丹波比叡(妙高山)への道深尾須磨子(丹波の詩人)の里/日ヶ奥渓谷?妙高山

2001年04月07日 丹波の女流詩人・ 深尾須磨子の里から旧参道
T春日クリーンセンタ〜神池寺〜妙高山(565m)〜ゴンロクの里
2001年07月07日
 丹波比叡へ日ヶ奥渓谷から辿る滝見の道
U日ヶ奥渓谷(白龍の滝)〜妙高山〜タキガナル・天ヶ岳

日ヶ奥渓谷・白龍の滝(雌滝):中段は大きな滝壷を持っています

近畿の山城
妙高山東城
丹波のお話 肩切り地蔵 すまずの池
校歌の山: 鴨庄小学校 ♪大空高く妙高の…燈明の峰雲晴れて…♪
           ★燈明峰は 横峰山・高谷山の別名

「秋の季に入る先達や峯の霧」神池寺住職松苔軒可常の句で初秋の頃・霧立ち込めた大峰山に入る先達の雄々しい姿を称えたもの。今から300年余年前の神池寺には多数の僧坊があり20数名の僧侶が居住し俳諧も盛ん。中心となって いた可常は松尾芭蕉や田捨女等と共に国学の大家・北村季吟に師事して寛文12年(1672)3月「俳諧法農華」三巻を著し京都で出版したとの奥谷高史氏案内文がすまずの池端にあり、池はモリアオガエルの産卵池としても知
秋の日ヶ奥渓谷:駐車場から

られる。「丹波比叡」と呼ばれる妙高山・神池寺は養老2年(718)法道仙人開基と伝えられ、山容が須弥に似ていることから妙高山と云い山上に池があるので神池寺と名付けられた寺格:天台宗中本山。一帯は多紀連山県立自然公園の一角「ひょうご森林浴場50選」に指定されている。「すまずの池」側には神池寺会館があり林間学校としても利用され此処より本堂に向かう参道途中には肩切り地蔵が祀られている。



詩人深尾須磨子誕生の地から丹波比叡の妙高山・神池寺565mへ H13.04.07

県道97号線で篠山市西紀町から栗柄へ、分岐からは県道69号線で栗柄峠を越えると露岩とタムシバで山裾を白く彩る 三尾山や鋸山の姿が目に映るが此処迄来て三尾山に向わず対峙する妙高山へ登ろうという物好きが中山交差点を右折します。三井庄は丹波の女流詩人深尾須磨子の誕生地です。
春の須磨子の里

「山があれば川がある故郷よ 山に狐 川にゴンロク 今もいるか故郷よ…(望郷より)」メダカとごんろくの里(三井庄地区)の看板があり車道が分岐する角に須磨子の里のこども小公園があります。此れは個人の自費で作られた公園ですが石垣の周囲の小川に本来はメダカや権六(ハゼ科の淡水魚)を泳がせているのでしょう。後方に妙高山塊が見える。此方から妙高山へ向うのは初めてだが左折し集落を直上して風呂吹を経由して妙高山・神池寺への旧参道コースはハッキリしているようなので下山ルートとし春日総合運動公園の駐車場に入る(AM10:15)。ゲートボール場や人ッけのない子供プール横を進み白い高い煙突が目立つクリーンセンタを左折して地道の林道に入るが直に堰堤で終点です。何時もなら谷筋を直進して鞍部を狙うが倒木が目立ち踏み跡も途絶えていそうです。
神池寺山門

同じことなら左手の枝尾根稜線を目指して潅木の間を縫って稜上の踏みあとに出るが延々ビニールテープの続く松茸山の境界線でテープが切れ風に揺れているのが鬱陶しい。この細い踏み跡はやがて右手からの明確な道に合流し三井庄への道標石仏のある辻のお堂に出る。石仏(此処の何体かの道標石仏は文化3年(1806)建立で(右・三井庄:左・細見)私の辿ってきた道は 旧細見集落からの旧参道。辻のお堂背後に上り道が続き正面の広い参道1〜2分で ”すまず池”前の講堂名が明治大覚殿!!です。石燈籠の向いに朽ちた奥の院・展望所への道標が倒れており整備された道を進む。T字辻にある本殿表示とは反対に左折し緩やかな登りコースを道なりに進めば山頂へすぐ。
神池寺境内の肩切り地蔵尊

手前左への水平道が野上野へのかつての参道。しかし以前は倒木や道の荒廃が進み棘の木も多く途中で退散した。今どうなっているかわからないが!程なく妙高山山頂の愛宕地蔵尊の祠が見える。神池寺の山号妙高山(2等3角点565m AM11:30)は展望なく山頂から先は日ヶ奥渓谷へ下るだけ、稜線を辿り降りられるコースはなさそうなので同じ道を途中の尾根分岐の石仏まで引返し短い登りの尾根筋に入る。
69号線竣工記念公園からの三尾山

暫らく続いた山道は段々細くなっていくが此の尾根の最高所辺りの平地には古い五輪塔がある。倒木で分断された踏み跡がハッキリしてくると道は急坂の下りとなり三井庄に下るお堂の辻に出た。神池寺への裏参道だったのでしょう。広いよく踏まれた道の様だが段々と荒廃が進んで谷に懸けられた丸木橋もうっかり踏めば抜けてしまう感じです。途中には普賢菩薩?!でしょうか。お顔の目鼻立ちも鬢もハッキリした舟形石仏像は享保4年(1719)9月建立とある。地道の林道に出てやがて本林道と合流しフロブキ池の横に出てきて広くなった舗装林道を風呂吹(PM12:15)に出る。林道が二股に分かれる広場には石積みの塚があり三界萬霊塔碑・中央に写経塚の碑は宝篋印塔・右手に地蔵尊像が建つ。林道から三井庄集落へは常に正面に三尾山から鋸岳の姿が消えることはない。深尾須磨子の小さな記念公園に出てきて田園風景の拡がる運動公園へ車道を戻る。古路地川に掛かる川北橋を渡りサイレンと喚声が響き渡っている春日スタジアムでは柏原対三田学園の野球対抗試合中。スタジアムの山側の駐車場に戻って次の短時間で登れる山を検討しながら黒井の町へむかう。
神池寺の宝筐印塔

神池寺境内の石造宝筐印塔
県指定「昭和51年(1976)3月23日」文化財の石造宝筐印塔が建つ。現高1.55mの石英安山岩製で基礎は上端に返花座を刻み出し各面には輪郭付き格狭間(こうざま)を入れている。塔身には四面とも花頭窓様に形づくった龕を深く彫り込み、内に仏座像を半肉浮彫りとしており此れは宝筐印塔印として類例の少ない手法とされる。造立年代は明らかにされていないが四方仏の像容や返花座等の各部様式手法からみて南北朝時代のものと思われます。構造手法の優れたもので「太平記」にあらわれる神池寺宗徒の動向等とともに当時を知る貴重な資料であると。
(現地:神池寺石造宝筐印塔案内板:平成5年11月兵庫県教育委員会を参照)


日ヶ奥渓谷〜岩稜のマイナールートを妙高山小峠から岩壁を抱くタキガナル404m〜天ヶ岳  H13.07.07

175号線を走りながら左手に小富士を見て多田橋を渡り(少し手前の渡所橋を渡れば日ヶ奥渓谷へ一直線)舞鶴自動車道路下を潜れば「愛ランド自然公園日ヶ奥渓谷」の大きな看板と丹波の森かすが周辺案内板(Pスペース有)の前を通り長坂池(釣堀)の少し先でキャンプ場・公園の駐車場のある終点に着き駐車場の左手奥から 渓谷の遊歩道がキャンプ場中を通って続きます。
日ヶ奥渓谷入口にある発電所跡

日ヶ奥から妙高山まで昭和40年1月多紀連山県立自然公園に指定された。妙高山・神池寺は修験道の霊地として開かれ丹波比叡称されているが詳細は冒頭で説明済みなので省略。今回の渓谷ルートは白龍の滝を始め奇岩や巨石が点在し清流を縫うように連なっているとは案内板の説明です。駐車場からも岩妻「谷中の神」まで車可能だが一般車は進入出来ない。
神池寺へハイキング道展望台から

梯子&滑り台で谷へ降りると15m程のゲートロックがお出迎えです。一杯水入り口すぐ3m程の滝は左手を登る。この谷は前日までの雨のせいばかりではないが苔のついた滑りやすい岩なので軽登山靴では足元注意です。3m滝を越せばすぐ遊歩吊橋の下。大きな岩の間を越すだけなので遊歩道を辿り石仏の建つ岩の間に続く吊り橋を渡り役行者像を過ぎ綺麗な岩床の谷に降り滝の横の4m岩場に古いフィックスロープがあり、これを利用して攀じ登る。岩は硬いが滑りやすいのでこのロープは大助かりです。
白龍の滝(雄滝)

以前から朽ちた吊り橋があり右手は岩壁に沿い大きく高巻く道があり此処に白龍の滝(雌滝)が架かる(AM7:25)。朽ちた吊橋は観滝用だったか。谷一杯に広がり岩壁の間を落ちる大滝が雌滝なら、この先の雄滝はもっと凄い?と思いきや此処の滝女性上位で雌滝の方が数段迫力がある。雌滝の一段目の右岸(左側)にロープがあり落口に着くと二段目の滝の間は深く大きな釜になっています。お釜を左岸へ鎖がセットされているが其処から先さらに岩場の奥にも滝が架かっていますが通過不可能ですので元の階段の急な道へ引返す。雌滝の落ち口上部に山の神が祀られており此処からは林道沿いです。
白龍の滝(雌滝・中段のお釜)
 

途中から無理に谷に下りますが小滝が 2〜3有りますが流れの中に入らないと通過出来ないので元に戻り暫らく林道歩きで左手奥に見えてくる白龍の滝(雄滝)に着きます(AM7:35)。滝の通過は三つ道具が必要ですが登った形跡?はなさそう。雌滝に比べれば優しい旦那さん的な雄滝です。又林道に戻って先に進むが谷の瀬音を聞いても藪の中の溝谷なので快適な遡行感はないので止めます。「しる谷入り口」・次の岩妻入り口は「谷中の神」神楽道(AM7:50)50m程先には「かんかけ入り口」 「ナバ谷出合」と夫々に立派な標識は・まさしく松茸山の境界標識!!。「南谷入り口」直ぐ先で小峠に着く。小峠の右手にテープに混じる見覚えの赤布は MTB大柿氏('98/6)のもの。
桜不動の滝

日ヶ奥渓谷〜妙高〜下三井庄がこの時のコースのようです。小峠から神池寺への林道へ下るが今回はこのテープから尾根通しに妙高山へ直登するつもりで入っていくが登山としてはマイナールート。一部不明瞭なところや山頂近くで藪漕ぎっぽくなりますが山頂地蔵尊手前7〜8mにある石燈籠の前に飛び出す。稜上の所々に露岩・岩場の山へはどのコースにもない展望が楽しめ且つ妙高山を目前に眺めながら進む。目前に横峰山や親不知・五大山へと展望岩に登ってみると雨上がりで、もやっているが見晴らしは上々。踏み跡も比較的はっきりしている尾根筋だが妙高山手前の鞍部からは急に途切れがち。左寄りにコースを採って 石灯篭のあるハイキングコースに飛び出す。其処が妙高山山頂(565m AM8:40)。前回は五輪塔の残る尾根筋を肩切り地蔵へ出たが今回は神池寺本堂への道を採ります。
神池寺「すまずの池」

本堂横のお堂に不思議な阿吽の一角獣(狛犬)が歓迎してくれる。本堂横からアジサイの咲く県立自然公園の横を庫裏に出て林道を下る。林道からは西面に岩場を覗かせるタキガナルが望まれ林道のヘアピンカーブの角から遮断機のある林道に入る。日ヶ奥渓谷への道で途中桜不動尊を祀る桜滝が架かる。ハイキングコース中谷を渡るところから詰めて来ればゴルジュの奥にあるこの滝に着きます。
鴨庄から神池寺まで続くカヤトの沿道が県道541号(細い林道!?)

滝上から右岸の草付きを上下するが手掛かりが立木だけなので危険。妙高山へ直上した小峠に戻ってきましたので(AM9:25)今度は右手(反対側)の踏み跡を辿ります。途中4〜5箇所に境界標が固まっている場所があり 此処がタキガナル?三角点を探したが見当たらない。しかし程なく展望のない藪中のような稜4等3各点タキガナルは綺麗な石の標柱を覗かせていた(404m AM9:50)。この下の峠(AM10:05)はこの後天ヶ岳から上り返し此処まで来て峠から下る。峠から15分程で無名ピークに着きタキガナル東面の多くの岩場を見ながら 右手のテープを頼りに下り塚原から神池寺に向う林道に出て「こぶしの里アマゴの家」の先30mの橋の側で地蔵尊と小さな六地蔵が祀られるが付近に墓地はない。
不思議な!阿吽の一角獣(狛犬)が歓迎

天ヶ岳へはこのピーク手前から左下へ山道を下る。稜線通しでないので間違いやすく暫らくは藪道。今年四月に登った日内城址を眺めながら戸平トンネルへの道(鴨庄小学校前のじんで橋 AM11:00)から上牧へ出ると小さな山だが天ヶ岳(312m)が嫌でも目に飛び込んでくる。車道を歩くより天ヶ岳を越え日ヶ奥池へ出られると思い登り口を捜しながら進む。舞鶴自動車道手前から山側を辿り 高速道路手前から山に向う猪除け電線があるので此れに沿って天ヶ岳の少し北側の谷依りに進みます。
神池寺への林道より望むタキガナル

稜線へ上りきると今までの道が嘘のような山道が現れます。何処からの道かは知らないが高速道路工事で取付きなど分からないかも知れないと勝手に思うが少し癪だ。天ヶ岳山頂(312m AM11:55)へも結構良く踏まれた道が続く。展望は妙高とタキガナルへの稜線が見えるだけ。直ぐ下に見える池に下る道が見当たらないが「小多利」の境界プラ柱の続く結構広く確りした山道がタキガナルへの稜線に続いているので此れを辿ってみることにした。一部崩壊し一部藪となってはいるが先刻通ったばかりの尾根に戻ってきた。結果から言えばこのまま小峠まで同じ道を引き返せばよかったがタキガナル手前の峠から下り(下った方向が逆だった)途中右下への谷と分岐するが稜線を進み
神池寺仁王門

下りきったところは舞鶴自動車道高架手前で溜池があり左手に「最明寺旧跡」と書かれた石柱があった。さて右か左か・どちらへ進めばいいのか?右往左往とはこのこと。しかもどちらをとっても高速道路に並行の山側の道は車道なのに行き止まり。一方は貯水装置と廃墓地が終点で其処から先は山道もなし時間をロスして引き返し高架を抜けて集落側の道に出て、やっと小多利の小富士を確認して向かい延々1時間以上の車道歩きになってしまった。


 妙高山東城 妙高山砦(城郭類似遺構)

妙高山東城
 妙高山東峰 550m 丹波市市島町多利
妙高山砦(城郭類似遺構) 妙高山565m 市島町多利

R175号線の三ツ塚史跡公園手前「市島支所前」交差点を右折し戸平峠を越え福知山市三和町に向かう県道59号線より鴨庄で県道541号を詰めると終点が妙高山神池寺。丹波比叡とも呼ばれ第44代元正天皇(女帝:在位715-724)の養老2年(718)法道仙人が巡錫し持仏の観音像を納め道場としたのが始まりで
神池寺本堂

山上に小さな池があったことから神池寺と名付けられた天台宗の古刹。第45代:聖武天皇(天平年間:在位724-749)代に兇賊により寺坊は灰燼に帰したが天皇が直ちに勅願所として堂宇再建を命じられ再興させ、行基菩薩が来山して弥勒の木像を刻し仁寿年間(851〜854)には天台座主:慈覚大師円仁
神池寺:春日神社跡

(比叡山興隆の祖)が来山して教えを説き大師の刻んだ不動明王像や平重盛の写経を埋めた五輪塔は寺宝となっている。第56代:清和天皇の貞観元年(859)には堂宇32,坊舎百余の再建成って天台宗道場として隆盛し平安時代後期:保元3年(1158)には平重盛(平清盛の嫡男)が平家一門の安寧と国家鎮護を願い法華経八軸を書写して埋め五輪塔を建て、奈良春日神社を勧進して鎮守としている。現:本堂裏手には明治政府による神仏分離令により廃されたが広大な春日明神跡が遺り其処此処に石垣・石積み跡が残る。
神池寺・妙高山東城・三井庄(手前右下)・野上野分岐(道標石仏あり)

神社であった遺産?が行者堂前に座る不思議な狛犬の石像か!?。第96代後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府を倒した征夷大将軍大塔宮護良親王が元弘3年(1333)後醍醐天皇が船上山(鳥取県東伯郡)で鎌倉幕府討伐再起に挙兵すると神池寺宗徒(堂衆)に論旨か?令旨(親王の命を伝える文書)錦旗を授け神池寺宗徒80余騎も六波羅探題を攻め五條西洞院まで攻め入ったが…
曲輪北東部:空堀と竪堀・土塁を組合せた複合遺構!!

300余騎の六波羅軍に包囲されて全滅…悲運だったが建武中興(建武の新政)成ったのは其の僅か2ヶ月ばかり後の事。この時は政敵!足利尊氏も後醍醐天皇方に付き篠村で挙兵した。神池寺堂宇は殆どは兵火に焼亡し天正6年(1578)明智光秀の第2回黒井城攻略の際にも兵火の災禍に堂宇を消失する。北方の福知山からは市ノ貝・白毫寺道を小野木茂勝がR175号塩津峠を越え?上竹田・勅使からは明智光春、京:千束街道からは藤田伝吾が日内城・岩倉城を落とし鴨庄から
妙高山東城:曲輪南西切岸:下に畝状竪堀群が並ぶ

神池寺道を南進し妙高山から稜線伝いの神池寺参詣道を多利・野上野に至り、黒井城に迫ったものか…?。此の妙高山東城(仮称)や妙高山北方の天ヶ岳城(仮称)が 奥丹波勢の砦として明智勢に抵抗を示したか?、第一次合戦時の光秀の陣城小富士城を茶臼山城に移した頃には黒井城を望める此れ等の砦(いずれも堀切をもつ)が付城として転用されたものか?…築城時期・目的・
妙高山東城西切岸下部に20本近い畝状竪堀が並ぶ

城主等城史は一切不明。妙高山東城(仮称)は妙高山頂から神池寺・三井庄へ下る分岐鞍部からの尾根続き東の峰にあるが築城目的・時期・城主等城史等資料もなく一切不明の中世城郭。黒井城砦群の一?か明智勢傘下の某部将が拠った付城の一か?。
妙高山砦:妙高山頂にも妙高山砦(城郭類似遺構)があり妙高山東城の黒井城監視砦と思える。黒井城砦群で落城後に向城に転用されたと思われる城砦群は妙高山北方の市島町鴨庄(北奥・上牧・喜多)から梶原・小多利・多利…へと
妙高山東城:主曲輪:南に回り込み虎口受曲輪から中央郭に入る

福知山から小野木重勝・上竹田・勅使からの明智光春や京:千束街道からの藤田伝吾の侵攻ルートに合わせたように日内城・西山城・岩倉城・長谷山城……等黒井城砦群は明智方の向城転用砦が多く 妙高山北の丘陵上(梶原・小多利境)の畑山城館・矢谷城館・天ヶ岳城(仮称)も妙高山東城(仮称)と呼応し、妙高山西尾根続き先端峰にある野上野城等も小富士城を陣城とした明智方の向城として、縄張りからは明智光秀につき京丹波方面から参戦した部将等が改修し拠ったものか?。近く:鴨庄の長谷山城・上牧城(仮称)にも丹波市内に珍しい
妙高山東城:曲輪中央に石列・五輪塔(上中央右)

畝状竪堀群が妙高山東城(東西150m・南北50m程の城域)の南面斜面に遺る。夥しい竪堀群(20数本)を観る。春日町三井庄からの攻撃に対処した ものか?。城域北面を東方へ数条の短い竪堀と浅くなっているが竪堀を繋ぐ横堀や竪土塁をL字状に組合わせたような形状が集中して構築されている。神池寺から妙高山山頂の奥に院に通じる参道や同尾根筋に取付く攻撃に備えたものか。城域中央の主郭には幅2-3mの方形土壇上には
曲輪東南端部に横堀・竪堀・土塁・畝状複合遺構がある!!

五輪塔が祀られ東1-2段下の食違い虎口!?曲輪から主曲輪に入る。常駐意識の砦ではなさそうなので西尾根伝いに黒井城東山麓の野上野や多利から多田へと傾れ込む織田方の陣城?・駐屯?地だったのでしょうか。激戦があった史実は不明?。宝篋印塔でも卵塔でもないので高僧の供養塔とも思えず「建武の新政」の礎となり五條西洞院で六波羅軍300余騎に包囲され全滅した無念の神池寺衆徒八十余騎の供養塔か?。市島町下竹田「鎌倉山清薗寺」は用命天皇(崩御の587年)皇子麻呂子親王開基で此処にも大江山鬼退治伝承がある。
妙高山頂:北斜面・西尾根続きに平坦地形(曲輪)あり

蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし崇峻天皇を擁立したが其の崇峻天皇も馬子が暗殺している…!?。軍を進める麻呂子親王が休んだとする”腰掛け岩?”伝承も 神池寺南山麓の三井庄にあり神池寺にも伝承はあると云う!?。鎌倉幕府を倒した護良親王との伝承が混在しているのかも…?。兵火による災禍に消亡した堂宇等は衆徒の寄進により天正15年(1587)再建成り昔日をしのぶ賑わいとなったが 元禄(1688〜)の頃より寺運衰退し其の後も急速に廃頽していった。神池寺の寺宝には慈覚大師が彫った不動明王像(木造)・平重盛が国家鎮護を願い法華経八軸を書写し埋めた五輪塔等…数多く伝わるが
妙高山山頂の権現社燈籠・礎檀が残る

なかでも此処に挙兵した護良親王の鎧は明治初年に京都梶井宮(大原三千院門跡)に請われ・鎌倉神社(護良親王を主祭神とする鎌倉市の鎌倉宮<大塔宮とも>)に移されご神体になっている。なを一帯は多紀連山県立自然公園の一角で「ひょうご森林浴場50選」にも指定され、秋の紅葉も有名だが近年クリンソウの群生地も発見された。






肩切り地蔵

平安時代:貞観2年(860)春四月、里の桜も散った頃、妙高山上は今を盛りと爛漫の桜が折からの落陽に映え ていた。旺盛を極めていた頃の神池寺の話です。天台宗の道場として寺勢盛んだった神池寺の門前町として湯谷 (市島町多利)には茶屋が軒を並べ人の行き来も多かった。茶汲み女のお美津は花に誘われ仏に詣でる数多の客を今日も愛想のよい笑顔で送り迎えていた。長い春の日も黄昏・人足も疎らになると彼女は毛氈を敷いた床几に腰を下ろし、手にしたお盆を膝の上で廻しながら今宵も三井庄から時々訪ねてくるであろう由松のことを思って人知れず心を躍らせています。「由さん、きっと来てね」彼女は心の中で・そう念じながら 店の終いかゝり・ふと振り返ると由松が立っていた。日焼けした健康そうな顔、逞しい肩、頼もしい男の姿にお美津はニッコリ。 ドッカリ床几に腰を下ろし人目のないまま寄り添う二人。こうした逢瀬を楽しんで別れて帰ったすぐあとから「今夜四ッ過ぎ腰掛松辺りまで来て欲しい」とのお美津の便りに由松は、かってそんなことのなかっただけに、いぶかりつつ用心の為道中差しを腰にして出かけた。
神池寺境内の肩切り地蔵尊

おぼろ月夜は中天にかかって春の夜は更けてゆく。待つまでも無くコトリと音がしたので振り返ると、そこには夜目にも麗しいお美津が立っている。彼は何だかいつもと違ったお美津を感じた。ニッと笑う笑顔にはいつものエクボはなかった。夜目にもハッキリした着物の縞目に彼は不審の思いを増した。「待ったかい?」彼女の手に触れた由松は、その手の冷たさから五体に伝う冷感に夢中になって道中差しを抜くと袈裟がけに切りつけた。カチンと硬い音がしたのを夢心地に聞いて由松は気を失ってしまった。朝露のしめりに我にかえると、かたわらに袈裟懸けに切られた石地蔵を見て昨夜の出来事が夢のように思い出されるのであった。
神池寺「すまずの池」

公達に狐化けたり春の宵"恋の暗路にふみ迷って狐狸にたぶらかされ、地蔵尊を切った罪の深さに由松はおののいた。狐か狸・また妖怪の仕業と見抜くことも出気ず地蔵尊を斬った罪の深さに懺悔し 生涯吾が身を捨て地蔵尊を供養したと云われます。今まで肩切地蔵尊は大路から登った坂の上の椎の木陰に祀られていて肩から上のできものの願をかける者が絶えないというが参拝者とりわけ高齢の方達のお参りには 困難なので平成15年(2003)6月現在地(神池寺境内)に移転されました。
(丹波新聞社発行・由緒を尋ねてより抜粋 現地:肩切り地蔵由来説明書 を参照)
 

すまずの池

お寺には水の綺麗な池があり、側には鐘楼があって小僧さんが朝夕交代で鐘を搗いていた・・・が「和尚さん鐘を搗きに行った小僧が今日も帰ってきません」 「えっ、帰ってこないと!!変だなァ・此れで三人目じゃ、寺が嫌になり山を降りたのかなあ」こんな不思議なことが起こるので和尚は一人の坊さんに鐘を搗きに行く小僧の見張りをさせました。
神池寺「すまずの池」

何日目かの夕方・いやな黒い雲が空一杯に拡がり、あたりは真っ暗になってきました。小僧はいつもの様に鐘を搗き始めます。その時鐘楼の側の池の水が波立ち始め・辺りの草木がざわめきだします。そして池の水が渦巻き始めたかと思うと大蛇が頭を持ち上げ大きな口で小僧をひと呑みにして池に潜り込む。アッという間の出来事に見張りの坊さんはどうすることも出来ず和尚に報告し色々相談します。その時一人の坊さんが「小僧の人形を作り人形に毒を入れたらどうじゃろう」「それが良い」とさっそく人形を作ります。それから何日か後、前と同じ様に空が真っ黒になりだします。「今だ・そら人形を運び出せ」と小僧が鐘を搗いているように人形を置きます。
神池寺「すまずの池」

そして鐘搗き棒に縄をつけ木の影から引っ張って「ご〜ん、ご〜ん」と鳴らし始めます。すると前のように池の水が渦巻き始め、がばっと大蛇が頭をもたげて人形をひと呑みにして池に潜り込んでいきました。「やった上手くいったぞ」又池の水が波打ち大蛇が浮いたり沈んだり、のた打ち回るが、そのうち弱ったのか池も静かになりました。このことがあってから小僧達は大蛇に呑まれることもなくなり安心して鐘を搗くようになりました。しかし何時までたっても赤茶色に濁って綺麗な水には戻りません。村の人達はこの池を「すまずの池」と呼ぶようになりました。
(丹波のむかし話 丹波の森協会 参照)

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