| 丹波富士と山岳寺院跡と酒井党の山城松尾山(高仙寺山)~白髪山 |
の県道36号で行なわれていた送電線工事の次は此方へも伸びて来るのか?途中森林工事用と思えない広い道が出来ている。
れば直ぐに露岩が目立ち…展望岩場に立つも良し。リッジ通し岩尾根も愉しいが後の行程が長いので一般道を下る。ゴウロの谷筋で山道が谷向かいへ続き、谷を降る道は丹波富士・白髪岳(丹南町の最高峰)から東に延びる尾根に並び立つ松尾山(高仙寺山)の南側中腹には大化元年(645)法道仙人開基を伝え最盛期の鎌倉時代には七堂伽藍や26もの僧坊が建っていた高仙寺跡があって肩越えの辻への分岐の広い削平地は阿弥陀堂跡で3基の石仏があり段下の平坦地には本堂跡に愛宕堂が建てられ鐘楼・不動堂・宝 蔵等の跡や
法道仙人供養塔が残っています。
高仙寺跡の無縫塔(卵塔群)
大正10年(1921)まであった高仙寺本堂跡から松尾山へのコースを西へしばらく進むと
大小様々な40数基の僧侶の墓碑【卵塔(無縫塔)】群が西を向いて並んでいる。平安遷都をされた桓武天皇の修理改築の勅令により 伝教大師(天台宗宗祖)が比叡山より御来錫され松尾寺として再建復興以来国家の勅願寺となった。鎌倉時代には栂尾の明恵上人によりもたらされ
高貴薬として珍重された中国茶は金山茶とも称された丹波茶の始まりです。宇治茶に押されて名前の存在感は薄いが母子(もうし)茶と
ともに
松尾山の北側にある味間地区は丹波霧が育てる丹波茶の里です。 南北朝期には比叡山天台座主:大塔宮護良親王は北条追討を当山に下され、地方豪族酒井氏と共に
高仙寺城(2024)![]()
大義名分のため南朝に参じて勤皇の誠を尽くした。此処より尾根通しの急登が始まりますが途中:一枚岩の巨岩仙ノ岩
(仙人岩)からは岩盤上からの展望が楽しめる。此処も高仙寺城城塞群の一砦跡だが遺構の見分けが出来ず確認出来なかった。コース途中にある千年杉(樹齢500年程?)を見て鞍部から」尾根上に
数段の曲輪を観て顕著な最後 2m程の段差を越すと高仙寺城(松尾山城・酒井氏城)広い削平地に着く。
高仙寺城本郭西側一段下の帯曲輪
酒井党は鎌倉殿御家人(関東御家人)で承久の乱(1221)の軍功に相模国(神奈川県)大住郡?の豪族:酒井兵衛次郎政親が多紀郡の酒井郷「主殿(とのも)保・犬甘(いぬかい)保・油井保等」の地頭職を得て来住したのが始まりといわれ始祖:政親の子孝信
の弟政重が油井酒井氏の祖とされ油井酒井党はじめ各所領内の栗栖野・波賀野・初田・当野・南矢代・大沢…等に酒井一族が独自の城を持って拠っている。
高仙寺山城中郭:「仙ノ岩」傍まで延びる
曲輪の石垣![]()
戦国時代天正期には八上城:波多野氏に属し明智光秀の丹波攻に抗し旗頭の一人として油井城の他:栗栖野城に酒井政信・波賀野城を矢代酒井党の三郎四郎氏吉一族(弟の右衛門兵衛)に築かせて守らせた。
酒井4家(栗栖野・当野・矢代・油井)共通の氏寺が 高仙寺だが永禄年代(1558-70)末期には更に高く険しい松尾山頂にも高仙寺城を築いて南矢代の酒井金吾に守らせ
松尾山城中郭:仙ノ岩傍の石垣
南矢代城主酒井主人介氏治や大沢城酒井勘四郎も天正6年5月大山城(中澤重基か最後の城主不詳)を救援の途中で矢を受けて落命したと伝えられ氏治の墓碑は無縫塔群の遺る高仙寺跡の隅に祀られている。 氏治は新田氏一族の大舘氏義の末孫で
波多野七頭の一人・左近将監氏忠が拠ったとの記述もあるが…?!広い腰曲輪を持つ
高仙寺城本郭東側は崩れているが石積らしい跡が見られる![]()
山頂部から
仙の岩付近や其の南下部へと南尾根上の三箇所に数段の曲輪等:城砦遺構が観られる。波賀野城・南矢代城・大沢城等の酒井三家が独自の城を持っていたとも考えられ油井城と共に酒井党が拠り
八上城を護る最南端の城・松尾山城は酒井党一族最後の詰城ともなった。高仙寺山城(松尾山城
・酒井氏城)は山頂部に広い帯曲輪・腰曲輪を持ち土留め石列・石積みを多様する曲輪も多い。城域の北端に千年杉・南端の腰曲輪にも千ノ岩のある中郭部・更に南尾根を下った南郭へと
高仙寺山城主郭:東北下段曲輪の土留石列
虎口・竪堀・石垣を積み防禦補強し、城域の尾根筋三カ所に数段の曲輪群で構成される。松尾山も”丹波攻め”で全山焼失したが秀吉が天下を平定後この戦禍災厄のつぐないに朱印状を下され宝永3年(1706)に再建され次第に僧坊建ち並び高仙寺は天台中本山として 丹波有数の寺として復興したが明治維新の廃仏令により衰減荒廃するが大正10年(1921)現在の地(R176号沿い)に改修築されて移されました。
=============================================================================
【文保寺】
白髪岳~松尾山登山はJR古市駅側の住山からのルートが知られるが北側の味間側から古刹:松尾山文保寺(天台宗:本尊に聖観世音・千手観世音両観音菩薩
)からのコースもあり仙の岩等の岩場・岩尾根を辿る白髪岳や松尾山を回峰する。
文保寺本堂
北の登山口:文保寺と其の開山:法道仙人
(空鉢仙人とも)は播磨の多い伝説から役行者と同一視されているが丹波修験の道場として拓かれていたのかも…。文保寺は大化年間(645-650)印度より来朝の法道仙人が聖備山長流寺を開創し七堂伽藍を造営し聖観音(法道仙人開基の寺なので本尊は十一面観音と思うが)を本尊とされたが
承平・天慶(931-47)頃の兵乱に荒廃した。鎌倉時代後期の花山天皇の御代:正和年間(1312-17)御本尊に慈覚大師の
文保寺本堂・正面扉の透彫り
![]()
千手観音を安置再興され文保年間(1317-19)京都宝鏡寺門跡(人形寺で知られる)一品親王より寺号「文保寺」直筆の勅額を賜り山号「松尾山(聖備山の読替え?)寺号は年号から
文保寺と改められた。戦国時代:天正の乱でも焼失し再び荒廃していたが江戸時代に再興されています。全盛期には21ヶ坊を数える大寺院となっていたが明治以降の塔頭寺院には真如院・
大勝院・観明院の三ヶ院を残すのみとなっています。寺に入るのに先ずは石の鳥居を抜けて山手に向います。
文保寺本堂と法道仙人供養塔
境内に味間地区の総社か?二村神社があり波多野氏の勅願所として加護を受けた。先ず目を引く堂々の大きな構えの山門の文保寺楼門は市指定文化財(昭和47年4月24日)で鎌倉の建長寺を模したと伝えられ天正の乱で焼失・天正末期に再建された。大正14年に下層部が解体修理された銅板
葺き入母屋造り:三間一戸の楼門で肘木に唐模形式が見られるが全体は和様を基調としており上層部に再建時の部材がみられ彩色されていた
形跡があるという。
二村神社![]()
室町時代末期の 構造的風格があり、篠山市内の楼門建築中でも最も古制の遺存した建造物とされます。此処に公孫樹の大木があり銀杏の実を拾うのに夢中になってしまうが…山門(楼門)同様、威風堂々と静寂の中に建つ本堂も立派です。本堂の正面扉を飾る欄間の透かし彫りの中国故事に由来する物語には一話一話に興味が湧いてきますね。
現地文保寺略縁起案内板 篠山市教育委員会 等を参照)