| 此処にも丹波鬼がいた! 旧篠山歩兵第70連隊の演習山盃山と周辺の山城巡り |
丹波の鬼」として勇名を轟かせたというが私の母等からは「また負けたかxx連隊」とよく聞かされたもの…。
ている松○電気産業労組の結成記念事業として昭和48年(1973)開設された休暇村だが一般公開されている「ユニトピアささやま」はユニオン(労働組合
続く峰の南端丘陵部に遊谷城がある。盃山城の里城(居城)と思える今福城が盃山団地の側にあるので
寄ってみる。篠山産業高校裏・西浜谷集落からは
明るく冷たいコンクリートの下に埋もれ消滅した。過去の遺物は異物でしかないのかと空虚な思いで東浜谷集落へ下り盃ヶ岳へ向かう。登山口の春日神社〜盃ヶ岳から「ユニトピアささやま」への山道は荒れてはいるが案内標識完備のハイキング道なので山行レポートは省略します。
り大栄神社背後の丘へ。尾根東西を2-3段の帯曲輪が取り巻く大野城は各・曲輪の段差や削平は明確だが一箇所見つけた土塁以外防備らしい施設を見ないので、
今福城(今福堡) 向井山 240m 篠山市今福字向井山
から南へ延び出す低丘陵尾根の末端部に位置して盃山団地最西南部の住宅地の裏庭に迫る尾根先に今福城がある…
挟んだ南側の小曲輪からは末端部が大きく切り崩されて崖となっているが周囲には住宅地や多紀教育会館が建てられて県道140号線との
谷を取り込んだ教育会館の建つ台地までが城域ではなかったかと周囲に残る地形から読み取れる。
地開発等で壊滅し全容は計り知れないが城域の状態をR176号線の大山下にある平城の大山城の曲輪と思い重ねています。規模こそ違いますがよく似た縄張りの状況です。
横堀と高い土塁で周囲を堅められているが何れの曲輪も広く丁寧に削平され居住性を備えています。
いるようです。…!!何代目かの城主!?畑豊後守頼元(頼景!!)が拠っていたが
天文24年(1555)9月に没しています。
ークや 歩兵第70連隊練兵場跡を経て篠山市街地と雲部車塚方面への郡家交差点の五叉路に入ります。其の10数m手前を左折して山手へ真直ぐ延びる道が盃山の登山口・春日神社へ向かう。
門前〜西浜谷集落に向かいます。
今年(2005年)のNHK大河ドラマは”義経”です。其れにあやかる心算は毛頭ないが笛吹山でも義経伝説を挙げています。
遮断するほど深く掘り切られた溝ではなく尾根筋が土橋状側に細く付く片堀切?)から急斜面を削平した三段の曲輪を越え主要郭部の南郭曲輪群に入ります。
ぶ土橋・土塁と
息つく暇なしに現れる遺構に感激です。長い帯曲輪を南端部に出ると小曲輪から竪堀状の堀底道から此の帯曲輪へ到達する虎口の様な登城路があり此処にも曲輪の一画を掘り下げた空掘状の溝遺構があって上部の曲輪を隔てています。
篠山歩兵第70連隊練兵場跡から東浜谷の盃ヶ岳登山口の春日神社・浜谷池に向う車道脇の田圃側まで延び出してきた丘陵末端に半円形の鬱蒼とした森があり東の山側に赤い鳥居が見えます。稲荷社らしいが此方は某会社の敷地内にあり、
入って行けそうに思えたが私有地の様で、そのうえ藤井居館の所在は西浜谷となっているので場所違いだとの思い込みで前回は諦めたが他に居館跡と思(おぼ)しき場所は此処しかなさそうです(^^ゞ。
に入って行かれる…といっても 足元も見えない下草と藪を掻き分けて突っ切るが此処は空掘・行く手に4〜
6mの高い切岸が廻っているのが目に入ります。
は読み取れなかったが名号碑の中央下に藤井浄向信士・其の両側にも同族か 家臣の者と思われる数名の法名が記されています。
関連があるのかも知れない…?。南北に並ぶ「飛の山城・遊谷城・盃山城」の三城か・東西に「熊谷城・遊谷城・今福城」三城の守護神なのか?。
ユニとピア篠山」のサインボードを見て右折する。東西100ー150m・南北400m程の独立低丘陵上に大野城があり丘陵北端は貯水池に落ちる。その北側を流れる矢代川が「ユニトピア篠山」側から国松館の南面・大野城北端の貯水池の間と
を「ユニトピアささやま」へ向うのエコロジカル登山道を暫く進み急斜面の下りが続く下降点に 獣道のような細い道が分岐するのを見誤らなければ盃山城からの
尾根続き・西方の峰(356m)頂部に主郭を置く
大野地区に末端を落とす枝尾根に乗り356mピークに主郭の櫓台を置くのが矢代城。随分下ったなと思う頃やっと緩やかな尾根となり15m程の土橋を通って浅い堀切状の鞍部に着く。
ず此の斜面下に沿ってコの字状の土塁があり、谷沿いから鞍部に至る道を塞ぐように相対して同様の土塁が山側の斜面からも左右から迫り出し、通路を塞ぐようにS字状の狭い通路となっています。
跡とさえ感じさせる平坦地形が拡がる先には土塁で挟まれた空掘があり、直ぐ前で鹿避けフエンスを出ると未舗装車道・貯水池があり田圃が続く集落を抜け大野城側の県道140号線に出る。
国松氏の事や城史については資料等未調査の為不詳。また主郭までの曲輪左右に竪堀・特に左(東南)斜面は3〜4本の畝状竪堀になっています。
は大野城から僅か200m程先には矢代城へ続く低丘陵があって尾根末端部には大堀切を挟んで南側に数段の平坦地・北の尾根に続く側にも
根上に
段曲輪を並べる国松館東砦があって共に尾根を伝って矢代城に通じます。国松館守護と矢代城の出城・砦としても機能していたものでしょう!!?。
付近南の二本の竪堀が特に深く長く大きく思えます。また3-4段続く切岸高い曲輪の下には浅い堀切があり、此の堀切の西側から南下への竪堀も急斜面上に長く落ち込んでいる。此の南尾根部は国松館へ延びる西尾根の
下っており、東端鞍部から の道とも繋がっているのでしょう?。縄張り図によると盃ヶ岳主尾根から外れて 南に派生する尾根の最高所にある本ノ丸を主軸にして西方と南方に分かれる530mX200mの城域の尾根上に大小様々な曲輪
・帯曲輪を繋げて構成され、
本は特異な??構造になっているようです。先の谷筋道に対する警護と国松館から続く尾根筋からの攻めに備えたものでしょう!。
丹波の山城では見ることも少ない!?石積遺構らしいものがある。
地が続く。此処に尾根に併走するように畝状竪堀が走っていたのだがアレッ!?と思いながらも見慣れない素人の悲しさで・そのまま駆け下り 雑木の藪を抜け堀切に出た。
方の峰(356m)頂部に主郭を置く矢代城が在る。矢代城主郭(東郭)から南へ延び出す尾根先が二股の分かれる尾根の西側先端部には
平志城があるので後述する…が矢代城の縄張りが西へ城域を延ばす尾根筋西郭にも畝状竪堀があり、
東隣の丘陵にも「平志城」の存在を確認した。平志城の存在と「国松居館」(敷地内は国松家後裔にあたる方々の一般住宅地)なので五輪塔群や地神を祀る祠等はあるが居館遺構はない?ので避け、
形壇があり今は地神さんを祀るものか? 祠が建つ。南方直前:約200mには池挟んで矢代城や盃山城の向城と推察される大野城とは対峙する。県道沿いに余りに近く前は国松館の街道監視の砦だったと思える。
間の谷筋は濠状の溝が続き田圃一枚ずつも曲輪・屋敷跡に見える。 もっとも鹿猪避けフエンス先の藪中の方がズッと屋敷跡に見えるが!!。
回訪れた際は取り外されていたが「丹波八上城攻め」では八上城周辺の支城を順次落としてゆく明智軍の前哨戦によって
落城した城主:国松氏一族の菩提を祀ったものでしょうか。
ス内の屋敷跡と思える段曲輪状の平坦地へ、また山腹を直進する通路状は途中途切れながらも帯曲輪?(犬走りか?)に繋がる。
城と対峙していることを付け加えると大野城が矢代城向城となった時には将兵は既に矢代城や更に尾根北奥地の盃山城に籠城し、国松氏居館や城砦は空だったのかも知れない。
対馬が屋敷を構え波多野氏に仕え、明智光秀の丹波攻めに抗したが波多野氏は滅亡、没落後は此処に帰農したといわれる国松氏の居館と”詰め城”をセットにした典型的な山城は
る。
東西100ー150m・南北400m程の此の独立低丘陵上に大野城があり丘陵北端が貯水池に落ちる。分岐から80m程・春日神社上:の比高僅か35m程の独立したほぼ台形低丘陵の尾根上には古墳の墳丘を思わせるマウンド状の台地があり、
野・口坂本の豪族宇治谷右衛門が崇敬する
社を此処に勧請して創設したといわれ…嘉永7年(1854)本殿を改築して明治6年(1873)村社に列せられています。
ニトピアささやま」への分岐から矢代谷に入って直ぐのところに春日神社があり、此の丘陵の神社境内を含めた杜の一帯が大野城で大歳神社の東上辺りが
と思えるが反対の矢代城に向って北方に段曲輪が集中しており防備施設の堀切や土塁も低く浅い。切岸もさして高くなく態勢は弱い!!。矢代城の向城として考えたほうが良いのかも?。|
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