| 日内城-虚空蔵山-戸平峠/野村城/西山城館/岩倉城/長谷山城他 |
は廃家になった。この峠を一番利用したのは農事のようで開拓した土地がその村のものとなった時代、山を越え他領へ開墾に行くため通った丹波の古道は飛領地とは異なった不思議な県境を構成しています。
り且つ右手奥に並ぶ二つのピークが気になり今日はあそこまで行ってみようと見定めて進み出したが岩妻峠のこと・目印の石仏があることも忘れ踏み跡も確認せず素通り
び出してきた。集落一番奥の民家脇には子授地蔵尊を祀るお堂があり 近在では有名なようで何箇所かに案内版を見かけ歩き続けて鴨庄小学校前に出てくる。
真夏の風物詩として地元で定着。2004年はオリンピック関連も多く、丹波市発足年でもあり新市章のシンボルマークも目立つ。今年(2008.8)は北京オリンピック開催中だがうなぎ産地偽装・年金やガソリン高騰等の
R175で黒井を過ぎ
春日インター手前・下野村から県道69号(春日栗柄線)に入る。この道から栗柄峠から鼓峠を経て京都へと[赤井の呼び込み戦法]による奇襲を受けて黒井城攻めに失敗し天正3年(1575)明智光秀が撤退した道だが野村地区木寺にはその時落城した野村城があり西方には低いが目立つ端正な富士形の茶臼山の姿が
がある。神社からは・ごく普通の植林の山だが数10m先の貯水池(新池)前の地区道からは頭上に覆いかぶさる様に高さ30m急斜面に幅20m程の岩壁が現れる。岩壁自体は断層の運動とは関係なく侵食によるものだそうです。岩の基部の岩窟や周囲に石仏等が置かれているが丹波市指定(春日町指定昭和44年8月31日)天然記念物野村断層です。
殻変動により
生じた上下・左右に地層面がズレ・食違いができたもので巨大な力を受けた岩には亀裂が生じ断層に沿って破砕帯がみられます。野村断層は左横ズレの断層であり垂直成分はなかったことが断層面に残された条痕からわかるということです。
た結果断層面があらわれたものである。断層の運動量は不明だが破砕帯の幅からみるとかなり大きいと思われる(春日町の文化財より)
は断層崖を露呈した自然の要害地形。黒井城攻めの陣を敷いた茶臼山城の西には北近畿自動車道工事に伴う土採りで消滅した火山城・東には古池を挟んで野村断層の上に築かれた惣山城・さらに新池を隔てた
にある此の山城に適名が見当たらないので 点標名の棚原とする>】が残り狭い範囲・横一列になって北方の黒井城を窺う光秀軍の向城群が並んでいたのでしょう。
開墾して拓き以来次第に出百姓も増して一ヶ村を成し、牧村より開き初めた故に氷上郡牧村の出戸として藩政時代には川勝氏の領地となっている。…松本氏を上刑部・永井氏を下刑部と称す…と「丹波志」にある。
島城(北桑田郡)を本拠の丹波川勝氏は
路の正面には三ッ塚廃寺から天神〜梶原地区にかけて延びる低丘陵を左右に分け、
その尾根上に矢谷城館・畑山城館がある。車道は其の丘陵裾を抜け喜多地区の公民館西方の山裾に目印の銀杏の木と・側に5m四方で入母屋造り・瓦屋根の「ハゼ山観音堂」がたつ。
城主:船越氏開創の円剛寺が観音堂として守り継がれてきたものと伝えられます。付近には庵屋敷・番屋敷・山中には石仏等が転しており、北方には延享4年(1747)萬州大和尚を開基に草創された徳本庵が有る(未訪・未確認)。
年間以前の合戦なら守護代内藤氏による赤井氏への侵攻が考えられます。天文年間中期以降(1545-50)頃、三好長慶が管領:細川晴元を押さえて台頭し京都の実権を掌握する勢力をもってくると
丹波では晴元方の八上城(篠山)波多野晴通・黒井城の赤井時家と、
見氏が内藤氏と幾度か赤井(荻野)勢力内に侵攻しいる。塩見氏と同族の船越氏が此の頃・敵方の領内に城砦を築いたものか?。塩見氏が戦国時代初期の短い期間:船越善阿弥入道と共に北村城(長谷山城)を居城として活躍したとも云われますが!!?。
丹波の何鹿・庵我・曽我井・六人部辺り(現在の丹波市と福知山や綾部市境界)に勢力を
拡大するがこの地の国人領主や船越氏の動向等詳細は不明です。此の城についても此の城を舞台にした戦闘記録も?今のところ見当りません(未調査)。
塚廃寺から天神-梶原地区にかけて延びる独立低丘陵の尾根上に矢谷城館・畑山城館及び其の南西1kmには黒井城攻防では水源を巡る逸話があり・明智の向城”一夜城”の伝承地小富士城がある。
してきた京都街道沿い。福知山方面からは古刹:岩戸寺へ抜ける巡礼道 ・間道があったか?これらの街道が眼下を通ります。この城が日ヶ内城・西山城館(?岩倉城)と共に黒井城支城群の一つとして
東口を守備した城か周囲の城とは大きく異なる
うです。山城裾の近在に船越姓の家はないが善阿弥入道直系の後裔・所縁の方がいらっしゃる様です。麓には高見姓もあり、私には船越氏が退いた後最後に残った城主高見氏の時に落城を迎えたものか。
向城として再構築されたものでしょうか?。低丘陵の長谷山山頂(安世地山Ca185m)から尾根の末端近く
観音堂背後の真上には尾根端から1m程の段差で10mx30mの平坦地が続き、山側の段差を越えると自然崩壊なのか人為的に片側を削ったものか?
2m程・長さ約30m程で 平行に並ぶ見事な畝状竪堀となっています。「丹波志」に船越入道の館が有ったと記され「ふるさと市島の祠堂」により
長谷山城の位置が判って訪れてみたら何ともすばらしい畝状竪堀です。丹波でも極一部に残る山名氏の城や八上城向城として築かれた織豊系の陣城に畝状を見ることが出来るが丹波市内に竪堀・其れも6本もの竪堀が畝状に並ぶ山城はめずらしい存在。
を思わせます。侵入してくる敵勢の横移動を阻止し、 しかも高い上部の土塁付きの曲輪から各竪堀を見据えて狙い打ち出来る防備は完璧。
此の曲輪から次に上段曲輪の尾根側付根?左右には其々に竪堀が一条落ちる。
主郭西北に2mx3m範囲に残存する石材は城の守護神として愛宕や秋葉社等を祀った祠跡なのか、また段差2m程の最高地点の低土檀は櫓台か?。
櫓台からは尾根続の一段低い曲輪からは8m程の高く急な切岸を下って大堀切の底に降りる。更に土塁を挟んで先にも一本の浅い堀切があって最近の丹波の山城訪城では久しぶりの二重堀切に逢えた。長谷山城の城域は此処までの様で、後は緩衝地形の緩やかな尾根筋が続くだけの様。
188mピークを最高所に北から西へ弓なりに延びる尾根上に散在する矢谷城館のある主尾根に続いている。其の先まで今回確認しなかったが北からの尾根通しに 2重の堀切だけでは防備が弱いが本拠:黒井城赤井氏側にとっては京都三和町へ抜ける戸平峠への重要な監視と
防禦の拠点となっていたのかも知れません。明智軍にとっても京都丹波側に残る黒井城:赤井氏方の援軍や八上城:波多野氏方の動きを監視する為には有効な城砦として転用されたとも思えます。
平地なのに惣山の地名があり”惣構え?”の城域に関連が有るのかもしれません。此処は県道69号(春日栗柄線)で国領〜栗柄峠を経て篠山市や京都・三和町へ通じる道で
天正3年(1575)丹波攻めで
道(県道69号)に沿って東に延びる東多紀アルプス山稜の
頂にあります。二つの山城の中程に位置して掻き上げの野村城(土塁で囲まれた水田と神社を取り込んだ城域の東西約70m・南北に約85m)にある。
の土壇があって櫓台跡と思われます。黒井の本城に向う北東角付近には大きな凹角部がある。土塁幅も水濠(民家との間の畑地)の幅も広くて 深く切れ込む様に入る虎口・門?!(本来なら大手虎口・門でしょうが
北は鬼門の為石燈篭が立つ南側か。
手だったかも。内掘・外堀と二重環濠に囲まれた掻上げの城館が有ったといわれます。外堀は埋めら水田になって遺構は確認出来ないが 内掘からはおよそ其の規模状況が確認出来ます。
行者と
前鬼・後鬼を浮き彫りした記念石碑が建つ前から集落を抜けた公民館に神社が建つ。東面の車道に沿う濠跡と大土塁が北角から西へ延び竹藪となっている高土塁の続き ・城域内の北西角付近には子供の遊び場ともなっている八幡社が建つ。
跡なのか?多くの小山や丘陵に囲まれた山間の兵庫丹波に僅かでも遺構が確認できる平城は 篠山市に大山城・丹波市は芦田頼季の栗住野城や
予守太郎兵衛有久の時に落城したが中世の典型的な掻上げの城館・野村城は黒井城:荻野直正の台頭とともに、
その傘下に配され支城として但馬・丹波・京を結ぶ街道の要衝にあって機能したのでしょうか。
合戦があり光秀は撤退しているが此の時の戦いで野村城は落ちた様です。天正7年(1579)の黒井城落城頃まで持ち応えたかかどうかは僅か300m程西には光秀が
、羊歯類や倒木、疎林の急斜面に足をとられがちですが・直接取り付いて適当に山頂を目指します。山頂部が見えてくると斜面下方からも曲輪の切岸状況も明確です。
各曲輪は丁寧に削平されています。茶臼山城は天正3〜7年「黒井城攻め」明智光秀の築いた陣城です。黒井城の真南に位置して正面から
城兵の動きを把握出来る格好の位置に有って山頂に約40mx30mの平坦地があり、
び込み戦法]によって明智光秀が命からがら京へ逃げ帰った街道に近く、その際の”勝ち戦”の頃に付けられた字名ではないかと思われます。長期籠城戦となった篠山市の八上城攻めの明智軍は多くの向城を築いて包囲しているが、
比較的短期戦となった黒井城攻めに余り向城を意識していなかったが、
火山城(存在を知ったときには
既に北近畿自動車道工事の土取場として消滅 ・遺跡分布図に示されるだけで詳細不明)や陣城の東側に古池(貯水池)を挟んで惣山城・新池を挟んで棚原城があり黒井城包囲網の一端を負っているようです。
名祐豊が氷上郡に侵攻して
山垣城足立氏を攻めるが赤井・荻野氏は山名勢を退散させ・余勢を駆って但馬側へ進攻竹田城を攻略し山名氏本拠の此隅山城へ迫り山名氏は織田信長に救援を要請した。
詳細は不明。亀命山萬松寺(曹洞宗)の山門からは、駐車場を隔てた向かいに立つ低丘陵が陣所を築いた茶臼山城で黒井盆地を隔て遮るもの無い北方に黒井城-千丈砦が望まれます。
西に火山城・東には野村断層の断層崖上の岩盤を削平した惣山城・棚原城が僅か1.5km程の範囲内に並びます。
は粗完型:現高は2.20m台石は
上端反り花座付きで四面に輪郭をとり、内に格狭間を入れるが正面だけ蝙蝠狭間を彫ってあり、此の様な格狭間の組合せは比較的珍しいとされています。相輪もよく整い全体の姿態も美しく、各部の手法からみて南北朝期〜室町時代初期にかけての築造と推定されるが
あり、聴松寺を同国野村に建立し細川満元【天授4・永和4年(1378)-応永33年は室町前期:摂津・丹波・土佐・讃岐の
守護となり応永19年(1412)管領職に就任】の冥福をたすく(大日本史料)に記されているが聴松寺跡や希世霊彦についての文献 ・資料は未だ発見されていないようで満元供養塔とは推定にも至っていない!…| |