| 高見城砦群 穂壷城〜泉山砦〜鴨野城〜萱刈坂/高見城山〜禅座坂 |
�T 穂壷城〜泉山砦〜鴨野城〜萱刈坂 2004.04.02
の城の北麓が加古川・柏原川・高谷川(日本一低い分水界「水分れ」を流れ出る)沿い
R175号に落とす。
に延びていくが20m程で巡視路沿いの右尾根をとる方が良さそう。北攝長田野線鉄塔No87からの巡視路は尾根を跨いで西側の稲畑に降る道。
よう。雑木の中の踏跡は前方にたちはだかる大岩(幅・高さ共に約15m)に乱れて岩の頭部へは直接岩場を登れそうだが
右手を捲きながら展望の岩頭に着く。
は2‐3段の曲輪があるが特に2段目北から東に回り込む広大な平坦地形は高見城が佐野側から鴨野側を大手として 中世には城下町が形成された時代の家臣団屋敷なのでしょう?。
の鞍部には室町時代後期の五輪塔が祀られる禅座坂(高見城主仁木頼章の墓がある三寳寺・丹波悠々の森に下る)高見山城への縦走路を進むと東鴨野城主郭部?と思われる
足元も見えないが 30m程の平坦地で東に遊歩道・西側も数m下に2-4m幅の帯曲輪状段差の平地と休憩所を捲いて北側で遊歩道と合流する。
いるが平坦な7-80m程の尾根上曲輪?の北面に2m程の段差で3-4m幅帯曲輪が2-3段平坦段以外の遺構は見当たらず城域がハッキリしないが高見城砦群と山麓の家臣団屋敷からの
175m)へは
新井小学校から遊歩道(丹波市発足記念事業により整備された)が通じている。
緩斜面(畑地)になっている。櫓台東寄りに竪土塁状を下る先から幅狭い溝が北へ落ちるが溝の東側の平坦地(曲輪)を分ける空堀。長い土塁空堀の東端は竪土塁・
口する下部が 広大な屋敷跡曲輪北部と曲輪東部境にあり帯曲輪で繋がるが更に外側にも高低差3m程で1‐2段曲輪がある)大土塁は(堀内側3m・北側5m程の切岸下部に
自然地形?の平坦地が続き小曲輪の高い切岸(6-8m)下部の尾根先端に祠を祀る曲輪が民家から崖状10m程の高みにあり小曲輪と祠の曲輪間から館跡部最下段曲輪へ
世高見城の大手口・釘貫門は此処に在ったのではとも思える。西は小学校西南端・公民館付近から比較的緩斜面、東からは民家裏手から墓地参詣用?の後世の道?しかし北面・学校敷地からは
!?)の片堀切状に下りてくる。南下部は直ぐ民家。北側には降ってきた山腹を捲くように土塁横堀を廻る東鴨野城。深さ幅共に2.5〜3mの横掘りが Z状に伸びており
地形があり高見城砦群を形成し西側は佐治川(現:加古川)沿いの氷上回廊を望む。
町から篠山川沿いに阿草から篠山市味間へと山陰道を通り抜けるのを阻止する事もせず黙って手をこまねいて見ていたのでしょうか?。
東側には採石場・尾根沿いには送電線が走っているので 小さな砦城の残存遺構を余り期待はできない?。氷上盆地に突き出す低丘陵は周囲に遮るものなく穂壷城に付随する
・監視。泉山砦には仁木頼章の弟・四郎源(和泉守)義長が一時期在城していた云う。伊勢に敗走(南朝に付いていた頃から
なかったか?と思われます。明智”丹波攻め”では柏原八幡に本陣が置かれていたので、これ等の城砦群が黒井城支城の高見城を護る砦として主に東面(柏原方面から萱刈坂への街道筋に
鴨野城は関電送電線「北摂長田野線No88」鉄塔の建つ小曲輪跡?の一段東上方に広い主郭を置き東の尾根続きに4段ばかりの曲輪は夫々に高い切岸加工を施し帯曲輪・
ゑの原池近くまで段差が残るよう!?。なお断崖沿い南へは西斜面沿いに萱刈坂を見下ろす一ヶ所に狭く小さな平坦地形を見るが峠監視所かどうかは不明。
へ枝尾根を延ばす短い尾根先ピークにも
監視の東出曲輪(Ca155m法泉寺曲輪)を設けたものか?。しかし此処も尾根先端・東面一帯が採石場として大きく切り崩され南裾の字:
廻り込み曲輪に入る通路状と通路に面して 2-5mの切岸をもつ曲輪!!。しかし曲輪への通路かと思えた山道・通路の斜面下方にも幾段か同様の細長い平坦地を見る。
石・採土調査等により重機が縱��無尽に斜面を崩し削平して走った跡と混在し遺構かどうか判断できない。法泉寺曲輪の土塁道状の北端から急斜面を登ると鴨野城主郭東側の段曲輪を捲く帯曲輪の南面に入る。
があり
南方の高見城から萱刈坂へ延びてきて一旦寸断されたかと思える稜線が更に氷上町と柏原町を分ける町界尾根となり比高50-120m程の低丘陵が此処まで延びてきます。
からの南尾根を下ると母坪集落へ降りる分岐を右に採り・低い鞍部(集落からの比高約15m)を経て殆ど切れ目なく
備えている。此の穂壷城主郭と妙見堂遺構の間・高低差の少ない平坦尾根に4-5区の墓地が並ぶが
を配し間を抜けて穂壷城主郭に向う山道に入る。母坪に残る北屋敷・中屋敷の字名が此処なのか
ると小島妙見宮が建つ。和泉神社の北に位置して穂壷城と泉山城の間にあって最も整然とまとまった縄張りを呈しています。
後・山名氏家臣で丹波守護代の久下氏や赤井氏の城として天正の落城まで城下町も形成されていたでしょう。
に続く 峰の高みや稜線から南や東に突き出す尾根毎の先端には見張り所や通信用の狼煙台等があったものか !。鴨坂城(208m)付近から東へ延び出す緩斜な尾根(北山稲荷社の北背山)の
が造成中なのか?切り崩された地肌を見せる斜面と頂部に毘沙門天を祀る堂が建つ。此の丘陵東裾には稲荷社には丹波佐吉(照信)のキツネ像がある。
城を望み 東鴨野城(新井小学校の南背山)と正対する立地にあり毘沙門砦と仮称する。尾根筋西に延びる丘陵間は尾根筋を割って田路へ抜ける切通し状、尾根を西に辿れば鴨野城と泉山城間の主尾根筋に出る。
郭と推定します。鴨野城には法泉寺曲輪があるので毘沙門砦と尾根続き東端の曲輪と呼応して泉山城や妙見砦・穂壷城との関連深い城砦で泉山城の出城と解して此処に記した。壷城〜萱刈坂への主丘陵・泉山砦と鴨野砦間から東へ伸びだした尾根上に
歳)が手懸けている。村上源照信を名乗り師:伊助も亡くなると丹波の佐吉は「石工:源照信」と・生まれ故郷・但馬竹田城下:朝来郡(朝来市)竹田産と
を結ぶ峠道で、これより尾根続きにある行者堂への参道を兼ねたものか。お堂も砦跡で下った狭い鞍部は土橋と片堀切。
。一枚岩端を捲く様に尾筋を直進しても正面には高さ3-7m程・幅約1-2m・長さ35-40mにわたる石垣積の強固な堡塁となって完全に西方向からの侵入を遮断・防御している。堡塁は北先端部の大岩まで繋がり
視路がある。其のまま尾根通しに馬背山への危険とも思える厳しい山道が高見城への大手道だったのかも知れない?。高見城は南北朝期:嘉暦2年(1327)仁木頼章により築かれた
となっていたと考えられます。行者山の主郭に戻り足元が安定しない嫌なザレ場の急斜面を降り、登り返した露岩を越えると約15mx25m!の平坦な尾根に出る。
西側曲輪西側面の切岸を固めるように 付近から調達できる小振りの石を集めて高さ約2.5〜3m・長さ約15-20m程の石垣が築かれています。
石垣も【高見城三ノ丸北東出曲輪ともに人知れず残されている高見城城砦群の再調査を願いたいところです。出丸の尾根側一杯にはドーム状の岩が立ちはだかっています。
山々を眺めて最後の一登りで「丹波悠々の森」からの登山道と合流する 愛宕社が祀られる高見城三ノ丸跡の曲輪です。
三ノ丸から三ノ丸北西出曲輪を経て行者山〜萱刈坂へと北西に延びる丘陵にのる為の分岐は尾根筋が見定められない急斜面の下降から始まるので判り難いが
う北東出曲輪群は居住性も高く武家屋敷跡だったか、守衛の番小屋でも在ったものか?)
から西の谷寄りにトラバース(荒れた山道もある)して谷筋を越えれば直ぐに目的地の到達する。
を経由し高見城主郭に向うのが大手道だったのでしょう。尾根筋が急に緩やかになると平坦地形に浅く広い堀切が現れる。
階段状…その先に見える高さ1m程の台地が西側に露岩を見せ
断崖状の尾根端に主曲輪を置いている。眺望絶佳・指呼の間に行者山城と馬背山城の尖峰が見える。
の縦走路に崩れかかった石垣が僅かに残るだけの高見城の存在が薄くなってくる。城の最期も城主が城を出ての転戦中、其の留守を狙って僅かな残留兵によって護られた
高見城山登山利用者の99%以上が県道290号柏原町小新屋の三寶寺・悠々の森からだが黒井城砦群同様に高見城も周辺の丘陵・尾根筋には城砦群が存在する。高見城が佐野城と呼ばれ大手「釘貫門」は氷上町佐野にあったが
久下・波多野…赤井と領主が代わると大手「釘貫門」は萱刈坂を越えた柏原町鴨野に移った?。| |