雲部車塚周辺城山城 県守城 口県守城 東本荘市谷城 清滝山城 衣笠山-行者山/清滝山
篠山市(五万図=園部)
T車塚・城山城/口県守城-市谷城-衣笠山-行者山 2003年08月16日
U小立-毘沙門窟-清滝山観音堂-清滝山城<仮称> 2018年03月14日
近畿の山城: 城山城県守城 清滝山城 <仮称>
        
口県守城・東本荘市谷城
東本荘集落から東本荘市谷城址(右端)と衣笠山(左手奥)
校歌の山 : 雲部小学校 ♪衣笠山は聞いているxxx…♪

”デカンショ祭り”で賑わう篠山市街地を抜け同じ道を篠山川に沿って走る。高城山(八上城)を南方にみて 若寺城 (明智光秀の八上城攻め陣城)を過ぎて暫らく走ればR173号線に出る手前で東本荘にある県下で2番目に大きい前方後円墳 雲部車塚古墳に着く。此処を起点として周辺の小山と山城を廻るつもりです。
県守城本郭からの衣笠山

八上城主:波多野氏家臣の籾井氏”青鬼”と共に”丹波の荒木鬼”と恐れられた荒木氏の本拠 井串城(細工所城)の西方約2km地点に位置する車塚周辺には車塚側の丘陵上(車塚を望む展望台)の尾根筋に 城山城・西北側直ぐには口県守城・其の尾根続きに 東本荘市谷城や谷奥には県守城の各城砦群が八上城東を守備する砦だったとも推察され、 一帯は荒木氏配下が拠った城砦と考えますが城主・城史の詳細は不明です。



T車塚古墳-城山城/口県守城-衣笠山-行者山-熊按神社-佐貫谷 H15.8.16

篠山川に沿って般若寺を過ぎ東本荘に入ると県守 (あがたもり)への分岐に 「車塚」の標識をみる。車道左手の土手は周庭帯と呼ばれる外堤です。右手にも小さな塚が見えるが陵の北側にも同様の培塚と呼ばれる従属古墳があり、此の二つを車に見立て 車塚と呼ばれる。此の100m程東に小さな丘陵があり「雲部車塚古墳展望台」の標識が有るので登ってみます。この展望台から延びる稜線を進めば 城山城です。
雲部車塚古墳からの城山城

後日Web地図を検索してみて気付いたが城址から稜線を辿れば左程遠くない距離に村雲山 (4等三角点331m)が山裾には伝説の鬼坂があり、今回の山城廻りで行けなかった県守城探しついでに次回新田山への小縦走計画案も浮びます。
さて松ヶ鼻から 雲部「車塚」道路標識へ戻り北方の県守(あがたもり)への車道を進みます。 車塚の説明板があり墳丘の奥に城山城のある丘陵が新田山へと延びて行きます。周濠の隣には南側と同じく車塚語源の倍塚が有ります。
衣笠山・奥の高い鉄塔下が衣笠山愛宕神社

このまま奥県守を経て行者山〜衣笠山経由での周回コースも考えられるが山城廻りついでの山行なので先ずは口県守城への登城口を探します。 口県守〜東本荘市谷城へはレポートは下記近畿の山城を参照下さい。二つの山城を繋ぐ尾根の先が衣笠山を経て行者山へと延びているが目立たない山域です。 山頂のアンテナ 群や佐貫谷から衣笠山山頂までは作業林道も延びており 山登りの興味は半減するが、車道の般若寺附近や八百里山から、また今しがた登ってきた城山城の車塚展望台からは山容を精一杯大きく見せる衣笠山の姿が印象的で小学校の校歌にも歌われています。
東本荘市谷城・東郭部の二段曲輪

山城探索が無ければ衣笠 〜行者の両山へは佐貫谷の林道か、 西本荘と東本荘の間から衣笠山に入る谷筋を選んでいた事でしょう。…さて二つの荒木氏の山城を繋ぎ、東本荘市谷城の堀切を越えて城域を抜け出て緩やかな尾根道となるが展望もなく、冷夏とはいえ低山歩きでは風がないと暑く 、傾斜も増してきたが程なくテレビ中継施設の下に着いたがフェンス周辺は倒木と藪の中。 逆コースだったら下降点を見つけ出せただろうか??フェンスから離れて林道に出て篠山テレビ中継所のある衣笠山(485m)山頂へ登り返したが兆部一帯は施設の建つフエンスの中。
口県守城:主郭に入る上り土塁

林道を少し下った篠山テレビ局(MBS ABC KTV YTV)施設の横から衣笠山 愛宕神社の小さな祠以外何も無いガランとした広場に出た。社の裏手にツーカーホン関西の高い中継塔が建っているが唯一眺望のある立見席(本当の意味で!!)です。緩やかに続く行者山への稜線を眺め林道へ戻る。林道の前方に丸い山頂の行者山が見えたがウネウネ曲がる林道の先で行者山の姿が見えなくなった。 林道カーブにある関電の中継施設の端から斜め前方へ下る踏み跡は直ぐ快適な稜上の山道となって行者山山頂(3等三角点 470m)まで続きます。
山ン谷古墳から望む県守城(丘陵末端部)

山頂の僅か3m程南側の小さな削平地に大峯山のお札を納めた祠が祀ってあるのに山頂側に来る人が居ないのか藪を分けて祠前に出た。 南へ尾根伝いに降る荒れた参道(山道と変わらないが)は明確で春日江集落の民家裏手に出てきた。数軒の民家へ通じる狭い車道は熊按神社鳥居側を経て、八百里山裾を走る県道301号から畑宮へ出て日置へ通じる車道に合流します。


U 小立-毘沙門窟-観音堂-清滝山(3等) H30.3.14

篠山市街地から篠山川沿いの県道702号を東へ走ると、西本荘の里山工房くもべ(旧雲部小学校・閉校後 工房やカフェとして活用されている)下を抜け雲部車塚古墳東の丘陵先端部・松ヶ鼻を廻り込む。 丘陵上には車塚展望所があり、その先に城山城(東本荘城)があり、独立低山の村雲山(4等 331m)を越えて小立(おだち)方面に出る。
長福寺から清滝山(右手奥)に向かう

松ヶ鼻を直進・篠山川を渡ると細工所交差点でR173に合流するが、篠山川沿いを北上する市道が 北条古墳 (県指定方墳)を左手に見て小立集落に入ると民家裏手に地蔵山古墳群、 其の直ぐ先が目的地への登山口。市道から山手に向かう方向に大立山長福寺があり 岩井山古墳群の案内説明板が立つ。 長福寺から山手に向かい林道の分岐点を貯水池が見える左上方に進む。車でも通行可能なほど?、時に幅狭くなるところもあるが概ね山上の観音堂まで明確な参道が続く。
毘沙門窟

途中に毘沙門への分岐があり立寄り往復する。小立に名所あり…!!とする 毘沙門と清滝山観音堂だ。岸壁の奥行きは3m程と浅く、高さ約1.5m・間口は横に約6-7mと広い石窟になっており、祠1と石碑2基(観音像と毘沙門天の文字刻印)を祀る。 引返し谷筋を詰めていくと縦堀の鉱口を見るが、上部にも抗口へ向かう道なのか?、垂水方面から観音堂への参道か?水平道と合流して 更に歩を進めると谷筋を離れて続く谷寄りに幾つもの広い平坦地形を見る。森林作業用にしては平地が多く・また広過ぎる?、掘り出した鉱石加工や運搬にわざわざ高地点へ運び上げるとも思えないが。
観音堂への参道谷側には幾つもの広い削平地が…?

地元民により急な斜面を整備された階段道 ・その先に現れる露岩部が清滝山とのほぼ中間点。やがて2折・3折して虎口?状を抜けると広い削平された平担地形の奥に観音堂(本尊:十一面観世音菩薩「子授け観音」)が建つ。平場の端には「喜助地蔵」と刻印された大正年代建立の石碑が立つ。 地蔵の謂れは知らないが別場所から遷されたものとも聞く。清滝山山頂へは観音堂右手・谷沿いに通じる細い踏み跡が山頂へ 約100m程手前の尾根まで詰め上がるが、其の左…と云うか観音堂真後ろの急斜面を詰め上がり清滝山(3等 538m)からの尾根続き南側の小ピークに向かう。
観音堂

清滝山には二ヶ所に城砦遺構がある…。八上城を国指定に…の作業の一環だったか?”八上城遺跡群に関する総合研究”の調査資料の城郭縄張図作成に携わってこられたT氏からの連絡。 篠山市内の山城に関しては詳細に網羅されて入るだけに、新たに城砦遺構が発見されたことに驚かされ、調査後の報告を受け、この眼でも確かめたく出掛けてきた次第。以降は 清滝山城<仮称>の項に…


熊按神社  篠山市西本庄

昨日の山行で通りかかった福井の 櫛岩窓神社の名も珍しいのですが此処熊按神社も1,100年前に創建された全国唯一の名を持つ延喜式内社です。春日江村は正慶年間(1332〜34)奈良・春日大社の御分霊を勧請したことにより 村名を改めたと伝えています。
熊按神社(熊野神社)

既にその頃、熊野神社がこの地にあって、 春日神社が合祀され何時しか熊野の「草書体の」"野"が書き間違われたとも考えられます。所在地が不明確でしたが享保の頃(1716〜36)に村役が届け出ており、明治3年の調査や昭和12年の県神社誌によって此処を鎮座所とされています。
(篠山市の丹波篠山五十三次ガイド及び 現地篠山市教育委員会案内板 参照)


城山城 県守城 口県守城・東本荘市谷城 清滝山城<仮称>


城山城(東本荘城)   城山 Ca270m  篠山市東本荘字城山

雲部車塚古墳の東側約300m地点・北方から南へ延び出してきた低丘陵が県道702号線の其の先端を落とす所<松ヶ鼻>の丘陵尾根南端からは、 下草に埋もれた取付き点に「まほろばの里」の展望台への登山口案内標識と案内板が立てられています。直接・車塚古墳展望台設備の東屋休憩所まで、 だいぶ以前より急な階段道だが遊歩道?が通じています。山裾西側を流れる高野川に架かる高野橋を渡った所が松ヶ鼻(バス停)で、流れが篠山川に合流する地点です。
主郭西緩斜面の曲輪(東西20x南北10m程)

この二つの川に挟まれた間の南端尾根の展望台からは 西面に篠山盆地の拡がりと小粒ながら布笠山が山容を目一杯に広げているが、下方の田園風景の中に融けこんだ車塚古墳の姿が違和感無く眺められます。
展望台からは蜘蛛の巣を祓いながらも明確な山道が延びています。 比較的緩やかな余り広くもない尾根筋は、ウッカリするとそのまま通り過ぎてしまいそうだが、高みを下り初めて直ぐ…オヤ???・・先程見かけた狭く低い凹地とその上の細長い台地、東下には僅か2〜3m幅ですが稜上の削平地に沿って 帯曲輪が降り始めた北面を回り込んで西面へ取り囲んでいます。 幅3-5m程?の僅かな尾根筋を曲輪とは・・気付かない・・?。
本郭部南面の低土塁

是等の遺構?を見て先程の窪地が1mにも満たない低土塁を南に向かいコの字状に囲う南北30m程の尾根上が主郭部と判る。帯曲輪から尾根続きへ向かう部分が5m程だが切岸を落とす。其の北側鞍部が細い土橋状・土橋付き堀切かと思えたが 左右(東西)に2-3条の幅狭く短いが竪堀を落とす様だが、西面斜面は下草藪に覆われ不確かで判断出来ない。ただ此処以外の周辺部に堀切や横堀等は無く、 西側の幅広く緩斜面の枝尾根状を20m程下ったところにも正方形に近く削平された台地が有ります。
城域北の堀切(竪堀)

何れの曲輪も段差は小さく最高所にある本郭南部の土塁は1mにも満たない低土塁です。東側の帯曲輪に下りると 東から南への枝尾根に数段の曲輪が続いています。 東尾根の4〜5ッの曲輪群の末端は少し急斜なところも有るが、此方も段差の少ない削平地が有るだけで土塁・堀切類はないが、主郭と東曲輪に入り込む谷筋は深く切れ天然の切岸になっており、 松ヶ鼻バス停前西側の自動販売機設置民家の脇に降り立ちます。展望台の入口から僅か30m程しか離れていない。八上城の西の守りの支城の一つと思われるが「丹波の荒木鬼」本拠の 井串城(細工所城)や、 車塚北方にある東本荘市谷城県守城の東を守備する砦だったとも推察されますが城主は不明です。緩斜面上に並ぶ曲輪群は段差を低く・切岸加工も
主郭東の湾曲する尾根筋に 段差の小さな段曲輪(10x10m程)が3-4段続く

殆ど見られない。城山城の規模からも、県守の谷間筋を挟んで位置する口県守と其の主郭:東本庄市谷城の砦であり ・細工所城とは呼応する位置からも本拠城との”知らせの砦”であり、東山麓の篠山川右岸の通行や、綾部街道(R173沿い)に連絡する東西通行の監視を兼ねた見張所としての砦であったのかも。
(丹波国八上城遺蹟群に関する総合研究!! の縄張り図を参照)


県守城   XXX 314m 篠山市県守西ナギヤ谷

雲部車塚古墳の西角から北方へと左折して一直線に県守(あがたもり )集落へ入って行く車道からは、雲部車塚古墳の東側に城山城のある丘陵を見る。県守へ向う車道の直ぐ西・東本荘集落に入る細い車道北に丘陵上には口県守城が有って、 二つの城が此れより向う県守谷の中程にある県守城の出入口を守備する関所城の様です。
北端の堀切

しかし・県守谷を抜け峠を越えても 北方へは多紀アルプスの高嶺に向う火打岩や篠見四十八滝のある上篠見へ抜けるだけの、里へ降っても篠山川沿いの街道筋に戻るだけ?。要衝でもなく要害ともいえない低丘陵の突端部の県守城ですので、 篠山川沿いの街道筋から東本荘市谷城の背後から侵攻して来る敵に備えた警護の城なのかもしれません。 口県守城からは更に衣笠山に続く尾根伝いには東本荘市谷城があるが縄張りからは此の東本荘市谷城を主城として周辺を堅固する支城として口県守城・城山城・県守城が存在するようです。
主曲輪北端の低土塁

城山城の裾を流れる高野川を西方へと遡って行くと ”県森橋”を渡って西北方の奥県守集落へ向う田圃の中に封土が殆ど流失して石室部が露出した山ン谷古墳が見える。 其の西方には北から南へ舌状に突き出す低丘陵の末端部標高 314mに県守城が有り、先端を民家の側に落としています。 山裾はトタンの猪垣が囲んで有り取付け点が見えないので、地区道を西へ進み 高野川を渡った奥県守集落手前?から二基の石燈籠が見える稲荷社への石段を登っていった。
南西端の窪状になった土塁曲輪


随分遠周りになるが此処から城域の北尾根に出て県守城に向う。稲荷社から主尾根に移る付近から 城域に入るまでにも 竪堀状の凹部を見るが考え過ぎの様。長い平坦な尾根筋を含め北方の防備は堀切に至るまで無い、自然地形の緩衝地が50m程続く。 堀切を越えても段差の低い曲輪が2段程有るだけ。低土塁を積んだ2m程の切岸上に10uの円状のマウンドが主曲輪だ。
県守中集落から


緩やかな下り傾斜の25m程先に堀切が有り、堀切を越えた南西端部には蛸壺状に窪地が有り南側は土塁で囲まれている。南東側の尾根先端部にも2〜3段の小曲輪があり、杣道が下方に延びている。 この踏み跡を辿って県守城東南端部の民家側へ降り立った。簡易な遺構の状況からか臨戦時の軍事施設と推察されています。
 (丹波国八上城遺蹟群に関する総合研究!! の縄張り図を参照)


口県守城(東本荘館) と 東本荘市谷城(東本荘堡)
口県守城(東本荘館)
   XXX 283m 篠山市県守片廻し


県道702号線:雲部車塚古墳の西から北の県守(あがたもり)集落へ入って行く車道は、 先程訪ねた城山城裾を流れる高野川を遡って"県守橋"を渡り西北方の奥県守へと延びて行きます。なを県守橋から東へ山裾を進めば鬼伝説の"鬼坂"峠に通じます。車塚古墳が丹波最大・大阪や奈良の大王陵と同じものとされ畿内と山陰地方を結ぶ要衝に大勢力が此の地に在った事を示す其の名が "県守"だったか西隣の"本荘"だったか??気になる地名です。
東本庄市谷城 (左)と口県守城(右の低丘稜)

衣笠山から東へ延びる尾根端の小ピークには東本荘市谷城があって、其処から南へ傾斜を緩めながら続く尾根は低い鞍部を越えると 小さな丘を残して車塚古墳と県守集落の間にその末端を落としています。此の丘陵に口県守城があって城山城と同様に東本庄市谷城前衛の守備と麓を抜けて県守⇔東本庄を結ぶ地区道があり、其の守備にあたっていたものと考えられます。細工所城主:荒木安芸守氏綱(氏香)は東本荘を根拠地として東本荘堡・東本荘館を構え、 当初は周防守を称していたと推考され、細工所古城とも呼べる存在!?。
口県守城東帯曲輪からと二ノ丸切岸側(中央上)の虎口

口県守城から北に続く尾根筋は約20分程で東本荘市谷城に通じており豊林寺城の様な大芋(おくも)氏の城にみる二段式詰城形態になった荒木氏の砦だったと推察されます。砦より規模が大きく、 低位置に在る縄張りからは居住性もあって・東本荘市谷城の出城というより館城ではなかったかと思えます。
口県守城三ノ丸(左に土塁)から二ノ丸切岸

伝承に「井串極楽・細工所地獄…」と云われた天正5年(1577)明智軍との激戦に氏香一族は明智方に降りて、子は明智に従軍・氏香は此の口県守城(東本荘館)にでも隠居していたものか?。 市谷城(東本荘堡)も荒木周防堡の別名があり荒木周防守屋敷 (荒木氏好<氏香と同一人物?>)館跡と云われ、荒木氏の細工所城は旧城の東本荘市谷城から細工所に本拠を移し築城されたものでしょう。八上落城・波多野氏滅亡後は明智方として天正10年の山崎合戦に参軍しています。
主郭切岸と二ノ丸からの上り土塁

車塚古墳と県守橋の中間辺り、 丘稜を抜けて東本荘へ出る小さな間道があってその北側の山際から衣笠山へ続く尾根通しを辿ってみるつもりだが県守側の車道からも、 小さな峠越えの間道からも急斜面で入り込めないうえ猪除けの電線がグルリと取り囲んでいて侵入を 阻んでいるようです。県守から西方の東本荘集落へ向かう地区道の右手・丘陵西面端から田圃と奥に民家が見える。
主郭の櫓台土塁

この末端の土手状から斜上して猪除けネットを潜り抜け、 斜面を登り踏み跡の続く稜上に登り着いた口県守城の南曲輪切岸下部は南西端から斜上する虎口が開く。車道から取り付いて10分足らずで帯曲輪に乗り、 南西角の虎口から三ノ曲輪(大きくは三曲輪から成り、主郭の櫓台大土塁の切岸下に土塁付き小曲輪がある)に入る。帯曲輪は南から東を巻いて主郭東切岸下まで延びる。三ノ曲輪の土塁残欠と二ノ曲輪切岸南東角が 溝状になり帯曲輪からは虎口と思われるが崩れた上り土塁状を伝い入れる。
主郭北切岸下の小曲輪と土塁 <この先に大堀切>

三ノ曲輪からも中央西寄りの虎口が二ノ曲輪と繋がるが、此処から西端の上り土塁を主郭に入る。城山城と較べると格段に広く段差も高い曲輪が3段程続き、主曲輪北端の最高所には櫓台大土塁をもつ。
に小さな曲輪があるが、その先は覗き込んでも足下からスパッと切れ落ちた崩壊地?です。築城時から崩壊が進んでいた所を要害として 取り込んだものか分からないが縄張り図からは崩壊で遺構が削られて喪失した箇所は無さそうです。
口県守城北端の堀切

口県守城の主郭部から北へは切岸下には狭い尾根筋を削平した鞍部状の小曲輪が大土塁を積む。高さ5m程の切岸を降ると幅7〜8mの堀切が城域を遮断しています。口県守城は小規模な山城ながら堀切や土塁・櫓台を備え、切岸加工の曲輪を並べて虎口さえ持つ。 城山城とは比較にならない防御機能を持つ遺構が残存状態も良く・明確に判別出来て楽しめる。
東本荘市谷城主郭部南面:帯曲輪下部から落ちる竪堀

ただ周囲には砦規模の城山城さえ 竪堀を敷設しているが口県守城だけが大堀切を敷設しながら、南や西面に竪堀等施設は無さそうです。 尾根続きの先に市谷城の在るピークが見える。一旦降って県守か東本荘集落からの登路を探さずとも、尾根筋を忠実に辿れば約20分程で東本荘市谷城に到達出来るので大堀切を越えて尾根筋を先に進みます。
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東本荘市谷城(東本荘堡)  Ca420m 篠山市東本荘市谷

口県守城は小規模な丘城で尾根上の曲輪左右の斜面には竪堀も無く、城域の尾根筋北側を遮断する堀切が一つだけある。しかし遺構残存状態も良く・曲輪切岸や土塁櫓台・上り土塁等の見所も有り荒木氏の館城として、東本荘市谷城と深く関わる支城・出曲輪とも思える。 其の市谷城の堀切を越え、続く緩やかな稜線を辿る。尾根筋の広い鞍部状から西方への尾根に取付き、尾根筋まで到達する深く長い傾斜も増してくる竪堀状の溝沿いを伝う。
市谷城主郭:池跡窪地のある三ノ曲輪

八上城主波多野氏の支城として本拠城の東の入口を守備した細工所城 荒木氏の統治した領地内。福住から篠山市内に通じる要衝の京街道は、 篠山川を挟んで北側と南側にあったのでは?。北街道は八上城下を避けて通過出来る・・?。
帯曲輪からの主郭部本丸(上部左)と二ノ曲輪(右)

口県守城へ取り付いてから衣笠山に着くまでの尾根道は雑木・植林の中で展望等は望む術も無いのですが東本荘市谷城の遺構を確認すれば不満も吹き飛びます。 石積が残るわけでもなく眺望に恵まれた城郭でもない。ただ主尾根上に小さな曲輪を連郭式に連ねているだけで、堀切や竪堀・腰曲輪 ・帯曲輪の防備設備等の遺構を一応?は残す程度!!?で、城域の全長は150mを越えるが大規模城郭とは云えない。
市谷城主郭:南斜面帯曲輪(3段)

しかし中世山城の最小限の条件?だけは備えているが熱心な山城フアンの訪城記録もWeb等にはまだ見ない(2003年現在)。城域東南端には土橋付き堀切 ・浅く埋れかけだが堀切を敷設した極小規模の曲輪<見張台か?>もある。主郭西南面には切岸を落して三段程の帯曲輪があり、 最下段からは竪堀が一条落ちる。西本荘と東本荘の間から衣笠山に入る谷筋からと主尾根伝い、上部からの防衛に重点を置いた備えのように思えます。
城域最南端部の土橋と竪堀(左上)

城域西北端の堀切は主郭側に高く幅広の土塁があり櫓台と思われ口県守城同様に小曲輪のスペースが確保されています。 主郭部の東に二ノ曲輪と城域内で一番広い三ノ曲輪があり、此処には中程に天水受けの池跡とも思える窪地が遺る。
(丹波国八上城遺蹟群に関する総合研究!! の縄張参照)

清滝山城<仮称>    清滝山(3等 Ca538m)  篠山市小立

篠山市小立の長福寺から向かう清滝山観音堂までの工程は当ページ内上方の登山案内小立-毘沙門窟 -清滝山観音堂を参照願います。谷筋に縦堀の鉱口を見るが、上部にも抗口へ向かう道か?、 垂水方面から観音堂への参道なのか?水平道と合流し、谷筋から離れて行くようだが・谷寄り斜面に幾つもの広い平坦地形を見る。森林作業用にしては平場が多く・また広過ぎる?。
虎口状を開く観音堂入口郭

掘り出した鉱石加工や運搬ならわざわざ高場へ運び上げるとも思えない?。 此の清滝山(3等三角点537.8m)山頂と南方尾根上二ヶ所に城砦遺構があると…!、中世城郭研究家T氏より聞き其後:確認の報告も受け、 この眼でも確かめたく出掛けてきた次第。篠山市内の城郭は八上城国指定の為の報告書作成一環だったか?、明智光秀の八上城包囲の付(向)城も含め”八上城遺跡群に関する総合研究”:
出曲輪側の肩堀切

なかでもT氏が調査資料の縄張図作成を担って、殊に山城に関して詳細に網羅されており、新たな城砦遺構の発見には驚かされる。 ”以下は資料等を知らず推測の域を出ないが…”:清滝山山頂付近の城郭位置からみて戦国時代・大芋荘の国人領主大芋氏や、 細工所城主:荒木山城守(氏綱か?)の室の出でもある山田氏が領主であったか?、大芋氏の代官であったかは未調査ながら、領主の監視・物見砦ではなさそう?。籾井城の青鬼とともに、 荒木鬼の異名をもつ波多野氏家臣:荒木氏綱(氏香)の居城間近にあるが
出曲輪側の段曲輪と帯曲輪(右手)

荒木城監視の陣所にしては、防御施設が低土塁だけ?では手薄では?…、寧ろ明智方に降りた氏綱は隠居、子息等が明智方配下に組入れられた臨戦態勢に、荒木氏等が八上城監視の向城として南曲輪に、 明智方が参軍した荒木氏等の監視!!を兼ねて山頂部の清滝山城(陣城)に入ったものか…?。細工所城主郭の東端から南西に派生する尾根筋 (一般登山ルートの南約150m)が大手と思うが、其の先端部:井串の瑞祥寺背後に荒木氏居館とも後に明智方将兵の駐屯地になったとも思える細工所砦もある。
清滝山主郭からT曲輪北西面に延びる低土塁

清滝山山上部に陣城を置き、八上城が監視出来る南尾根側の小ピークに出曲輪を築き細工所砦とは密に連動して設けられたものか?。観音堂裏手右の谷沿い水平道は清滝山へ直接向かうが、 正面の急斜面に取付くと清滝山への主尾根筋とは別に、南手前の小尾根筋を詰めると明智陣城にはないと云われる?堀切(片堀切)を見る。清滝山城(陣城)の監視下におかれた出曲輪は、明智方に降りた荒木氏等在地勢力が出っ張ったものか?。清滝山城<仮称>出曲輪 西へ延びる緩斜な尾根に沿い僅かな段差の小曲輪群?と南側に帯曲輪が付くが、殆ど自然地形に近い!!?。
清滝山城:T曲輪に南から入る虎口:左奥が主曲輪(三角点)

領内住民が結束していれば戦乱を避ける村民の「逃げの城」とも考えられるが、山麓には県守・垂水・小立・山田等集落があり …観音堂に一時避難し?…さらに山上部の此処に逃れたと考えても、清滝山側が明智方の陣城!!なら、領民等は人身売買の戦利品・報奨金代わりなら…自ら投じて敵兵の側に飛び込むようなもの…?。西尾根下方から見れば低い小曲輪の段差・帯曲輪側に切岸加工らしい部分も…?。 更に西下方にも二ヶ所ほど平地をみるが尾根筋は急下降していくので、小ピークまで引き返し清滝山方面へは約150m程・尾根筋の境界ポールが追う。
清滝山主郭からT曲輪北西面に延びる低土塁

清滝山城<仮称>陣城途中の鞍部から谷筋沿いに下ると清滝山観音堂に降り立つ。 鞍部から緩斜面を少し詰め上がるとU曲輪、1.5m程の切岸上に主郭。3等三角点石標柱が埋まる清滝山山頂(高さ50cm程?・15m四方のマウンド上)に主曲輪を置く城域東西約50m・南北約25m程の小規模城郭。 南方の眺望は余り良好とはいえないが北には八ヶ尾山から多紀アルプス三山の雄大なスカイラインが望まれる。 眼下に細工所城(荒木城)を望む主曲輪からT曲輪の北面に主曲輪に入る浅い空堀状通路と低土塁が約15m程直線的に延びる。T曲輪南中程にU曲輪から入る!?平入虎口がある。
清滝山城:平入り虎口から主曲輪

文明年間:細川政元の代官土佐氏の大芋社領( 櫛岩窓神社領)を波多野孫右衛門尉が横領、百姓等が逃散し幕府命により畑氏・中沢氏らが百姓等を還住させている。何処に遁れていたものか…!!?。 約100年後の天正期・兵火を逃れるためとった領民達の行動は?…果たして…。また清滝山の陣城守備に付いた武将は!!?。
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