紀の川沿いに紀の国の富士と山城を訪ねて 龍門山(紀州富士 )〜飯盛山
和歌山(紀北)  (五万図=粉河)
一本松〜正面コース・龍門山(757m)〜田代峠⇔飯盛山〜田代コース・一本松 2002年11月02日
近畿の山城 :龍門山城(勝神山城) 飯盛山城
ふるさと富士 :
紀州富士(龍門山)
近畿百山 No62・関西百山No88 龍門山
紀州の伝説: 龍門山の蜘蛛
紀ノ川に架かる龍門橋から龍門山を望む
校歌・故郷の山 向陽高等学校 ♪竜門の峯 紀伊の海…♪
          荒川中学校 T♪…仰ぐ高嶺は龍門の…♪
           調月小学校 T♪朝日輝く竜門の 高嶺の麓…♪
          粉河小学校 T♪高く聳ゆる 紀伊富士の…♪


犬鳴き温泉から和歌山側の神通温泉を通り志野峠を下り始めると山肌を黄色く染める蜜柑畑と紀の川沿いに打田・粉河の町が明るく拡がって来ます。龍門山系の山並みが緩やかに連らなり、懐かしい姿を見せてくれます。 紀州富士とも呼ばれる龍門山は4回目、紀の川沿いに明るく開ける風景と気分的名な明るさと、今回は山城としての龍門山〜飯盛山縦走です。龍門山の古名は高畑山 (龍門山の蜘蛛)だそうですが南北朝期には勝神山(かすかみやま)と呼ばれています。 何度も来たのに7・8・10・11月と花の時期が外してしまい、この山に群生する天然記念物のキイシモツケの白い花を未だ見たことがなく、いつか見頃の5月末〜6月中旬に訪れたいと思っているが、 此のコースを歩くときは欠かさず明神岩と風穴及び磁石岩には寄っている。



コース 正面コース・龍門山〜田代峠〜飯盛山〜田代峠一本松 H14年11月02日
 
紀の川に架かる龍門橋の前方には緩やかで、ドッシリした構える龍門山の姿があって粉河町のシンボル・紀州富士の別名でも親しまれている。果樹園の間に続く細く急な簡易舗装の道は中腹の一本松 (田代コース入口)や正面コース登山口まで車で入っていけます。今回は飯盛山迄縦走し、ついでにもう一つの山城・茶臼山経由の下山を考えて龍門橋の袂に車を置いて出発のつもりだったが、つい果樹園 (殆んど蜜柑畑)の急な斜面を登り始めています。Uターンも対向車のすれ違いさえ難しい処なのでそのまま登りつめて一本松の田代コース入口に着くとマッサージと喫茶店?が建っています。その下の広場が駐車予定だが既に4〜5台停められてる。水の流れている以前のままの 浅い溝を越えたが空きスペースに停めることも出来ず少し戻った広いスペースに車を寄せます。
龍門正面コース付近から紀ノ川・南葛城山方面
 
犬を散歩に連れ出してきたばかりの主人と会って”お早いですね…”そのはず(AM6:45)。以前はこの周辺を別荘として売出していたようで売れたのは此処だけ??。飯盛山まで縦走して帰路に田代峠から此処に戻る。先ず果樹園の続く農道を正面コースから龍門山へ向かう。山裾が緩やかに紀ノ川に落込む龍門山系、東方には陽が明るく差し掛かる南葛城の山並みと北には粉河ハイランド(和泉葛城)の展望タワーが果樹園(柿)を通して拡がってくると舗装も切れて正面コース(AM6:55)の取付きに着きます。「キイシモツケ」の案内説明版を一通り読んでハイキング道を辿ります。毒性のある蛇紋岩地帯特有の植物で一般土壌では育たないバラ科植物で日本にはイワシモツケ、トサシモツケの三種のみで和歌山県指定天然記念物 (昭和48年5月16日)に指定されています。擬木の階段で整備されたはずの道は殆んど利用されることも無く 登山用の別ルートが 利用されているようです。神社や寺と違って、登山道に階段がいかに疲れるか、歩き辛いかを実例で紹介されている見本のような登山コースが続きます。登山道から少し外れた(看板には50mと…)ところにある龍門山で特筆の名所明神岩(約25m位 AM7:20)と風穴の寄っていきます。岩頭の凹部には何時も通り水が溜まり、ロッククライミング用の埋め込みボルトが二本程だが、今は確保用が岩の側面部にも多く目立ちます。
雨水の残る明神岩から紀ノ川・南葛城山方面

それどころか明神岩の上部周辺は刷毛で掃いた程に岩間の溝の土まで落とされ此処に生えていたキイシモツケは勿論・雑木も 綺麗サッパリ伐採されています。取り付きから此処まで展望に恵まれ無かったので紀ノ川と粉河の町や和泉葛城・南葛城が一望出来て小休憩の適地です。明神岩の側には風穴が暗く 深い井戸のように口を開けています。温暖な地域なので氷室とまではいかないが天然クーラーとして明治の頃まで、繭の保存等に使用されていたといいます。もとのハイキングコースに戻って暫らくで急登もおさまり 尾根が緩やかになる頃、コース脇の露岩が気になり 近寄って見ると、まるで井戸跡と思われる長四角形の石組???を見ます。此処・龍門山は建武年間 (1334-38)城が築かれ南北朝期に龍門山合戦があった所です。 そうだとは思えても周辺には他に何も無い。まして此処から10分足らずで到着する龍門山頂にも明確な遺構は見当たりません。堀切り位は無いと防戦出来ない緩やかな尾根続きです。旧山名にもある勝神 (かすかみ)からのコースと合流すると(AM7:38)すぐ広い草原状に出て来ます。ススキや雑木の尾根西端に立つと勝神や最初ヶ峰を望む平らな露岩部があり見張り所があっても良さそうな場所。元に戻ってその上の平坦地に着くと山名標柱の建つ龍門山山頂(3等 757m AM7:40)です。紅葉が目立ち始めた樹林の尾根を10分程で紀ノ川を望む露岩に立ちます(AM7:50)。
磁石岩

此処が
県指定(昭和34年(1959)4月23日)天然記念物・龍門山の磁石岩周囲約17m・高さ約4mの露岩は磁気を含んでいるため、一般的に磁石岩と呼ばれています。 さらに10分下り続けて田代峠(AM8:00)に出ます。直進して飯盛山へ向かうが「道標は無く藪っぽいのは以前のまま。 踏み跡薄くて判り難いところはあったが「紀峰山の会」の標識が 適所にあって助かります。 飯盛山を往復して此処へ戻り「一本松」田代コース取付き分岐へ戻ります。テープを潜ってササの踏み跡を南へは権現滝を経て黒川・畑野へ下る道。飯盛山へは峠分岐から早速笹の薮漕ぎが続くと覚悟していたが直ぐに開放されて静かな雑木林の中に山道が続きます。
田代峠

 
稜線続きを辿る判断が難しい箇所では紀ノ川の位置を思い出して、 そちら方向へ軌道修正しながら進みますが今回は踏み跡も明瞭になり道標も目立ちテープも増えて楽勝コースです。枝尾根分岐付近にあったというミササ峰城址も4等三角点(652m)のある小飯盛城址(AM8:25)も平坦部分はあるが 遺構らしいものは無く、竹矢来で防戦した砦(塞城)だったのでしょうか!!? 小飯盛山からの下りで飯盛山のオムスビ型の山容が見えてきますが、ついでに雨さえ降り始(AM8:30)め暫らくすると雨音が一段と大きくなり雨具 の用意に取り掛かりますが、なにやら白い玉がはじけ飛んでいます。霰です!!:城に向う前に早々と雨アラレの攻撃を受けてしまいました。 東京方面でも今年の"木枯らし一号"が吹き荒れた事を帰路のニュースで聞きました。
小飯盛山長い平坦地の端に三角点標識が

往時は尾根を辿って神路峰(603m)を下って「飯盛山城址700m⇒」標柱のある桂峠に出て、此処から暫らく急登が続くが一気に山頂へ登り着きます。 幅広い空掘りから6〜7mの段差を越えて腰曲輪へ出て2〜3mの最期の段差を抜けると飯盛山山頂(3等 746m AM9:05)の本郭部です。多くの団体の山名札が掛かっています。一段下の腰曲輪・西端には低いが 土塁が巡らされているようです。下部には幅広の空掘りですが東側下へは未だ数段曲輪が有るようだが、天正期に高野山衆徒が拠った時に増強されたものかもしれない。その下方には植林を通して何やら建物が …例の個人所有地の中を抜けても帰路は遠くなるだけなのでUターンして田代峠へ戻ります。途中・神路峰の裾を捲くと雄桂・雌桂の分岐標示がある(AM9:25)。寄って見たい とも思うが間違って下り切れば後が大変です。杉原へ戻り、 あの急な果樹園の中の道を一本松まで戻ることを考えるとゾッとする。未だこの後の予定もあるので直に帰ります。田代峠(AM10:10)から下り始めて直ぐ小さな石仏が祀ってあります。
龍門橋から飯盛山 (左のピーク)

昔の生活道で、 かつらぎ町へ越した峠なのでしょうが厳しい道です。 岩の急斜面を下り続けます。「一本松」との中間辺り(時間的に10分強)で左手上に「塵無し池」への分岐標示を見ます。キイシモツケの花が咲くポイントのようだが 季節外れなので今回はパスして一本松の駐車場所(AM10:35)へ戻り、 JR名手近く那賀町の華岡青洲の病院跡がどうなったか見に行って見た。泉佐野市にいたH7年は未だ畑のなかに案内板が有り H8年は台所とか病室・学生寮 !!跡等発掘調査中だったが「青洲の里」として 立派な資料館 春林軒(有料)がありレストラン、 特産品コーナも有り近くを通りかかったら寄って見てください。青洲一家の墓の前の駐車場は以前のまま!!
華岡青洲の里から飯盛山(左端)〜龍門山(右端の台形の山)

華岡青洲【宝暦10年(1760)-天保6年(1835)】那賀町平山に生まれ、父の後を継いで医者となった。 当時の外科治療には麻酔が無く、激しい痛みに耐えなければなりませんでした。患者の苦しみを和らげ人の命を救いたいと麻酔薬の研究を始め、曼陀羅華(チョウセンアサガオ)の花を主成分とした薬草に麻酔効果があることを 発見しますが完成の為の最期の人体実験で行き詰まります。後は小説・芝居で有名になったストーリーですが、青洲の妻・母が自ら実験台になるお話です。世界で初めて全身麻酔による乳癌手術の成功と、 医塾「春林軒」を設けて門下生の育成にも力を注ぎ76歳で花の生涯を閉じています。

 
龍門山の蜘蛛伝説(水原村大明神縁起)  那賀郡粉河町杉原
 
奈良時代:龍門山(古名:高畑山)の明神岩と風穴にまつわる話があります。紀ノ川の麓で大洪水になったので一帯を水原(すいばら)村と呼ばれたのは龍門橋南詰めの杉原のことで 龍門山への登山口になっています。この高畑山に大きな蜘蛛が住みつき、麓に住む人々や街道を往来する人の物を奪ったり殺したりして荒らしまわっていたので、蜘蛛を怖れて誰も道を通らなくなり 付近はさびれてしまいました。
明神岩から紀ノ川を望む
 
このことが地方の役人から朝廷にまで伝えられました。天皇は早速・藤原房前(ふささき)という人に命じて軍隊を差し向け蜘蛛を退治させようとしました。山の麓へ到着した軍の大将が村人を呼び 「この辺に神社はないか」と尋ね「九頭龍王をお祀りした神社がございます」これを聞いた大将は早速、神社へ行き部下と共に神前でひたすら祈ります。「どうか我々に蜘蛛を退治させて下さい。 我に神力を与え賜え」と祈り続けて三日目の昼過ぎ、山の上空に黒い雲が湧きあがり、大粒の雨がぽつりぽつり降り出し、空は真っ暗となり、みるまに物凄い勢いで雨が降り出しました。やがて山頂より少し下がった峰に凄まじい音響とともに岩石が吹きあがり、ぽっかりと穴が空き雨風が穴から吹き上がり滝のように流れ出して、麓は大洪水となりました。真っ暗な穴の中から何か光るものが見えたと思うと祭神の九頭龍王が姿を現したのです。
風穴
 
龍王は大きな岩へ頭を乗せ、西方の山頂をぐっとにらみつけました。そして大蜘蛛のいる山頂へ向かったのです。龍王と大蜘蛛の激しい争いとなりました。 蜘蛛は口から数百条の糸を吐き出して龍を捕えようとし、龍は口から火を吹き出して蜘蛛を倒そうとしています。戦いの末、ついに龍王が蜘蛛を退治します。疲れた龍は、静かに山から下りて神社の前の渕へ入って行きました。麓の村に平和がよみがえり、人々は龍王のために新しく神社を造り、後々まで祀ったといい、此の山を龍門山と呼ぶようになりました。龍が出現した穴を風穴、頭を乗せた岩を明神岩といいます。

 

 龍門山城  飯盛山城 

龍門山城(勝神山城) 龍門山 (勝神山) 756m  那賀郡那賀町
 
紀ノ川に沿って走る 国道24号線や広域農道を始め、どの車道からも目立つ大きくドッシリした、しかし緩やかスカイラインを浮かび上がらせる龍門山系の龍門山の山頂に築かれた和歌山県内でも最高所にある城郭が 龍門山城(勝神山城)です。 建武年間(1334-38)北朝方より畠山国清が守護として入国したが 延文5年(正平15年1360)南朝方の四条中納言隆俊が 塩屋伊勢守と共に三千余騎を率いて龍門山系の西尾根にある最初ヶ峰に布陣します。此れに対して、北朝方は畠山入道道暫・弟の尾張守義深等一族3万余騎の大軍を送って最初ヶ峰に対峙する和佐山に城を築いて立て篭もります。
三角点山頂が狭いので広い此処が山頂!!?
 
此れを見て四條中納言隆俊方の塩屋伊勢守の 3千余騎は最初ヶ峰を抜け龍門山に立て篭もり、此処に「太平記」にも記され「紀伊名所図絵」に描かれる龍門山合戦が展開されたが畠山の大軍におされて四條中納言・塩屋伊勢守は有田の 阿瀬川城(阿瀬川孫六)へ敗走した。城跡は山頂から東の尾根に南北50m程、東西200m余りに細長く築かれて三段程の曲輪の脇に沿ったハイキングコースだが 明確な曲輪遺構は無く藪化した尾根に山城を意識する登山者は少ない。
三角点付近から龍門山頂
 
此の先、田代峠から飯盛山にかけて幾つもの城砦が築かれたと云われ、飯盛山への途中にもミササ峰城や三角点のある小飯盛城が在るが、小飯盛城さえ三角点周辺に平坦地(削平地?)や曲輪の遺構は見当たらない。 しかし飯盛山城へは足を伸ばした甲斐がありましたよ。 
 
飯盛山城    飯盛山 745m  那賀郡麻生津中
 
龍門山系の飯盛山にある城は建武元年(1334)10月北条高時一族の南朝方・六十谷定尚等が佐々目憲法僧を取り立て、堺の佐衛門尉時光と名のらせて 大和で一族を集めて紀伊に入って飯盛山に築いた山城です。此れを鎮圧する為に楠木正成は 三善信連らを連れて当地に入り、 高野山衆徒等と共に兵を飯盛山に送った。3ヶ月以上の戦いの末ようやく此れを鎮定したが翌年・北条氏の残党が兵を起して飯盛山に立て篭もった。正成は再び足利高経等と共に攻め後、正成の陣城となっています。
飯盛山頂(本郭)

この事から飯盛山周辺の地を勝負畑(ショバタ)と呼ばれています。山頂部には土塁址を残す曲輪下2〜3 mには腰曲輪が取り囲みさらに 7〜8m下には曲輪を囲む空掘があります。天正9年(1581)の織田信長"高野攻め"では南蓮上院弁仙等の高野山衆徒が此処に拠ったともいわれ、蛇足ですが下山コースに考えていた茶臼山は高野山衆徒が築いた高野七砦の一つで茶臼山城(篠城)は 庵の砦ともいわれています。飯盛山の西峰に小飯盛城他多くの城砦跡があり大阪・金剛山(国見山)周辺の尾根に築いた 城塞群を思わせます。
腰曲輪から3m程上に本郭
 
山頂の東下方・軍見峠付近には現在「飯盛山城」の天守閣が、その尾根続きにもホテルが建てられているようですが用途不明の個人所有のもので 飯盛山城址とは無関係です。那賀郡の「華岡青洲の古跡(病院跡)」を訪ねて向った国道24号線JR名手付近から、飯盛山を眺めたら何とも奇妙な、観光で行く人も居ないだろう辺鄙な稜線上にホテルと三層の天守閣が場違いに並んで見えています。

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