八上城を取巻く忘れられた城砦群 虚空蔵山城(仮称) |
2021年11月16日
近畿の山城 :虚空蔵山城(仮称) 小谷城
小多田南城(仮称)
篠山市内にも人知れず:忘れられた数多くの小城・城塞群が所々に点在している。八上城を国指定にと調査さ
れた「戦国・織豊期城郭編丹波国八上城遺跡群に関する
総合研究」が篠山市中央図書館等に収蔵されているが…新たに発見された
虚空蔵山城
(又は県や市の埋蔵文化財史料にも未発表)城砦!の遺構は多い。過去にUPした城郭【八上城直近に迫る明智軍向城?の八上城高城山東南砦・胡麻塩砦・細工所城の荒木氏関連では宮ノ谷城・清滝山城・国松氏関連の平志城・坪内城、近在に名柄芦北城・別荘城・
熊谷西城…等多くは仮称】を関連ページに追加してきたが順次…[忘れられた城砦群xx]等に追記していきます。
虚空蔵山城(仮称) 虚空蔵山? 370m 篠山市小枕 篠山城跡への「篠山城跡南」交差点を右折し篠山川に架かる監物橋を渡り、直進すると木枕の
四季山城西裾
を掠めてR372号に出るが秋深まる時期なら献物橋の詰を右折し
医王寺のラッパイチョウの落葉を探すのも…が此処は
酒井監物の居館跡でもある。
小枕古墳群(左に虚空蔵山城と三国ヶ岳方面)
南の県道306号「尾根橋北詰」交差点を直進すると野中集落で
八上落城悲話を伝える「女畷・乙女塚」碑や八上城砦群だったが明智軍の包囲網の付城に転用されたと思える
小丸山砦と四季山城がある。野中集落内を抜けるとR372(デカンショ街道)の「小枕」交差点に出る。南へ
直進する県道49号が
美濃坂峠を越え高級丹波茶の里-母子(もうし)から花の寺:永沢寺・三田方面へ向かう。
虚空蔵大菩薩扁額の掛かる鞍部の鳥居前広場(曲輪)は祭祀用か?
小川芋銭「丹波霧海」(大正15年院展に出品)を描いた風景が美濃坂峠からとも云われ昭和初期頃までは摂津方面から丹波・丹後若狭方面に越える要衝の一つだったのでしょう。天正3年丹波:黒井城攻略の際:明智方の八上・波多野氏が突然黒井城荻野氏との”呼び込み戦法”の共謀!?
に光秀を敗走させた。翌天正4年以降-光秀は黒井城とともに八上城攻め包囲網を堅めてゆく。八上に籠城する将兵のもとへは摂津三田方面からも
鞍部の鳥居から虚空蔵菩薩を祀る祠の巨岩に向かう 兵糧物資が運び込まれた。元亀(1571)2年:織田信長による比叡山焼き討ちもあって三田小柿の
感応寺(真言宗)の僧らが後川から三国ヶ岳の南東麓・曽地・日置経由と推定するルートで兵糧運搬に協力していた僧や村人らが捕らえられ斬首された
天正の首塚碑が曽地奥に祀られて
いる。感応寺にも
竜神池の金の鶏の伝承が残る。兵糧物資輸送は其の後もルートを変え搬入されていたようで曽地奥手前からは
祠背後の山頂部からの西面に段曲輪
八上城へ尾根伝いも通じる。殊に
胡麻塩砦(曽地奥/奥谷)の発見では曽地奥から殿町への峠越も昔は通常に往来があったようでルート走破後に城郭研究家: 高橋氏による調査で曽地奥に胡麻塩・奥谷川に厠谷(せんちたに)名を収集。曽地から尾根を越えれは奥谷池に降
り殿町の蕪丸から尾根伝いに八上城へも通じる重要拠点。三国ヶ岳南麓の母子(もうし)から美濃坂峠を小枕へ抜けるルートもある。
段曲輪の先端から落ちる一条の竪堀?
兵糧輸送でR372号(デカンショ街道)を直接八上城へ搬入するには危険過ぎるが手前で尾根を一つ越せば小多田‐殿町へ運び込める!?。小枕川の谷筋中央に
虚空蔵山城(仮称)がある。丘陵北向かい
に”谷松寺”が…県道を挟んで西の圃場内や畦地其処此処に
小枕古墳群の墳丘や石材を覗かせる古墳が点在する。
鞍部からの東尾根筋に土橋付き堀切が一条
明智勢による八上包囲の戦い初戦頃なら八上城砦群の砦として兵糧搬送の警護・見張り・守備に就いていたか?反対に明智方による監視砦となったか?。一本の街道が通じるだけの岩場・荒れた露岩の多い西斜面に段曲輪と先端に一条の竪堀?・東面は虚空蔵菩薩を祀る岩場の祠・鞍部に鳥居…東へ延びる尾根筋に一条
の土橋付堀切があるだけ!。鞍部の広い曲輪は護摩焚き等の祭祀用か?。尚:R372号(デカンショ街道-京街道)は播磨街道とも呼ばれ四季山城傍の池は義経一行が馬の口を洗ったという馬口池がある。源義経は二度ばかり丹波を通過しているが
三草山合戦を経て一ノ谷合戦へ急いだ源義経一行が通過したのは此のルートか?。小枕は義経が此処を通行の際・下馬して通ったという逸話「駒鞍」→「小枕」に由来すると…。篠山市街地北方には
笛吹山城の伝承や義経に追随した
鷲尾三郎・
伊勢三郎の供養塔があり市街地東端
荒木城の細工所には
那須与一を祀る与一大権現もある。
小谷城(小ノ谷城) 280m 篠山市小多田字小谷ノ坪
R372(デカンショ街道)は京・播磨・摂津に通じる旧京街道の要衝。JR古市駅から篠山市街地に向かうR372は
酒井党の
栗栖野城や河村氏の
館山城・真南条上城の裾を走り抜け正面に独立低丘陵300㎡程の
四季山城(城域は150㎡ほど)が見えてくる
小谷城は手前の低丘陵と右の藪地 「小枕」交差点が三田方面から母子(もうし)を経て
篠山市に入ってくる県道49号で
虚空蔵山城(仮称)がある。次の交差点が「小多田」で左折し北へは
小丸山砦・
女縄手の伝承地。次のT字辻を真北へは目前の四季山城を右手に
篠山城…に向う。小多田の交差点を南へ右折する角に迫る
法光寺山城の
小多田砦(法光寺城第三砦)下を通って天満神社(小多田公民館)に着く。西側に小高い丘陵部北東山麓に厩舎が見える傍らの飼料サイロ側(城域北面・北東面からは
灌木・下草藪に覆われた急斜面に取付くと程なく古墳か?段曲輪状!?。帯曲輪はともかく小曲輪?までは地表観察も容易でない!!。
小谷城本丸の北東帯曲輪 南よりの墓地から境界ポールに沿っての踏み跡があり比高僅か4~50m程なのでラク!だったが?
ルートを変えた再訪では気付かず…城域南端から丘陵尾根の西側集落へ越えるルートも鞍部から山頂部の曲輪に着く…が古墓や谷筋なので足場は湿気た泥濘も…更に藪を抜けると深く狭い溝谷に遡っての
堀切道と獣避けフエンス沿い…だが鞍部からの尾根筋は虎口状を南端曲輪に入る。あとから思い返してみると裾の厩舎・サイロ側から墓地経由があったような!?。
小谷城本丸の東帯曲輪
尾根筋は幅約20m・南北の尾根に長さ70m程の削平地(城域全体は幅東西30m・南北100m程)で削平の一段2m程下を 周囲5-6m幅(北斜面には部分的に2段:)の帯曲輪が取巻くだけで土塁や堀切はない!?。展望も東前方に法光寺山塊があり八上城は望めないが三好長慶・内藤氏勢や、光秀の八上城付
城として城域東正面に殿町の奥谷側と小多田を短絡する小峠監視の砦か。西方(木枕)の虚空蔵山城側からも峠越で小多田に至る。城主等城史は不明だが小多田地区の北面が拓け三方を
小谷城本丸の西帯曲輪
丘陵で囲まれた中央南部にあって初期には小多田地区の入口を固める法光寺山城の小多田砦と小谷城が呼応し西面から、または背後の摂津三田方面から小多田地区への侵入する敵…というより明智軍に包囲された八上籠城軍への兵糧軍需物資輸送路に三田側の母子や永沢寺か
ら
三国ヶ岳経由・また後川や曽地方面から殿町への搬路が絶たれると小多田からの搬路が想定出来るので八上城側への物流・通行監視に対する備えの砦だったのかも知れない。
小谷城南端曲輪の虎口状 また小多田地区からは法光寺山塊の南側の低い鞍部を抜けて簡単に奥谷側へ抜けられるので八上城を包囲する殿町への絶好の侵攻口になる。
兵を駐屯させた臨時の砦…なら築城不明点は多いだけに法光寺山城の
西尾根砦群が当初は波多野氏の殿町警護の砦群・京都三好長慶・内藤氏が八上城攻城に此れを利用し更に光秀が包囲の付城として改修したと考えられます。
西側集落へ越える深く狭い溝谷/堀切道?
その頃には臨戦時の小谷城も廃され法光寺山城側の砦に移ったか…?。小谷城は光秀の向城として摂津三田方面から母子(もうし)から三国ヶ岳経由で八上城への物資輸送や通行の監視にあたったか?兵を駐屯させた臨時の砦…なら築城不明点は多いだけに
法光寺山城の西尾根砦群と同様・八上配下の城というより縄張りからは光秀の付城城砦群の一つと考えるのが優勢のようです…?。
小多田南城(小多田奥砦) ? 460m 篠山市小多田
摂津三田方面からは永沢寺・母子を経て三国ヶ岳の西肩を越える美濃坂峠は小川芋銭(うせん)の描いた題材「丹波霧海」地ともされる!?所。近世まで丹波市・篠山市から摂津・阪神間を結ぶ街道の一つだった。此の峠を降ってきた”小枕”に虚空蔵山城(仮称)があり「デカンショ街道(R372号)」に出て
殿町から奥谷池(正面堰堤ダム)と(右手のとんがり山)小多田南城
右手(東直近)に向かうと
四季山城があり、次の「小多田(おただ)」交差点を右折する左手角に迫る低丘陵上には
法光寺山城の小多田砦(法光寺城第三砦)があるが
集落内を直進すると小多田公民館・天満神社に着く。西側正面の小高い丘陵部の
小谷城(小ノ谷城)も先のブログやHP
に紹介済みです…。小多田(おただ)地区から東へ抜ける小峠を越えると殿町で目の前に
八上城の前身:蕪丸(奥谷城)があり背後の尾根続きが丹波の三大山城の一:八上城。多紀郡(現:篠山市)と摂津の一部
小多田・善導寺(右手)向かいの尾根に小多田南城
(三田市北部!?)を支配した波多野氏の本拠地だが秀吉による三木籠城戦と時期を同じくして明智光秀も八上城包囲の飢餓作戦に、攻め手に人的被害・消耗は少ないが・籠城側の将兵や一族家族の悲惨な落城悲話伝承は所々に残されています。八上城に対峙する篠山川沿いの
般若寺城・勝山城・塚ノ山砦・野間砦…等の明智勢付城群は知られる所だが摂津三田側から多紀郡八上側に入る曽地谷には
露岩の南端は既に城域
八上に籠城する将兵らへ民衆・僧徒等が警戒の目を潜って救援の兵糧物資を運搬していたが波多野氏に加担したとして捕らえられた次々と惨殺された
天正の首塚が後川奥を越える曽地川沿いの道に残され三田市側にも「三田の民話」に載せてある。物資輸送を援護した波多野氏側砦も:明智方の付城群に改修されたか…
曽地奥砦(高野山城)・曽地砦(仮称)・曽地城・胡麻塩砦(仮称)…等は主に八上城へ搬入される兵糧輸送阻止が主な監視砦だったか。永沢寺や母子から曽地谷最奥を三国ヶ岳東麓へ回り込む
小多田南城:城域中央部西面の石積
丘陵尾根筋から殿町へ谷筋を下る破線ルートが示されている。現状では歩行通行も困難な曽地奥から殿町への峠越も昔は通常往来の街道!!であったと思える。曽地奥側で胡麻塩・奥谷側に厠谷(せんちたに)の名を収集して
胡麻塩砦<仮称>とした砦があり 最高地点の467mから峠上真近のCa420m付近までの急斜面上に点在する小曲輪群4-5箇所
を見る。帰路の途中:奥谷池から望む丘陵部に砦跡在り!!との推測から 小多田と殿町間を分ける尾根筋の北方460mピークに
小多田南城(仮称)があった!!。小多田地区の善導寺東向かいや、
北先端部から法光寺山城・八上城・奥谷城(蕪丸)と殿町を望む
殿町の奥谷池の西上に尖峰を見せる山容が印象的なので登路を探し殿町最奥の奥谷池に流れ込む谷筋沿いや、小多田善導寺の前を流れる谷筋も詰めてみた…が谷の奥深くまで詰め過ぎ:間近に見える山なのに…複雑な地形?と高低差に登城を諦めた経緯もある。波多野氏の城下守備の法光寺山砦群が八上城攻めの三好・内藤勢の向城となり、更に明智軍の付城に利用され包囲網最終段階(天正6年後半-7年?)頃には八上城主郭間近に迫る
八上城南東砦<仮称>や奥谷池の西上丘陵部にあった”小多
田南城(仮称)”の本城内部を常時監視出来る程の高城からの脅威に体力・戦闘の意思さえ削がれる長期戦にはた籠城兵の疲労・緊迫感は如何ばかりだったろう…。
北先端部西面の段曲輪からは小多田の小谷城が正面に 小多田南城(仮称)は南北に120-130m・東西10m幅の尾根筋に低段差の削平段(殆ど自然地形…!?)が続き、西面に帯曲輪・小段曲輪がある。唯一城跡!遺構の土留め”石積”が中央部西面にあり小谷城・小多田地区を望み、北先端部と東面に八上城・奥谷城(蕪丸)と殿町を望む。兵糧輸送の街道(峠)監視の城砦とは思えず
包囲・制圧を誇示する光秀方の付城で規模から”城”としてはいるが、攻守に天険の要害:高低差大きく、用途は城内監視の”小多田奥砦”。