全国・足立姓の元祖山垣城を訪ね  烏帽子山〜万歳山〜山垣城
丹波市 (五万図=福知山・但馬竹田)
T 山垣〜萬歳山(420m)〜462mピーク  2000年11月23日
U 烏帽子山〜462mピーク〜万歳山〜山垣城 2002年03月09日
南郭側切岸に続く二重堀切側から三ノ丸の愛宕社


近畿の山城 :山垣城と山垣館  中佐治城 松倉城
校歌・故郷の山  ♪東にそそる萬歳山 かがやき昇る日のごとく…♪ 遠阪小学校

T足立遠政の山垣城とドーム形の万歳山へ  H12.11.23

大稗から 仏岩〜粟鹿山・お杉地蔵に逢ってマゴ谷へと縦走した後、少し時間が余ったので佐治川から近くの山を探して 427号線を遠阪川に沿って逆登ります。山峡の山垣(やまがい)集落にある山垣城は全国「足立」姓の元祖:足立左衛門尉遠政が築いた山城で370年に及ぶ足立氏繁栄のシンボルです。遠坂郵便局で右折し、 遠阪川に架かる宝来橋を渡れば常夜燈と城址説明版が立つ。
山垣館付近から山垣城と萬歳山 H16.11.06

集落に向かう正面道をそのまま進み、さらに丘陵鞍部付近の 猪除けネットを潜ったが、山垣城の主郭は鞍部西方の235mピークに在る。鞍部も城址だが逆方向の萬歳山に向かった。道は細く荒れてはいますが辿っていけます。 直接山頂に向かう踏み跡を見送り、先にピークの東へ出るつもりです。烏帽子山(こちらも山城)からの帰路には採石場があって騒音が気になりますが縦走の偵察を兼ねます。 谷沿いの道ですが鹿も滑っている痕跡の多い急登で稜線に出るとXX丸と名前の有りそうな平地に出る。
山垣城から万歳山への東尾根鞍部:空掘りを廻す曲輪

少しの登りで尾根端の462mピークに着くが、先は採石場への崖・・・進むにはパラグライダーが必要かも・・・ !!!東へは指呼の間に烏帽子山と三国境の無名?山を望みます 。時間が有れば道は定かではないのですが近いので何とか行けそう。 次回に挑戦・・・引き返して萬歳山へ向かいますが展望は有りません。万歳山の山頂は下から見ると同じ様に 丸みのある植林帯の中に有りますが三角点は見当たりません。露岩も有るが此れからの下降ルートは先の登りと同じく厳しいものがあります。
萬歳山山頂直下に散見する玄武岩

途中で出会う幾つかの露岩は特徴のある玄武岩でした。外地の戦死者?の埋骨墓標も1基ありましたが踏み跡も薄く急斜な此処へお参りにこられるのでしょうか??。 後日理由が判った様な気がします。万歳山(報恩寺山)は足立左衛門尉遠政が山垣へ移ってきたとき山頂付近に報恩寺を建立し祖父遠元、父遠光を祀り、いまも台石が残っているそうです。山垣の報恩寺は足立一族の菩提寺です。


U足立遠政の山垣城と万歳山(報恩寺山)を訪ねて H14. 03.09

山垣城と烏帽子山城を繋いでの縦走を今回実践したとこです。 「青垣いきものふれあいの里」から梨ノ木峠を烏帽子山へ登って三国境(青垣町・福知山・夜久野町)の境界で、 遠望の利かない三国境の最高地点を通り過ぎてから万歳山の姿を確認して戻るが取り付く尾根がどれなのか分からず烏帽子からの尾根に戻ってきてしまいました。釈然としないまま2時間ばかり時間を浪費して三国境の最高地点に到着です(AM10:35)。 ピークの少し西に南尾根が見えるので雑木の薄いところを下り始めると標識ポールを見るようになる。藪尾根の下りでは何度も有らぬ方向に踏み出してしまいます。今回は前回の万歳山からの逆コースで分かり易い。
三国境の境界尾根から雑木藪を透して烏帽子山

ただし此方のコースも万歳山 (古いアンテナ等が捨ててある丸いドーム状の山頂)の先からは最高ピークに向わず山腹を捲くように左手に延びる山道を辿るのが正解ですよ。だんだん道がハッキリしてきます。左の尾根の先が明るくなっているので辿ってみると採石場の頭部 (AM10:50)に出てきました。烏帽子山や大箕山・岩屋山・粟鹿山・・・丹波北部の山々ヶ見えますが目指す万歳山は右手の尾根の先で樹間に黒い山影をのぞかせています。又も斜面をトラバースして尾根に乗ります。山道は462m峰(AM11:10)の山肌を捲いて通り過ぎようとしています。尾根筋に出て逆走してみると、前回ここに来て烏帽子までの縦走を思い立たせてくれたピークした。三国境の稜線に鉄塔が見えるので巡視路もあるだろうし、 府県境界尾根なので遠阪峠まで縦走出来そうです。
足立遠政の廟付近からの萬歳山


462mピークの次ぎにも似たような丸いピークを過ぎて、 倒れたアンテナで見覚えの万歳山(報恩寺山 420m AM11:20)に着きます。薄暗く何の特徴も無い植林の中に緩やかな傾斜をともなったドーム型の山頂です。しかしドームの先からは激降りが待っています。周辺に点在する大きな露岩は皆一様に 角材を継ぎ固めたような形状で綺麗な六角状の切り口を見せた玄武岩も見受けます。決まった踏み跡も無い 急斜なザレ場を下りきり、緩やかな山道になると前方に里から続くトタンの猪垣があり、細長く続く土塁道となる。其の細い尾根先にあるゲートを開閉すると広い曲輪に出る。此の曲輪をぐるりと半周して集落側に竪堀状に空掘が捲く。 更に広い曲輪を分けtるような空掘りがあり、1m程の段差の先の曲輪を抜けると馬場のような広い鞍部となり、北の山垣集落へ降りるが、緩やか斜面は直ぐ高い切岸の前に立つ。
山垣城東の鞍部曲輪群からの万歳山側には土塁道が・・・

万歳山からの長く急な尾根筋ですが、幾箇所かに城遺構とも思える平坦地も有るが素人では良く判らない。嘗ては倉庫(矢庫や食料 )や馬小屋などが並んでいたところでしょうか。しかし此の鞍部の遺構さえ語られない山垣城の城跡:遺構・縄張り説明は鞍部の此処から先:緩やかな登り斜面から始まり三ノ丸からの二重堀切や南の平までの曲輪と、足立姓の元祖としての遠政の墓所だけの 説明で終えているようです。さすがに本丸から東下への小さな曲輪群が縄張りには記されていますが、 進退さえ億劫な藪と矢竹の密集する小さな曲輪へ降りて確認しに行く物好きな人は殆どいないでしょうね!!?。程なくして2〜3段の曲輪を経て最高所の山垣城跡(235m AM11:40)主郭に着く。
山垣城北”兵衛の段 ”下の高い切岸

曲輪はいずれも小さいが高い切岸で護られている様!!。本丸の東面にも数段の曲輪が見えます。標高の低い山城に370年も続いた歴史、 戦国期に落城の城ですが堀切と土塁だけで、石積みの補強もされていないのは有事に立て篭もる最低限の防備施設を施した山城だったようです。城は報恩寺山(万歳山)を背にして正面に佐治川(現・加古川)を見下ろす位置にありますが今の本丸は 樹木に囲まれて展望は有りません。西の一角からは田園風景の拡がる山裾に「いきものふれあいの里 」の施設が見えています。本丸からは極小曲輪を抜けて二の丸へ、この山で山仕事とも思えない作業所のような小屋??があり、その一段下に祠と石燈籠が見えます。この三の丸にある祠は<城の守り神(若宮神社)で>現在は愛宕社が祀られています。
山垣城跡・本丸からの「いきものふれあいの里」

石燈籠の胴の部分は竹を形造っていて竹の節、 僅かに歪みをもった実写的なものでした。 山垣集落からは足立氏の顕彰碑のある登山口から此処の神社へ登り付くようです。私は「いきものふれあいの里」に戻りますので、山垣の集落側に降りると少し遠くなりますので南側へ直進してみます。 途端に深い堀切が二つ続きます。その先には本丸と同じほどの広い曲輪がありますので、この南の曲輪と本曲輪群を結んで当時は堀切を木橋で繋がっていたようです。 土橋は切り崩し木橋は切って落せば分断出来ますからね。此処から南に顕著な防護施設らしきものを見ることなく、呆気なく山垣の車道(農道)に降りてきてしまいました。
山垣城跡本丸(二ノ丸側腰曲輪から)

山里の土手には春の小花が風に揺れています。この時期ですので場所さえ知っていれば素晴らしい丹波の春を呼ぶセツブンソウが花を咲かせているはずですが ・・・ホントに逢いたい花がこんな所にあれば良いのにと思う反面、誰の目にも触れずに、何時までも春を告げる花が、この地で絶えることなく咲き続けていることをも願わずにはおられません。 開拓や拡張工事等で消える運命にあれば此処には、 立派な町立の施設が在って保存観の指導や場所もあるので検討を進めて欲しいところです。ブラブラ歩いて「いきものふれあいの里」に帰りつきます(PM12:00)。万歳山や同じ様な二つのピークが此処から私を見送ってくれます。

 

山垣城と山垣館 中佐治城  松倉城


山垣城と山垣館
山垣城(萬歳山城)   万歳山 235m  丹波市青垣町山垣

全国の足立姓の元祖・山垣城主の足立左衛門尉遠政が築いた山城です(遠政は遠元の孫)
山垣(やまがい)城は烏帽子山から南へ延びる連山が萬歳山から 傾斜を強めて南へ高度を落す尾根の先端部に突き出した小山(235m)に有って、佐冶方面からは小倉交差点からR427号に入って遠阪峠を目指す。遠阪小学校手前の 郵便局前交差点を右折し、遠阪川を渡った所が山垣集落に入る入口。交差点に石灯篭と山垣城の案内板が立つ。山垣集落を南へと、山裾沿いに進むと「山垣城址と足立遠政公の墓」の案内標識を見て廟所に向う、此処が山垣城跡への登城口。
足立遠政病所

北近畿豊岡自動車道が城址の真下を抜けていく。正面石段を上がった先には石檀上の石板囲いの中には、 古い五輪塔が安置され先祖(初代城主)足立遠政の墓が祀られます。近くには代々城主の墓もある様です!!?。墓近くの山裾には城主等の屋敷跡も残ると云い、 下記の山垣館が其れを指しているのかも・・・?顕彰碑側の丘陵上に在る広く長い平坦地が大手道とは反対側にあり木戸等の諸施設が在ったのでしょう。
三ノ丸南の二重堀切(土塁の影で見えないが此の城の見所)

「尊卑分脈」によると丹波の名族・足立一族の元祖は藤原(中臣)鎌足<614〜669>で、十四世遠兼が武蔵国足立郡を領して北条氏に仕えた豪族で、十五世久保田(足立)遠元 <1120頃 〜1207頃>が 地名の足立氏を名乗ったと云われ足立家の遠祖とされています。武勇の誉れ高く、鎌倉幕府 ・源頼朝の武道指範でもあり頼朝や政子の信頼厚く、 頼朝が建久元年(1190)上洛の際、 布衣侍十二人の内に選ばれて参院の供奉をし頼朝の推挙で左衛門尉に任ぜられています【足立遠元館が埼玉県桶川市末広にある】。鎌倉幕府の要職にあったが北条氏の台頭で
南曲輪の南端付近:両サイドに竪堀が走る

源頼朝時代勢力を失っていくなか足立氏も遠元の孫で遠光の息子 ・北条氏に仕えていた足立(久保田)左衛門尉遠政が承元3年(1209)中央から遠く離れた氷上郡佐治郷に地頭職を任命され関東から入部し、小倉に岩本城 を築いた後・萬歳山に山垣城を築いて移り此処を本拠とし小和田城をはじめとして周辺に多くの支城や砦を築きました。元弘3年(1333)4月南朝方の千種忠顕に従い幕府軍と戦って六波羅を攻めたが京都で破れ荻野・児島・本庄氏等敗軍約3000を集めて 高山寺城に拠り、その後足利尊氏の丹波国桑田郡篠村での挙兵には呼応しています。
南曲輪の三方を帯曲輪が囲む

元亀2年(1571)城主足立基晴の時、出石の此隅山城主・山名祐豊が夜久野城主 ・磯部豊直等と丹波に侵攻し山垣城は落城するが山名氏に内紛が起こり 退き返した為に城を回復し、本城の山垣城周辺の支城(遠阪城・小和田城等 )の守備を強化してきた事でしょう。しかし天正7年 (1579)の丹波攻めでは羽柴秀長軍に尽く落とされ、12代370年間統治してきた歴史を閉じます。山垣城は西丹波の奥部に位置し、但馬国境の遠坂峠に近い交通の要衝にあって戦国時代末期には 黒井城の城主・荻野 (赤井)直正の強大な勢力の傘下に入り 国境警備の任に当たり烏帽子城・遠阪城・田ノ口城・ 小和田城の四城と共に足立氏一族が 守っていたと伝えられています。赤井・荻野・久下・余田氏等氷上郡内の多くの城とも和睦・対立していたはずですが、
三ノ丸には愛宕社(旧守護神・若宮社)が祀られている

長年統治できたのは佐治郷が氷上郡の西北部の独立した地形にあったこと、京都府・但馬国境の山々に囲まれて侵入を阻止出来たこと。 良政により領民から慕われたこと等があげられます。足立遠政の4代目(遠政の孫・光基の三男)の 遠渓祖雄[1286-1344]は高源寺を開創しておりこのことも大きな要因です。(高源寺の寺名は後醍醐天皇の銘名で天皇の祈願所)荻野・赤井一族の台頭によって芦田氏(小室城・栗住野城)同様に足立氏もその参加に組み込まれていきます。 山垣城の落城は天正7年 (1579)5月18日信長の丹波攻めの時、城主は12代足立弥三郎基助のとき。
南曲輪:大小三段程の曲輪が並ぶ

山垣城から4km程離れた遠坂城は一族の足立光永が守っていました。播磨・但馬・丹波平定を狙った織田信長は羽柴秀長軍を但馬から遠阪峠を越えて丹波へ攻め入らせます。この日だけで遠阪(足立光永)・山垣・栗住野・東芦田の各城は落とされています。 全国足立姓の祖・足立遠政元の墓所から尾根筋に山道があり此方が城の大手で本丸に至る道があり三の丸には祠《城の守り神 (若宮神社)で現在は愛宕社が祀られている》の境内を通り抜けると馬場跡に出、本丸、二の丸を1廻りするようになっていて、「馬隠し」と呼ばれる馬出しの跡がある。本丸から直ぐ西にそびえる報恩寺へ続く尾根は矢倉や兵糧倉、馬小屋が建っていた所といわれます。
曲輪の切岸と土塁・堀切で遮断する南曲輪の末端部

万歳山山頂は足立左衛門尉遠政が山垣へ移ってきたとき 万歳山報恩寺を建立し祖父の遠元・父遠光を祀りました。いまも台石が残っていると云われるが、自然地形に近い植林の中の平坦地に不要となったTV受信アンテナ等が残置されているだけ。山垣の報恩寺は足立一族の菩提寺です。山垣城を訪ねる城フアンも 城砦遺構を確認に万歳山まで登る人もいないでしょうが、山垣城とされる本郭主要部を東に抜けて鞍部まで降りる人も稀かも。遺構の縄張り説明も東端の高い切岸をもつ曲輪まで周辺の藪も深く、万歳山に向う鞍部付近にも広い3−4段の曲輪が在り曲輪を二分する空掘りや、曲輪を螺旋状に廻す空掘り、其の先には長い土塁道が控えている事をご存知の方は少ないでしょうね?
三ノ丸南の二重堀切南側に2〜3段曲輪が続く

城域説明の外に置かれた遺構を説明できる専門知識もないので上記のプロローグ ・山レポートそのUに画像だけ添付しておきます。毎年8月24日は先祖の霊を慰める"送り火"が焚かれます。足立氏の勢力下の青垣町内には既に鎌倉時代(保元xx)に信州から来住の井上氏(改め芦田八郎)が吼子尾山に東芦田城(小室城)を築いていましたので、幾度かの小競り合いは有ったようです。
(現地廟所の顕彰碑・青垣町史・桶川市史・丹波史・日本城郭大系等による現地案内板 参照)


山垣館(堀屋敷) xxxxm   青垣町山垣

三田・篠山 ・氷上そして山東町から但馬各市町へと、 貴重な古墳や城址等の史跡や遺構が宅地や道路拡張等の開発によって、一般には殆ど知られないままに消えていくんですね。中佐治の岡見橋を渡って岡見集落内正面の 道を入るか大歳神社から!!寺前を道路建設現場に出る。寺名が判らなかったが「青垣町志」に見る紫雲山清涼庵なら足立氏持が庵を結んでいるのですが不詳・・・同族だった芦田氏の小室城には芦田持氏がいて栗住野城に移って久留栖野氏の姓を名のっているのですが・・・!
山垣城(右)と萬歳山を望む足立氏居館跡

中佐治 ・岡見集落から北へ約800m程、酒屋橋付近の東には山垣城を背にした沖積地に立地して、方形居館跡の山垣館がありました。萬歳山からスキー・ジャンプ台のような急斜なスロープが延びてきて 山垣城域の北側で踏み切れば、丁度テイクオフ(ランデイング・・か)位置が此の山垣館になるのかな?・・域域の南先端山裾を”いきものふれあいの里”に向う道路が ”北近畿豊岡自動車道”の山垣城トンネル側の高架下を潜ります。
溝谷川と掘に囲まれた山垣館跡

車道を 100m程南に下がった田園が拡がる中に城主・足立氏の山垣館が在って昭和58年(1983)氷上郡教育委員会による発掘調査によって七軒の建物跡と方形居館跡を廻る堀跡(幅4〜6m/深さ2〜2.5m)が確認されています。此処が”其の居館跡か”と問われても 遺構は何も残されていず、細い川と溝状の濠に囲まれた一角だけでは、比定地を裏付ける根拠資料の持ち合わせがありませんので、築城時期や城主等史実も未調査なので自信はありません。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書  氷上郡教育委員会 を参照)


中佐治城
   xxxxm  青垣町中佐治

小倉の交差点の東に見える丘陵には小和田城があり先日寄ったので、更に北の足立氏本拠の山垣城周辺の山城探しに出かけます。遠阪峠に向うR427号と遠阪川を挟んで” 青垣もみじマラソン・コース”となっている農免道路が通ります。遠阪川に沿って両岸の丘陵部分には、 足立左衛門尉遠政が築いた山垣城を本拠とした足立一族が但馬や丹波市の芦田氏や久下氏等の侵攻に警護の支城 ・砦を築いていました。
中佐治城と烏帽子山への稜線(左手奥)

佐治城稲土城小稗城と西方の城を廻ったので 遠阪川に沿った北方の城に進みます。小和田 城は先日訪れたので更に北へ入ると、中佐治から榎峠を越え福知山へ抜ける車道があり、 パラグライダーの初級練習場”スカイパーク青垣”の緩やかな丘陵の斜面には、色とりどりのパラセールが拡げられています。車道を挟んだ北面には、 烏帽子山から梨木峠〜榎峠へと府県境尾根が延び、この尾根から西の363m峰へ派生した枝尾根が南へ突き出してくる丘陵の中程・西側中腹、”エツこんな所に・・・”と思える位置に中佐治城があります。
建設中の北近畿豊岡自動車道上の中佐治城


見当も付かない場所だが丘陵中腹部の突端は植林 ・雑木が伐採され草木迄刈られて・・・丘陵部の下を南北に”北近畿豊岡自動車道の春日 ・和田山道路”が走り、左右はトンネルとなる建設工事中です。このトンネルを抜けて次のトンネルとなるのが足立遠政の山垣城です。山垣城も低い山城なので南側の低部にある曲輪や堀切・竪堀の遺構や、北部の帯曲輪等遺構が壊されていないか心配です。 古墳を利用しての中佐治城だったようで、予定地に古墳の発掘調査が入り、工事により消滅した古墳もあるが五基ばかりが発見発掘されたようです。 ”氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書”には三基が記されているので2基は工事道路で消えたようですが、分布図では此の工事道路が完全に中佐治城域に入っており壊滅してしまったようです。
中佐治城からの旧山陰道(R427線)

中佐治城としての調査では城域の南東と南に各二段の曲輪が確認されています。浅い堀切を持ち土塁等の防備設備は無かったようで、 上の曲輪を下段の曲輪が帯曲輪で取巻き、旧山陰道の通行や佐治側の見張りと本拠の山垣城への”知らせの砦”だったようです。 圧倒的に足立姓の多い青垣町ですが山麓の岡見集落には岩下・桑原姓が多いようです。
中佐治城からの佐治郷眺望

此処で暫く話し込んだ 桑原さんからは、天王山の戦いに敗れた明智光秀が丹波路を此処まで逃れてきて、中佐治の民家で亡くなったとの伝承が在りました。史実はともかく・丹波攻めで諸豪を倒した光秀が丹波に遁れて来た事は不思議ですが、反面丹波の地理を熟知しての丹波路を越え、 免税措置等で光秀贔屓の福知山へ入るため、遠回りながら間道を抜けてきたのなら・・・話としては面白いですね。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)


松倉城 奥山? xxxxm   青垣町山垣奥山

丹波冨士・大箕山(3等三角点 626m)の北方に点名:稲土(4等三角点543m)があり東へ延び出す 枝尾根先端部に足立氏の山垣城とは遠阪川を挟んで向合いR427号線(但馬街道)側の丘陵上に位置して本城に最も近い位置に松倉城が在りました。 天正7年(1579)但馬から遠阪峠を越えて侵攻してきた羽柴秀長の大軍に攻められ落城した山垣城周辺の支城・砦の一つでしょうが、築城時期や城主等の城史については不明です。 松倉城主郭の秋葉社(裏手に大土塁と堀切がある)

鹿嶋神社に秋葉社の遥拝所が有り、北近畿豊岡自動車道を挟んだ背後の山上に秋葉神社が祀られています。此処が田ノ口城で曲輪・竪堀・堀切・二重堀切等の遺構が完存している。 松倉城とは遠阪川を挟んで東北に在ったと思われる中ノ谷城を探したが此処は・北近畿豊岡自動車道と其のトンネル出入口付近に辺り、道路建設工事で消滅したものか?竪堀・堀切があったされるが、堀切を 設ける尾根筋も無い激急斜面を上り下りしただけ。中ノ谷城から南方の山垣城と、 遠阪川の南西対岸に位置する松倉城へは同距離に在り・北近畿自動道沿いの遠阪川左岸の車道から遠阪川に架かる矢田橋からR427号線に出て直進する山道を進む。
松倉城の大土塁と堀切


佐冶方面からは遠阪峠へR427号の遠阪小学校を目指す。郵便局前交差点を右折すれば山垣城。直進して小学校前を過ぎた左手に平地公民館が在り、直ぐ隣りの民家脇を左折する林道然とした車道?が先程の 矢田橋からの道との交差点。一寸見には遠阪小学校の裏山が城山らしく見えるが 【後年:小学校・八幡神社背後の丘陵上に松倉城以上の規模の山城八幡山段城<仮称>を発見】正解は国道を渡って 民家の間を直進する作業林道?程の幅広山道は第23号台風(H16.10)の豪雨によりズタズタに寸断・崩壊しています。
主郭背後の土塁・堀切と二連の竪堀

山上が松茸山でない事を民家で確認して直ぐ右上の山頂を目指します。鹿猪除けフエンスを開閉して林道を進む。谷筋の左右に数段の広い平坦地形が有る。左側は神社や墓地跡では無さそうで、 畑地とおもわれますが、右岸は急傾斜上部に松倉城を控える3段程の広い平坦地で中央付近に仕切り土塁跡を思わせる石片が多く残る堤状が突出している。また段差は切岸状に落ちて古い石積みも見られるが・左岸とは違い、右岸に谷からの取水は無理ぽい。田畑用の配水溝や周囲に畝跡も無さそう。集落直ぐ裏手の広い平坦地が戦時中の物不足に何も利用されなかったとは思えず、
松倉城主郭(単郭)に入る平入虎口

芋・・・等が耕作されていたとは思われますが 屋敷跡との推察も捨てきれません。只・松倉城が丹郭の規模も小さな砦規模のから考えれば松倉城単体の屋敷では無く、足立氏の本拠城:山垣城も至近距離にあることから、家臣団を擁する足立氏の武家屋敷群の一つと考えられます。其城ではあっても長期篭城戦に耐えら れる城とも思えない。河川沿いの平坦地は貴重な耕作地でもあり、河川氾濫も考えられます。有事を考えれば、松倉城からは近距離の山垣城 ・田ノ口城・中ノ谷城への派兵の為の分散配置は必要だったのかも!!??。 道が無ければ相当なアルバイトを強いられる急斜面ですが幸い明確な道が続きます。
山麓・谷入口部の広い削平段に遺る古い石積み跡

目指した山頂への道は参道で、つづら折れの急斜面から平入虎口状の開口部を入って登り着く主郭(10X15m程の平坦地)には祠が祀ってある。関東から来住の足立氏ですので 守護神の秋葉神社が祀られているのでしょうか?。以前の訪城の際は台風26号 (2004.10)によるものか石積み基壇から1m程離れた位置に 赤い屋根の小祠が、そのまま残っていたが再訪(2010.11)では、真新しく見違えるばかりに立派な祠が基壇に鎮座していた。
山麓の広い削平段は田畑跡か?切岸段差や散存石積も気になる


祠背後の尾根側には大土塁(高さ2.5m程)が有るが幅も広く櫓台が有ったとも思え堀切と共に尾根を遮断しています。堀切からの尾根筋は比較的急な登りながら、既に城域を外れていくだけ!!?.。主郭に戻り虎口 状の参道を下山するが主郭の一段下に小さな腰曲輪。主曲輪の東面から北面にかけての 綺麗な切岸を見せる。東北斜面に崩壊と思える 大竪堀の他にも竪堀状を見る?。急な尾根筋は東へ落ちるが腰曲輪の下方には山の傾斜を利用した古墳と思える岩が露出している。
主郭東下斜面に見る古墳の開口部!!?

埋もれかけた空洞は石に囲われており、横穴式石室を持つ円墳の玄室部と思われますが、古墳についてはズブ素なので興味のある方は画像で判断してください。遠阪峠を越える山陰街道は但馬・京都丹波・兵庫丹波や播磨・摂津 ・京都を繋ぐ交通の要衝であり街道を眼下にして、天正期には尾根続き・谷向いの田ノ口城の時の城主・足立右近光永の出城か、山垣城の一砦だったのでしょう。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)

本誌丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system