岡本八幡谷・風吹岩・七兵衛山・打越山・お多福山・蛇谷北山・最高峰_
Tロックガーデン〜東お多福山〜蛇谷北山〜六甲最高峰 2000年12月23日
U 芦屋ゲート/横池(雌雄)〜荒地山〜高座滝〜地獄谷〜風吹岩 2001年7月14日
V(芦屋歴史散歩コース)
 阪神打出駅〜金津山古墳/阿保親王塚/鷹尾城/高座滝〜荒地山2003年5月25日
W岡本八幡谷〜七兵衛山〜打越山 2003年1月26日
干支の山: 蛇谷北山
近畿の山城 鷹尾城(鷹尾山城/芦屋城)
戦国悲話: 鷹尾城の松若丸

芦屋の鷹尾城(鷹尾山城/芦屋城)は 西宮・越水城の出城として築かれた。住宅街の中の民家の白壁に「越水城址」の石碑が埋め込まれている(現在は公園に移設)だけですが城ヶ堀・城山の町名も残り城址よりも城址らしい西田公園(万葉植物園等整備されています)が 隣にあって旧西国街道の要衝です。兵庫南部地震の時まで直ぐ近くの分銅町に住んでいたので懐かしく想い出しました。…六甲最高峰への最もポピュラーな人気コースはロックガーデンから風吹岩〜雨ヶ峠をへて住吉川へ下り七曲を 一軒茶屋・六甲最高峰に至るコース。ロックガーデンの入口は高座滝(雌滝)ですが滝の左手岩場には近代登山の先覚者藤木九三氏(京都丹波・福知山の出身)のレリーフが埋め込まれています。


T荒地山・鷹尾城・高座滝・風吹岩・東お多福山・蛇谷北山・六甲最高峰  H12. 12.23

私の東六甲への登山起点の一つは此処芦有道路の芦屋ゲート下です。芦屋カントリー倶楽部への道ですがゴルフ橋手前に片側一列駐車可能です。広い河原は夏の日帰りキャンプ場・時間によっては 猪が出てきています。ゴルフ橋から右の谷に沿う道は東お多福山・奥池方面に向うが今日は帰路のコース。橋上からこの谷を覗いて見てください。短いけれど綺麗な水と面白そうな谷です。ハイキングコースに沿っての道ですが遡行は、へつりや滝登りがむつかしそうで夏間に一度はと思ってはいるが…未だ果たしていません。
風吹岩からロックガーデン道と鷹尾山

ゴルフ橋を渡ると直ぐ左手の谷へ下って岩跳びの渡渉点。丹波の薮山と違い歩きやすい道が展望や落葉の散歩道を演出してくれる。途中2ヶ所程右手の尾根に道を分けるが間違っても荒地山への遠回りか風吹岩〜雨ヶ峠を結ぶ銀座コースに出る。弁天岩分岐の標識が見えれば荒地山へは約5分。此処へ来る途中の車道から谷側を見ると、かって岩登りゲレンデでとして登攀開始点から ハングの岩場もネットをかぶったまま完全崩壊を待っている哀れな姿を見せる。先の分岐より弁天岩を経て芦屋へのコースは震災以降閉鎖中?。荒地山少し手前の岩梯子を経て城山へのコースを山頂往復で帰ってくる。荒地山549m山頂からは東お多福山と西お多福山、六甲最高峰が重なってみえる。いつもはこのまま、なかみ山を経て奥高座滝や湿原帯を 横池にでるが引き返して岩梯子を下ります(9:45)。右奥に荒れた岩場ブラックフェースがあるが今はアイゼン履いての登攀訓練にさえ利用されていない?。下方に岩頭が見えるのはロックガーデンの岩場の中でもピカ一のキャッスルウォールですが、 此処へ登ってくるには猪村のまっただ中を通りますので嫌でも猪君に出会えます。
藤木九三氏レリーフ上には18mの高座滝(雄滝)

下りきった鞍部は奥高座滝への分岐(10:00) 此れより馬の背の尾根を辿るが道良し展望良しで、さすが六甲銀座のわき道も登山者は多いです。堀切や竪堀・環濠とも思える場所の先にちいさな平地がありテレビ中継所施設が建っています。(10:10)目指す城山262m(鷹尾城址)です。1500年代の山城で説明は登山口にあるだけだが、それより古い芦屋十景の一つとして展望でも楽しんでください。住宅街を抜けて高座の滝に向う車道に城山登山口と城址の案内板が建つ。高座の滝では存知・日本RCC発祥の地と 育ての父・藤木九三氏とご対面です。地獄谷からピラーロックやプロペラ岩(地震で崩壊)を経て風吹き岩も楽しいコースですが、今回は行者堂よりレリーフの上を 通過して高座谷へ入ります。 直ぐに下の滝からは見えないが約1.5倍の大滝が岩盤を滑り落ちています。この時期ですので水量は少ないがボルトルートは沢屋さんには魅力でしょう。落ち口右手から立ち木と岩を拾って巻き上がりますと猪村入り 口の堰堤の下に出てきます。高座谷を300mばかり入った所に小さな滝と不動尊像があるが鎌倉時代初期の土師質燈明皿や瓦器包含層があり修験の道場であったことがうかがわれます。猪とのご対面が多いが人に慣れていますのでジッとしていれば避けて通るか、びっくりして逃げていきます。
ロックガーデン:ピラーロック付近のサンドロック

ロックガーデン道へ出て風吹き岩447m・霜柱を踏んで横池へ(11:20)☆以前この池で猪が泳いでいるのを見たことがあります。暑さに弱い猪ですから泳ぐこともあるのでしょうか・雨ヶ峠(11:50)からは西お多福山のアンテナ群や最高峰・皆さんは馴染みの薄い蛇谷北山を望みながら東お多福山をめざします。六甲ではめずらしい(いゃ貴重な存在の)草原の峰を縦断します。東端にピークの標識があり南への広い道は芦有のバス停へと続きますが北に向って下降します。下りきると土樋割(12:10)の峠です。 オフロード車なら通過可能なのでこの先 ・本庄橋 (立派な石の橋だったが今は無い)近くまで行けるので七曲〜最高峰コースの場合利用可。土樋割からも稜線通しのよく踏まれた道ですが銀座コースの直ぐ隣なのに此方は静かなコースです。左手の谷は黒岩谷〜おこもり谷(石の宝殿の お籠堂があったからかな)で堰提無かった頃登ったが 滝とも呼べない小さな段差と薮漕ぎだけが思い出されます。土樋割から1.5kmでその石宝殿ですが、その間のピークが蛇谷北山です。薮の中に蛇谷北山836m(12:30)を示す標柱があります。辿ってきた東お多福山は正面・その先に風吹き岩〜打越山への山塊が見えるこの山は芦屋市の最高峰でも有ります。目前の石宝殿へは一旦下って登り直すと笹を割って突然・白山姫観音像が現れます。広場の前の赤鳥居をくぐって本殿に出ます。ここは白山大権現を祀るお社です。(西宮神社にはこの石宝殿に向っての分社があります)社殿前から熊笹峠経由で奥池への下山コースもいいと思う。六甲ドライブウェイに出ると鉢巻山トンネルが見えトンネルの中央が西宮市と芦屋市の境だがトンネルを抜け100mも行かないうちに今度は神戸市に入り、カーブを2回も回れば有馬への魚屋(トトヤ)道を右に最高峰へ向います。
東お多福山の草原尾根を行く

六甲最高峰1等三角点931.13m脇に大きな木の標柱が設置されました。撮っても何処か判らなかった今までと違い、記念写真組が増えたかなぁ。此処に新たに大阪防衛施設局が通信施設を建設中です。完成後は現行の施設は解体されます。一軒茶屋へ出てからは七曲道を一目散に駆け下ります。!!!東お多福山の西端・雨ヶ峠付近で出会った人たちが登って来るのに出会い住吉川へ降立ちます。この直ぐ下方に本庄橋があったのですが今は有りません。表六甲の谷歩きには此処住吉川の枝谷に 幾つかの良い谷がありましたが、堰提や地震や大雨による崩壊で、谷歩きの良さは失われつつあります。大月地獄谷もメインの旧F2も崩れ埋もれ、以前の面影は滝上部にあったハーケンが所在を教えています。道を左へ流れに沿ってしばらく進み土樋割 (PM1:35)へ出て今度は蛇谷沿いに林道を下り芦有バス停東お多福山登山口(1:50)に着きます。横断歩道を渡り宅地を抜けるとドライブウェイ沿いに谷筋のハイキング道をゴルフ橋(PM2:10)へ戻ります。


U梅雨明けの休日・ロックガーデン地獄谷荒地山〜横池〜風吹岩〜地獄谷   H13. 07.14

芦有道路ゲート下のゴルフ橋(AM10:45)から荒地山(549m AM11:10)に向かい、西へゴルフ場・東お多福山・最高峰に至る東尾根や十国展望台等を望みながら下っていきます。花崗岩の露岩が随所に有り休憩・展望の場を与えてくれます。風は心地良いが、じっとしていても汗ばむ程。奥高座谷源流近くの水場(宝寿水のプレートが以前は掛かっていた )に寄って喉を潤し3〜4分も谷に沿って進めば風吹岩〜雨ヶ峠への縦走路に出ます。
風吹岩から向う山上池の横池(雌池)

左折して程なく打越峠への分岐からは十数歩で横池(雄池)への小道があり寄っていきますが御覧の通り干し上がる寸前で金魚の群れも池中央でパクパクと苦しそうです。周辺に登山者が休んでいるので北側へ廻り込んで小道に踏み込み横池(雌池)に下ります。雌池はいつでも静かで神秘的な雰囲気を醸し出しています。これから高座滝までは甲羅乾しになりそうな中央稜を下りますので、ゆっくり休んでから出発します。荒地山に向う岩梯子あたりに人影は在るが、さすがブラック岩周辺には誰もいない。正面に鉄塔が確認できれば其処が風吹岩。さて此処から高座滝までは六甲超人気コースですネ。この暑い日中に続々と登ってくる登山者には本当にご苦労様…高座滝(雌雄)上部堰提の猪村に猪は未だ出てきていない(PM12:25)。広河原の木陰に休めそうな岩があるので其処で休む。
横池(雄池)

が居ないと思っていたが一頭、目に障害を持っているのか片目の赤い猪が水に浸かっていました。身体に喫水線マークをつけたまま此方に寄ってきますが私も少し休まして欲しい。鼻を突き出してフウフウいっているが険悪な表情はない。暫らく休んでいる間:ずっとそばに居たが岩場を離れヤッと分かった・猪は自分の身体をこの岩に擦りつけている。身体の横やお尻まで…ゴメンね猪さん(こいつは雌でした)…私のほうは大丈夫かな?(ダニなぞついてないか!)大谷茶屋の高座滝(雌滝・雄滝)に再見した後で登り返し地獄谷堰提(砂防ダム)上の砂地へ降立つ。正面に崩れ落ちた?岩が谷を塞いでいる辺りから谷を詰めるが左手上部へ続く踏み後はゲートロック(比較的簡単に登れる岩場でA懸やブラックフェースが面白くなくなった分、此処は近くて高度感も楽しめる。多くの登山者からも目立つ位置で自己PRにはいいか…。谷の少し先左奥にはホワイトロック等…があるが今回は梅雨明け宣言間近の猛暑の中なので谷歩き。実はこの谷十数年ぶりに入りますが嬉しいことに殆ど様相は変っていません。小滝が随所に次々と現れその全ては滝身に沿って登れる。2〜3の滝を越せば二段4m程の滝が行く手を塞ぎますが昔から、多くの遡行者が訪れていますので、岩が凹むほどに踏み後・コースは分かります。左に巻き道は有りますが此処からは巻かずに滝登りを楽しみましょう。
芦屋・ロックガーデン地獄谷

水流に沿って左から2段目は右手から越していく。 この上にも2m程の斜瀑があり小滝が連続して現れます。谷中に大きな岩があり右岸(左手)に25m程の岩場が見えます。此処もフリーで楽しめる岩場ですが名前は知らない。中央付近で岩を抱くように左へ、又はハングを乗越し(此れは少し度胸が??)若い頃数回登ったことがある。上部に大きくせり出した大岩を載せる7m程の滝、5m程 の綺麗な滑り滝は草鞋だとそのまま快適に乗越していきたい滝です。正面に堰提が現れ右手の岩場に沿ってテープが見える谷の分岐に着く。此処には深くは無いが50〜60cm幅の甌穴が見られタオルを水で冷やして汗ばんだ身体を拭き休む。堰提はテープ伝いに右手から巻きあがるが右手をそのまま登り切って中央稜と並行に風吹岩に向う尾根に取付くのもいいが暑くて其方に向う気がしない。堰提上部にも3m〜5mの直瀑が有りますが、難しいところにはロープがフィックスされています。B懸(古くから名の知られた垂直10〜15)の岩場ですが中央稜から見た限りでは周辺は震災以降崩れて様相が変わっているようですネ。
風吹岩から阪神市街地を望む

このB懸へ向う分岐(PM1:30)を過ぎて益々水音も小さく、やがて消えると急な登りが続きますが振り返れば芦屋・灘の市街地と 海が見えています。風吹岩の鉄塔の前に飛び出してきた(PM1:40)。此処から高座谷へ下りキャッスル・ウォールから荒地山の岩梯子へと思ったが暑さで往時をそのまま引返す。魚屋道から荒地山への分岐(PM2:00)へ出て再度、荒地山の水場へ向かうと水の出がよくなっていた。貴重な水場なので大切に守っていきたいところ。荒地山からの下りも、ゆっくリズムでゴルフ橋(PM2:50)さすが休日の昼下がり、河原に向った車の列が芦有道路近くまで片側に駐車の列です。
【最新情報 H15.5 此処を起点にした時、附近一帯は駐車禁止。芦有ゲート入口に駐車場があります】
六甲地獄谷は四つある【かっては有名だった大月地獄谷/裏六甲地獄谷/鍋蓋山の地獄谷/ロックガーデン地獄谷】


V阪神打出駅〜金津山古墳〜阿保親王塚〜鷹尾城〜高座滝〜荒地山 H15. 05.25

西宮市から国道2号線を西に向かい弓場町の緩やかな坂道をのぼり切った付近から芦屋市に入る。この辺りは延元元年(1336)楠木正成が足利尊氏を迎え撃った「打出浜合戦」の地で大楠公戦蹟碑が立つ。以前から此処に寄ってみたかったと南朝ファンで楠公贔屓の「anne猫さん」の呼びかけで此処から鷹尾城へも行ってみようと城郭仲間の「芦屋オフ」を実施。阪神打出駅に集合したのは地元阪神地区からはanne猫さん・口さんと私、加古川のKAIさんは元西宮市出身、同郷)で丹波の城へは先日ご一緒したYORIさんの面々。anne猫さん以外は鷹尾城が登山コースになるとも知らず!…今回はキャッスルウオールの名にもシビレている城ファン。鷹尾城から荒地山へも岩を縫って登って行こうとの強行軍。
開森橋から芦屋川と鷹尾城山

阪神電鉄打出駅を北に出ると阿保親王塚の石碑が迎えてくれるが、此処へは未だだいぶ先ですが目的の鷹尾城 (芦屋城)に向うコース途中です。打出小槌町の住宅地の中に緑の空間が見えると打出名所に謳われた黄金塚(金津山古墳)。伝説の黄金を探してみても見つかる気配サラサラなく、ゾロゾロと国道2号線を大楠公戦跡碑に向かう。当初の24日オフを一日順延して今日になったのにはanne猫さんなりの綿密な??理由があった事は、此の石碑の前に立って分かります。延元元年(建武3 1336)元年5月25日 (旧暦なので今日ではなく7月上旬 (~~; !!)忠臣・楠正成が神戸湊川の戦いに一度は足利尊氏を兵庫沖へと敗走させたが・此の戦いに敗死した命日だったんですね。西宮〜芦屋〜御影に続く浜沿いの道は交通の要衝で南北朝期の打出合戦や永正8年には鷹取城・瓦林氏の攻防では芦屋河原での合戦等、激しい戦いが展開されたところです。R2号線の楠公碑をあとに住宅地内を抜けJR線を北に渡って阿保親王塚へ向います。荒々しい露岩を剥きだした荒地山を背後に鷹尾の城山も見えてきます。黄金塚が打出小槌町ではなく春日町に有ったように?阿保親王塚も親王塚町ではなく翠ヶ丘町にあります。宮内庁管理の陵となっていますが元々は円墳で高さ3m近い深い周濠を持った様相は、その一部を見る限りでは堅固な二重空掘りと土居で囲われた豪族の構居か平城…。さて鷹尾城へと山芦屋町方面を目指す。芦有ドライブウェー・奥池方面からの車道と合流する閑森橋交差点には文豪・谷崎潤一郎の名作「細雪」の碑が建てられています。橋の上からは芦屋川の流れの先に城山(鷹尾城)を望む。此れよりはルート説明も無用でしょう。住宅地の途中 ・城山案内板のある処から高座の滝への道を分けて右手奥への道を進む。最初の展望所付近から曲輪・掘切探しテレビ塔の主郭!からは昼食タイムも惜しんで幾本かある竪堀へも降りてみる。KAIさんが本郭部に近い竪堀下方に苔むした古い石積みを二箇所ばかり発見します。荒れた凹部の上方には崩れそうな露岩帯があるが砂防用にしては一部だけなので不十分です。
鷹尾城 本郭側の竪堀A下部の石積

竪堀なのに途中に石積みがあるのも解せないが下方からの傾斜も比較的緩やかなので 芦屋川右岸から登城道として利用された竪堀ではなかったかの見解も出てきます。山上の二重横堀も旧陸軍の高射砲用塹壕だったかどうか未だ良くわからないところだが居館跡とも思える北側の平坦地も覗いて見てから キャッスルウオールへ向かうが、山慣れないメンバでは荒地山からの降りが問題。岩梯子も行って見たいので鷹尾山の鉄塔へ向わず高座滝へ降り、奥高座谷をキャッスルウオールに向います。ロックガーデン道の尾根コースと分かれて高座滝(雄滝)上の堰提に出ると参加の皆さんには珍しい猪君に初見参。左岸に沿っての登山道でも4頭の猪に…猪村を抜けて谷を渡り返し堰提上部に出ると風吹岩へのコースと分かれ、此処から右手奥には順番待ちのクライマーで賑わうキャッスルウォールが見える。 谷に降りロックの基部へ向い登攀の様子を暫らく見学しながら休憩。キャッスルウォールからの谷沿 いを横池や荒地山へ向う人はいるが奥高座滝へ行く登山者は 殆んどいない様子です。私達が荒地山に向ったキャッスルの北側ルンゼ横の踏み跡も藪っぽく、蜘蛛の巣と色あせたテープに注意しての露岩混じりの急登ですが鷹尾山からのハイキングコースに合流する近くの尾根に出ると素晴らしい展望が拡がり岩のテラスで暫し休息を楽しむ・鷹尾の城山を見ながら遥かに高所に居る自分達に驚き感慨ひとしおの口さん達…
高座谷・キャッスルウオール

「山城は好きだが登山は苦手…」しかし・も少し頑張って此の先には待望の岩梯子が貴方のヘルシーチェックをしてくれますよ。チムニーを抜けられないようなら、も一度高座の滝へ戻って出直せば通れるかも…ネ。岩場を抜け平凡な尾根筋は芦屋ゲート (ゴルフ場)からの道と合流して荒地山山頂(549m)からは横池〜風吹岩の名所を経て下るの良いのですが、時間的に遅くなっているし疲れも目立ち始めるが、それ以上に下山後の茶屋でのビールと解散前のミーティングに芦屋川のケーキの店が待っている…という事で荒地山からは高座谷に降り再度キャッスルウオールの姿と対面して高座滝へ戻ってきます。高級感溢れる店・瀟洒な店が並ぶ芦屋川側のケーキ店のオープンカフェで反省会というより次回のオフ計画で盛り上がる。解散して阪神芦屋駅への道すがら業平橋横を抜け鵺(ぬえ)塚の名を見る。朝寄ってきた塚の阿保親王は在原業平の父であり鵺塚は芦屋の浜に流れ着いた鵺(ぬえ)を祀ったものだと伝えられます。


X  岡本八幡谷〜七兵衛山〜打越山〜風吹岩〜鷹尾山城 
 H15年01月26日

もう37〜8年前になるかなぁ!!丁度今の時期に阪急岡本から、何度か通って遡行図と写真を付け、山の会の 会報にレポートした「八幡谷とハブ谷」を「山と渓谷」春の特集の一遍に記載されたが、当時の雑誌は(197!?年3月号だったと思うが )何度もの転居・引越しの際?無くしてしまったが、今どんな様子か懐かしく訪ねてみたくなった。Web検索しても八幡谷遡行コース(当時から水量も少ない小さな藪谷だった)の紹介はなく、ハイキングコースとして、すっかり整備された風吹岩や金鳥山 〜保久良神社・ハブ谷側から七兵衛山・打越峠へ向かうものばかりで、静かな谷は忘れ去られ現状は判りません。
八幡滝(行者の滝)と不動尊

しかしこの谷のレポートが無い理由は訪ねてみて判りました。 水量こそ少ないが小滝も多く、小規模ながらゴルジュや廊下もあり、最後に堰提のように谷一杯に拡がる「夫婦滝?」も楽しみでしたが滝の落口は金鳥山から八幡谷・打越峠へのハイキング道(森林管理用の水平道)になり踏み跡程度だった杣道のイメージからは想像出来ません。谷筋に殆んど水なく、谷取付きの山ノ神からは皆無だった堰提が入谷直ぐに連続して現われる。
打越峠

此の先で現われる堰提もその捲き道で一苦労、谷中は藪っぽく、ゴルジュは面影を残していたが廊下状は底が砂地だったせいか藪と倒木で覆われ当時の面影もない。此処を抜ければ現われる、突き当たりの「夫婦滝」も先述のとおり、遊歩道側の崖のようで水の止った滝登りは興醒めです。静かな谷歩きを楽しめた八幡谷は途中・ハブ谷の合流地点も確認出来ないまま素通…忘れ去られる不人気の訳がわかり、 又一つ六甲の谷歩きコースが消えた事を実感。ノスタルジーも現実に消されて阪急岡本駅から東へ踏切を渡り北へと緩やかに閑静な住宅街を登っていく。岡本八幡神社から天井川右岸を上流に向って進むと左上手に岡本バットレス(岩場)が見えてきます。 急坂を直進して行くと住宅地の坂道が最奥で大きく左にカーブする狭くて急な車道の先からハイキング道が始まり・コース概念図案内板・道標設置の八幡谷入口です。

八幡谷(白光谷)行場付近のゴルジュ(水さえあれば豪壮な連瀑帯)

今日は八幡谷を詰める以外に決めた予定もなく、 思い付くまま勝手にルートを決める時間と余裕があり、過去に素通りしてきた八幡滝や甲南バットレスにも立ち寄って見ます。地道(AM9:30)に入ると右手の谷は切立つ岩壁に囲まれたゴルジュ帯を抱えて、この先に続く八幡谷は深く切立つ絶壁に囲まれてゴルジュの底にあり、 水音さえ消えた枯れ谷となっていますが、その凄さ・峻険さを予想させ驚かされます。しかし残念ながらホンの少し先に有る、八幡谷堰提下の八幡滝行場迄で水流があれば素晴らしい滝が掛かるゴルジュの谷中の御覧のような岩のルンゼ 、八幡滝もゴロゴロした岩積みの堰提のようです。そしてほんものの八幡谷堰提上からは、平凡な広河原になってしまいますが以前の砂地河原の面影は消えています。八幡谷入口からは、程なくして右手に石仏が祀られ露岩の基部に石の祠を見ます。此れより八幡滝(行者の滝)へ続く道は昔、白光谷と呼ばれた行場で、祠の石碑には白永大神・白光大神・永光大神の三柱の主神が祀られています。
分岐点の山の神

八幡滝は水量少なく、ゴロゴロした岩場の雰囲気しかないが、お滝行場があり不動尊の祠・お堂が建っているので橋を渡って御参りしてから引返す。八幡谷堰堤の左上に見える露岩「岡本バットレス」へは標識もあり、急斜面に踏み跡を拾って攀じ登り立ち寄ります。岩場の基部(AM9:45)に立つと、短いが取付きのハングからスッキリしたフエース登攀へと快適なクライミングのゲレンデです。八幡谷堰堤へ戻り此処を過ぎると山道は谷から離れて行くように感じた頃「山の神」に着く(AM10:00)。谷沿いに直接来れたはずだったが此々で左に「打越山・黒五谷」、直進する「八幡谷に沿っての森林管理道」が分岐。何時もは此処で直接谷に降りて八幡谷遡行を開始したが谷に降りれば直ぐ白い御影石を伝って辿れると思った谷は藪で小さな谷筋を隠し谷の左岸に沿っては森林管理道が延びています。
岡本・甲南バットレス

昔の谷の面影を尋ねて訪問したので藪の谷に下りると2〜3m程の滝が連続して、以前の谷を思い出したが水の無い谷と滝、おまけに目前には堰提まで連続している。此の先・現われる堰提を捲き越えるのに、懐かしい想い出は幻滅に変わっていきます。 谷の中間付近にある5m滝の上は気持のよい休憩場所と決めていたが、此処に来て僅かに水流れを見るが岩は苔でヌルヌル状態。上部の小滝と一緒に左から捲き上がって藪の河原を進むと、ヤッと思い出を呼び戻すゴルジュに入る。此処を抜けると砂地の川底を行く小廊下なのだが 倒木と雑木で面影もない。廊下の先は谷を塞ぐ夫婦滝(昔は水流を二本に分れて落ちていたので勝手に付けた名前です。今は枯滝)で行き止まり、滝を登る以外抜け道・捲き道無しですが水も切れ、オマケに滝上は遊歩道みたいになっている。保久良神社からの水平道が 此処で打越山・十文字山方面・風吹岩方面・八幡谷から岡本への下降分岐点になっていて、登り着いた足元の岩場が滝とは水流がなければ気付く人も居ないでしょう。此処からは狭く溝状の谷筋を詰めれば藪を突いて風吹岩へ行けるが、明るい展望コースを歩きたいので水平道を南に採って金鳥山経由で風吹岩に向かいます。
横池(雄池 )上部稜線から七兵衛山(左)と打越山(中央)

風吹岩分岐道に合流して、少し神社側へ降ったところが金鳥山(AM10:55 338m)で木製ベンチに腰掛けると、つい震災で亡くした息子が小さかった頃・保久良神社〜風吹岩〜高座滝へと歩いた時、此処で休んだ事を思い出してしまう。テープ目印の細い踏み跡が八幡谷へ下っていくが、元の分岐に戻り
魚屋道と合流して風吹岩に向かいます。風吹岩(AM11:30)から横池〜最高峰への道は六甲登山の超人気コースなので補足も不要ですね。しかし私は直ぐ横道に逸れます。横池手前から「打越山」の道標に沿って甲南パノラマ道を辿ります。横池の雄池と雌池を左下に見ながら静かな打越山への尾根は暫らく露岩の脇を擦り抜けながら僅かの間だがハイカーにはスリルも楽しめそうな道が続きゴルフ場・雨ヶ峠からの道と有って打越峠へ向かうが…十文字山と水平管理道を結べばMTB初心者には良さそうなコースとなりそうです。
七兵衛山の展望休憩場

打越山から十文字山へ縦走したいところだが山頂付近に霊法会(春日野道に本部があったか!!)の仏舎利塔があって電車からも目立つ存在で、今回も打越山頂から引返す。雨ヶ峠からの道と合流する辺りからは緩やかなアップダウンが続くが歩きやすい道で道標完備で迷う事もない。岡本八幡谷への下降点の数m先が枝尾根の取付きで樹枝に白いプレートが七兵衛山東入口を示す。此の先、主尾根を5分も辿れば打越峠だが峠手前にも七兵衛山西入口の標示があり短い迂回ルートで急でもない登り5分で七兵衛山462m頂上。南西に展望の拡がり石を並べた小さな展望休憩広場が設(しつら)えてある。此処から八幡谷への下降ルートもあるようで赤いテープが続いているようなのでいつか訪れてみたい。

打越山山頂

山頂を後に降れば打越峠の広い十字路で八幡谷へ、黒五谷を経て雨ヶ峠や住吉川への分岐です。杉の植林に変わった尾根を6〜7分で十文字山方面の分岐となり 5分程、緩やかな山道を辿ると広場に着く。其処が打越山山頂(482m PM12:18)で山名標柱が無ければ通り過ぎ、そのまま五助谷へ下ってしまうかも…本日は此処まで。同じ道を風吹岩へ戻りロックガーデン道の西・ピラーロック(震災で崩れ)から風化した サンドロックの尾根伝いにA懸(岩登り入門の初期の初期は此処でしたが今はアイゼンワークの練習場か!!)に出て、高座の滝へ降りてきたが、このまま車道を歩いて帰るには惜しいので、荒地山から東尾根に登り直し鷹尾山から城山(鷹尾城)を経由します。

金津山古墳 芦屋市春日町3 (H元年3月 芦屋市教育委員会案内板等参照)
阪神電鉄打出駅の北東100m程のところにある塚が最初に訪れる金津山古墳(金塚<かなづか>・黄金塚〈こがねづか>)は5世紀後半の円墳と思われていたが平成元年(1989)周濠部分が発掘調査された結果、全長約55m・後円部経40m・前方部幅16mの前方後円墳だったことが判明しまし た。なを今回は大楠公戦跡を訪ねるついでのコースなので反対の西方に有る打出小槌古墳には寄らなかったが、此方は市内最大(全長約90m)の前方後円墳だということが平成11年(1999〜)の調査で判明しています。
金津山古墳(黄金塚)

細い住宅内の路地の奥にフエンスで囲まれた 古墳のへの出入り口があり「入口の鍵はXXさん宅で管理・見学されたい方は」の看板あり早速・資料集めと実行、決断の早いanne猫さんは僕等が周囲から観察中に鍵を預かってきていたので全員古墳に上がる。最高所のは雑草に埋っているが細長く掘られた溝がある。調査のトレンチ跡なのか、明治頃迄あったという厳島神社の祠、石積みを撤去した跡か?今は直ぐ北方の打出天神社内に祀ってあるそうです。打出の領地に別荘を建て村人を愛し、親しく接していた阿保親王が村人の為に黄金などを埋め、万一の飢饉に備えたといわれ「黄金塚」は「…黄金千枚、金瓦万…を埋めた」とも伝承されており、皆の目も輝くが…
金津山古墳(黄金塚)

昔は海に近い打出の浜近くは街道・海上交通の要衝で軍事的にも重要な位置にあり、この古墳は領地豪族の墳墓ではあるが楠木正成が足利尊氏を迎え撃った「打出合戦大楠公戦跡」の地が東北約250mの国道2号線側にあり楠氏が陣を張っていたのは此処・金津山古墳だったとも推察されています。楠公ファンのanne猫さんにとっては勿論そうですよね…この後訪ねる大楠公戦跡へも当初予定の土曜日を一日順延して今日にしたのも意味のあることでしたね。。
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大楠公戦跡
建武の中興が足利尊氏の叛乱!!!!によって崩れ、 勢力争いに乱れる南北朝期・武庫川を渡った西宮の瓦林や越水城のある西国街道沿いや西宮浜〜打出浜〜御影の浜側の道は交通の要衝で軍事的にも重要なルートだったようなので度々この周辺が合戦場となっている。後醍醐天皇に忠誠を尽くし「湊川の戦い」で討死した楠木正成は士気高揚等の国策として神格化され多くの史蹟に碑や神社が建てられています。四条畷合戦場や桜井の駅の碑や唱歌もその一貫と思えますが、此処・西宮市との境、芦屋楠木町にも「大楠公戦跡」碑が建ち「打出合戦」地であった事を伝えます。延元元年(建武3 1336)1月、足利尊氏が鎌倉から
阿大楠公(打出合戦)戦跡

京へ攻め上ったが新田 ・楠木・北畠の連合軍に敗れ、丹波路を敗走しますが再起して2月には西宮・打出に布陣した足利尊氏軍と後醍醐天皇の南朝方忠臣楠木・新田 ・北畠連合軍が此処・打出を舞台に交戦します。楠木正成の戦い目覚しく尊氏は兵庫から九州へと逃れます。この時の楠木正成(43歳 )の陣地が此処だといわれてきましたが、金津山古墳の発掘調査で古墳が陣址とも推察されている。僅か100日足らずで九州から反撃してきた足利尊氏の軍とは神戸・湊川で再び合戦となり楠木正成は此処で敗れ戦死します。戦跡碑は先の打出合戦の時の記念碑だが、その後も打出で合戦がありました。正平6年(観応2 1351)にも京都で幕府を開いた足利尊氏が、弟直義を政権の場から引退させた為、南朝方に下り尊氏追討の詔勅を受けて京都へ進撃します。尊氏二度目の丹波落ちです!!!!が再度上洛を目指し御影浜〜打出浜周辺では尊氏危うし…の壮絶な戦いとなります。この戦いでは最後に高師直・師泰兄弟を引渡すことで兄弟和睦し尊氏は政権を維持することができました。
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阿保親王塚  (芦屋市及び芦屋市観光協会案内板等参照)
JR芦屋駅の北東約1Km親王塚町東端にあり親王塚町側ではなく翠ケ丘町の西端に位置しています。現在は宮内庁で管理されるが木々の緑に包まれる静寂の森があって此処に阿保親王塚といい伝えられ陵があり古くから「親王さんの森」として親しまれ、第51代平城天皇の第一皇子・阿保親王(延暦11年 792〜承和2年 842 在原業平の父)が祀られている。周囲350mの陵域は4世紀前半の円墳で経約36m・高さ3mあり周濠を持ち二重の堅濠に土塁に囲まれた平城・居館・陣城の趣です
阿保親王塚

古墳が造られた時期と阿保親王が亡くなった時期では500年近い差異があるので古い墳墓の再利用と考えられています。拝所の正面にある四対の石灯篭は(一対は兵庫南部地震で損壊・再建)元禄4年(1691)阿保親王850回忌を機に長州(山口)藩主・毛利候の寄進といわれ明治8年(1875)宮内省は阿保親王墓と治定し、皇族墓としての形式を整えるとともに書陵部桃山管区陵墓管理事務所によって管理させ現在に至っています。




鷹尾城(鷹尾山城・芦屋城・灘城)  鷹尾山(城山)262m  芦屋市山芦屋町

高座川に沿って六甲登山の第一人気コースの芦屋ロックガーデン・高座の滝に向う多くのハイカーと別れて宅地の坂道をとり鷹尾山〜荒地山へ続く尾根筋の東下には芦屋川に沿って奥池・有馬へ向う車道を望み高座川西の尾根には風邪岩を経て有馬へ続く古道「魚屋道」が通じる。城山から荒地山に向う尾根には大阪城築城の 石切り場があり鷹尾山尾根の最高所付近にも、その残石が散在している。
鷹尾城・荒地山縦走路から望む

しかし鷹尾城に石塁は残存していないので当時の城砦としては珍しい竪堀の遺構が芦屋川に面した東斜面に幾本かは見られます。この城山に鷹尾城(芦屋城)がありました。永正7年(1510)足利12代将軍義稙の頃は内乱が続き将軍の実力も衰え、家臣たちも互いに勢力を争っていました。攝津国・豊島(テシマ)地方の在地領主(国侍)・瓦林対馬守政頼は京都の細川高国に従い西宮に越水城を築くが、この事で澄元方の灘の地侍達の抵抗にあう。灘の地侍達は阿波の細川澄元 ・三好長輝や淡路の細川尚春と手を組み高国らを除こうと京都へ進出するのを防ぎ中国や播磨の勢力を抑える為、西国街道の要衝にあって要害の此処芦屋に城を構えるべく細川高国は瓦林政頼に命令します。
東側の横堀(左上方に城山TV塔)

此処での灘五郷の地侍達の抵抗には不仲だった本庄(神戸市)と西宮の衆も加わり鷹尾城を取り囲み、築城当初より激しい戦火に見舞われる。敵方の中心人物には政頼と同族の者もいましたが多勢に対し 勇敢に戦い寄せ手の細川等を退去させています。永正8年(1511)7月淡路の細川尚春は灘の深江に陣を構え鷹尾城の武将・瓦林政頼を攻めようとし 政頼も京都の細川高国に援軍を求めます。その援軍の京都勢とは芦屋河原 (阪神間では打出浜合戦と共に 代表的な古戦場)で対決します。この戦いでは高国の京都勢が勝って尚春方の200あまりの首を討ち取っているが、敗れたことを知った澄元側の播磨の赤松義村勢は大軍を率いて鷹尾城に押し寄せ攻め立てられ、ついに政頼らは密かに城を捨て伊丹城から丹波の波多野城へ逃げ去り落城。
鷹尾城・畦状の左右には二重の横堀遺構??
 (この横堀は旧陸軍・高射砲関連の塹壕だったとも!!)

城は火をかけられ、ふもとの芦屋村も大半は焼かれ荒れ野となりました。このあと細川高国が勢いを回復して澄元を阿波へ、赤松勢を播磨へ追い政頼は再び鷹尾城へ戻り城を修復し瓦林城(西宮市日野町)の間に越水城(西宮市桜谷町)の築城を開始し完成後は本城とし鷹尾城を支城として家臣の鈴木与次郎に守らせました。 しかし永正17年(1520)には澄元派の阿波衆三好之長に攻められて落城し越水城は廃城となります。永禄11年(1568)頃、鷹尾城も棄城・廃城になったと思われます。


鷹尾城に関連する戦国悲話  松若丸

永正8年(1511) 瓦林政頼は攝津の国中で並ぶもののない大名に出世しており越水城(西宮市)を本城とし、 支城の鷹尾城には与力地侍の鈴木与次郎を入れて守らせていました。 灘の細川澄元の地侍達は、その勢いに押され多くは浪人となって播磨や淡路に逃れ、さまよったり阿波の国にくだったりしていました。 そのなかに灘の地侍で河島兵庫助という人がおり、政頼の家来に友達がおり頼って降参を申し出て許され、扶持を与えて大事にし鷹尾城の守備軍勢に加えました。
南端の出曲輪!! 芦屋市街地を望む展望地

兵庫 助には松若丸という子がおり「松若」と越水城中でかわいがられていました。時には政頼と歌を詠む才能もありました。 ところが鷹尾城の守りに着いた父は一向にはかばかしい働きがなく、 いたずらに月日を送るばかり。そのうち「どうも敵に内通しているのではないか」、越水でも「兵庫助を早く処分せよ」と相談することとなりました。松若丸は密かに此れを知り、父上に早く知らさねばと城を逃れ出て鷹尾城に急ぎます。 城では「今朝早く越水より政頼の命令があり捕らえられ何処かへ連れて行かれた」と聞きます。与力・鈴木与次郎に捕らえられ、既に処刑された後でした。
横堀左に畦状を挟んで西堀が走る

「はや父上は自害されたろう…」と逃げることを諦め、父上のお供を…と父に殉じることを決意して政頼のもとに出頭します。 政頼は不憫に思い「松若に何の罪もない 助けてやろう」と思うのですが自分一人で決めることも出来ないので家来と相談します。「これほどの利口者を助けておいては将来が…きっと後悔することになるだろう」と助けることに反対し西宮の六湛寺(西宮市役所近く)で自害させることに決まり"父に我つかふ願いも三瀬川(三途の川の意)ともに越ゆべき道のうれしさ"と辞世の歌を詠みました。
【瓦林正頼記
(別名:松若物語) 】 
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