| 弘浪山(高山寺城)〜点名:長野奥〜東峰山・ 甲賀山・犬岡山・森山(南郷城) |
谷垣ビルに寄る。氷上の酒販店で店で扱うオリジナル地酒もあるが目的は店で取扱いの種々佃煮の詰め合わせを土産に買って帰ること。
松側からは鹿野橋を渡ればすぐ目立つINAX看板の垣内建材店前を左折高山寺参道の石標を見て正面のゲートの見える林道に直進すれば舗装も切れて墓地に着く(9:45)。
は立派な登山道が山頂まで続く。少し下って鞍部東側には竪堀の跡かとおもわれる凹部があり10分程で堀切・土橋の虎口を南郷城主郭(森山/秋葉山)ピークに着く。
成松愛宕祭では町内各所で展示される奉納の”造り物”が愛宕信仰により元禄年間(1688-1704)頃より引き継がれ三百余年の伝統を誇るものといわれます。
造られる伝統の「造り物」は年毎の話題性を加味し創意工夫して町単位に製作されます。商家群が建ち並び街道筋の面影を残す成松町内を散策しながら見て廻るのは楽しいものです。京都や篠山の祇園祭でも祭りの日には、
り現在地に移されたといいます。寺内の石塔は姫路の本多家の井上氏の墓所で上ゲ成松城主勝田勘八郎と姻戚にあったが姫路に帰参して本多家に仕えた。
鞍部には高山寺城があり・寺への参道があった所です。成松橋から柿柴に向かう途中・今は宅地と 田園地帯になっている約120m四方の僅かに高い?位置が城域であったといわれます。
近・本郷は江戸期に加古川水運の船座があった。丹波の地に忽然と現われた波多野氏と共に「氷上郡誌」には蘆田氏から南北朝期に分家したとされる荻野氏ですが相模国愛甲郡荻野に住んだ
心として栄えたところです。水田地帯は沼地となるので上ゲ成松城も四方を土塁で囲み、葛野川の水を取り込んで現・水田地帯を沼地として要害とした掻き揚げの方形館だったのでしょう?
城遺構の報告はないが成松の商業地南口を監視する位置に在って古戦場ともなったが頂部の古墳墳丘を利用した)砦があったのかも。
は森山(秋葉山)山頂近く(7合目付近)で双方の山道が合流し、木階段の山道は山腹を廻り込んで城址へ続く。 この先・西山麓の清住に下っていく。
赤井姓を名乗った荻野(赤井)氏発祥の地で黒井城主:赤鬼の異名で知られた赤井直正生誕の後谷城(後屋城)が在ったところ】新郷の後屋城や弘浪山(高山寺城)【南朝方として
略」による天正7年(1579)5月明智光秀軍の猛攻に討死したという。 此の成松城の真北約1.2kmには一寸変わった山名の安全山(点名:絹山)がある。
深い溝谷が流れていく。
城域の南面を囲む濠・山?低けれど…と期待して山麓東側の車道から入ってみる。鹿猪避けフエンス沿いの山側は藪・山頂部は倒木と鬱蒼とした下草の蔽われ状況は判らないが10m四方の方形平坦地が一つあるだけです。
にある
185m峰の方が遥かに眺望監視には有利・佐治川(現:加古川)沿いに氷上盆地の中央を一望出来る。丸山城(砦)は荻野氏が「承久の乱」に功あって新補地領に葛野荘を賜って来住した
全山南麓の「常楽」交差点に出る。常楽交差点の西北・安全山へ向かう林道東側に上記の丸山城
(城砦かどうかも不明?)が在るが山域の西方(丸山城の西約400m)には北方から南へ延び出した丘陵先端が
(仮称);か主郭の山頂部には露岩をも削平された平坦地に大歳大明神が祀られるが山麓:下新庄字内山の大歳神社に遷移されている元の社が奥社として祀られている存在と推察して内山砦(仮称)としておきます。
曲輪は細い犬走り状(山道)となり主郭北斜面下の尾根筋に合流する地点に
2段の小曲輪がある。東側の斜面下は帯曲輪から犬走り状の
跡があるのではないか?とも思えたが 主郭北二腰曲輪・其の下・作業道を挟んで二段の小曲輪があり小曲輪・林道の西から採石場跡に廻り込む藪に覆われた北斜面に二本の竪堀(幅2.5‐3mx長さ25-35m程)が
たと云い近代:昭和中頃までは選鉱場〜採石場となっていた里見鉱山跡がある。篠ヶ峰の主稜線を南へ追って行けば多可郡妙見山も10km圏内…
生野鉱脈が走り周辺に古い鉱口が遺る。