隠れ富士と古城 飛曾山~丈山~弥十郎ヶ嶽~北峰/淀山城/平内丸/東山城
飛曾山~丈山~弥十郎ヶ嶽~弥十郎北峰~辻地区~淀山城 2001年12月23日
近畿の山城 :淀山城 東山城 畑市城(平内丸) 南山城 向井山館
ふるさと富士: 辻富士(飛曾山) ふるさと兵庫の50山 : 弥十郎ヶ嶽
校歌・故郷の山 :♪ 弥十郎はるか夢呼ぼう…♪日置小学校
突然霧が晴れた青空に浮かぶ辻富士(飛曾山)

もうAM10:00前なのに市街地は未だ白い霧に包まれたまま。デカンショ節の一節にある♪…丹波篠 山山奥なれど霧の降るときゃ海の底…♪状態でフォッグランプやスモールライトの点灯が必要。 城下町篠山で霧の山城をイメージすると井上靖戦国無頼の一節を思い出す。その見るからに峻険な山の城砦が八上城であろうと
弥十郎ヶ嶽北峰から山頂を望むH16.12.23

思ったとき河原の上に棒立ちになった。なんと美しい山、なんと美しい城だろうと思った。蒼く澄み切った丹波の空を背景にして、しいんとした静かな、どこか淋しいところのある風景だった。福住に向って走るR372線(京街道・デカンショ街道)の八上山(高城)の麓を通る頃には空の明るさが感じられて青空が見え始める。波々伯部神社前からは突然霧が晴れ拡がる青空の隙間に浮かぶ辻富士(飛曾山)から弥十郎ヶ嶽へのコースに決めた!!単独行の気楽さと即決ですが、さて取付・辿るコースも未知で、登山道どころか踏み跡状況も不明。
南山城主郭の土塁端に散在する石積・中程には建物礎石も・・!!

R372号線辻集落北に見える小山が淀山城、南方へは四本杉標識のある分岐で集落内南の山間に向かって進む。幹の途中から4本に分かれて延びる大杉で神木として親しまれ篠山市の郷土記念物にもなっています。 国道は直ぐ先で福住・小野の間の飛曾山峠を越える。峠とも思えないようなところだがドライブイン「飛曾山」の跡地があり・辻の分岐が判らず通過して此処まで引返したが恒例の篠山ABCマラソンコースにあたり走者にとっては難所のようです。


飛曾山663m~丈山701m~弥十郎ヶ嶽715m~弥十郎北峰~辻・淀山城
  2001.12月.23日

篠山側からは畑市の薬師ヶ原キャンプ場経由で洞窟の横を抜けて弥十郎ヶ嶽へのコースが一般的だが辻集落から正面に富士形の秀麗な姿を青空に浮かび上がらせた飛曾山(辻富士)への新コース?に向かう。最奥の民家近くには「四本杉」の案内板があり 右手に林道が延びているよう。直進する林道も直ぐ猪除けのゲート(AM10:30)。
飛曾山の展望岩から丈山北峰と丈山

此処に後ろの荷台に四角い檻を積んだバンが一台・嫌な予感!!・此処弥十郎ヶ嶽の裾野を走る県道12号線には猪村や猪狩り専用の猟犬訓練所があるくらいなので周辺に出没するハンターの銃声は鳥類用のパーン…ではなく獣用のズドーンでしょうね。ガードレールのある橋を渡った所に駐車スペースが有るが 林道はなおも奥に延びていき、橋の少し先の左手に山道が飛曾山の肩に直接取り付けそうなので此の山道を辿ってみるが、明確なのは石積み〈炭焼窯ではなかったが?>迄であとは踏み跡程度の雑木林に入り込むが疎林で藪もないので直登する。

淀山城:西帯曲輪から本丸の切岸を見る H18.03.25


何処を辿ってきたのか赤い古いテープを見かけ尾根を辿り2つのテーブル状岩の展望台に出た。「妻恋地蔵」さん【低山趣味】の周辺概略図を後で見るとながい谷を詰めた様です?。したこ谷を詰め上がると点名飛曾(479m 4等)だが既に通り越す!。此処からは化粧の上手くのらない顔を(雪化粧)見せて丈山北峰(北中山)が正面に大きく突っ立ち奥に丈山・東に弥十郎ヶ嶽が緩やかな稜線を見せる。展望岩のホンの直ぐ先が飛曾山(富士 663m)だが展望に乏しく何の変哲もない場所。尾根道は明確だが段々笹薮を突いて進むようになる。
淀山城:東面の井戸(中央左)曲輪 H18.03.25

笹に積もる重い湿った雪は直ぐ水になって沁みこんでくる。緩やかな雑木の広い尾根が続くので気付かずに通り過ぎたが、同じ様な傾斜で左右にのびる尾根もあって右の尾根へも行けそうだが踏跡はない。よそ見してたらルートを踏み外しそうな分岐のピークがシドロ北峰723mだったよう?。テープがなければ行き過ぎてしまいそうな平坦な雑木林の中に丈山北峰(北中山・シドロ大丸726m)の関西独標会山名プレートが掛かる周回の最高峰。大峠に出ると農文塾からの登山道と合流・案内板も有って5分程で分岐道。小さく丈山を示す標識もあり右に弥十郎ヶ嶽へのハイキング道を見送って直進・丈山に向かう。
境界尾根・丈山北峰付近

直ぐに右下から林道??ほどの広い道が上がっくる車道林道だったようだが随分と荒れて途中大きく道が崩れている 箇所もありますが辻川上流から続く簡易舗装道路が見えるので、どうやら其れに繋がっているよう。なおも進めば鞍部から籠坊温泉へ降るようだが此方は未確認。直ぐに広い平坦地に出ます。どうやら此処まで続く林道だったようですが中洲のように中央付近に杉木が生えています。平坦地の先から細い道が植林の中に延びており一本道を進んで樹林のなか展望もなく暗く、先へ進むべき道もない丈山(浄仙山 701m)に到着。
四本杉分岐付近からの辻富士(飛曾山)


元来た標識のある分岐まで引返して弥十郎ヶ嶽への縦走コースです流石、温泉地を控えた人気の山で籠坊温泉からの”みなの沢”(分岐PM12:15)を過ぎると途端に何組ものハイカーとすれ違い「ハハカベ山」の石標を見る。山頂を示す標ではなく、この地の豪族・波々伯部(ほおかべ)氏の領有山域を示すもの。弥十郎ヶ嶽付近には八上山石標もある。縦走尾根は90度近く方向を変える箇所があり整備された道と道標で事なきを得て後川上林道~竹谷コースと合流すると山頂までは僅かの距離です。弥十郎ヶ嶽山頂(715m 2等三角点)は西北面に開けて整った山容を見せる高城山や盃ヶ岳、消えかかる霧を抱いてその上に稜線を見せる多紀アルプスの峰は雄々しく雄大に見えます。
辻集落から望む東山城

松尾~白髪岳から太平三山の三国~愛宕山、風もなく展望も上々だがまたしても…バッテリー切れ …山頂の北側から最近建てられた畑市への道標に従って下るが途中藪に消える尾根通しの細道に入ります。畑市を示す道標がありハイキング道は山嵩(さんか)弥十郎洞窟を経て薬師ノ原キャンプ場へ降りるコース。完全防備しないと雪でズブ濡れの藪道を辿るが背後の弥十郎が良い感じの山容を見せてくる。僅かな藪漕ぎ状態を脱すると杉や松の植林帯の緩やかな尾根道になり平坦な高地の弥十郎ヶ嶽北峰(PM13:00)に到着。雪道で山道は分かり辛く573mピーク側に進んでいたようです。直ぐ下方では鈴の音が聞こえ、人の気配が感じられる…猪狩りにハンターが数人+数匹 …入り込んでいるようです。
弥十郎ヶ嶽山頂
H16.12.23

コースを真北の尾根に採っているようなので軌道修正で東への谷に下りながらも迂回するようにトラバースを繰り返し2~3の枝尾根を越して主尾根?に出ると踏み跡も現われるが、尾根道よりも歩き易い!?東へ直線的に降りる急斜面の切り開き!!があり一気に下って、何と朝の取り付き点近くの林道の橋の30m程手前に降り立った(PM13:40)。林道続く辻川と梅ノ木谷の間の尾根を下ってきたことになる。このレポートも「妻恋地蔵」さん作成の概略地図を見ながら書いているがガイドブックも要らないほど詳細な作図なので利用させて戴きます。


淀山城東山城 畑市城(平内丸) 南山城 向井山館


淀山城(波々伯部城)  淀山302m  篠山市辻字淀山

八上城からデカンショ街道(京街道・篠山街道)を東へ約4km程のところ、波々伯部神社を過ぎると東南に秀麗な山容の辻富士(飛曾山)が見えてくる。此処・辻集落の北方の貯水池の横に小山302mが見える。貯水池から溝が山の南面をグルリと囲み環濠になっています。
国道372号・辻から淀山城

池が当時から掘りの役目をしていたかどうかは分からないが南北100m、比高40m程の小山には丹波の古い在地豪族波々伯部氏の淀山城がある。低丘陵の三方を東に辻川・西に曽地川・北には大河が流れていることから淀山の名があるとも云う。貯水池の堤防から登り口を捜すが見当らず・干上がった貯水池端から7~8m程先の岩と枯れ木を伝って取り付くと辿れそうな道?があり10分程で主郭に登り着くが、先ずは直ぐに苔むした石組みの井戸が残る曲輪から
淀山城の石組み井戸

3段程の曲輪を越えて高い切岸で防備を固めた本郭部と、北側の雑木藪の中に拡がり続く居住空間と思える 広く長い曲輪間の帯曲輪に出る。此の城域中央部の東下方には長い横堀が有りL字状に繋がって急斜面を真っ直ぐ・深く大きな竪堀となって貯水池側に落ち込んでいます。貯水池を北に廻って北へ延びる尾根の鞍部に出て此処へも踏み跡はあるようです。東へ腰郭が捲いているようですが急斜面を本郭に登りつめると最高所に有る10㎡四方の本丸に着く。
淀山城主郭西の幅狭い帯曲輪?土塁付き横堀か?

主郭には石碑(明治13年8月…19世孫波部xx…建立)が一基残されていて四面に淀山城主の顕彰文が刻まれています。足利尊氏が南北朝期・丹波篠村旗上で元弘3年(1333)以降久下氏(玉巻城)・中澤氏(大山城)・酒井氏(油井城)らと尊氏に属して勢力を延ばしてきた波々伯部次郎左衛門尉為光は源(八幡太郎)義家の四男・義国(新田氏!!)の三男で義安(義房?)の孫房光の後裔といわれます。
淀山城主郭:顕彰碑南側の土塁と南郭

平安末期の治承4年(1180 治承の役)に従軍し宇治川の戦いに戦死したといい其の子・房光は丹波に逃れる。代々足利氏に仕え父子の戦功に建武4年(1337)伯耆国稲光保の地頭職に任ぜられ此処に淀山城を築き波々伯部次郎左衛門尉為光を名乗ります。子の光朝は義満の”明徳の乱”等で軍功を挙げ、一族の光尚は南山城・基継は宮田荘(西紀町)の垣屋城、光久が東山城を築き淀山城支城とし勢力を張り、八上城の東玄関口となる京街道(山陰街道)の守備の任を負っている。
淀山城主郭南:帯曲輪からニノ丸 (祠の礎石が残る)切岸と最奥に主郭

弥十郎ケ岳に畑市城(平内丸)が在り波々伯部平内が居たといい城史不詳だが淀山支城群の一だったのでしょう!!?。応永年間(1394~1428)頃には山名氏や細川氏家臣に組み入れられるが戦国時代・細川氏の勢力が衰退し波多野氏が勢力を伸ばし 八上城を築いた永正5年(1508)頃には波多野氏の麾下に属して其の重臣として七組の一方の旗頭として波々伯部治良左衛門等が活躍する。
三ノ丸東下:横堀 (右)は竪堀(左)とL字状に繋がり東斜面を落ちる

弘治年間(1555-58)頃は波々伯部兵衛の城館ともいわれます。多紀郡を一時期領していた三好氏や丹波守護代:内藤宗勝(松永久秀の弟:長頼)が荻野直正(黒井城)に討たれ翌:永禄9年(1566)多紀の領地を追われていた波多野秀治が三好氏と対抗して八上城を奪還。将軍足利義昭を奉じて上京果たした織田信長が義昭を追放したことにより多くの丹波の諸将は離叛するが此れ等を討つ為・明智光秀の「丹波攻略」が始まった天正年間(1573~1592)の
淀山城主郭側の空堀跡と三ノ丸

城主は六兵衛光吉で天正3年(1575)明智の”丹波攻め”に諸城が次々と落とされ、光吉は八上城に篭城していたが妻の兄荒木山城守らの説得に八上城を退いた。その後:光秀に降伏した波多野兄弟は安土城に送られ信長によって殺害された。兵糧攻めに天正7年(1579)八上城も落ち唯一残っていた氷上郡の黒井城も孤軍奮闘では程なく落城して兵庫丹波の戦国時代を終える。
主郭西側:狭い帯曲輪?の土塁の間にも竪土塁・竪堀が落ちる

寛文4年(1664)に庄屋となり、ついで元禄6年(1694)に大庄屋となって享保16年(1731)には名字帯刀を許された波々伯部光吉は姓を「波部」と改めて帰農、荒木氏とともに八上上町に移り・さらに新町に移って農業と酒造業を営み、大いに繁盛したと云われる。いま:雑木におおわれた淀山城址に登ると、 かつて本丸であった削平地の一角に子孫の手になる波々伯部氏の顕彰碑が立っている。
淀山城:主郭東の竪堀

郭の南切岸上に50~70cm程の低い土塁の残欠が 残ります。南側尾根筋の下段に20m程突き出す様に延びる曲輪には建物の礎石と思える 置石と其れを囲むように、更に長い苔むした石列が残る。参道はない?が淀山城の守護神を祀る祠跡でもあったのでしょう。淀山城同様に京街道に面した波々伯部氏の城が近く(福住)にあり籾井城(丹波の青鬼=籾井越中守教業)が活躍した兵庫丹波の東の入口に当たり、此処は南東側が大手で3~4段の曲輪が急斜面に連続して現われます。
西帯曲輪から主郭の高い切岸(8~10m)

大手口に土塁の残欠・南の2m幅の通路に石積みも残るという!!?。登りに見かけた石組み井戸の北側の曲輪からは 二本の大きな竪堀がある。城の体裁は整えているが所詮は小山の城で長期防衛出来る規模や施設はないが室町時代末期の築城で、改修とすれば周囲・とりわけ東面に5~6本の竪堀や東西に残る横堀・帯曲輪の遺構からして、中々防備の堅固な面を残します。北面の曲輪の平坦な広さや全体に占める割合(1/2以上)からも、
淀山城:三ノ丸北の大堀切

在地支配の"館城"の可能性が強い山城です。波々伯部氏は淀山城を本拠城として京街道を挟んだ南側の弥十郎ヶ嶽から派生する尾根筋に東山城・南山城・平内丸(畑市城)等があり此れ等・波々伯部氏の城砦群が京都・攝津方面から八上城へ入る東玄関口にあって、更に京街道東方の籾井氏の籾井城・安口城らと共に ・重要な要衝を守備しています。
(丹波国八上城遺跡群に関する綜合研究 を参照)

東山城   Ca372m 篠山市辻字谷合

八上城下を東へとR372号・デカンショ街道(京街道・篠山街道)を走り波々伯部神社を過ぎると北方に小さな丘陵が見える。南北朝期・丹波篠村で挙兵した足利尊氏に仕え建武年間に此の地を領した波々伯部次郎左衛門尉為光が築城した 波々伯部氏の本城淀山城です。
辻集落背後に迫る稜上にある東山城

波々伯部氏に限らず京都と但馬山陰の狭間に位置した丹波の豪族達は山名氏・細川氏の勢力争いに翻弄され、細川氏の勢力が衰退し波多野氏が台頭してくると次々と其の傘下に組み入れられていく。重臣として七組の一方の旗頭として波々伯部治良左衛門等が活躍する。南北朝期以後・代々足利氏に仕え勢力を伸ばしてきた波々伯部氏の城砦群は波多野氏の本拠城・八上城の東口の要衝を守備する城砦として淀山城周囲に位置した幾つもの支城を修復されていったのでしょう。淀山城主波々伯部次郎左衛門尉為光の子、
本ノ丸の切岸と虎口・北側の曲輪から

光朝は”明徳の乱”等(1390-94)での軍功によって本城の淀山城の他にも一族は光尚が南山城・基継は宮田荘の垣屋城を築き勢力を張っていました。大永年間(1521-28)頃には 波々伯部次郎左衛門尉光則の支族で民部丞光郷の子兵庫助光興・光久父子が東山城を築いて居城していたとも。此の鶴沢の近くには鎌倉(1185-)~室町・桃山時代にかけて、
東山城本郭の南に連なる曲輪群の一つ

波々伯部氏の来住とも符合して!当領地支配の波々伯部一族の菩提寺ではなかったかと思われる 安養廃寺跡がありました。鶴沢から辻川へ流れ出る辻集落の谷を挟んで 西側の丘陵(淀山城からは南方)の中腹には波々伯部嵐四郎光尚の南山城があり、東側の丘陵には波々伯部光久が東山城を築いて八上城に通じる主要路・京街道の要衝を南北挟む位置に在って波多野氏本城・八上城東口を警固する重要な任務を負っていたと考えられ街道に面して監視出来る城は淀山城の他、西に剛山砦と井上城、東は飛曽山峠を越え福住の籾井城や安口城位か!。
東山城本郭の南虎口付近


この間に波々伯部・荒木・籾井・波多賀須氏等豪族の領地があったが、領地の侵略等争いの史実を知らない。本城の淀山城からは直ぐ南150mに京街道が通じ、南東約500mの丘陵上に東山城が在る。主郭(約40mx30m程 )へは主尾根に続く北方の浅い堀切を越え、高い切岸の2段の曲輪を通り主郭北端部の低土塁で固められた 間の虎口を抜けて曲輪に着く。土塁は底部に土留めらしい石列が見られるが 石積みの少ない丹波の山城では曲輪の端や土塁の内側底部に土留めの石列・石積みが残るのも特異な例なのでしょうか?。
東山城・東曲輪の土塁

10m程の高い切岸を東へ下ると大堀切となり先には6~70m程の平坦地が延びている。東曲輪と大堀切の南東側には 5~7m程の間隔で3本の畝状竪堀が並ぶ。北方の街道筋側は小さな2段の曲輪だけだが反対の南側は 山裾を流れる辻川に向う小尾根に6段の曲輪を階段状に連ねる。縄張りからは、京街道の警備というより 摂津側の篭坊温泉から丈山乗越経由で辻川や飛曽山からの尾根伝いに侵攻してくる敵に対する監視と備えの様です。
同・東曲輪の北側土塁底部の土留石列


南への虎口を抜けると枝尾根上に6段の曲輪が左右に斜上する連絡通路を備えて構築されている。城域も思った以上に広範囲のうえ曲輪と切岸・堀切や畝状竪堀・土塁等防備を固めた縄張りはまとまっています。曲輪群を腰曲輪・帯曲輪で結ぶ構造にはなっていないが全体的には本城の淀山城より大きい様です。以前・遺構を良く観察することがなかった淀山城へは東山城の石垣探索ついでに再訪したいところです。
(丹波国八上城遺跡群に関する綜合研究 を参照)


畑市城(平内丸) 火ともし山 621m  篠山市畑市字平内丸

R372号(京街道・篠山街道)の波々伯部神社少し手前(西)に小さな「薬師野ヶ原キャンプ場」の案内板を見て畑市集落の入っていく。細い地区内の車道は西光寺前を過ぎ、鹿避フェンスを開閉して弥十郎ヶ嶽(715m)への北登山口となる キャンプ場に着きます。高山・弥十郎ヶ嶽から北方に 弥十郎ヶ嶽北峰があり以前は此処に行き着くにも藪がひどくて難渋していましたが、今では北峰山頂から西に延びる尾根を経て畑市へ下る 登山コースが整備されているようです。
平内丸・本ノ丸東側切岸

畑市への案内標識を外れて更に西へ延びる尾根を辿って下り続ける?前方に見えてくる火ともし山(621m)山頂に目指す中世・戦国期の山城跡が在る。何故?こんな高い所にと思われる位置に国境でもなく要衝や間道の街道筋でもない。領地支配の波々伯部氏の”詰め城”なら南山城(波々伯部嵐四郎光尚)や東山城(波々伯部光久)があるのだが!…と思ってしまう。しかしキャンプ場からの登山道が此の城山尾根を越す吹越峠に立ち、登り始めて直ぐ此処には監視の砦が有ったのでは・曲輪や土橋を思わせるところが有る。三田方面からは後川(しつかわ)を曽地へ越え、籠城の八上城へ救援の食糧輸送しているが、後川上から古坂峠を越せば曽地や畑市へも
平内丸・本ノ丸西側切岸と空堀?

楽に越せるルートが採れる。其れに畑市への間道は西光寺の他にも寺院跡が谷中にあり、平内丸は此れ等の山岳寺院との関連が深かったとも考えます。南尾根続きに古坂峠を抜ける突端部には後川砦があり、此処とも何らかの関連が考えられます。弥十郎ヶ嶽へ向う峠から山腹を捲き谷と合流するとフィックスロープが現われ,大滝を捲き上がると谷の上部に弥十郎洞窟が見えてきます。稜線近くで弥十郎ヶ嶽への登山道を外れて北の尾根に取付いて平内丸(火ともし山)への尾根を辿る。今回位置を見失った南山城からも急激な登行を強いられるが寺山Ca540mから573mピークを経て登山道が北峰へと繋がります。弥十郎ヶ嶽北峰の平坦な広い稜線から下る一方の尾根筋は平凡で途中城域を感じさせる曲輪・堀切もないまま鞍部に下り、また緩やかに上り始める。3-40m程平坦地が続き、またもや何にも発見出来ないまま帰城するのかと思っていたが目前に3m程の切岸が現れ広い曲輪(25X35m程?)に出る。
平内丸・本ノ丸

此処が本ノ丸で西に4m程の段差で下段の曲輪に降りる。南端を残して北側にかけ空堀状の窪地になっている。此処からは4-50mの長く緩やかな傾斜で下る平坦地があるだけ!。このまま吹越峠へ尾根を辿れば何か発見があったかもしれない?が北峰に戻り、南山城を目指したが早々に尾根を見誤り先述のように行き着けなかった。明智光秀”八上城攻め”向城として峠通行監視の砦だったか、峠西から北へ延びる稜線を辿れば波々伯部氏の宿城・畑市城には尾根続きに通じていますので上宿城~畑市城~平内丸へと上部の山城を繋ぎながら逃れた最後の”詰め城”とも思えます。波多野氏傘下にあった戦国末期・波々伯部氏の此れ等山城の最後の城主が波々伯部平内であったか!城史にも不明の平内丸です。
(丹波国八上城遺跡群に関する綜合研究 を参照)

向井山館と南山城
南山城(嵐城・嵐館)  Ca372m 篠山市辻字鶴沢

八上城の北山裾を東へとR372号線の直線道路が走り、 県道12号(川西篠山線)が合流する日置東交差点へ来ると 弥十郎ヶ岳の大きな山容が望まれます。国道を挟んで民家が建て込んでくる一角に、車道に面して珍しい青銅の鳥居に気付き、更には朽ちたケヤキの大木(篠山城を基点の一里塚)が鳥居傍に有るのを眼だとく見つける人も 少ないかも知れませんが、波々伯部氏ゆかりの神宮寺。
辻川から南山城(中央)

今では寺の遺構は少ないが、例祭で奉納されるデコノボウと呼ばれる操り人形を是非見てみたいと想いながら、まだ丹波お伝統民俗芸能を一堂に集めての実演を篠山市の会館で一度見ただけ。地区の行事と重なりなかなか見に行けないが素朴な割り箸人形(関係者の方ごめんなさい)が神事では豹変の動作を披露してくれる事でしょう。 此処から歩いても集落の東端民家手前・辻川沿いの林道までもそう遠くはない。
南山城・北端曲輪に入る虎口?


辻川沿いの集落内地区道~林道を進むと、鶴沢入口付近?には平安時代末期:文治年中(1185~?)頃より鎌倉・室町・桃山時代にかけて、波々伯部氏の来住とも符合して!当領地を支配した波々伯部一族の菩提寺として 創建されたのではないかと思われる安養廃寺跡【南北朝期:延文年中(1356-61)の宝筺印塔・五輪塔や鎌倉時代の 古丹波焼の骨壷等が出土】がありました。また辻の分岐の北方には東側に貯水池を抱く様な小さな丘陵が淀山城。国道(京都街道)は東に一つ峠を越え、小野新の集落を挟んだ次ぎの小さな短い峠が延喜式小野駅の跡。
南山城:堀切側大土塁から主郭西端に延びる土塁北端の石積

下ると北に福知山・綾部・宮津方面へ南は天王峠を能勢方面へのR173号、東へ直進は宿場町福住を抜けて天引峠、園部・亀岡へ 分岐する地点。篠山市中央部を横断する最重要の要衝です。当然:監視の砦等が在ったでしょう。館跡の様な平坦地形だけが残る「姥ヶ谷砦」へ後で拠ってみる。鶴沢(県指定四本杉の有る谷筋)から辻川へ流れ出る辻集落の谷を挟んで、 西側丘陵の(本拠城の淀山城(波々伯部城)からはほぼ真南に位置する)目立たない中腹のピークには波々伯部嵐四郎光尚の南山城があり、
南山城:主郭中央の礎石跡?と中央奥に石積

辻川沿いの地区道東側の民家に迫る丘陵には 波々伯部光久東山城を築いて波多野氏の本城八上城に通じる主要路・京街道(R372号線・デカンショ街道)の要衝を南北に挟む位置に築かれ南山城・東山城の二つの城が淀山城の支城として創築されています。後に多紀郡(篠山市)を制覇した波多野氏の重臣・七組の部将として八上城東口の要衝を守備する重要な任務を負った城砦群の一つであったと考えられる。
南山城:堀切側大土塁から主郭西端に延びる土塁北端の石積

街道に面して監視出来る城は淀山城の他、西に剛山砦と井上城、東は飛曽山峠を越え福住の籾井城や安口城位か!。この間に波々伯部・荒木・籾井・波多賀須氏等豪族の領地があったが領地の侵略等争いの史実を知らない!。本城の淀山城からは直ぐ南150mに京街道が通じており、その南東約500mの丘陵上に東山城があり、ほぼ同距離で真南:弥十郎ヶ嶽から北へ派生する枝尾根上の一つ標高372mの尾根末端部のピークには尾根続きを大きく掘り切って城域を遮断し、堀切東下を更に竪堀で・西は大きく崩壊した断崖状だが、縄張り遺構が大きく損なわれていることは 無さそうな南山城(嵐城)があります。
虎口受曲輪:左手から曲輪に入り右端に廻って手前曲輪・更に主郭への虎口に向う


元弘・建武の戦乱期に活躍した波々伯部次郎左衛門尉為光【源(八幡太郎)義家の四男・義国(新田氏!!)の三男で義安(義房?)の孫・房光の後裔】の子で次郎左衛門尉光朝が明徳の乱”等(1390-94)での軍功によって本城の淀山城を築き、其の子光尚が嵐四郎と称して室町時代初期の応永年間(1394-1428)に築城して拠ったという。波多野氏が勢力を伸ばし八上城を築いた永正5年(1508)頃には波多野に仕え、波々伯部氏はその重臣として七組の一方の旗頭として波々伯部治良左衛門等が活躍しています。 永禄9年(1566)波々伯部光政が波多野氏らとともに松永氏を討ち亡ぼしています。天正年間(1573~1592)の城主は六兵衛光吉で、天正3年(1575)明智の
南山城:堀切

”丹波攻略”が始まると諸城が次々と落とされていきます。東山城や南山城の波々伯部一族も城を捨て、八上城篭城に向ったものか ?南山城の城史は不詳だが単郭の小規模な城にしては、主郭に入るのに虎口受け曲輪を介し本城の淀山城のも見ない石積がある。主郭西縁の土塁先端に長方形の石積遺構がある等、天正初期の波々伯部氏による改修でしょうか ?急でもない北の尾根筋(城の前方)を防御する堀切・竪堀等施設はなく尾根側を堀切で遮断。
南山城:主郭から北の帯曲輪

近在で早々に落とされていった城に籾井城・荒木城(細工所城)があり、 要衝に位置する南山城が明智方の陣城に 転用されたと思うのは暴論でしようか?波々伯部六兵衛光吉は軍頭の一人として八上城に篭城していたが兵糧攻めでは天正7年(1579)波多野兄弟は安土で信長に殺害されます。城主:波多野秀治を失った八上城は若き城将 :二階堂秀香(秀治の義弟)が指揮していましたが落城。八上落城直前、波々伯部光吉は妻の兄・荒木山城守らの説得で八上城を抜け出して帰農しています。
(丹波国八上城遺跡群に関する綜合研究 を参照)


向井山館  xxxm    篠山市辻字向井山

南山城は以前弥十郎ヶ岳からの帰路に畑市地区へ通じるハイキング道から枝尾根を下って探したが行き着けず、麓からなら目標も判っているが ・いざ取付くとなると辻川を大きく迂回させられ東照山大仙寺に着く。山門前から墓地上に出て、鹿猪避けフエンスを潜って山に入るが、直上する尾根筋は誤りで、
向井山館と東山城

左(東側)へ二つばかり斜面沿いに谷をトラバースして南山城への尾根筋に移動する。南山城への登城口・大仙寺へは辻川を渡った橋の南詰から始まる 傾斜の参道を直進・山門が見えているが、山際との間に1~2枚幅の田畑が川沿いに並ぶ。 寺への参道脇から始まる田の数枚先に休耕田がそのまま 荒れ放題の空地となっている20x40m程の一角が向井山館で、其の背後丘陵上に在る南山城へは真南に直線距離で200m程。
向井山館(中央奥)と 左方遠景は辻富士(飛曾山)

北面には東西に流れる辻川を濠として、城史や調査報告等未調査ですが、南山城を詰城としたセットの 居館が在った様です。 南山城の北端曲輪からは緩斜面が麓へ延びていて、縄張り図には未記入の平坦地があり、下方へも踏み跡が(無くても)続いているようです。但し最後は猛烈な藪に阻まれるでしょうが抜け出せれば、丁度この向井山館と記されている位置に 降りて来る筈です!!
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