| 蛇山(岩尾城)~大谷/岩尾城~人間地獄 |
タヌキ・猪・鹿・兎と随分色々な動物に出会う!が此処では 初めて狐に出会う。面食らっているのか余り驚いたそぶりを見せず消えていく。尾根に出ると正面に南曲輪説明板が立つ。
を抱えた良い山で、途中で出会う大きな露岩の連なりを乗越すが岩上の展望は良い。山頂直下にも急な階段状の岩場が続くところはあるが此処は左の林間の
ける。展望は石金山や行者-三組尾・広い二ノ丸ベンチ付近からは大岩山の岩場も見える。
纂された郷土史の元祖)にも記される下知丸殿・続く南曲輪に着く。
説明板の正面踏み跡は前回和田小学校からの道。
左岸:和田小学校背山の山頂部に築かれ天守台を持つ総石垣造りの城郭と城址から望む展望が素晴らしいく山麓の薬草薬樹公園が(2000.05月)リニューアルし薬草風呂もオープンした。
綱より4代目の谷出羽守兵部介頼衛(よりひら)に子なく永正元年(1504)信州南和田から頼衡を頼って寄食していた文武ともに優れた和田日向守齋頼(ひとより)を
名付け城下町を形成。天文17年(1548)斉頼は病死・後を継いだ作右衛門尉師季(もろすえ)が最後の城主。天正3年(1575)明智光秀軍の激しい丹波攻略戦が始まると黒井城主荻野直政に付き丹波防衛の第一線として
構で土塁・堀切・主郭部には石垣が築かれ
小振りながら総石垣の天守台もある。和田小学校裏から南曲輪を経て下知殿丸に辿るのが近道だが稲荷神社から達磨岩又は親縁寺の近くに城主下屋敷があり達磨岩を経て岩尾城へ向う大手道もある。和田日向守が菩提寺として建てた石蓮寺は
天正7年(1579)明智丹波攻めに岩尾城ともに焼失したが秀吉の家臣木戸十乗坊(佐野下総守)が天正14年岩尾城主として此処に移り実弟の信窮(候誉上人)を開山にして石蓮寺を再興し親縁寺とした。徳川時代中
地点の大土塁も岩尾城古城側は石積になっています。また古城から西へ延びる尾根上には土塁を挟んで堀切があり、更に降っていくと篠山の金山と同レベルの
安3年(1650)織田家廃絶後・天領と小掘家・杉浦家など諸家の所領となり郡奉行が和田代官所に置かれ鶴牧藩水野家【天和2年(1682)信濃国(長野)で5,000石・丹波国で2,000石を領し後・享保20年(1735)には丹波国で加増され
堂が本殿真向かいにあり衰退していた能楽も平成14年5月約150年ぶりに復活。丹波猿楽は岩尾城主佐野下総守から鶴牧藩主へと替わっても代々世襲され、
狭宮神社は鶴牧藩主の直願社ともなり、