日本最古の官道と万葉の山 竹内峠〜二上山〜大ジョウゴ山 〜屯鶴峰
大阪・金剛生駒  (五万図=大坂東南部)
二上山〜大ジョウゴ山(岡城)〜屯鶴峰〜二上山〜当麻寺 2003.01.25
関西百名山 No56 近畿百名山 No67二上山 517m
近畿の山城
: 二上山山城 岡城(畑城)  万歳山城
太陽の道展望台二上山雌岳からの雄岳

校歌・故郷の山
 上牧高等学校
♪二夕上の嶺 霞たち……♪
 :當麻小学校
♪二上山を仰ぎ見て…♪
 香芝西中学校
♪美しきあめのふたかみ・・♪
 香芝市歌 
♪夕映えの空 二上の雄姿うかべて…♪
(羽曳野市)高鷲南中学校 ♪ひかりに映ゆる二上の…♪
 西浦東小学校 ♪二上山に昇る陽を 仰ぎて今日も…♪

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大阪府と奈良県境界尾根に峰を連ねて 二上山〜大和葛城山〜金剛山〜岩湧山へと続く約46kmのダイヤモンドトレールの北の起点が二上山への登山口でもある穴虫峠です。ダイトレの番外ルートですが此処へ来れば折角ですので、奇岩・奇景の拡がる屯鶴峰に寄ってから二上山を目指す事にします。旧ダイトレが此処・屯鶴峰への参道のような入口と国道165号線を挟んだ向かいから 谷筋に延びていましたが 今は採石場へのトラッ ク道で入山禁止になり、峠から西の太子町側へ下った処から始まります。
「万葉の森」登山口竹内峠

マイカー登山でダイトレのコースを歩くのは一部を除いて 周回ルート選択が難しいので、今回は二上山を主に南北の峠【竹内峠・穴虫峠】と山城 【二上山城・岡城(畑城)・万歳山城】を繋げて日本最古の官道(国道)と歴史とロマンと奇勝を訪ねる 盛り沢山なコースです。太古から連綿として続く歴史の道は二上山の三つの石:サヌカイト (縄文時代ヤリ・オノ・ヤジリなどの石器材料 )/凝灰岩(古墳時代の石室や石棺)/金剛砂(ザクロ石を研磨用にした香芝市の地場産業)。貴志駅から 32号線を走れば聖徳太子母子が眠る廟のある叡福寺前を通り、 近くの小野妹子や推古天皇陵の案内標を見ながら六枚橋交差点を右折して(直進すれば太子温泉へ)竹内峠に向かいます。
穴虫峠ダイヤモンドトレール起点

古代文化の花開くこの道は日本最古の官道・竹内街道です。 奈良県側に下れば「中将姫伝説の二上山・当麻寺」があり、目指す二上山山頂にも悲運な大津皇子の墓と伝えられる陵があります。天皇家の後継者争いによる大津皇子の悲劇と共に、 武士の世界でも養子・実子の家督争いがあり、河内・大和に影響力の大きな畠山氏の内紛「応仁の乱」まで近畿の山城編に追加します。登山口「万葉の森」からは日本最古の十三塔が残る鹿谷寺跡、 コースを変えれば石窟寺院の岩屋と、登山以外にも古代の奈良の歴史散歩が楽しめる二上山周辺ではあります。



二上山〜ジョウゴ山(畑城)〜屯鶴峰〜二上山〜当麻寺  H15..01.25

何度か訪れた聖徳太子所縁の叡福寺(新西国札所・客番、向かいの西方院は新西国8番) 門前から六枚橋交差点に出て竹内街道を東に向います。道の駅を過ぎ竹内峠手前600mのレストラン前にある二上山登山口「万葉の森」駐車場に着きます(AM8:20)。 此処から二上山への2コース(岩屋道・鹿谷寺跡)と、竹内峠からのダイトレコースは登山道と道標が整備されています。
鹿谷寺跡(最古の十三塔と後方に石窟寺院岩屋)

近畿百名山・関西百名山で知られ 数多くガイドブックにも紹介されコース案内は不要ですが、私も懐かしい思いで、気侭に二上山周辺を山城含めて彷徨しましたのでコースのみ紹介しておきます。 鹿谷寺跡(AM8:28)〜雌岳(展望台AM8:50)〜雄岳(大津皇子の墓am9:10)〜二上神社分岐(AM9:25)〜畑の新池〜岡城(畑城AM9:45)〜大高バイパス沿い巡視路〜穴虫峠(屯鶴峰AM10:40)〜馬の背(PM12:05)〜岩屋 (PM12:40)〜藪尾根(万歳山城を目指すが尾根上の郭 ・堀切等の明確な遺構を確認出来ないまま !!?)〜当麻寺A沢を下って当麻寺奥の院(PM2:10)〜竹内峠(PM3:15)倒木と棘の蔓や木が多い藪道に遮られての万歳山城遺構探しに時間を費やし、竹内街道(166号線)へ出るべき尾根筋に 踏跡すら無くその上倒木夥しく、
屯鶴峰から望む二上山


至る所に棘の蔓・木が多い藪のトレースを敬遠します。この城を峠から攻めた八尾の"山城甚伍"さんの敗退を教訓に?!!、私は尾根筋から攻めてみたが、風化して崩れたか??雑木藪の中では郭 ・堀切の見分けもつかず、曲輪群らしい箇所を見かけただけで敗退です。…何時の間にか少しずつコースを外れ、尾根上に切れ切れに残る国土調査のピンク布を辿って進むうち、腐った倒木で埋まる谷筋へ下り林道に出たところが当麻寺A沢。奥ノ院とグラウンドの間道より当麻寺黒門を経て 参詣者の途絶えた門前町を抜けると、またまた長い(3km近い)車道歩きで竹内峠に戻ります。
穴虫峠・緑の鉄塔付近からの二上山

二上山: 幾つもの登山コースは何れも踏み跡確かな人気コースで一時間もかければ山頂ですので、登山以外・山麓周辺の歴史散歩も楽しみたいエリアです。二上火山群の主峰・二上山は雄岳(北峰)と雌岳(雌岳)からなるトロイデ火山であり、この説明は売店のある馬の背の祐泉寺下降点の案内板に詳しく!!書かれています。
雌岳途中から岩橋山へ府県境の山並み

二上山から産出されるサヌカイト (讃岐岩)や金剛砂(石榴石)・凝灰岩は屯鶴峰を訪ねれば一目瞭然の三つの石については、香芝市の二上山博物館のメインテーマとして常設展示され開設されていますので、登山後に寄ってみるのも良いですね。二上山は古来より河内や大和からの山容や山頂からの眺望良く、山岳信仰や雨乞いの山として、 また万葉集にも詠われています。山麓には数多くの古墳群があり、古代から開けた土地であることは、 三つの石や竹内街道・大和と河内の国境の交通の要衝であること等々で、重複しますので割愛します。
岩屋の千年杉(平成年の台風で倒れた)

竹内街道:竹内峠は大和と河内の国境にあり、此処を通る竹内街道は飛鳥時代・丹比道(たじひみち)と呼ばれ「日本書記」にも記されている古道で、 推古天皇21年(613)以前からあり、難波宮〜河内〜當麻町竹之内の集落を抜けて飛鳥京を結ぶ我が国最古の官道(国道) として栄え大陸からの文物をもたらしています。
中世になると、さらに東へ延びて伊勢参りや長谷寺への参詣が盛んになり、峠の鴬の関には茶屋・旅籠が建ち、多くの文化人達の往来があり、貞亨5年(1688)松尾芭蕉が河内に向かい、幕末の嘉永6年(1853)には吉田松陰が越え、 文久3年(1863)には天誅組(中山忠光等七名)が志果たせぬままここに逃走しています。峠の東北にある万歳山城や雄岳山頂の 二上山城など中世の城塁跡は此処を拠点に河内や大和の武士が活躍した交通の要衝でもある歴史街道です。 岩屋峠の石窟寺院跡と千年杉:「万葉の森」登山口から道標に沿って直進するコースは岩屋峠に出て祐泉寺・当麻寺へ通じ、祐泉寺からは二上山鞍部「馬の背」へハイキング道が通じています。
石窟寺院跡の石塔

尾根上は府県境界で二上山と竹内峠を繋いでいます。この峠の側には奈良時代の石窟寺院跡の岩屋があり、 凝灰岩の岩窟には中央部に三重の石塔を残して、北壁に三体の仏像がうき彫りされていますが寺の起源等、歴史は不明です。その岩屋の前に杉の大木が横たわっています。以前には見かけなかった
(H7.11)が雌岳中腹にあって岩屋杉と呼ばれていた根周り8mの大木は、その名・岩屋の千年杉として此処に有ります。(平成10年の台風で倒れた)
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屯鶴峰
ダイヤモンドトレイル北の起点・屯鶴峰は国道165号線(長尾街道 )で香芝市への分岐を太子町側へ採って穴虫峠へ向います。白い凝灰岩層が露出した景勝地で奈良県選定(昭和26年11月1日指定)の天然記念物となっています。
屯鶴峰(165号線の田尻峠、関屋方面)


穴虫峠から向うと屯鶴峰の上方に出るため、突然拡がる奇勝に初めて訪れた人には驚きと感動もので、ちょっとした岩峰歩きが楽しめる。どんづる(屯鶴)峰は、瀝青岩の噴出をもって始まった二上山の火山岩屑が水底に沈積して凝灰岩層となり、その隆起と風化水触により奇岩 ・奇勝が露呈しています。
凝灰岩層の傾斜は、その下部では走向ほぼ北東を示し、北西に50度の傾斜をなしています。凝灰岩の層理が非常に正しく、あたかも大畳を斜めに数限りなく重ねたような景観が 更に風化水触により峡谷が刻まれ、また直立した谷壁の地肌には地層の切口が小波のように美しい襞を現し、学術上貴重な資料であるばかりでなく、 周囲は樹木に覆われた山々に囲まれて特異な別天地を感じさせ、奇勝の名に相応しいところです。
(奈良県教育委員会 平成元年・説明板より)



岡城(畑城)  大ジョウゴ山 201m   奈良・北葛城郡香芝町字畑

二上山の山城としては雄岳山頂の二上山城、 岩屋峠と竹内峠の途中には万歳山城があります。それに北の穴虫峠側の独立山塊・ダイジョウゴウ(大ジョウゴ山)の頂上部一帯にも削平地や空掘の遺構を残す岡城址があります。 香芝市畑から二上山への登山口(大和高田バイパスを跨ぐ陸橋上 )に畑配水所があり、 此処からも辿れますが、新池上部の巡視路から直接尾根伝いに最高所の西側の曲輪(201m)に達する踏み跡があります。小さな2段程の曲輪の先に二本の堀切があって西の曲輪側は一段と深く曲輪へも急斜です。 藪で隠れていますが堀切側は少し高く感じ、土塁で囲ってあるようです。踏み跡は北側に下っていて東曲輪跡が顕著に確認できますが、 平凡な下降道なので引き返し、数m藪を抜けると東下と東正面に削平地かあり、東の曲輪下に穴があり、雑木を取除くと大きな井戸跡が現われます。
大きな井戸跡は山名:ダイジョウゴの起因かも!!

水が漏ってはこまりますが、大ジョウゴの名の起因かもしれません。岡城(畑城)は穴虫越(大坂越)で大和と河内を東西に結ぶ交通の要地にあり、 岡氏が支配する所領(岡荘)は勿論、奈良盆地全域が一望出来る立地に有って、大和一円の武士団と狼煙で連絡しあっていたのでしょうか。南北朝期・北朝方にあった岡氏一族の城跡だと伝える砦です。南北朝が統合され室町幕府の権威が確立した応永 21年(1414)岡氏は興福寺の国民(春日社の被官)として南都に招集された記録があって、興福寺の平田荘は、高田・布施・万歳・岡など在地の八荘官によって分割支配されるようになり、 香芝市の五位堂・鎌田地域には万歳氏が支配、畑・穴虫・逢坂・狐井などは此処・畑城を本拠に一乗院系の岡氏が支配していた。 畠山持国に実施が無く甥の政長を養子にしていたが、実子・義就に家督相続させようとした為に起きた畠山氏の内紛を二上山山頂に眠る大津皇子は、どのように感じているでしょう。
主要な郭間に二つの堀切が有り東郭側の堀切は深い

応仁の乱(応仁元年・1467)のきっかけとなった文正の乱(文正元年・1466)は、 政長に京都を追われた義就が山名宗全に迎えられた事で、翌年・政長討伐の兵を挙げたのが発端となっています。この戦いでは大和南部の越智氏・万歳氏と共に畠山義就方に加わり、畠山政長方の筒井・箸尾・高田氏などと対立している。 ところがかつての盟友・岡氏と万歳氏の間にも、延徳2年(1490)用水を巡る紛争が起き、岡氏は高田・箸尾・越智などの合力によって万歳氏に圧勝しています。 永禄3年(1560)頃は岡因幡守・岡周防守一族は、高田氏らと共に細川氏の重臣 :三好長慶の家臣松永久秀に組して、万歳・箸尾・片岡氏らの筒井方に対抗し、その後元亀2年(1571)松永方の大敗後も松永方を離れていません。ところが天正元年(1573)織田信長に抵抗した久秀は破れ再び筒井方に支配され、 天正5年(1577)久秀滅亡時、共に没落して城主・岡彌三郎が自害して畑城の歴史は幕を閉じます。

二上山城     二上山 517m    北葛城郡当麻町加守・染野

二上山城址は二上山雄岳の山頂に自然地形を利用して造られ、 眼下に河内と大和を結ぶ穴虫峠・岩屋峠・竹内峠など交通の要衝にあります。二上神社が本郭跡、二の丸に相当する下段の曲輪の東端には大津皇子の墓があります。東と 西に5〜7段の曲輪・515ピーク西に空掘・土塁跡を残しているが 山頂部は公園化され遺構も曖昧になって、わからなくなっています。
葛木座二上山神社(本丸)

西北尾根上には銀峰から烏岳か畑の新池へ登山道が続いているようですが、曲輪と確認出来る削平棚が続き、藪中に矢竹が繁茂している削平地も見かけます。室町時代初期・河内守護畠山氏が高屋城(羽曳野市)を築いた時、 支城として設けたのが始まりとされています。 明応8年(1499)には大和に入部した赤沢朝経が此処に一拠点を設けて畠山尚順及び此れに従う筒井・十市氏ら大和国衆を制圧しますが、
二上神社西1〜2段曲輪先にある空掘

永正4年(1507)6月細川政元政権の崩壊で 二上山城を逃れています。 天文10年(1541)8月木沢長政が二上山に築城した城址遺構はこの時のものとされますが翌年3月、長政の敗死により信貴山・二上山城は陥落しています。二上山の山続きでは、 北の穴虫峠を岡城が、南の竹内峠を万歳山城が押えています。
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大津皇子と二上山
壬申の乱天武元年(672)に天智天皇の子・大友皇子と 皇位継承を争って勝利した大海人皇子が翌年、飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となり、絶対的な権力をもって国政にあたり、天皇中心の律令政治体制を確立したといわれます。この 絶大な権力をもつ天皇位の継承を継ぐ立太子は、多くの皇子やその後援 者にとって重大な関心事でした。 なかでも天武天皇と天智天皇の皇女大田皇女の間に生まれた大津皇子は、天武天皇の後継者として、菟野皇后(後の持統天皇)との間に生まれた草壁皇子(共に異母兄弟)が有力候補でした。
二上神社・畑への東登山道

大田皇女は菟野皇后の実姉ですが、はやくに亡くなり壬申の乱後に天武天皇の皇后になっています。天武15年(朱鳥元年・686)に天武天皇が崩御されると、当然、皇太子である草壁皇子が皇位を継ぎ 天皇にあるはずだったのですが、天皇がいないまま2年3ヶ月に及ぶ空前の殯を行っています。 (この間、菟野皇后で草壁皇子の母・後の持統天皇が称制を行っています)大津皇子は朝政から排除され、突然謀反発覚の疑いで捕らえられ、僅か一ヵ月後には現在の桜井市池之内付近で処刑されています。
大津皇子墳墓のある二ノ丸

二上山雄岳山頂には、 大津皇子が葬られているという墓があり知られています。その真偽は別に、二上山山麓で発見された1300年前の 鳥谷口古墳が埋葬者が判明していないところから、大津皇子の墓ではないかともいわれています。 そして三年後には草壁皇子も皇太子のまま亡くなってしまいます。
「うつそみ(現身・うつせみ)の 人なる吾や 明日よりは 二上山(ふたがみやま) を 弟世(いろせ)と 吾が見む」二上山+大津皇子+万葉集では必ず!!引用される…伊勢の斎宮から都に召された姉大伯皇女の有名なうたで 【この世に残された私は、明日からは二上山を弟と思って眺めよう】と雌岳・雄岳を姉弟に例えたものです。


万歳山城
  万歳山(380m)  北葛城郡当麻町当麻

二上山の南方には大和・河内の国境に竹内街道が通り、南尾根途中にある岩屋峠と南側の竹内峠の間か ら二上山城とつながっている西北尾根に、 平田庄荘官で興福寺一乗院方国民・万歳氏の万歳山城址があり、 今も階段状に無数の 曲輪や空掘の遺構を残しています。 万歳(財)氏は平安時代後期からこの地に勢力を持つ豪族で、応仁の乱には越智方に属し文明7年 (1475)6月、筒井方に攻撃されたが城内から打って出て逆に大勝し、
斜面に続く多くの削平地は切岸もなく軍兵の居住区か!!

筒井順尊は河内に逃れ明応7年(1498)迄、越智・古市方が大和を制圧した等々、室町期〜戦国期の資料に登場するのは万歳平城(大和高田市市場
)で、その詰城として万歳(財)氏の万歳山城が築かれます。
小さいながら無数の曲輪が段上に重なっており、大軍を駐屯させる居住区を構成していたようです。今回は竹内峠の「鶯の関跡」から谷をはさんで、 もう少し南から強行登坂を敢行する。
城域は抜けてしまったらしい? 372mピーク辺り!から>二上山

尾根に出たものの谷間に入り込み難儀しました。なんとか最高所にたどり着き、谷を利用した大空堀(だと思う)の向こうに、二上山の雌岳と雄岳を望み写真を一枚。 主郭を探索するも灌木とブッシュ、おまけに茨の洗礼を受け?。東に回り込み下山するも車に戻るのにヒィヒィ!。下山途中の尾根に切岸を持った数段の削平地があり、いかにもそれらしいが不明。 やはり竹内峠から岩屋に向かうハイキング道から東に攻めていくのが最良なのかと思う。

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