八上城支城群の山城を廻るT 八百里城・奥畑城・大上西ノ山城・武路城 他 |
八上城を取り捲く枝城としての八百里城は油井城(丹南町)・籾井城(福住)等と共に比較的規模の大きな山城です。八上城下でR372号から北上して篠山川を渡る702号線T字辻の向い
・西側の車道に迫り出す丘陵に塚ノ山砦・東側ゴルフ場に入ると勝山砦、東に般若寺城と八上城を窺う明智軍の向城が目立つ一帯です。702号線を般若寺手前で右に見送って北に向うと大渕館(土居の内)を抜け
奥畑側からの八百里山(八百里城)
301号線に合流すると八百里城の登城口:瀬利の集落です。東山麓を北の奥畑・火打岩に向う旧街道筋に畑氏所縁の旧家?だろう 堂々の朱を残す長屋門を遺す御屋敷横を通り、八百里山を望む登山口の神社参道口に着く。篠山五十三次石碑と城跡案内板が立つ。此処から主曲輪の八百里山442mまでは比高約200m。山容の美しさ・標高・比高・山頂主郭部縄張りの規模や遺構の残存状態・城史に燦然と輝く?畑氏の山城は
八上城と比較しても遜色のない城だが同じ「八」の字ながら知名度に於いて随分と劣悪な状態に置かれている不運な城です。
南出曲輪と社殿【家中の台!?】間の稜・竪堀と参道(右手)
登山口から直ぐ見えてくる一段高い位置に祀られる歓喜天の祠横の鳥居を潜って山道に入る。尾根部に祀られる稲荷神社への参道の第一鳥居のようだが 山上の稲荷社周辺にも朽ち果てた鳥居の柱材を見なかった。谷沿いの道は稜線に近づくと竪堀となり参道は堀底道状と並んで稜線の尾根道に着く。主郭部の山頂を目指す前に左折・ 山麓から見た尾根先の低い南郭部に向う。 2〜3分緩やかな傾斜の尾根の先端までに 2-3平坦地・二重堀切(2-3m)があり、
南出曲輪:土塁を挟む二重堀切(南側)
その先に二つの円状(円墳のマウンド!!)の物見櫓台状の平坦地がある。更に下方に曲輪があり曲輪から見て左斜下へ長い竪堀が落ちる。右下方への窪地は真下に延びるが此方の方が山仕事用の杣道の感じ!!?。元の山道へ戻ると暫らく良い道が続き稲荷への参道を進む。途中尾根沿いに藪道は四角に囲われた露岩【八百里1号墳直径20m】に出る。稲荷社が建つ藪っぽい平坦地は居館跡らしい雰囲気だが、横穴式石室を残す古墳は…どのように扱われたものか?石室横に石列が残るので通路の石門柱代わりとなったものか?
南出曲輪:土塁を挟む二重堀切(北側)
石室内に落ち込んだ天井石一枚が閉塞石状に立っている。「家中の台」と呼ばれた城主の屋敷跡だったのでしょうか!!?。祠背後の尾根続に2段(共に1m程)の石積を見るが城跡遺構の切岸や土塁・虎口部等に石列・石積は見かけないので後世の神社整備に積み直されたものでしょう。尾根筋の傾斜が増してくると山頂も近く主郭に入る。雑木藪が深くなり正面の見通しは悪くなるが切岸高く・次々現れる曲輪の一つ一つも丁寧な削平状態が残る。左右に竪堀を見ると後は特に急な東斜面に全てが竪堀?とも思えないが竪堀状の窪地が何本も走る。
東の曲輪西端には二ノ丸へ登り土塁
雑木と下草に覆われた曲輪は特に主曲輪付近では矢竹の密生にも悩まされ縄張り図でもなければ・以前は大土塁の存在さえ気付かない程。主曲輪の土塁から10m程の切岸を降り西へ曲輪を2段程下ると7m程の切岸で大堀切其処に下りる。登り返す出曲輪の堀切側にも広い櫓台の土塁からは堀切沿いに南に2段程の小曲輪が付く。西へは20m・15m程と2段ばかり低い段差の曲輪が在って東斜面に片堀切を見て城域を出る様です。八百里山北側の谷筋・最奥の宅地(別荘のログハウスか?)付近に広い平坦地を見る。
山頂部主郭群の東斜面に畝状に見られる(6〜10条)竪堀群?
神社や寺跡かも知れないが山頂主郭部までの比高や距離・斜度も少ないので直近の敵対した奥畑城を落とし・支城とした頃からなら屋敷跡で搦め手がこの付近から通じていたのかも?。畑氏が入城する以前の室町時代・丹波守護職にあった細川満元の弟
下野入道満国・持春 (よしはる )父子が畑荘を領、この山城に拠って46,800石の地を支配したといわれています。八上城主・波多野秀治に従った波多野七頭の一人
・畑氏一族の居城となります。畑氏は関東は武蔵国府中の出身で南北朝期・新田義貞に仕えた【篠塚伊賀守・粟生左衛門・亘理新左衛門】と共に四天王のひとりです。
東の曲輪の端に仕切土塁?
桓武天皇第五王子葛原親王の末・畠山治郎重忠の末裔で延元元年(建武3年1336)高須城(鷹巣城・福井市)に僅かの手勢【太平記には27人】で籠もって足利尊氏軍と鷲ヶ岳(伊地知山)で戦ったが
【鳶巣城に籠もり戦場となったのが鳶巣文殊山ともいわれるが?】興国2年(1341)この際の傷が元で死去したという新田義貞に仕えた勇将・畑六郎左衛門時能(ときよし)の子孫という。その子:六郎二郎守治(時速?)が丹波にいた新田氏一族の江田行義を頼って多紀郡曽我部庄畑郷に移り住んだのが丹波・畑氏の初めといわれ、その子畑能道が丹波守護・細川頼元に属し延元元年(建武3年1336)最初に神南備の
(神が鎮座する)山・八百里山山頂に築城したとされます。
三ノ丸と二ノ丸の南斜面下曲輪からの竪堀
そ大内義弘が幕府に叛旗を翻した応永の乱(応永6年1399)では 山名氏清の子・宮田左馬之助時清・民部少輔七郎満氏らが大内義弘に加担して八百里城の東北方約 1.5kmにある奥畑城(茶臼山城)に篭城した。義満は同じ山名一族の時熙を討手に差し向けた。能道は福住の籾井氏等丹波の土豪たちと幕府方に属して城攻めに功を挙げたと伝えられる。その後・丹波守護の細川氏に属した畑氏は曽我部庄を中心に勢力を張っていました。波多野氏が勢力をもち丹波守護代になった頃の城主は畑宗右衛門忠綱で波多野秀治の被官となった波多野七頭の一人です。
主郭北側に延びる大土塁正面奥の櫓台土塁
その子・宗太郎守広も波多野秀治の武将として武勇の誉高く、織田信長の軍勢三万と京都・桂川の戦いでは一方の大将として大活躍した。
天文年間(1532〜55)末頃・城主畑牛太郎守綱が大改修したとされる八百里城は山頂に本丸の遺構・土塁が残り、北西の堀切を経て二段・本丸から南東へ六段の曲輪跡が連なり
「家中の台」と呼ぶところが城主の屋敷跡と伝えられ中腹には 家老屋敷等も建っていた。戦国時代末期の天正年間(1573〜92)最期の城主となったのが波多野氏の武将
主郭部西の大堀切
畑牛之丞守能(もりよし)。天正3年(1575)織田信長は天下布武を号令し、丹攻略を部将:明智光秀に命じます。当初:丹波の諸勢力は織田信長に従順の意思を表わしていた波多野氏・赤井氏等も
天正3年:信長に離叛したことから侵攻を開始します。畑牛之允守能は子の守国・能国らとともに八上城主波多野氏に付いて信長勢に抵抗します。八上城落城の直前・天正7年(1579)5月始め明智光秀軍により八上城周辺の城砦群を大軍による狙い撃ちで順次に切り落とされていきます。八百里城も此の猛攻をよく凌いだが数日の激しい合戦の末、
高い切岸の二ノ丸から三ノ丸…
城は持ち堪えられずに全員討って出たとされます。畑守能の長男守国は 光秀の幕下で名を知られていた高木吉右衛門・毛利新助・中条小市の首を討ち取り武勇伝を世に伝えているが
二男・能国(よしくに)ともに相次いで討ち死にしています。城主・守能は落城寸前に敵の囲みを切り抜けて丹波・摂津国境の母子(もうし)へ落ち延び永沢寺で得度し名を「老牛入道」と称したといい後:高野山に余生を送ったと伝えられる。
(現地「丹波篠山五十三次ガイド」 及び「郷土の城ものがたり」兵庫県学校厚生会 等参考)
大渕館(土居の内) 篠山市大渕(兵庫県指定史跡) 篠山市大渕字家中
八百里城が位置する瀬利から大上西ノ山城や般若寺城
に向う南方へ約1km程、大渕集落を南北に流れる畑川の西側に土居の内と呼ばれ・土塁と濠を周囲に廻らせた中世の豪族の屋敷跡「大渕館」の遺構が残されています。
旧態をよく残している大渕館の南側土居
土居とは集落や建物などの周囲に防御のために巡らした土塁のことで中世の頃の土豪・国人武士とか名主の居宅で土塁とともに堀を設け林や藪などに囲まれていたものが多く堀の内とも言われます。丹波市・篠山市にも昔は見られたと思われる土居囲いの居館遺構も現在・完全な容として残されているのは唯一篠山市内でも此処だけ全国的にも貴重な数少なく
市指定・兵庫県指定史跡となっている畑氏一族の居館遺構です。畑六郎左衛門時能を始祖とする畑氏については上記八百里城を参照願います。大永元年(1521)頃
の畑一族の宗家で八百里城主畑牛太郎守綱が波多野輝秀(氷上城主:宗高のことですが?
大渕館の北側の土塁と堀跡
伝承での活躍とは相反し史実には現れない為、氷上城(霧山城)の存在と共に架空の人物とさえ云われます)。実際のところは多紀郡代から丹波一円を支配するほど勢力を持っていた波多野元清(稙通)から曽我部庄を賜り、地頭となった守綱が荘園の事務を行うために築いた館だと伝えられます。
大渕館北側の堀跡・土塁・物見の松
【稙通は香西元盛・柳本賢治の兄で、波多野晴通は其の子(晴通の子が最後の城主秀治):奥谷城から
高城山に八上城を築いて本拠城としている。父:秀長が応仁の乱に細川勝元方に属しての戦功により多紀郡を与えられ丹波一円に勢力を伸ばしている】此処は東西約54m・南南北約47mの敷地を高さ約1.8m・底幅約 5mの土塁が方形に屋敷を囲み、南側には幅約7mの堀跡が残っています。東側には畑川が堀の代わりをしており、もとは北側や西側にも(濠跡らしい空地が屋敷を取り巻く様に田圃との間にある)堀があったとおもわれ、
大渕館西北角の土塁:外側民家との間は濠
改修される以前の畑川は館の北西から南に流れていて川と繋がり、川と濠に囲まれた館だった様です。古書・「篠山封彊志」には畠若狭という波多野氏の武将が居たとし「丹波志」には大渕古館として「天正の頃:畑左近允能綱(よしつな)・同弟の弾正守広等住む」と記されています。
(土居の内の案内板及び丹波篠山五十三次HP等 参照)
無曽山城(無曾山砦)
無曽山 Ca320m 篠山市瀬利字無曽
県道301号は八百里城の南裾を走り畑宮の交差点を左折して多紀アルプスの三嶽や小金ヶ嶽への登山口・火打岩(ひうちわん)へ向い97号に繋がって京都府三和町へ抜けでます。その畑宮からは畑川を挟んで八百里城の東方500mの位置に小さな砦があります。多紀アルプス主稜上の峠山と小金ヶ嶽の中程から鍔市ダムの東へと
南北に長く延びる稜線の南端付近で西方へ突き出す尾根の先端が畑川とR301号線に落ち込み接するところ、
八百里城登山口より無曽山(砦)を望む
北側は山際を畑川が流れ比高100mは尾根筋まで激急斜面が続きます。畑川に架かる高橋を渡った所がバス停・三嶽口です。登路がわからず竹藪の中の急斜面を北側から取り付いたが此処からは少々危険です。西南端に在る小さな神社の右手から踏跡が続く。尾根の西端ピーク付近の緩やかになった尾根上に2段ばかりの小さな(幅7-8m、長さ15m程度)自然地形のまま?の
無曽山城の堀切
平坦地が2カ所あり、その先の鞍部には此れも小さく短かい堀切があるだけだった。此れ以外に遺構は見られず古墳のマウンド曲輪に利用しただけの無曽山城(無曾山砦)は西に位置する畑氏の八百里城の砦か、北方約1.2kmにある茶臼山城(奥山城)の支城砦の一つだったのでしょうか?。 自然地形に近い平坦地と小さな堀切以外に防備施設を持たない城なので応永の乱(1399上記・八百里城の項を参照)で山名氏が籠もった茶臼山城か、畑氏の八百里城攻めの際に明智軍が築いた?付城だったのでしょうか。
== 小林寺と沢田城 ==
沢田城 沢田山(滝山) 241m 篠山市沢田字滝山
篠山城から北東・約1km沢田の田園風景のなかに沢田山小林寺(曹洞宗 本尊:十一面観世音菩薩)があり其の背山の最高所に主郭を置く比高30m程の独立丘陵が見えます。 県道140号の市役所・ハローワーク・警察署前通り郡家交差点を左折。新宮古墳前を抜けて文化センタ・篠山藩下屋敷の在った兵庫医大・丹波の祇園さん「春日神社」の在る黒岡から東へ向うとすぐ田園が拡がる沢田地区。
沢田城本丸の城跡碑と縄張り図
八上城主・波多野秀治の重臣で七頭の一人小林近江守長任が沢田・黒岡・郡家の地1,100石余を領し、天文9年(1540)頃【永正年間(1504-21)とも永禄年間(1558-70)とも諸説有るようですが!!?】に築いた沢田城がある。小林近江守長任が天正年間(1573〜92)亡くなり<戒名:小林寺殿助岩祐元大居士>その子・澤田(小林)平左右衛門尉長治が晩年に出家して
雑林を号して父:近江守長任と小林家一族の菩提を弔う為に一宇(雑林庵)を建てたのが 創生で明智の丹波攻めによる廃城後、
篠山城初代藩主(松井)松平周防守康重の助力を得て沢田城跡に移築されて沢田山小林寺と改称されました。
聖骨塔の南西側に沢田城出羽丸(墓地)がある
享保14年(1729)寺の位階を改め法地とし洞光寺(曹洞宗 篠山市東本庄:もみじの名所として知られる)の24世春国万世栄大和尚を開山に迎えて再興されます。3代目:小林修理之進時道の後:沢田城最後の城主は小林修理進(平左衛門)重範
(丹波守護山名時氏・氏清の下で守護代を務めた小林国範・重長等但馬国人の末流ではなかったかと推察される小林氏重の孫?)で天正6年(1579)柏原八幡山城(明智光秀は丹波攻めの拠点として此の年・此処に陣城を築いています)に進軍してきた光秀を氷上城の波多野宗貞等と迎え撃つが討死し、
小林寺と毘沙門堂のある出曲輪(右手)
程なく沢田城も明智軍によって八上城が包囲された頃には既に落城していたと思われます。沢田城の留守兵等は既に八上城に籠城の為城を出て空城(廃城)になっていたのかもしれないが光秀の家臣・並河飛騨守が八上城の城代となった天正10〜14年頃沢田城主だった渡部大膳綱定が叛乱を起こし攻略されたともいわれる。居館が在ったと思われる小林寺・墓地や神社・大日堂や 毘沙門堂・果樹園と城域周辺の改変著しく遺構と確認するには疑問の残る部分もありますが、先ずは其の沢田城本丸へ向います。
沢田城本丸南面の横堀
山門を潜って低丘陵の西側への 急斜面の石段を登った三方崖状の広い平坦地の墓所が出羽丸と呼ばれた曲輪跡で日当たり良く居住性があり、出羽丸の曲輪下(これ以上下はない車道脇!!)には大日堂が建てられていて永井殿井と呼ぶ井戸があった所と伝えられています。「水の手郭」としては本郭部東北か搦手側の二の丸付近だったのでしょうか。北面には田畑が拡がり池や湿地帯ですから。尾根側に向うと直ぐ玄奘三蔵法師聖骨塔・其の横を斜上して行くと本ノ丸の城跡平面図には空白だが聖骨塔上部曲輪と土塁の残欠部?を抜けて曲輪に上がる。西面・北面の斜面にも曲輪らしい平坦地が幾段も連続して有るようですが、藪中に踏み込んで見る程の事は無さそう。それよりも目の前に立派な「澤田城址」の石碑を見て、
大手の空掘(馬場跡と毘沙門堂へは右へ)
そちらに自然と足が向く。此処に縄張り略図や歴代城主を簡単に紹介した 説明板が掲げてあります。本ノ丸は段差の低い曲輪が東西に延び、以外に広い空間を確保しています。北方への二ノ丸曲輪が搦め手だが、池と田圃に囲まれた低位置にあり北山裾や南西山麓の池や沼による自然の濠と、田には黒岡川の水を引き込めば沼田濠
して強固な防護施設として利用できたでしょう。往時は四方水田に囲まれた丹波では珍しい平城に近い城だった様です。主郭部の尾根南端に溝状に窪んで緩やかに
下がっていく山道が堀切道で、堀切東端から主郭に入る付近迄来ると曲輪の切岸も明確で高く(3m程)2-3段の曲輪ややっと城遺構らしさを感じてくるが藪の中。写真を撮っても判るだろうか?。
沢田城「縄張り図」
本丸からは100m程・堀底道を進み2段ばかりの竹藪の中の曲輪を抜けると緩やかな尾根筋を下り、 小林寺と民家裏手の栗林の間を上がってくる堀切道【此処も尾根を掘り切ったものではなく、曲輪を区分する空掘】と合流する。此の空掘りから本丸へ向うのが大手道のようで、此処に大手門・木戸が設けられていたのでしょう!!。
空掘りから毘沙門堂へ向う緩やかな尾根沿い西側の栗林は「馬場跡」と呼ばれているところのようです。高低差の殆どない東南端に毘沙門堂があり北の尾根筋を除き三方は比高は然程ないが、南方からは急斜面に囲まれた小高い位置に在り、出曲輪として存在していたようです。墓地から毘沙門堂にかけて小林寺を囲むように、
コの字形の低丘陵尾根全域が城址です。
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玄奘三蔵法師聖骨塔
小林寺の背後:墓地となっている沢田城の出羽丸から本ノ丸に向う途中に「玄奘三蔵法師聖骨塔」があります。玄奘三蔵法師は:お釈迦様の生まれ変わりと云われ、
仏教忠興の祖として崇敬されている高僧で、和暦では第33代推古天皇の10年:仁寿2年(602)中国河南省洛陽の近くに生まれ、浄土寺の僧となり、さらに各地の寺院で研修に努めたが、
沢田城:
小林寺西南角の墓地(出羽丸)下の広い曲輪・下段に大日堂
26歳の時一層の研鑽を目指して留学を決意し国禁を犯して甘粛省の西の関から唐を脱出
・苦難の末中インドのマカダの学問寺ナーランダで修行を積み其の後:各師を歴訪して仏教の真髄を究めます。
仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶が三蔵法師で西遊記に登場する三蔵法師のモデルとされています。
玄奘三蔵法師聖骨塔
麟徳元年(664)63歳でなくなられ長安の都に葬られていたが墓所は度重なる戦乱のため所在不明となっていたところ、昭和17年日本軍南京守備隊により南京城外金陵での整地中に聖骨の納められた石棺が偶然発掘されました。
その聖骨は世界中の9ヶ所に分譲のうえ、わが国には6ヶ所(青森県南津軽郡薬王院・弘前市長勝寺・埼玉県慈恩寺・岸和田市久米寺・台湾仏教会!!)に奉安されています。其のうちの一つとして昭和40年(1965)篠山に聖骨2粒を奉迎し、
郡家の長楽寺に仮安置されていたが三蔵法師奉讃会によって昭和50年(1975)当所を選んで聖骨塔が建立されました。
(現地:澤田城跡・小林寺案内板 玄奘三蔵法師聖骨塔案内板 フリー百科「ウィキペディア」 丹波篠山五十三次ガイド 等参考)
武路城 xxxx Ca310m 篠山市今谷字武路
県道301号は八百里城の南裾を走り畑宮の交差点を左折すれば無曽山城や奥畑城(茶臼山城)へ右折すれば佐佐婆神社を経て大上西ノ山城や土居の内(大渕館)も近い。直進すれば
今谷集落で右手・田園の拡がる先の丘陵に
武路城 (ぶろ)がありました。
武路城主郭北面の帯曲輪
二重堀切(土塁を挟み同規模堀切有)
西北方約1.5kmには綺麗な三角形の稜線を拡げる神奈備の姿で立つ八百里山八百里城があり
丹波街道(京街道)を車塚付近から北の間道を抜けて篠山盆地へ入る裏街道筋にあたります。畑氏一族が八百里城の支城として、その東口を守備する為と思われますが築城時期や城主等、城史については不明です。登路が分からず今谷集落を抜けた所から25000/1地形
図の破線を辿ったが置き去りにされた数台の廃車の目立つ農道の先の空き地で 行き止まりとなった。無理に雑木の中に入ってみると古い山道が続くようだが藪と蜘蛛の巣は容赦なく襲ってきます。
主郭北側の堀切(西方から)
朽ちた倒木も多いので(潜んでいるマムシ等に)注意しながら進むが踏み跡は不明確。 尾根筋にまた踏み跡が現れ平坦なピークに着いて緩やかな鞍部にかかると左手(南)側に竪堀と片堀切があり、此処を乗り越えると段差の低い3〜4個の曲輪が並び堀切に出る。
主郭東の堀切
3m程の急斜な切岸が現れ稜上に出ると曲輪に沿って北面を帯曲輪・腰曲輪が捲いています。本郭部の北面に幅広の土塁の高まりがあり、雑木藪の為展望はありませんが。裏街道を望む監視位置にあたるので此処には櫓台が建てられていたとおもわれる。主郭から南へ延びる尾根上に並ぶ方形の為、広く感じる二つばかりの曲輪の先で斜面が急になり二重の堀切が続く。
大上西ノ山城 xxx Ca250m 篠山市大上字西ノ山
県道301号は八百里城の南裾を走り畑宮の交差点を右折すれば松並木が、昔の街道筋を彷彿とさせる様な道となって佐佐婆神社の鳥居まで続いています。この車道は土居の内(大渕館)や般若寺城側を通って篠山川と並走するR702号線に合流します。此の般若寺城は、もと波多野氏の祈願所・般若寺(現・正覚寺)があったところで天正6年(1758)明智光秀が八上城攻城の為、
北の尾根続きを遮断する空掘
八上城の周辺を包囲して攻撃する為に築いた 向城の一つとして築いた般若寺城が篠山川を挟んで八上城と対峙しています。その般若寺城のある低い丘陵上の北方約7〜800mには大上西ノ山城があり八上城を正面に望む位置にある。その遺構の縄張りが兵庫丹波の近在には無い特異な様相のうえ
旧状を覗わせるものは何も残りません。
南端の堀切
畑守綱が大永元年(1521)頃、西の波多野氏(氷上城主・宗高か?!)から曽我部荘を賜って此処に移る前は口丹波(亀岡市付近!)に持城があったが天文年間(1532-55)終り頃三好範長が八上城を攻めた時、八上城の北に臨戦の砦を築いたのが此処ではないかと考えられているが 現存の遺構は天正年間・明智光秀が八上城攻めに築城されたものだが城主は不明です。
南郭の西側・腰曲輪には等間隔で畝状竪堀が・
尾根の北部を堀切で遮断しした南北約120m・東西約40mの城域で主郭部の北(城域のほぼ中央部)を堀切(空掘)で二分された北郭と主郭部となる南郭の二重構造になっており南端も堀切によって防備を強めている。主郭の東西には腰曲輪が付き竪堀が走るが西側斜面には畝状竪堀が六条・計った様に等間隔で真っ直ぐに並んでいます。
大上西ノ山城遠望
大上集落を見下ろす南東側に虎口が有り、両側は竪堀で防御され且つ、虎口の張り出した横からは横矢懸けが可能となっている。一折れして入る虎口は織豊系城郭の縄張り構造で般若寺城同様、明智方が築城した八上城の向城なのでしょう。佐佐婆神社から大渕の土居の内への車道を分け集落内の車道で 田園の拡がる広域農道風の道に入ります。真っ直ぐ南へ向う道の西側に”土居の内”大渕館が見え、東側には南へ突き出るように延びてきた
南郭西の腰曲輪・此処に6条の畝状竪堀が並ぶ
低い丘陵が見えていますが、その台形上の南先端付近が目出す大上の西ノ山城です。
古代集落跡の案内ポール(朽ちかけたような?)の横を丘陵の向い正面の竹薮に入っていき尾根の乗ると直ぐ城域を分ける空掘りの着きます。4〜5mの壁を越すと北郭の入りますが此処は
古墳の墳丘を削平して台地を確保している。竹薮の中で広いようだが削平は粗い。
南郭部西の腰曲輪・土塁と畝状竪堀の切口
大きく深く感じる凹郭は
城域を南北に二分する中央部の空掘りで、南郭に出て此処で初めて竹薮から開放され、広く伐採された倒木で埋まるが南下に大上集落が見え、正面に八上城を望む明智方の向城であることを再認識出来る曲輪です。何処か
今福城(篠山市今福)に似ているようだった。居住性は弱いが向城で防御性をも強めて洗練されたスッキリした縄張りに加え、
梯郭式でもなく単郭式でもない長方形の曲輪の縄張りは他に例を知らない。何処にあるのだろう?。
城域を南北に分ける中央部の空堀
此の城の築城を任せられた武将による独自性が認められているようなら、何時かは城主が判明するかも?。なを民家の直ぐ上方なので南側の大上集落からが近くて判り易くて楽です・・(^^; 大上地区に古くは武家であったという押田家・木寅家があり西ノ山城に押田氏が居た様で、
同じ大上の東平城(北の城側)に木寅氏が拠ったものか?。居城の時代も判らず・畑氏一族だったかのか?、明智方家臣団だったかは不明です?。
「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」(八上城研究改編:和泉書院2000 参考)
大上東平城 xxx 302m 篠山市大上字東平
県道301号は八百里城の南裾を走り般若寺城へ抜ける道は途中・畑宮の佐佐婆神社を通ります。この畑宮地区と大上地区の間を南に延びてきた尾根の末端付近に大上西ノ山城があるが、其の東南には南端の尾根上に般若寺城のある小山塊が見えています。
大上西ノ山城南麓から大上東平城を望む
大上公民館から取付点を探すが民家に行き当たるだけ。暫く周辺を歩いてみると小さな祠が奥の民家側近くにあって此処も行き止まりだが強引に崖状の急斜面を攀じ登る。後は疎林なので比較的楽に稜線に出る。大上東平城は大渕館(土居の内)とは畑川を挟んで東方の大上集落に在る大上西ノ山城とは、
大上東平城:北郭北尾根側の土塁と堀切
集落を挟んで東から南へ延びる長さ約1km・幅 400m程の半独立の低丘陵部に在って、倉谷集落を尾根で分け南端を般若寺集落に落とします。大上西ノ山城と般若寺城が篠山川を挟んで。南に八上城と対峙した明智軍の向城・陣城として知らるが近接する大上東平城と間近の北に続く武路城
(大上西ノ山城とは尾根続き)は未だ殆ど知られていない様です。八百里城を本城とする畑氏一族の支城だったか、曽地の波々伯部氏・畑市城ともほぼ中間位置なので、どちらかの勢力下に有った城と思えます。
堀切を越え帯曲輪から北郭主曲輪へ
尾根上の城域を挟んで南北に堀切がある。八百里城の東口を守備する武路城に対し南口の守備にあたる城だったのでしょうか?。
築城され時期や経緯、城主等の城史については全く不明だが畑氏や波々伯部氏の他にも大上地区や倉谷・春日江地区に此の地の豪族・有力者の城が有ったのかも知れません。
大上東平城:北主郭東の段曲輪
なを参考の縄張り図には山塊北部のCa280m付近が記載されているが此の山塊南部の最高地点302m付近にも数段の曲輪があるようだが
堀切や土塁を伴う遺構までは確認していない。今度は城跡への取付き点を大上から倉谷に抜ける地区道の峠。開拓記念碑の先・池の端に駐車スペースがある。地区道を挟んで其の向かいから取付き・短い急斜面上から尾根に乗ると其処が曲輪。尾根筋の小さな起伏ごとに平坦地形が残る。
南北の郭群を分ける大堀切を埋める竹
緩やかな上り傾斜途中に小さな堀切を越えると北面から西・南へ廻る帯曲輪と北郭の主曲輪Ca280mで東尾根筋に4〜5段曲輪が連なる。南への尾根続に3段ほど切岸を落とす曲輪が続き、最低鞍部を東に一本の片堀切が落ちる。
細長い平坦地形の先に低土塁を見て南郭へと緩斜面を降り始める。其の尾根中程の鞍部には、大上・倉谷両集落を結ぶ深く長い大堀切が東平城の北郭と南郭を分けます。
大上東平城南郭:主曲輪に入る虎口?(尾根上から)
東西二つの集落を繋ぐ竹藪沿いにある堀底道?は倒れ・朽ちた竹が堀内を埋めて通過も堀底を窺う事さえも出来ません。大堀切からの尾根続き南:丘陵最高所302mには南郭の主曲輪がある。両郭の主曲輪へは長く比較的緩斜面の尾根上に曲輪を乗せていますが防御面では途中に堀切・曲輪に切岸も見ない。北郭側には近くに片堀切・低土塁を見るのと南郭側は鞍部に倉谷側から通じていそうな虎口形状が尾根筋に有る。一枚の大岩側面を割って通路とし・鋭角に三折れして尾根に上がる。
大上東平城南郭:主曲輪に三折れして入る虎口状!!?(下部から)
尾根までの高さを曲輪の切岸か土塁に、折れにより横矢掛を可能にした織豊系の虎口構造!!??。
南郭主部は曲輪も広く南の一段低い腰曲輪!?に共同TVアンテナ施設があったが此の南側切岸が約3〜4mと高い。広く長い尾根上に平坦地は続き、僅かに上り返す南端Ca280mにも南郭主部と同程度の曲輪があり・此処には一段下を帯曲輪が廻り東下にも曲輪があり、
倉谷集落南西端の貯水池近くに降りた。大堀切から南の尾根筋に曲輪等施設はなく大上・倉谷集落監視を意識した 在地領主の城らしくもなく全て八上城を向いて立つ構造の様です?。むしろ本陣となった般若寺城直近の背後にあり、南郭倉谷側に見た虎口状までは約500m。
大上東平城南郭:主曲輪の南側切岸
後方の大上西ノ山城との中間に位置していて北郭は畑氏の支城と思えるが大堀切を含めて南郭は・八百里城や沢田城落城後・八上向城群の一つとして明智方により改修に手が入ったものと思われます。本陣:般若寺城の直ぐ背後・陣城の大上西ノ山城の間にあって、広い曲輪群が確保され東西に出撃可能な低丘陵上の遺構は防御性には乏しいが、指揮に直ちに反応出来る距離と位置から考えても駐屯部隊が詰めていたと推察するのは間違いなのかな?。篠山川沿い横一列に包囲網の向城群が並ぶ一帯です。
「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」(八上城研究改編参考)
奥畑城(茶臼山城) 茶臼山 Ca330m 篠山市奥畑字東北山
八百里城を西に見て
無曽山城の足元を走り抜ける県道301号は火打岩(ひうちわん)へ向い、多紀アルプスの御嶽と小金ヶ嶽鞍部の大垰(おおたわ)を越えて県道97号に繋がり京都府三和町へ出ます。
97号線を南下して鼓峠を超える西紀町には垣屋の城(一枝城と西ヶ谷城)や更に下って板井城があり
兵庫丹波では数少ない山名氏方の重要拠点となっています。
奥畑城を望む
畑川が鍔市ダムからの谷川と合流する八百里城の北東約1.5km地点で、奥畑集落の上奥畑バス停北向いの丘陵に奥畑城 (茶臼山城)がありました。城跡の真南下に位置する民家の主人に城への取付を訪ねてみるが「城などないよ…」と素っ気ない返事。中世丹波の歴史の中では山名氏に関してだけでも丹波守護職が築城・守護代が居城し、応永の乱 (応永6年1399)では大内義弘について
幕府に叛した山名氏が立て籠もった城なのですが法光寺山城が八上城との関連で国指定になったのに対し、
主郭部西南の帯曲輪から虎口(右端)付近
地元にも関心を示されない史跡の遺構保存への取り組みや理解等の PR不足に難しさを感じます。南正面から藪に入って行くには気遅れし、東側の鍔市ダムへの分岐手前・畑川水量調節溝施設?の側から木枝伝いの激急斜面に取付いて城域の東曲輪に出た。段差を持った曲輪は小さいが遺構状態は明瞭です。南側は大きな空掘りや竪堀・高い切岸かと思える崩壊地があるが尾根の主郭部を外れた斜面上で 遺構に大きな影響はなさそうです。山名氏の城なので 竪堀群を期待したいところですが、後世に修築された本城!の八百里城と同等程度?。
西端曲輪の西側は崩れかかっているのか幅広の土塁状が捲いていて南側の帯曲輪から主郭へ登る虎口が開く。南側下方斜面には二本の竪堀が
将命門院・女人屈への道から奥畑城/左方遠く八百里城を望む
西の鞍部に下る尾根上に二本の堀切が共に南斜面に竪堀となって延びているが其々は余り深くない。東から北面は畑川と急斜面が天然の要害となり、西尾根からの侵入は二本の堀切で遮断し大手道となる南面からの登り道には数条の竪堀を備えて防禦する。南北朝期以後・丹波守護職は仁木氏から貞治2年(1363)極く短期間の足利直冬を経て貞治3年には
山名時氏が丹波守護となり奥畑城を築き、守護代となった小林民部丞重長→左近将監→修理亨等が以後〜応永年間(1394-1428)本拠は不明ですが丹波を支配します。応安4年(1371)時氏の死去で子・氏清が守護職になるが、足利将軍義満は大きくなり過ぎた山名氏を倒して幕府の権威を護るため、山名氏の内紛を利用して引き起こした明徳の乱(1391)により細川氏により氏清が敗死する。
奥畑城東北部の曲輪・露岩を取り込む切岸に
細川頼元が丹波守護となって後は管領や守護職が消滅する永禄年間(1558-70)まで細川氏は内部紛争を起しながらも丹波守護職を継いだ。大内義弘が幕府に叛き泉州堺で勃発した応永の乱・応永6年(1399)に呼応して丹波奥畑城(茶臼山城)に逃れていた 山名氏清の子・山名(宮田)左馬之助時清・民部少輔七郎満氏に鎌倉の足利満兼・近江の京極秀満・美濃の土井詮直(のりなお)等が大内義弘に加担して此処奥畑城に篭城。細川頼元に付いていた八百里城主の畑能道や籾井氏・中沢氏・久下氏・荻野氏等丹波の土豪、同じ山名一族の山名時熙が幕府方に属して城攻めに加わる。山名方についていた丹波の土豪(志内・山内・大芋・村雲等一族にも叛かれた)も
山名氏清の子・宮田時清・民部少輔満氏兄弟に従うものはなく丹波を逃れ大内義弘の立てこもる泉州堺へ、さらに南紀(和歌山)へと落ちて行きます。
奥畑城西端曲輪の土塁
宮田時清は久下長盛に民部少輔満氏は山名氏之に討たれたともいわれるが!?時清の子・直一郎が後の岡屋城渋谷氏の先祖にあたる。奥畑城へは波々伯部氏が拠ったようだが、やがてはこの地に勢力を張った畑氏一族の居城となったと思われます。丹波守護職は細川頼元の後・満元へと守護の長期安定期で、応永6年(1399)大内義弘の乱に山名時清・満氏は奥畑城に拠って挙兵するが義満の命を受けた山名時熈等に落とされる。応永16年(1409)山名時清・満氏兄弟も
足利将軍義満に赦されて 細川氏の勢力下に入ります。細川氏は澄元・高国政権の内紛もあって次第に勢力を弱め、守護代内藤氏も細川氏のどちらに付くか様子を窺うようになってくると?
奥畑城西北端の堀切〜竪堀
代わって波多野氏が台頭し大永元年(1521)其の傘下に入って被官となった八百里城主・畑宗右衛門忠綱(波多野七頭の一人)や畑牛太郎守綱が曽我部荘を安堵され、天文年間(1532〜55)八百里城を大改修します。波多野氏の有力武将として其の頃には周辺の奥畑城も畑氏によって改修され、支城として一族が入っていた事でしょう。そして戦国時代末期”天下布武”を号令した織田信長に”丹波攻略”を命ぜられた明智光秀の丹波攻めで
天正年間(1573〜92)最期の城主となった波多野氏の武将畑牛之丞守能(もりよし)の居た八百里城と共に奥畑城も大軍の猛攻に天正7年(1579)運命を共にして南北朝時代から築いてきた歴史を閉じました。
(郷土の城ものがたり兵庫県学校厚生会・戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究(八上城研究改編参考)
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