| 柏原藩織田家城下町譲葉山~高杖山~獅子山・入船山~藤ノ目-高八山~清水山 |
Ⅰ新町高燈籠~譲葉山~高杖山~獅子山~見長
2002年02月02日
右手上方に立ち枯木のある禿っぽい!!獅子山が
展望も良さそうで楽しみだが車道が山裾を離れていくので登路を見つけるのが厄介。猪除フェンスが続き最奥の民家横・神社の前迄からは未舗装の林道が続き「熊出没・注意」の標が少し気になる。
を抜けると山道が尾根に沿って続く。三重塔裏の大堀切から尾根筋左右に曲輪跡を遺す
のある清水山542mから向山へ縦走し柏原八幡と鳳翔寺へ下る三叉分岐となり
鳳翔寺ルートは急斜面ながら明確な山道です。
主波多野宗長!?・宗貞父子が陣を構えたが羽柴秀長軍の攻撃に落城。光秀は此処を本陣とし
丹波攻めの拠点を金山城から八幡山城に移す。
望台556mの
少し手前の山道からなら僅かに展望もあるが旧電々公社無線中継所見長反射板施設の跡地】の尾根に乗り
裏山の大内山
(丘陵斜面は長い滑り台や遊び場で校歌に謳われる・放送受信施設!?の有る最高所)に着く。鹿猪避けフエンスを開閉して出た所からは学校グラウンド内へ降る道?。
の再奥から尾根上に出ると崇広小学校の自然と冒険の校庭ともなっている大内山。学校側へ下って行きそうな尾根を・更に遮断する
出て変化の乏しい山道を譲葉山594m山頂の権現堂に向うだけ。譲葉権現は新郷・白山権現、青垣町の熊野権現)の旧氷上郡三権現。仏の神への権化…熊野三所の権現を祭神として
された大安寺跡があり周辺に残る高い切岸を持つ平坦地の数や広さから
相当大規模寺院であったと推測できる。
着いた人だったが小谷城(滋賀県)攻めに参戦城主浅井長政に嫁いでいた妹お市の方と 三人の娘「茶々・初・江」を保護している。
政庁として造営されたもので桧皮葺きの唐破風と千鳥破風を備えた玄関と桟瓦葺き寄棟造りの殿舎は再建当時のもの。表御殿玄関正面にあって重厚・荘厳差を惹きたてるカイヅカイブキと
柏原に転封された。京都防火役・大仏建立の助役・大和川改修…等の相次ぐ出費で財政難が続いていたが移封後19年ようやく幕府から藩邸建築の許可を得て
た。
屋根の改修工事は昭和48年桟瓦と檜皮の葺替えが行なわれたが茶室等に使用される杉皮は数年しか持たず檜皮で40年程といわれる。
育委員会 昭和57年)」には曲輪堀切遺構確認で城郭周知されているが南北朝の戦乱に貞和元年(興国6 1345)で焼失:神仏習合(神仏混淆)の聖地として三重塔は応仁元年(1467)の
落城・その際:八幡社を焼失したというが?…
定説!?では天正6年(1578)明智光秀が金山城を築き”丹波攻略”の拠点としたが氷上郡侵攻の前線基地として柏原八幡宮の社殿や
三重の塔は応仁年間(146-69)に 建立されたと伝えられる塔で戦乱や再建後の落雷等で焼失しているがいずれにしても山上の神域の曲輪遺構等を改修し再建・
再興され城砦となった記録はなさそう?。
に京都吉田神社の宮司:吉田兼見が天正7年10月に訪れた(兼見卿記)とするには…
年9月築城だが西の毛利を意識したものか?・
摂津(大阪)への進出基地?として其の後も 加伊原新城で不要となった建材等を運び込み築造拡幅が進められていた。
山山上には光秀の陣城(譲葉山城東郭・西郭/譲葉山西城/
東奥・見長城)があり金山城に続き天正6年後半には篠山市の夏栗山砦に代わり
三尾城や国領越え・黒井城の監視砦として築いたものか!?。
なって県遺跡調査で
城認定?されたが在地土豪が八幡山(入船山)背後から高八山への稜上に築いた城砦群が高八山城(仮称)。八幡山城(柏原城?)の現状遺構からは
して東京に居を移したので信親の墓は東京都練馬区の広徳寺にある】徳源寺が廃寺となった為
代続くが
信勝の死で継嗣無く改易され廃絶。45年のあいだ幕府直轄領となっていた。後期織田家二代目藩主信朝(のぶとも:信長の次男・織田信雄の五男)となった元禄年間に再興される際・最後の藩主信勝の戒名(成徳院殿雪巖元公大居士)に因んで成徳寺と改称された
前期織田家の家族や一族家臣の菩提寺です。
の菩提寺徳源寺山号で元禄8年(1695)信休の転封。信休の父:信武の代:宇陀松山藩のお家騒動により廃藩となり大和宇陀松山藩2万8千石から柏原藩2万石に減封されたが、
指すものか?風邪に効く神様と伝えられる。本堂の左手に祀られる弁才天は信包以来のもので台石は尾州(尾張)のxxx?から贈られた庭石という。
信勝(1623-50)の墓所に建つ高さ約1.5mの宝筐印塔(町指定文化財)は墓地内の高台にあって江戸時代初期-中期の建立(造塔に銘無く年次不明)で塔身に陰刻された蓮華座の上に月輪を刻み、
高校の東側で藤の目川が奥村川に合流するが、二つの川に挟まれて譲葉山から向山連山へ続く稜線の567mピークから南西へ延び出した枝稜が東奥集落へ落ち込む丘陵上・南端部の
で広い尾根筋で末端近くの数箇所に段差のある自然地形の平坦地があり、其の中には大きな空掘の様な半円状の場所があったが30m程下方(比高10m)には後期・織田家廟所が見えている。
ンと岩が占め南面に延びる尾根側を除いて帯曲輪が廻り、さらに下段の曲輪へも1-2mの露岩を取り込んだ切岸をもって続く。
の
土豪の城!?があったとは考え難い。只・奥村川から譲葉山を東側へ越えれば春日町国領へ出る。黒井城主荻野直正の弟:幸家の三尾城の麓で京都や
か鞍部を越え墓参道?を越えると城域は稜線を外れて西山腹を伝う。西下方の新町側へ尾根上に3段ばかり曲輪が続き更に北の山腹を 柏原陣屋や崇広小学校の東山裾まで延びているようだが其処までは未確認。
装林道を進んでみる。城域北峰の尾根付近に乗りそうな 取り付き点を見つけたが、さらに続く街道の峠越え道の様な風情の林道を進んでみると最奥民家の先の田畑で終え・後は西から譲葉山や清水山との中間付近に突き上げる谷沿いの山道となるようです。中世の山城が狭い東奥地区だけの領内監視の城とは思えず?譲葉山・清水山間の尾根を越えて春日町野村や棚原へ通じる旧間道があり、その街道監視と考えたいが未確認。最
奥民家の川縁に建つ納屋へ降りる地点・道路脇に東奥自治会の「穴地蔵尊」の案内道標が立つ。川側へ下り・橋を渡った先も、九十九折れの急斜面を岩場を避け・露岩を越えて続く参道は譲葉山への直登ルートの様に思えた?。尾根筋の踏み跡とは別に山道は大きな露岩の前で行止まり。数段の石段と一基の石燈籠・岩に埋め込まれたような祠が建つ。祠は岩根にある洞窟前に建てられ、低く狭く洞窟内の奥には板石に浮彫りの小さな地蔵尊が安置されています。「穴地蔵」の名からは目・鼻・耳等の「穴」の病気に霊験があるとされ祀られます。此処が街道の間道や昔からの生活道路であれば、子安地蔵として子宝祈願や・峠越えの足痛に霊験ありとしてお詣りされたとも思えますが、何処からも離れた此の位置に果たしてどのような因縁・由緒が残されているのでしょう…?
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