| 西宮市内の歴史散策
瓦林城・西宮砲台 ・今津灯台・六角堂 |
西宮市・瓦林城・
香櫨園浜 H15年06月15日 西宮砲台 傀儡師古跡と西宮神社
近畿の山城:瓦林城 西宮砲台と今津砲台
平重盛館(小松城)
名所! 六角堂・甲子園球場
西宮大橋と御前浜橋

瓦林城(日野神社ー極楽寺ー上甲子園)
謎の瓦林城武庫(六甲)の山並みを望みながら武庫川と新堀川を続けて渡った阪急電車が下り気味・
北の森の側を通り西宮北口駅に滑り込んでくる。小さな森だが鬱蒼と茂る樹木に囲まれた日野神社の一角は周辺に緑がないので直ぐ分かる。住宅
地に囲まれた境内東側に綺麗な水の流れる
溝があり西南側には神社の森と不粋な高フェンスに囲まれてはいるが周辺では 殆んど姿を消した水田がある。
瓦林城�T・日野神社
この辺りに南北朝期:足利尊氏に付き関東(三河)から来住したと考えられる豪族・瓦林(川原林)三河守の瓦林城があり、石の鳥居を潜った参道に"瓦林城址"碑が立つ。参道東側に拡がる低い林の中や社殿奥の北側竹薮の中に土塁とも空掘(高さ1m弱なので水堀)とも思える凹凸部は
崩壊跡と割引いても防塁としては浅過ぎる。周辺に唯一残された緑のスポットで武庫川流域の西岸の沖積層の平野に常緑広葉樹林が茂る杜は兵庫県指定天然記念物(昭和46年4月)に指定されている。瓦林城に少し興
味を持ったのは郷里に帰る途中通り過ぎる三田ウッデイタウン近くの貴志城主・五郎四郎義氏が此処に登場してくるからです。 瓦林城跡�U極楽寺
西ノ宮は道の宮とも呼ばれる昔からの要衝で播磨から摂津・京都に至る陸地の西国街道、紀州・淡路・阿波ら至る海路に鳴尾浜・今津港があって此の二つの路を結ぶ線上に位置する瓦林城は一地侍が城を構えても中央(幕府)や諸大名から 監視され・睨まれ・狙われるだけなので武士団が形成されることもなく地名を姓とした瓦林氏が一時期この辺りに居館を構えていたが、思いに任せられず瓦林氏の最後の最後は織田信長に味方し・攻められる瓦林城に援軍はなく滅んだ。瓦林の名は日野神社南参道前の阪急電車の 踏切を渡ったところが瓦林町。住宅内の瓦林小学校から南へ進み名神高速高架を
潜った先に瓦木小学校前に極楽寺(浄土宗)があり、城主瓦林(河原林)三河守か政頼だったかの墓という五輪塔があり日野神社より、極楽寺附近が瓦林城ではなかったかと考える。
極楽寺:肝心の笠塔婆の弥陀石仏(三体仏)がない…!!
震災後そのままとなっているのか?「仮本堂」と記した看板が建っているフェンス内は殺風景な更地で南側に低い塀があって弥陀石仏の案内板と石仏等が安置されているらしい小さな祠??があるので覗いてみると弥陀石仏1体(西宮市指定文化財 昭和51年3月指定)西宮教育委員会と記された
案内板がもたせ掛けてある祠の内に該当の笠塔婆(阿弥陀如来・その下に男女の像が浮き彫された三体仏で、彫りの特徴から鎌倉時代末期の作と考えられています)は既になく五輪塔等が寂しく空白を埋めるように置かれているだけです。
西宮砲台(夙川公園-香露園浜-西宮砲台-)夙川公園沿いの安井町から分銅町へ転居し20数年・阪神淡路大震災で県外疎開し再び西宮へ戻り今津駅が近い所に落ち着き、休日に散策した懐かしい想い出を辿り

ながら甲山から夙川沿・香櫨園浜に続く
夙川オアシスロードも歩いてみた。このコースは野坂昭如の小説「火垂るの墓」の舞台でアニメのワンカットを思い出す場所が今も残っています。
今津灯台
回生病院玄関や香櫨園浜から
西宮砲台・その隣には堀江謙一氏が単独世界一周に出発した
ヨットハーバーを
抜け白鹿酒ミュージアム前を東へ進んで
今津灯台にも寄る。梅雨の晴れ間の夕景は自転車に子供を乗せて訪ねた当時のままに時間と郷愁が辺りを包みこんでいる。変わったのは"酒蔵通り"を越えて真っ直ぐ北に向って

帰ることだけ…香櫨園駅から夙川沿いのオアシスロードを南へ南へと歩いて出たところが香櫨園浜・河口の西側には
西宮回生病院がある。
今津六角堂
本館は新築されたが「火垂るの墓」のシーンにも出てくる病院の玄関口は往時を忍ばせる。回生病院の西向かい側には芦屋シーサイドタウンの高層住宅が建ち並ぶ。河口から東の海岸も砂浜が続く。大阪湾に残された僅かば

かりの自然環境が残る貴重な天然の砂浜と河口の干潟にはカニや貝、小魚を求めて様々な野鳥が集まってくる。
夙川河口と西宮回生病院
兵庫県
鳥獣保護区に認定されており、沢山の野鳥を観ることができるので季節のバードウオッチング・スポットになりそう。
香櫨園浜(西波止町)はイワシの地引網漁が行なわれていた事がある。明治40年(1907)から昭和39年ま

では関西でも代表的な 海水浴場の一つ。砂地と雑草で荒れた御前浜には子供用?釣堀があって、浅いコンクリート槽内には元気のないイワシやエイが泳いでいるのを見たことがある。
西宮回生病院
香櫨園浜が御前浜と 何時を変えたかは知らないが時代の波はその姿を変え汚染した海水浴場は閉鎖され昭和50年頃からは沖合の埋め立て工事が始まり海水浴場だった当時の面影は殆ど残っていない。一時期水上バイクの騒音が気になっていたが今は砂地に佇むアベックや散策・ウインドサーフィンを楽しむ人達がやってくる。砂浜の中程を過ぎると"御前浜"と名が変わってい

るようです?
砂浜が続く東北部には松林があり白い円筒形の建造物が江戸時代末期・勝海舟により造られた
西宮砲台です。
新西宮ヨットハーバー:SUNTORYマーメイド号
松の木の目立つ芝生の半円形の堤防は砲台を囲み護る土塁の残土で防弾と土留め用か?石積みが見られ、砲台前を東に抜けると堀江謙一氏「太平洋ひとりぼっち」の出発港:旧西宮ヨットハーバー。阪神間のマ

リンスポーツのメッカだが今ヨットハーバーといえば西宮大橋を渡った西宮浜の新西宮ヨットハーバーが兵庫南部地震のあった平成7年にオープンし、単独太平洋横断をなしとげた堀江謙一氏の
MTBライダーがジャンプに挑戦…
「ミニマーメイド号」は此処のクラブハウス内に展示され、単独無寄航の世界一周(2004−2005年ケープ・ホーン東周り)に出発した新西宮ヨットバーバーの クラブハウス正面と駐車場へのゲート横には「サントリー・マー

メイド号」が展示され「魔の岬・ケープホーン」通過に関るエピソードが記された顕彰碑ともなっている。南へは西宮大橋を左に見て西宮浜へ
御前浜橋が架かります。
跳ね上げ中の御前浜橋
兵庫南部地震で被害を受けた大橋に代わる生活道路としての仮設橋は歩行者・自転車専用だがヨットハーバーからの入出航の為、ワイヤーによって上方に可動する「跳ね橋」で船の航行を可能にしている。西宮大橋の復旧後も撤去されず公園を繋ぐ【御前浜橋】として残され土・

日・祝日には1日5回定刻に橋桁が跳ね上がり"ゴッホ"の 絵画の一枚を思い描きます。
新西宮海の駅・新西宮ヨットハーバー 御前浜橋を渡った西宮浜側を運河に沿って西へと 花壇に沿って進むと、
市の処理センタ北側一帯にはレールやベンチ・専用のハーフパイプやバンクまで用意された一面コンクリートの広場も有ってスケートボーダーが集まっている。其の西隣にも・幾つものコースが設定され種々のジャンプやバンクがあってMTBライダーが駆け抜けていく。
傀儡師故跡と西宮神社
傀儡師故跡常盤町から平松町東角でJR東海道本線を潜る
まんぼうトンネル(水路として利用されていた溝

に板を敷いて通路とされている。阪神電鉄西宮駅への通勤経路で兵庫南部地震前から遺る<マンボウ詳細は 割愛>)を抜け出た所がR2号
産所町交差点。南へ直進する県道193側とR43号と交差する地点にも
谷崎潤一郎『細雪』にも登場する平松のマンボウ 石燈篭が立つ。交差点北西角一帯が全国:戎神社総本社の西宮神社で西宮神社の北方(阪神西宮駅西・R2号線迄の一帯)に産所町の地名が残る。産所は散所・算所・三所…等の
当字で表されるが天皇・貴族・有力寺社等:荘園領主の本所に対する呼び名で西宮戎神社の散所として発達してきた集落。国への租税や賦役・年貢等が免除されたが、代わりに散所の住民らが神事・社務の補助や雑役・祭祀の警備に当たったり、神社に隷属した商工や 独自

の芸能を営み発展させた。此の国家権力が及ばず地子(租税)も免除された産所(散所)に在って荘園領主と散所の住民の間に立ち、
傀儡師故跡
領主からは税等の特権を・住民からは搾取する散所の長者は
安寿と厨子王を原作に森鴎外の小説
山椒太夫でも知られる。全国に熊野信仰を広めた
熊野比丘尼<歌比丘尼>・伊勢講を組織して伊勢神宮に参拝出来ない人に代わり神楽を奉納した
伊勢神楽・西宮神社が今日:全国の戎神社の総本社として

信仰を集め有名になったのは”えびす信仰”を全国に広め「夷廻し・夷かき」とも称された人形を操つる芸能集団
傀儡師の活動が大きかった様です。
西宮神社本殿
傀儡師等が産所の地に住み祖神と信ずる百太夫を傀儡師の氏神(守護神)として祀った百太夫神社の跡地【阪神西宮駅北口西のNTT西日本兵庫支店西宮ビル東南角に碑が:祠は西宮神社境内<本殿西北>に遷移】が人形浄瑠璃の源:人形操りの発祥地で
傀儡師故跡碑が立つ。全国

の戎神社の総本社
西宮神社は古くより崇敬され商売繁盛の神様として
1月9-11日「十日戎」には商売人に厚い信仰を受け
赤門(東大門)からの大練塀
平安時代に高倉上皇の御奉幣を賜ったと伝えられる。後祭神・西宮大神には 第一殿にえびす大神・第二殿に天照大神と大国主大神・第三殿に須佐之男大神が祀られ、特に室町時代以降・福の神の代表
えびす様が当地が発祥
"えびす・大黒舞"や謡曲 ・狂言等の芸能を通じて全国津々浦々に御

神徳が広まっていった。三連春日造りといわれ本邦唯一の特異な建築構造をもつ本殿は昭和20年8月戦禍に遭い焼失・昭和36年11月復元再建された。
西宮神社本殿
旧西国街道【西宮から門司・太宰府を結ぶ山陽道<中国街道!?・西国街道!?>と西宮と京都を結ぶ 山崎街道<西国街道>】の要衝にあって江戸時代の西宮町は幕府指定の宿駅となり殊に西宮の名水
宮水の発見により灘五郷の酒造業により経済的に発展して

いった。其の西国街道の中国街道・山崎街道分岐点が此処?。R43号沿い南面から県道193(えべっさん通り?)の東側に面して建つ
西宮神社表大門は東側練塀の南よりにあり全体が赤く丹塗りされ
赤門の名で親しまれる。
西宮神社大練塀の南東角に立つ西国街道常夜燈(寛政11年)
門は単層切妻造り・本瓦葺きで 2本の円柱を本柱4本の角柱を控柱とする四脚門。全体の構造は其々の柱を貫材(ヌキザイ )及び紅梁(コウリョウ)を用いて繋ぐ簡素な造りで細部を繰形や雲紋等で飾られます。典型的な四脚門の構造を採用されているが、その豪壮な姿には桃山時代の建築遺構を現存し、細部の手法や文様が繊

細で阪神間では稀な建物として大正15年4月19日国指定重要有形文化財として指定を受け後、昭和25年に重要文化財に認定されました。
西宮神社赤門 天正6年(1578)中国征伐の最中・三木城主別所長治に呼応した
伊丹城:荒木村重の乱で信長軍により焼失したが慶長9年(1604)豊臣秀頼の寄進により再建され
慶長15年頃には完成したと伝えられてており赤門(表大門)も其の頃の造立と推測される。
西宮神社大練塀は神社境内の東と南に面して総延長247mの長大な築地

塀で版築技法を用い・
つきあげた築地【幅約2間(4m)程!!?のブロック塀】を62基連ね練塀本体としている。建立の年代は明確ではないが、築土から見つかった銅銭から室町時代と推定されています。
西宮神社・赤門(東大門)と大練塀
京都・蓮華王院(三十三間堂)の
太閤塀、名古屋・熱田神宮の
信長塀に当社の
本練塀を加え「三練塀」といわれます。本例は現在最古の築地塀であり、その堅牢さにおいても他に類を見ない。阪神淡路の大地震で被災したが旧来の技術を用いて忠実な復興再現されました。国宝に指定(昭和13年7月4日)された後・
昭和25年重要有形文化財指定を受けています。
(西宮市教育委員会 西宮神社内案内板)
今津の六角堂と甲子園球場
43号一つ南の筋は灘五郷・西宮「酒蔵通り」で今津小学校前にも今津・大関や世界一統の看板が見える。白と黒のシックな通りに面して赤い洋風建築
六角堂が目を引く。建物は明治15年(1882)今津小学校の校舎とし

て、殆ど地区内の寄付により建築されたもので洋式の小学校としては開智小学校(長野:松本市)についで古い建物。公民館・幼稚園と何度か敷地内移転を繰返しながらも120年<平成10年現在>。
今津小学校の六角堂
戦時:今津の大空襲に焼け残り・風雪に耐え取壊しの危機にも地域の保存・存続の運動に支えられ、敷地内に移築され幼稚園として使用され:兵庫南部地震(平成7年)にも崩壊を免れ当初の位置近くに移築され「さわやか街づくり賞」の建築部門を受賞されている。1階は展示室として公開され同校卒業生で作家:野間宏氏寄贈の自筆原稿・古い教科書・六角堂や西宮歴史年表・古地図等が展示され平日は見学自由です。阪神甲子園駅からスタジアムに向う
駅前広場の一角に建設当初の球場レリーフのブロンズと御影石のモニュメント「甲子園大運動場建設記念碑」が建つ。阪神電鉄の開発構想は山手に住宅地・浜側にスポーツセンターや遊園地

にする事で始まり当時全国中等学校野球大会が大正6年8月から鳴尾グランドで開催されたが観客を収容しきれない状態となっており、より大きな球場の要望を受けて甲子園球場建設を英断されました。
甲子園球場
球場の完成は大正13年8月1日で、この年が十干、十二支の各最初の"甲(きのえ)"と"子
(ね)"が60年ぶりに合う年で縁起が良いとして「甲子園」と名付けられ、完成した年の冬にツタが植栽され、その旺盛な繁殖力で壁面を飾り球場の歴史と共に歩んできました。当時の大運動場も昭和4年(1929)増設され甲子園球場名物となったアルプススタンドですが、他には甲子園の土・浜風そして
ジェット風船でしょうか !!?…シンボルは球場の壁面を飾る「ツタ」でしょうね!
(現地:六角堂・甲子園大運動場案内板等参照)
瓦林城 西宮市日野町・瓦林町 文治年間(1185-)頃、一族郎党を率いて鎌倉幕府の源頼朝に仕えていた貴志義茂の子孫が 有馬郡(三田市)貴志庄の豪族で釜屋城・貴志城の城主・喜志五郎四郎義氏だと言われ、南北朝期・元弘元年(1331)吉野
の後醍醐天皇に味方して楠木正成等と共に北朝方と戦っています。…が足利幕府により建武4年(延元2年 1337)赤松信濃守範資が摂津守護になると赤松(円心)則村の家臣・貴志庄の貴志五郎四郎義氏は範資に属して南朝軍と戦いながら転戦し有馬郡の鏑射山要塞に立て篭もり南軍と合戦し
日野神社参道にある瓦林城址碑 瓦林城に拠って此処を護る。瓦林城には香下寺城(三田市)・
丹生寺城から南朝方の武士が攻めて来たが城中から打って出て奮戦(余田文書)その後の瓦林城に誰が拠ったか不明だが唯一・西宮附近に住み着いた有力武士の瓦林(河原林)一族が一時期拠った館城と思われる。しかし戦いの場所が日野神社の瓦林城では防備が手薄過ぎ此処が舞台とは想像も出来ない。観応2年(1351)範資没後の正平10年(1355)楠正行が河内での

挙兵に貴志義氏は北朝側から南朝方へ率先して加わり 度々の合戦に奮戦したが同年3月戦没し、その後一族は兜を脱いで貴志庄に帰ったという。
日野神社最北部・拝殿横の堀?
瓦林氏は三河から足利尊氏に従い上京した武士で
和泉国(大阪堺)の地頭となり豊嶋辺りを本拠としていたらしく、此処を居館としていた瓦林正頼が鷹尾城・越水城を築城後は瓦林城から越水城が中心となっていったが居館城としては存続していたようです。元亀元年(1570)織田信長と本願寺との闘いで信長方に味方した城主・瓦林(河原林)三河守は阿波・
篠原長房らの大部隊に攻められ信長の援軍が来ないままその日の内に落城し、城主はじめ一族郎党の男女百十数名が討ちとられ滅亡します。その城内に守護神として祀られていた神社が日野神社です。
岡太社(岡太神社)と平重盛館(小松城) 西宮市小松南町2丁目2-8
「おかしの宮」岡太神社=阪神電車の武庫川駅を西に降りて兵庫医大の北方約450m,、旧西国街道の今津・鳴尾から尼崎へ渡る
武庫川橋の手前南側の杜に「おかしの宮」の看板が見える。境内の東端に「従是東尼崎・従是西尼崎」の古い石の道標も立つ。延喜式内岡太神社は平安時代:宇多天皇の寛平5年(893)武庫郡広田村の人岡司氏が此処を開発して浜村姓を名乗り延喜元年(901)天御中主(あめのみなかぬし)神を
主祭神に広田の大神(西宮市大社町の広田神社、嘗ては阪神タイガースの祈願所!で「日本書紀」に記された県
下第一の古社)。五柱(高皇産霊神・素盞雄神(素戔鳴尊)・稲田姫神・大巳貴神 ・蘇民将来)を共に、
元は本社の北方に在ったのを移して相殿に祀られ岡司宮(おかしの宮)と呼ばれます。
伝・小松内府平重盛の居館碑
江戸時代中期の石標(岡太社と社号を刻む)が残り、其れによると並河誠所が有志と社殿の廃滅や祭神の由緒等の誤り【岡司姓を広田村に多い岡田姓と混同され岡太宮と伝えられていた】伝えられていた延喜式所載の摂津国の古社二十社につき踏査考査して正しい社名を明らかにするため、
時の社寺奉行大岡越前守忠相に上申し元文元年(1736)から翌年にかけて建立した碑石で表面に神名帳に記載の社名がある。裏面台石に同志菅広房(山口屋伊兵衛)の名が刻まれています。岡太神社の一時上臈(いっときじょうろう)は西宮市指定(昭和59年3月29日)無形民俗文化財で毎年10月11日の祭礼に
「一時上臈 」と称される紅白の紙製で宝冠状に飾られた御幣を18本つくり奉納される。この祭礼は南北二つの講により維持され、北講の御幣は女・南講のが男であるとされる。祭り当日には餅・柿・柚・柘榴・栗等の供物を入れた唐櫃の上に、直径約1mの茅の輪に15本の御幣を立て頭屋から神社へ運ぶ。
社殿では祭礼から・頭屋等による直会へと進む一連の祭式には嘗て氏神祭祀の姿がよく残されているという。此処にも在った「歯神さん」史実はともかく北向きに鎮座する 攝社の白山大神の由緒は面白い。天正10年(1582)明智光秀が本能寺に織田信長を襲い、
中国攻めの秀吉軍が引き返して来るのを迎え撃つ為、此処まで出っ張って来れる兵と余力があったか?。光秀の武将:四方天但馬守が、備中の戦陣より西国街道を急遽引き返してきた秀吉
と三軒屋(鳴尾浜?か)で乱戦となり、
組み敷いた秀吉に止めを刺そうと、くわえた刀で討とうとしますが、 不覚にも歯が欠けて刀を取り落とし、後を追ってきた加藤清正に誅されてしまう。但馬守は無念で・是からは歯の悪い人は治してやろうと言い残したとの風説が有ります。
本殿鳥居の茅輪を前には猪の狛犬
白山大神は・和と結び穰災の神ですが当地では白山さん、はくさ(歯瘡)さんと転訛し北向きの歯神さんとして知られ、虫歯が痛くて困っている人が、松の皮を噛んで此の石に願掛けすると、
痛みがなくなると言い伝えられています。聞き慣れない光秀の武将:四方天但馬守ですが、講談では賎ヶ岳の合戦に加藤清正と対戦して討たれた話がある様ですが!?恵美須大神と静止(しし)像西宮神社に御鎮座の恵美須大神は武庫の沖から御来臨になり、最初・鳴尾で御祀りされていたといいます。
小松庄では其の大神が毎年1月9日の夕に押照宮(岡太神社)で高潮や洪水等の災害を未然に静止(防止)して五穀豊穣をもたらす猪(静止)打神事をされると伝えられ、この神事の妨げにならない様・斉籠(いごもり)をする習性がありました。静止(しし)を猪にかけたもので猪は大神の使いと云われ岡太神社では
摂社に大神をお祀りして昔話を後世に伝える縁(よすが)として昭和60年に彫刻家柏木秀峰作の静止像(十二支の亥)を設置されている。
=================================================== 平重盛館(小松城)
北向きに鎮座する攝社の白山大神と並ぶように鎌倉末期の造立とされる伝小松内府平重盛の供養塔2基の九輪塔が建つ。なぜ2基なのか?、もとは別々の場所にあった石塔が現在の地に移設されているよう。九輪塔の南背後に隠れるように平重盛之城址の顕彰碑が建つ。
嘗て「伏松」という小高い岡が岡太社の西南のあって平重盛の居館伝承地とされ「吾妻鑑」建久3年(1192)の條に武庫御厨小松庄と記されているのが此の地であるといわれるが鳴尾町一帯は密集する宅地内にあり、周囲の環境に往時の面影さえ想像出来ない。平重盛は平安時代末期・保元の乱(1156)や
平治の乱(1159)には父:清盛に従い活躍した武将で
京・六波羅の小松邸に住んでいたこと小松大臣(こまつのおとど)・小松殿と呼ばれます。武庫川河口にあって平氏の領有地 ・小松庄に居館が在ったと推察され
”小松内府 ”とも呼ばれています。
伝・小松内府平重盛の供養塔
城址碑は昭和 3年に地元実践青年団によって建てられ其の後・一旦西方に移されていたが
昭和46年に岡太神社境内に移設された。「奢れるもの久しからず…」平氏政権を築き一門の若き頭梁として期待されていた 重盛に先立たれた平清盛は源頼朝の挙兵によりやがて壇ノ浦に終焉を迎えます。平氏滅亡を見ることなく42歳で他界した重盛の遺骨は常陸に向ったとされ、茨城県城里町の小松寺には
重盛の墓と伝わる「伝内大臣平重盛墳墓」があり県史跡。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんとすれば欲すれば忠ならず」激しい気性の清盛とは対照的に「平家物語」に温厚柔和で冷静沈着で教養を兼ね備えた武人として描かれた重盛は朝廷との仲介を務めたといい承安元年(1177)後白河法皇を中心とした
謀反計画を知った”鹿ケ谷事件”の露見では,法皇を幽閉しようとする父:清盛を身をもって諫め”清盛が死んでも、重盛さえいれば平家は安泰”と云われる程の評価を得ていた人物でした。 (現地岡太神社内案内板・西宮教育委員会及び神社略記・
Web百科事典Wikipediaを参照) ==============================================================================
西宮砲台と今津砲台 石堡塔 西宮市西波止町 国指定史跡
(大正11年3月8日指定)西宮砲台:幕末の嘉永5年(1853)徳川幕府に開国をせまるペリーが浦賀へ翌年・安政元年(1854)大阪湾にロシアのプーチャーチンがジャナ艦でやって来て人々を驚かせ、度重なる外国船の来航に国防の不安を感じ
・各国との和親条約にも安心出来ない。軍艦奉行勝海舟の勧めで幕府が黒船来襲に備え京都を警護する要地にあたる大阪から神戸までの海岸を見て廻り沿岸防備の為、
西宮砲台
文久3年(1863)舞子・和田岬・川崎・西宮・今津に砲台の建設が始まるがどのような砲台を作ればよいのか暗中模索の状態での設計では、初めての工事で中々はかどらないうえ、元治元年(1864)国内では長州征伐が始まり工事監督の勝海舟は幕府の命令で江戸に帰り費用も出なくなり工事
は中断してしまいます(和田岬砲台はこの年に完成したようです)が灘五郷の酒造家達の出資により地元の人達だけで慶応2年
(1866)5月頃から工事が再開されたが完成時期等は不明です。
西宮砲台と円堡跡土塁
西宮砲台は砂地に建てる為土堤で囲った中央部に千本を越える松杭を
打ち込んで基礎とし、その上に石堡塔という花崗岩の大岩を組みあげて造られた円柱型の建物は高さ12m・直径17m・周囲75mもある大きなもので内部は木造三層で二層目の側面には正方形の窓1個と砲眼11個が開
いており四方に向けることが出来、大砲二門を据え内部中央に井戸と弾薬庫が設けられた。切り出し賃や運賃が高価だった為に六甲近くにあって御影石が使用されなかったようです。
対岸に今津灯台と今津堡塔の残石
瀬戸内の島々から切り出した花崗岩を積み上げたといわれ、また通常の二倍の賃金で熟練工を集め、突貫工事で完成を急ぎ4年を要する難工事だったという。堡塔の西側には土留め用石積みを残す!!円堡の土塁跡が残り浜側の砂地にも大きな石が点在する。
円堡用か堡塔の築造時の残石かは分からないが完成したが一発試射すると建物内部は硝煙がたちこめ実用には向かなかったが実際に使用されることもないまま明治17年(1884)火災で内部木造の構架等を焼損、修理されることもない
まま香櫨園浜東端に 土塁の一部と共に残っていたが大正11年3月8日に国重要文化財に指定され昭和49年修復に着手されています。
今津灯台
今津砲台:西宮他の各砲台と同時期慶応2年(1866)真砂町に造られたが大正4年(1915)砲台は民間に払い下げられた後、石を取るために残存していた土塁は壊され石は今津港から運び出され今は石材の一部が「今津海岸砲台記念石」として今津灯台と入江を挟んだ真砂町側の車道脇に残る。
今津灯台 灘五郷として西宮郷に並ぶ今津郷の酒造家「大関」の前身で
醸造元・長部本店の五代目:長兵衛によって今津港に出入りする灘酒樽廻船や
今津港の夕景・今津灯台
漁船の安全を願い文化7年(1810)大坂谷町の奉行所の
許可を得・私財を投じて建てられた灯明台でその後:六代目文次郎が安政5年(1858)再建した台石の「象頭山常夜燈」は海の守り神・金毘羅宮奉納を表し、この高燈籠様式の灯台に今津の人々は深い親しみと郷愁を感じています。古い行灯式灯台は今も現役で活躍しており市文化財指定を受けています。
(国指定史跡西宮砲台:西宮市教育委員会 大関酒造等の現地案内板等参照)
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