日本最古の官道と万葉の山 竹内峠〜二上山〜大ジョウゴ山 〜屯鶴峰 |
二上山の山城としては雄岳山頂の二上山城、
岩屋峠と竹内峠の途中には万歳山城があります。それに北の穴虫峠側の独立山塊・ダイジョウゴウ(大ジョウゴ山)の頂上部一帯にも削平地や空掘の遺構を残す岡城址があります。 香芝市畑から二上山への登山口(大和高田バイパスを跨ぐ陸橋上
)に畑配水所があり、 此処からも辿れますが、新池上部の巡視路から直接尾根伝いに最高所の西側の曲輪(201m)に達する踏み跡があります。小さな2段程の曲輪の先に二本の堀切があって西の曲輪側は一段と深く曲輪へも急斜です。
藪で隠れていますが堀切側は少し高く感じ、土塁で囲ってあるようです。踏み跡は北側に下っていて東曲輪跡が顕著に確認できますが、
平凡な下降道なので引き返し、数m藪を抜けると東下と東正面に削平地かあり、東の曲輪下に穴があり、雑木を取除くと大きな井戸跡が現われます。
大きな井戸跡は山名:ダイジョウゴの起因かも!!
水が漏ってはこまりますが、大ジョウゴの名の起因かもしれません。岡城(畑城)は穴虫越(大坂越)で大和と河内を東西に結ぶ交通の要地にあり、
岡氏が支配する所領(岡荘)は勿論、奈良盆地全域が一望出来る立地に有って、大和一円の武士団と狼煙で連絡しあっていたのでしょうか。南北朝期・北朝方にあった岡氏一族の城跡だと伝える砦です。南北朝が統合され室町幕府の権威が確立した応永
21年(1414)岡氏は興福寺の国民(春日社の被官)として南都に招集された記録があって、興福寺の平田荘は、高田・布施・万歳・岡など在地の八荘官によって分割支配されるようになり、
香芝市の五位堂・鎌田地域には万歳氏が支配、畑・穴虫・逢坂・狐井などは此処・畑城を本拠に一乗院系の岡氏が支配していた。
畠山持国に実施が無く甥の政長を養子にしていたが、実子・義就に家督相続させようとした為に起きた畠山氏の内紛を二上山山頂に眠る大津皇子は、どのように感じているでしょう。
主要な郭間に二つの堀切が有り東郭側の堀切は深い
応仁の乱(応仁元年・1467)のきっかけとなった文正の乱(文正元年・1466)は、
政長に京都を追われた義就が山名宗全に迎えられた事で、翌年・政長討伐の兵を挙げたのが発端となっています。この戦いでは大和南部の越智氏・万歳氏と共に畠山義就方に加わり、畠山政長方の筒井・箸尾・高田氏などと対立している。
ところがかつての盟友・岡氏と万歳氏の間にも、延徳2年(1490)用水を巡る紛争が起き、岡氏は高田・箸尾・越智などの合力によって万歳氏に圧勝しています。 永禄3年(1560)頃は岡因幡守・岡周防守一族は、高田氏らと共に細川氏の重臣
:三好長慶の家臣松永久秀に組して、万歳・箸尾・片岡氏らの筒井方に対抗し、その後元亀2年(1571)松永方の大敗後も松永方を離れていません。ところが天正元年(1573)織田信長に抵抗した久秀は破れ再び筒井方に支配され、
天正5年(1577)久秀滅亡時、共に没落して城主・岡彌三郎が自害して畑城の歴史は幕を閉じます。
二上山城
二上山 517m 北葛城郡当麻町加守・染野
二上山城址は二上山雄岳の山頂に自然地形を利用して造られ、 眼下に河内と大和を結ぶ穴虫峠・岩屋峠・竹内峠など交通の要衝にあります。二上神社が本郭跡、二の丸に相当する下段の曲輪の東端には大津皇子の墓があります。東と 西に5〜7段の曲輪・515ピーク西に空掘・土塁跡を残しているが
山頂部は公園化され遺構も曖昧になって、わからなくなっています。
葛木座二上山神社(本丸)
西北尾根上には銀峰から烏岳か畑の新池へ登山道が続いているようですが、曲輪と確認出来る削平棚が続き、藪中に矢竹が繁茂している削平地も見かけます。室町時代初期・河内守護畠山氏が高屋城(羽曳野市)を築いた時、
支城として設けたのが始まりとされています。 明応8年(1499)には大和に入部した赤沢朝経が此処に一拠点を設けて畠山尚順及び此れに従う筒井・十市氏ら大和国衆を制圧しますが、
二上神社西1〜2段曲輪先にある空掘
永正4年(1507)6月細川政元政権の崩壊で
二上山城を逃れています。 天文10年(1541)8月木沢長政が二上山に築城した城址遺構はこの時のものとされますが翌年3月、長政の敗死により信貴山・二上山城は陥落しています。二上山の山続きでは、
北の穴虫峠を岡城が、南の竹内峠を万歳山城が押えています。
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大津皇子と二上山
壬申の乱天武元年(672)に天智天皇の子・大友皇子と
皇位継承を争って勝利した大海人皇子が翌年、飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となり、絶対的な権力をもって国政にあたり、天皇中心の律令政治体制を確立したといわれます。この 絶大な権力をもつ天皇位の継承を継ぐ立太子は、多くの皇子やその後援 者にとって重大な関心事でした。
なかでも天武天皇と天智天皇の皇女大田皇女の間に生まれた大津皇子は、天武天皇の後継者として、菟野皇后(後の持統天皇)との間に生まれた草壁皇子(共に異母兄弟)が有力候補でした。
二上神社・畑への東登山道
大田皇女は菟野皇后の実姉ですが、はやくに亡くなり壬申の乱後に天武天皇の皇后になっています。天武15年(朱鳥元年・686)に天武天皇が崩御されると、当然、皇太子である草壁皇子が皇位を継ぎ
天皇にあるはずだったのですが、天皇がいないまま2年3ヶ月に及ぶ空前の殯を行っています。
(この間、菟野皇后で草壁皇子の母・後の持統天皇が称制を行っています)大津皇子は朝政から排除され、突然謀反発覚の疑いで捕らえられ、僅か一ヵ月後には現在の桜井市池之内付近で処刑されています。
大津皇子墳墓のある二ノ丸
二上山雄岳山頂には、
大津皇子が葬られているという墓があり知られています。その真偽は別に、二上山山麓で発見された1300年前の 鳥谷口古墳が埋葬者が判明していないところから、大津皇子の墓ではないかともいわれています。
そして三年後には草壁皇子も皇太子のまま亡くなってしまいます。「うつそみ(現身・うつせみ)の 人なる吾や 明日よりは 二上山(ふたがみやま)
を 弟世(いろせ)と 吾が見む」二上山+大津皇子+万葉集では必ず!!引用される…伊勢の斎宮から都に召された姉大伯皇女の有名なうたで
【この世に残された私は、明日からは二上山を弟と思って眺めよう】と雌岳・雄岳を姉弟に例えたものです。
万歳山城 万歳山(380m) 北葛城郡当麻町当麻
二上山の南方には大和・河内の国境に竹内街道が通り、南尾根途中にある岩屋峠と南側の竹内峠の間か
ら二上山城とつながっている西北尾根に、 平田庄荘官で興福寺一乗院方国民・万歳氏の万歳山城址があり、
今も階段状に無数の 曲輪や空掘の遺構を残しています。 万歳(財)氏は平安時代後期からこの地に勢力を持つ豪族で、応仁の乱には越智方に属し文明7年 (1475)6月、筒井方に攻撃されたが城内から打って出て逆に大勝し、
斜面に続く多くの削平地は切岸もなく軍兵の居住区か!!
筒井順尊は河内に逃れ明応7年(1498)迄、越智・古市方が大和を制圧した等々、室町期〜戦国期の資料に登場するのは万歳平城(大和高田市市場
)で、その詰城として万歳(財)氏の万歳山城が築かれます。
小さいながら無数の曲輪が段上に重なっており、大軍を駐屯させる居住区を構成していたようです。今回は竹内峠の「鶯の関跡」から谷をはさんで、
もう少し南から強行登坂を敢行する。
城域は抜けてしまったらしい? 372mピーク辺り!から>二上山
尾根に出たものの谷間に入り込み難儀しました。なんとか最高所にたどり着き、谷を利用した大空堀(だと思う)の向こうに、二上山の雌岳と雄岳を望み写真を一枚。
主郭を探索するも灌木とブッシュ、おまけに茨の洗礼を受け?。東に回り込み下山するも車に戻るのにヒィヒィ!。下山途中の尾根に切岸を持った数段の削平地があり、いかにもそれらしいが不明。
やはり竹内峠から岩屋に向かうハイキング道から東に攻めていくのが最良なのかと思う。
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