雑賀鉄砲衆の城と弓の名人の里秋葉山公園(弥勒寺山城) / 高積山〜城ヶ峰(和佐山城)
和歌山・紀北 (五万図=和歌山・粉河)
雑賀崎/秋葉山公園/熊野古道 〜高積山〜城ヶ峰(和佐山城) 2004年02月07日
高積山〜城ヶ峰間にある展望台
ふるさと富士:和佐富士(高積山・和佐山)
校歌・故郷の山:
和佐小学校 ♪朝日輝く高積の…♪
          高積中学校 ♪高積山の峰青く…♪
近畿の山城 雑賀崎台場(番所の鼻)弥勒寺山城 和佐山城 吐前城

以前(H6.4.17)幡川薬師(禅林寺 西国薬師第12番霊場)に参詣した後に谷を詰めコッテ(牡牛<コッテ牛>の意 )の滝から鏡石山へ登った際、雨の大明神(公園風!!)付近で西に低く伸びる尾根方向に”大野城方面”案内標があったのを思い出し藤白坂へ通じている事がわかったので縦走してみようと計画したことがあった。
城ヶ峰(2等三角点)山頂を取り巻く土塁

山城に興味が沸いてきたので 海南市周辺の城探しをして出掛けたが、城の歴史や取付き不明の城が有り、時間の余裕から和歌山市に向かい先ず,青石の海岸・雑賀崎を往復します。 伏虎山に堂々の姿を浮かべる和歌山城を右手に見送って打田町への帰り道・和歌山市称宣の熊野古道と和佐冨士〜城ヶ峰へも寄り道です。



雑賀崎・番所の鼻/秋葉山公園/高積山(和佐冨士・和佐山)〜城ヶ峰(和佐山城) H16年02月07日

藤白坂から藤白山系の大野城を縦走して戻った海南市からR42を和歌山市街地へ向かうが紀三井寺から 雑賀崎の青石の海岸線を見たくなって、番所の鼻で知られる雑賀崎台場まで往復してR42号に出ると東に小高い丘があり此処が弥勒寺城のあった秋葉山公園です。
番所の鼻と大島

石山本願寺(大阪市)が信長に対抗して兵を挙げたとき一向宗の武闘集団として 根来衆等と共に 雑賀衆も鉄砲隊を指揮した雑賀孫市が本名:鈴木で藤白神社の 鈴木屋敷に記したように、熊野八荘司の一で熊野三山への案内を務めたり、 全国に熊野神社を建立して熊野信仰を広めており、熊野の神使・八咫(やた)烏が雑賀鈴木氏の定紋となっているのも納得できますね。
秋葉山公園(弥勒寺山)の市民プール前導標

公園内の市民プール前駐車場から遊歩道を10分も歩けば山上??の展望台のある広場に出る。 城や寺院跡を窺えるような明確な遺構はなさそうですが南端の木立の中の高みには遊戯施設の間に顕如上人の碑が建ち、その北隣の平坦な小スペースは櫓台跡の様です。紀ノ川下流域の和佐や布施屋から望む神奈備の山高積山(和佐山237m)は秀麗な冨士形の山容を見せて立ち 和佐冨士とも呼ばれます。
稜上の高積神社と城ヶ峰分岐・梵字彫の石碑が建つ

冨士の名で地元で親しまれる高積山は和佐の高山とも呼ばれる信仰の山は、大屋都比売命(素戔嗚尊)を祀る高積神社(上の宮)があり禰宜地区から高積神社 (下の宮)から登山道が通じます。高積山にも「朝日夕日伝説」が有りますが此処のは正真正銘の伝承だったのでしょうか??「朝日さす夕日輝くその下に黄金千枚朱三石 」なんと!!山頂の高積神社付近からは約15000枚もの中国古銭が発掘され、その量の多さでは県下初とのことです。 登山口を捜しあぐねてウロウロしていて思わぬ拾い物(下記掲載の此処も熊野古道で・弓の名人和佐大八郎の墓と和佐王子跡と修復中でしたが中筋家等の案内板)をして、
市民プールから弥勒寺山(秋葉山公園

それらを訪ねた後、 中筋家の先に禰宜地区の名所案内看板が立つ所から高積神社(下の宮PM1:38)を目指し、神社横からの急斜で真っ直ぐな舗装林道を辿ります。途中には「南無阿弥陀佛」の大きな石碑と祠を祀る 福地蔵尊(PM1:58)を経て淡島尊を祀る祠の下方まで林道が伸び此処から突然・石段と石畳の登りに変わります。高積神社(上の宮)への 参道は城ヶ峰〜金谷峠〜四季の里公園に至る ハイキングコースで良く踏み均らされた道です。目前に梵字が刻まれた石碑が立ち、 左手へ4・50mの高積神社と右の尾根通しに和佐山城のある城ヶ峰へ向かう分岐となっています(PM2:05)。素戔嗚尊を祀る神の山に梵字の石碑では合わないが?、 此処に庵をむすんだ治宝や徳本上人に所縁の遺物でしょうか。
高積神社の参道石垣


昨年訪ねた岩室山城
の本丸に徳本上人の名号碑が建っていた事、 尾根の西端の岩場には千日練行の遺構があった事が思い出された。徳本上人は宝暦8年(1758)日高町志賀で生まれ 天明4年(1784)往生寺(日高郡財部村)大円上人に得度を受けて徳本と名付けられました。自分の寺を持たず全国を行脚して廻る念仏行者として布教教化に努めていた文化9年(1812)重倫 (有田市須谷)と治宝に招かれます。
和佐山城東南部・腰曲輪の土塁

このとき治宝が此処・和佐山に庵を賜り徳本上人の御庵所ともなり、寺社奉行により御堂・御認所 ・念仏堂等の建設が進められ、 材木の寄進や運搬等多くの人々の助力を得て竣工されます。 徳本上人を訪ねる人々も多かったが文化11年(1814)和佐山の庵を出て江戸小石川の伝通院内清浄心院に落ち着いたが、その後も関東・北陸を歓化して2年後江戸に戻りその2年後の文化15年(1818)小石川一行院 (文京区)において61歳で没します。先ずは高積神社(上の宮)へは今までの山道が嘘のような広く平坦な参道と重層に和歌山特産!?の青石をふんだんに積み上げ、敷き詰めた石積みと石畳の石段に 圧倒されながらも(PM2:10)、此れから向かう和佐山城も 此の様な石積の城だったら …と後で思い返します。 境内の奥には2段ばかりの石積の上には玉垣に囲まれて三社が祀られています。祭神・都麻都比売命と、相殿に大屋都比売命、五十猛命の二神を併せて高三所明神と呼ばれます。
和佐山城・北部の腰曲輪下


梵字石碑の分岐に戻って南への明るい尾根は 展望の無い此処までの参道と違い、途中(分岐から5分程で着く)見晴台からは南東に鳩羽山が見え、山歩きなら紀伊の ミカン畑が続くこの鳩羽山への縦走も良さそうです。東に遠く最初ヶ峰(今は百合山285mのパラグライダー基地)と青く霞む大きな山容の龍門山が望め、 南北朝・北朝方の畠山氏がこの尾根続き直ぐの城ヶ峰に和佐山城を築き、最初ヶ峰に陣した南朝方の塩屋氏等と対峙した龍門山合戦の舞台となったところ。
和佐山城・真っ直ぐ延びる土塁線!!

此処はその状況が検分出来そうな見張り所です。見晴台から7〜8分で長い土塁道をとって 和佐山城に着きます。城ヶ峰山頂(2等 255m PM2:25)が本丸でグルリと 取り囲む土塁は浅いが明確に残っています。此処から南の尾根を数段の曲輪を越して四季の郷公園へ ハイキングコースが通じるようですが車利用なので元来た往時を見晴台・梵字石碑の分岐へと戻って禰宜地区のテニススクール側の喫茶エルブに降りて着ます。高積山と城ヶ峰・二つの緩やかな峰を眺めていても 山頂に神社が建ち、山城があった事が想像出来ない長閑な田園風景が拡がっています。
(和歌山市史 参照)


和佐大八郎(紀州藩士) 和歌山市称宣

R24号線から称宣地区に入り、左手に和佐冨士(高積山)-城ヶ峰の稜線を 追いながら狭い集落内への道を見失ない県道船戸海南線を南の矢田峠に向かっていた。結構交通量もありUターン場所を探していて和佐王子跡の 案内標を左上に見る。 その直ぐ先・熊野古道沿いに走る新しい道を矢田峠に向かい 登り初めて「弓の名人…」の白い標柱を見つけます。 細く暗い藪中に延びる墓の手前の道を辿ると、程なく雑木に囲まれた中に説明板のある 和佐大八郎の墓が共同墓地の一角に「俗名:和佐大八良大伴範遠」と側面に刻字された小さな碑が建っています。 【弓の名人和佐大八郎範遠】は寛文3年(1663)紀州和佐村祢宜に生まれ、父は紀州藩弓術指南役であったといい幼い頃から弓に興味を持ち紀州藩士で竹林派の弓の達人となった。
弓の名人・和佐大八郎の墓

当時から既に京都の三十三問堂では 諸藩が名誉をかけて”弓の天下一”を競う通し矢が行われており、尾張藩と紀州藩が圧倒的な強さを誇ってきたようです。通し矢の起源は保元年間(1156-59)頃・熊野の蕪坂源太が 崇徳上皇に身方して、京に馳せ参じたとき三十三間堂の軒下を根矢をもって射通したのに始まると云われ、長さ約121.5m(廊下天井の高さ4.5m)先の的に暮六つ(午後6時)から射始めて、 翌日の日暮れまでに射ち終わる大矢数に挑戦して一本でも多くの矢を通す競技で、和佐大八郎が師事した弓術師範の吉見台右衛門は明暦2年(1656)に、葛西園右衛門が寛文8年(1668)に "天下一"を奪取しています。貞享3年(1686)4月・大八郎24歳のとき三十三間堂の「通し矢」に挑戦して、一昼夜に総矢数13,053本中に8133本で記録を更新し、 一躍日本一の弓の名手になったが今もその記録が破られることは無い。だが晩年は恵まれず正徳3年(1713)3月・田辺に幽開されたまま51歳で病死したといわれ、浄恩寺(田辺市元町)に葬られ愛用の弓は此処に残されています。

(和歌山市教育委員会 現地説明板 参照)
========================================

和佐王子跡
熊野古道の和佐王子(坂本王子)跡は矢田峠に向かう登り口、民家が途切れ「和佐大八郎の墓」の手前、造成地のような車道脇の高みにあって統一された"王子跡説明板"を見落とせば 気付かなかったかもしれない。建仁元年(1201)後鳥羽上皇の 熊野参詣に随行した藤原定家の日記 『御幸記』に吐前(はんざき)王子と平緒王子の間に「ワサ王子」とも読める王子社名が有り和佐王子跡が此処だとされているらしい。
和佐富士の高積山(左)と城ヶ峰(右)

江戸時代始めには既に建物もなくなっていたが和佐王子の4文字を彫って寛文年間(1661-73)に建てられたといわれます。社は高積神社に合祀されています。 高積神社は和佐大八郎の母が"大矢数"の成功を祈願して毎日険しい山道を通い続けた神社です。和佐小学校前から旧中筋家前を通って和佐王子社を経て矢田峠に至る熊野古道は次の平尾王子社跡へと矢田トンネルに向かう 車道と離れ南下の畑地の中の坂道に通じるようです。
(和歌山市教育委員会 平成5年8月 現地説明板と称宣地区史跡案内図を 参照)
===============================================================

旧中筋家 和歌山市祢宜  国指定重要文化財(昭和49年2月5日)

旧熊野古道の高積山登山口の高積神社(下の宮)分岐の南30m程でビル建設中現場のような所があってネットと大屋根で囲われた一角があった。ネットを透かして覗いてみると中2階か中3階建ての古い屋敷の改装中工事かと思われたが、此処が江戸末期に建てられた和佐組大庄屋・中筋家の住宅でした。綺麗な水が流れ、小さな水路と石積の塀に囲まれた屋敷の南側は 既設の倉庫のような建物の影で分からないが、三方に門があるようです。
熊野古道・高積山登山口の祢宜地区案内図

木枠の足場やネット・板壁で内部の様子が良く見えないが狭い東側(重文・中筋家・・の石標が建てられている)車道脇の表門!!も立派だが復元工事事務所側??の 北側に"潜り門"のような小さな門が気になった。 作業の通用門のように其処だけ屋根の一部が見えていたが工事の邪魔になりそうたが中筋家についても良くは知らず 高積山〜和佐山城に急ぐあまり写真も撮らず通り過ぎた。此処は敷地面積約2500平方mに表門や主屋・蔵等の建物が国指定重要文化財で見逃した小さな北門が御成門と呼ばれ紀州藩の歴代藩主専用の門だったとは。
高積山山上の高積神社(上の宮)

高積神社
高積神社の祭神は都麻都比売命で、相殿に大屋都比売命(素戔嗚尊)・五十猛命の二神を併せ、三神を祀るので高三所明神とも呼ばれます。なかでも大屋都比売命は住宅・船・車・木具・薪炭など木製品の守護神として崇敬されています。




 雑賀崎台場(番所の鼻) 弥勒寺山城 和佐山城吐前城(未訪)

雑賀崎台場(番所の鼻)  xxxm  和歌山市雑賀崎

神亀元年(724)聖武天皇が大和の都から 和歌の浦に行幸された折、藤原卿が番所庭園の北に拡がる雑賀(さいか)の浦の漁火を見て「紀の国の 狭日鹿 (さいか)の浦に 出で見れば 海人の燈火 (ともしび) 浪の間ゆ見ゆ」と万葉歌(巻7)にも詠まれた番所庭園は、雑賀崎の先端にあり、 平坦で海に細長く鼻のように西に突き出てみえる断崖絶壁の地形は紀州藩が海の防備をする為に見張り番所を設けた所で番所(ばんどこ)の鼻とも云われます。
雑賀鉄砲衆(アイコンは”ぽろぽろの素材屋さん”から)

入り組んだ海岸線は和歌山特有の紀州青石が美しく、打ち寄せる小さな波が花柄となって 裾を飾ります。大島・中の島・双子島が目前に浮かび海洋眺望絶佳の景勝地は和歌山市の万葉巡りコース等の代表的な観光名所として、また瀬戸内海国立公園特別地区に指定された代表的景勝地です。
幕末期・嘉永6年 (1853)ぺリーの来航を機に紀州藩も藩領の長い海岸線十数か所に本格的に海防に取り組み始め、 翌・安政元年(1854)家老三浦長門守御持場「元番所お台場」が構築されました。此処・番所の鼻の雑賀崎台場はその中でも和歌山城に最も近い番所として、狼煙場と共に重要な場所でした。その後・遠見番所は鷹ノ巣山上 (雑賀崎灯台)へ移転したので此処を元番所とも呼ばれたそうです。
番所の鼻:雑賀崎台場

また鷹ノ巣の上人窟は戦国時代・天正年間には反信長の兵を挙げた石山本願寺の教如上人が信長に追われて身を潜めた所としても知られ雑賀(鈴木重秀)孫市が砦(雑賀崎城)を築いた所ですが此処も有料観光地・遺構の確認等は 無理と寄らず引き返しますが、雑賀崎北端のトンガの鼻の台場跡へは行って見たかった。地元のボランティア団体により遺跡の整備もすすめられているようですので、このときは気付かず残念です算木積みの石垣まで見つかっているのに…(^^;
(番所庭園の現地案内板 参照)

弥勒寺山城  秋葉山(御坊山) 67m  和歌山市秋葉町

雑賀の合戦メイン舞台となった弥勒寺山城は昔から近在の人々が集まり楽しんだ景勝の地で現在は「秋葉山公園市民の丘」となり、 山頂部には一向宗門徒の 雑賀衆が慕い此処に滞在したこともある「顕如上人の 碑」が建っているが 織田信長の大軍を迎え撃った雑賀方本陣跡の明確な遺構は残っていないようです。顕如上人の石碑の建つ台地の側には同じ高さで、もう一つ櫓台の跡らしい台地が有り此の西下に広い平地が拡がり公園周囲の桜木は春待顔です。
顕如上人碑と向かい合う台地・櫓台!!??

桜の名所ともなっている市街地の真っ只中にある公園には、 こんな冬場でも公園を取り巻くようにつけられた散策道に人影を見かけます。秋葉山は昔・弥勒寺と言う寺院があったため弥勒寺山ともよばれます。大阪・石山本願寺(浄土真宗・一向宗)蓮如上人の布教により宗徒・雑賀衆の念仏道場を、 天文19年(1550)遠かった海南市黒江の本願寺・紀州御坊を弥勒寺山へ移しその後・永禄6年(1563?!!)鷺の森(雑賀衆の本拠 )に移転するまで 此の地にあって御坊山とも言われます。平安時代・荘園領主の高野山(金剛峰寺)へ米を送る中継基地の紀ノ川河口で積荷の積み替え人足として美濃の国等からの出稼ぎ集団が雑賀衆の発生で、
展望塔からの秋葉山公園・正面左が顕如碑の主郭部!?

室町時代・紀伊国守護畠山氏は応仁の乱により弱体化する一方、 土着して徐々に川・海運や交易に力をつけてきた一部の頭領を中心として地侍集団が出てきます。領地を持たない雑賀衆の中でも新兵器・鉄砲を駆使し技術の習得や速射/距離の延長/命中精度等の改造・製造に熱心に取り組み、 日本最強の武装集団・雑賀鉄砲隊を指揮した雑賀鈴木氏は、戦国大名達にとって無視できない存在となり「雑賀衆を味方にすれば必ず勝てる、敵にまわすと敗れる 」とその力絶大の傭兵として各地を転戦していきます。鉄砲伝来の天文12年 (1543)種子島が翌年には根来寺へ持ち帰られ、領地さえ無かった一地侍の 雑賀衆が鉄砲隊を組織出来る財源を持っていた事、根来鉄砲衆との事、 本願寺の命で飛騨(富山・五箇山)で火薬の製造がされたこと!!等々調べていけば歴史的にも重要・且つ面白いところですね。雑賀衆が最も活躍し有名にしたのは元亀元年(1570)織田信長の石山本願寺開け渡し(棄却)命令に抗して 顕如上人が挙兵の法命に端を発した10年戦争の石山合戦で紀伊国雑賀荘の一向宗(本願寺門徒)組織の頭領として戦闘集団を率いた雑賀孫市(鈴木重秀)の名とともに残ります。
顕如上人碑の建つ主郭!!??

織田信長は天正2年(1574)伊勢・長島、翌年には越前の一向宗を攻め、天正5年(1577)最後に残った紀州 ・雑賀攻めには信忠・秀吉等6万とも10万ともいわれる大軍で紀州に侵攻します。 此れに対し石山本願寺(現大坂城)の顕如上人を擁して弥勒寺山(現・秋葉山公園)に本陣を置いて信長と対峙した雑賀孫市 (本名:鈴木姓ですが平井郷の領主で平井孫市ともよばれたが代々・頭領を継いだ者が孫市を世襲するようです。信長に抗して弥勒寺山城に篭城した鈴木佐太夫の子・鈴木重秀を雑賀孫市とされるのが大方の見方です) は雑賀鉄砲隊の頭領として鉄砲集団を指揮し、僅か3千の兵で防戦し織田方の大軍に勇敢に戦い抵抗しますが、善戦もむなしく信長の軍門に降ることになります。鈴木重秀や一族の土橋平之允ら一揆衆七名の連著で降伏を申し入れるが、誰一人切腹させられることなく許されています。しかし・その後も天正6年(1578)紀伊水道の九鬼水軍を攻撃したり、三木城の別所長治の援軍として 播磨へ出陣する等、信長としばしば戦うがその勢力は衰退していった。
弥勒寺跡は櫓台を伴なった本郭部の切岸

天正8年(1580)最後まで本願寺に籠もっていた顕如上人の子・教如が雑賀に逃れ「鷹ノ巣の上人窟」に匿われ、本願寺を明け渡して降伏します。天正13年(1585)には豊臣秀吉の大軍に攻められ、雑賀の諸城を落とされ降伏し 関が原合戦では西軍に属して参戦しています。雑賀荘の平井郷領主だった鈴木(孫市)重秀の墓は、その平井・蓮乗寺(浄土真宗本願寺派)に祀られています。
(公園内案内板 / 日本城郭大系 等参照)

和佐山城 城ヶ峰 240m  和歌山市禰宜

JR和歌山駅から紀ノ川に沿って走る和歌山線の千旦(せんだ)付近からは 端正な富士型の高積山(和佐の高山237m)が小さな山塊の裾野を 北端の和佐や布施屋地区に拡げて溶け込んでいます。和佐富士とも呼ばれる神奈備で山頂に高積神社を祀ります。此処から南へ続く緩やかな尾根は、もう一つのピーク城ヶ峰(2等三角点 255m)に着きます。
和佐山・本郭部北の石垣

城ヶ峯最高峰を本丸として「太平記」龍門山合戦の舞台となった 畠山一族が拠る和佐山城がありました。南北朝期・建武年間 (1334-38)に北朝方の畠山国清が紀伊国守護として入国するが延文5年 (正平15年1360)南朝方の四条中納言隆俊が塩屋伊勢守と共に最初ヶ峰に布陣し此れを見た畠山義深を大将とした北朝方が城ヶ峰に城を築きます。
本郭部北側の土塁

最初ヶ峰に陣を張ったのは計画的だったかのように、塩屋伊勢守は直ぐさま尾根続きの東方の龍門山に布陣し、此処に龍門山合戦が展開されたます。一時は優勢だった四条中納言隆俊と塩屋伊勢守等も二度目の攻撃に敗走していきます。本郭部北側の虎口!!?を抜けて 腰曲輪に達すると本丸の切岸の数箇所に石積み遺構も残り、 城ヶ峰山頂本丸をグルリと取り囲む土塁は浅いが明確に残っています。
和佐山・本郭部南曲輪の土塁

曲輪は南への尾根に沿って何段かの連郭となっている。本郭部の空掘以外は曲輪間に堀切を見なかったが土塁の遺構だけが印象に残る山城です。空掘りを廻らし、土塁の残る腰曲輪を囲らす本丸周辺だけを見ると、 北条高時が築き楠木正成が攻めた飯盛山城に似ているようです。南北朝期以降も修築されたものか、その後の歴史は不詳ですが石積みや土塁遺構が 戦国期にも使用された可能性を窺わせます。
(日本城郭大系 新人物往来社叛参照)

吐前(はんざき)城  土井山 xxm 和歌山市吐前 (未訪)

龍門山合戦の舞台・和佐山城〜最初ヶ峰の北、紀ノ川を挟んだ岩出町には根来寺があり、 今回のレポート関連の寄り道情報として此の城を挙げておきますが未訪です。高積山の直ぐ北・紀ノ川側の吐前には「土井山」と呼ばれる耕作地の中の台地に、楠木正信が築城?した城があったといわれ、 泉州土丸城の攻防や第1次龍門山合戦での南朝方の砦となったのかどうか …??? 吐前城の発生から終焉までの 城史について詳細知らず…!!楠木正信は”伊勢太平記”にも出てくる人物なので、此処は伊勢通の"寂誉さん"にお尋ねすれば情報が得れるのかも・・!!

雑賀衆とは鉄砲繋がり==>その後 津田監物算長の居館があった所ですが遺構は何も残っていないようです。津田算長は根来寺の僧兵集団を率いた杉之坊の兄で、種子島に鉄砲が伝わった翌年には、その鉄砲を入手し根来で国産化し根来鉄砲隊が結成されます。 根来衆と繋がりを持っていた雑賀鈴木氏による鉄砲改良と射撃訓練で日本最強の鉄砲集団・雑賀衆が生まれます。"杉之坊"と云えば、根来寺の広い駐車場入口の小さな土産店に、 その名を冠した酒が置いてあった様な?!!酒には下戸な私の10年前の記憶ですので当てにはなりませんが…(^^;
丹波霧の里HOME




inserted by FC2 system