黒井城赤井氏と波多野氏の策謀を明智方に内通した人物と云われるが…その他:城主名誤りかと思え該当の城主名が見当たらないものも有り。 いずれにしても組織や体制の参考になれば?!と列記しておきます。



小谷城(小ノ谷城)   280m      篠山市小多田字小谷ノ坪

R372(デカンショ街道)は京・播磨・摂津に通じる旧京街道の要衝。JR古市駅付近からは酒井党の 栗栖野城や河村氏の館山城・真南条上城の裾を走り抜け 四季山城の峠を下ると、真北に篠山城へ向う小多田の交差点を南へ右折する角に迫る法光寺山城の小多田砦下を通って天満神社 (小多田公民館)に着く。西側に小高い丘陵裾に厩舎が見え飼料サイロ側の墓地から境界ポールに沿って踏み跡が通じ比高僅か4〜50m・急な登りもなく山頂部の曲輪に着きます。
小谷城

幅約15m・南北の尾根に長さ50m程の削平地の一段2m程下を周囲5-6m幅の帯曲輪が取巻くだけで土塁や堀切も無さそう。 展望も東前方に法光寺山塊が有り八上城は望めないが光秀の八上城向城のよう。城主や城史は不明だが小多田地区の北面を開け、三方を丘陵で囲まれた中央南部に有って、初期には小多田地区の入口を固める法光寺山城の小多田砦と小谷城が呼応し西面から、または背後の三田方面から小多田地区への侵入する敵に対する備えの砦だったのかも知れません。
小谷城

しかし此の小多田地区からは法光寺山塊の南側の低い鞍部を抜けて、簡単に奥谷側へ抜けられるので八上城を包囲する 絶好の侵攻口にもなります。(小谷城の遠望は山レポートそのWを参照)小谷城は光秀の向城として、摂津三田方面から母子(もうし)から三国ヶ岳経由で八上城への物資輸送や通行の監視にあたったか、 兵を駐屯させた臨時のものだったかも・・・?と思われます。築城の不明点は多いようですが、法光寺山城の西尾根砦群と同様の波多野氏の城だったのかも知れません。縄張りからは光秀の向城が優勢の様ですが・・・!


法光寺城  法光寺山  344m     篠山市殿町字法光寺・西八上・小多田
法光寺城第三砦(小多田砦) Ca255m  篠山市小多田
法光寺城第二砦    325m 篠山市小多田
法光寺城第一砦 Ca315m  篠山市西八上

法光寺砦群1〜3は山レポートそのW小多田〜法光寺山を併読していただければ ・・・と思います。法光寺山西尾根末端の法光寺城第三砦から法光寺城への尾根上にも三つばかりの城砦遺構がある。応仁の乱後に因幡国から来住した波多野経基 (別名・秀長)によって、谷川沿いに拡がる殿町に八上城の前身となる蕪丸(奥谷城)を築き城下町が形成されていました。
法光寺第三砦(小多田砦)/最西端の曲輪

奥谷城のある朝路山(高城山)と奥谷川を挟んで相対する法光寺山山塊の尾根が R372号線に丘陵北端を落として南北に延びる尾根上の 5-6ヶ所に曲輪群を配置しています。 八上の城下町を囲い込み、更に西方へ張り出した枝尾根のピークにも城砦を築いて、奥谷城(後には八上城 )の城下町や本城の八上城の西方・法光寺山にあった法光寺(廃寺)の寺域を城郭化して守備にあたった法光寺城が築かれていました。八上城・蕪丸城・法光寺城が、それこそ三位一体となった防御体制を整えていたことでしょう。
法光寺第二砦/西尾根中部の曲輪


しかし八上城の西方を守備する支城だが、反対に八上城の付城としても永禄2年 (1559)には京都八木城主:内藤宗勝(松永長頼)が八上城を攻めた際に築いたとされ、織田信長の「丹波攻略」では天正6年(1578)明智光秀により向城として改修されたものとも考察されます。Web上でも八上城・奥谷城 (蕪丸)についての訪城レポートはあるが法光寺山城は余り見かけないが、翌2005年3月八上城に序で法光寺城一帯も 「国指定史跡」になった。山城の知名度は低く石積・石垣・高い土塁や堀切等の派手な 遺構が残っていないので、まだまだ関心は薄いよう。
法光寺第二砦(主郭をほぼ円状に帯曲輪が廻る)

まして其の山城から西に派生する低丘陵部の砦跡の平坦地を訪ねる人もいないでしょう。奥谷川に面して南北に延びる尾根上には連郭式の遺構が残り 八上の城や城下を防備したのでしょうが、主郭部の法光寺山(三角点峰)からは東の奥谷側へも曲輪が数段続き、土塁や片堀切の遺構は八上城に立て篭もった波多野軍を包囲した明智光秀光秀軍にとっては”八上城攻め”直近の向城ともなったことでしょう。しかし主郭から西へ延びる枝尾根から端部にかけて三ッの峰上に位置する小さな単郭砦は、削平以外に遺構は無さそうで尾根続き相互の守備 ・連絡以外に関連なさそうです。
法光寺第一砦/西尾根東部主部と北側の曲輪


築城の不明点は多いようですが、法光寺山城の西尾根の城塞同様に波多野氏の城なのか?。縄張りからは光秀の向城の様でもある!!?。此れ等の砦は初期に小谷城と呼応して西面から小多田地区への侵入備えた砦だったと思われます。 此の小多田からは法光寺山塊の南側を奥谷へ抜けられるので八上城の背面に廻って包囲する絶好の侵攻口にもなります。この口元に有った 小谷城は光秀の向城として摂津三田方面から母子(もうし)〜三国ヶ岳経由で八上城への物資輸送や通行の監視にあたったか兵を駐屯させた臨時のものだった…?と思われます。
法光寺第一砦(西尾根東部)北面に浅い二本の竪堀?をみる


横道にズレてきましたので元の尾根に戻します。其の一・小谷城から戻って 小多田地区の西部から登路を探すが民家の庭先からは遠慮して・北側の墓地横に踏み跡を見つけて細い尾根筋に登り着くと境界の踏み跡があり 法光寺第三砦のある 西尾根末端部まで続きます。小多田地区に突き出した西尾根末端の三方は 20m程の露岩を覗かせる断崖で、要害とはなっているが藪の中の自然地形か荒れた削平の粗い段差の小さな平坦地の他には末端部に突き出す曲輪以外に 城砦らしい遺構は見当たらない。
法光寺第一砦/西尾根東部の曲輪

北側は採土場となっており何れは 番守寺山城(丹波市)他の無名城砦同様・破壊され消え去る危機に立たされている様です。其の二・法光寺第二砦は藪尾根の最初の325mピークに主部を置き、 一段下には3〜7m程の幅で帯曲輪がほぼ一回りしています。尾根筋に沿って明確な二段の削平地があるが、反対側の西面は削平された段差かも 尾根の傾斜に沿っては曖昧です。法光寺山に向う東側尾根筋に一つ、曲輪らしい一段の台状平坦地をみるが此処も ・堀切や土塁は見当たらないようです。縦走中に見る土橋状や平坦地も自然地形の様です。
法光寺山城・主尾根北郭部の低土塁を持つ小曲輪

其の三・法光寺第一砦は法光寺山へと縦走尾根を進めば最も遺構が不明瞭な城域として、 段差の多い不整地に気付かなければウッカリ通り過ぎてしまうところです?。しかし三つの法光寺西尾根城砦群では砦というより西八上集落への斜面に幾段も腰曲輪・帯曲輪を連ねて、北方の篠山川側を望む陣城の様相です。浅く短いが二本の凹角状が並んで竪堀 ?を思わせるものもありました。其のW主尾根に出ていよいよ 主要部の法光寺城域に入ります。尾根を北に採って法光寺山城主郭に向い城域に入ると、早速狭い尾根上に低土塁付きの小さな曲輪を越えてヤッと山城の雰囲気です。
法光寺第一砦/西尾根東部の東側曲輪角に低土塁?

樹間からは八上城の高城山が大きく高く其の山頂を見せてきます。法光寺山三角点石標柱が埋まる側には以前訪れた時にも有った軒丸瓦が割られずそのまま置かれています。 場所は異なるが廃寺・法光寺の遺物だろうか?それとも現在の物!!?。 稲荷神社の背後・尾根の北端の曲輪群は奥谷川沿い殿町入口にあって其の見張り所だったようです。稲荷神社側へ降りず尾根筋に沿って急斜面を降った所に 小さな祠が石壇上に祀られている。木簡が収めてありxxx守xxxと記されている様だが文字が滲み・消えかかって見辛い上に老眼なので目を凝らしても読み取れない …大事な手懸かりなのに残念です。
法光寺山城・主尾根主郭南端の低土塁を持つ小曲輪

二代目城主 ・波多野秀忠の弟!秀親(次郎)のことか(秀忠の子元秀とも!!)?法光寺山合戦で永禄2年12月(1559)波多野次郎が丹波八木城主内藤宗勝(松永久秀の弟・長瀬 )より感状を受けているので三好長慶の八上城攻めに加わり、一時期八上城を占拠した内藤氏傘下にいた数掛山城(本梅城主)の波多野与兵衛尉秀親が法光寺山城に拠っていたのでしょう。 この時・既に八上城の向城としても利用されたようです。秀親は翌・永禄3年宇治川の戦いで戦死しています。その後・永禄8年(1565)黒井城主赤井直正との合戦で 内藤宗勝が討死し、
法光寺山城・主尾根主郭から東に延びる小曲輪

翌永禄9年・波多野秀治が八上城を奪還し程なくして家督を継いだと思われ織田信長に太刀 ・馬を贈り永禄11年(1568)信長の上洛の際には従属し、内藤氏に替わり再び丹波守護となったが天正期に入り、信長に叛し丹波最大の合戦にして最大の悲劇の落城物語が生まれます。猪垣の中の小場の祀られているのは、血族で有りながら敵対した波多野秀親 (次郎)なのか!?トタンの猪垣を越えて田圃のぬかるんだ畔を抜けR372号線に出ると稲荷神社の鳥居側まで30m程の所でした。奥谷城(蕪丸)に続いて、この法光寺山城についても国指定の申請を受ける為に詳細な遺構調査がされているので、より探求される方は 調査書等で研究してください。


奥谷城(蕪丸城) xxx 280m  篠山市殿町字テバケ谷坪

篠山市の指定史跡 (平成6年5月20日)となった八上城の前身・蕪丸(奥谷城)へは、山行ついでに何時か寄ろうと思っていたが松茸山の止山として入山出来なくなる前の 9月中頃に訪れ、法光寺山城の尾根(4ヶ所程に城砦遺構が残る)を巡った後で八上城下の殿町へ下り向かう。重兵衛茶屋を南へ奥谷川を挟むように、
蕪丸・本郭部西面の虎口・斜め下方の腰曲輪を経て登山口へ

東に高城山・西に法光寺山の小山塊が南北に延び、裾野に拡がる長閑な田園風景の中の集落が殿町です。 八上古城ともいえる蕪丸(奥谷城)は鞍部の岩を穿ってまでも、 苦労した大堀切や深い竪堀で防備を堅めています。まるで八上側から尾根通しに来る敵の防御のようだが!大堀切で遮断された南側の尾根先端部にかけてが城域で西側下方に居館があり、集落車道に出る北側には東仙寺川に繋がった堀跡が発見されています。 やがて波多野氏の勢力拡大に伴って 八上城へと城塞化し家臣団の居住区も殿町の右岸(高城山側)に点在していたのでしょう。 幕府の管領・細川勝元に従って応仁の乱に各地で戦功を挙げた波多野秀国?(清秀)が智頭と八上両郡を領していた。
蕪丸・本郭部北には深く長い竪堀が左右にある

細川政元の代【実権を握った明応2年(1493)〜香西元長らに討たれた永正4年(1507)迄】永正年代以前!!に多紀郡(篠山市)を与えられ、因幡(鳥取)国八上郡より丹波に来住した波多野経基 ?(別名・秀長)<元清か>蕪丸(奥谷城)を築き、その子丹波守護の秀忠(秀範・10代将軍足利義稙から一字を賜って稙通とも称した )が永正年間(1504-21)に高城山(朝路山・浅路山)に高城を築き3代元秀(秀治の義父)、4代秀治(元秀の養子)因幡の八上の名を採って八上城と呼んだとされます。
蕪丸・八上城への尾根を遮断する大堀切は

【注】八上の波多野氏は因幡ではなく石見国からの来住で、石見源氏吉見氏が細川勝元に仕え、主命により吉見氏は母方の波多野の姓を名乗った。 波多野氏は代々周防の大内氏の家臣だったとされます。その子秀経(別名=元秀・晴秀・細川晴元から一字を賜り晴通と称した)には子が無く因幡・波多野秀行(別名=清秀)の子・千勝丸を養子に迎えたのが後の八上城主・秀治です。文18年(1549)頃には 三好長慶との抗戦が続き、長慶に敗れた細川晴元が将軍義晴を擁して一時・此処に難を逃れた事も有り、翌天文19年から 長慶は数度に渡って八上城を攻撃しています。 以前に蕪丸の場所もよくは知らず山容を見ながら奥谷川に沿って進み○○金属工業から地蔵堂の先へ延びる林道を採って、高城山妙見道場前から終点まで行った事があった。
蕪丸・八上城への尾根を遮断する大堀切は

此処は不動尊の修行滝場で行き止まり、此れより先に道無く引き返したが、途中で見かけた数段の広い削平地は家臣団の屋敷跡ではなかったか ?…とも思える箇所がありました。今回は間違いようも無い”蕪丸城”案内板からの急斜面を直登すると小広い腰曲輪に着く。見上げる程に高い6m程の切岸は低い丘城と見くびれない?。上部が主郭へは登ってきた西側からも斜上して土塁虎口から入る ルートもある様だが!!?。 波多野氏は元秀・秀範(別名:秀忠<秀治の義父 >)・晴通<秀治の父 >・秀治と続き八上城を本拠城として活躍します。奥谷川沿いに拡がる殿町は当時・城下町を形成しており、朝路山 (高城山462m)の南西へと派生した尾根の先端に築かれた蕪丸(奥谷城)は秀長・秀範(別名・秀忠)ら波多野氏の居館を西斜面に造成しているが 急斜面途中にあって幅広の斜上土塁道と驚く程に広い 居住空間が其処には有りました。
蕪丸・竪堀

山頂部を詰城とした東西150m・南北150mの城域に 高い切岸を持つ曲輪、大きく深い竪堀と堀切。主郭部南東には登るに難い急斜面に数本の畝状竪堀を備えて防備され虎口の状態等遺構の保存状態も先ずは 良好に残っています。平成8年に道路改良工事に伴う 発掘調査がなされ城の大手虎口付近で幅約10mの水濠遺構が発見され、八上城側の堀切と奥谷川支流東仙寺川【上流の旧東仙寺は波多野氏の菩提寺で本堂跡等が残る】を取り入れ、さらに人工的な水濠によって城郭の防御が固められていた状況が明らかになったとされます。また城下町を守るため奥谷川を挟んで西側に八上城と対峙する 丘陵上にあった法光寺(廃寺)の寺域を城郭化した法光寺城があり八上城・蕪丸城が連繋して三位一体となった防御体制を固めていたのでしょう。
蕪丸・本郭部北の尾根左右には長大な竪堀が

殿町集落内の道は狭く駐車場所に困るが蕪丸城の案内板まで50mと離れていない松谷寺前の殿町公民館駐車場を利用されるのがいいでしょう。 八上城築城当初の大手道は此の蕪丸の堀切道から尾根通しに通じて いたと思われ其の後・街道筋の重兵衛茶屋側から鴻の巣〜上の茶屋丸〜右衛門丸に変わったと思えます。 尾根筋は朝路池西上部の大堀切から3〜4段の曲輪(池の西番所!)を経て岡田丸南端のハイキング道に飛び出しますが、此の曲輪群以外に曲輪遺構は無さそうです。
蕪丸からの尾根筋は朝路池に落ち込む堀切を 主郭に通じる

このコースでは一本は尾根を土橋状にした竪堀らしいものが二本、番所の下方には広い谷が出会う鞍部に自然地形の平坦地が拡がっています。 明確な踏み跡は朝路池側の尾根筋に有り、堀切の有る西の番所曲輪群の尾根に出ますが、私の辿った左手直進尾根筋は此の大堀切上部の急斜面を堀切沿いに番所の広く長い曲輪に出ます。曲輪の切岸は各 2〜3mあり帯曲輪もある。 曲輪群の北端からは藪だったが直ぐ本郭部の高い切岸に突き当たり、捲こうとしたら本ノ丸の見える岡田丸南端のハイキング道の階段が其処にあった。
(現地 篠山市教育委員会説明版H9年3月 等参照)


般若寺城   井根山Ca255m  篠山市般若寺字井根山

372号線の八上ふるさと館から 北に進み篠山川沿いに702号線を東へ向うと畑川との合流地点北に低い丘陵があり、南山裾に蓮法山正覚寺(浄土宗)があリます。此処は八上城主・波多野秀治が八上城の鬼門除けの祈願所とする為、奈良・般若寺から僧を招いて建立した大松山般若寺(天台宗)があったので其の地名が 残っています。天正6年(1578)明智光秀が西に畑川が流れ南には 篠山川を挟んで目前に八上城と対峙する 此の正覚寺背後の低山に、八上城を包囲攻撃する為、向城を築き本陣としたのが般若寺城です。
篠山川支流・畑川合流付近から般若寺城遠望

車一車線の狭い道の突き当たりが正覚寺で茅葺屋根の門が印象的ですが、寺の横が幼稚園で山門前に送迎バスが止っているので門の様子は窺がえなかった。 幼稚園の横から寺の裏へ道を辿る。一列に並んだ墓地の前からは茅葺屋根の寺と庭と茶室を前景にした高城山が望まれます。山道はそのまま寺の方へ下ってしまい 藪を突いて尾根筋へ抜けると 踏み跡が現れたがこの道も尾根沿いに西の谷へ下っていくようで、
正覚城主庭園と八上城遠望

益々繁茂する潅木と藪を漕いで溝(堀切だったか!!)を越すと 頂上部の削平地に出るが藪で周囲はおろか、足下もよく確認出来ません。そのまま東端の曲輪に到着します。平坦な山頂部も藪っぽいが一部分が少し盛土された高台になっていて、 その先・東北側は深く急斜面になっています。樹木に囲まれ展望はないが僅かに望む高城山は本丸が目前に見え、 八上城攻略には最適在の向城として陣城として、監視位置にあった般若寺背山の山頂に「丹波志」等によると350uの主郭が東西に長い平坦地をなし、他に東に二つ、西に一つ、南に二つの曲輪の平坦地があったようです。
般若寺城:西域の広い平坦地と竪堀?

東西に延びた尾根上の堀切!!を越えた中央付近の曲輪が 中心部だったようですが藪で確認も出来ず 比較的遺構が確認出来る東端を本丸と考えていました。また本丸の90メートルほど下に約97平方メートルの屋敷があったことから、般若寺を居館にしていたと考えられます。なお本陣としては正覚寺(旧般若寺)よりは西側の山中・日輪山西方寺跡ではなかったかと思われるのですが!!?。正保3年(1646)に出土した如意輪観音像を祭る観音堂があったといいます。
般若寺城東端の曲輪

般若寺城は明智治右衛門が城将となり、前方の道路を遮断するなど包囲作戦の拠点となっていたといわれます。 明智光秀の丹波攻め・八上城攻略の陣城となった般若寺は天正7年(1579)焼失して、その跡に江戸時代初期・寛永元年(1624)3月に正覚寺(本尊・阿弥陀如来立像)が創建されました。 その後、度々火災に遭って昔の面影はありませんが、連珠庵(茶室)や龍珠庭(庭園)が有り「十六善神画像(篠山市指定)」も知られます。
「丹波篠山五十三次ガイド」及び現地案内板より


【勝山城・塚ノ山砦・野間砦】八上城の真北・篠山川を挟んで対峙する明智軍の向城

八上城の 主郭を後にして主膳屋敷(波多野氏の八上城落城後の八上城主・前田主膳)へと西尾根を降り始めると、上の茶屋丸辺りから中ノ壇〜下の茶屋丸のかけて尾根上から 樹間越しに北方を望むと「八上ふるさと館」から真直ぐ北へ走る車道が篠山川に架かる弁天橋を渡って直ぐT字辻となって県道702号線に合流しますが、
野間砦(左端)・塚ノ山砦(中央)・勝山堡は街道並木の陰

この弁天橋の北詰めの左右と其の西方に小丘陵が並んで見えています。東側はゴルフ場で倶楽部ハウスの赤い三角屋根が見えるのが勝山堡、 弁天橋の左には車道に面した 南先端が削り取られた丘陵上に塚ノ山砦があり、702号線沿いの西方300mに見える低丘陵が野間砦です。 弁天橋の西下方・奥谷側が篠山川に合流する所、其の中洲には岩盤で周囲をかためた高さ8m程の島が勝山堡と塚ノ山砦の前衛に陣取って、
塚ノ山砦(手前)と中央にゴルフ場センタの見える!勝山堡


八上城に対峙した出曲輪の様で威嚇の鉄砲台としては此れ程の好位置は無いでしょう?。伝承等は有りませんが討って出る力も無い波多野軍に対し、また周辺の波多野氏方の諸城が落とされ 其の後の包囲作戦中ですので、この時期に中州の高台が利用されなかったとは思えません。有事の退却路は浅い滝場に板橋を渡せば直ぐ後方の砦に戻れます。 この包囲作戦中の天正6年(1578)西部の大山城(中澤氏)・吹城(井関氏)・味間北城(安村氏か谷後氏!)等を落とし、9月には氷上郡(丹波市)の黒井城と多紀郡(篠山市)の八上城を分断する拠点として金山城が築かれます。
勝山堡の最南端の藪の中に残る急斜面上の低土塁跡?

この島は”猿ヶ島”と呼ばれ篠山藩主・松平氏が五穀豊穣を祈願して厳島神社を創建し 水害の被害から守り・雨乞いの霊地として弁財天も祀られ野間地区の鎮守の森として親しまれています。此の野間地区に残された二つだけの丘陵上には堀切・空掘・曲輪遺構が残る塚ノ山砦と野間砦が有ること、特に野間砦のある丘陵が公園として 整備される計画が有るようですが、城遺構が単に公園として遊歩道や展望広場で破壊される事がないよう、史跡としての理解を部外者としては願うだけです。


勝山城(勝山堡)(縄張遺構は壊滅の為写真無)  牢山(点名:東勝山) 245m   篠山市和田字東勝山

篠山川を挟んで対峙する和田地区の西南にある小高い独立丘陵は、波多野氏が勢力を張っていた大永・享禄 ・天文〜元亀・天正5年(1521-1577)頃まで?、罪人を入れる牢獄が在った所から牢山と呼ばれていた所で此処に明智光秀が向城(陣城)を築きます。秀吉の三木城同様に光秀の八上城攻めに於いても兵糧・連絡手段を断つ為に 多くの向城を築いての 包囲作戦で取囲みます。
勝山堡の主郭部はゴルフ倶楽部跡

前年・天正5年10月には籾井城・安口城を始め多くの波多野氏勢の諸城は 明智の圧倒的な大軍の前に攻め落とされていきます。八上城を正面に望む県道702号線・篠山川沿い、北岸には”丹波攻め”八上城攻略の為に明 智光秀が天正6年(1578)般若寺城・鉄砲山砦・宮山砦・ 大上西ノ山城・大上東平城・勝山堡・塚ノ山砦・野間砦等の向城が横一列に並び数箇所に設けられました。勝山堡も此れ等向城の一つで、明智方が戦勝の名を残す為に ”勝山”と名付けたといわれ、
勝山堡遠景:丘陵中程にある主郭の倶楽部ハウス

南北200mに及ぶ連郭の城だったと言うのですが、大渕館(お土居)や大上西ノ山城に向かう東側の車道から、西方に横たわる丘陵のシルエットを見て想像するだけです。青山台ゴルフ場の倶楽部ハウス付近が主郭部らしいが、 縄張りを想定する事も出来ない程に破壊されています。しかしゲート!から倶楽部ハウスまでの坂道には植林用でも拡張工事によるものでも無さそうな高い切岸を見せる段差あり、広い駐車場の更に南:雑木と猛烈な竹藪の 南端に踏み込むと、 車道から見たと変わらない激急斜面上、八上城を正面に睨む勝山堡の最前線部には一部丁字状の低土塁が捲いています。ゴルフ場工事の残土なのかなア?。


塚ノ山砦   塚ノ山(西勝山) Ca245m   篠山市野間字塚ノ山

篠山川に架かる弁天橋を渡った北詰めは県道702号線の三叉路で、右手がゴルフ場への入口で案内板が 立つ。このゴルフ場が光秀の陣城”勝山堡”ですが城の縄張遺構は壊滅しているので、 其の直ぐ西150m程の谷を挟んだ左手の丘陵に向う。丘陵の南先端部県道側が断崖状に削られた西勝山とも呼べる塚ノ山砦を探索してみます。
塚ノ山砦・南の空堀から八上城を望む

野間地区の町界尾根を成す比高30m程の低丘陵は南北約100m・東西30m程の削平された尾根上に、主郭部の南北を二本の空掘で区分し主郭部中央付近には浅い堀切なのか?低い段差をもって、もう一段の曲輪を分けているようです。
塚ノ山砦の主郭部の円形マウンド・北の空掘側から
その上段最高所の曲輪には高さ約1.5mx10u程の台地の上部は、古墳の墳丘を利用した円形マウンドで、北側にも空掘りを隔てて自然地形の台地があり二個の円墳があるが、 其の先はフエンスが張られたゴルフ場のグリーンです。防波堤の様に野間集落へのゴルフボールの 飛弾避けとして僅かに残された様な低丘陵です。尾根上一直線に曲輪を並べた 単純構造だが曲輪の削平状態や空掘も良好に残ります。
塚ノ山砦・南の空堀

登城道になったと思える西側・民家横の畑地の直ぐ上から緩いカーブを描き尾根上へ掘り切られた空掘道を伝って、尾根上部の堀切南側の土塁を越えて崖上に出ます。 空掘の南側が城域先端部で、いまでは道路拡張工事で 殆ど削り取られ、断崖となって其の先に消え下方には県道が走っています。堀切の土塁のような土盛状に残っている尾根端からは篠山川を挟んだ南側正面に八上城を望み、
塚ノ山砦・主郭部の円形マウンドから南側の曲輪

般若寺城から2〜300m間隔で横一列に並ぶ勝山・塚ノ山・野間等の光秀の八上城包囲の付城が城郭ラインを形成して 篠山川を挟んで対峙した様相が窺われます。持ち山の民家の主人も・此処に広い曲輪の有った事を話してくれましたが、今は土塁状の尾根先から下方に車道を望む断崖と急斜面の空中に消えた遺構を想像するだけ。JR篠山口駅近くにも・宅地と道路拡張で、 其の城域を空中に消滅させられた佐幾山城があります。


野間砦  井根山 Ca220m   篠山市野間字井根山

塚ノ山砦から篠山川沿いに直進する702号を西へ300m程進むと野間バス停があり、北側の民家裏に比高20mばかりの丘が見えます。 野間地区内にある二つの独立低丘陵上には、其々に古墳があり、墳丘のマウンドを利用した砦跡が残ります。一つは先程訪れた塚ノ山砦で、そして此処・野間砦です。 どちらの砦も丘陵上の曲輪群を二本の空掘によって主郭部や南北の曲輪を分ける二重構造になっており曲輪の削平状態も良好に残ります。
野間砦・北郭の曲輪と空堀

野間砦の西1.5kmには波多野七頭の小林重範の沢田城があるので、八上城攻略の陣城として 明智光秀が野間砦を築いたのは天正6年(1578)初め・沢田城を攻め落とした後、塚ノ山砦や勝山堡・般若寺城・ 大上西ノ山城等、篠山川沿いにも八上城の包囲 ・攻城網を形成していきます。篠山市では各地区単位でも”ふるさと創生開発”の計画があり、野間地区にも此の野間砦のある小丘陵を公園化する計画が有るようです。
野間砦・南郭から北側の空掘


この日・取付き点の玉照院では野間地区の 集会が有って多くの奇異の目が集中します。地元の方も此処が城砦だった認識は無さそうです。地区内の人気のスポット篠山川中州の厳島神社と共に、 八上城を攻めた敵将:光秀の陣城では有っても明確に遺構の残る歴史遺産です。野間地区の二つの丘陵はどちらも古墳”塚ノ山”としては知られる様ですが城砦があった史跡としても、遺構が遊歩道や公園広場の整備で破壊されてしまう事が無いよう願うだけです。 とはいっても現状では中央の空堀から南側は雑木と倒木や下草が繁茂して足元も見えない状況です。
野間砦北郭・東南へ土塁付きの空堀

取付きは判らなかったが玉照院という寺の小堂裏から、藪の急斜面に取付いたが、空掘の直ぐ南側横の土塁沿いを登ったようで、城域の粗中央部の南曲輪群最高所に立った。八上城の向城なら先ずは高城山の 見える位置へと思い、南下へ細長い尾根上に延びる曲輪を進む。東下にも2段ばかり、帯曲輪が並行しているようですが 南へも東下へも段々と先へは進み辛くなる…というか進んでみても 足元も見えないのでは 何も確認出来ません。
野間砦跡と八上城の遠望


朽ちた倒木や下草で埋るの足元には、春を待ちわびていた”長い生き物”がいる予感がする。中央部の空掘まで引き返して北側の曲輪へ進むと幅は約2m程で狭いが明確な堀が西と東南方向に二本延びる。此処からは自然地形の台地に塚ノ山砦同様に円墳のマウンドが二つ程あり、 緩やかな傾斜を集落内の車道に降りる。南北200m程の独立した丘稜上を半周して玉照院へ戻る途中、砦の南端部から八上城のある高城山が美しい丹波冨士の山容を見せてくれます。


篠山城(桐ヶ城)   笹山(鳳龍山) xxxm   篠山市北新町    国史跡指定昭和31年(1956)12月28日

デカンショ節で馴染みの丹波篠山は最初の一節が酒造り、 灘五郷や伊丹へ出稼ぎした丹波杜氏の郷として有名だが「…山家の猿が…」の節と相俟って山々に囲まれて鄙びた田舎の イメージがついて廻る。しかし鵯越えの奇襲に繋がる三草山を経て須磨一の谷へ急いだ源義経が通った京街道、南北朝期には足利尊氏が旧山陰街道や播磨街道を、
篠山城・北廊下門

戦国期には明智光秀が幾度と無く縦横に走る多くの街道筋を通過している。京都から播磨へ、摂津から丹波・但馬へと通じる丹波の街道は古くより商業 ・文化・軍事の交差する十字路は交通の要衝でも有りました。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で 天下の実権を握った徳川家康にとって、降伏したとはいえ元々豊臣方の家臣だった大名達の動向や、
篠山城・大書院と城主居館跡


豊臣方の残る大阪城(秀吉の子・秀頼や淀君)に対する牽制と、その包囲態勢を整える為に名古屋・彦根 ・膳所・丹波亀山・伊賀上野・越後高田等の諸城の修築するとともに京都から山陰・山陽・大坂へと通じる交通の要衝にあった 篠山に西国の外様大名を牽制する(特に山陰方面の守り)抑えの拠点とします。慶長13年(1608)江戸幕府を開いた家康は実子松平康重
篠山城・埋門

常陸国(茨城県)笠間城から波多野秀治の城だった丹波八上城へ転封を命じますが時代遅れの山城ですので、篠山盆地中央部に位置する王地山・篠山・ 飛ノ山を候補に検討の結果「笹山」と呼ばれた小丘を利用して築城させた平山城は、八上城波多野氏配下の篠山利右衛門が守備する篠山砦が在った所です。普請奉行に姫路城主:池田輝政を命じ、縄張りは藤堂高虎を起用し豊臣恩顧の西国大名【福島正則 (広島)、毛利輝元(山口)、浅野幸長(和歌山)、山内康豊(高知)、蜂須賀至鎮(徳島)、 加藤嘉明(愛媛)】等約15ヶ国
篠山城・東馬出


・23の西国諸大名に賦役する天下普請で着手され翌:慶長14年(1609)9月頃には 石垣の本体がほぼ完成し同年12月、松平康重が初代の城主として入城します。築城の採石は市内・近在から搬送されました栗栖野に残石公園があるので紹介します。城の工事はその後約1年続き、町並みの整備も進められていきました。縄張りは環郭式を基本とするもので、 高石垣で囲まれた本丸と二の丸を中心に犬走りと内濠及び三の丸,外濠の順に方形に配置され
屏風折れ塀が続いた南門付近から 南馬出を望む

大手と南・東の3ヶ所に馬出が設けられ外濠周辺には家臣の屋敷が配置され、今の西側のお徒士町に武家屋敷群が残ります。天守台も築かれていますが城の完成を急いだ事、実戦向きの城とする 事で天守閣は建てられていません。築城から5年後の慶長19年(1614)大阪城冬の陣、翌慶長20年夏の陣では初代城主 ・松平康重は篠山城から大阪城攻めに出陣しています。
篠山城・南馬出の土塁

城主は初代を(松井)松平康重が1代務め元和5年 (1619)に和泉岸和田に移され上野高崎より(藤井)松平信吉が入封して2代(形原)松平氏5代を経て寛延元年 (1748)に丹波亀山より青山忠朝が入封し6代に渡って譜代大名がつとめていた。慶応4年(1868)最後の城主・ 青山忠敏は無血開城し明治維新を迎えています。石高は当初から5万石であったが第12代篠山城主青山忠裕が老中を30年間努めた功により 文政10年(1827)1万石を加増され以後6万石となっている廃藩後、城の建物は大書院を残して一部の門が移築された他はすべて取り壊された。
北堀を隔て篠山城大手門正面に位置していた大手馬出の土塁(田園ホール側)

大書院は学校や公会堂として使われていたそうですが昭和19年 (1944)1月に火の不始末から焼失し,城の建物はまったくなくなってしまったが、平成12年 (2000)4月1日完成した大書院は二条城の大二の丸御殿を参考にしながら再建されました。
「丹波篠山五十三次ガイド・郷土の城ものがたり丹有編」等参行


篠山藩御下屋敷   篠山市山内町75

篠山城登城口の大手門から北へ350m程に「大手坂」の標石柱が立ち、左手上方に兵庫医科大学篠山病院が見えます。敷地の南西の樹木が鬱蒼と茂る小丘の頂には御下屋敷青山稲荷神社が建ち、祭神に倉稲魂命が祀られています。流石に「負け嫌い稲荷」伝説の 青山様の稲荷社なので!立派な土俵があります。篠山藩9代目(青山氏初代)の藩主青山因幡守忠朝が移封された寛延2年(1749)以後代々青山氏が此れを祀ってきました。…が此処が慶安2年(1649)播磨明石藩7万石に加増され転封された藩主:松平山城守忠国が初代(藤井)松平信吉(父)の死去により篠山藩5万石を継ぎ元和6年 (1620)篠山藩3代目(藤井)松平2代目として藩主になり、寛永元年(1624〜)より築造された篠山藩御下屋敷(別邸)の敷地です。
流石に青山稲荷・立派な土俵が有る!

忠国は城下町の整備・社寺を尊崇し、能や茶道等の発達にも尽し此処に下屋敷を築造します。池泉に築山を伴う庭園施設を主体にした荘地遺構で、居住を目的とした御殿等の建物は無かったようです。跡地の大部分は病院敷地に含まれており、平成9年頃〜より外来診療棟、研修医棟・看護婦宿舎の建築工事の為、発掘調査が実施されました。庭園築山の遺構として青山稲荷神社が昔の原形を残すだけだが病院敷地西端の道沿いの溝・福祉施設北側の土塁囲み状のゲートボール場?・東側の大駐車場南側に高い段差の数段の曲輪台地も山王社や秋葉社が祀られていた遺構なのか?。
池に架かる橋の石垣遺構

昭和6年作成!?の丹波国篠山御城図の御下屋敷の資料からは、 東西約150m・南北約160mの敷地内に庭園や楼閣建築・稽古場・茶園・山王社等の施設が 存在していたと推察されています。絵図の池と見られる位置から池跡が発見され絵図の記載が裏付けられています。池跡は東西約15m・南北約70m・深いところでは1.5m以上あり、稲荷社が建てられている築山から見下ろした景観は素晴らしかったと思われます。 発掘調査では池の中に石垣遺構が有って稲荷神社西側の研修医棟側に、石垣遺構が移設され表面表示(復元)されています。橋の石垣の遺構(幅7m・高さ2m)は、東と西の石垣の間の幅約11mに橋脚無しで架けられていた様です。池の底には大量の石が敷き詰められた立派なもので、御下屋敷に関する記録に『高楼を架し…』とあって、 橋の真ん中に櫓のような展望台があったのではないかと推定されていますが、家形の屋根が付き ・池に迫出すように床机(ベンチ)が備えられていたのでは(^^ゞ・・・?
北東側からほぼ全景(右奥が青山稲荷)

石材には刻印のあるものも有り篠山城の石垣用残石か、 領内切出し場の残石を利用された様です。御下屋敷内には山内窯(藩主の好みによる茶碗類等、 丹波焼系の陶器が焼かれたと云う)が築かれ、他に青磁や江戸時代初期〜末期の丹波焼・志野焼・王子山焼等が出土していますので、忠国以後も寛文年間7代藩主:松平信庸が茶の湯の為に、直ぐ近場に玉水(上記・特別記を参照ください )施設が造られますが、青山氏に代わった後も、窯や茶園・庭園施設は茶会や諸行事に使用されていたのでしょう。慶安2年(1649)篠山藩3代藩主・松平忠国が、明石に転封の際に春日神社へ奉納した 黒神馬の絵馬は良く知られています。忠国の後:高槻城主(形原)松平康信が4代藩主として入部します。
(現地 御下屋敷跡平成11年案内板 及び篠山町教育委員会の 御下屋敷報告書1998年3月を参照)
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