神河町の無名峰と山城と・・・福本藩陣屋・大嶽山(柏尾山城)・高峰城・寺前城/ 高場山
播磨 地図(山崎・龍野・生野)
薬王子神社〜大嶽山(柏尾山城)〜桜華園  2006年01月13日
T中村構〜高峰城〜点名:中村/寺前城〜点名:深谷2006年01月15日

U宮野〜(掛ヶ谷)〜高場山(点名:柳谷)〜権現古道〜宮野2007年04月28日
点名:中村より柏尾山城(中央右)と寺前城(中央奥)や雪彦山を望む

近畿の山城 :福本藩陣屋 柏尾構居と柏尾山城(大嶽城)
         中村構と高峰城(粟賀城)  寺前城
丹波の由緒
東播磨の古墳(城山群集墳)

(注)旧 :神崎町と大河内町は平成17年11月合併し神河町となりました


T慈増寺(中村構 )〜高峰城〜点名:中村/最明寺〜寺前城〜点名:深谷   H18.01.15

丹波市から神崎郡神河町へ多可郡から高坂峠を越える。高坂トンネルを抜けると除雪された雪が未だ道端 に残り昨年11月7日に神崎町と大河内町が合併した「神河町」の標識を見て 長い坂道を降っていきます。この高坂越えの道は 福本藩が参勤交代で丹波へ抜けて通った道でもあった。
中村集落より高峰城(中央)遠望 ・右端の方が山城の様です?

平野部を南下し加西 ・社・篠山経由で京街道コースが楽な様ですが、何かと出費が嵩むので其れを避ける為でもあったようです…。高峰山城と寺前城への取付きは此の日に確認済みです。県道 8号線からR312号の神崎町病院前に出るバイパス(今は通常ルート!)中程の 中村交差点から 慈増寺(中村構)〜高峰城〜点名:中村に向かう。
神河町役場から寺前城遠望(山裾の最奥が最明寺

R312号との交差点:神埼町病院を直進して柏尾山城の裾を抜けてJR寺前駅に向かい、寺前駅手前で峰山高原への県道8号・市川を渡ると神河町役場です。北方の寺前駅前の狭い車道を抜け保育所 ・小学校の角を右折して、真直ぐ延びる急斜な坂道のズン止まりに登山口となる来留山最明寺(高野山真言宗)があります。 境内からは名の示す寺前地区が一望出来、大規模な採石で削られた山肌を見せる大嶽山(柏尾山城)は神埼側とは違ったピラミダルな険しい山容を見せています。
最明寺から寺前地区と大嶽(柏尾山城)を望む

最明寺の起源は人皇第36代皇極帝の大化年中に発し, 法相宗の学問精舎として現在地より 西北の山中にある 閻魔坊に興起されたが、幾星霜を経るうちに伽藍は焼失し小堂一宇を残すだけの荒廃ぶりでしたが、後に人皇第88代後嵯峨院の頃に鎌倉の執権:北条相模守時頼入道がこの地に逗留され丁度6月23日の夜深く、 聳える清嶺に五色の瑞雲が立ちのぼり、円光の内に薬師瑠璃光如来の尊像を拝され、後にこの地に堂宇を移し建立された。 そして行基菩薩作による薬師如来を安置して見渡す土地を寺前と称し山号を来留山・寺を最明寺と改め 真言密教の霊場とした。
城山群集墳・1号墳

羽柴秀吉による播磨侵攻の兵火に荒廃していたが寛文元年(1661)疾病悉除の祈祷道場として再興され、明治11年には村人の力願により福崎町七種より本堂を移転、 内外ともに瑜加三密の道場として・その様態を整え今日に至っている。最明寺の背後から八十八ヶ所霊場巡り石仏の参道が続き、スタート地点には古墳時代中後期(6世紀頃)とされる4期の横穴式古墳が残る「城山群集墳」の説明案内板が立てられている。鹿や猪避けフエンスを開閉して山に入りますが石仏道の西端谷筋付近に、案内板にあった天井石が無かったり一部が 外され石室が見えるもの、一番奥には封土と羨道の開口部を見せ・ほぼ完全な城山群集墳 の1号墳がある。
稲荷神社跡の高石垣む

八十八ヶ所霊場巡り 石仏の道に戻る上部に祠が建ち不動明王が脇士に二童子を従え立ってる。役行者なら前鬼・後鬼だが不動尊像脇侍は色々と組み合わせも有る様?こんがら童子とせいたか童子はよく聞く組み合わせだが・・・?不動明王祠の先に墓地から1号墳横を谷よりに登ってくる参道が有って石段跡も残る植林の急な斜面の数箇所に幾段もの高石垣が見えてきます。 此処は稲荷神社跡との事で背後に岩壁があり城山山頂にかけて露岩が随所に点在します。
帯曲輪から本ノ丸東下曲輪の露岩を取込む切岸


寺前城の城史や遺構の状況等は分からないが旗掲揚ポールのある城址標柱のある曲輪までは遺構も無さそう。稲荷社跡から登山道に戻らず西側斜面を直上するが長い急斜面の随所に露岩が点在する。 薮を抜けやっと傾斜も緩やかになると曲輪跡と思える広い平坦地 (10mx25m程!)に出た。建物の礎石か?石列らしいものがあるが 削平はあまく自然地形に近い。曲輪端の数mの薮を一段抜けると、旗掲揚柱が立つ曲輪(段差1.5m程?)下に出て登山道と合流した。
寺前城(口ノ城)西尾根側の広い平坦地

更に一段高みの曲輪(約10mx20m程)に大河内町教育委員会の「寺前城跡」柱が立つ。其の先に堀切が有り簡易トイレが捨てられたものか横転している。 此れより緩斜面に3〜4段の低い段差で単純な梯郭式曲輪が直線的に 尾根上に並びます。其の先で一気に傾斜を増してくると城遺構は一辺したかのように2〜3mの段差で切岸を持ち、帯曲輪があり最高所には土塁も見える。其の土塁の北面には石垣が、そして深く大きな堀切が尾根を断って城域を確保しています。”口の城・奥の城からなり…”の説明からは連続する城域ですが縄張りの違いから城跡碑から途中の堀切までが 口の城、
点名:深谷から点名:上岩への分岐峰(右端)


帯曲輪や土塁・石垣でより強固に防備を加えた城域を奥の城と 呼び分けたものか?。南北朝期に築城され天正時代の落城まで続いたのなら、古城の口ノ城と改修補強された後期の奥ノ城の分け方が有るのかも。土塁高みの最高所の木の枝に大柿氏のプレートを見る。北の尾根続き3m程の切岸には此処も石積みされている。上部を残して崩れているが三方を石垣で堅めていたようだ。下段の小曲輪から高さ8m程の大堀切が尾根を遮断しています。堀切を越え登り返して497mピークに到着。残雪の残るネット越えに先に出ると 大獄山の南東に笠形山、市川の流れを遡って北に目を移せば段ヶ峰に連なる生野高原の山々が望まれる。
572m峰から達磨ヶ峰・段ヶ峰 ・千町ヶ峰へ生野高原の山を遠望

此処まで続いてきた踏み跡は薮に消え、鹿避けネット沿いに倒木と・棘の多い雑木薮の中、展望もなく進退窮まってネット沿いのコースを左右に変えながら延々続く薮を進むことになります。 大きく下って572mへの上り返しの稜上に二箇所程岩場が見える。展望休憩所に良さそうだが、ネット沿いの稜から数m横の小さな 岩頭に寄ってみる気もなく素通りして進むと西の谷下方に池が見える。池に見当をつけて下る尾根を目で追ってみる。その分岐となるピークの手前の小場にネットと立木に隠れるように埋まる点名深谷(3等三角点 544m)の石標柱があった。
上岩地区北背後:ヒノキの植林尾根に瓦片を残す平坦地

点名:上岩への尾根ルートを見誤り・大きく外れてしまった様だ。 小田原川沿いの県道8号線がみえる。其の帰路が遠過ぎる事も分かり今回は城山〜深谷〜409m〜上岩地区への周回コースで納得する事にする。409m山頂から南へ延びる尾根端の峰頂部からの尾根筋が伐採され、ヒノキの植林が勧められている。この伐採された頂部は15mx25m程の広い平坦地で南端に高さ1m弱・3uの台になっている。しかもこの様な所に瓦片が散乱しています。 東正面に寺前城を望む位置ですが城砦とも思えず瓦からは近年まで残った寺の堂宇跡の様です。
「こっとん亭」の水車小屋から望む大獄山

この下方には採石場だったらしい跡が点在しています。切出す・・というより山から 石を掘り出した感じで残石が散存する。地方史誌を調べれば分かるのかも?。尾根末端の墓地から上岩地区のバス停へ降りてきて、小田原川沿いの県道8号線を寺前に向かうと今の時期は休業らしいが”麦とろ”が名物らしい「こっとん亭」があり 水車小屋が目を惹く。水車は南北朝期:至徳年間 (1384-87)頃に 中国から伝わったといわれます。
立岩神社から望む立岩


平安・鎌倉期に既に”筒車”として動いていた記録もあるようだが一般的には農業用の機械として昭和初期頃から稲作の揚げ水用として、また山間では谷川を利用しての精米用に利用され”こっとん・こっとん”と回る水車の音とともに、 田舎の代表的な風物詩の一つでした。何処此処で見かけた水車の姿を・民具としても大き過ぎてか各所の民族資料館でも、殆ど見かける事も有りません。昔を懐かしむ人も少なく「此れはなに…?」知らない人の方が多くなった!水車ですが、 神河町役場近くの”こっとん亭”や、保育所にモニュメントとして残されています。失われた民具・旧大河内町の水車はダムと高原の里・名水の里としての神河町PRの大看板となって”こっとん・こっとん”静かな時を懐かしむように回り続けています。 茅葺小屋と水車の陰から望む大獄山(柏尾山城)が印象的です。
(現地最明寺由緒 昭和46年11月 案内板参照)

U 宮野集落〜(柳ヶ谷)〜高場山〜権現古道〜柳谷〜宮野集落 H19.04.28

Webの掲示板等で皆の予定計画を検索していたら「山あそ」島田さんの掲示板に高場山への参加者募集!!?を見た。丹波市内に木工工房を持つ西宮市のTORYOUさん・クライミング&ウオーキングGORYUさん・ブログのアバターが本人ソックリ播磨の登山記録しみけんさんが参加を表明されている。いつもの !?アポ無し参加で集合場所に向かった。集合場所は上記寺前城レポートの山&山城を廻って降って来た「こっとん亭」から登山口の 宮野集落に向かって出発した。
宮野橋から望む聳立岩「立岩」さん

峰山高原へ向かう 県道8号の右手に丘陵が迫り垂直の大岩壁「立岩さん」を見る。小田原川に架かる宮野橋を渡って県道8号を外れ、宮野地区西南端の集落から谷沿いに西奥へと分岐する車道に入る。その前に”立岩さん”を御神体とする 立岩神社と、すぐ先200m程?神河町南小田の民家脇の薮中に「石の懸樋」に寄って見る。立岩神社(祭神:大物主命)の創建等は不詳ですが、延喜元年 (901)宍粟郡一宮の伊和神社から御分霊を勧進し立岩嶽(頂部に祭祀跡有り)に併せ奉祀され、後に現在地に遷宮。寛永16年(1639)本殿を建立。
県道側から直ぐ神域”立岩神社”

享保5年(1720)領主 :松平三次が本殿を新たに建立し其の後文化4年(1807)と嘉永元年(1848)本殿を再建されています。 福本藩池田氏の崇敬厚く、祭田の寄付し社殿を造営されたという。奈良時代編纂の「播磨国風土記」神前郡・岡里の項に 「湯川」と書かれいる小田原川は其の昔・湯川とも呼ばれており、日和あたりに温水が出ていたと の伝承がありますが、奈良時代には既に 湯はでなくなっていた様です。懸樋とは「懸け渡して潅漑用水などの水や湯を導く為に使用された桶 ”水の橋”のことで石の懸樋も湯元から湯を引くためのものであったと云われます。
”石の懸樋”

L字状の花崗岩製石材が一本だけ地面に突き刺さった様に遺されているだけで、外に石材を見ないので構架・構造等を推測するだけですが、直近には”立石さん”をご神体に小田原川を挟んで平坦な杜から奉拝する立石神社が在る。ご神水を運んだ樋だろうか?…加工した石柱を並べただけでは石と石の間からの漏水防止策は?…組合せ部分の加工処理からは古いものとも思えないが、側を流れる小田原川の水を使用せず?どこからどこへ通されたものか?その用途は…?、水漏れ防止対策等の研究は熱心な郷土史に委ねて、宮野橋へ引き返し県道8号から外れ高場山への宮野西南部の集落に入る。数軒の民家の並びを抜けると直ぐ林道然となり墓地に至るが緩やかな舗装林道は何かの作業工場まで続き、さらに車幅の道が水力発電所跡地まで続く。
宮野第一発電所跡(奥の一角)

案内板によると宮野第一発電所といい播磨電化工業により大正11年11月〜昭和4年10月まで操業されていたもので原動機にペルトン水車 (毎分900回転)で三相交流発電機を使い出力3500V・最高141kw・常時94kwの小規模な発電所ですので、大正期にはカバー出来ていた消費量が 昭和初期には電力供給不足から、電気事業統合令による関西電力等への統合を待たずに閉鎖されたものでしょう。
「丹波竜」発見で沸く山南町に県下でも珍しい大正期レンガ造りの村営発電所が荒れるにまかせ放置され、この発掘現場に有りながら返り見られてはいない様子です。 宮野の発電所も往時の生活 文化や此処に築造された背景や 歴史を語る写真・資料等が残され、貴重な遺構として文化財保存が考えられているとは 思いたいところです。谷の上流には発電所用の貯水池が有り、向かう高場山山頂にも高圧送電線鉄塔が有るので共に監視の巡視路として歩き易い山道が続く筈。
掛ヶ谷沿いの山道から時折、藪を通して滝筋が見える

加えて宮野から此の掛ヶ谷筋を通って、高場山から東へ延びる尾根を越えて夢前町熊部へ下り雪彦山の賀野神社(賀野権現)に参詣する 権現古道が通じていたという。姫路市(夢前町)と神崎郡神河町の境界線上にある高場山(点名:柳谷 798m)を標的とした今回の山あそワールドの短絡ルート企画の本来の目的が此の後解かる。この権現古道の最終章を飾る完走こそが 「やまあそ」 企画の真の魂胆だったのです!。清らな流れの谷沿いの道は右手からの谷を見送って本谷側へ斜面をドンドン登ってゆき水音も消え、このまま尾根に乗り上げるかと思えるほどでミスコースの不安を感じ 始めるが、山仕事等の生活臭が無い山側に発電所関連のものか?石積や大きなコンクリート壁の壊れた塊が見られるので、 谷の奥にある貯水池への山道は確かだ。
宮野第一発電所跡(前方谷寄りの一角)

本谷へ流れ出る小谷の左右に架けられていた歩道橋の石積も残る。此処で谷底まで 随分急斜で高い処を歩いているのが、藪で見えないが深い足下方から聞こえる谷の瀬音が高くなったで少し藪を分けると4〜5m程の滝が真下に望める。 幾つもの滝や岩場を高捲きながらの山道ですが山側にも大岩壁が姿を見せます。正面にくノ字形で上部が大きくハングした高離25〜30m程の岩場で、ハングした上方にはスズメ蜂の巣がある。捨て縄やボルト等が一寸見には確認出来なかったが 此処まで来て・此の程度?の岩場でクライミングとは思えないが一筋のフィックスザイルが取り付けてある。
掛ヶ谷:三段の大滝

緩やかな山道はガレた登りとなり谷側は断崖状に切れ落ちている。その先に水平道が続き山側3m程上に道が有ったのかと思えるような石積みと、其処に登る石段がある。「山道の上に石積の道?と石段とは ?おやッ…と思い、帰路に注意してみたら石垣の末端に石祠が見えた。祀られているのは弘法大師像だが施主・世話人は宮野地区の人達によるもの。 権現古道に関する遺物の様ですが、参詣による加護や安全を祈るというより、権現古道の利用が廃止された頃のものか?歩を進めていくと急な登りとなったが直ぐ上方が明るく空けている。
右:山道・左 :ごんげんを示す権現古道の道標石仏


其処で初めて?視界が開けて此処の渓谷美を代表する掛ヶ谷大滝(三段の滝!?と呼ばれるらしいが生い茂る樹木が 陰となって滝身全体が見通せず、三段か其の前後に小滝が隠れているかは知らない)が見えている範囲で各8m前後:全高離25m位の姿を見せるビユーポイントだ。核心部の岩場と滝を谷から遠く高捲く様な谷沿いの山道はしばらくで、 深かった掛ヶ谷の流れと合うと植林帯に入る。大滝からも幾つか落差のある滝が隠れ ているようです?。其の付近・道沿いの杉木の根元に 指さし道標が置かれている。像は彫られてなく指さす手と着物の袂だけ。その袂に「左:山道とあり、手指しの左に:ごんげん」と有り霊場巡礼専用の道標です。
掛ヶ谷大池

手指しの先は谷を渡り対岸の倒木に埋まった激急斜面、此処から高場山からの尾根(峠)に出て蔓・荊で埋まり、消滅した古道が熊部へ降って行くという。 今回は峠から此の道標までの古道探索がフイナーレとなる。谷筋を歩くのは楽しいが仕事となると話は別:山道には「ほぞ」穴が彫り込まれた岩や石垣が残り、橋を架け岩場通過にはほぞ穴には丸太を突っ込んで板を渡し トラバース道としたものでしょう。前方上部に堰提の土手が見えると発電所用の貯水ダムにしては 小さな気がするが随分と離れた地点(発電所跡には3.5kmとあった池 )に造営されたものだ。其れだけに?幽邃境の水色は深緑・ヤマザクラも未だ散り残している。
掛ヶ谷大池:調整水口部を渡り尾根に取付く

貯水池の堰提端から取付く が倒木や間伐木!!で埋まり、荒れた急尾根に「播磨中央線No.17鉄塔」に向かう巡視路標識が現れプラ階段道がある。貯水池端から谷沿いの前方にも赤テープが見え、これは境界尾根を経て 高場山へのコースの様。高場山山頂には(実際は山頂北側下部) No17鉄塔が建つのでダイレクトの巡視路コースを取るが、急斜面をジグザグに九十九折れを 繰り返して進む道 。急登で一気に高度が稼げる。雪彦山から峰山高原に向かう 林道が見えてくると山頂も近いが、時折吹き付ける風が強くなってくる。鉄塔南横の高みに着くと西に雪彦山の地蔵岳・不動岳が大天井岳を背に其の大岩壁を見せる。
高場山山頂から雪彦林道

南に七種山・明神山・北には大阪山の稜線越に暁晴山が、東には笠形山 360度のパノラマ展望台、高場山(4等3角点 点名:柳谷798m)山頂に着いた。食事タイムは風を避けて少し鉄塔側に降ってみた。私以外は全員トランシーバ持参で”しみけんさん”は今日が初交信・・を楽しんでいる。高場山から引き返し直ぐ 境界尾根に乗る。途中で南への尾根筋を辿るが、いずれも確りした読図で突破する”やまあそ”ワールドは取っ付きが判り難いので、 一般向け推奨コースとはなりませんね。熊部と掛ヶ谷で出合った道標石仏を繋ぐ鞍部(権現古道の峠)に降る細い尾根筋、 熊部集落を見下ろす展望ポイントに来るとCa720m峰を真近に見て薄い踏跡を鞍部の峠に降り立つ。
Ca720m峰との鞍部に熊部へ降る権現古道の峠がある

熊部側へは踏み跡も消え宮野側の掛ヶ谷の斜面を水平に踏み跡を北に辿って境界尾根の683m峰近くに着く。道標石仏に降る最期の峠状からは急斜面で、倒木や間伐材だけの性ではなく!?踏み跡も消え適当に降る事になる…。谷を渡ると登路にとった山道に合い、どんぴしゃ…”権現古道”を指す道標は30m程下手の見え、予想の雷雨にも遭わず往時を 元来た宮野集落の墓地へ戻って解散した。


福本藩陣屋柏尾構居と柏尾山城(大嶽城)
 中村構と高峰城(粟賀城) 寺前城

福本藩陣屋(福本藩池田家本陣)  xxxxx  神崎郡神河町福本
徹心寺と福本藩陣屋

徹心寺
R312号線沿い神崎町福本の兵庫県立神崎高校の角を東へ入った大歳神社のある 福本藩陣屋跡ですが、此処より北西約200m程の国道沿いに福本藩主:池田家の菩提寺一関山徹心寺(法華宗)があります。徹心寺は寛文5年(1665)に福本藩池田家の初代藩主:池田能登守政直が法華宗の信仰に篤かった父輝澄 (父は姫路城主:池田輝政・母は徳川家康の娘督姫)の菩提を弔う為に建立した寺で、開山には青蓮寺7世積善院日林聖人を迎え、寺名は池田輝政の4男 :輝澄の法号(大雲院殿一関徹心大居士)より一関山徹心寺と称されます。
徹心寺の山門と池田家”揚羽蝶”紋の軒瓦

池田家の家紋”揚羽蝶”の軒瓦の 白塀の奥にある茅葺屋根の山門を潜ります。この山門の蝶番には天保9年(1838)の銘があることから山門はその年に建立されたものとされています。本堂も播磨地方では珍しい茅葺の入り母屋屋根や、池庭を見ながら鐘楼と本堂前に繋がれた犬に吼えられ、纏わりつかれながらも墓地に向かうと石積囲いの中に背高い五輪塔が向かい合って並ぶ福本藩初代:池田政直から8代:徳潤にいたる歴代藩主の墓所があります。寛文3年(1663)因幡の鹿野(鳥取県)から播州粟鹿に1万石で転封され、初代福本藩主となった池田政直から明治3年(1870)9月・明治新政府の廃藩置県令が発布されるまで 206年間を福本藩主として領地を治めるが墓石には松平姓が刻まれたものもある。
徹心寺の茅葺山門と本堂

此れは輝澄が 徳川家康の娘を妻として松平姓を許されたものか…徹心寺さんや福崎町のボランティア・ガイドからは、督姫と徹心寺に関るお話や、松平氏・徳川家について詳細な解説を聞く事が出来ると思います。五輪塔は初代政直から政武・政森・喜以・喜生・喜長 ・喜通・徳潤を祀る藩主8代の八基で、元来は父・輝澄の菩提を弔う為の寺なのですが墓碑(宝筐印塔か五輪塔)は何処にあるのか?位牌が本堂内に手厚く祀られているのでしょう。

(現地 徹心寺前案内板 神崎町教育委員会等資料)


福本藩陣屋  神崎郡神河町福本 平成13年10月2日神河町(旧福崎町)指定文化財

山名氏と赤松氏が真弓峠で戦い播磨・但馬境の生野峠を敗走した赤松氏の、山名氏に対する備えとして 置塩城の前線基地としても 神崎郡のR312号(但馬街道)沿いの要衝には「残要の城谷城(永良城)とは山名氏優勢の中で劣勢にたたされた赤松氏が死守した城の意味か?」が数多く築かれていた事でしょう。R312号から猪篠〜越智〜高坂峠を越えて丹波街道を京都へ抜ける丹波街道は 銀山街道とも呼ばれました。
福本藩陣屋・お屋敷跡・大歳神社

多可郡加美町側から高坂峠を越え、銀山街道の 越智とは反対に西の根宇野から神崎町粟賀でR312号に合流する県道8号線は今回も利用した道ですが、福本藩も参勤交代の費用削減の為に利用したコースのようです。福本藩陣屋跡はR312号を1.5km程南下した兵庫県立神崎高校の角を東へ入ったところ、大歳神社の鳥居が見える陣屋跡へ寄ってみます。
徹心寺・福本歴代藩主墓所

神崎町(大河内町と合併して神河町 )では 福本本陣を中心とした歴史遺産の整備・保護・公開等について平成22年度事業のなかに織り込み、歴史公園や遺物・出土品等の管理や調査及び公開展示する資料館の建設等の構想が進められています。大歳神社鳥居と並んで西側一帯に新築されている 文化センター風の施設「揚羽ホール<揚羽は池田家の家紋>」は其の一貫として資料・展示等の総合施設なのでしょうか?。 文化財収蔵庫が国道西側高札場付近に在り、陣屋跡地や町内の高札場跡等には真新しい史跡名プレートを付けた標柱が立てられ、
福本藩陣屋跡・大歳神社内

整備されつつ有るようですが町内に唯一残されている武家屋敷は国道筋を挟んで 探してみたが竹林等で隠されているのか見出せなかったが、 今・公開出来るよう修復!?されているようで銀の馬車道(生野鉱山から鉱石を運んだ専用馬車軌道!!)PRを兼ねて周辺は様変わりしている。生野銀山からは丹波街道高坂峠を越えた銀山街道とは別に後世、但馬街道を飾磨港へと”銀の馬車道”が通じており、名前からも町興しPRに使えそうです。初代福本藩主となった池田能登守政直【祖母は家康の娘督姫・祖父は姫路藩主池田三左衛門輝政 ・父は山崎藩主輝澄で徳川家康の曾孫にあたり
福本藩陣屋・大歳神社(左端:藩主屋敷)

松平姓を与えられ松平能登守を名乗る】が父の死後:寛文3年(1663)因幡国鹿野(鳥取県)から播磨国神東・神西・印南郡)に1万石で転封され立藩し、陣屋を造営し(規模は南北約600m・東西約450m)たが寛文5年に没し、嗣子なく弟:政武に7千石が与えられ交代寄合となり、三男の政済には3千石が分与され以後・鳥取藩の支藩的立場となった。貞享4年(1687)政武が没し嫡子政森が6千石・二男政親が1千石を分与され 旗本となり以後:福本藩は消滅するが各家とも明治維新まで存続し、
福本藩陣屋:屋敷跡土塁・単に庭園築山では無さそう!!

明治3年(1870)9月・明治新政府の廃藩置県令が発布されるまで8代最後の藩主徳潤(のりまさ)まで206年間にわたり神崎郡北部の政治・経済の中心となったところです。 大歳神社は廃藩後・大正2年(1913)近く(福本山根)から此処に移築されたが、神社一帯が陣屋形式の藩邸跡。西の但馬街道筋に町家が並び・藩士の屋敷町とは 南北500mを竹藪・竹矢来で区切り、二ヶ所の切通で表・裏の通りを開き番所を設けていた。神社本殿に藩主の屋敷あり、神社の境内・参道の左右には陣屋形式の藩邸(家臣団の侍屋敷群)が建ち並んでいた事でしょう。
福本藩陣屋の回遊式庭園

陣屋の名残は本殿南側に残る池中の島に月見燈篭を乗せ、池を廻る池泉回遊式庭園が拡がり、規模や深さからは船遊式で、 蓬莱島を置き・武運長久を祈る大名庭園としての特徴があるという。神社から池庭の外周は木樹に埋るが、池側に切岸を立て・幅広い土塁を廻す曲輪の様。そのうえ深い溝谷が濠ともなっていた。再訪では木樹が伐採されており屋敷跡の風情がかんじられた。
(現地 大歳神社参道・国道側と庭園前案内板/神崎町教育委員会 及びWikipedia資料)


中村構と高峰城(粟賀城)   中村構〜高峰城〜点名:中村
中村構居    神崎郡神河町粟賀字中村

多可郡加美町から県道8号線(加美山崎線)で高坂峠を越えR312号但馬街道を繋ぐ街道は 生野峠から猪篠を経て高坂峠 ・神埼町粟賀から根宇野を通って高坂峠へと、福本藩等大名の参勤交代のコースとしても利用された播磨・但馬・丹波を結ぶ間道でもあり、要衝に位置して居館を構え背後の丘陵上に”詰め城”を築いた一族がありました。
高峰城(正面右山上)と中村構(立木の左奥に慈増寺)

中村構と高峰城(粟賀城)は県遺跡分布地図にも標記が無く、高峰城や関連構居についての 城史等詳細は不明ですが、高峰城(粟賀城)のある城山北の麓に法性山慈増寺(臨済宗妙心寺派)が有り、此処が山城への大手口にあたります。高峰城城主の居館が在ったところが慈増寺の寺域であったようです。「播磨鑑」による高峰城の城主は赤松家の一族伊豆孫四郎祐国であったとされます。高峰城の南方15km福崎町神積寺の北東に連なる日光山からの丘陵上にも高峰山城が在り、此れとは別城の高峰城ですが、
慈増寺と背後の高峰城
 
永正年間(1504-21)頃・7代目伊豆孫四郎祐国が居り天正期の羽柴秀吉 :播磨侵攻時に落城したといわれます。城主も落城時期も同じ・城名も間違いやすい!?高峰城と高峰山城なので城史を混同して誤っているかもしれない。資料や 情報入手出来ましたら改めて加筆・修正したいところです。なを・永禄年間(1558-70)の頃恒屋城中村構居の家老:花村将監が居留していたともいわれます。貯水池南に数軒の民家があり県道側から登ってくる車道を挟んで 慈増寺が建つ。
高峰城北東の堀切

30u程の寺域の西面に高い段差で数段の田圃があり、 山端側には寺と田を分けるように溝谷が流れています。登城口が判らず鹿避けフエンスを開閉して、溝谷を越え山の斜面に向かったが直ぐに深く高いシダ類に 埋まる薮に突入してしまう。強引にシダ薮の中をラッセルして稜上に出ると薮は消え、雑木と倒木は多いが本郭部へと3〜4段の曲輪を連ねて間には堀切のある高峰城の末端曲輪?へ直接登り着いた。
中村構(慈増寺)

ホンとの大手道?は慈増寺を北側から回り込む様に墓地の南上方に出るようで、傾斜の殆どない広い平坦地や石列が有り、 古い寺社の参道かと思えたが慈増寺を含み背後の此の周辺が構居跡だったのかも?。現状からは中村構周辺に堀や土居・土塁遺構らしいものはなく、これら平坦地や田圃の段差・竹薮と貯水池等から構居跡を推察してみるだけです。
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高峰城(粟賀城) 高峰山(城山) 220m   神崎郡神河町粟賀字中村

粟賀町に入って県道8号の埋田神社付近から望む南方には点標名:中村(4等三角点 336m)から北方へ延び出す尾根先が慈増寺付近に一気に高度を落とす丘陵上部の 標高220m付近を城域として、此処からなら但馬街道か東播磨の多可郡から西脇市や丹波市から篠山市を経由して摂津・京都へと通じる要衝監視の高峰城(粟賀城)が在りました。 高峰城南尾根側の大堀切

尾根先麓の中村集落の小字城下には法性山慈増寺(臨済宗妙心寺派)が在る。小字名の所在からは、位置不詳ながら慈増寺の周辺に中村氏の 居館が在って、背後の丘陵上に在る高峰城を詰めの城としたのでしょう。別城ですが神崎郡には福崎町の日光山に高峰山城があり赤松一族の幕下に城主 伊豆孫四郎祐国がいて此処も彼の城?…更に神河町(旧大河内町)の
高峰城主郭北西面の石垣

寺前城(城山城)も天正期には彼の持城だったとされています。中村構居と高峰城については未詳ですが柏尾山城 (大嶽城) や寺前城を支城とした赤松氏の本拠:置塩城の城砦群の一つとして但馬山名氏に対して監視・警護にあたっていた事でしょう。慈増寺からシダの薮漕ぎで 高峰城北端の曲輪へ直登するか、寺の墓地裏へ谷筋の山道を辿るコースがある。
高峰城主郭低土塁:切岸下部は堀切

山道は村境界沿いに激急斜面を文字通りの直登もあり、下降時に手掛かりの立ち木がなければ、ちょっと怖いくらい。
<現状:踏み跡は慈増寺から尾根を直上すれば 北曲輪群から主郭に向かう尾根筋を境に主郭の北面と東面を捲く帯曲輪の直ぐ下に出る筈!!>尾根に出ると城址の南曲輪 (左の尾根筋を辿れば10分程で点名中村(4等三角点 336mで下部の鞍部に土橋付き?大堀切を見る・主郭迄は尾根右を約30m程)・幅のある大土塁と ・土橋も崩れてか?埋もれ浅くなった大堀切から6−7m程の切岸を上ると1m程の低土塁がある
点名:中村からは大嶽城と寺前城が望まれる

南北12m・東西15m程に削平された主郭に入る。 北方正面に但馬街道と柏尾山城 (大嶽城)を望み、市川を挟んで寺前城が望まれます。主曲輪の南西側端には5〜6段高さ1.5m程の石垣が遺リ、帯曲輪が北を捲き更に・北尾根筋から東面も南端土塁端迄、南面の堀切側を除き廻る。石垣下方の枝尾根にも数段の小曲輪群がある様だが、 羊歯類に埋まる尾根や斜面は谷筋の竪掘りらしい痕跡も隠す。
高峰城主郭南切岸と大堀切・土塁

主郭から北東へ延びる急斜面の尾根下方にも一本の堀切と土塁の残欠を遺す3段程の曲輪群がある。最下部の末端曲輪には竪堀も設けられています。永正年間(1504-21)の合戦に武功が有ったといわれるのは、永正17年(1520)守護代:浦上村宗(備前三石城主)が播磨・備前・美作三国の守護職だった赤松義村 (置塩城主)を室津に幽閉し後に暗殺するが、正村の子晴政に跡目を継がせ村宗が置塩城に入り政権を意のままにしたが、 小寺氏(寺前城主?)・伊豆氏(高峰山城主で後・高峰城、
北尾根末端:堀切側の土塁と北曲輪

寺前城の城主となった!!)や宍粟氏等が 義村の子晴政を護って淡路に逃れ、大永2年(1522)高峰山城に軍勢を集めた赤松方と村宗軍が対峙します。「播磨鑑」には大永年間(1521-28)此のときの頃、但馬境に近い此処・高峰城に集まって行われた軍議とは・・・!赤松氏にとってのライバル、山名氏が浦上氏と内戦を知って播磨へ侵攻してきたものか?「備前軍記」が史実とリンクしているのか!、守護赤松氏の備前・美作支配時の岡山側の城については 疎いので未検証ですが・・・(^^ゞ
北曲輪からの土塁

一先ず和合して山名氏打倒の共同戦略会議を行ったのでしょうか!?山名軍を但馬へ追返した後、享禄4年(1531)父の敵:浦上村宗を討った赤松晴政は置塩城に復帰します。其の頃には赤松氏一族として・晴政の臣として伊豆氏は神埼郡の北方・神埼や大河内にも 勢力をもったものか?。しかし天正6年頃には織田信長の天下布武による”播磨・但馬征伐”で羽柴秀吉軍により、播磨・但馬の城は尽く攻め落とされていきます。

柏尾構と柏尾山城 【登山コース:薬王子神社〜大嶽山(柏尾山城)〜桜華園
柏尾構居   神崎郡神河町東柏尾字宮前

但馬街道沿いのR312号・神崎町病院前の交差点を直進して峰山高原に向かう県道8号の東柏尾交差点に 連絡する、西の山裾道を走っていると「薬神の里」「薬神の森ハイキ ングコース入口・薬王子神社」の案内標識を見ます。標識に従って登る参道は直ぐ上部で 最明寺跡らしい祠堂や石碑の建つ平坦地を経て、薬王子神社の本殿前へと狭い車道が通じますが、
薬王子神社

民家背後の高台にある此処以外:柏尾構居跡と推定出来そうな所が見当たりません。西と北面は山を背に、東面は深い谷となり南面に開かれた急斜面上の構居跡から 但馬街道R312号)や但馬自動車道と、市川の流れが播磨平野の福崎辺りを白く光らせて下る流れを望む位置に建っています。山裾側を土塁が捲き谷でも灌漑用水路でもない細い溝は排水路でしょう。
柏尾構居比定地:最明寺跡?

柏尾構居について城主や築城時期等の城史について未調査で不詳ですが、薬王子神社は柏尾山城の大手口の在った云い、神社縁起によると、 永禄年間(1558〜70)赤松則村の家臣粟生田右衛門尉(粟田宇右衛門尉?栗田氏か?)の構居と伝えられます。しかし柏尾山城の案内板が県道8号線の東柏尾バス停と、 楊林山向本寺(曹洞宗)参道側に建てられており、構居は同時期に築城された柏尾山城城主の居館でもあり、案内板背後から向本寺付近の山裾が構居跡とも思えます。
薬王子神社からの尾根:東屋から大嶽山(中央)

町史等で古字名”構”の所在と廃寺?最明寺が判われば間違いないのでしょうが・・!此処が柏尾構居なら 尾根伝いに大手道を大嶽山の詰め城に至る居館・詰め城との典型的なセットが考えられます。以前より周辺の山林が切り開かれ草原状の尾根筋に遊歩道や東屋が建てられ、尾根の更に先を目指すとNHK神崎テレビ中継施設のある大嶽頂上に至るルートを歩いてみたかったところで、大嶽山山頂部には柏尾山城が有りました。薬王子神社から緩やかな尾根に沿った50分程の行程ですが、途中に城砦らしい箇所が有りません?。

柏尾山城:最高所( 本丸)北下の曲輪と虎口部!?(左)


薬王子神社には慶応3年 (1867)7月から翌年4月頃まで、”世直し”的性格をもつ民衆運動「ええじゃないかゞ…」が流行、人々が男女を問わず”ええじゃないか”と繰返しながら踊り騒いだようです。現在のところでは其の実景を描いた唯一の絵馬「ええじゃないか図」があって 兵庫県指定重要無形民俗文化財として昭和62年3月24日指定を受けています。絵馬は慶長4年(明治元年)6月に奉納されたもので52人の村人が浮かれ騒ぎ乱舞する様子が表情豊かに描かれたもので、変革期の民衆運動を示す貴重な資料となっています。
(現地案内板 神崎町教育委員会 参照)


柏尾山城(大獄城)
  大嶽山(柏尾山) 453m     神崎郡神河町東柏尾

旧福崎町側から富士型の美しい山容を遠望して今回の山城巡りに加えた。此の山は西面:市川沿いのJR寺前駅側からは山頂直下まで一面砕石で削られた、幾段にも連なる切立つ異様な壁は甲冑の兜のシコロか鎧の袖の”威し”の様です。さて東柏尾から山頂のテレビ中継施設へ 向かう桜華園の林道は、種々雑多な桜【世界の桜240品種・3000本が植樹された播磨の空間博物館】の遊歩道が尾根伝いにテレビ中継施設に延びています。
柏尾山城:最高所南面は露岩の塞壁と断崖

県道沿いの桜華園からは此の尾根伝いと谷を西へ捲きながら薬王子神社へ向かう道があります。途中に薬王子神社側からの尾根を辿っても 東屋の展望所を経て、同じテレビ中継施設への巡視尾根道と合流します。しかし薬王子神社や桜華園の遊歩道から山頂への尾根筋に曲輪や防護施設を見なかった。 しかし中継施設への最後の尾根筋は急登で(巡視路は楽)直下付近には石積みされていたかのような石を散見します。山上尾根付近の城域自体・急斜面の露岩や散在する岩場が自然の壁塞を形成しているのでしょう。
柏尾山城 :最高所北面の石垣(約3m)

整地されたテレビ中継施設の位置が 柏尾山城の本ノ丸だったのかな?中継施設から南へ延びる尾根先のピークも平坦な露岩の多い台地で、 本城のある北部を除き三方に展望が拡がり柏尾城の単郭の出曲輪か見張所でもあったものか?。尾根筋の真下が向本寺と東柏尾バス停なので、柏尾山城の案内板の有る向本寺に柏尾構居が有って此れより大嶽へ、尾根通しに大手道があったとすれば …薬王子神社側の柏尾構居比定地を訪れて感じた疑問が湧いてきた。テレビ中継施設へ引き返し金網を半周した裏手には大嶽山(柏尾山 点名:大嶽 453m)の3等三角点標石柱が埋まり、北へ5m程の高みが主郭部の最高所です。三方の急斜面上を囲う自然岩が切岸を成す天然の小曲輪は物見の櫓(矢倉)だったのか?。
柏尾山城南面:畝状竪堀の一つ

最初は物見櫓かと思ったが、反対の北側に廻ってみるとH2m・W4m程の石垣が積まれています。 石積みはテレビ中継施設工事用や三角点設置時?にしては外れた位置にあり、 古い崩れかけた石積みの使用目的がわかりません!。此の野面積みが城遺構であることは、最高所の台地が方形に露岩を砕いて削平されている事で納得です(^^ゞ此の城の縄張りは、最高所の主郭北南の尾根筋に数段の曲輪を並べています。 最高地点からの尾根筋は急斜面(7m程)の切岸を降って、下段の一番広い曲輪に降り立ちます。この曲輪の主郭部側取付き部付近の南面には下段の帯曲輪から入る虎口が開き、 残石らしいものも見えるので石段になっていたのかも!。帯曲輪の南面は登るにも大儀な激急斜面で覗き見るのも大変ですが3〜4本の竪堀が粗4m間隔で同方向に走ります。
柏尾山城:本丸下の曲輪北側の空掘(西南下部から)

堀筋が崩壊で判り辛いものも見えますが南西端部に有るのが深くて顕著です。但馬・播磨国境付近の警戒にあたった山城なので、但馬山名氏の侵攻で赤松氏が敗走した後、 山名氏得意の畝状竪堀として城に手が加えられたものでしょうか?
山陰・但馬地方に影響されない播磨地方独自の 畝状竪堀は有るのでしょうが 山名氏方が占拠した城のイメージを強く感じてしまいます。竪堀群から稜上の曲輪部を見えると南斜面には石組 ・石列を思わせる程に露岩が目立ち、壁塞として利用されているのがわかります。尾根上曲輪の西部は空掘を挟むように細長い二本の土橋状、10m程の斜面下に堀切をみて、比較的緩やかに見える尾根筋は西南下方の東柏尾の北方・大歳神社付近へ降っている様です。ホンとは此れが大手道かな? 市川を挟んで旧大河内町側の寺前城と呼応するかたちの柏尾山城ですので、 西方尾根筋の曲輪や防備は解りますが東方のR312(但馬街道)側の防備手薄が気になります。
柏尾山城:本丸下の 曲輪西北側の空掘(東側上部から)

縄張り図でも手に入れば最訪して柏尾構居共に確認したいところです。柏尾山城は永禄年間(1558〜70)の構築ではないかと推定され特長のある”畝形阻塞” (畝状竪堀)の名残りをとどめている。赤松家の幕下として、赤松則村の家臣:在地領主の粟生田右衛門尉(栗田氏か?…粟田宇右衛門尉?…信濃守や阿波守、置塩城の粟田佐太郎・・等城主名が見えるが歴代・時代等不明?…) が居城したといわれます。「赤松家播備作城記」によると織田信長「天下布武」の号令で”但馬・播磨征伐”にあった羽柴秀吉軍によって天正6年(1578)に落城したという。
(東柏尾バス停横:向本寺参道側の”柏尾山城跡案内板 ” 参照)


寺前城(城山城・鍛冶山城)  城山 Ca470m  神崎郡神河町寺前

寺前城への訪城と縄張りの概要は上記の山レポート【中村構〜高峰城/寺前城〜点名:深谷】を参照してください。なを神河町寺前を所在とする城名に城山城・寺前城 ・鍛冶山城の名がみえるのですが地方市史や町誌・城郭等遺跡分布図や専門誌・研究資料を調べる機会も無く、別城としての確証を得られず此処では :位置的にも城山にある同一の城と推察します。寺前城は十五世紀前期の築城と思われ、赤松則村(円心)の幕下本郷伊豆守の居城と伝えられています。
寺前城(口ノ城)に城址の標柱が立つ

赤松満祐による嘉吉の乱(1441)に幕府軍として播磨を攻めた山名氏によって落城したと思われますので、播磨・備前・美作の守護赤松氏と但馬から更なる領地拡大を狙う山名氏に対する警備の城砦は、早くから但馬国境の神崎郡処々に築かれていた事でしょう。赤松氏敗走後の国境の寺前や大嶽等の主だった山城は山名氏が入って播磨側監視の 城になっていた事でしょう。
寺前城(奥ノ城)主郭最高所の石垣(大堀切側から)

滅びた赤松氏も応仁の乱(1467-77)では赤松政則の活躍で 再興成った頃には小寺氏が居城したといい、城遺構はこの頃以後に改修されていったものと考えます。播磨・備前・美作三国守護:政則に対する守護代:浦上村宗(備前三石城主)の内乱から義村・晴政(政村)へと赤松氏末期の三代記も小説や映画が有れば、 波乱の50年が大河ドラマとして描かれ、高峰山城・高峰城・大獄城・寺前城等神埼郡の山城も少しは知られるところとなる事でしょう。永正年間(1504-21)守護:赤松義村の時は福崎町の赤松一家で 高峰山城主:伊豆孫四郎に武功が有って!旧神崎町の高峰城(粟賀城)や旧大河内町の寺前城をも持城としたようです。 秀吉軍の播磨・但馬征伐により、南北朝期から中世戦国期にかけての縄張りを残した、寺前城も天正5〜7年には攻め落とされます。
寺前城(奥ノ城)主郭最高所北の大堀切

此れ等の縄張りの違いからなのか !南尾根下方の低い段差で直線的に曲輪を並べる梯郭式の”口の城”と段差も高く(2〜3m)切岸加工され、帯曲輪や土塁・石垣・大堀切で防備を堅固にした ”奥の城”に分けられるようですが、縄張り自体には・間に堀切を設けてはいるが曲輪を並べて続き城域を隔てた一城別郭の城とはなっていません。奥の城の最高所に土塁を積んだ 12u程の曲輪下には小曲輪を乗せた段差も有るが、三方を細長い3m程の幅で帯曲輪が捲く。この三方の土塁下は石垣を積んだ切岸となり、北に大堀切、東面も急斜面だが西面に長く延びる帯曲輪南面には広く丁寧に削平された3段ばかりの曲輪が階段状に並ぶ。
寺前城(奥ノ城)主郭部三方を長く帯曲輪が捲く・西面土塁下から

何れも2〜3mの切岸を持ち、露岩が塞壁に利用されている部分も見える。 赤松を敗走させた山名勢が暫くでも占拠していた城なら…も少し詳細に周囲を探索すれば、東に市川を挟んで呼応する柏尾山城の様に竪堀群が見つかるかも知れない。西方の山斜面には石積みに適当な露岩が多いので、石積遺構が見つかるかもしれない?。 そんな期待がもてそうな城跡でもあります。
(大河内町観光案内 及び 兵庫県中世城館・荘園遺跡・県教育委員会版を 参照)
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