| 天々宇知栗と尊氏の伝説の里山 頭光嶽〜岩屋山〜石戸山 |
ブルドーザ2台/トラック1台残置され朽ちるのを待っている。輝緑岩の岩脈は断層面の割れ目に マグマが入り冷え固まったもの。ここで採取されていたサヌカイトの一種(カオリナイト)はタイルや陶磁器の原料になる。
く動作なく小さな稲荷社に出て玉巻踏切を渡る。八の瀬へは奥野々への車道を行き送電線をくぐり集落の第二平井踏切を渡り公民館右の坂道を直進していく。
となっているが秘仏(33年毎の開帳)です。岩場と書かれた標識の上に鉄塔があり 次の山頂の鉄塔迄殆ど一直線の 急斜面を辿れば三角点の八の瀬山頂です。
八木等に譲っている。仁王門の金剛力士像は鎌倉期の仏師定慶作(仁治3年1242)の国宝で山南町のシンボルです。山門を潜ると左手には多くの室町期以降の石仏が立ち並ぶ。
ば 世に勝ち栗とならぬものかは…”とよみ天々宇知栗エピソードを残す。
織田信長による丹波攻めの天正年間(1573-92)の石龕寺最後の城主
に祀られる焼尾神社(仁治2年(1241)創建を伝える石龕寺の鎮守)も 既にあって周辺に多くの将兵の駐屯・兵糧集積貯蔵も可能。
さしかかる。福知山線側踏切側に”玉巻城”標識があり、その奥には久下氏一族代々の菩提所の長慶院が建つ。丹波久下氏の先祖”久下時重”の顕彰碑”東竹院殿”菩提の五輪塔が祀られます。背後の八幡山241mの山頂に久下氏16代の居城玉巻城(久下城)がある。足利尊氏が二度も此処に逃れ子の義詮が後に丹波守護となった仁木頼章や久下氏に護られ逗留した石龕寺城から高見城への稜線上にある
る。明確な曲輪を確認出来ないが本丸西に一本の堀切(高さ約1m程)が残り周辺には石積みの跡が僅かに残っており三の丸附近にも残石が散乱しているが
(1180)伊豆国で平氏打倒の兵を挙げた源頼朝が 大庭景親・河村義国らにより石橋山の合戦(箱根)で敗北し再起を図って土肥の杉山(!!?)で挙兵した際・大庭氏に属していた久下次郎重光(熊谷次郎直実の兄)が
家紋を賜っています。久下氏「一番」旗印について足利尊氏も高師直に理由を聞いている。源平合戦に戦功を挙げ・承久の乱後に重光の孫久下中務丞直高が
義貞らに敗れて丹波に逃げたとき、および観応2年(1351)弟直義と争った観応の攪乱に孤立し嫡子義詮と丹波に逃れたとき、
・宮津庄の地頭職等所領10数ヶ所を与えられ丹波国の有力国人領主となった。守護:山名時氏のとき細川氏清から 丹波守護代を命ぜられたのが久下頼直(観応元-2年(1350‐51)。
戦を免れ、重元は将軍義満から所領を安堵され、その後も代々将軍に所領を安堵されたが戦国時代に至って全く状況は変化した。応仁の乱(1467−77)以後衰退し栗作郷の久下谷一帯を領有するに留まった。
は逃走したが丹波守護:細川氏・守護代(上原氏〜内藤氏)はもとより近隣の国人らも全て敵方となり孤立した政光は所領を横領され衰え以後文亀・永正の頃まで
落城し久下一門は城と運命を共にしました。天正期まで残った城なのに主曲輪と堀切・竪堀一本を除いては緩やかな広い尾根上に削平されている曲輪や其の切岸は曲輪の段差さえ不明確、
任されただけだが戦乱の続くなかでは力関係もあってか改修する事も適わず高見城や黒井城の城塞の一つとして玉巻城は独自の城郭を持てなかったのでしょうか。
けた事で名を挙げ承久3年(1221承久の乱)後久下中務丞直高が地頭として武蔵国より来住した栗作郷で、東北方の約1.2kmには本拠の玉巻城(久下城)が、周辺には鍋倉城・大河城・西山城・太田氏屋敷・大谷城・至山城や
大森山城等々の久下氏一族の城砦群が篠山川を挟んで南北に築かれます。
時重の来住以前には土豪森田駿河守(丹後守!?)が居を構えていたともいわれます。カマエの竹・木・土等を村人が盗れば祟りがあるといわれます。また弥三郎と名付けると障 (さわ)りがあるともいわれていました。
が迫る丘陵上の城山227mに”池ノ谷主計(いけのやかずえ?)屋敷”があったと云う!?が城主や城史については殆ど判らない城館ながら玉巻城より明確な城郭遺構がある。
めても大堀切に行き着くが右手麓に点在する墓地の脇道から簡易舗装の参道を奥の福??稲荷に向かう。稲荷社では今も?地区民により例祭が執り行われているようで、前の広場では最近まで?子供相撲が奉納されていたよう!?。
監視の砦としても適地。「池ノ谷主計屋敷」程の広い城域を持つが低い曲輪段だけ?。稲荷社側に大きな空堀状・主郭?北背後に片堀切状の崩壊地形を観るだけだが是も思い過しか!?他に防御施設を見ない。尾根伝いを西寄りに進んで池ノ谷主計屋敷一番の見所:
南曲輪段端にも南斜面にと、都合二本の竪堀が確認出来たことで城縄張遺構として少しは格が上がるのかも?…。段曲輪群の段差は曖昧で距離もあるが西斜面を少し下った位置にも県道(奥野々峠越え)と
西正面にを玉巻城を望み呼応する曲輪段がある。
は赤井氏配下にあった久下氏本拠の城に残る顕著な遺構が堀切一本だけは寂しい限りだが嘗ての
久下氏の勢力強化を恐れて城の修築・補強さえ許されなかったのかも知れないが、
た広い曲輪に入る。注意散漫で土塁には気付かなかったが防禦を補強する必要がありそうな西南の斜面上に並ぶ曲輪も段差は小さく、防備や城域を区分する土塁等による改修補強の跡は見られなかった。| |