大河城〜オオ谷 /  篠場城〜八ヶ岳 / 高山〜ウチガネ
丹波市(五万図=篠山)
T常徳寺〜ウチガネ(433m)〜高山(409m妙見の尾)〜太田ふれあい公園 2001年03月18日
U上久下地区公民館〜篠場峠 ⇔山南ふるさと文化財の森センタ 2005年03月12日
V 篠場城〜八ヶ岳〜篠場峠〜高山〜奥野々峠/篠場峠〜ウチガネ 2005年03月21日

W 大河城〜オオ谷(347m)〜高山(妙見の尾)〜石船坂〜ウチガネ2006年12月03日
腰掛岩上部鉄塔から篠山川

近畿の山城 : 篠場城 中屋敷 村上奥太夫屋敷  下滝城

山南・首切地蔵尊は彼岸の今日・JR谷川から無料送迎バスも出て賑わっているはずです。その首切地蔵尊から大呂峠、大樅峠経由でテンロク〜妙見山や高山〜萬松山〜東山へは時々は登山者も訪れるコースで、今回の腰掛岩まはで地元ハイキングコースの一つですが、高山への稜線を辿るハイカーはいないでしょう。(注)黒田庄町側との境にある高山は良く知られており、同じく近くの播丹尾根から山南町側の尾根に天狗山があり山名だけでは分かりにくいと思いますが、篠山川と対峙して今から辿る山も高山で天狗山とも呼ばれ又「氷上郡誌」に妙見の尾と記されて建物遺跡有とも。山岳寺院方井寺が在ったと云われる石船坂から高山への露岩の混じる尾根道には、堀切を思わせる箇所や山頂の平坦地と二段ばかりの曲輪跡らしき場所は、南朝期の久下氏が 玉巻城を本拠に栗作郷(山南町久下・上久下地区)や柏原小倉郷をも領していた頃は大部谷城・円成寺城等の砦と共に、久下氏の出城か戦国期:黒井城の城塞群の一つと思われる。500m程北には山南町から柏原町へ抜ける奥野々峠や坊の奥に尾根が続く。 奥野々集落の西には高見城山〜石戸山〜岩屋山の稜線が続きます。高見城は南朝期・仁木氏の城であり明智丹波攻めで天正7年まで機能し、高山 (妙見の尾)から南へ続く尾根通し約2km、点名:オオ谷を経ては大河城もあり、赤井氏配下の城砦跡の可能性は強いと思うのですが資料は無く、 由緒は知らないが遺構は方井寺跡と云われています。



T 常徳寺(腰掛石)〜ウチガネ〜高山(妙見の尾)〜ふれあい公園 H13. 03.18

妙見直列!!:妙見山のなぞに迫るか?丹波・妙見の尾…太田川は篠山川に流れ込む小さな支流で太田集落の奥にマンモスの頭のような突起を見せ、山腹は雑木・伐採地と植林の境の模様がまるで蝉鯨の口を想像させる高山 (妙見の尾)を望みます。この太田川の両サイドの山を周回するつもりですので太田橋南詰めの太田ふれあい公園に駐車してAM11:25出発、JR踏切りを渡り集落へ入らず県道77号をJR下滝側へ100m程でカーブミラーと南無阿見陀仏の石碑、お地蔵様を祀る小さな祠があり左へ畑内集落の坂道を登れば、臨済宗妙心寺派・高林山常徳寺の山門石碑と「腰掛石」案内標識が建っています。
高山(妙見の尾)の方井寺の曲輪跡 H17.3.21

寺の駐車場からの参道を暫らく辿ればお堂に出ます。目前の露岩帯が「立ち見岩」で篠山川と対峙して萬松山が大きく影を落す。此処展望の露岩の上部に石祠があり、優しくふくよかな顔立で、頬に手を当て蓮の花を持つ半跏像が有る。この石仏のひさしになっているのが「腰掛岩」で慧日寺開山<永和元年 (1375)創建>の特峯妙奇禅師が腰を掛けて寺を見定めた処だろう。慧日寺(山南三山の一つ)の山号 ・萬松山命名もうなずける(AM11:40)。慧日寺には八百姫伝説がありこれは後日に横山か学所に登った時のお楽しみに。寛永(1630年頃)の話です。腰掛石の先へ露岩帯が切れると途端に藪道となるが、すぐ上方には送電線の鉄塔があり細い踏み跡を辿って鉄塔下ですが、切り倒された伐採木のバリケードがうず高く長々と築かれて突破口を捜して乗り越える。鉄塔からは写真の通りの風景が望まれます(AM11:55)。西光寺山高山〜萬松山・常勝寺の竹林山八の瀬〜石戸山。その先に至山〜石金山〜妙見山の展望が拡がる。鉄塔広場からは又たぬきのように藪の中に突入です。篠竹の林をぬけて稜線を外さなければ、細い踏み跡が現れ、325mピークからは段々はっきりした山道になり境界杭に沿って進み ウチガネ (433m3等三角点 PM12:25)に到着です。山頂は狭いが台地で柏原町方面から六甲方面の山々が霞んで見えます。三角点標柱にアカタテハ!?が止っています。
ウチガネ(3等 点名:坂西谷)にて H13.3.18


此処から386ピークへの尾根取り付きが分からず、道なりに送電線工事用の左の尾根に入ってしまい、そのまま降り林道石船線の鉄塔脇に降立ちます(PM1:00)。 仕方が無いので林道を峠に向けて再始動しましたが谷筋が伐採倒木で埋め尽くされ歩行困難となり左尾根に逃れます。倒れた木を跨ぎ乗り越す度に噴出すスギの花粉がたまりません。鴬の声の長閑さも、風で舞い立つスギ花粉に帳消しです。386ピークへ登りなおすのをやめて谷筋から登りすぎて取り付いた尾根を少し下って石船坂です(PM1:25)。 細い名ばかりの峠から藪をついて稜線に乗ると直ぐに明るい尾根筋に踏み跡が現れ、五台山や譲葉山・三尾山も姿を見せます。
山域の最高峰ウチガネ

あの暗く陰気な権現堂の雰囲気は、此処から望む譲葉山には微塵も感じられない明るく大きな山容を見せています。露岩の尾根を過ぎると掘割を思わせる箇所を通過して暫らくで今度は二段になった平坦地が現れます。 上の段が高山山頂でここも平坦な場所。 雑木が無ければ好展望は請け負います。(409m PM1:50)もした。奥野々峠からは時折列車の音が響いてきますが、つい最近まで此処の峠を越していた車もトンネルが出来てからは山南〜柏原を結ぶ車の量も増え、 お陰で自分の位置を確認出来る皮肉な結果にもなります。この山域の最高峰ウチガネが大きく見えます。石戸山は此処からは珍しく尖鋒を誇っている。南への尾根は藪がひどく尾根なのか谷へ降るのかも確認できず、 下りやすそうな西の尾根筋を辿りますが正面に奥野々峠や柏原の坊の奥へ続く稜線を確認して進路を修正する。高山(妙見の尾 )から樹間越しに見る下方に奥野々集落を見てまたまた大きく進路変更。いつもの山腹トラバースで本来の?尾根に戻ったようだが351m峰のついでに、肝心の点名:オオ谷のピークをも既に 巻き終えてしまった様だ。 ピークを確認出来ないまま次の無名ピーク(NHK共同アンテナ設備 PM3:15)からの細い踏み跡を辿り 15分程でまたアンテナのある下降路がある。尾根とおぼしき地形がつかめず踏み跡らしきところを右に右にと辿ってしまった様です。鉄塔が見えるので其処まで言ってみると此処から送電線は八の瀬に伸びています。
マンモスの頭の様な妙見の尾(高山)

一段低いところは玉巻 (久下)城祉で八の瀬から 石戸山へと稜線は続きます(PM3:45)。点名:大河に向かう尾根と別れ342mに向かう尾根に入った様で、30m程戻って長い鎖と階段の巡視路を下って大河集落に下りてくると県道77号で目の前はJR世花踏切です。谷川駅へは250m程の地点です。北太田のふれあい公園へは300m程戻ります(PM4:15)。「山あそ」島田さんの石金山〜妙見山のHPにも有るように能勢の妙見・加美町の妙見・黒田庄の妙見・山南町の妙見が直線上に繋がっているそうで、もう一つ近くに妙見があったが忘れた。!そこへ今回は妙見の尾という流れ星まで現れて賑やかになってきました。あと2〜3と北極星が見つかれば完成です。


U 上久下地区公民館〜篠場地区〜篠場峠⇔山南ふるさと文化財の森センタ H17年03月12日

福知山線のJR下滝駅近くに有る上久下地区の公民館にAM9:30集合だったが、集合時間に合わせるかのように霙 (みぞれ)交じりの雨が激しく振り出してきたが「ふれあい交流ハイキング」に山南町側からの参加者は80名程が集まった。丹波市の山南町上久下地区の篠場と柏原町下小倉地区を結ぶ住民の交流ハイキングには上久下地区住民の長年の悲願が込められていました。上久下地区には病院施設が有りません。
篠場峠に此の日:道標を設置

緊急時に篠山市へ向かうにも 篠山川沿いに狭くてカーブの多い川代渓谷を通る県道77号か、JR谷川駅へ出て県道86号線経由で 現在はトンネルが出来て見違える程ですが、最近までは急坂のヘアピンカーブが連続し冬場は通行出来ない様な”奥野々峠”を越える迂回ルートを利用されていました。其処で柏原町への緊急アクセスルートとして、篠場川沿いに篠場峠を超えて柏原 ・小倉地区へ通じる最短コースをトンネルで結ぼうと道路の建設要望が両地区から出され、 交流を深めようと計画されました。
篠場峠に此の日:道標を設置

柏原町との境界尾根459m峰から八ヶ岳 315mを経て南へ突き出してきた丘陵が、篠場集落入口・県道77号線へ崖状の急峻さで落ち込むところには篠場城が有り、此処から篠場川に沿って篠場峠を越えれば柏原町小倉地区で此処には大部谷城や円城寺城等が有りました。久下氏が丹波守護代の頃は柏原 ・小倉庄も久下氏の領地でしたので、古来より本拠の玉巻城からは奥野々峠を、 篠山川沿いの久下氏一族の城からは篠場峠を越えて 領地管理や物資輸送等を通して交流のあった道だったのでしょう。峠を山南町へ少し下った所には江戸時代中期・寛政5年(1793)建立の石仏が岩場側に祀られていました。 今回のイベントでコースの整備がされる以前か、土砂で頭を出しただけの状態で埋っていたそうです。 篠場峠で柏原町小倉地区からの参加者と合流して記念の道標を立てます。峠から西への尾根は直ぐ北の奥野々峠方面と、高八山(点名:坂西谷3等三角点 433m)へ南下する岩場混じりの分岐ピークからは柏原方面に展望が拡がります。
桧皮葺の展示研修模型

峠からは互いの地区を訪問する事になっていますが地元 ・桧皮葺き施設を見学できる機会だったので私は引き返します。下滝駅から峠まで1時間弱の行程です。篠場地区周辺は田畑が少なく山林が多かったところから、 副収入を得る為に始めた桧皮葺の技術を持った職人が多かったといわれ、その伝統技術の継承・育成の為、全国に此処だけの研修施設「山南ふるさと文化財センター(旧・檜皮の里会館)」が篠場地区にある。近年・京都にも施設が出来た為、 今では交代で研修されているようです。
柿(コケラ)葺の展示研修模型


桧皮葺や柿葺(コケラブキ)に用いられる留釘は、 不通の釘だと錆びて長持ちしない為に竹釘が用いられますが、この竹釘は全国でたった一軒・山南町の専門業者が製造しているだけでTV放映されていたのを御覧になった方もいらっしゃるのでは ・・・?桧皮葺きは白鳳時代・天智天皇の7年 (668)近江の宗福寺建立の際に桧皮で葺かれた記録があるといい、代表的な建物には厳島神社社殿(広島)・出雲大社本殿(島根)・京都御所・清水寺や奈良室生寺・長野善光寺の本堂が有り、柿(コケラ)葺きには山形羽黒山の五重塔や京都本願寺の黒書院があります。


V 篠場城〜八ヶ岳〜篠場峠〜奥野々峠〜下小倉〜篠場峠〜ウチガネ〜篠場 H17年03月21日

先週はJR下滝駅〜篠場峠へと参集してのふれあい交流ハイキングがあったので参加したが、篠場川を取り囲む尾根に興味を持って早速周回してみます。スタートは昨年秋に行った篠場城からです。篠場城へは篠場地区入口の民家向いの山際に享保年間(1716-36)の三界萬霊塔が建てられているところか、其の奥の墓地側から、または県道側の”ゴミ捨て禁止”看板付近から取り付けるが、何れもズリ落ちそうな急斜面ですが短いので何とかクリア。
376m峰南尾根からウチガネ(最奥部)

緩やかな細長い尾根に小さな平坦地が有り、北の最高所が少し広い本郭。下り始めた鞍部に一本の堀切が尾根を遮断しています。此処からは新境地ですが尾根上には 共同アンテナ埋設線が有って明確な山道が続きます。見晴らしは良くないが気持ちの良い尾根は徐々に高度を上げ、露岩が現れてくると辺りも明るくなり
尾根を割る篠場城の堀切

テレビ共同受信施設のある八ヶ岳(315m)からは時々樹間越に下滝や上滝地区方面の県道(古山陰道)を望みます。鐘ヶ坂から柏原や川代渓谷が交通難所だった頃の山陰道は、篠山からは味間を通り山南町阿草へ抜けて井原経由で氷上〜成松へ向かっていました。井原の足利橋に旧山陰道案内標が立っていたが、新しく付け替えられてからは案内標がどうなったかは知りませんが!。
篠場峠の石仏

露岩も現れ時々は展望も楽しめる明るい尾根筋は私一人だけの専用ハイキング道?だと気を良くしていたら愈々斜面も急になり、快適な登山路は踏み跡も不明確になる。各自がテンデに歩き易い所を辿っているからでしょうか?適当に木々を頼りにして直上していきます。登り着いたところが鐘ヶ坂・金山から馬頭を経て篠場峠に至る、柏原町との境界尾根上にある459m峰で赤黒測量ポールNo83が建ち、僅かに山南町篠場・太田付近だけが眼下に望める。尾根は良く歩かれている道のようで 町界ポールを目印にする必要もない。西に向かって高度を下げながら376m峰に着く。

方井寺跡の一番広い西端部の土塁

小倉側の個人所有では相当大きな受け山主さんらしく”松茸山に付き立ち入り禁止xxxx”の白い警告の貼り紙が篠場峠まで続いた。2〜3の小ピークを過ぎた鞍部の柏原側には小規模な鉱石採掘場跡の様な場所があった。 付近で他に見かけないので試掘だけだったかも?さらに西へ杉・桧の植林が目立ち初めて堀切状の鞍部・篠場と下小倉を結ぶ篠場峠に降り立つ。篠場峠を山南町側に少し下った岩場には寛政5年(1793)建立の石仏が祀られていますが襷掛け風に、お顔付近を境にして濃淡が残る。今回のイベント(H17.3.12)でのコース整備の際、 土砂で頭を出しただけの状態で埋っていたのを起され、周囲は石積み等で整理されたということです。
方井寺跡の西端部の曲輪と其の一段東の曲輪

登り返しての急坂からは柏原側に譲葉山や柏原高校の白い校舎・小倉地区の集落が望まれ50m程の登りで386m露岩混じりの分岐峰に立ちます。奥野々峠に向かう北方に ”妙見の尾”と呼ばれる高山とその奥に石戸山が見える。予定では高山から奥野々峠を下小倉に下り、篠場峠に戻り 386m分岐峰に戻り、ウチガネ(高八山)を目指して南下する、 馬蹄形ならぬ”8ノ字”山行です。はたして・・・?峠から高山(妙見の尾)までの尾根筋には今度は山南町太田地区の”松茸山・入山禁止”の文字が続きます。
高岳の北・鉄塔から坊ノ奥と高見城山〜石戸山の稜線


細い尾根筋に迷う事も無いのですが北太田と小倉地区を分ける石船坂までは明瞭な道が続く。 此れから秋にかけては藪で躊躇しそうな尾根の直進に比して、つい小倉側へ下りたくなる様な峠道を左右に見送って、上り始めたら明確な山道が現れて高山山頂付近まで露岩混じりの尾根が延びています。 緩やかな尾根筋が西に向かうと、 1m程の段差を持つ平坦地が続く。最西端の曲輪は少し広くて段差の東端部には土塁状の高まりがある。北側には切岸を補強するかの様に、周囲には見かけない大石が散在して建造物が有った事も窺わせます。此処が妙見の尾(高山)で、県道の大谷や大河集落からは鯨かマンモスの頭を連想させる山容の山頂に在った山岳寺院の方井寺跡と伝えられます。
奥野々トンネルと方井寺跡の高山(妙見の尾)

此処は大河城と西山城を集落入口に持つ最奥部に位置し、 西南には谷川地区と久下氏一族の本城・玉巻城を、東北には一時期でも久下氏の領地・小倉地区全域や高見城を望める位置にあり、山南・柏原を結ぶ奥野々峠を北方に見下ろす要衝の監視と”知らせの城”の要素を兼ねる重要地点にあり、 寺よりは何故・城砦としての伝承が残らないのか不思議な遺構です。町界境を高圧鉄塔(播磨中央線 No95)に出ると聳え立つ高山を背に、眼下には峠のトンネルに向かう車道を挟んで奥野々集落や送電線鉄塔先には坊の奥高見城山〜石戸山を望む草地の休憩適地です。植林の急斜面を滑り降りて10数年ぶり ・今は人も車を通らない奥野々峠の町境標識だけが残る寂しい峠道に降り立ちます。廃道を奥野々トンネル柏原側に出て 下小倉地区に向い篠場峠に戻る心算ですが、此処からだろうと思って辿った下小倉の取付きは下り過ぎて大部谷林道を入り、 とんでもないアルバイトを強いられ先刻通過してきた376m峰に突き上げて篠場峠へ下ります。

ウチガネ(高八山)山頂から譲葉山


再度峠から分岐尾根の386m峰に登り着き、今度は南下してウチガネ (高八山 3等三角点 点名:坂西谷 433m)を目指します。このルートは上記Tの逆走ですが、三角点峰に立つまで一度通った記憶など全く感じなかった。前回は尾根西側の畑内からだったが、今回は篠場へ下ります。 しかも南先端部はコンクリートで固められた断崖となって県道に落ちるので、ウチガネ南のピークから東南への尾根筋か谷に向かって下ります。尾根伝いに篠場地区中央の若宮神社辺りに下りるつもりでしたが ウチガネ南の鞍部から谷に向かって下り、 神社北部の墓地に出てきた。室町時代の五輪塔があるのだが所在分からず今回も未訪に終わった。


W 大河城〜オオ谷(347m)〜高山(妙見の尾)〜高山〜石船坂〜ウチガネ  2006年12月03日

昨年・丹波市の山南町上久下地区の篠場と柏原町下小倉地区を結ぶ住民の交流ハイキングでは、 両地区住民が篠場峠に合流して道標を設置した。其の際・篠場峠西尾根の386mピークまで行き、ついでにウチガネ(高八山 )を往復したり、 後日・386mピークから石船坂〜高山(妙見の尾)〜奥野々トンネル上部:今は廃道となった車道を下小倉へ下った。市民ハイキングでは山行記録にならないので!上記Vに追記していますが、 予てより此の山域の馬蹄形山行の計画を実施します。
大河城主郭北の帯曲輪と竪堀

JR福知山線谷川駅ホームの北に裾を落とす稜線の西末端には池ノ谷主計屋敷と呼ばれる曲輪と堀切を残す城館遺構がある。
此処から延びる尾根さきにオオ谷(4等347m)があり、 県道86号線に沿って方井寺跡とされる高山(天狗山:妙見の尾409m)に向かって 奥野々峠への尾根を縦走するのもよさそうですが、 南に開け三方を山に囲まれた北大田集落と西の大河集落との間に北方のオオ谷(346m)があり、南へ張り出した尾根末端部に幾度か訪れた 大河城があります。
大河城主郭東1〜2段目曲輪と土塁線

更に尾根上の点名:大河(4等 226m)と其の上部山頂(Ca265m)にも石積を残す主郭と腰曲輪が在るのですが、 此処から北のピーク間の尾根筋に堀切があるのでは?と未確認の尾根偵察を兼ねています。オオ谷〜高山〜ウチガネ(高八山点名:坂 )〜北大田集落の東:畑内集落へと馬蹄形の尾根縦走を計画していました。谷川駅から徒歩でも 10分程の大河公民館西から谷筋を北に向かいます。START(PM1:30)からFIN(PM4:30)の行程です。今回ルートの岩上神社〜黒鼠子(国相守)佐渡守屋敷〜大河城(下城 )〜点名:大河(4等三角点226m)〜大河城(上城)までは【近畿の山城】当該城を別項にレポート済なのでコースは順路を追って其方を参照してください。此処では重複するので省略します。
大河城(下城)の虎口:虎口受の左曲輪は低土塁で囲まれる

大河集落北の最奥に三光山法泉院(日蓮宗)があり、 此処から猪鹿防禦フエンスを開閉して山谷川沿いの山道に入り、黒鼠子(国相守)佐渡守屋敷跡の祠が見える下手で谷筋を渡り変えて東側の尾根へ斜上すると大河城に着く。埋蔵文化財調査報告書の分布図には市島町の 余田城と同様?、城域には山上部が含まれていませんので、末端部を下城・山上部の4等三角点と其の先の峰ピークにある遺構を 上城と仮称しておきます。下城から上城の出曲輪・物見櫓跡の様な点標名大河(4等三角点 226m PM1:30)を過ぎ、更に尾根の上手に向かい石垣状の露岩を見ると上城南側の平坦地(Ca265m)。 西面に帯曲輪、1m程の段差で広い主郭に着く。
大河城(上城)主郭北面の石積


尾根続きの主郭北面は、 西の帯曲輪の一部までを土留めの石列が2〜4段程に積まれて取り巻いており、下城の虎口や石積を残す城遺構は兵庫丹波(氷上郡)では貴重な存在!と思われます。 此処から急斜面を次のピークに向かうので、テッキリ鞍部には堀切があるのではと思ったが、 堀切どころか尾根は比較的広く・緩やかで拍子抜け!!。”逃げの城”的な二段構成の山城だったのだろうか?。踏み跡は細いが藪は此の時期なので大したことも無く快適にトレース出来るが展望皆無が何とも惜しい。当初予定の池谷集落の城館遺構 :池ノ谷主計屋敷からの尾根を併せてオオ谷(4等三角点 347m PM2:00)に着く。 テレビ共同受信施設を過ぎると程なくして藪中の351m峰ですが直進して北西の奥野々へ下る尾根に踏み込み易そうだ。県道86号沿いを走る列車や車の音を左手に聞きながら進路を東に採ると樹間越しに、峰先を突き上げる高山(天狗山 )と其の前に関電の高圧鉄塔(播磨中央線No96)が近づく。
オオ谷(4等 347m)山頂

鉄塔 No96(PM2:45)からは柏原町側に一気に展望が拡がる。南には遠く黒田庄町(現:西脇市)の妙見山〜白山・天狗山を背景に大河城〜点名:大河〜オオ谷〜351m峰へと、辿って来た稜線が一望できます。此処から望むウチガネ(高八山)も松尾山 〜白髪岳をバックに従えて雄々しい(?空威張りかな!)姿を見せています。関電鉄塔No96からは一気に今日の要の高山が直ぐ上方に待っています。 石戸山から東に延びる稜線近くに見かける鉄平石の石片を見かけると山上は近い。周回コース前後の稜上では此処以外・数10m上部の高山(天狗山・妙見の尾とも! 409m)山上でも殆ど見かけなかったが・・・!!?

妙見〜白山を望む高山西の鉄塔(No96)から大河城〜大谷銃走路


突然・山頂の平坦地に着くと幾段か段差を連ねて、長く緩やかな尾根筋が続きます。 篠場峠からの分岐ピーク付近から眺めれば、台形の大きな山容には山城跡?山岳寺院方井寺跡?を充分に想像出来得ます。三度ばかり通過した場所ですが、次のポイント石船坂(PM3:20)まで尾根筋が 荒れているわけでもないのに結構遠く感じる。 時間が遅くなってきた気の性(焦り)かも知れないが。柏原側から北太田へ抜ける苔生して今は山仕事でも、余り利用されてはいない堀切状の石船坂や、 近年まで利用されてきた篠場峠の存在が、栗作郷(山南町久下・上久下地区)を領し小倉荘 (柏原町)も一時期支配していた久下氏が、 高見城の仁木氏や荻野(赤井)氏の幕下となった後も、本拠の玉巻城から小倉地区まで城館遺構が一箇所も無い?。其の間の奥野々はじめ柏原と山南の間道見張所:監視砦として方井寺が使用されていたと思えるのですが!!?。 石船坂を登ると尾根筋は露岩伝いの銃走路。 短い痩せ尾根から台形の高山の姿が見えてくると篠場峠への尾根を分ける分岐点(PM3:30)。
鉄塔No96からウチガネ (円形は松尾山〜白髪岳)

篠場峠へは尾根筋ではなく南方から東側斜面をトラバース気味に尾根に戻ります。距離は短いが 初めてだとビックリするほどの激下降ですよ。 ウチガネへの縦走は鞍部を南に移って直ぐ西方に向かいます。緩やかな下降が続いて急に植林帯を抜けて自然林の明るい尾根になった途端に急登10m。登り切った所が三等三角点の埋まるウチガネ(高八山 3等三角点 点名:坂西谷 433m PM3:50)です。 此処から藪尾根を突いて207mピークを目指せば常徳寺西方、北大田集落東入口部にある西山城の到達しますが時間も余力もないので敬遠 し、踏み跡も明確な南尾根を下ります。石垣積の堰堤を思わせる様な尾根筋を埋める露岩部を下り、 更に下り続ける尾根からのウチガネの山容は、目では見えても撮影ポイントはなかなか見当たりません。
高山(妙見の尾):方井寺跡(正面奥の曲輪が最高所)


り続けて関電播磨中央線鉄塔(No100PM4:10)に出てくると、常徳寺は巡視路沿いに此の下方。折角の周回コースなので更に南尾根を辿ります。踏み跡はやがて真下に走る電車の屋根が見える所に出る。 手前にある県道77号車道は見えず時折走り去る車騒が響く。川代渓谷沿いが土砂災害で夏以降通行止めが続いており通行車両が少なくなっています。鹿避けフエンスの扉を開閉して、常徳寺参道への分岐から120m程東の広い山側スペース (セーフティ・ポール等が設置され休憩等の駐車は出来ません)に出てきた(PM4:30)。鉄塔No100からは常徳寺へ素直に下った方が良かったかも。



 篠場城 中屋敷 村上奥太夫屋敷 下滝城


篠場城(砦)  xxx  Ca190m   丹波市山南町篠場

丹波市山南町青田の大歳神社の神楽は秋の例祭(10月9〜10日)で奉納される伝統行事ですが、 アクロバテイックな獅子舞が人気で 山南町の無形文化財に指定されています。神社の鳥居前には街道筋を示す石道標が建ち”左・和田播磨”を表示しています。 篠山から鐘ヶ坂を越え柏原へ通じる街道も、篠山川(川代渓谷沿い)の道も厳しい道だった様で、延喜式の古道・山陰道は篠山〜阿草を経て下滝・久下〜井原から氷上町へ抜けていたようです。
大歳神社から篠山川と篠場砦

下滝からは大歳神社前を播磨国黒田庄町 (西脇市)へ通じる交通の要衝ともなっていたのでしょう。此の大歳神社の北側は河川段丘を形成して、 深く堀切られた水濠ともなって岩床を見せる篠山川が流れています。川を隔てて県道77号が走る北側の、 山の南端に幾つかの城塞が有り川沿いの要衝の監視にあたっていたのでしょう。青田の大歳神社からは篠山川を挟んだ対岸に 際だって鋭角に民家脇から伸び上がり、県道側の南面山腹を崖状に削り取られた丘陵が見えています。J
青田地区(南)からの篠場砦

R福知山線下滝駅の西約1km・鉄道と県道77号線が山と篠山川に挟まれ、 100mばかり極端に狭くなった場所を抜けた所が篠場地区の入口です。 古来より奥野々峠とともに,峠越えの間道は、物資輸送ルートとして昭和に入っても利用されてきました。 柏原町との町界尾根459m峰から南西に延びた丘陵の先端部が 極端に細く、左右も絶壁状に削ぎ落としたような急峻さを見せて突き出した末端部に篠場城がありました。篠場城の南麓の県道77号線沿いには西方約 1.5kmには西山城と大河城が、また東方約500m程には上久下公民館が在り、
南郭から向かう細い尾根先に堀切が有る

東隣の山麓には村上奥太夫屋敷が、屋敷から東約600mにはJR下滝駅を挟んで 下滝城が在る。周囲を山で囲まれ南に一ヶ所だけ開けた篠場集落内を、 篠場川が篠山川に流れ出る谷出口は、西側と東側を丘陵に囲まれ、山間の篠場川沿いに篠場峠を越え柏原町側小倉の庄へ旧道が通じます。 嘗て(10数年前までは篠場集落内はすべてが村上姓で、先祖を瀬戸内の村上水軍との関連・伝承さえありました!!?。 集落入口部の東側尾根先端部に篠場城が在る。小倉庄(柏原町・久下氏全盛の頃は小倉庄も領していた )との出入口と篠場の領内、篠山川と川沿いの街道監視にあたった砦だったのでしょう。
尾根先端の南郭

南西角の民家向いか、少し北に入った墓所手前へは、桧皮葺の伝統技術の継承と育成にと造られた全国に此処だけの研修施設 「山南ふるさと文化財センター(旧・檜皮の里会館)」が篠場地区にある。近年・京都にも施設が出来た為、今では交代で研修されている様ですが、敷地境から墓地へは3m幅の道 ・鹿猪除けフエンスのゲートを開閉して取付けます。境界ポールか、NHKケーブル埋設を示す白い標柱を目標にしての激急登ですが、比高は僅か30m程です。テレビ共同受信施設のアンテナ塔が曲輪前にあって
篠場砦の堀切

1.5m程の段差で南先端部の曲輪(幅8m・南北約25m程)に立つ。 松・杉の植林帯で展望は望めないが、足元真下に走行の車の影やJRの鉄路、篠山川の瀬音も聞こえる。要衝の延喜式・山陰街道を監視する見張台の此処は、対岸の大歳神社側からの山容からしても ・如何にも砦(当レポート最初の画像参照)。 南郭からは幅3m程のフラットな細長い尾根がおよそ6〜70mも北へ延びる。殆ど起伏もない平坦な尾根筋ながら、 曲輪には狭く土橋とするには少し広い?。此の細い尾根筋は連絡通路で、左右には防備の為の小曲輪を持つ余裕も、其の必要もない程の急斜面。南北の曲輪のほぼ中央部に高低さが少ない小鞍部に堀切が一本あらわれる。

三方を低土塁が囲む尾根続き北郭

先の北郭へ僅かな緩斜面で伸び上がる。 南郭と同規模の曲輪だが、南側からの通路を除く三方を低土塁が廻る。凄い:丹波市内に土塁を遺す城は少ない、しかも三方を土塁が囲む例はさらに少ない。いよいと本格的な城の様相が・・と期待したが城域は此の北郭まで。 低土塁で区切られた尾根続きは切岸もなく、緩斜面の先で篠場集落からの枝尾根、其の先には北へ伸び上がる主尾根、 直ぐ手前からは東へ下る枝尾根?。篠場城へは此の尾根が大手だったか?と思え比較的傾斜角は弱く東麓に在った村上奥太夫屋敷が城主の居館だったか?。
細長い平坦尾根は北郭外へ延びるが‥?

北郭の土塁は此の三方から侵入口に対して防禦には弱いが虎口としての備えにはなっている様です?。 下滝城は築城位置や高さからは、 居館とも砦ともつかない小規模なものですが、本拠城の玉巻城(久下城)の城砦群として、大河城や鍋倉城(東山城)の出城(砦)として要衝の見張りや狼煙台としての機能したのか ?築城や城主等の城史不明ながら、川と崖による天然の要害に在る。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


中屋敷
  xxx  xxxm  丹波市山南町青田字中屋敷

太田氏屋敷(推定地)から青田の 大歳神社(町指定文化財の神楽で知られる)前を抜け、いずれも細い青田集落内の分岐道を直進する。北方には小さいながら威丈高な鬣(たてがみ)を揺らせる様な姿で、篠場地区の入口を警護する篠場城が見えています。 篠山川に沿って走るJR福知山線を挟んで、其の真南に位置して、慧日寺参道に通じる車道に沿うように数軒の民家と段差を連ねた田圃が続きます。
中屋敷推定地

篠山川対岸の畑内地区に在る高林山常徳寺の裏、高い場霊場に「腰掛石」が有りますが、永和元年(1375)管領:細川頼之の命により特峰禅師が寺院を建立する為、適地を此処で見定めたものか、 そして此処・青田地区の中屋敷付近の山裾には慧日寺開山の特峰禅師が座禅を組んだとされる「座禅石」があります。此の辺りが慧日寺の全身地といわれ、寺院跡とされる場所が多いとされます。かつて七堂伽羅に末寺46ヶ寺、塔頭18ヶ寺が建つ大寺院も天正3年 (1575)明智光秀の”丹波攻め”が始まると、其の兵火で焼失し荒廃します。寛永19年(1642)には、京都・妙心寺の別心禅師により中興されたときには 現在の太田地区に移設されたものでしょうか?。慧日寺は其の後・寛文7年(1667)にも焼失し、享保3年(1718)に再興されました。
中屋敷推定地からウチガネ(左)と篠場城(右)

現在見る仏殿・方丈・鐘楼等は元禄年間(1688−1704以降の建築といわれます。篠山川から南の山裾に段差を並べて民家や田圃が続くだけの中屋敷周辺ですが、字名だけでなく北方300mの対岸に村上氏の ?(集落の殆どが村上姓)篠場城と呼応し、古山陰道と共に東播磨の黒田庄・西脇へ向かう街道筋であり慧日寺参道の東入口側にあたります。街道筋の西約1.3kmには現在の慧日寺入口でもあり 太田氏屋敷(推定地)があったところ。共に街道監視に当たっていたのでしょうか。字名だけが残る城主や城史不明の中屋敷(推定地)です。
(山南町 文化財のすがた 59年度版 を参照)


村上奥太夫屋敷
   Ca125m   丹波市山南町下滝

福知山線のJR下滝駅から県道77号を西に向かうと上久下地区の公民館東端と集落の間から、幅狭く急な未舗装林道西山線が谷沿いに延びています。 下滝集落の空地と林道西山線の間は南側に石積みの細い溝が走り、山側に高低差は在るが4〜5段の平坦地があり、林道側には高石垣で整地されていまが、石垣は後世に別の用途で改修された可能性が指摘されています。村上奥太夫屋敷は東約600mに 下滝城、西の篠場城へも同距離にある中央部に位置しています。

林道からの石積み段

また篠場城麓の民家は村上姓が大勢を占めています。海と無縁の山里は三田に九鬼水軍の例があるが、 地元では村上水軍に関る末裔の伝承も残る様です。足利尊氏の忠臣:久下氏の郷ですので九州から体勢を立て直して 東上した尊氏に従った村上氏の一族が、此処まで付いて来た事に強(あなが)ち否定できないような ・・・?気がします。
空地と林道間・屋敷跡推定地の南端部

篠場峠を越えた柏原町小倉地区も、久下氏が丹波守護代の観応年代(1350-52)は久下氏の領地ですので、篠場城は篠場峠を下滝城は現・林道追原線から459m峰を越えて小倉郷へ出る間道や、 篠山川沿いの古山陰道の要衝監視に村上氏を充てていたのでしょうか?”丹波志”にいう地侍・村上奥太夫について、何も文書・伝承は残っていない様ですが、篠場川沿いには石堂五輪塔が有り地元の方で毎年・盆に供養されており、 室町時代中期の造立と推定され丹波市の指定文化財になっています。久下氏全盛期以降・一族の供養塔と思われます。


下滝城   xxx  Ca160m   丹波市山南町下滝

R176の大山下から篠山川に沿って山南町に入る川代渓谷(台風被害によりH16年12月現在、土砂崩れで通行止めですが)は、谷間を過ぎて上滝・下滝 ・青田・篠場の各集落に出てきても、 その渓谷美を失う事無く断崖と蒼い淵や、岩間に白い流れを見せながら下っていきます。 JR下滝駅から東へ徒歩4〜5分程のところ、踏み切りを渡り篠山川に出ても川代渓谷の美しさを残しています。
広田のつり橋

いや増す・渓谷美を増幅させる様な景観を見せる吊り橋があらわれます。下滝と篠山川を挟んで対岸の字・広田の間に架かる長さ70m程の”広田のつり橋”も、今では旧上久下村営発電所〜川代公園ハイキングコースの人気SPOTになっているようです。
下滝城(正面)遠望

「一度に渡れるのは5人まで・・・」揺れる橋板から川底まで 10数mの高さも有ってかスリルも味わえます。
県道77号の JR下滝駅と上滝のあるレンガ造りの村営発電所跡の中程・広田の吊橋から県道に出て、そのまま北の集落内に直進すると東北方の森・点名:下滝(273m)から南へ延びる丘陵の 枝尾根が四方に拡がりを見せて県道側近くに其の末端を落とします。
下滝城主郭北の堀切と尾根続の曲輪

其の最西端に延びてきた比高20m程の低丘陵が、 集落の谷の入口東側末端に延びて其の先端部に位置して下滝城が在りました。集落角 ・林道追原線の始点付近から取付いたが、要害でもなく尾根も広く緩やかな南先端付近に低い堀切と2段の曲輪が有るだけで、直ぐした方には民家の屋根が見える。県道77号(延喜式山陰道は篠山福住宿から
主郭西面の切岸と下段の帯曲輪(古墓地跡)

難所の鐘ガ坂?柏原を避け ・篠山川沿いに加古川上流の旧佐治川沿いの氷上回廊を氷上 ?佐治宿を抜けた)の要衝を望む、見張りの砦として、玉巻城主:久下氏の支城塞群の一つだったのでしょうか?。小規模城郭で北方から南へ延び出す低丘陵の尾根先には、西側林道の取付き点付近へ一条の 竪堀が落ちてくる帯曲輪状の平坦地は墓地跡で、石基壇や古墓石が残る。竪堀は主郭北面の堀切から切り落されたもの。
下滝城主郭から南一段下の曲輪

堀切の東は山道が此処に通じているようだが、小谷を挟む東側尾根筋に延びて、 二段程の削平地に通じる。曲輪下段は東谷側を土塁で囲い込む根小屋 (番小屋)の様?。主郭(幅6-7m・長さ20m程)と南下段の腰曲輪が付く。は堀切側に土塁の高まりが僅かに残る。堀切から北尾根は直ぐ先の小頂部に平坦段と浅い空堀状を見るが、
主郭堀切北の曲輪も北尾根続きに埋れ浅い空堀 (堀切?)を観る

城域を区分する程度か?。西の帯曲輪(古墓地)から見上げると稜上は・堀切を挟んだ南北共に西面の岸を切っており、 堀切北の斜面上の平坦地と尾根側の浅い溝状も城遺構と思える。 この先の傾斜を増す尾根筋に遺構を感じるものは無い。 防禦性には欠け、監視・物見にしては東の篠山側の見通しが利かない奥まった位置に在る。篠山川沿いの川と街道と領地支配の監視にあたった砦とおもえます。
下滝城主郭堀切の東:二段の土塁曲輪

築城時期や城主等の城史は不明ですが低いながら堀切が有って ・曲輪も防備設備も判然としない中世城遺構は、丹波・播磨にも結構多いようです。同条件で砦とするなら点名:下滝の山頂か、東へ500mの上滝集落にも有ります。下滝城から東へ約1kmには県道77号を挟んで南の丹波竜化石発見現場 ・北には古くは龍魂寺と呼ばれた説宗寺が在る。龍に似た石が発見された翌年:世界的にも貴重な丹波竜の化石が発見されています。


たんば恐竜の郷:説宗寺(龍魂寺)   山南町上滝286

篠山川沿い県道77号で川代公園を西に抜け、JR福知山線踏切を渡った正面に駐車場・丹波竜モニュメント登を見る。此処から田圃・畑に囲まれた細い車道の先に旧上久下村営水力発電所が建つ。県内でも古く貴重な村営のレンガ造り発電所は、 荒れ果て崩壊寸前・撤去目前だったが、「丹波竜」恐竜化石の発見現場が此の発電所の側。
説宗寺(丹波の恐竜寺!!?)

町内の貴重な文化遺産は観光施設を兼ねた形で改修され復活した。県道77号を挟んで南100m程・篠山川右岸に恐竜発見場所と村営発電所、北へ 130m程・正面には三會山説宗寺(臨済宗妙心寺派)が建つ。説宗寺は古くは龍魂寺と呼ばれていましたが、平成17年(2005)3月:薬師堂改築・位牌堂の落慶記念に、檀家から寄贈された百日紅(サルスベリ)の植樹で境内を掘り起こした際、
龍魂石

龍の頭に似た石「龍魂石」が発見されました。龍は仏法を護持する瑞獣であり、 ”竜神さん”が現れた・・・と奇瑞の前兆を予感されたという。ところが翌2006年8月には目の前(徒歩で2?3分)の篠山川川床から丹波竜化石が発見され、以来:恐竜の菩提寺として其の供養をされており、 強運成就に霊験あらたかな龍魂石として信仰を集めています。 その後「安住の地」をと檀家有志の浄財により白御影石の台座を寄進しました。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)

本誌 丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system