| ササユリの里に山城を訪ねて 野間山城・竹谷山渓谷 ・光竜寺城・観音山/大石良雄の石垣 |
はヒカゲツツジも楽しめるようです。少し広い曲輪の先からは露岩が目立つ狭く細い曲輪群・南側に犬走りか?細い!帯曲輪が本丸跡へと続いており石積みが西端の曲輪にかけて施されています。
稜上は展望もよく前方に素晴らしい尖峰と岩場が見えています。野間山城最高所にあるしょうどの丸への尾根を既に外しているが、大岩の頭を過ぎ383mピークに辿り着いても
暗い植林のなかに展望はなく
の話等…しかし此れから再度登る極楽寺からの大手道コースを聞き漏らした。極楽寺からは(AM8:40)とんでもないコースで野間山城域でも目立つ しょうどの丸のピークへ
も平坦地が残る。野間本郭部へ向かう鞍部には 番所跡とも[兵留まり]ともいわれる曲輪があり極楽寺からの大手道は此処に登って来ます。
ある墓地に降りてきます。此方を降りれば早いのに!!と思える場所も九十九折に緩やかに降っていく道は
此の城のもう一つの見所でした。
工房八千代(地元食文化の研究・開発を進め、
その加工センタ・販売所で住民のカルチャーセンタでもある。昼も過ぎお目当ての限定食品は既に売り切れか!!?と諦めていたが運よくキャンセルがあって購入できた)に寄ってから加美地区に向う予定。マイスター工房から北へ約500m宅地を抜け出た
県道一筋西側の地区道出入口に
巨木と案内板が見える。木に咲く春の花は…桜でも梅でもなく?…椿(ツバキ)ですね。天正3年(1575)8月
野間山城最期の城主在田国康の時、別所重棟(後に但馬八木城主となった)に攻められ落城し再起を図り敗走した家臣・将兵の多くも此の地で斃れたと云い、
諸処に祀られていた五輪塔等々も 此処に集められ合祀されているのでしょう。兵庫県の郷土記念物として平成6年2月4日に指定された「ヤブツバキ」は幹周約2.5m・樹高約12m・推定樹齢約500〜600年と云われる県内最大の巨木だが
老いて益々…!!未だ育勢盛んであやかりたいもの。地域の人々の暮らしを永年見守ってきた 此のヤブツバキは古来より時季外れに(年に2-3度)開花することがあり「化椿」の愛称で親しまれています。余りの巨木に暫時歩を止めて眺めやり・賽銭を供える人も多いと…。
ツバキの前には自然石の三界萬霊等(碑)があり、多くの無縁の石塔婆・五輪塔を祀り昔よりお盆や彼岸にお参りする風習が今も続いている。
じる「のこぎり屋根」を見ます。
野間山城への大手道・極楽寺山門前からのルートにも数軒の機工場の屋根が見え、僅かに?稼動している織り機の音が聞こえます。野間山城へは極楽寺からの大手道ルートと俵田橋からの搦め手ルートがあるが俵田橋からの尾根コースが
整備されており歩きやすい。
古川の 支流・野間川中流域の左岸の野間山310m山頂に主郭を置き野間盆地を一望出来る位置にあり、その対岸には半独立上の216m削平地を持つ都南山【光竜寺城】があリます。
氏は河内城(加西市)を本拠としていたが
永正年間末期頃、播磨守護代:浦上村宗に反抗して本拠地を野間に移したこと、また河内城を別所氏の城?とする説も!!。
谷の
領主中野間伊賀守政廣(?:伝承に丹波高見城主の赤井五郎の連合で黒田城(多田構居?)を急襲した戦功によるものか?)が居城したとされます。
野間山城他の野間城については廃城の時期等不明です。
の広い削平地がなく番小屋程度が置かれていたかも知れません。発掘調査により城跡から輸入磁器・備前焼・碁石・アカニシ貝などが採集されており、これらの遺物から戦国時代に
機能していたことが知られています。
な急斜面だが、二ヶ所の堀切間から斜上して主郭部東郭の「本丸敷」に向う最西端の曲輪上部に抜ける竪堀状の堀底道が通じていて 土塁の切れ目から登り着く此処は虎口ともなっているようです。
張りをもつ遺構ながら、昭和年代発行の城情報ではコウリョウ寺跡?としての認識か、野間城群の一砦跡として評価されているのが
最良!!で2000年?になって現地調査・研究により城としての認識・まして居館・身分の高い客人を迎えての儀式等では、| |