友政城〜横峰山(高谷山)/鹿集城・上垣城・前木戸城
丹波市 (五万図=福知山)
そのT友政城〜横峰山(高谷山)〜大勝寺  2002年01月19日
そのU三ッ塚公園〜岩戸〜上垣城跡〜鹿集城 2005年06月12日
竹田川から横峰山(高谷山)

近畿の山城 :友政城  鹿集城 上垣城  前木戸城と湯長谷藩陣屋 倉崎城(仮称)
丹波のお話: 友政城
校歌・故郷の山 竹田小学校♪天そそる 高谷山の老松の…♪
      鴨庄小学校 ♪大空高く 妙高のxx燈明の峰雲晴れて♪


古城から辿る横峰山 友政城-横峰山(高谷山)-大勝寺-活眼不動尊 H14. 01.19

春日インターから竹田川沿いにR175号線を北上すると、流れの奥にズングリして・どこが山頂なのか余り特徴はないが数本の鉄塔を見せて横たわる丘陵がある。 NHK,セルラー、ツーカーホン等の中継施設の並ぶ山頂には 立派な展望台があり横峰山公園となっているが地図上の山名は高谷山。林道が通じスカイスポーツ・アイランド市島の横峰山フライとゾーン(ティクオフ場)もあります。
友政城址公園登山口

山頂に展望台が出来る以前から呼び慣れた横峰山は高谷山 (こうだにやま点名:上田 443m 3等三角点)と記されている。横峰山(高谷山)へはJR丹波竹田の東約1km「アジサイの里・友政」から今は「桜の名所・友政城址」とグランドゴルフ場の 看板の建つ登山口に向います。駐車場・トイレ完備。平成1年には森林浴等保険文化的利用促進を図るためとして「静かの森」ハイキングコースが整理され町民の憩いの場所ともなって(AM8:40)丹波霧と初日の出…で賑わうところ。
毘沙門岩展望草地から五大〜鷹取(中央の尖峰)〜五台山

駐車場からプラ擬木の階段で整備された歩道が友政城址まで続く。 尾根上に出ると東へ方向を変え、緩斜な道に数段の曲輪を連ねる。上水道施設を過ぎると一気に展望が拡がり、平野の中に突き出た小富士山や尖峰をみせる 鷹取山・真っ直ぐに長く延びる友政城の曲輪(馬場!!)の先には桜木が目立つ段曲輪(4段程)と主郭の切岸高い曲輪群に着く。最高所の本ノ丸には桜の古木も多く
上垣の登山口から横峰山(高谷山)を望む

城址説明板・休憩東屋も建ち花見の頃は人気のスポットになっていることでしょう。本ノ丸の三方を帯曲輪が囲み一段下にも広い曲輪跡が見られます(AM9:00)。主郭から桜並木が続く横峰山への南尾根も直ぐ「静かの森」周回の下降ルートと別れると急に藪尾根っぽくなってしまう。以前は山道に鹿除けネットが続いて歩きづらくネット際を外すと藪で苦労する道だったが此れもすっかり取りのぞかれ歩きやすくて見違えてしまいます。 左手に竪堀跡を過ぎると遺構らしきものはないが?、
横峰山フライトゾーンから小富士山(中央)

林道手前で右手に車道幅の道が北に下っている直ぐ先の草地からがビューポイント(AM9:30)毘沙門岩上部の草地は絶好の展望休憩地です。竹田川を挟んで小ぶりながら堂々の小富士山や 黒井城から五大山への稜線 親不知が間近に望めます。下方に二つの露岩が頭を見せており、覗き込んでみたが基部は見えない15m程の垂直の岩場です。近くで犬の鳴声がするので手袋をして身構え、林道まで出てみると黒毛の野良が一匹走り去っていく。
友政城主郭から横峰山

ホッとしてNHK市島テレビ中継所のある山頂に向かう。 鉄塔北に二階建て展望台があり手前の1.5m程の石積み花壇の中央に横峰山(3等三角点443mAM9:35)標柱石があり、展望台の上段周囲縁には展望図絵が描かれているが 今日は珍しく展望図以上の展望に恵まれます。
尾根に登り着く友政城西郭部の櫓台状曲輪

弥仙山のの先にも青葉山・由良ガ岳辺りが見えています。鬼ヶ城・大江山・龍ヶ城・三岳山姫髪山粟鹿山の他、行ってみようと思う空山・高岳・天突等の三和町や綾部側の山々も、わずか450m足らずの山なのに展望の良さは周辺の山を抜いて随一です。林道と平行しての尾根には境界ポールを見るが藪を歩く人も居ない様で切り開きもありません。 辿ってみるとスカイスポーツアイランド市島「横峰山フライとゾーン」、
開眼堂と活眼不動尊

一基の吹流しの先に竹田川を望み小富士山目指して飛び出すテイクオフ場です。此処からも林道を外しての尾根筋だが良く踏まれた綺麗な山道だが直ぐ両側をビニールテープが延々と続く道を林道に出て大勝寺(高野山真言宗)(AM10:10)に下る。横峰山への一般登山道は林道経由か、下ってきた尾根筋を利用するかは知らないが車道へ出ると立派な登山口を示す絵看板が建てられている。
活眼不動尊のメガネ井戸:倉崎城(仮称)主郭跡

友政までの行程の丁度中ほどにある活眼(いきめ)不動尊に立ち寄る(AM10:30)。 ご利益有りとのことで遠来より参拝に訪れる方もいらっしゃるようで、私も母を伴い10数年前に訪れた所だが今日は歩きで…此処は寛永(1620〜1643)頃の領主・別所豊後守が娘の眼病平癒を祈願して香良浅山不動尊(五台山登山口・香良の滝で有名)と共に勧請したと伝えられています。 境内には旧メガネ井戸跡があり高取山〜五台山が正面に望まれます。


友政城  鹿集城 上垣城 前木戸城 前木戸城と湯長谷藩陣屋 倉崎城(仮称)


友政城(日ノ裏城)  Ca176m  市島町中竹田友政

登山口は友政(とんまさ)地区の「アジサイの里(現在:友政城山の里)」駐車場から、城址案内標識のある整備された遊歩道が山上の桜の名所となっている城址公園へ通じている。 上垣集落に(横峰山登山口)の案内板が立ち高谷山(こうだにやま=横峰山)山上まで林道が通じ「美味しい水のあるお寺」大勝寺(高野山真言宗)経由:従来は此処からが 横峰山(高谷山)登山口で尾根伝いも寺付近に降りてきます。
友政城主曲輪と大一文字土塁・正面奥には横峰山

高谷山から北西方に延び出す尾根先の峰に築かれ東西に細長く延びる尾根上に連郭式に曲輪を並べる友政城へも通じてハイキングとして周回するのも良さそうです。日ノ裏城は友政(とんまさ)城の名で知られる黒井城の支城で市島町指定(昭和54年3月19日)史跡となっています。南方の横峰山(高谷山444m)から北西面にのびる尾根の末端の標高176m峰に位置する。
主曲輪北面切岸と帯曲輪

塩津峠を越えて天田郡(現:京都府福知山市)・竹田川沿いには何鹿郡(現:綾部市方面)からの侵攻口を押さえる街道の要衝で黒井城の城砦の一つとして 前木戸城・新道具(東)城・鹿集城 ・誉田城等各城と連携して守備し相互連絡の拠点ともなり福知山・綾部方面への最前線基地として機能したようです。 城域の曲輪群は登山口から尾根に登りついた処に木戸(櫓台)と西下方へ3段程の小曲輪群(浅い堀切状に窪む溝状を挟んで末端の小広い曲輪がある)が並ぶ。
急斜面を一折れ<横矢掛け!!>して三ノ丸に入る大手土塁虎口

尾根沿いに片堀切状から 約70m程の粗直線的な馬場とも呼ばれそうな緩斜面が続く。中程にも通路北面に6u程だが中央が窪む・塹壕状の土壇がある。馬場?の東先で傾斜が増し見上げる前方の 切岸沿いに廻り込み、横矢掛け構造の大手三ノ丸虎口部を主郭群に入ると一帯の曲輪内には桜が植林され城址公園は桜の名所として又近年(平成1年)森林浴等保険文化的利用促進を図るため ・環境林整備事業により
主郭部三ノ丸・最上部は主曲輪を捲く帯曲輪

ハイキング道として友政集落から「静かの森」コースが整理され町民の憩いの場所ともなっている。正面に三段曲輪・その上段には東の尾根続きを除く三方を幅広い帯曲輪が囲む高い切岸上に主曲輪を置き、帯曲輪から主曲輪南側上り土塁道を捲き上がると、 掠れ薄くなり見辛くなったが縄張り図付き説明板と東屋が建つ。主郭東端には約3mと幅の広い一文字土塁(高さ約2m・長さ約15m程)、その手前の僅かに高い部分(公園記念石碑が立つ)が本丸か?。 主郭東土塁切岸下には約12-3u程の曲輪を挟んで二重堀切、広く削平された長い平坦尾根続き先に小規模な堀切(片堀切?)もあり東端部の物見台状遺構は天守台の祖形とも推察されます。
西郭部から主郭部間:尾根中程の番屋?or櫓?曲輪

城域は中央主郭部前後を緩衝帯とも思えないが長い平坦尾根を介して下の曲輪群(西末端郭)と上の曲輪群(東末端郭)の三群に大別されます。 主郭からは西陽に光る竹田川を西方眼下に、その先に春日小富士(明智光秀の黒井城攻め本陣)、北には友政城の属城 新道貝城を望むが本城の黒井城は酒梨 ?鴨坂の丘陵 (赤井氏・余田氏の余田城や鴨坂城 等城砦群が点在する)が 全景に有って望めない。後方の横峰山(高谷山城が在ったとの伝承があるようだが未確認・山頂展望台からの初日の出登山や雲海でも知られるが福知山市街地や周辺の山々の眺望が拡がる)。
東郭部曲輪と堀切(片堀切?)から主郭への東尾根部

伝承では天正6年(1578)12月21日・織田信長の命により「丹波平定」の任にあたった明智光秀の軍勢による黒井城攻めの際、 鹿集城は落とされ友政城も明智光春(光秀の弟)の奇略によって天正7年の黒井城落城前に無血開城されたといわれます。天正年間(1573〜92)の築城で城主吉松石見守に子孫はなかったという。 家老は三谷(見谷)牛右衛門友政で山麓にあった友政の屋敷跡と伝えられる土地には戦乱の武将「友政」を守り神とする八幡神社が祀られ、その名前は字地名・友政(ともまさ)としても残っています。友政は家老ではなく城主だったとも又、 「姓氏家系大辞典」には青木氏が拠城したともされる。

鹿集城(上垣城)   Ca83m  市島町上垣   2004.08.07

鹿集(かたかり)とは難しい読み方ですが城域は台地の市島中学校敷地周辺にあり遺構は畑地や校舎・校庭の造成により削平され、完全に姿を消した城址といわれますが、校舎の北隅に城址碑が建ち、東の藪の林中に二ノ丸と 空掘跡が名残を留めていると聞いているが僅かに土塁・濠・堀跡を窺わせる雰囲気だけは伝わってきます…。
鹿集城西北・濠跡?と春日小富士山遠望

176号線市島町役場を過ぎ、多田の小富士山 (明智光秀の黒井攻めの向城)の西面を竹田川に沿って春日町に入ると左手(西方)奥の谷間に留堀ヶ城(赤松貞範の築城、荻野伊予守の居館)の台地も中央部付近に見えている。竹田川に架かる上垣(うえかい)橋を渡ると正面には横峰山(高谷山)のパラグライダ(orハンググライダ)基地から南へ延びる尾根の末端附近の高台に建つ市島中学校が見えています。農免道路?近くに愛宕神社があり其処から周辺を散策してみる。 愛宕神社には用明天皇の王子・麻呂子親王が鬼退治の赴くに際し兵を率いて此処にさしかかった時、豪雨となり竹田川が渡れなくなり神社を見つけて避難し、
学校北門内の鹿集城址碑


一心に祈っていると”川面に立つべし…”とのお告げを聞き渦巻きたてて流れる竹田川の川辺に兵を勢揃いさせると何時のまにか橋が出来ていた。神のお告げによる”竜の背”の橋を渡り無事に大任を果たした親王が後に此の社を愛宕山社と名付けて地所等を奉納したと伝えられるが 鹿集城の在った学校の周囲は民家と畑地に囲まれグラウンドも拡張工事の最中。【天平年間末期(744頃)の大旱魃に周辺の水が涸れても此の台地の下の泉は涸れなかったので、鹿が水を飲みに集まって来たところから鹿集と呼ばれるようになったといわれます】築城時期は不明ですが鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟・範頼の二男吉見三郎資重(ともしげ・鹿集民部!!?)が承久3年(1221)頃【建久4年(1193)5月:頼朝の壮大な富士の裾野の 巻狩りの際の殊勲として鹿集荘を賜わり同年間-1207頃までに?地頭として下向したとも】武蔵国多摩郡吉見荘(東京八王子)から
鹿集城本丸部!?の畑地

鹿聚庄(鹿集庄・吉見庄とも呼ばれた)へ来住して築城したと伝えられ,氷上郡(丹波市)東部から天田郡(福知山市三和町附近一帯?)に勢力を張っていた様。市島町から戸平トンネルを抜けると三和町に通じる鴨坂手前に岩戸寺がある。 岩戸寺からは高谷山(横峰山)や尾根を下れば鹿集城へ通じる。吉見氏は吉見岩戸!!に居していたといい岩戸寺との関連も考察してみたいところです…。天正期・明智光秀の丹波攻めで明智軍は黒井・鹿集・余田友政城等の城砦に迫ります。天正6年(1578)最後の鹿集城主(27代目?) 鹿集(吉見)式部少輔則重は的場砦を守備していた嫡男助太夫守重と大澤喜龍(よしたつ)に城兵を付けて赤井氏の黒井城 (保月城)へ送り出し残る僅か70数騎で 明智光秀の先陣・弟の明智左馬助光春の500騎と戦い討死、城内の父母妻子は城に火を放って自殺しました。保月城にいた守重達は
鹿集城址に建つ中学校


”一族の者が尽く滅びない限り生き残って一族の再興を計らなければならない”と生き延びたが丹波で最後に残った保月城(黒井城)も翌・天正7年(1579)8月には明智軍の前に落城し一族は帰農します。吉見守重の子治重は柏原藩織田信包に仕えたが子孫は後に帰農したという。此処にも落城・隠し財宝の話が伝わります。「朝日射す 白椿の元に黄金あり…」と。グラウンドを見下ろす市島中学校の正面玄関横のフラッグ掲揚台側に4等三角点(点名:市島中学校77.26m北緯35度12分39秒・東経135度8分37秒)石標柱が埋まる。

上垣城 xxx山 185m  丹波市市島町上垣 2005.6.12

R175号線が戸平トンネルを越えて 京都府三和町へ抜ける県道59号 (市島和知線)分岐の旧市島町役場前に「ライフピア市島・三ッ塚公園」の標識を見え、白亜の体育館が目印。背後に続く丘陵を南北に分けるように喜多や岩戸集落へ峠越えの舗装車道が通じている。峠は昨年(H16年)の豪雨によって北側急斜面の崩壊で埋まり今・重機が入って復旧工事中。此の峠の南側には矢谷城館、北に続く尾根は点名:岩戸から横峰山(高谷山)へと延びていきます。
三ッ塚史跡の掘立柱群と上垣城

峠を越えて点名:岩戸を目指す心算ですが峠手前から崩壊箇所上部へ工事で出来たらしい踏み跡を伝って広い平坦な尾根に出る。点名:岩戸から登ってくる尾根との合流点で、暫くの間は高谷山への稜上も緩やかで平坦地も数箇所見かける。上垣へ派生する尾根筋は藪で判りにくいが直ぐ踏み跡とテープ(山仕事用!)が目に付いた。踏み跡を辿り185m峰手前の広い鞍部に降りてくるとコンクリート疑木の幅広い道になり公園の遊歩道の様になってきた。
上垣城南東下部の竪堀

鞍部の尾根筋から真直ぐ西南の三ッ塚公園側へと竪堀らしい溝が 斜面に落ち込んでいきます。上垣城の遺構の様で緩やかな尾根は直ぐ小曲輪らしい平坦部を見て、上りきったテラス状10mx12mの平地が主郭部の様で南方に展望が拡がり、竹田川を挟んで拡がる盆地に黒井城・春日小富士が浮かび五大山〜五台山や三尾山や向山連山を眺望できる尾根随一の展望台(随一とは云っても展望の効く場所は此処しかないが)。天正期・明智の丹波攻めの頃には黒井本城を望む鹿集城の出曲輪か鹿集城・友政城・余田城等の福知山口を守備する赤井方の諸城との相互連絡や 見張の砦として機能したのかも知れません。
岩戸峠上部の分岐峰部テラスは寺院遺構か?

其の意味では友政城の出城として高谷山の北方尾根上にも福知山の山を望み六人部方面から南下する要衝の街道を見張る砦(高谷山城!)が有ったと思われます。小多利城館が妙高山への 山岳修験道と考えてみれば、岩戸の峰から横峰山(高谷山)〜戸平峠へも丹波修験の道が通じ、岩戸寺や大勝寺から入峰していたのかも知れない。長い丘陵上に平坦地が点在しており高谷山城ともされる曲輪のおおかたは、修験道の堂宇跡の遺構とも思えるのですが?此の高谷山を 主峰とする丘陵最北端の下竹田には前木戸(サシド)城があります。山頂から中竹田へと西へ延びる尾根の 友政城と市島町上垣の鹿集城は良く知られるが、鹿集城の直ぐ背後から高谷山の尾根南端部に伸び上がる枝尾根上に城遺構らしいものが残る上垣城については殆ど知られていないようです。 鹿集城のある市島中学校側に農園作業所「ぶどうの館」があり、
上垣城の主郭部?テラス

城跡を経て三ッ塚廃寺公園へ通じると思われる1.5〜2m幅の、コンクリート疑木の階段も狭い車道からの取付き付近は藪に隠れ 案内標識もなく遊歩道も忘れ去られていくようです。史跡公園が有り文化施設が整い背後には砦城があり 僅かな歩道整備で里山を見直す自然遊歩道が完成し農園あり・レストランもあり森公園としての環境は充実していると思うが整備計画は無いのでしょうか?惜しまれるエリアです。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


前木戸城と湯長藩丹波国陣屋
前木戸城 xxx山  丹波市市島町下竹田前木戸

横峰山(高谷山)の丘陵山麓を流れる竹田川左岸に沿ってR175号の八日市交差点から県道708号線をR9号線に合流する六人部(むとべ)へと走る。友政城下を抜け”中風除けの青麻三光宮”<例祭6月15日>成願寺の幟が立てられている前木戸橋南詰に着く。
前木戸城・末端の北峰側

余田谷 (市島町上鴨阪)の前木戸城主:高橋氏(余田氏姓を名乗る!?)は明智の丹波攻めで帰農していたが高橋(余田)大和守為房より 4代後の余田三郎右衛門為成(42歳の時)が天和2年(1682)大庄屋として湯長谷藩丹波国陣屋の代官として宝永年間(1704-11)頃には依田姓を名乗っており、 再び此処に來住の際・本家の内藤(遠山)家の在った青麻三光宮を分社され、交互に下竹田・東勅使・何鹿郡(綾部市)私市に2000石の代官を務めた 東依田・西依田両家累代の先祖から現当主まで成願寺に祀られています。
前木戸城南峰西郭の堀切と曲輪

此処・表集落入口の前木戸橋南詰から約1km・一直線に延びる車道の先が坂道カーブに差し掛かる位置は福知山市石原の府県境。その左手高台の田圃には福知山市側の田野城が在り 竹田川が土師川の合流する地点。約.3km程直進すれば京都府福知山市の多保市 ・六人部へと山陰道R9号に出て京都 ・若狭・丹後・但馬へ向かう府県境界にあって塩津峠と共に 黒井城の東玄関口の要衝を押さえる最重要拠点ともなっていたのでしょう。
前木戸城南峰西郭の曲輪

氷上<丹波市>・天田<福知山市>・何鹿(綾部市)の三郡は赤井氏の支配下に入っていた領地です。竹田川向いの北方には福知山から塩津峠越えの街道筋を監視する東氏の 新道具城や小野木氏の下村城((所在不詳!)そして赤井氏一族?の赤井弥助が拠った下竹田城(所在不詳!?)。 綾部方面から竹田川に沿って南下する街道筋には吉松氏の政城前木戸城(サシド)他の城砦が互いに呼応しながら黒井城塞群として要衝の監視・防備に当たっていたのでしょう。
前木戸城南郭と北郭を分ける堀切道の北(表集落)の入口虎口部?

横峰山から北へ延びる稜線末端が下竹田表集落へ落ち込み更に半独立丘陵状に延びる高低差も少ない標高80〜60m程の低丘陵 (比高約25m〜40m程)が竹田川に向かって延び、森集落のニ宮神社前を流れる森谷川に其の先端を落とす。二宮神社側の森谷川に架かる宮橋北詰めに ”大師道参道入口”の石標柱側の民家・倉庫裏手からの参道を登れば5分程で城域北郭部の石仏を納めた儀傳堂(祠は霊場巡り関連の観音堂か大師堂か?・城址関連か?不明)を祀る曲輪に着く。
北郭側の土橋と堀切、 左は竪堀・右は空掘が主郭をL字状に捲く

表集落から北端の森集落側に延び出して森谷川にその先端を落とす低丘陵は二つの小さな起伏を見せるが高低差は少なく・広大な丘陵部全域を城域の南北を分ける堀切道・平坦な台地上の曲輪を土塁・空堀で区分して個々の曲輪を確保しているようです。尾根筋は広い鞍部上で途切れる様ですが表集落からの切り通し道が登城の堀切道で左右が迫り狭くなった入り口は虎口・番小屋を置くスペースも有り!!? 鞍部まで登ってくる。
主郭南東角の櫓台から北へ延びる空堀・突出す曲輪から横矢が掛かる

鞍部からの尾根は南へとミニ霊場巡りの大師道が延びていき、西側目前には墓地に続く石段参詣道がある。墓地敷地以上に広い平坦地形が有って 其の先は表集落へ斜面は下っていくだけ。広い鞍部は池の造成も可能の様。西の墓地側から南側大師道端へT字状の大土塁があり(後世の造成によるものかは不明)、土塁を挟んでの曲輪から一帯も居住性の高い城遺構の可能性を感じます。墓地の奥・西方には深い堀切道を隔てて竹田川沿い要衝監視の西郭が堀切道から丘陵北端にかけてが前木戸城の訪城メインで土塁と空堀で曲輪を分け防備を固める遺構が遺る。
曲輪の西〜東を捲く空堀に突出す主郭南東角は横矢掛の曲輪:土塁上は櫓台か?

室町時代初期高橋大和守為房が 築城したといわれ天正期には赤井氏一族の赤井弥助が居たと伝えられます。天正6年(1578)12月「丹波平定」を急ぐ織田信長の命を受けた明智光秀の大軍勢を前に友政城 は殆ど無抵抗で落城、鹿集城も大勢を黒井城へ送りだし残った少兵(僅か70数騎)で明智光春(光秀の弟)軍と戦い 全員討死・城に残された妻・母・子等も城に火を放ち自殺・落城したと云うが 近隣の友政城・鹿集城の戦いで前木戸城の落城を聞きません(城史の詳細不詳)。黒井城城代:三尾山城の赤井幸家に付いて但馬等に転戦していたものでしょうか?。
主郭南東角を囲む土塁・突端は櫓台か?

前木戸城主高橋氏は翌・天正7年(1579)黒井城落城直前の 8月頃・明智側の説得に応じ帰農を条件に無血開城したといい、この時期には荒木城の侍大将:三村三右衛門の子・助左衛門が母と共に黒井城を出て下竹田へ逃れ・此処で1年間過ごしたといわれ、前木戸城主高橋氏の庇護を受けていたとも考えられ、美濃国赤坂に落ちたが子孫は此処に有ると伝えられます。
北峰側は土塁残欠と低い段差で広い曲輪が残る

居館としての居住性があり曲輪も広い前木戸城だが、城兵も少なく防禦に弱かった為か赤井氏一族としては、もう一つの持城・下竹田城の城兵等と共に黒井城の指揮下に入ったのかも知れない。以前は丘陵北末端のニ宮神社からと思いながらも、宮橋を渡った集落先を南へ廻り込んで水神橋を渡って丘陵尾根に向かい畑地を詰め上がった。左手に細い舗装林道が高谷山へ通じています。比高も僅か・城域は其処と判っていても民家への路地・私道を抜けてまで、背後の斜面の藪を突いて登るわけにもいかず田圃・畑地を詰めて稜線に出るとミニ観音霊場の石仏が続く 大師参道が現われます。
前木戸城・主郭櫓台土塁(横矢掛)から東面の空堀

北側の表集落からの堀切道が上ってくる広い鞍部は墓参道だが周囲に曲輪を挟んでT字状の大土塁 (造成によるものかは不明 ?)や、広い平坦地形は他にもあって前木戸城南郭として区分したいところ!!。訪城るーとは今なら迷わずニ宮神社側の宮橋から 民家の軒先を抜けて尾根先に取付く大師参道道を辿るが鞍部から大師道を外れて西側へ延びる南峰側に向かってみます。小尾根の東西を遮断する堀切の先は単郭の平坦で
前木戸城:主郭北の仕切土塁(手前も広い北郭部)

広いマウンドを持って終わり曲輪から急斜面を下ると直ぐ鞍部。森集落内の東西150m程を繋ぐ切り通し道となっているが深く大きな堀切道だった様に思われます。 お蔭で二つの小さな起伏の丘陵上は共に・尾根上を堀切で遮断し、両曲輪へは中央鞍部の堀切道を通って登城していたと思われます。一旦・森集落西側へ出て北端部の様子を確認、再度堀切道に引き返して大師道に戻る。
前木戸城:北郭の主郭側空堀と仕切土塁

中央堀切から斜面を大師参道の尾根筋に出ると土橋付堀切を見るが右(東側)は傾斜面ではなく 緩やかに曲輪に沿って湾曲していく。土橋を渡ると土塁囲みの広い曲輪が現われた。先程の堀切は高い土塁と空掘が西南から南東を城域の北端へと主曲輪を囲って延びる。深く堀り込まれた空堀は主郭を西面から南〜東へとL字状に延びて土塁囲の曲輪南東角が迫り出す。土塁上に櫓台があったか?、空堀先の東面途中にも迫り出す曲輪があり 切岸が折れを持って”横矢掛”を意識した構造になっています。
前木戸城:北郭部北端の儀傳堂(ミニ霊場関連か?・城址関連か不詳)

ひくい段差の広い曲輪は仕切土塁・空堀で区分されている様。北端の小曲輪には祠が有り観音霊場廻り入口の大師堂か 観音堂や参道・鞍部の墓所付近以外は広過ぎる程の城域に開発・改造・整備された様子は少ない。天正期頃も居館として何鹿郡側へ進駐時の将兵の駐屯地として使用されたのかも…!?
(ふるさと市島の祠堂:市島町史実研究会編 「依田文書」「湯長谷藩史」Wekipediaを参照)

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湯長谷藩丹波国陣屋

兵庫丹波の篠山・丹波の両市には共に100ヶ所を越える城砦群があるが一部の城砦を除いては伝承が残っていても・地元でも知らる城跡はそれ程多くはない。 遺跡分布調査等に記載されていない山城を今も時々発見します。其れだけに城の歴史は勿論、城が在ったとする曲輪・堀切・土塁等の遺構さえ顕著に残る城砦は少ないが京都府境にある前木戸城については、
前木戸城の南郭・北郭を分ける堀切道の鞍部台地にみるT字状の土塁は城遺構か?

藩政時代には前期柏原藩織田家の改易で天領となっていた約45年程の期間や後期織田家の時代にも100幾つかの村単位に数多くの領主が置かれ、 其の中には監視等目付的任も有ってか鶴牧藩水野家や亀山藩(亀岡市)等の陣屋も置かれていた。レポートUP後に城主高橋大和守為房の後裔にあたる依田氏から情報提供を受け奥州湯長谷藩高橋氏(依田氏)の丹波国陣屋が前木戸城麓に在ったと聞き改めて再訪した。
南郭・北郭を分ける堀切道鞍部の北の台地も、墓地と広い空地が城関連施設に思える!!

前回は丘陵上部から末端の城址へ「前木戸八十八ヶ所」巡拝コースの 山道沿いに見つけた堀切だが、実は大きく城域の南面を遮断して西へは竪堀となり、東面へは其のまま長く深い空掘となって延びています。高さ4〜6m程の切岸をもった曲輪は空掘りに沿って土塁を築いています。 八十八ヶ所巡拝コース沿い山道の東側には1m程の段差を持つ広い曲輪が3〜4程あって曲輪間を土塁で仕切っているところも有る。通路の確保を兼ねたものか…其の北末端には 儀傳堂(一基の石碑が堂内に立つが刻印されているかも判らない(^^ゞ)が建つ。 京都府(旧何鹿郡)側からの侵攻に備えた見張所・矢倉台が建っていたと思えます。前回見残した曲輪東側を探索してみて驚いた。
前木戸城:主郭西の高い切岸と深い空堀

多くの低丘陵上の城館は此処も低い土塁や平坦な尾根上の堀切だけで防備設備の弱い小さな館城かと思っていたが、 東側の比高は低いながら(20m程)急斜面を曲輪の間に堀切道を上がってくる虎口らしいところ!一段低く続く帯曲輪の先には高い切岸を持つ曲輪があり三方が土塁で囲まれている。切岸下には空掘があり、東から西へ曲輪を捲いて八十八ヶ所巡拝の尾根端に続いています。
●奥州湯長谷藩丹波国陣屋前木戸橋南詰から表集落に入って直ぐ表区公民館の前の細い車道を東へ30m程、表区民広場前に2連の蔵がポツンと残された広い空き地があり、 この付近が湯長谷藩丹波国陣屋(代官所)跡と推定します!?。湯長谷藩丹波国陣屋の初代藩主は陸奥国(福島県いわき市常盤下湯長谷町)に延宝4年(1676)湯長谷城 (岩崎中学校敷地内)を築いた遠山(内藤)主殿頭政亮(まさあき・内藤忠興の次男)に始まります。
二宮神社から前木戸城

内藤忠興から磐木平藩7万石の所領の内1万石の分与を受け平藩の支藩:湯長谷藩として立藩します。政亮は延宝8年 (1680)芝増上寺で将軍家綱の大法会の最中に起こり、松本清張「増上寺刀傷事件」のモデルとなった内藤忠勝乱心事件を食止めた功績等が賞されて、天和2年(1682)大坂城加番(幕府組織の警衛)となり、2000石を加増されたなかに丹波国氷上郡の東勅使・下竹田・何鹿郡私市(福知山市と綾部市に跨る )の所領拝領が含まれています。
前木戸八十八ケ所一番札所の地蔵堂と前木戸城


さらに貞享4年(1687)にも大坂加番を命じられたことから河内国茨田郡内に3000石を加増され合計1万5000石を領することとなりました。前木戸城主高橋(余田)大和守為房の子孫は帰農していたが5代目高橋(余田)三郎右衛門為成が湯長谷藩遠山家に召抱えられ、 前木戸城西山麓に陣屋を築き湯長谷藩丹波国陣屋(2000石)の在地代官として取り立てられ依田姓を名乗ります。北依田家については宝暦年間(1751-)油商を営み、代官職は天保14年(1843)西依田家の依田新蔵為方・東依田家の 依田織衛(後:音右衛門<更に後改め寛左衛門>の二家が月番を定めて 一ヶ月交替で支配の役にあった。 (湯長谷藩史・御用留日記<湯長屋藩丹波陣屋天保13年-弘化2年>」任命された年代は不明だが天保14年より世襲代官を務めている様です。

湯長谷藩丹波国陣屋跡比定値?(現在グラウンドとなっている辺りか?)

湯長谷藩は3代藩主内藤政貞が遠山姓を元の内藤に戻して以後13代藩主内藤因幡守政養(ますやす)丹波国湯長谷藩は 一度も移封することなく明治維新を迎え明治4年(1871)7月廃藩置県により廃藩となります。丹波国陣屋定詰の最期の代官14代は依田織衛為信(内藤氏系図に政憲ともあるが!?)。依田家は東依田家 :西依田家が交合に代官を勤められ現在も両家は交流が続いています。 奈良?へ転出された依田家に遺されていた丹波国湯長谷藩関連の「依田文書や湯長谷藩誌 !!」の古文書は研究されていなかったのか?丹波志・氷上郡誌等では殆ど知られず、古文書を借り受けて地元自治会や市島町史実研究会で目録作り・整理が進められているようです。古文書解析等でなかなか進展ぜず苦労されていますが、大学の人文学研究科や市内の古文書研究会の協力が得られれば湯長谷藩丹波国陣屋の近世史や中世 :高橋氏〜依田氏の丹波戦国史が、
二宮神社から前木戸城(北郭)を望む

他府県史誌の情報を頼らないと得られない現状!!?からも、地元関係諸氏の努力に期待したいところです。疎覚えで申し訳無いが:依田氏は何鹿郡物部町(綾部市)の上原氏か一族の成田氏だったか?とは友好関係にあった!!?事が 正念寺(浄土真宗)だったかの碑に記されているらしいと浅根山城をアップの際に聞いた様な?。 湯長屋藩丹波陣屋の高橋(依田)氏所領の一に私市(旧何鹿郡<綾部市>)がある。

(ふるさと市島の祠堂:市島町史実研究会編 「依田文書」「湯長谷藩史」Wekipediaを参照)

倉崎城(仮称) 倉崎不動山 90m  丹波市市島町上竹田字倉崎

R175「八日市」交差点を直進し塩津峠を福知山市へ越えるルートも、道路付替・拡張工事計画前から福知山市六人部・綾部市方面に向かうのに右寄りに進む旧国道(街道筋)もよく利用していた。 先に寄った高坂城(館城!)も街道筋の西山酒造場の南手前の分岐点に以前は
県道(倉崎橋南詰)からの倉崎不動山全景

「活眼不動尊」案内標識があって倉崎城(仮称)へは竹田川に架かる倉崎橋を渡った正面の集落奥に祀られる活眼不動尊へ、目を患っていた母を連れて参拝したことがあった。 このルートも今では市島支所から三っ恷j跡公園下を前木戸で県道708号に合流し、福知山市に入った六人部でR9に合流し綾部方面に向かう車道で、ダンプ等大型車は殆ど走っていなかった頃からよく利用していた。
歴代住職卵塔群:大土塁(櫓台か主曲輪?)向こうは堀切

竹田川沿いに走るルートで友政城のある友政の500mほど手前の山際:倉崎集落の谷川沿い坂道の途中から階段・手摺のある参道があり登り口に「活眼不動尊」微笑山霊山寺の標板が立つ。 微笑仏なら木食上人を思い出す珍しい山号は経典や経文から引用されたものか?。
大堀切の西斜面に数条の畝状竪堀(3ー4本!)

参道を上がる倉崎不動山山上に祀られる石造”活眼(いきめ)不動尊”は寛永年代(1624-44)当初の 当地領主(氷上町の由良荘の領主で北由良に居館を置く 別所豊後守吉治が娘の眼病平癒を祈願して香良の浅山不動尊と共に開眼堂…等を勧進したと云われる。 【吉治は家康の死後・仮病で参勤交代を怠り寛永5年(1628)2月28日(丹波志に寛永4年12月29日)改易・所領を没収されている】
大土塁背後の尾根筋を遮断する大堀切

霊山寺は友政城とは所縁の寺と云われその城麓にあったが、友政城は天正6年明智光春(光秀の弟)の奇略により 無血開城したと云う…が其の 後の兵火なり失火!?で消亡。三度目の堂宇が宝永6年(1709)現在地に再建されたという。 20数基が並ぶ霊山寺歴代住職の卵塔が其の歴史を伝えてはいるが、
メガネ井戸土塁西下段::帯曲輪南端の塹壕?状

現状:不動山上部周囲(南北70m・東西80m程)の範囲に残る堀切・竪堀・畝状竪堀・土塁・曲輪等が散見出来るが不動山頂部の城郭遺構は削平・改変(壊変)著しいものと感じた。とりわけの参拝道入口側直ぐの堀切は幅6m(尾根上で10m程)で、主郭・櫓台があったか?大土塁との切岸も6-7mと高い。メガネ井戸の外角を土塁が廻り、一段高い小曲輪跡?の上に此の大土塁があるが、
城域北西の三段曲輪

不動尊側の土塁(崖下)には歴代住職の卵塔が並ぶ。東側角切岸下から土塁側ー堀切へ廻れるが大土塁の幅が5m程と狭すぎるので、櫓台なり主曲輪が墓石群の側まで(20x10-12m程規模)は有ったのでは!?と思われる。城域南背後を大堀切・畝状竪堀で遮断:防御、東面は高い切岸で、 西面は2-3段の曲輪・帯曲輪と曲輪南端は侵入を塞ぎ・移動を押さえる大穴(池?・塹壕?)が、東北端の一段低い曲輪には縁日に幟旗を立てる為か!?
城域北東端(開眼堂下):街道監視と虎口受曲輪か?

固定用石柱が設けられているが、当初の堀底道か参詣道?の虎口受け曲輪!?。竹田川沿いに氷上(丹波市)の黒井城東郡境の天田(福知山市)・何鹿(綾部市)を結ぶ街道筋を監視守備する友政城の城塞群の一つとして、友政城の西口を押さえる倉崎城は丘陵北尾根先端部の 小岡山上部全体を城域とする館城だったか?。



奇略で無血落城の友政城


市島町友政集落の背山の山上にある城跡は横峰山(高谷山)から北へ向う尾根の末端のピークにあって平坦な山頂には休憩所の東屋も建てられ、春には友政城址主郭周辺に植えられている桜を愛でて近在の花見客も登ってくる。標高176mの小山だが小富士山や五台〜五大山を始め多くの山々を望む展望台でもあります。 「丹波の赤鬼」荻野(赤井)氏の居城・黒井城(保月城)の出城として威を振るいながら明智の丹波攻めに在って黒井城落城の前に、儚くも陥落した多くの丹波の小城の一つです。
友政城三ノ丸:帯曲輪(最上段)の段差6m程切岸上が主曲輪

第一回の丹波攻めに失敗した明智光秀は宮津に駐屯させていた明智光春とともに再び軍備を整えて密かに好機到来を伺っていた。天田郡(福知山市 )との前線基地ともなる友政城では、いち早くこの動静を察知し城主・吉松石見守を始め家老・見谷牛右衛門友政が軍備怠りなく、此れを迎え撃つ作戦準備を練っていた。「明智勢はまだ動かぬ様子でございますが、寄せ来る日もそう遠くないと存じます…」 「しかし明智としても 前回の戦には相当手厳しく叩かれたからのう。 しかし直政公の死去の事(★)外聞はならぬぞ」「それが知れれば敵は大挙して押し寄せることは必定。それよりも手薄なこの配備で果たして明智勢をくい止められるか心配です」…この頃、光秀は密偵を放ち丹波諸城の動きを集めていたが黒井城主・赤井直政の死と弟幸家が但馬に在ることを探知して急遽12月21日、4隊に分かれた総勢2000人が諸城を陥れ黒井城総攻撃を開始を命令した。

主郭から東郭への尾根筋に二重堀切・片堀切をみる

殿、遂にやって来ました。明智勢が光春を頭に総勢約1000人…直ちに配備を…」出城である上に 第一回攻撃に善戦して受けた将兵の 傷手は未だ立ち直っておらず手薄の防衛では、城主も城兵も勝ち目の無い戦いと沈痛な面持ちになった。やがて冬の夜のとばりが降りた頃、見張の兵が「ご家老、今敵の先陣が中村(北の山裾の下竹田)まで押し寄せて参りました」 …家老・見谷牛右衛門友政が佇んで見る彼方に 無数の燈火が押し寄せてくる。目の前に迫った血なまぐさい戦乱を思い次々と入る注進に友政城し唯不気味な沈黙を守るのみである。「いよいよ城下に到着いたしました…」約1000と見られた明智の軍勢は倍も三倍もの多数、所々に起こる白刃のきらめきも何時とは無く音絶え遂に、もろくも落城の運命となった。明智方の奇略とは夜中に甲冑に鈴をつけ無数の燈火をかざして竹田川を騎馬で上下し多数の軍兵と見せかけ殆ど戦わずして攻略したと伝えられる。
<丹波叢書第三集 由緒を尋ねて 昭和30年 参照>

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