但馬の小京都 ・お家騒動の舞台出石の平城から山城へ 辰鼓楼(櫓)〜出石城〜有子山城
但馬 (五万図=出石)
辰鼓楼〜登城門〜出石城〜稲荷社〜有子山城(322m) 2001年05月18日
近畿の山城 : 有子山城 出石城 左京屋敷

出石のシンボル(辰鼓楼)と有子山

城下町出石は但馬の小京都とも呼ばれて出石そば・出石焼き・沢庵漬けの創案者で沢庵和尚所縁の宗鏡寺・そして出石城大手の内掘石垣に、日本最古の時計台辰鼓楼 (明治14年(1881)西洋医学を修めて出石に帰った医師・池口忠恕が寄贈して太鼓櫓台に掲げたもの、ほんとは辰鼓櫓と呼びたいところですが建物の使用目的が異なるので楼でよいのかも!)が一際目を引く 出石のシンボルで出石城の大手門の見張り櫓として、また藩士の登城時刻の辰の刻(午前8時)を知らせる太鼓を打ち鳴らした所です。今も往時の面影を残し四季折々に観光客が絶えることが無い。出石城の本丸付近は桜の名所でもあり、その時期が良いのか時期を外した間の時期が良いのかは気分次第!!!?? 観光案内所の駐車場を出石町役場前を通り出石城跡へ向かいます。歴史の城探訪なら直ぐ2km北の此隅山城が先なのだが都合で今回はパスしました。
出石町内 ・桂小五郎潜居跡

そして今回主役は出石城(平城)ではなく高城・山城の有子山城です。名物「出石蕎麦」は宝永3年 (1706)信州上田城から国替えで来住(移封)の時、仙石政明によって伝えられたといわれ出石焼きの小皿に盛られたそばは「三たて」(挽きたて・打ちたて・ゆがきたて)製法による素朴な風味で出石代表の味覚です。 宗鏡寺は、も一つの名物・沢庵漬けの発案者!沢庵和尚が荒廃した同寺を元和2年(1616)再興され沢庵寺とも呼ばれています。出石城代々の菩提寺となり庭園は県指定文化財となっています。 出石神社近くの山城の一角に宗鏡寺跡があり此処は山名氏の居城・此隅山城が有ったところですが、落城後の新たな拠点としての有子山城を築城の折に寺も此方へ越していた思えますが詳細を 郷土史で確かめたいところです。



辰鼓楼(櫓)〜登城門〜出石城〜稲荷社〜有子山城    2001年05月18日

但馬・日和山温泉への小旅行途中に和田山から出石に立ち寄り、家族が市内観光・食事中に有子山城を往復山登山。観光センタや辰鼓楼近くの市営駐車場から出石城への登城橋 ・登城門を渡ります。かって出石城には七つの門が有ったが明治維新の際、取り壊されましたがH6.11月に欅造りの登城門の一つと登城橋が完成しています。
出石町・観光道路を外れると酒蔵倉庫群

しかし大手道は此処・直ぐ横の役場向かいからの赤い橋を渡り 直上して出石稲荷社への赤い鳥居の続く道です。一般観光客に混じって二の丸から本丸経由で辿ります。 本丸の稲荷社参道よりの庭園跡? 稲荷曲輪の石積みの下にはシャガが今を盛りと咲き誇っていました。 参道に続く鳥居が途切れると手水台があり左上に貯水設備が、右手は稲荷社を祀る稲荷曲輪に出る。 貯水施設上に荒れた城山展望台があるが 此隅山の稜線一部が見えるだけですので、此処稲荷曲輪での展望を楽しんでから急な尾根の登山ルートを山上に向かいます。
対面所のある三の丸土塁の端に建つ辰鼓櫓

この尾根筋には小さな曲輪が数段続きますが、殆ど登山ルートにかき消され 曲輪の面影なく竪堀や途中には土橋のある顕著な掘割を通ります。掘割の前後に一体は丁石を記した小さな石仏が前後に二体あります。(AM11:45)正規の登城ルートは城門(木戸)のない曲輪の尾根ではなく別に (谷沿いに)あるようです。井戸址(天命泉)の横から本丸下を回りこむように広い道が続きますので 其れに沿ってすすみ山頂の大規模な石積みの遺構の前に着きます。石積みの曲輪から右手の広い道は本丸の下を通って広い堀切に出るますが、なんとこんなところまで堀切を車道にして林道が登りつめてきています。主郭から堀切の林道を挟んで千畳敷と呼ばれる広大な曲輪がありますが今回はパスします。堀切から主郭(本丸 )へはロープを伝って山上に上りつきます。
出石城三の丸の西門跡 (長屋門の西隅角

左よりにはすぐ石の階段址を本丸へ登り着くと、そこは辰鼓楼付近から見えていた石積みの本丸跡で 有子山山頂(322m)です。何も無い草の原に利用価値も 半減の屋根付きベンチなし展望台がポツンと有るだけです。(PM12:00)出石神話の世界の出石乙女から名付けられている出石温泉・乙女の湯は下に添付の写真でも目立つ広い一角にあり、また広大な此隅山城の一角へも突き刺さるように真っ直ぐな道が伸びています。この城は但馬最大規模の山名氏の居城です。次の機会には出石神社付近から主郭へ登ってみたいものです。元きた道を出石城へ下ります(PM12:30)が 経王寺〜出石高校への散策道を辿ってみます。経王寺にも隅櫓のような鐘楼があり真新しいので観光地の嫌な一面を見るような感じですが、れっきとしたかつて辰鼓楼や経王寺、見性寺には物見台として利用されていたいたところです。
出石城二の丸から本丸石垣

出石城から経王寺へは途中谷山川トンネル放水路の 長いトンネル前の橋を渡ります。周辺は伊木の水公園として整備されています。経王寺前の橋を渡れば車道を隔てて出石高校前に出ます。待ち合わせの辰鼓楼へは明治館〜土壁の酒蔵を経て帰り着きます。 観光コースだったら沢庵和尚の宗鏡寺や桂小五郎潜居跡(後の政治家:木戸孝允で、幕府の追及を逃れて出石に潜入し、町人:広戸甚助や塩屋重兵衛を頼り昌念寺等を転々として機を待ったという 上記プロローグに写真添付)、出石の皿蕎麦と蕎麦饅頭でも土産に買って、当然仕上げは出石温泉・乙女の湯に寄りR312号から 9号線に出て帰る事になるのでしょうか。

家老屋敷と三の丸西門跡  豊岡市出石町内町

観光バスの駐車場からだと 西ノ曲輪の西側石垣沿いに大手橋から ”三の丸 〜大手門を辰鼓楼”へと観光客はメインルートを流れていきます。自家用車の駐車場や土産物屋が並ぶ三の丸の武家屋敷群跡地に有っても、大手の通りを挟んだ向の市役所”対面所”に土塁が残っている事にも余り関心は無さそうな多くの観光客の足は、明治の建造物(時計台 ):出石のランドマークタワーで櫓台の意識も皆無の辰鼓楼に向かう様。駐車場の西に建つ家老屋敷と白い土塀の長屋門には、
家老屋敷の長屋門


市内散策の後・此処に戻ってくるときに気付いて足を止める人が居る程度かな!辰鼓楼側に架かる橋が城の内外を隔て、内堀内の観光駐車場一帯には江戸時代後期の家老級上級武士の屋敷が 建ち並んでいたことでしょう。此処に:江戸時代の日本三大”お家騒動”の一つに挙げられる仙台騒動の中心人物で、徳川幕府によて断罪された仙石左京の屋敷跡があったことから「左京屋敷 」とも呼ばれる出石家老屋敷が有ります。
出石家老屋敷

仙台騒動は天保 6年(1835)財政や後継者争いが絡んだ藩政改革に二人の家老:改革派の仙石左京と保守派の仙石造酒が覇権を争ったのが発端で、お家乗っ取りの疑いで幕府の裁きを受けた出石藩は58、000石から3万石に減封された。一見して外観は平屋造りの様に見えますが、内部には隠し階段の二階が有って、刀を振り回せないように天井を低くし、屋根への出入り口もあるといい!、不意の襲撃に備えて設計されたものと思われています。 建物の一部は失なわれていますが往時の造りを偲ばせてくれます。
(現地:家老屋敷の案内板を参照)

有子山城 
出石城  左京屋敷

有子山城(有子城・高城)
  322m 出石郡出石町内町  国指定史跡

出石城は有子山山頂部(山城有子山城/高城)と山麓部(平城・出石城)を持ち両者が一体となって 機能する戦国期の形態の城で但馬守護・山名氏の本拠地です。祐豊には二人の男子がいたが若死にし、其の後に後継にも恵まれず、やっと生まれた氏政にも後継ができずこのままでは山名氏は途絶えてしまう ・・・秀吉の「但馬攻略」に落城した「子盗み(此隅 )」の名前を嫌って、子供に恵まれる意味をこめて「有子」と命名したといい、遺構として竪堀・堀切・土橋・千畳敷・井戸跡・石垣・西方に 6段の曲輪が階段状に続き天守台のある主郭の東南には 千畳敷と呼ばれる曲輪が残ります。
(高城 )有子山城から出石城下を望む

三の丸大手門には出石のシンボル日本最古の時計台辰鼓楼が一際 目を引き、昭和43年(1968)には隅櫓も 2基が復元されています。 一国一城制によって残された但馬唯一の城・出石城(石城)の最奥に在る稲荷曲輪の高石垣を見て、左に折れる山道が急斜な尾根続きに有子山城(高城)へと導きます。 山名氏は室町幕府において侍所の長官に 任ぜられる最も有力な大名の一人で「明徳の乱」「応仁の乱」では中心勢力として関与します。但馬の国は南北朝の初期以来・山名氏の根拠地であり南北朝後半より以降戦国時代まで 但馬守護職の地位にありました。 永禄12年(1569)毛利元就の要請で織田信長軍の羽柴秀吉らによる但馬攻めに此隅城を落とされた山名祐豊は子の氏政と共に残存勢力を結集して天正2年 (1574)有子城を築いた。 翌天正3年(1575)には丹波黒井の荻野(赤井)直正がここを攻めたが織田信長に助けを求め明智光秀により奪回しています。 この頃の山名氏は昔日の勢いなく、山陰の尼子 ・毛利に勢力に挟まれ但馬の山名氏を 支えてきた四天王(太田垣・垣屋・田結庄 ・八木)は動揺していたその時期 ・天正5年(1577)織田信長の一次但馬攻めが始まり、築城わずか6年後の天正8年(1580)には織田信長の第二次「但馬攻め」で羽柴秀吉軍の藤堂高虎等に攻められ落城し城主山名氏政は因幡に出奔し、父 ・裕豊は城に残り70歳で病没。
(石城)出石城本丸石垣と切岸の併設部!

その後は織田方の城主が管理し、木下昌利・青木勘兵衛・羽柴秀長・三木城主・前野但馬守長康次いで文禄4年(1595)播磨・龍野城主の小出吉政が着任します。秀長により現・豊織系の城郭に改修されたようです。 【参考 吉政の父・秀政は豊臣秀吉と同郷で、秀吉の母の妹を妻としていた関係もあり、大名に取り立てられています。慶長5年(1600)関ヶ原で吉政は西軍に、父秀政と吉政の弟 ・秀家は東軍に参戦します。東軍での秀家の活躍に免じ吉政は引き続き出石城主として認められます】慶長9年(1604)有子山城主小出吉政は、出石領を嫡男の吉英 (よしふさ)に譲って和泉国(大阪)岸和田城へ移り、山城は平山城に移って江戸時代には廃城となりました。山名氏政はその後、豊臣秀頼に味方して大阪城に入り元和元年(1615)夏の陣で戦死しています。
(現地城址案内板 兵庫の城紀行・神戸新聞出版センター 等参照)


出石城(石城) 出石郡出石町内町 (平山城)  国指定史跡

出石蕎麦と小京都でスッカリ観光地となり、出石城も辰鼓楼も 遊園地のモニュメントとなり下がり、歴史の重みさえ今年の”出石もみじまつり”では一夜城出現とかで・本丸の石垣上部には ”お化 け屋敷”の看板のような 張りぼてが準備中で、単にイベント会場に利用されているだけのようなので、企画は”乙女も湯”を利用すればPR兼ね一挙両得とも思えるのですが!。
出石城・稲荷曲輪の高石垣

幕末期のお家騒 動で有名になった”仙石騒動”の立役者 ・仙石左京の 長屋門の石組井戸の横には安直な人気観光地のステータスになった感のある人力車が場所を占め、 武家屋敷の名も美術館のポスターと花が置かれている。(床机に生け花でも飾れば雰囲気が盛上がるのにネ!)ホントは家老屋敷側の無料大駐車場が、 観光客の増加で有料になったこともチョッピリ不満!☆谷山川を堀とした出石城は昭和43年(1968)東西に隅櫓が復元され、有子の山裾に白亜の櫓が城下町・出石の情緒をたかめてくれました。鉄道も通じず主要な山陰街道の9号線からも外れ 奥まった地方都市。
出石城大手門から西の曲輪と有子山

出石城へは赤い小橋を渡り稲荷曲輪へ更に背後の山上にある有子山城へと通じるのですが、立派な橋と城門が復元されています。出石城へは・かつて七つの登城門があったといわれ、一国一城制で但馬に唯一残された城の門も明治維新に取り壊されたものが 復元されています。方位に拠る固有名称も有ったのでしょうが単に登城橋・登城門です。登城門の反対正面?(西側)は辰鼓楼の有る観光メインロードだが、此処は大手門が建ち、出石町役場との間の芝生広場が三ノ丸の対面所跡 ・内掘に面しては櫓台跡や土塁の高まりらしい残土から想像するだけ。
西の曲輪から本丸

堀や石垣・時計マークの辰鼓楼・まして土産物店も無い時代劇セットの裏側に立つ物好きもいないでしょう。 戦国時代・天正8年(1580)第二次但馬攻めで羽柴秀吉軍により落城した山頂の有子城から25年。 慶長9年(1604)有子山城主小出吉政は、出石領を嫡男吉英(よしふさ)に譲って亡父・秀政が城主の和泉国(大阪)岸和田城へ移って行った。吉英は山麓に平山城の出石城を築城しこの頃より 山頂の有子山城は廃城となり麓の出石城 が整備されていきます。城の最高所(有子山城への登山口)にある稲荷郭からの展望は良く、出石の城下から丹波・丹後に通じる京街道、西には因幡方面や播磨への街道筋や高瀬舟の行き交う出石川を眼下に眺めらることが出来ました。
出石城:二の丸と本丸の隅櫓

小出氏の後の城主は松平忠徳(藤井)が9年在城し、宝永3年(1706)には信州上田から仙石政明が入部し仙石氏の居城として代々受け継がれて明治維新を迎え、明治元年(1868)撤去され藩籍奉還 ・廃藩置県等新時代を迎えるまで仙石氏が7代163年間城主を継いでいます。単に一時期の城主仙石忠政が出石城の代表城主のように観光パンフが伝えているのは、多分に信州上田より出石蕎麦を伝えたこと ・本丸に建つ感応殿に祀られる(仙石氏の祖)権兵衛秀久が盗賊・石川五右衛門を捕らえた豪傑として伝説化されていることや、天保6年(1835)財政や後継者争いが絡んだ藩政改革に家老・仙石左京( 左京屋敷)と仙石造酒が対立した幕末のお家騒動「仙石騒動」の勢力争いにより名が知られたことによるところが大きいようです。
(現地案内板 兵庫の城紀行・神戸新聞出版センター 参照他)
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