越前朝倉氏の祖・・・ 但馬朝倉城・比丘尼城・大江堀城
但馬:養父市 (五万図=出石)
道の駅:但馬楽座からの城館廻り 2008年04月13日
近畿の山城 : 朝倉城 比丘尼城 大江堀城
朝倉城遠望

養父市 八鹿町朝倉は朝倉城跡案内板の筆頭に書かれている「越前の大名朝倉氏発祥の地」とされています。朝倉氏の祖についても・但馬朝倉城の城史、肝心の一乗谷を本拠とした越前朝倉氏側の城史についても 諸説がある様です。城跡案内板にある一般通説によると但馬朝倉が越前国(福井市)を領して一乗谷を本拠地とした戦国守護大名:越前朝倉氏の本貫地で其の祖とされる日下部(朝倉)遠江守高景は広景と 足利尊氏の部将:斯波高経に付き延元元年(建武3 1336)広景は越前 :黒丸城に移り、貞治5年(1366)の政変では主筋にあたる越前・若狭の守護職 :斯波高経に反旗を翻して追放し、其の功により足利2代将軍:義詮より斯波氏の領地だった越前足羽郡の宇坂荘・東郷荘と 坂井郡坂南本郷や吉田郡の河南下郷・
朝倉城:南虎口と主郭を廻る低土塁

中野郷等7箇所の荘郷地頭職を賜り、足羽郡宇坂荘の一乗谷に移って越前朝倉氏の基礎を築きます。朝倉氏の祖には景行天皇説・開花天皇説等があるが、孝徳天皇説が通説となっている様です。孝徳天皇の皇子 :日下部表米(うわよね)親王が大化3年(647)異賊退治の功により但馬国養父郡を賜ったのが始まりとされ、平安時代末期に末裔:日下部一族の余三(よそ)太夫宗高が朝倉荘の地名を姓として朝倉氏が興こり、其の子:朝倉太郎太夫高清が初代とされます。源平合戦の頃、 朝倉宗高等の一族は平氏に従っていたが文治元年(1185)屋島・壇ノ浦に平氏が滅亡すると逃れ
比丘尼城・帯曲輪南面:長く築かれた石積

但馬に帰り七美郡小代郷(美方郡 )に隠れたが源氏方の探索に捕らえられ鎌倉に送られた。幕府に降りた宗高の子朝倉高清は源頼朝に従い関東で 軍功をたて但馬の地を安堵され、建久年間(1190-99)初めには朝倉荘に帰ったという?。【但馬国領有権を巡り、朝倉城主 :高清と但馬八木城の閉伊氏との間では戦闘が絶えなかった様です。閉伊氏を滅ぼした高清が 三男重清を八木城に入れて 八木姓を名乗らせます】!!。 朝倉城については築城年代や此の地での戦闘等について不明ですが、鎌倉時代には朝倉高清の嫡男:八郎信高によって創築されたものと思えますが、豪勇伝説を残す次男高景の築城が通説?の様だが詳細は不明。
朝倉城:南郭側から大堀切?越に主郭南と帯曲輪

建久5年 (1194)平家の残党探索に高清が捕らえられ鎌倉に送られた頃:鎌倉に大きな白猪が出て人々を襲い悩ませていて、退治に出掛けた者は悉く殺されてしまいます。占いによると「西国に身の丈高く・色黒く ・身体じゅう毛に蔽われ・熊の皮を着た異様な風体の武士がいて必ず退治してくれる」という。高清の姿を見て人々はお告げの人だと…白猪退治を頼みます。高清は養父明神に祈祷し神託を受けた鏑矢を 弓に番えて養父明神の加護を祈りながら白猪を射倒します。此の功で捕らわれの身を解かれ但馬に帰ることができたという。「朝倉始末記」の話は更に続きますが…朝倉信高は承久の乱(承久 3年 1221)には上皇の動員令を受けて一族を率い宮方(後鳥羽上皇)に与したため 乱後は所領を失ない、其の後に朝倉荘の地頭職に返り咲いた者はいない。信高の動向についても一切不明ですが、高景等が越前に去った後も・また敗将:信高の残る朝倉一門が、朝倉城に拠っていたと思われます。
大江堀城・主郭北端と帯曲輪

嫡男信高が奈佐太郎知高の養子となったため次男 :高景が朝倉氏の家督を継ぎ、貞治5年(1366)の政変では足利義詮に付いて戦い、其の功により義詮より、越前足羽郡の宇坂荘(高景が移った一乗谷の地)・東郷荘や坂井郡・吉田郡等に7箇所に地頭職を賜り、 越前朝倉氏の祖となり、三男重清は但馬八木城主 (先述)となり八木氏の祖となり4男高房は宿南城主となっています。 主家が越前に去った後の朝倉氏も不詳ですが分家筋の八木氏・宿南氏…も複数の家系図が有る様で代・頭首名等不明点が多いようです。
(郷土の城ものがたり 兵庫県学校厚生会を参照)


 朝倉城 比丘尼城 大江堀城

朝倉城   大平山 152m   養父市八鹿町朝倉大平山

朝来市和田山町からR9号線で養父市に入ってすぐ谷間地峠を越えて降って来た上野地区には 上野城・安井砦・軽部城が有って「道の駅:但馬楽座」を基点に廻ってきた。道の駅から9号線バイパスの 南 但馬トンネルを北に抜け出た所が朝倉地区。此の朝倉には朝倉城・比丘尼城・朝倉向山城の朝倉三城が在って、此のバイパスのトンネルが出来る以前から気になっていたのが、トンネル北出口東北上方に位置する 朝倉向山城ですが今回も登城口がよく分らず・駐車スペースも周辺に無さそう?。
朝倉城 :主郭東曲輪の石積

なので諦めて通り過ぎて朝倉集落を目指す。集落奥(南西方)に間違いようもない歴然とした城山の容姿に期待は膨らむが、川を渡って集落内に入った途端・さてどうしたものか ?狭く細い急坂を直進すべきか、右手川沿いに進んだ方がよいのか躊躇してしまいます。城山の姿が見えず集落内は迷路状の細い道。とにかく集落最奥の車道が城跡登山口の「朝倉宝筐印塔」と墓地の前から比丘尼城や「道の駅但馬楽座」にも近い?養父町広谷(軽部荘)へ越す境界尾根に向かう広い林道が 通じている車道に出ます。
朝倉城登山口にある宝筐印塔

辻堂(墓地の地蔵堂)と宝筐印塔 【町指定文化財 昭和43年7月31日】及び朝倉城跡【町指定文化財 昭和43年7月31日】の城跡保存会 案内板 (平成13年5月)が建てられています。高さ230cmの宝筐印塔は塔身の月輪内には金剛界四仏の梵字を刻む、室町期の十五世紀頃の造立と推定されており、朝倉主家が越前に去った後も同族が朝倉城に居た様で、朝倉氏関係の供養塔と思われる。出石藩から将軍徳川秀忠公にも献上された「朝倉山椒」の原産地で、丹波でも朝倉山椒と 銘が書かれた慶長年間以前(登窯以前の自然釉)頃の古丹波焼きの壷があり、 丹波茶とともに丹波の名産にもなっています。
朝倉城:東面から主郭櫓台(下草の陰に石積有)

丹波氷上郡(現:丹波市)出身と云われる山椒大夫も此の山椒の行商人であったと…余談が過ぎますので本筋に戻します。城跡案内板横に城跡登り口の標柱が立ち、石積み段差の続く墓地内の坂道を抜けた 処にある猪鹿避フエンスのゲートを開閉して立木のない尾根筋を山頂主郭部に向かう。主郭部に向う道とは別に主郭を捲いて南面に見上げる程に高く・堀底も広い自然の?大堀切に続く道が、南に続く丘陵部を避けて東寄りに捲く道がある。導標にあった「xx?の大桜」へ向う山道の様だが、此の大堀切?から南への尾根続き ・丘陵部への段差に石積らしい露岩を見るが?、此処も曲輪が続く。
朝倉城:櫓台より本ノ丸西の低土塁

途中の堀切・土塁曲輪の先にも堀切が有り竪土塁となって落ちる。更に堀切・二重堀切となっていて東面は深い谷となっていて、先程の山道が此の城跡縄張りを避けるように横を捲いて 二重堀切となる東の谷面に出て城跡の尾根筋に合流します。 「xxx?の大桜」観桜ルートの先にも城遺構が在るかどうかは確認していませんが「ひょうごの城紀行」縄張り図に限らず?他の資料にも主郭部南側・自然の大堀切?以南の遺構について記載されたものを見ないだけに、また堀の深さ・曲輪の切岸・土塁からは、越前一乗谷に去った朝倉氏以降・一族が戦国期まで 此処に留まり単郭の主郭(北郭)とともに梯郭式に曲輪を並べる南郭を改修・拡張して、堀切・竪堀で防備補強されてきた後期朝倉氏?の南郭遺構なのでしょうか。
朝倉城南郭群:南端部?の二重堀切に挟まれる曲輪

麓の案内板に東西130m・南北110mとされる朝倉城跡の規模は南北に長く延びる南郭を含めて更に拡がります。「春に三日の日和なし」と云われる頃に出掛けてきたので、確認してはいませんが主郭南面下部と南郭との間の鞍部の自然の大堀切?の西側中央寄りには大きな水溜り(深さは不明だが・径1m程の円形で 清い水を湛えている)があった。場所的に不適とは思えたが堀切でなければ天水の貯水井戸跡だったのかも?。さて南側から左手(西)に土塁堅め?か土留めの石列数個が残り、南面から西面北端まで延びて主郭を囲む低土塁があり、其の土塁端の南から虎口を入ると、正面中央には一段高く・麓からも目立つ 櫓台を設けた主郭本ノ丸に立つ。
朝倉城南郭中程の曲輪群1と土塁

360度展望の効く抜群のロケーションです。八木川流域に沿う朝倉荘を眼下に、対岸には九鹿城や真北に愛宕山城、西に八木城と其の奥遠くには残雪の峰を置く氷ノ山の山々・白く光る但馬ドームの屋根を望む。朝倉三城で 今回行けなかった向山城 (上之山城)は見えないが、其の前に立ち塞がる峰から南西に派生する枝尾根末端の比丘尼城(朝倉城城主の姫の居館とされる)が朝倉城からは林道越の真西下方に見える。本ノ丸の東面一段下の帯曲輪?側には、高い所で東北角下に高さ2m程の石垣というより、急斜面に沿って石を貼り付けた ・古墳の葺き石を思わせる様な石積部分を諸々に見かける。崩れやすそうな東面に集中して2~30cm程の小石の石積が切岸に残る。
朝倉城南郭中程の曲輪群2と土塁

石垣というより石塁を兼ねた土留め石列で、此の曲輪下に堀切が有り小削平地から集落へ藪の尾根筋にも踏み跡はありそうです。築城年代が明確になっていませんが 鎌倉時代に朝倉氏がこの地に入り、朝倉高清の嫡子八郎信高によって築城されたと推察できますが、足利尊氏・義詮に付いていた朝倉氏も・この信高により、承久の乱では後鳥羽上皇の誘いに一族で宮方(後鳥羽上皇)に与したため乱後失脚し、其の後:朝倉荘の地頭職に返り咲いた者はいない。 越前一乗谷に去った朝倉氏ですが戦国期まで此処に留まった朝倉一族もいたのでしょう。
朝倉城主郭からの比丘尼城

此の城での戦闘記録は無いようですが、天正5年(1577)10月羽柴秀長軍の「但馬攻め」では、赤松左兵衛を先導に副将・前野将右衛門、宮部善祥坊らが朝来郡に攻め入り、竹田城の太田垣土佐守を落とし養父郡の八木城主・八木豊信、 朝倉城主朝倉大炊らが降伏し僅か20日余で朝来・養父両郡は制圧されています。翌・天正6年(1578)但馬をほぼ制圧した羽柴秀長が竹田城に入り、朝倉城に青木勘兵衛、宿南城に宮部善祥坊を入れています。
(現地:朝倉城跡保存会案内板H13年5月 「ひょうごの城紀行」 「兵庫県の中世城館・荘園遺跡県教育委員会」 を参照)


比丘尼城 xxx 115m  養父市八鹿町朝倉

朝倉荘から軽部荘の広谷と上箇地区の間へと、等高線も余り積まない緩やかな谷筋が奥深くまで続き、峠を越えた広谷側はさらに谷とも尾根筋ともつかない高原状の斜面を降っているよう です。広谷側の出口付近には新宮砦が、朝倉側には朝倉城と此の峠越えの谷道を挟んで呼応する位置の比丘尼城が朝倉側の出入口を押さえています。但馬の城史を知らない勝手な推理ですが、 往時は良く利用された山陰道の間道では無かったかとも思えます。

(帯曲輪北側から)比丘尼城主郭


京都・丹波・播磨側から和田山を通り谷間地峠を越えて、上野・広谷からは比高100m程の此の峠を越えれば朝倉地区八木・村岡・温泉町・浜坂へ鳥取県側への短絡コースです。ただ比高80m程の朝倉城に比して僅か 40m程、其のうえ城名からは朝倉城主の奥方や姫の居館跡だったと云われる比丘尼城は、遠望しただけでは丘城・山城とも想えません。築城時期や城主等の城史は不詳ですが、通行監視の砦の任を負った城砦とは 考えられていないようです?。比丘尼は女性出家信者で(比丘は男性)、鎌倉~室町時代・尼僧として諸国を遊行した半僧半俗の女性のことで、城主の奥方や 姫の居館とするのはどうだろうか?。
比丘尼城主郭(東曲輪から)

朝倉での戦闘記録は無さそうで、 他所での合戦で討死した城主の菩提を弔うために出家した妻の話も無さそうです。まして朝倉氏主家が越前に移った以後も、此処に残った一族が、防備施設の無い比丘尼城を居館として使用・維持してきたのかどうかは疑問です。比丘尼城の名が他諸々に残るのは人魚の肉を食べて 800年以上も生きたという不老長寿の八百比丘尼の伝説から 領有地や一族の 繁栄を願って付けられたものと推察できます。
比丘尼城主郭から望む朝倉城

一方では此の伝説から ”人の命には限界があり、今を大切に生きる事、信仰心を深めれば彼の世では阿弥陀如来に救われると…説いて熊野信仰を広める為に全国を巡り 歩く尼僧形の女性「熊野比丘尼」が紀伊:熊野三山(本宮・新宮・那智)によって 組織され、熊野那智参詣曼荼羅の絵解きを行って熊野詣を勧め、熊野牛王の護符を売り、勧進【社殿堂塔の造営・修復の寄付金を集めること】を本務として勧進比丘尼とも呼ばれます。江戸中期以降・熊野信仰が衰退してくると、男らに春を鬻ぐ(売る)者もでて、尼の姿をした私娼の代名詞となり比丘尼宿もあったという。 比丘尼城主郭東下の帯曲輪には「見学順路xxxx」とコース案内の導標が立ててあったが肝心の集落内からの登城ルートが判らず、
比丘尼城(西南面)の石積

朝倉から養父町側広谷に向う谷筋の 車道をとって城跡の丘陵を望む南側の広い湿原地帯?から【車道側の西に谷川、南から東にかけては濠状、比丘尼城側の丘陵裾を 溝谷が流れて四方が囲まれていて、此の広い平坦地の方がズッと居館らしい?】平地を横切って・細い溝谷を飛び越えて 南側から城域に入ると直ぐ「アセビの森」に入る。雑木藪の段差に石積が続き「中世の石積」標柱も有る。 庭園の様な緩やかな尾根上に低い段差で曲輪が続き、最高地点を前にして城の体裁が整ってくる感じ!!だが、奥方の居館と伝わる比丘尼城の名の由来が此れにあるとも思えない。朝倉城を「詰め城」とする居館 とも思えないし、低い丘に削平段を連ねただけの状態に高畑農耕地とも推察されているようだが、 城遺構として最高所にある10㎡の削平地から西方へ6段程の曲輪が続き・帯曲輪を伴い随所に土留め石が見られます。
比丘尼城跡より居館らしい濠囲い状の空地?

特に南側斜面の帯曲輪沿いに長い石積・石列が崩れ埋まっている箇所もある様ですが2段に積まれて土留め補強されている部分もある。未確認ですが竪堀りも数条あるらしいのですが?。 朝倉に三城がある事は知られるが朝倉城以外の城については、位置が確認されたのも古いことでは無さそうで、詳細な調査が実施されたかは報告書等の発刊物を知らず城史も不詳。室町時代以降・分家の八木氏の影に隠れていた但馬朝倉氏の 動向に、古文書にも無かった新発見で再びスポットが当たる事を期待したいものですが…!!。

大江堀城 xxx 143m 養父市八鹿町大江堀

山陰道R9号は南但馬トンネルを八鹿バイパスで抜ける。「道の駅:但馬楽座 」を挟んで右折して、約2km程北方で円山川に流れ出る大屋川を渡るR312に入る。円山川沿いに並走する山陰本線養父駅前を過ぎ上小田北交差点で 円山川を渡り東へ約2km程:世賀居バス停で右折し、谷沿いの車道を進むが車道脇に駐車スペースは無く少し行き過ぎるが大江公民館前に着く。
主郭を馬蹄形の廻す空堀?内の大土塁:外側斜面には放射状の空堀群(西面)

引返して車道の南上方へ”参道”石標を見て集落を抜ける地道へ坂道を上がり進むが、大江堀城の位置同定がむつかしい?。南方から同じような二つの尾根が延び出して北先端を落としている。先ず西側尾根筋先端部の鞍部を目指し、堀切状地形や土塁 ・曲輪と思える地形に近づくと
同上:竪土塁?を挟む竪堀群(北西面)

二基ばかりの古墳で遺跡分布図に赤ばな1〜3号墳が記されている。引返して東面の谷間を詰めると、谷を挟む左右には幾段もの石垣曲輪状を見る。畑地跡にしては手間をかけ立派過ぎる。狭い間隔での石垣段は植林用にしては狭く小さいものや、規模の大きな曲輪段があったりL字状となっていたり!!?。
同上:北東面(神社上部)の大土塁

大江堀城主と家臣屋敷かとも思えたが、寺社跡であったかの 記録は知らない。城史も城主も不明・小規模な単郭の城址だったので、広範囲の屋敷跡らしい遺構からは外れてゆく…!!?。 此の谷間の曲輪群下方を東の丘陵尾根斜面に取り付くと比高30m程の尾根上に出るまでもなく幾本かの溝(竪堀先端…)を見る。
主郭南面の大堀切と南側外曲輪

大江堀城の西南端・畝状竪堀群端の大土塁と、城域を完全に遮断する南端に高低差約8m程の大堀切の中間付近に着いた。7-8mの高低差をもつ切岸上には南端に土塁を積む主郭 (15X20m程)と北側(正面)4-5m程下に帯曲輪を一段廻す。帯曲輪との切岸に石積の跡が見られる。北面の帯曲輪・主曲輪の神社側斜面の切岸にも 露岩部は無く・石塁としたものかと思える?数個の石がのぞく。
主郭南面の大堀切

此の二曲輪の切岸下を南端の大堀切から馬蹄形に横堀が包み込む。単郭に小規模城郭ながら東面から南正面に掛けて放射状に落とされる畝状竪堀は、技工的にも優れたもので侮れない。畝状の竪堀落ち口を土塁で挟む様に、また横堀内にも大土塁を削り残したり、
主郭北面切岸の石積跡?

竪堀間を竪土塁ともして侵攻に対する防備は万全!!?。畝状竪堀群が切れる北端にも大土塁が有り、 下方の春日神社側からの侵入に備えた切岸は神社から主郭に達するまでに約20m程!!見上げるばかりの激急斜面で鉄壁の構えを見せて迫力がある。大江堀城へは此の春日神社への参道が判れば取付き探しに何の苦労も無いが、神社参道を示す灯籠や標識も無いうえ、 細く幅狭い溝谷沿いの石垣積み・段々畑へ奥へと急な坂道を上る。
大江堀城は春日神社背後に見える

春日神社(八木町大江)は式内社・但馬国養父郡:保奈麻神社の 論社の一つですが、創祀年代は不詳。ご祭神に彦火瓊々杵命・天津児屋根命の二社を祀り、明治6年(1873)村社に列している。境内北西側の林間にも2基の古墳がある。堀1号墳(墳丘部全面に小石が散積しているのは墳丘が葺石で 覆われていたものか?)と2号墳(此の古墳についても画像・規模等の詳細は割愛)がある。
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