熊野古道から辿る山城 藤白坂〜藤白山〜大野城(藤白城)〜祓戸王子〜鈴木屋敷
和歌山海南市 (五万図=海南)
藤白神社-御所の芝-大野城-熊野一の鳥居-鈴木屋敷 2004年02月07日
校歌・故郷の山市立第三中学校 ♪藤白山に日は映えてxx…♪
           海南市高等学校 ♪ 藤白の峰 緑に映えてxxx…♪

近畿の山城 : 地蔵峰寺城(御所の芝) 鈴木屋敷 大野城(藤白城)
「和歌山・朝日夕日百選の一」御所の芝から望むポルト・ヨーロッパ


六甲・摩耶から望む大阪湾の向こうに金剛・葛城の峰から伸びるスカイラインが南端に落ちて消える辺りが岬町、 あの先に続く和歌山市を以前は随分遠い所だと思っていた。海南市はまだ其の先です。僅か2年ばかりですが泉佐野市に住んでいた頃、幾度と無く熊取〜犬鳴温泉から 打田町へと山越えで南へ下ると其処は和歌山市です。市街地へ向かう車の長い列に嫌気がさしてR24は勿論R26線を西に向かうことは殆ど無くR62からR424を走り 海南市へ出る事の方が多く、今日も打田町から紀ノ川を渡り桃山町へと走り慣れた道を走っていました。とはいっても何時もは目的地へ通り抜けるだけだった和歌山市と 海南市の山と山城巡りの企画です。どちらも市内を迷走しながら場所探し。お陰で行きたいところへ到達出来なかった所もあって次の機会に??!!


藤白神社〜藤白坂(筆捨松)〜御所の芝〜大野城〜祓戸王子〜鈴木屋敷  H16年02月07日

大阪や奈良県堺を和歌山に入ってくると目にする熊野古道の文字、 加えて何時の頃からかメインスポットには「熊野古道」と墨書された提灯が其処此処の軒先や芝垣等に掛けられ、お陰で集落内の民家の路地のような細い道でも 迷うこともない。藤白坂から地蔵峰寺への道も今回3度目、山城に興味が無ければ来る事も無かったかもしれない。興味が有れば大野城へも前回の地蔵峰寺からトレースしたかもしれませんが藤坂神社まで往復しています。 何処か雲雀山に(此処も熊野古道で紀伊宮原・中将姫伝説の得生寺から)似た感じだった竹林も思い出した。拝の峠からは撫坂王子を経て 岩室城も行けそうです。
藤白神社(藤代王子跡)の大楠木

海南市からR42へ出て直ぐ阪和自動車・海南インター近くの藤白神社を起点に藤白坂〜大野城〜熊野一の鳥居〜藤白神社の周回コースです。 藤白神社の東約700mには熊野一の鳥居跡があって熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への入り口となっていました。 此処には祓戸王子跡の道標もあり、石仏の続く山道は王子跡の石碑と、その上部の墓地で行き止まり!!「蟻の熊野詣」と表現され平安から鎌倉時代にかけて 京都から熊野三山へお参りする人々で賑わった熊野信仰の古道も、その入口は新しい熊野街道との合流点だが今は鳥居跡としてのみ残り「祓戸王子」を通る道は古道を巡る ハイキングコースからも外されたんでしょうか?。筆捨松と硯石の遺跡(平安初期の宮廷絵師・巨勢金岡が熊野詣の途中、この松の下で熊野権現の化身である 童子との絵の書き比べをして負け、絵筆を投げ捨てた、童子は金岡の驕れる心を諌めるために出現したという)と、悲劇のプリンス有間皇子墓の史跡を辿る藤白坂コースがあり、 先ずは藤白神社(藤白王子跡)から再STARTします。
藤白神社は万葉時代(白鳳)第37代・斉明天皇 (斉明元年655〜661)が牟婁の湯(白浜湯崎温泉)に行幸された時、この地を訪れ祠を創建された伝えられ、その所縁で境内社として有間皇子神社が祀られます。 また第45代・聖武天皇が玉津島行幸の際、僧行基を詣らせ?皇子誕生を祈願したところ高野皇女(?下記の高野姫を参照下さい)御誕生、母光明皇后はそのために神域を広め整えられた。 ●注・聖武天皇の玉津島行幸は神亀元年(724)で野姫 【高野天皇とも称され、女性として始めて皇太子(女帝には第33代・推古天皇(崇峻5年・592〜推古36年・628)がいた)に立った阿部内親王で第46代孝謙天皇となった 】が生まれたのは養老2年(718)といい、光明子(光明皇后)は神亀4年(727)に皇子基王(もとい)を出産しているが翌年亡くなります。
有間皇子の墓にある歌碑

聖武天皇の玉津島行幸の際、当時の僧行基を詣らせてまでの皇子誕生祈願は考えられなくとも20年後の天平17年(745)には 民衆の絶大な支持・信仰を集めていた為、 大仏造営事業の寄付を募る等・力を借りる為か、聖武天皇は行基を大僧正に任じています。MM3210さんから戴いた内容から、現地説明内容に括弧書きで加筆修正 ・及び説明補足させていただきました。H17.4.21以来、熊野三山の遥拝所とされ子授け・安産・健康・長寿の守護神として広く信仰をあつめています。 熊野一之鳥居と称されることとなった。熊野九十九王子の中でも籾井・藤白(旧:藤代と記される)・切目・滝尻・発心門を五躰王子と称して格式も高く重要視され、 ここ藤代王子では参詣者は必ず宿泊したと言われます。巫女がおかれ神前で神楽・歌会・相撲等が奉納されました。建仁元年の後鳥羽上皇の詠草は熊野懐紙 (重文)として知られ、 境内に御歌塚・歌碑があり、宇多・花山・白河聖皇三代の重石は歴代上皇方が熊野御幸の度に当社に御休泊されたことを物語り注目されます。 樹齢1000年を越える楠木の巨木が境内を覆っている藤白神社(AM7:00)から「熊野古道」の提灯を道標(みちしるべ)として5分(約300m)ほど行くと藤白坂への登り口に有間皇子(孝徳天皇の皇子)の墓があり万葉集の歌碑が建っています。 有間皇子は飛鳥時代・子が無い事を嘆かれていた孝徳天皇と皇后・阿倍倉梯麻呂の娘で小足媛(おたらしひめ)が有馬温泉に入湯したところ皇子が誕生し有間(馬)皇子と 名付けられたと云う。
熊野古道・藤白坂の丁石地蔵

孝徳天皇亡き後・斉明天皇(女帝)のもとで実権を握る中大兄皇子(後・第38代天智天皇)が共に、 斉明天皇の3年(658)紀伊・牟婁の湯(白浜)へ行幸しているとき、蘇我赤兄(そがのあかえ)に謀られ、謀反の罪で捕らえられ、斉明天皇の裁きを受けるために 「牟婁の湯」に引き立てられたときに詠った「家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」 有間皇子の歌碑があります。有間皇子の父・孝徳天皇の姉が斉明天皇(宝皇女)で中大兄皇子の母、共に従兄弟関係にある有力な皇位継承者の一人です。 蘇我赤兄の謀略により天皇への謀反を企てたとして捕らえられ19歳で此処・藤白坂で (絞殺)処刑された有間皇子の無実は、誰もが知っていたといわれ皇位継承に関わる 権力争奪の中で強引に消された経緯から「悲劇のプリンス」として今に語り伝えられてきました。【事の真意や経緯は判りませんが孝徳天皇の5年(656)有間皇子は丹波に流され、 天津姫を慕って天津村京都府天田郡上川口)に来たとも?】有間皇子の遺跡の側に丁石地蔵(一丁石)があり、道々に姿を見せる小さな丁石地蔵や和歌ノ浦を眺め、 振り返ると城ヶ峰も見える。城ヶ峰には日方城が有り 下山後の次の目標地だったのですが、道路地図にも載っている車道の取り付き点が判らず日方地区の道を 往復しただけで和歌山市内へ向かいました。 和歌山市にも城ヶ峰があり此方の城へは後ほど登ります。
藤白坂から海南市街と城ヶ峰(右・日方城遠望)

藤白坂の丁石地蔵:海南市名高の専念寺・全長上人 (弟14世住職)は元禄時代 (1688-1704)専念寺に入り、延享4年(1744)に入寂された高僧でした。藤白坂の距離を明確にすると共に道中の安全を祈願するためにと享保初年 (1720?)頃に17体の地蔵を一丁毎に安置されました。丁石地蔵は270年余りの長い間に谷に落ち、地に埋もれたりして昭和56年現存するものは僅か4体でしたが、 その後新しく地蔵を加え17体が復元され設置されている。いずれも20cm程度の小さな可愛いミニ地蔵尊に、旅人は心和み・疲れを癒されたんでしょうね。 みかん畑に囲まれた簡易舗装の道が消えると山道になるが西は開けて 和歌の浦の海南港を見下ろしてポルトヨーロッパから 工業地帯・海南から和歌山への市街地を望む間に延びる城ヶ峰〜城山の小さな山塊は、山は見えても取り付きが判らず 今回あきらめた日片城址です。
筆捨て松と硯石

展望が消え竹薮が目立って来るとポッカリと山腹が切り開かれ丁石(14丁)を祀る場所があり(AM7:25)。「投げ松と筆捨て」の伝承遺跡筆捨松、 長い間土砂で埋まっていたという硯岩も傍らにある。二つの伝承のうち・絵較べ伝説だけが知られるようですので此処で「投げ松」
舒明天皇(第34代 629〜641)が熊野御幸の途中、藤白峠で王法の隆盛が続く事を祈念して小松を谷底へ投げられた。その帰途 ・小松が根付いていたのを吉兆であると喜ばれ以来・投げ松と呼ばれたといいます。そして250年後「筆捨松」平安時代初期の 仁和期頃(885-9)宮廷絵師の巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野詣での途中、藤白坂で童子と出会って絵の書き較べをすることになります。金岡は松にウグイスを、 童子は松にカラスの絵を描き次に金岡は童子の絵のカラスを、 童子は金岡の絵のウグイスを、手を打って追うと両方とも飛んでいきます。そして今度は 童子がカラスを呼ぶと、何処からか舞い戻り絵の中に収まったが、金岡の描いたウグイスはついに帰らなかった為、 悔しがり絵筆を投げ捨てたところ、筆は「投げ松」のところへ落ち以来、筆捨松と呼ばれたと言います。
地蔵峰寺

童子は熊野権現の化身で、金岡の思い上がった自負心を戒める為に現れたという伝説です。 「筆捨て松」伝承地から10分程で藤白坂を登りつめると舗装道路となり、目の前の石垣上に大きな(高さ約3.5m)宝篋印塔が建てられています。建立年代は不詳 (鎌倉末期!!)ですが県下・四大宝篋印塔の一つで昭和44年(1969)和歌山県指定文化財となっています。右手には地蔵峰寺が有って無住だが何時も綺麗に掃き清められています。 「御所の芝」の道標に従って藤代塔下王子跡の休憩所・トイレ横から寺の裏手に廻ってみます。御所の芝への途中…といっても 直ぐのところで右下へ冷水浦 (しみずうら)への道を分け、本願寺中興の祖蓮如上人旧蹟の案内標があります。 此処は冷水の信者・喜六太夫が霊夢のお告げで熊野詣で此処を通られる蓮如上人と出会うため登ってきた旧蹟で記念碑が建てられています。
広域林道から大野城(藤白城)を遠望

蓮如上人から 喜六太夫は了賢の法名を授けられ、冷水浦に了賢寺(紀州最初の真宗寺院)を建てたと伝えられます。地蔵峰寺は下津町に在り、私たちには蜜柑栽培の発祥地で、 下津の港からは紀伊国屋文左衛門が蜜柑を積んで船出した事で知られる処。御所の芝(AM7:38)は白河上皇をはじめ熊野三山に詣でる 上皇達の仮御所(行宮所)が造られた所ですが、和歌浦湾と海南港を望む絶景地で特に和歌浦湾を深紅に染める夕景が素晴らしく”紀伊名所図絵”では「熊野第一の美景なり」と記され”和歌山の夕日・朝日百選の地”にも選ばれています。 御所の芝から墓所n横を抜けて南へ尾根を辿ると地蔵峰寺城が有るというので一寸寄ってみたが削平された山頂には貯水施設があるだけで城址の明確な遺構はなかった。
大野城・二つの城の中間にある自然の??土橋と堀切

次の大野城に向かう為、宝篋印塔の側へ戻り此処から尾根に取り付いて蜜柑畑の中を抜けると尾根に沿って続く 作業林道に出た。車道は稜線を僅かに逸れるので最高地点に向かって入り込むが藤白(3等三角点 337m)は藪中に測量棒のほか、三角点標準石標は見出せず 藪の急坂を滑り降りて基幹林道に飛び出してきた。谷を隔てて大野城のある二つの峰が望まれる。此の林道は重根方面や鏡石山へ通じているのか送電線・高津尾線No.9の標識に 「大野城登山口」の手書き道標があって(AM8:10)良く踏まれた山道を辿ります。大野西城に遺構はなにも残っていないと聞いていたが堀切跡!!?を通り西城側も山頂の平坦地に着いた。 此処の周囲には段差もなく城址と言われても信じがたいが!!??東斜面は数段の曲輪らしい場所も有る様です。大野東城との中間部には自然か?人工か?大堀切と土塁らしいものもあった。 しかし東城が近くなると明確な数本の堀切 ・土塁・曲輪を見て明るい広場のような大野城の東城山頂に着いた。此処が大野城 (AM8:35)の本郭部で北に向かって三段の曲輪が見える。藤白坂から延々歩いてきたけれど山城だけが目的だと、林道から比高30m,10分程で主郭部の説明板の横に登って来れるようです。藤白へ戻るには反対方向なので道はないが 北側の激急斜面を下って曲輪から見えた林道に降りたが其処は林道の終点。
祓戸王子跡


そのまま谷筋のハッキリしない踏み跡を辿って、細いが高い滝のある行者堂跡のような場所へ出てきた。 左右に幾重にも石垣の台地が連なり・その中央も石積の道が続く。名のある社だったか?石垣の蜜柑畑が現れてくると「大野城東城へ」の指示標を見る(AM9:10)。 主郭からほんの少し同じ道を引き返せば楽に下れる堀切道でもあったのかも…土塁や曲輪跡に気を取られ気付かなかっただけ!!。藤白神社近くへ降り立てると思ったが 大分離れていたようで途中・熊野一ノ鳥居跡や祓戸王子跡の案内を見て、此処へも往復して鈴木屋敷へ戻ってきた。全国「鈴木姓」のルーツは此処にあり…ですが、 鈴木屋敷は源義経の家来でもあった鈴木氏の居館なので「近畿の山城」のコーナーでレポートします。藤白神社(AM9:40)から海南・日方城へ向かったが入り口捜して右往左往 …結局此処は諦めて和歌山市に入ります。
(藤代神社:藤白坂:筆捨松 現地・下津町教育委員会説明板等を参考)


地蔵峰寺城 鈴木屋敷 大野城(藤白城)

地蔵峰寺城(御所の芝)   藤白峠xx? 284m   海草郡下津

藤白山系の西端にあって熊野古道の藤白坂を登り詰めた(藤白峠)地蔵峰寺の背後の山に地蔵峰寺城が在りました。 熊野詣での参詣道で藤代塔下王子が置かれた地蔵峰寺は、海岸沿いの街道筋と 同様に利用された要衝なので地蔵峰寺城は有事の際は此処・熊野道を押さえ通行を 遮断する関所城として機能したとも思えますが、大野城とは尾根続きなので、 その支城か砦・物見台として四国・淡路側からの海上警備等の為に 築かれたとも考えられます。おそらくは南北朝時代・山陰の山名氏が北向かいの日方城や 尾根続きの大野城の守備の為に築いた城砦か出城と考えられます。
地蔵峰寺城本郭部南端・堀切と土橋跡!!??


和歌山の城に詳しい方からの情報でも遺構の現状確認は難しいだろうとの返事ですので、私のような素人には度台無理な探索ですが 「御所の芝」の説明板にも最後の一行に書かれた城址を辿ってみました。御所の芝から南への緩やかな山道が延びており、登り詰めた山頂の広い平坦地が本丸でしょうか!! 給水施設が建ち、尾根上に遺構を捜しても何も見当たらないが 南面と西側の眺望に勝れた藤白山稜の端に位置しており、和歌浦湾を望む西面は急斜面となっている要害です。 しかし城を攻めるにはこの西か南側からでしょう。細く延びる尾根の西側の僅かな高まりは土塁跡だったのでしょうか。施設工事の整備残土なのかも…!!東の地蔵峰寺側の尾根下には 幾つか曲輪が設営出来そうな場所や空堀や竪堀状がありますが、此れも工事に伴う土砂や資材の廃棄物を見せられては信じる手立てがありません。

鈴木屋敷    xx居館(藤白神社境内)   海南市藤白

藤白神社の主神・天照彦国照彦饒速日命(にぎはやひのみこと)は物部氏の祖神で 、紀州では珍しい神社だそうです。鈴木姓の氏神でもあり境内には鈴木重行の居館とつたえられる、全国「鈴木姓」の発祥の鈴木屋敷があって鈴木家代々が居住していました。 祖先は饒速日命の孫で千翁命(ちおきなのみこと)、神武東征の際、 天皇に稲を献じたので「穂積」の姓を賜わったが、稲を積み重ねたのを「すずき」といったところから「鈴木」姓になったのだそうです。 熊野八荘司の一で平安時代に熊野から此の地・藤白を拠点として熊野三山への案内を務めたり、全国に熊野神社(3300社)を建立して熊野信仰を広めます。
鈴木屋敷と曲水泉式庭園


頼朝軍に追わた義経が奥州(岩手県)に逃れた後、 文治5年(1189)藤原泰衡に奥州・衣川館を襲撃され自害した源義経と共に討死にした家来の鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟も海南の出身であり、 境内には室町時代の様式を伝える鈴木屋敷(閉まっているが神楽殿か神輿(こし)の収納殿のような建物と崩れかけた白壁!!)と義経がこの地を訪れた時の義経弓立松 (何代目か?未だ若木!!)や西裏手!!?には平安時代に流行した曲水泉式庭園(県指定史跡)が有名で、全国に僅か三ヶ所だけという貴重な庭園だそうです。 藤白坂〜大野城址〜藤白神社へ戻った後、和歌山・秋葉山公園の弥勒寺山城へ行きますが、此処lで信長の大軍と僅か3千の兵を指揮して抗戦した鉄砲集団・雑賀衆の頭領雑賀 (孫市)重秀が本名:鈴木、平井郷の領主で平井孫市ともよばれ平井の蓮乗寺(浄土真宗本願寺派)に墓がある。@雑賀南郷さんからのMLで知ったが、 鈴木孫市の墓は藤井寺市にもあるそうです。
(海南市教育委員会 現地説明板等 参照)
大野城(藤白城)  xxx 450m  海南市大野中

白山系の高所に築かれた和歌山県下でも代表的な中世の城・大野城は、東西(Ca424〜450m)に二つの城を持っています。 …といっても西城は殆ど遺構が確認出来ない程で南朝方の砦跡かのようです。本城の東城はその後も城主が変わり、城はその度の整備され土塁・堀切が残り生活臭もあります。山名氏の頃に築かれたと思われる二つに城は、 畠山氏の頃には東城を本城にして西城は本城の砦か出城を城域として取り込んだ「別城一郭」の大野城として機能してきたと思われます。
大野城・西尾根の堀切

平成3年から3年間に渡って発掘調査が行われ、 本郭部の三段の曲輪からは建物跡・石組・石積・石段等が発見されています。大方のものは14世紀後半〜15世紀初期のもので山名氏が城を整備した時期に一致するようです。 数年前までは残されていたという石積遺構等は埋め戻されたのか!?何の遺構も見出せない。 発掘調査により出土の小皿や陶器・中国青磁・銅銭・碁石・釘等の遺物(海南市指定文化財)は海南市の民俗資料館に収蔵・展示されているようです。
大野城・本城(東城)の北から三段曲輪

主郭の東城からは眺望良く、要衝となる北方の街道や海南港を眼下に当時はもっと眺望も良く、 監視するにも絶好の位置だったのでしょう。私は無理して…!!?藤白坂から辿りましたが、今では林道が延びており比高30m,10分程で主郭部の説明板の横に登って来れる様です。 …「大野城址と雨の大明神」の石碑が建ってられていて、此処が雨乞い信仰の山とされてきたようです。南北朝期:建武年間(1334-38)足利氏が畠山基国を紀伊国守護に任じて大野城に入国させます。ところが「紀伊続風土記」では敵対する南朝方の浅間氏が、 次いで正平年間(1346-70)保田氏が、さらに貞治3年(正平19年1364)北朝方の細川氏が入城したことになっています。
大野城本郭部・発掘時の遺構配置案内図

永和4年(1378)山名修理大夫義理は 紀伊国守護に任じられ紀北地方が北朝のもとに統一されると守護所を紀伊府中から、熊野街道と高野街道の分岐点にあたり日方浦(海南港)にも近く海上交通の便もある 交通の要衝でも大野に移し此処を拠点として、かつての南朝方の砦を整備して大野城としました。永徳2年(1382)山陰から紀伊に進出した北朝方の山名修理大夫義理を大将に、 楠木正勝の土丸城(和泉佐野)を落し大野城に立て篭もる 楠木六郎を全滅させて大野城主となっています。 その結果、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作・出雲・隠岐・備後・但馬に紀伊・和泉を加え、日本六十六国の六分の一を占めたので「六分の一殿」と呼ばれるようになります。 大野城はその後代々・紀伊守護職の居城となっています。勢力を増した山名氏を抑えようと将軍足利義満は山名氏の総領時義の死後、その子を討ったが 義満の策略を見抜いた氏清は一族と共に幕府に謀反する明徳の乱 ・明徳2年(元中8年 1391)が起こり、大野城に居た山名義理も一族の意向に従い兵を挙げ、大野城の支城【春日山城・日方城・池崎城・神田城等】を築いて防戦に備え 大内義弘軍が攻め来る北方を固めます。
大野城・本城(東城)の本丸から三段曲輪
 
既に紀北一帯は大内義弘の配下にあり、山名の軍勢からも大内軍に加勢するものも出てきて、合戦で一族を見殺しにするなら再起を図ろうとの意向により 伊勢へ落ち延びたといいます。大内義弘が紀伊守護職として入り守護代として陶氏を送ったが、まもなく応永の乱で大内氏は失脚する。代わって、この乱に功のあった 畠山基国が守護職として入城し南北朝争いの終焉と同時に守護職争いも一応落着き本城を広城 (有田郡)に移し大野城は次男畠山満則に守らせた。
(海南市教育委員会の現地説明板及び日本城郭大系 新人物往来社等参照)
  丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system