能勢氏の拠城と「かがい」の山  地黄陣屋と丸山城〜妙見奥の院〜歌垣山
北摂 (五万図=広根)
地黄城・丸山城〜妙見奥の院〜歌垣山554m H14年09月22日
近畿の山城
:
丸山城 地黄陣屋
為楽山城(大空寺城)
大阪50山 歌垣山
清普寺参道から北方の丸山城281m

川西市から亀岡市に向って国道477号線を走り能勢の郷に入ってくると車道の左右に栗林が目立ってきます。栗作郷の名は丹波から既に此処・能勢や亀岡・和知方面に主産地が移り変わっています。昼近くなって手が空いたので妙見奥の院〜歌垣山(大阪50山 )を選んで出かけます。
地黄陣屋の城址碑

此処へは5年前(H9.12)に堀越峠から両山を往復していますが 麓から一度は小縦走しておきたかったところです。
477号線を走っていて能勢町立東中学校前を通りかかると「城址文庫」なる資料館が在って、道を通して地黄城の石積みが見えます。直ぐ先が「関西身延山・真如寺 」〜妙見奥の院への参道下のバス停です。 此処を基点に先ず城址文庫横から中学校の校庭に向うと大手門の枡形虎口の 石積みの前に能勢氏の地黄陣屋 (丸山新城)の案内説明版が建てられています。
丸山城:ニノ曲輪と北曲輪間の堀切
地黄陣屋南面の石垣土塁

門を抜けると校庭のコートの奥には周囲を小さな堀に囲まれた「能勢故城址」の石碑が立つ。丸山新城の別名のとおり、国道を挟んだ西方に能勢氏の菩提寺・清普寺があり、 手前・田圃の北方に丸山の名のとおりの小山が 多田源氏の流れを汲む能勢氏の拠城丸山城(地黄古城)です。能勢街道・城下町の風情と旧家の建ち並ぶ集落内の道を採って城の北面から雑木の尾根から本丸を攻めて見ました。 二つの城址を訪ねた後、妙見奥の院へ向って急斜な参道を辿ります。


能勢氏の拠城から 「かがい」の山へ・丸山城〜妙見奥の院〜歌垣山  2002年09月22日

477号線沿いの地黄城と丸山城を訪ねた後 ・大正ロマン!!??漂う役場前を通って(PM1:45)「関西身延山」の看板を見る 妙見奥の院参道口のバス停に着く。参道は持経寺を過ぎ「妙見宮」の石鳥居を潜ると、谷川の沿った桜と杉並木の坂道に「関西身延霊場」無漏山真如寺が有ります。身延山二十一世・寂照院日乾上人の開山を伝える 真如寺の開基は丸山城・地黄城の城主「能勢頼次公」で日蓮上人の 御真骨を奉安したことから日蓮宗本山・身延山に対して「関西身延」と呼ばれます。奥の院に続く参道の右手に「武運長久」と刻まれた石橋があり薄暗い奥の方には 七面堂や水行場の七面ノ滝があります。
妙見参道鳥居の傍らに立つ開基:能勢ョ次の像

妙見山信仰では功徳があるとして 【真如寺〜奥の院〜妙見山】の 3ヶ所を徒歩巡拝される方もあり、歩きやすい参道を約1kmで奥の院で祖師堂に着きます。 本堂の裏手に廻った最高所には多くの大善神を祀る石碑や祠があり一際大きな石碑には白川大善神・八大龍王 ・荒龍天王の神名が彫られています(PM2:10)。奥の院を後にして参道を鞍部に下ると「おおさか環状自然歩道」標の建ち「妙見山…」と「堀越峠〜歌垣山」を示しています。妙見山へと続く巡拝道も1度は歩いてみたいし、 ここから直ぐの三角点ピークの妙見山【為楽山 660m 点名「奥の院 」】へ寄っても良かったが、奥の院同様に展望のない雑木の中にあるので 堀越峠へ急ぎ下ります。この裏参道!!は未舗装ながら随分上迄登ってこられるようになったもので、すぐ下方の小広場には車が2台止まっている。
妙見山三角点(点名:奥の院)

登山者は見かけなかったので参拝に訪れた人の様で、奥の院への余りも近い最短コースです。まもなく広い林道との出合うが、 数年ですっかり様子が変った明るい舗装林道が地黄湿地方面へと延びているが 奥の院分岐から先の林道は 「松茸山の為入山禁止」の立て札が建てられ、関電の赤白鉄塔が並び送電線が歌垣山へ這い上がって行く。 倉垣から杉原へ越える732号堀越峠(PM2:25)の車道を渡って「おおさか環状自然歩道」と書かれた道標が歌垣山を示す。 階段を登って尾根伝いのハイキング道は明るくて雰囲気が良いのに山上公園のログハウスに延びているのか、偽木風に茶色に塗られた電柱は余計に目立って興醒めです。
妙見奥の院の最高地・八大龍王碑

25分程度!!?・・で登り着く歌垣山は、男女が集ったコンパ山!!。もっと高尚か!!「かがい」の山です。 先ずは「ふれあい広場 」に三角点柱・歌垣山 (2等三角点、標高554m PM2:50) のある南峰の女山)です。方位磐を兼ねた御影石の化粧板で囲われた立派過ぎる三角点標が此処にあります。杉原へ降る尾根道を少し辿ると妙見山・鴻応山が見えてくる。 引き返して登ってみた小さな 「頂上見晴し展望台」は北方の山々を見る為だけで、相変わらず周辺を樹々で塞がれたままで南・東の展望は望めません。それでも近くの小和田山・剣尾山や深山・半国山辺りまでは見える。 「かがいの広場」の標識に従って、歌垣山(北の男山)へは 展望台横から真っ直ぐ続く広い道でトイレ施設の鞍部付近からは 舗装遊歩道で繋がっていて驚かされます。国道477号・倉垣へ下る分岐を確認して「歌垣山」の大きな石碑の建つ「かがいの広場」に向いますが、この道は車道となって北へ下って行くようです。
歌垣山(女山)山頂の展望台

公園化された松林の中の広場には「森林学習館(ログハウス )」・歌詠場の東屋・歌碑が建っているが 真新しい歌垣山顕彰会の「かがいサミット記念」の碑も建っています。「歌垣山」碑の前には「六甲山」「妙見山」の方向を示す表示板が建てられ、側には小さな 「チョウ歌!!?の池」が水を湛えています。此処からは 思ったほどの展望は効かないが、間近の妙見山と小和田山や剣尾山・三草山遠く六甲の山並みが遠望出来ます。 どれほども歩いていないが時間的には遅いので女山との鞍部へ戻って、倉垣への下降点から自然林の中の道を降ります。
歌垣山(男山)山頂「かがいの広場」

細い流れに沿って下り小橋を渡り5m程の滝を見て、その横を過ぎると愛宕社を祀る祠(PM3:20)前から、細い集落内の栗林と溝に沿っての道に出てくる。 小和田山へ稜線をのばす釈迦ヶ岳の山腹には大仏や黄金に輝く観音像が目立つ。 山麓には七宝寺の石の大高燈籠も際立って見えます。国道と出会う所に歌垣山登山口(PM3:25)の標識があり「栗集荷場」の文字がこの時期特に目立つ 歌垣農協前のバス停に出てくる。此処にも「歌垣山」の立派な案内板があって下記のようなことが書かれています。


日本三大歌垣の山・歌垣山 
倉垣の登山口と山頂(男山)の「かがいの広場」には「歌垣山」についての説明板があります

『くらかきの里に波よる秋の田はとしながひこの稲にぞありける(匠房)』山頂には治歴4年(1068)後三条天皇即位の大嘗祭の主基頭 (すきがしら)大江匠房卿(1041〜1111)が主基田に指定されていた歌垣山西麓の 倉垣の里を訪ねたときの歌です」との解説で藤原基房(1166年攝政に就任)の書になる「歌垣山」の大きな石碑が建っています。『万葉集』などの歌の内容から「歌垣(カガイ)」が行われたとされる場所は全国に 数多くありますが、大阪・摂津の歌垣山、茨城・常陸の筑波山、佐賀・白石町の杵島山が日本三大歌垣と称されています。 「♪筑波山さえ 男体 女体…」歌垣山も男山、女山の2峰がありますが、杵島山にあっては既に子供をもうけた3ッ峰で因みに比古神・比売神・御子神です。
倉垣の登山口から歌垣山を望む

公園化された歌垣山の女体山側「かがいの広場」には、 所縁の能勢町・つくば市・白石町の三市町が集まって「かがいサミット」が 平成10年8月に行われその記念碑が建てられています。以前は無かったログハウス「森林学習館」等施設はその記念行事に建てられたものでしょうか!!。歌碑の説明にもあるように万葉の時代、春の花咲く頃、 秋の紅葉する頃に未婚の男女が酒などを持ち寄って山頂に集まり、人垣をつくって即興の歌を交わし、踊りに興じて一夜を山で明かす風習で、自分の思いを歌に託して相手に伝え 結婚の申し込みをする場へと変化していったものといわれます。もともとは春に豊作を祈り、秋には収穫を感謝する豊作を祈る農耕の儀式が次第に遊楽化していったものと考えられます。このような場所に歌垣(かがい)の名が残り此処 ・能勢の歌垣山もその一つです。


地黄陣屋 丸山城 為楽山城(大空寺城)


地黄陣屋(地黄城・丸山新城)と丸山城(地黄古城)
地黄陣屋(地黄城・丸山新城)
 豊能郡能勢町地黄

R477号線沿い京都府(亀岡市)との境に近く、古くより摂津と丹波を結ぶ摂津街道・能勢街道や池田街道に繋がる交通の要衝にあり、 妙見奥の院への参道・登山口の能勢町地黄の東中学校の敷地内に旗本・能勢氏の地黄陣屋(丸山新城)が在ります。旗本であったため陣屋とされるが、能勢氏の地黄城(丸山新城)で説明板には三層の櫓(楼閣)が建てられていたようです。
地黄陣屋南面東角付近:折れを伴う石積

普請の始まった頃は、 幾度となく争い事が絶えなかった宿敵・塩川氏(山下城を参照)の勢力が残っていた為、周囲に高く石垣を廻らせた 堅固な造りとなっており大手門の桝形虎口等遺構がよく残っている。 代々陣屋の北西部にある丸山城(地黄古城)居城とし 能勢氏中興の祖と云われた能勢頼次(1562〜1626)は 「山崎の合戦」のおり

南面を堅める石積土塁

明智光秀に属しており、秀吉方により丸山城は落ち、山下城主:塩川長満との交戦に敗れて能勢の地を追われ浪々の身にあったが、徳川家康 が京都の日蓮宗寺院に休憩した際・住職が能勢ョ次の弟であった事が縁で、ョ次は家康に召抱えられと云い関ヶ原の合戦 (慶長5年 1600)に戦功をたて、旗本として旧領を回復・
北面にも横矢意識の折れを伴う石積土塁

数 10ヶ所の新領地を合わせ1万石で能勢に復帰、 翌慶長6年(1601)丸山城内にあった寺を、父能勢左近将監頼幸の菩提を弔うため城下に移して 清普寺を創建し、いま能勢氏一族の菩提寺となっています。丸山城築城から丸山新城(地黄城・地黄陣屋)までの変遷歴史は下記丸山城を参照してください。
地黄陣屋:西北面の石垣

翌慶長7年(1602)〜元和元年(1615)にかけ、家臣・山田彦右衛門を 普請奉行にして築いたのが丸山新城(地黄陣屋:東西75m・南北110m)で、旧丸山城から築城用材として石材・建材を運び出し、城下町・市場を移して 新たな城下町の整備・構築にも着手して藩体制を築き 明治まで存続したが維新の藩籍奉還によって廃城を迎えます。
地黄陣屋:大手門西南角から西面の石垣

城の完成した1615年(元和1)大坂城夏の陣に出陣中の留守に、またしても塩川頼面(長満の子)が挙兵し、 領内に攻め込むが松平康親・岡部宣勝ら幕府軍の協力を得て 此れを撃破して、代々の宿敵である塩川氏一族を討滅しています。陣屋としては破格の厳重堅固な防備施設が 塩川氏の対する備えとして 幕府に容認されての築城だったのでしょう。 築城石垣の内:北手国道脇に残る「ごぼう積み」は印内積(印南積)といわれる特殊な石積みは、天正10年丸山城を攻略した豊臣方河原長右衛門宣勝ですが広根一揆掃討の時に生捕られ、
地黄陣屋:大手門の枡形虎口

処罰はョ次の任され既に死罪は決まっていたが、 長右衛門に恩義ある丹州印内村(現、丹波町院内)衆の助命嘆願に、頼次は情に感じて赦免した。その報恩に印内村の石工により積まれたものです。枡形虎口の大手門・搦め手門や堀を設け、西・南・北には石垣を廻らし、東側には空堀があったとも伝わる 単郭ながら旗本としては石垣・堀が許されており、
地黄陣屋:西面の石積

北隅には三層の隅櫓を備えていた可能性も指摘される破格の近世陣屋城としての防備施設をもつ。能勢頼次は寛永3年(1626)65歳で江戸に没したが嫡男 :ョ重が3000石で地黄陣屋を継ぎ、ョ富の11代で明治2年 (1869)の藩籍奉還により能勢氏も終焉を迎えます。陣屋は会議所として使用され明治12年には能勢郡役所庁舎となり明治14年まで継続した。
【能勢町教育委員会の地黄陣屋案内版等参照】


丸山城(能勢城・地黄古城)   丸山 281m 大阪府豊能郡能勢町地黄・野間西山

R477号線旧街道沿いの地黄陣屋の西方をR477号バイパス道が走る。此の西の丘陵麓に能勢氏の菩提寺「正行山清普寺」があり能勢氏累代の五輪塔・宝筺印塔群がある。慶長6年(1601)能勢氏中興の祖とされ、深く法華経に帰依した能勢頼次が、 日蓮宗中興の祖とされる京都本願寺第十三世貫主:寂照院日乾上人を開山に創建された「関西の身延山:無漏山真如寺(妙見奥の院)【現:能勢妙見山は真如寺の飛び地境内にあり正式名を
能勢氏一族菩提寺の清普寺:山門は江戸時代武家屋敷の薬医門移築

”無漏山真如寺境外仏堂能勢妙見”と云う】は日蓮宗能勢妙見信仰の中心となった。 上人の弟子・日然を開山として父能勢左近将監頼幸の菩提を弔うために建設したのが清普寺です。境内能勢氏墓所には能勢ョ次(五輪塔:寛永 3年<1626>)・ョ之(ョ次3男で丹波北之庄!?領主)・ョ永(ョ次5男で切畑城主の宝筺印塔 )・近江の局(ョ次の三女福で余野に居した能勢ョ資の妻:大奥老女となった)等一族の大きな五輪塔や宝筺印塔の墓碑が整然と並ぶ。
二ノ曲輪から土塁虎口・帯曲輪と主郭切岸(右手に斜上する

山門(切妻造りの一間薬医門 )は江戸時代中期:元文5年-寛延2年(1740-49)の武家屋敷門を移築したもので大阪府指定文化財・本堂は御殿大広間の遺構とも言われます。 本堂前庭には右手を上げて施無畏印・左手を膝前に置き薬壷(?らしいもの)を持つ薬師如来像が立つ。地上高140cmの花崗岩自然石に舟形輪郭を彫り込み、輪郭内に像高56cmの薬師如来像を半肉彫りしたもので、 鎌倉後期と推定され ・かなり摩滅が進んでいる。
清普寺境内の薬師如来像

その清普寺参道北側の田圃の先に比高 50m程の独立した低丘陵(標高281m)が丸山城で、平安時代中期:長元年間(1028-37)清和源氏:源ョ光の子能勢(源)ョ国が摂津能勢地方の 田尻荘地頭職を得て入部し能勢氏を名乗って丸山城を築城して以来:豪族能勢氏 累代の本拠城となった。【鎌倉時代中期:寛喜3年(1231)清和(多田)源氏の祖源(摂津守)満仲系の多田ョ綱の孫国基 <ョ仲!!?>とする説が有力かも?】南北朝期には
主郭北端から:帯曲輪の土塁虎口を通って二ノ曲輪へ・・

足利氏に従い所領を安堵され幕府直参御家人として摂津国の幕府使節などを務める有力豪族に成長し応仁・文明の乱(1467〜77)には 室町幕府管領細川勝元に従い各地に転戦して活躍。近在で産出した銀や銅の流通を把握して北摂屈指の勢力に拡大し、戦国時代能勢ョ道は足利将軍義輝に仕え周辺武士団の惣領として能勢地方支配に武威を振るっていた。
二ノ曲輪から土塁虎口・帯曲輪と主郭切岸(右手に斜上する主郭への虎口)

能勢氏の本城とするには小さ過ぎます。 ョ道は織田信長に属していたが天正6年(1578)摂津伊丹城主:荒木村重の離叛の際に同調したものか?・曖昧な態度から荒木氏に加担したと追討され、天正8年:多田の領主塩川長満に謀殺されます。月峰寺で仏門に入り修行していた弟能勢頼次が丸山城に帰り山下城に向かう大槌峠で 塩川氏と合戦となるが、味方少なく不利な戦いに丸山城も包囲され落城し翌天正9年(1581)塩川長満が能勢地方支配の領主に任じられます。
主郭(左中央上に虎口・正面奥右寄りの土檀は櫓台土塁跡!!?

能勢氏は塩川氏や織田信長の摂津侵攻に対抗する為に築城した為楽山城(能勢妙見宮)の出城として機能していたのでしょうか?。 「本能寺の変:天正10年(1582)」に明智光秀に加担した為、豊臣秀吉配下河原長右衛門宣勝らに攻められ丸山城・為楽山城(大空寺城 )は落城し城下は焼亡した。・・がョ次は天正12年秀吉の九州島津征伐の遠征に従軍 ・その留守に山下城・多田城主塩川国満が侵攻し落城し 秀吉から報復の許可を得て天正14年(1586)大槌峠の戦闘に塩川氏を破っている。
二ノ曲輪西斜面の二重空堀と土塁 (?土橋状):空堀は武者隠し・塹壕??

更に豊臣秀吉命による片桐且元・池田輝政・堀尾吉晴等追討軍により山下城は落城 塩川長満は自刃する。【田尻城等・・参考に】能勢氏 ・塩川氏の領地の境界争いは絶えず・長年続く因縁の争いの動向は、 数多くて順次年を追って再確認してゆく必要が有りそうです!!?。減封されたが存続する塩川氏一族が慶長年間:大坂方として多田銀山を攻める両氏の因果関係も含めて!!。
二ノ曲輪西斜面:北曲輪への通路 (曲輪)から竪土塁状?・竪堀状地形

能勢氏は一時没落し・後高山右近等数代を経て天正16年(1588)薩摩島津氏の在京領地ともなっています。 頼次は三宅助十郎と名を変え犬甘野から備前へと、流浪の末徳川家康に仕え慶長5年(1600)関ヶ原での戦功により 旧領地1万石の能勢を回復して能勢氏を再興。大坂の役にも加増された ョ次は慶長6年:丸山城内に在った寺を地黄の城下に移し、父左近将監ョ幸の菩提を弔うため、玉持院日然上人を開山として建てられたのが正行山清普寺で、
丸山城主郭切岸と帯曲輪西面

寺名は父:ョ幸の法名の清普院殿源光日順居士による。 元和元年(1615)山田彦右衛門を普請奉行とし、丸山城を廃して石材・木材を転用して東向かいに丸山新城を築城したのが地黄陣屋で以後、明治維新まで代々徳川家旗本として能勢氏3000-4008石?の領地を受け継ぎます。「東郷城山の九重の塔」の道標に従い川沿いの道から一軒の民家を西に向かうと
大手道は南曲輪に入り、 稲荷社跡(丸山神社?)の帯曲輪に上がる

北側の丘陵南末端には玉垣とフエンスで囲われた多田源氏の祖源満仲の碑と云う南北朝期:延文5年 (1360)のとされる宝筺印塔・鎌倉時代:弘安11年(1288)の石造九重塔 (総高309cm)<府文化財指定・昭和45年2月20日>や五輪塔が祀ってあり、 その脇から大手登城道があります。私が辿った仏坂峠からの蜘蛛の巣と藪尾根の細い踏跡は「搦め手」か?。
丸山城の「源満仲碑」

丸山城は平山城(丘城)ですが仏坂峠から北の尾根上にある三角点峰362mに山城が在ったのでは ??と県道沿いの地黄池から見たときに、そう思えたのですが・・・直ぐ先には「史跡丸山城跡の標柱がある。明確な登山道は城域最南端の南曲輪に入り、切岸一段上の主曲輪をぐるりと囲う帯曲輪南側に稲荷社が祀られる【荒廃激しい小さな社殿は H23年の再訪では礎石・礎檀?の横に新しく祠(稲荷神社?か丸山神社)が再建され其の参道の様です。主曲輪北端に崩れた低土塁が有るが幅広く櫓台土塁か?。此の土塁西には帯曲輪北西端から斜上して主曲輪に入る唯一の虎口?が有る。
丸山新城(地黄陣屋)内の能勢氏古城跡の顕彰碑

北面切岸一段下の帯曲輪北面には尾根筋の左右を土塁で塞ぎ、 堀切土橋状を虎口として二ノ曲輪(中郭部)に繋ぐ。堀切土橋状は 二ノ曲輪西面を斜に下る通路が堀切を北曲輪(北郭部)に向かうが、此の中郭西斜面には深く広い武者隠しか?空堀状と土橋か?(土塁にしては 頂部の幅に割に内側が垂直に近く高い深い)が二本並ぶ。斜面は西北側に竪土塁状にも見える凸部もあるが地表面の荒れや雑木藪に覆われて、足場も悪くて未確認。
地黄陣屋南面の石積

二ノ曲輪の北端も土塁が築かれ、通路の東面へは片堀切で北の三ノ曲輪に入るが、 曲輪の粗四半分の北東角部が 土檀で街道監視と城域北面防禦の適所にあり櫓台でもあったと思えます。 この先北側へは平坦な自然地形が 延びるが地区道 (車道)が丘陵部を分けて断崖状に切れ落ちた切通し道が 自然の堀切状を呈している。
地黄陣屋北面にも横矢意識の折れを伴う石積土塁

城域を遮断し防禦するには弱い?が遺構としては櫓台土塁を持つ三ノ曲輪(二段曲輪とみるべきかも)から主郭帯曲輪南側の稲荷社(丸山神社?)1段南下の南曲輪 (大手登山道は此の曲輪の 西北端から入る)迄・・残存する土塁や切岸・堀状の崩れた遺構が丸山新城の築城に運び出された石材等によるものか?と割引い想像してみる…!!?。
(現地清普寺・地黄城案内板 Wikipedia 等を参照)


為楽山城(大空寺城)  妙見山 660m   川西市黒川 ・大阪府豊能郡能勢町妙見山・豊能町川尻
 
能勢妙見宮(日蓮宗)の大駐車場から茶屋前に出て石段参道を進む鳥居傍らに、妙見山の開基能勢ョ次(寛永3年1月18日卒)の像が建つ。参道途中の茶屋付近にも3段程の切岸を持つ曲輪状は見かけるが、宗教施設内では整備・改修によるものか不明?。本堂!?前の断崖状の裏山最高所には彰忠碑が立ち、 傍らに三角点石標柱が埋まる妙見山(為楽山660m 点名:奥の院)。
妙見宮参道入口鳥居に建つ開基:能勢ョ次像

妙見山奥の院は此処から更に歌垣山へ延びる北尾根上のピークだが展望は望めないが、山岳修験道場の雰囲気が漂う!!。天平勝寳(749-757)行基により開山された妙見山に、為楽山大空寺(真言宗)が在った付近一帯が為楽山城 か?。妙見山ランドマーク?のシンボル塔:星嶺から山門に進むと・山門手前の幅狭い最高位置の丘陵尾根筋50m程が主郭か?。 彰忠碑裏側から三角点位置にかけて見られる石積みと土塁形状が城遺構かどうか、 素人で判断も出来ないが!!?一部:土塁遺構を遺し大部分は後世の宗教施設等として造成・削平により破壊されているようです。
本堂?が妙見山最高所(為楽山城?)の真下に見える

天正8年(1580)能勢ョ道(ョ次の兄)が多田荘の領主 塩川長満に謀殺されると、月峰寺で仏門に入り修行していた弟能勢頼次が報復 ・塩川氏に対抗する為に丸山城に帰り挙兵、大槌峠で塩川氏と戦闘になるが味方少なく・不利な戦いに敗れ、丸山城も明智光秀に属する 河原長右衛門宣勝の軍に包囲され落城し、天正9年には能勢地方領主となった塩川長満の支配するところとなります。 同年(1581)能勢ョ次は塩川氏の攻撃に備えて丸山城を捨て能勢妙見宮の在る妙見山(為楽山)に城を築いて 織田信長方の侵攻や北攝津にあって宿敵・塩川伯耆守国満の攻撃に備えた山城で、僅かに石垣や土塁・曲輪跡が遺ると云う。
妙見山最高所の石積土塁?

その後:明智方との交渉に応じて能勢氏は明智光秀と盟約を結びますが翌 :天正10年には「本能寺の変」が起き・天王山の一戦で敗れると光秀に加担したとして・またも豊臣秀吉配下の河原宜勝を大将に大軍で能勢氏の大空寺城(為楽山城)や為楽山城の出城として使用されていたものか!?丸山城が攻め落されます。 頼次は三宅助十郎と名を変え諸々流浪するが、天正12年には秀吉に仕えており、九州島津征伐の遠征に出陣。 この能勢氏留守中に塩川国満が侵攻し丸山城は落ち、秀吉から報復の許可を得て天正14年大槌峠の戦いに今度は塩川氏を破り、
山頂主郭?北尾根続きの2-3段曲輪の切岸?

更に片桐且元・池田輝政・堀尾吉晴等の協力を得て山下城は落城塩川長満は自刃し、代々の宿敵・塩川氏一族を討滅しています。慶長4年(1599)京都実相寺の大賢大僧正の紹介で 岡山で密かに徳川家康に仕え、翌:慶長5年の上杉討伐や関ヶ原合戦での従軍と大阪の陣による軍功により、再び旧領地・能勢の領主 (能勢氏中興の祖とされる)となったョ次は慶長6年:地黄城(旗本なので地黄陣屋)を築き、 法華経信仰も篤く、日蓮宗中興の祖とされる京都本願寺貫主:寂照院日乾上人を開山として無漏山真如寺を創建し其の境外仏堂 (飛び地)の能勢妙見山
妙見山最高所:石積土塁曲輪?

日蓮宗妙見信仰の中心となり、 領内には清普寺(能勢氏一族累代の菩提寺)をはじめとして悉くの寺院が日蓮宗に改宗している様子!!。塩川氏は減封されるが存続していた様で、地黄陣屋築城に着手した元和元年(1615)大阪夏の陣の出陣中の留守に、 またしても塩川ョ面(長満の子)が能勢に侵攻するが、松平康親・岡部宣勝ら幕府軍の協力を得て此れを撃破しています。
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