醤油の町と熊野古道の石畳道から山城!を訪ねて 湯浅城〜高城山(広城)/小城山(鹿ヶ瀬城)
和歌山(五万図=海南)
湯浅城〜高城山(広城)/白崎海岸周回/
鹿ヶ瀬峠〜小城山(鹿ヶ瀬城)  2003年09月06日

近畿の山城 : 湯浅城 広城(高城・名島城) 鹿ヶ瀬城(鹿背城)
湯浅城(国民宿舎の模造天守閣)

鹿ヶ瀬城と熊野古道に残る最長の石畳道を再度歩いてみようとR42号を走り有田市に入る。大橋を渡らず有田川沿いに金屋方面に向かい宮原の 岩室山(岩室城)と帰り道に吉備から金屋へ出て金屋中学校から登る 鳥屋城(鳥屋城山)は登城済なので続けて湯浅町へのレポートに入ります。此処は城の所在や遺構状況がよく判らず湯浅の国民宿舎・湯浅城へ、 本当の城は何処??!!。湯浅城から42号へ出ず峠越えの青木経由では途中・顕著な山城の山容を見せる広城(名島城)が見えるが登城口は?? 次がメインの!!鹿ヶ瀬峠〜鹿ヶ瀬城だが、 井関からの道がよく判らず時間をロスして180度転換、前回と同じの一般的な??金魚茶屋からのコースで熊野古道最長の石畳道を歩きます。最後は少し散歩気分・行楽気分で、 白崎海岸線を周回して門前に戻って帰りますが時間もあったので金屋・鳥屋城へも寄ってみました。


湯浅城〜名島・広城宮原町須谷〜岩室城/金屋中学校〜鳥屋山城 H15年09月06日

42号線水尻を過ぎ緩やかに坂を下ってくると、 かつては熊野三山への参詣道(熊野古道)を旅する人々の宿場町として賑わい、手造り醤油と金山寺味噌の発祥地として知られ湯浅の町に入ってきます。東側の丘陵には目立つ五層白亜の天守閣が見えてきます。隅櫓まで整えての湯浅城 ですが正面に廻れば…「いらっしゃいませ…」此処は国民宿舎です。お城で宿泊も良いのかも、以前寄ったときは昼食後に温泉に浸かって湯浅湾を望みましたが此れも一興です。
柳瀬集落から広城を遠望

湯浅城を後にして丘陵沿いに 青木を抜ける車道からは広城が見えてきます。広城の取付きが良く分からないので城の別名にもなっている名島へ廻るべく42号線に出て、 広川沿いの一車線の道に入り送電線が越える稜線を目指して谷筋に続く蜜柑畑の農道を進みます。先にアップした 岩室城と鳥屋城を支城と此処・広城を本城とした畠山の城です。 その規模や遺構に期待したが西側の本丸側は見事なまでに蜜柑畑の中。曲輪も石垣も跡形なし。東の二の丸側は空掘と大土塁が残りますが 蜜柑畑を抜け蜘蛛の巣だらけの藪を抜けてヤッと確認出来る感激が楽しめる。
白崎海岸・石灰岩の立巌と白崎

次に目指した熊野古道に残る最長石畳道が続く 鹿ヶ瀬峠から鹿ヶ瀬城へは井関からと思っていたが、此処でも良く分からないまま右往左往、時間ロスして結局は荻原からの 金魚茶屋〜板碑〜小峠の道を辿るべく大迂回することになりますが、その前に熊野古道・鹿ヶ瀬の帰路に寄道した由良町の白崎海岸周遊コースの案内です。和歌山には海岸美と砂浜の景観が素晴らしい雑賀崎 ・煙樹ヶ浜と日の岬・白浜・串本・枯れ木灘と枚挙に暇なし。白崎海岸の真っ白な石灰岩と蒼い海をもう一度見たくて、 紀伊由良の門前手前・入路交差点で左折し 峠越え海岸線沿いに白崎海洋公園へ向かいます。以前に訪れたときにはウミネコが乱舞していた大婆(おおばい)の岩・立巌(たてご)の 勇壮な奇岩を望む小広場には歌碑が建つ。
白崎海岸・展望台から

白崎海岸は県立自然公園に指定され 「日本の渚百選」にも選ばれ万葉の昔から白崎は景勝地として知られた所で大宝元年(701)飛鳥から牟婁の湯 (白浜)への御幸の際(湯羅)由良に立寄られた時に詠まれた郡持統天皇の歌 「白崎は幸くありまて大船に真舵しじぬきまた帰り見む 」が残っています。まっ白な石灰岩の岬が蒼い海に突き出る白崎の美しい景観は地中海の小島のようで、白崎海洋公園の駐車場から歩き始め ログハウスやダイビングハウス、展望台入口へと進むと,眩い白さの岩をバックにヤシの木が立ち、 日本離れした景観が拡がって戸惑いさえ感じます。
白崎海岸・ダイビングハウス前から

ダイバーで賑わうクラブ前から一般駐車場へ戻り衣奈へと半島を北へ回ると、狭い海岸線沿いの道ですが多くの入江が続くリアス式海岸や途中・戸津井には、 さらに山手へ約550m林道を辿れば戸津井鍾乳洞もあります。対向車に注意しながら海岸線から衣奈へ抜け出て右折・衣奈トンネルを抜け門前手前で興国寺へも寄って見ます。
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鷲峰山興国寺 (臨済宗)

興国寺は葛山五郎景倫(願性)が 鎌倉三代将軍源実朝の菩提を弔うため安貞元年(1227)真言宗西方寺として建立されたもので正嘉2年(1258)心地覚心 (法燈国師)が宗旨を禅宗に改めると「関南第一禅林」として栄え多くの高名な僧を輩出した。覚心は永仁6年(1298)示寂(高僧の死を示します)。その後国師号を授かり興国元年(1340)には 後村上天皇から興国寺号を賜ったと伝えられます。天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めにより堂宇の大半を失ったが紀州藩浅野家・徳川家代々の藩主の庇護を受け復興されました。湯浅名産の「醤油」「径(金)山寺味噌」の発祥地ですが 普化尺八の本寺としても知られることは 国道42号線門前の衣奈への分岐にある興国寺案内大看板でお気付きですよね。
興国寺本堂


陸上交通の先駆者由良守応(もりまさ)の墓:興国寺の山門から石段を登って行くと 最初に気付く石碑と「由良守応」の肖像画付きの案内説明板が目に付きます。文政10年(1827)門前村に生まれた由良弥太次(守応)は幕末の志士として活躍、明治新政府に仕え後藤象次郎 ・陸奥宗光などと親交を持ち、岩倉具視の欧米使節団の一員として先進文化を吸収して帰国後、東京で二階建乗合馬車「千里軒」の開業など我国文明開化の先駆的な事業を数多く創立した業績は大きかった。 明治27年(1894)3月67歳でその生涯を閉じています。
(由良町教育委員会・和歌山県教育委員会 現地説明板参照)
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熊野参詣古道・鹿ヶ瀬峠の石畳道  日高町指定文化財(昭和49年6月9日指定

熊野古道は熊野九十九王子社を辿りながら熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を結ぶ ルートの一つ」だが、その中でも現存する最長の石畳道が500mも続きます。鹿ヶ瀬峠を越える一番の近道ながら参詣古道では難所の一つともなっていた。牛馬童子像のある箸折峠と共に熊野古道巡りの中でも知名度の高い人気の金魚茶屋から鹿ヶ瀬峠への ハイキングコースですが最近!!?さらに200m程新しく石畳が敷設されています。
熊野古道・石畳道の最長距離補足用!!新敷設道

42号線荻原交差点を右折して鹿ヶ瀬峠を目指します。広川町へは以前と見違えるほど快適な 舗装車道が延びているので 金魚茶屋への分岐を見失わないように。左手に熊野古道・鹿ヶ瀬峠の大案内看板と 金魚茶屋の看板標柱は立っています。左側に青い案内板が立ち小さな石碑がその前に有り「馬留王子」と刻まれています。
「馬留王子」跡(日高側の石碑)


馬留王子跡
日高町指定文化財(昭和48年6月9日指定)
熊野九十九王子社の一つで現在地の上の畑中に在ったのを現在地に移したそうです。参詣を終えて帰路についた貴顕の行列は険しい鹿ヶ瀬峠を越す為、 この地で馬を留めたといいます。同じ「馬留王子」が鹿ヶ瀬峠を越えて井関側にもありますね。此方(日高側)は沓掛王子社と内ノ畑王子社の間にあるので間(はざま)王子社ともいわれます。 (日高町教育委員会 現地説明板 参照)
馬留王子を後にして、原谷の集落に入る手前に小さなお堂が祀られています。
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爪かき地蔵   日高町・民俗文化財

爪かき 地蔵は以前(H8.12.27)長保寺から拝ノ峠まで車で行きJR宮原側の山口王子迄歩いた時、途中のお堂 (遍照山金剛寺)内に、 弘法大師が爪で書いたと伝えられる自然石に薄い線彫りの「爪書地蔵」が有ったことを思い出します。此処にもあった!!…弘法大師が此の地に巡錫(じゅんしゃく)された時、 土地の人々の無事息 災を祈願され 岩に爪で地蔵 尊を刻んだと伝えられています。 現在・地蔵尊のお姿は見られませんが水を懸けると浮び出てくることから 水かけ地蔵とも呼ばれます…が信仰心の無い人は・いくら水をかけても地蔵尊のお姿を拝むことが出来ないそうですよ…
(日高町教育委員会 現地説明板 参照)
爪かき地蔵・伝弘法大師作

馬留王子跡・爪かき地蔵尊から原谷の集落に入ってくると「黒竹工芸・加工」の看板を見ます。日高町原谷地区は質・量ともに全国一の黒竹の生産地です。金魚茶屋から歩き始めて直ぐ、谷川に目立ってその竹林が見られます。 以前と全く変わらない最奥の民家の石垣を擦るほどに狭い道を抜けるとトイレ付き駐車場があり、少し手前には金魚茶屋の新施設が建っています。
鹿ヶ瀬峠道の板碑

寄らなかったが喫茶は広川町への分岐看板にも記されていたが、 特産・黒竹工芸品の陳列もされているようです。黒竹材は、青竹と比較して幹が細く外皮が黒いのが特徴で、天然の艶と形態が特に優雅なところから、昔からの釣り竿・家具の装飾材 ・建築装飾材等に、枝は庭園用の垣根や室内装飾等に用いられ、近年・各種工芸用品としても広く愛用されているそうです。
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題目板碑    日高町・民俗文化財

金魚茶屋から続く農道兼熊野古道は直ぐに、梅の木が植えられいる法華堂跡近くの山側に板碑が並び立てられた休憩所に着きます。 板碑前の畑地は第八代将軍・徳川吉宗やその生母浄円院が帰依した養源寺(広川町)の起源とも云われる法華堂跡地で、此処にあった板碑が移されたもので、 右より1号碑(永享XX)、2号碑(嘉吉2年・1442)、3号碑(永享8年・1436)、4号碑(寛正2年・1461)の 年号あっていずれも室町時代のもの。日高郡内でも最も古い板碑の一つとされています。 (日高町教育委員会 現地説明板参照)
鹿ヶ瀬の大峠・直ぐ東が茶屋跡、西に辿れば鹿ヶ瀬城へ

板碑を過ぎると程なく田圃も消えて石畳道が現れますが 庭園内の散策道のよう。猪脅しの爆裂音に驚かされながらの散歩道です。最近敷設整備された石畳道が暫らく続きます。 熊野古道関連の歌碑の柱が何本か立てられて、小谷川を渡るといよいよ杉林の中に延びる名所・石畳道が始まる登り坂の取付き広場には説明板もあります。 茶屋跡の石積みの残る小峠分岐の小さな道標 石仏を見送って、根株の側に祀られた小さな馬頭観音像を過ぎ最後に土樋割りか掘底道の様なところを抜けると一気に明るく広い台地に飛び出してきます。 此処が鹿が瀬峠(大峠)で茶屋跡の石積が残り峠の説明板・古図(紀伊国名所図会)による 案内板が立てられています。「霧わくる ししのせ山の うすもみじ かのこまだらに  いつかそめなん」平安 ・鎌倉時代には頻繁に行われた熊野詣の中でも難所の一つだったのが鹿ケ瀬峠でしたが、大峠の広い平坦地には茶屋・旅籠が建ち賑わいを見せていました。
鹿ヶ瀬の大峠

峠から井関への熊野古道とは逆に、 西への尾根を辿ると供養墓石…側を通って鹿ケ瀬城跡のある小城山に至ります。城跡・・頂上手前数十メートル左脇道を入った所に広…、養源寺(日蓮宗)の草創と伝えられる法華堂の草庵跡があって 此処に骸骨読経の伝説「一叡持経者聞屍骸読誦音語」が伝わります。 現・養源寺には壱叡上人が鹿ヶ瀬峠で、白骨となっても続経する円善上人を発見した故事の壱叡上人掛け軸がある。 落語の「野晒し」は女性だが…
鎌倉時代・天歴元年(947)比叡山の僧円善上人が熊野詣の途中、鹿ヶ瀬峠で亡くなった。 鹿ヶ瀬峠で日が暮れ宿をとった壱叡上人は疲れて、ぐっすりと眠っていたが夜中に目が覚めると風の音に混じって読経が聞こえてくる。 「夜中に読経するとは熱心な僧である。一度会ってみたいものだ」と思いもう一晩宿に泊まると、 その夜も読経が聞こえてきます。不思議に思った壱叡上人は、宿の外に出て声のする方に足を向けるが何も見えず夜が明けて、ふと足元を見ると苔むした髑髏があって舌だけが 赤く生きているように蠢(うごめ)いている。
鹿ヶ瀬峠に残る熊野古道最長の石畳道

壱叡は驚いて「どうしてあなたは此処でお経を読んでいるのですか 」すると髑髏は「私は、 生涯に法華経六万部の経を読むと誓いながら、この地で病に倒れた円善と申します」壱叡は驚き「恐れ入りました、私はこれより熊野三山に向かいます。すぐ戻りますので、 もう一度お目にかかりたい」と言いますと、円善は「まもなく心願がかなうでしょうから浄土へ旅立つのでお会いできないでしょう」一年後に壱叡がその場所に戻ってみると、 すでに六万部を詠み切って髑髏の読経は止んでいました。この地で果て、死後も願力が抜けず髑髏になっても、なお読経を続けている円善上人の苦行をしのび、髑髏があった木の下に 法華壇を築き供養したのが始まりとされていますが、その後、南北朝期には鹿ヶ瀬峠でその史実を知った妙実上人が、法華堂という名の草庵をむすんだのが養源寺の起源ともいわれます。
養源寺のある広村(有田郡広川町)は南北朝期の頃・広城主の畠山氏代々の館があり、江戸初期には紀州徳川頼宣の広御殿(南龍院御殿)が造営されていた所で 正徳元年(1711)鹿ヶ瀬山法華寺を養源寺と名を改めて移されました。養源寺裏手の海側には当時の堀や石垣が残り、庭に頼宣公手植えと伝わる枝垂れの松があって御殿の面影も有るようです。


湯浅城広城(高城・名島城) 鹿ヶ瀬城(鹿背城)

湯浅城 青木山 82m   有田群湯浅町青木

湯浅町の 東の丘陵に平安末期から室町時代初頭・中世の湯浅氏の本城があった所?で案内標識に従い向かうと 「湯浅城」の石碑と近世城郭の白亜五層の天守閣が建っています。 畠山氏により落城した中世の城が近世の城としていつ復活したのか・城主は??此れは昭和の築城・城主は「国民宿舎」で広い二の丸・三の丸は「なぎの里球場」・テニスコート・ゲートボール場、 旧城址とも思えた丘の上は茶室が建ちアスレチック遊戯施設が点在し。すっかり場違いな所に来てしまったようです。ましてテニスコートからは「二の丸温泉」へ標識も。 本丸〜二の丸が此れほど長い縄張りなら日本一です!!が国民宿舎・湯浅城で湯浅温泉が本丸で、 ログハウス風の外観・内部の岩風呂も、湯浅の町と海の眺望が拡がる。その奥にある二つ目の温泉なので「二の丸温泉」も日帰りの良い温泉で、温泉の手前にミネラルウォータの取水場がある。
国民宿舎「湯浅城」

この小山が湯浅城のようだが蜜柑畑と雑木に覆われた個人所有地のようで、 一人で勝手に入って行ける雰囲気はないので諦めますが土塁・空堀が残っているといわれます。平安末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武士団「湯浅党」党首の湯浅権守宗重が康治2年(1143)広保山城(湯川市吉川)を廃して、 小さな丘だが四方を険しい天然の要害・青木山に本城(湯浅城)を築城し本城としました。南北朝期には楠木氏や畠山氏と共に南朝方に与したが康暦元年(天寿5年1379)北朝方の山名義理が 和泉土丸城を攻略した勢いで 紀伊国に侵入し湯浅城も山名勢に攻められて落城します。その後・楠木氏の残党が後村上天皇の孫・義有王を奉じて湯浅城に籠城すると 文安4年(1447)今度は紀伊守護畠山氏によって湯浅城は攻められ落城・湯浅一族は滅亡します。
(日本城郭大系 新人物往来社叛参照)
ホントの湯浅城は 国民宿舎背後の青木山(82m)!?にあり、低山ながら井戸 <池跡>も有るようで水を確保、堀切・土橋・切岸で防備され、 曲輪に櫓台を持つ広い城域は篭城戦にも耐え得る山城で、最近(2011-…)地権者の同意を得て、町のボランティア団体「グリーンソサエティー久遠の森」等の手により、遺構の残存状況も良く ・登城ルートの整備が進められ・城址碑も建立されましたが、現状では山林・蜜柑畑等…個人所有地を通るので、通常は参道は施錠されています。湯浅町のボランティア団体 <グリーンソサエティー事務局 >M氏より連絡を戴いた。城内に残る三基の古墓は文安4年(1447)畠山氏により落城した際湯浅一族の湯浅九郎・楠木正親と正友のものと伝承されます】

広城 (高城・名島城)  高城山 135m   有田郡広川町名島

湯浅城から直接42号線に出ず丘陵帯を青木へ周って42号線へ降りかけると 高城山が見えてきます。いかにも城山が畠山氏の居城・名島城(広城)がありました。 広城への登城口は知らず北側の青木からの取付きなど思いも寄りません。別名の名島へ周って登路を探します。車道沿いの名島集落端の民家向いから谷沿いに延びる道を辿ってみます。
広城東峰・二ノ丸の切岸

蜜柑畑の細く急斜面の農道は作業小屋と J.PHONE湯浅局の施設前迄で先には歩道のスペースも無い、一面の蜜柑畑。作業小屋からモノレールが西の本丸側に延びています。此方も蜜柑畑の中で作業道はありません。 急斜面に延びるモノレールに沿って数段の石垣を越えて最上部に出ます。戦時中の軍事施設が有ったらしく、本丸を囲う土塁や腰曲輪と 土塁跡や空掘遺構は確認出来ず壊滅的です。蜜柑畑の中に隠れて見出せなかったが石垣も残っているらしい。 蜜柑畑の段差に積まれた石垣がその所在さえ不明確にしているようです。
広城東峰・西峰(本郭部)から遠望

引き返して蜜柑畑を中継施設の奥(北端)に出ると東の峰へ続く様ですが蜜柑畑の端から続く尾根の取付きは一見、 足の踏み込み様も無い藪に見え少し思案しましたが二度と来ることも無いだろうと…不退転の気持で飛び込み、蜘蛛の巣と藪を少し掻き分け侵入すると 尾根筋に踏み跡があらわれ土塁で囲われた二ノ丸の帯曲輪に出てきます。雑木・潅木の中に高い切岸を持った曲輪の先には 明確な深い空掘が二ノ丸と三ノ丸を分断しています。大きな空堀を越えて東端の曲輪に立つと、此の城として特筆すべき幅広の高い土塁が三ノ丸を取り囲み圧巻です。
広城東峰の三ノ丸と大土塁・空掘

西峰の本郭部は残念な状況となっているだけに、 東峰にある此の大土塁と空掘・二ノ丸曲輪の切岸等遺構が畠山氏代々の歴史を伝える証人ですので、本郭部の惨状を見るに付け、東峰の遺構だけは大切に開発から守っていって欲しいものです。 室町期・応永7年(1400)足利義満の臣・畠山基国が紀伊守護職となり大野城 (海南市)に入るが間もなく二男満則に城を守らせて翌・応永8年には広城(広川町名島)を築いて基国が移り本城とし 岩村城(岩室城)と鳥屋城を修築して附城とし宮原に居館を構えました。有田に城を築いたのは南朝方の湯浅氏や楠木氏の残党を見張るためだとされています。
広城東峰の三ノ丸と大土塁・空掘

大永2年(1522)か天文3年(1534)?紀伊国守護 ・畠山尚順(ひさのぶ)が城主の時、紀南の平須賀城主(日高郡南部川)野辺氏が謀反により在地豪族の亀山城主(御坊市湯川)湯川直光と共に広城を攻められますが、畠山氏内紛の本国河内からは 援軍もないままに落城。以後は湯川氏の持ち城となったようです。この後、知らず寄らなかった広城山麓には養源寺があって、畠山氏累代の居館があったところ、また徳川頼宣の御殿跡で 堀や石垣が残っている様です。この後訪れる鹿ヶ瀬峠の伝わる「髑髏読経伝説」の円善上人とも深い関わりのあるお寺だったんですが・・(^^;
(日本城郭大系 新人物往来社叛参照)

鹿ヶ瀬城 (鹿背城)小城山・鹿背山 408m  日高郡由良町・日高町

熊野古道を訪ねる多くのコースの中でも、 有馬王子の悲劇を伝える海南の藤白峠や牛馬童子像のある箸折峠、那智に至る最後の大雲取越え等の中でも最も人気コースが此処・古道の中でも最長石畳道が残る鹿ヶ瀬峠だとおもわれます。国道42号線で抜ける水越峠の上にある鹿背山とも小城山とも呼ばれる山頂に鹿ヶ瀬城がありました。
鹿ヶ瀬城・東曲輪(送電線鉄塔側)

大峠の茶屋跡とは反対に西への稜線を進みます。熊野への長い参詣道の中でも 難所の鹿ヶ瀬ですので、此処で行き倒れた人もあったのでしょう。多くの供養石仏群が尾根筋の側に集められた一角が有ります。 「髑髏読経」の円善上人の伝説を思い出させる場所ですが、この辺りから北方が開けて先ほど走ってきた水越峠へ向う42号線の車の列も眼下に望まれます。尾根の傾斜も急になり送電線鉄塔に着くと三段ばかりの平坦地があり鉄塔脚部の一方は石積み段に懸かっています。 鉄塔建設の為の石積みにしては古すぎる…もう鹿ヶ瀬城の城域にいるんでしょうね …途中に堀切等は気付かなかったが…
鹿ヶ瀬城主郭部東曲輪・下部に石垣が残る

さらに急な斜面の踏み跡は10mばかりで細長い削平地に出る。 本郭部側の切岸には石積みが残り北方へも緩やかな平坦地が続いているようです。出曲輪へ向うのか・伝説の円善上人供養の法華堂の草庵跡(養源寺の草創と伝えられる)へ向うのか?? 未確認のまま僅かに残る石積みの曲輪の先に小さな堀切が有り、一段高い本郭部に到達します。 一番広い平坦地ですが 特に目立つ遺構はないようです。小城山は三角点 (4等三角点鹿背山408m)ですが山頂部を意識しなかったので三角点標柱石は気付かなかったが、 曲輪左端に沿っての踏み跡はさらに小さな段差を降りて細長い曲輪となります。
鹿ヶ瀬城主郭部西・二段の曲輪共に1〜2段の石列有り


この二つの曲輪には土留めの為なのか、1〜2段の石列が残っています。「紀伊名所図絵」に治承5年 (1181)熊野権現別当湛増の流れをくむ者が、鹿背荘司を名乗って居城したといわれます。永享10年(1438)南朝方の残党宇佐見新五郎、田辺六郎等が立て籠もり紀伊国守護 ・畠山持国が湯川民部小輔泰業、野上左衛門尉安経に案内させて鹿ヶ瀬城を攻めたといわれ東曲輪の石積等はこの時拡張・補強されたものでしょう。
(日本城郭大系 新人物往来社叛参照)
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