| 西脇市の低山と山城 五峰山〜角尾山・八日山/島村城〜坂本城/矢筈山城/寺山 |
社からの散策コースはあるが縦走コースには不向。
がら堂々として
綺麗な山容を見せる八日山。山裾上戸田の西脇 市民病院の先には初詣や秋の”お笑い神事”で市民に親しまれる八幡神社がある。
されたばかり。西脇市のほぼ中央部に位置した此の山がもっと早くから市民の憩いの場として親しまれていれば三ヶ所の登山口から15分程で
く整備後も利用者は少ない。東峰から樹間越に露岩を覗かせる本峰が見える。
す。神社側(東)登山口からスタートしたのは正解だったようで 山頂からの下山途路は市外地の展望を満喫しながら鷹ノ巣岩と名付けられた露岩帯に着く。平日だが三脚を立て被写体を狙うカメラマンがいる。
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なんと此処から狙う加古川を挟む二つの山塊の空間を逆さ富士と呼ぶらしい。鷹ノ巣岩から暫くは藪っぽく・羊歯類が多いが整備されている御蔭でなんなく「森の広場」の旧石切り場に降りる。
方も同様3分で”弁天さま”の小祠に着く。弁財天は池の中州に祀られるのが普通だが何故か?麓の民家上部から長い露盤(露岩・岩尾根と呼ぶにはニュアンスが異なるが岩盤の斜面が続く尾根の上部に祀られている。
が消えると貯水池傍の民家端の電柱の所に出てくる。案内標識が車道側・電柱にでも有れば判り易いのですが、
ジしたモニュメントの前に出ます。年貢米の搬送にあたって加古川の舟運に着目して川普請で通路を妨げる岩石や浅瀬に水路を通し(文禄3年-大正2年現在JR加古川線の開通まで利用された)底の浅い高瀬船が利用されていたが最大の難所が闘龍灘でした。
布陣したところです。本陣跡に最近まであったケバケバしい記念撮影用のパネルはなく矢盾や竹矢来のセッティングだけの方が雰囲気が良い。何時もの参詣のつもりで本堂まで来てしまい、見過した見張台跡「展望台」へ本堂下の高倉コースを引き返します(PM12:15)。
点への分岐で「五峰山国有林」を示す木柱が倒れています(PM12:25)。立木に立てかけて左折しますが水の溜まった平坦地があり土砂に隠れるように 処々に石積みが見えます。
ところです。城ヶ辻の送電線鉄塔下で東の西脇公園へ降るコースを右に見て、登り切った所が城ヶ辻 (点名:竹ヶ谷・3等三角点261m)で東屋休憩所が建てられています。
筈)に似ているところから名付けられた様に、二つの峰は周囲の低山を睥睨して堂々の山容です。社か行者堂横から北への稜上に曲輪を置いて、細長い自然地形に近い北郭部には矢筈山(3等三角点 363m)の標柱が埋まる。
谷(南室和<尚)”と謳われ、江戸時代には1院13坊を持ち寺領二五石一斗を領したとされる。境内に高浜虚子・阿波野青敏・富田砕花等の句碑や歌碑が建てられている。本堂にへの参道西のあじさい園側にはユーモラス/奇抜/微笑ましい…等、様々な自作の石像羅漢が並んでいます。
解き(絵で説明する)」として此の話が語られます。岩尾城には蛇の子を産んだ人妻の話があるが、その猟奇伝説に”傾城・阿波の鳴門”の「おつる」が石童丸に代わったような話が加わります。太宰府の苅萱関の関守・加藤左衛門尉重(繁)氏は母と愛人を同居させ生活していたが、
の西裾を市街地に落として再び盛り上がる。童子山公園の総合市民センター側の北側背山が、馬蹄形に二方行に南へ延び出す尾根沿いの周回出来そうな尾根筋も散策・展望共に良さそうです。
ースになるとおもうが、尾根筋に入れば後は藪山の寺山イメージとは”うらはら”に、其々の墓地最 高所を繋いで?の尾根上は岩床が続き、馬蹄形に南面の尾根筋を歩く限りにおいては、
西脇市街地よ其の外周を包み込む周辺の山々の展望を眺望しつつ明るく開けた快適な散歩道です。
の入口はR427号に戻って直ぐのところ。墓地内を直上してもよいが、用も無く他所の墓地内を通るのに、道が無ければし方ないが、
西端に小堂に登る緑色の手擦りの付いた急な石段道があり、其処から八十八ヶ所観音霊場参道コースが延びています。
には杉原川沿いに並ぶ大型店舗
・山裾に播州成田山の堂宇を見て矢筈山・南へ目を移せば角尾山 ・光明寺山山塊の 間を野間川が流れ八日山山頂付近からも望む・愛宕山と鳴尾山スカイライン(八日山の画像
を御覧下さい)ですが西方僅か約800m程離れただけで逆さ富士の様相はスッカリ消えてしまう。
た標柱の立つ巡視路の三叉路に着く。登山が主目的なら直進直ぐ(約30m程)に位置する
寺山最高所(Ca230m)を往復して三叉路に戻り、道標の示す西林寺方面へと北方へ進む事になるのでしょう。急に展望も無くなる尾根筋を降り、再び展望コースが期待出来る
た三棟の2階建て
木造校舎が並ぶ西脇小学校が在る。平成元年の大改修工事時にも、木造校舎の良さが其のまま引き継がれて戦前の雰囲気が残り、野坂昭如氏の小説アニメ化で知られる映画「火垂るの墓」が昨年(平成20年実写版のロケに使用されたばかり。
体育館にいて、恐怖感は薄れ・虚しさ・寂しさ・悲しさだけがつのる。
主人公ならずとも代わってやりたい感情を持つ人は多かったはず。ハッピー・エンドに終らないことも、現実味を帯びて共感出来る作品ですが此の実写版は見ていない。
な街並みを守るために兵庫県の景観条例に基づく景観形成重要建造物に指定された西脇小学校の校舎で、近在では市内に
旧来住家住宅(西脇商業銀行を起こした来住梅吉邸)や小野市立好古館が選ばれています。
市駅(支線の多かった加古川線ですが、平成年代に入ってすぐ廃線になってしまった 「鍛冶屋線」野村駅の名が懐かしいところ・終点で福知山線接続の谷川駅までよく利用したが、
いつも此の野村駅(現在:西脇市駅)で乗り換えの為・長い時間待たされた。
一帯には新興住宅地が拡がっています。住宅地内の路地の奥に2台程の狭い駐車場がある。 その背後・山の傾斜を利用した?ドーム状と球体面を分解して伸ばした様な?ユニークな建造物は人目を惹く。
位置を表示して公園内に埋め戻され2号窯は発掘状態のまま(平安末期の”あな窯”)と、館内で発掘された陶器等出土遺物を保存展示されています。古窯は焔の廻りをよくする為に工夫された分焔柱を備えた地下式の窯。
れているのでしょうが雑木藪 の中にはゴミも目立ちます。城遺構についての専門知識はないので検証出来ず、南山麓にある坂本城の縄張図付き 案内板説明を参考に東屋休憩所の東側を見ると、
斜上して此処に到達する虎口が開き、虎口受部を石積で補強しているようです。
備されて、西脇市民の毎月登山が実施されており、矢筈山頂へは以前の様な苦闘が嘘の様な快適散策ルートと峠から直登の登山ルートが出来ています。杉原川とR427号が走る西脇市街地を眼下に丹波・播磨境界の妙見山や門柳山(天徳山)・西光寺山から、
後の危険防止の為か・松茸山の入山禁止テープ・ロープが延びる…が此処には竪堀も有りそうな気配だが、土砂崩れのよるものか判断つかず!!?(未確認)。露岩の多い尾根上に切岸をもつ10x12m程の綺麗な曲輪に着く。
にある大岩稲荷社>・弥木場】の頂五峰山に白雉2年
(651)道場が開かれ仁明天皇の勅願寺として栄えてきた山岳寺院で文明年間(1469〜87)には25の堂宇が有った。法道仙人作と伝える11面千手観世音菩薩像を本尊として祀る新西国28番、播磨西国18番の札所です。
房)・愛曾伊勢守・上杉左馬頭・矢野遠江守等総勢五千騎で籠もった光明寺合戦(観応の擾乱)は太平記に記されNHKテレビドラマで放映され有名です。尊氏・高師直の1万騎は城の西側・引尾山に尊氏、東側の鳴尾山に高師直が陣をしいて攻め立てます。
は神明の加護があるようだ。到底攻め落とすことは出来まい」と父子は八幡山 (滝野町河高)の陣を払い白旗城へ帰ってしまったとか…愛曾伊勢守の召使に
神が乗りうつり無紋の白旗を降らせ、
首の歌が書かれており、不吉を噂し合ったという。不利な条件が重なって勝敗を決しえず 尊氏は湊川へ兵を移す。小清水合戦(
越水城:西宮市)等・摂津での抗争の時か!?尊氏は弟:直義と和睦するが師直・師泰兄弟を鷲林寺(西宮市:甲山近く(陣所?)で処刑したと云う(太平記 第29)。
固な城郭となっています。 其の後 「播磨鑑」では滝野城として明応年間 (1492-1500)赤松刑部少輔政資の子・赤松左京亮氏重が城主で宝暦10年(1760)まで260有余年続いたといわれ三木合戦では落延びて子孫は帰農したともいわれます。
其の後・大坂の陣には徳川方として戦い、江戸時代初期の藩政時代には篠山藩・姫路藩等に仕え、江戸時代の早い次期・おそらく篠山藩では初代藩主:松平康重(家康の子)が2代目藩主信吉に代わった元和年間頃には、西脇市に(浪人して!!?)移った来住氏が居たことを知りました。
ー側に銅像・資料館に自筆の文書等が展示されている)、多可郡黒田庄町を編入しての新西脇市の初代(平成17 2005年)市長は来住寿一氏、また来住儀兵衛は播州織の元祖?とされ、高瀬家(西脇城主
:高瀬氏との関連は
来ていない。山を寄進した財源からは往時の加古川水運業に財力を得・水運が廃れる明治期に自動織機を購入され事業を始められた一人と考えますが碑文を裏付ける史実が掴めません。童子山公園の南側に織物の町・西脇ならでは?の”織姫”
ならぬ 織殿神社が在る。
招いて、糸染技術の指導を受けたのが始まりとされているのですが・・・!!?。明治期には標準的に使用されていた木製織機 (高欄<上機>)も明治33年(1900)には石油発動機による自動織機(豊田式?)が導入されたとされます。
兵衛氏の来歴が記されていた。儀兵衛についてhが不詳ですが、
播州織同業組合発起により12名(来住姓は無い)の委員連名で建設されている…
織業の啓発に志し同業組合長として専ら力を共同的施設に用い、傍ら西脇商業銀行を設立。郡会議員に選ばれ其の議長として多年にわたり活躍 ・古稀をを過ぎて尚、西脇町長の要職に在ったという。
センターと図書館で来住氏について尋ねたが何も得るところ無かった。 観音寺にある過去帳や「来住会」から、
また一族である来住家住宅の「丸二会」から情報収集・整理分析する事等は、個人的かつ部外者としては詮索範囲を既に越えており、研究者・関係各位の調査・報告に依存する事になりますね。| |